藤江孝

没年月日:1991/04/22
分野:, (彫)

 1965年に渡仏し、長くフランスにあって彫刻制作に清苦した藤江孝は、4月22日午前7時57分、胃がんのため東京都大田区の大田病院で死去した。享年64。大正15(1926)年7月31日、京都に生まれる。昭和18年、神奈川県立湘南中学校を4年で修了し、慶応大学に入学。同23年同大工学部電気工学科を卒業。在学中から彫刻、映画に関心を持ち、卒業後は定職につかずに自活しながらそれらを独学。同27年、岩波映画製作所の嘱託となり、羽仁進、竹内信次、柳沢寿男らの助監督をつとめる。一方、彫刻家の団体である「造形研究会」に加わり、佐藤忠良に師事する。同29年、岩波映画とフリーとして契約し、今井正らによる「愛すればこそ」の製作にも参加したが、その後、記録映画に興味を注ぐ。同36年より39年まで黒木和雄、東陽一らと映画研究を目的とする「青の会」を結成し、その主要メンバーとなる。しかし、同38年、「ある化学プラントの記録」を最後に映画制作から離れ、同40年、渡仏して彫刻活動に専念。同42年、ラ・ジューヌ・スクリュチュールに初入選。以後同58年まで同展に出品したほか、同47年より58年までサロンド・メ、同47、52、53年にはレアリテ・ヌーヴュール、同49、53年にはサロン・コンパレゾン、同49~59年にはグラン・エ・ジューヌ・ド・オージュルデュイ、同53、56年にはトリエンナーレ・ユーロペアンヌ・スクリュテュールに出品した。初期には石を素材としたが、次第に木を主に用いるようになり、角材や板を構築的に組み上げたり、並べたりすることにより、人と親和する簡素な造形を展開。同59年4月、ニューヨークのニッポンクラブギャラリーで個展を開き、同年11月東京新宿三井ビル・ロビーで「藤江孝の木遊展」を開催。同60年、東京渋谷の西武百貨店で「藤江孝の木遊展 PART2」を開き、全階でディスプレイ・デザイン風に展示して、美術展という閉じられた会場芸術の枠を超える試みを行なった。この間、同55年、フランス・アルゴン・フィルムの寺山修司作品「上海異人娼館」の演出協力、友人小澤征爾の指揮によるヘネシー・オペラ「マノン・レスコー」の美術コーディネーターなど、求められて映画・舞台美術も手がけた。没後1周年を記して作品集「木遊-藤江孝追悼」(藤江三千発行)が刊行されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成4年版(294頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2019年06月06日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「藤江孝」『日本美術年鑑』平成4年版(294頁)
例)「藤江孝 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10336.html(閲覧日 2021-01-20)
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