村田勝四郎

没年月日:1989/03/22
分野:, (彫)

新制作協会会員で霞が関ビル前庭の「よろこび」で知られる彫刻家村田勝四郎は、3月22日午後4時4分、肺炎のため東京都渋谷区の井上病院で死去した。享年88。明治34(1901)年8月10日、大阪市北区に生まれる。大阪府立天王寺小学校、同中学校を経て大正9(1920)年東京美術学校彫刻科塑像部に入学する。北村西望教室に学んで同14年に同科を卒業。続いて同科研究科に入り朝倉文夫の指導を受ける。同年第6回帝展に「道程」で初入選。翌15年第7回帝展に「女性」を出品して特選、翌昭和2(1927)年第8回帝展に「少女像」を出品して再び特選となる。また。同年より朝倉文夫の主宰する朝倉彫塑塾に参加し、朝倉塾彫塑展第1回展に出品。翌3年、同塾の帝展不出品に連座する。同4年、安藤照らと朝倉塾を退会し塊人社を結成し、帝展にも復帰する。同11年、塊人社が主線協会と合同して主線美術協会となるに際し同展に出品するが、同14年同会が解散したため、その彫刻部のみで再び塊人社を興す。戦後は同24年より新制作派協会に会員として参加し、以後同展に出品を続けた。同33年福岡・RKB毎日放送内に「牧神の午后」を制作して以降モニュメントやレリーフも手がけ、同45年東京霞が関ビル前庭にモニュメント「よろこび」を制作。同48年2月、日本橋三越で初の個展「村田勝四郎彫刻展-野鳥と少年-」を開催した。人体像をモチーフとし、戦前は対象の観察に忠実にもとづく温和なポーズの人体を、戦後は鳥と少年、少女を組みあわせたのびやかで軽みのある作品を中心に制作した。昭和10年から日本野鳥の会会員であり、晩年は特にトキを好んで主題としていた。清潔で無垢な作風を特色とする。同60年48点の作品を在住地である渋谷区立松涛美術館に寄贈したのを受けて、同年同美術館で「受贈記念特別陳列 村田勝四郎の彫刻」展が開かれている。(なお、年譜、出品歴は同展図録に詳しい。)

出 典:『日本美術年鑑』平成2年版(237頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「村田勝四郎」『日本美術年鑑』平成2年版(237頁)
例)「村田勝四郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9913.html(閲覧日 2024-04-16)

外部サイトを探す
to page top