本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





道明新兵衛〔6代目〕

没年月日:1962/10/11

工芸組紐技術の無形文化財指定保持者、道明新兵衛は10月11日東京都台東区の自宅で逝去した。明治12年6月27日新潟県三保市に生れ、旧名を半蔵といった。同35年12月五代道明新兵衛の婿養子となり、家業の組紐制作に従事した。昭和8年五代の死去により家督を継ぎ六代新兵衛を襲名した。昭和35年工芸組紐技術の無形文化財指定保持者に指定され、更に翌36年、多年研究製作に努力した功績により黄授褒章を授与された。なお逝去と同時に勲六等瑞宝章を授けられている。明治35年、五代道明新兵衛の婿養子となってから没年迄、約60余年に亘り、我国独自の工芸組紐(甲冑、刀剣等の附属組紐、神社仏閣関係の経巻、絵巻手筥の紐、其他有職故実関係の紐等)の修理、復原、創作に専念従事して、皇室関係、博物館、東京美術学校(現芸大)を始め全国公私の工芸品の大部分を手掛け、広く一般に組紐を普及させた。其の間、現七代新兵衛(長男)を助手として、岡倉天心、横山大観、小堀鞆音、松岡映丘、香取秀眞等と共に研究を続け、現在各地に散在する国宝品其他名品に附属する組紐約1000点の製作を行った。

小倉千尋

没年月日:1962/09/18

小倉千尋は明治33年陶芸に縁故のある兵庫県明石郡の家に生れ、幼少の頃から作陶に志して上京、苦学の後、単身渡満、元満鉄窯業試験場に入社した。その前後から中国各地を遍歴し、中国古陶芸を研究、帰国後京都に於いて陶工千尋と号して作陶を初めた。その後、郷土陶芸の開発に任じつつ、又現代陶芸界に独自の世界を求めて兵庫県に窯を移した。昭和12年、釉彩に依る“孔雀文水注”は帝展に初入選となり、其後の制作の基盤となっていった。戦後は日展に出品、昭和32年には文陶社を主宰し、新しい陶芸の発展を志していたが、昭和37年9月18日淋巴肉腫のため逝去した。享年62才。作品年譜「窯変孔雀水注」昭和12年 帝展「飛魚飛行」花瓶 昭和16年 久邇宮家買上「竹園瑞鳥文」 昭和17年 三笠宮献上「窯変四方花瓶」 昭和18年 文展「螢光釉彩水注」 昭和21年 日展「唐三彩箱」 昭和25年 日展「窯変線條花瓶」 昭和28年 日展「二釉彩花瓶」 昭和30年 現代日本陶芸展「月の面」飾皿 昭和35年 個展「釉彩亀文花瓶」 昭和36年 個展「日輪」花瓶 昭和37年 個展又、昭和12年以後天皇陛下獻上用作品の依嘱制作4回に及んでいる。

桂光春

没年月日:1962/08/31

彫金家桂光春は、明治4年9月3日東京葛飾に於て、旧幕臣桂信行の次男として生れた。同15年、彫金家豊川光長の門に入り彫金技術を学び、27年には、明治天皇銀婚式に際し東京市より献上の御物を、師光長と共に謹作した。明治30年、15ケ年の修業を終え師のもとを離れて独立した。この間、明治28年に東京彫工会展で 等賞を受領したのを始め、以後内外の博覧会、展覧会、競技会での受賞は数十回に及んでいる。独立以後の概略の作歴をのべると、明治43年英国皇帝戴冠式に際し、皇室より献上の純銀製金象嵌大花盛器に鳳凰の図を謹作。大正三年日本美術協会、東京牌工会、日本金工協会の審査員、及び鑑査主任を委嘱さる。大正13年巴里万国博に政府の依頼で掛額元祿踊の図並びに游鯉の図を出品す。昭和4年帝国美術院推薦となる。昭和5年ベルギー、リエージュ万国産業博に飾皿を出品大賞牌を受賞す。昭和8年シカゴ万国博に銀製宝石箱を出品受賞。昭和11年オランダ女王の慶事に在日オランダ人一同より献上すべき朧銀花瓶渓山幽煙の図を同国公使パプスト氏より依頼されて製作-等で、その後は戦中、戦後の時代を迎えて製作も少ない。昭和38年8月31日、東京都葛飾区の自宅で老令のため死去した。享年91才。

河合栄之助

没年月日:1962/07/16

陶芸家河合栄之助は7月16日、膀胱ガンの為京都市の自宅で逝去した。享年69才。河合栄之助は、明治26年4月24日京都市の陶工河合瑞豊の四男として生れ、大正元年京都市立陶磁器試験所特別科を修了した。同2年農商務省図案応用作品展に最若年として入選受賞して以来、多くの展覧会に出品、度々受賞している。 略年譜  昭和元年 聖徳太子奉讃展「兎耳白釉花瓶」(久邇宮家買上)昭和9年 帝展出品「魚紋水盤」(宮内省買上)紀元2600年奉祝文展出品「瑞穂花瓶」(宮内省買上)昭和17年 第5文展出品「磁器柿花瓶」特選(政府買上)昭和25年 現代美術日仏交歓展に入選受賞昭和27年 日展審査員に推される。

龍村平蔵〔初代〕

没年月日:1962/04/11

織物研究家龍村平蔵は4月11日午前7時15分、急性肺炎のため兵庫県宝塚市の自宅において死去した。享年85才。明治9年、浪花の富豪平野家の分家に生まれたが、17才ごろ親達を説得して呉服の行商をはじめ、次いで西陣で仕入見習をし、繻子の営業を行った。明治38年、西陣に龍村製織所を設立、所謂龍村織物美術が発足した。以後、独自の織物技術を研究、高浪織、ゴブラン織、絞結織などの美術織物の創作を行い、また古代織物の研究や模造の類(名物裂の複元模造に優作)も製作した。昭和31年2月染織工芸に与えた業績」で日本芸術院恩賜賞を受賞、33年紫綬褒章を受けた。

木内省古

没年月日:1961/08/23

日本工芸会理事で、木画及撥鏤の技持に対して無形文化財の選定をうけていた木内省古は8月23日脳軟化症のため逝去した。享年79歳。本名友吉。明治15年7月東京向島で生れた。幼児から祖父喜八、父半古の指導をうけ三代にわたる家業の指物、螺鈿、木象嵌を学び、又、竹内久一、前田貫業に師事して彫刻、上代様の画法、書法を修得した。明治37年以降は、父半古に従って正倉院御物整理掛に出仕し、木画、螺鈿、撥鏤等の修理、復原、模作に従事するかたわら、天平文様の意匠、色彩を会得して玳★装、木画等に工芸、絵画、彫刻等各種技術を混然融合させる境地をひらいた。又大正年間には、朝鮮李王家美術品製作所に勤務して、半島、大陸の工芸技術を修得し、その作域をひろめている。代表的作品は多いが、主なものに正倉院御物紫檀木画双六局(昭和7年模作、東京国立博物館蔵)紫檀木画手筥(大正14年パリ万国装飾美術工芸博出品、金賞受賞)などがある。昭和28年文化財保護委員会より木画及び撥鏤の技術保存のため助成の措置を講ずべき無形文化財として選定され、翌29年東京芸術大学講師に任ぜられたが、生涯の大半を在野の一作家として終始し、ほとんど独力によって古来の伝統工芸技術の保存とその向上発展につとめた。その生前の功により没後の10月8日、褒賞条例により追章が贈られた。

小宮康助

没年月日:1961/03/24

重要無形文化財「江戸小紋」の保持者小宮康助は3月24日肺気腫のため都立墨田病院で逝去した。本名定吉。享年78歳。明治14年東京都墨田区に農家の二男として生れた。12歳頃浅草小紋染をしていた浅野茂十郎に弟子入りして小紋染の技術を学んだ。26歳のとき独立し、昭和4年水質の関係で現住所の中川辺りに居を移し、以来江戸小紋の染上げに苦心を重ねた。こまかな模様染にすぐれ、とくに品のある独自の美わしい発色には定評があり、昭和30年1月重要無形文化財に指定された。

佐々木象堂

没年月日:1961/01/26

蝋型鋳造の無形文化財保持者佐々木象堂は、1月26日新潟県佐渡郡の児玉病院で急性肺炎のため死去した。78歳。彼は本名を文蔵と云い、1882(明治15)年3月14日に新潟県佐渡郡に生れたが、戸籍面は2年後の同月同日生になっている。1897年に、河原田小学校を卒業し、17歳ごろ画家を志して上京したが極度の近視眼のため帰郷し、1901年より佐渡郡沢根町宮田藍堂(初代)に蝋型鋳金を学び、1907年5月より河原田町で鋳金家として自立した。1913(大正2)年上京し農商務省(図案及応用作品)展(第一回)に出品入選し、また東京鋳金会展、日本美術協会展などに出品し、宮内省より数度買上げられた。1915・6年から象堂を号としている。1922年平和博覧会出品の「鋳銅菊花丸紋花瓶」は金牌を受賞した。1927(昭和2年)新たに工芸部が設けられた第八回帝展に出品した「鋳銀孔雀香炉」に特選を得て宮内省買上げとなる。1929年11月帝国美術院推薦となり、同年第10回帝展出品「金銅鳳凰置物」も特選となる。以後1931、1932、1934年に帝展審査員を務め、1935年には帝国美術院参与に推薦となる。1936、1937、1939年に文展審査員を務め、1940年には日本工芸美術展に展覧会委員依属となる。1938年には新潟市に越路焼窯新潟陶苑を興し、1945年まで郷土の陶器製作と弟子の養成にたずさわった。1944年戦禍を避けて佐渡に疎開し、戦後1947年真野町に真野山焼窯を創設し、再び陶芸と子弟を養成する。1945年より日展に依属出品を続け1953年より第5回日本伝統工芸展に蝋型鋳銅置物「釆花」を出品し文化財保護委員長賞受賞、同じく6回展には「蝋型鋳銅置物・瑞鳥」に日本工芸会総裁賞を受賞し、共に文化財保護委員会の買上げとなった。1960年4月重要無形文化財蝋型鋳造技術保持者と認定され、名実共に鋳金界の最長老の一人として活動していた。

上野為二

没年月日:1960/09/04

日本工芸会々員重要無形文化財友禅染技術保持者上野為二は、9月4日京都市中京区の自宅で心臓衰弱のため死去した。享年59才。明治34年4月16日京都市に生まれたが、父親が明治後期から大正の友禅界における図案技術両面の第一人者であったから後に家業の友禅染を研究制作するようになった為二は生まれながらにして恵まれていた。大正5年京都美術工芸学校を中退し、その年西村五雲の塾に入って日本画を学び、大正9年には関西美術院に入って洋画を学んだ。こうして日本画・洋画を学ぶことによって染織図案の基礎を修得、大正14年ごろより父清江の指導下に家業手描友禅の本格的な修業に入り、研究制作に従事した。図案・技術共に優れ、特に加賀友禅の染織技法を研究して自己のものとした点、並びに絵羽模様として常に着装上からも安心のおける新しい立派な意匠であったこと等が注目されていた。昭和28年11月友禅染の技術を無形文化財に指定され、同30年5月重要無形文化財の友禅染技術の保持者に認定された。日本工芸会に属し、日本伝統工芸展に出品、審査員をつとめていた。

北大路魯山人

没年月日:1959/12/21

陶芸家北大路魯山人は、12月21日、横浜市立医科大学(十全病院)で肝硬変のため逝去した。享年76歳。本名は房次郎。陶芸家としてのほかに、食通としても知られ、また、書や篆刻、画もよくした。明治16年3月23日、京都上加茂神社の社家に、社人北大路清操の次男として生まれた。しかし、出生前に父親が死亡していたため、次々と養父母が変り、愛情に恵まれない数奇な幼年期を過ごした。小学校を卒えると、直ちに薬屋に丁稚奉公したが、2、3年たつた頃、日本画家を志して薬屋をやめ、再び養家(福田)に戻る。日本画にかかる費用を、養父の篆刻の手伝いや書で稼いでいたところ、たまたま書家としての天稟を認められ、やがて書道と篆刻で立つことになつた。明治41年朝鮮に渡り、総督府の書記となつて書道と篆刻の研究に打ちこむ。後、総督府をやめて内地に戻り、明治末ごろから大正にかけては、京都の内貴清兵衛の許で、溪仙、麦遷、御舟等と交遊する。この頃から食通の才をあらわしはじめ、やがて上京して、駿河台で書と篆刻で生計を図るかたわら、大正10年には、京橋に美食倶楽部をはじめる。そこが震災で焼けてからは、美食倶楽部を星ケ岡茶寮に移し、昭和12年まで共同経営し、自ら厨房長となつて腕をふるい、政界財界の食通人の間に名声を博した。魯山人が作陶を始めた動機は、その折、自分の作つた料理を盛るのにふさわしい器がないという理由から、その食器も自分で作ろうとしたことにはじまる。こうして、料理に適した食器の研究、制作が続けられ、その手になる器皿は食器としての最上の効果を発揮するとまで称讃されるようになつた。 後、北鎌倉の窯場(神奈川県鎌倉市)に定住して作陶に専心、ますます陶芸家としての名声が高くなつた。また、イサム・ノグチの作陶上のよき師でもあり、そのイサム・ノグチとロックフェラーの招きで、昭和29年米国と欧州に遊び個展を開いた。この個展は、魯山人の名声を国際的なものにし、その評判は、更に、わが国の陶磁を世界に再認識させる契機ともなつた。魯山人は、終始一切の会に所属せず、独自の研究と作風で制作を続け、個展は70回近く開いたといわれるが、個展以外はどのような展観にも出品せず、完全に陶芸界を独歩した。その、稀に見る豪放な風格、広範な作域、格調高い作品で孤立する様相は、まさに不世出の巨匠が、他にぬきんでて、高く鋭く聳えている感があり、常時、わが国現代の陶芸界における無所属作家の筆頭にあげられていた。作陶上の芸域はひろく、中国明代の染付、赤絵、金襴手はもとより、わが国の志野、織部、黄瀬戸、信楽、備前、古九谷、乾山等の格調をよく自己のものとし、現代にその魅力を生かす手腕は驚くべきものがあつた。中でも特に、桃山茶陶風の志野、織部、備前を素材としたものが得意であつた。作調は、全く自由奔放、しかも創意に満ち、独自の風格を持つた優作が夥しく生まれている。しかるに、芸術上では優秀性を存分にあらわしたと思える稀代な個性、魯山人の性格は、一たび人間として社会生活を行うという段になるとまことに芳しくなかつたようである。その個性は強烈な癖となつてあらわれ、人人を遠ざからせたようで、人々が魯山人の人物に関して云々するのに、「我儘」、「奔放」、「傲慢」、「横柄」、「辛辣にすぎる苦言」、「相手の傷に指をさしこむような苛虐さ」、「罵声や放言にも似た作品批評や人物批評」、「驚くべき自画自讃」、「なんて嫌な、なんて憎たらしい奴」、「全く腹にすえかねる」等々……。このような、法外に我儘な、過度に奔放な言動がわざわいして、遂には肉親からも弟子からも離れられ、魯山人の芸術を高く評価する数多の人々からも極度に敬遠されたのは、魯山人にとつて事実まことに残念なマイナス面であつた。

清水六和

没年月日:1959/08/01

日本芸術院会員清水六和は、8月1日京都市の自宅において逝去した。享年84歳。明治8年3月6日四世六兵衛の長男として、京都に生まれた。京都府画学校に学んだが、中退して、祥嶺と号して幸野楳嶺に日本画を学び、父四世六兵衛について陶法一般を学んだ。明治28年に楳嶺が没してからは、谷口香?に日本画の指導を受けた。明治29年に京都市立陶磁器試験場が設立されると、そこで特別な指導を受け「マジョリカ」の製法その他を研究、また初代の場長藤江永孝と全国の陶業地を巡つて陶技その他を見学、伝統的な清水焼の陶法の研修に加えて、広く種々な研究を重ねた。明治35年ごろからは、父四世の代作に勉め、大正3年には五世六兵衛を襲名した。その頃から頻々と各種各地の博覧会の審査員を委嘱された。大正11年、フランス政府からサロン装飾美術部の会員に推され、勲章を贈られる。昭和2年帝展工芸部創設の際には審査員に推され、以後、連続審査員。昭和5年には、帝国美術院会員となり、昭和12年には日本芸術院会員となる。昭和21年には五世六兵衛を隠退し六和と号し、六世六兵衛を長男正太郎に襲名さす。昭和33年3月新発足の日展では顧問となる。六和は長い生涯の半生以上を、京都陶壇における官展系の重鎮として送つた。その作風は、枯淡で素朴な渋味があり、更に、優雅な気品と独特の色沢を備える調子の高いものであつた。 略年譜明治8年 3月6日 四世六兵衛の長男として京都に生まれる。明治15年頃 この頃京都府画学校中退。幸野楳嶺に日本画を、父四世六兵衛に陶法一般を学んだ。明治28年 楳嶺が没したので、谷口香★に日本画の指導をうける。明治29年 京都市立陶磁器試験場が設立され、そこで特別な指導をうける。明治35年頃 この頃から父四世の代作に勉める。大正3年 五世六兵衛を襲名。大正5年 農展出品作「紅梅小禽花瓶」二等賞になる。大正6年 農展出品作「青華烏瓜花瓶」一等賞になる。この作品は宮内省御買上となり、後年我が皇室からスエーデン皇帝に御贈進の趣。大正11年 商工展出品作「染付春草花瓶」、無鑑査。フランス政府からサロン装飾美術部の会員に推され、オフシュド・ロルドル・ド・レトアル・ノアール勲章を贈られる。大正14年 仏国美術展出品作「音羽焼納涼美人掛額」これは仏国政府買上となる。大正15年 御物「着彩富貴長春花瓶(一対)」。太子展出品作「大礼磁仙果文花瓶」、審査員。これは京都市美術館蔵となる。昭和2年 第8回帝展に工芸部創設、審査員になる。以後、帝展連続審査員。この年の出品作「青華百日紅花瓶」昭和3年 第9回帝展出品作「古城文蒼二花瓶」「繍花文皿」。この中後者は久邇宮家御買上。昭和4年 第10回帝展出品作「磁製多宝塔香炉」。国際美術展出品作「青磁耳付花瓶」、審査員、これは外務省買上。昭和5年 第11回帝展出品作「磁製柘榴花瓶」。第2回太子展出品作「大礼磁草花文花瓶」審査員。京都美工展出品作「青華葡萄文花瓶」審査員。昭和6年 京都美工展出品作「青磁耳付花瓶」審査員。昭和7年 第13回帝展出品作「仙果文飾皿」昭和8年 第14回帝展出品作「魚★文天目茶★」昭和9年 第15回帝展出品作「台子飾(一揃)」板谷波山、香取秀真、赤塚自得、清水六兵衛の綜合作。昭和11年 2月改組第1回帝展出品作「耀星花瓶」10月の文展鑑査展及び11月の文展招待展に「陶磁飛★花瓶」を出品。昭和12年 6月14日、日本芸術院会員となる。昭和13年 第2回文展出品作「青磁花瓶」昭和15年 紀元二千六百年奉祝展出品作「陶秋草手炉」昭和16年 第4回文展出品作「青磁花瓶」昭和17年 第5回文展出品作「青磁花瓶」昭和19年 戦時特別文展出品作「国華花瓶」昭和21年 五世六兵衛を隠退し六和と号す。昭和22年 第3回日展出品作「清水窯水指」昭和23年 第4回日展出品作「青磁花瓶」昭和24年 第5回日展出品作「陶器紫翠★花瓶」昭和25年 第6回日展出品作「陶器新星文流★花瓶」昭和27年 第8回日展出品作「焼〆花瓶」昭和29年 第10回日展出品作「新雪窯花瓶」昭和30年 第11回日展出品作「青磁鶴首花瓶」昭和31年 第12回日展出品作「古稀釉花瓶」昭和33年 3月新発足日展の顧問となる。昭和34年 8月1日逝去。

米澤蘇峰

没年月日:1959/01/25

陶芸家米澤蘇峰は、1月25日、京都市の自宅において、心臓麻痺のため急逝した。享年61歳。本名は時一。明治30年8月1日石川県金沢市に生まれた。大正7年京都市立美術工芸学校図案科を卒業、当時帝室技芸員であつた叔父の諏訪蘇山の門に入り、陶技を研修した。その間清水六和、中沢岩太の指導を受けながら、帝展、文展、日展、京都市美術展等に出品した。昭和27年の第8回日展以来は日展の出品依嘱となり、昭和28年の第9回日展では審査員、その時の出品作「青瓷花瓶」は政府買上となつた。昭和33年3月には新日展の会員となつた。京都の作家であつた蘇峰は、京都市美術展、京都府工芸美術展等の審査員をつとめ、また京都陶芸作家協会の理事、京都府綜合工芸研究所の常任委員もしていた。

中村鵬生

没年月日:1959/01/21

染織工芸家中村鵬生は、1月21日京都市の自宅において、心筋梗塞のため急逝した。享年52歳。本名は成之助。明治39年10月2日京都に生まれた。大正8年より山鹿清華に師事して染織図案を学び、昭和4年から7年間、川島甚兵衛織物株式会社の図案部にあつて、染織図案並びに綴織を専門とした。昭和5年の帝展初入選以後は、作家としての活動が注目された。 略年譜明治39年 10月2日、京都に生まれた。大正8年 山鹿清華に師事する。昭和4年 川島甚兵衛織物株式会社に入社する。昭和5年 第11回帝展に「蔬菜図手織錦卓被」が初入選。昭和6年 第12回帝展に「温室図手織錦壁掛」出品。昭和7年 第13回帝展に「房生図手織錦壁掛」出品。昭和9年 第15回帝展に「蘇鉄と鶏之図手織錦壁掛」出品。昭和12年 第1回文展に「琵琶湖祭之図手織錦壁掛」出品。昭和13年 第2回文展に「聖鍬之図手織錦壁掛」出品、大和橿原国史館買上。昭和17年 第5回文展に「紅鶴群手織錦壁掛」出品。昭和18年 8月、文展無鑑査に推薦される。昭和19年 戦時特別文展に「献身手織錦壁掛」出品、京都市買上。昭和21年 9月、第2回日展委員になる。昭和25年 第6回日展出品作「野鶴手織錦壁掛」は特選。昭和26年 第7回日展では出品依嘱になり、出品作「躍進手織錦壁掛」は文部省買上。昭和27年 第8回日展では審査員、出品作は「凍朝手織錦壁掛」。昭和28年 第9回日展からは出品依嘱がつづく。京都府工芸美術作家協会理事。昭和30年 全日本工芸美術作家協会京都支部長。昭和33年 3月、新日展の会員となり、6月には同展審査員となる。この第1回日展の出品作は「霜柱手織錦壁掛」。昭和34年 1月21日逝去。

三井義夫

没年月日:1959/01/02

光風会工芸部会員三井義夫は、1月2日肝硬変のため日本医大附属病院で死去した。享年59歳。明治32年9月22日東京中根岸に生れ、初め彫金家土田勝業に学び、のち海野家の門をたたいた。ついで東京美術学校に学び、昭和3年同校金工科選科彫金部を卒業、引き続き海野清に師事した。官展並びに工芸諸展に作品発表を行いつつ、久しく彫金界に活躍し、昭和31年には第11回日展出品作「彫金象嵌花器」で日本芸術院賞をうけた。略年譜明治32年 9月22日東京都台東区に生る。昭和2年 「楽園之図手箱」8回帝展入選。昭和3年 3月、東京美術学校金工科選科彫金部卒業。「海(彫金手筥)」9回帝展出品。昭和5年 「黒味銅製盤」11回帝展出品。昭和6年 「青果器」12回帝展出品。昭和7年 「黒味銅花瓶」13回帝展出品。昭和8年 「魚鉄方盤」14回帝展出品。昭和9年 「菊水紋小鉢」15回帝展出品。昭和11年 「黒味銅小鉢」帝展改組1回展出品。「象嵌菓子器」文展招待展出品。昭和12年 「彫金象嵌水盤」1回新文展出品。昭和13年 「鉄盛花器」2回文展出品。昭和14年 「四分一象嵌花瓶」3回文展出品。昭和15年 「彫金象嵌盛器」紀元2600年奉祝展出品。昭和16年 「彫金象嵌花器」4回文展出品。文展無鑑査。昭和18年 「黄銅花器」6回文展出品。昭和19年 「黒味銅花器」戦時特別文展出品。昭和22年 「平象嵌黄銅花器」3回日展出品。昭和23年 「彫金平象嵌筥」4回日展出品。日展審査員。昭和24年 「金工平象嵌花器」5回日展出品。昭和25年 「彫金花盛」6回日展出品。日展依嘱。昭和26年 「黒味銅花瓶」7回日展出品。日展依嘱。昭和27年 「彫金象嵌筥(ナマズ)」8回日展出品。川合玉堂賞文部省買上げ。昭和28年 「打出福久置物」9回日展出品。日展審査員。昭和29年 「彫金象嵌魚文花瓶」10回日展出品。昭和30年 「彫金象嵌花器(ナマズ)」11回日展出品。文部省買上、日展審査員、光風会々員となる。昭和31年 「彫金銀花器」12回日展出品。5月日本芸術院賞受領。(前年度日展出品作に対し)昭和31年 「花瓶」42回光風会展出品。昭和32年 「象嵌花器」13回日展出品、「猿之額」43回光風会展出品。葵洸会工芸展(高島屋美術部50周年記念展)出品。昭和33年 「金彩蟹文飾皿」44回光風会展出品。昭和34年 1月2日死去。

飯塚琅玕斎

没年月日:1958/12/17

日本工芸会理事、元日展参事、竹工芸界の重鎮飯塚琅玕斎は、12月17日急性心筋硬塞症のため、東京都文京区の自宅で逝去した。享年68才。本名弥之助。明治23年3月15日栃木市に生れた。家は代々竹芸を業とし琅玕斎も12才の時竹工を志し、父飯塚鳳翁に竹芸を学んだ。13才の折上京、書道、生花にも励んだ。制作活動は明治末から没年までにわたり、作品は各博覧会に、また帝展に工芸部設置後は帝展を主とし、続いて昭和期の文展に出品した。帝展で特選2回をうけ、文展では審査員、あるいは招待出品者として作品を送つている。昭和20年第1回日展からは出品委嘱者として、28年からは参事として出品をつづけていた。作品は一貫して格調の正しい、伝統的な竹芸の正調を保持していたところに特徴があつた。いわば伝統派の第一人者で、そのすぐれた技術は、我国の竹工芸の発展に多くの影響を及ぼしている。なお昭和33年新日展の発足とともに日展をはなれ、日本工芸会理事となつていた。 主な作品に、「竹製筥」(昭和7年帝展)、「竹風炉先屏風」(昭和9年帝展)、「竹炭斗」(昭和17年文展)、「魚の舞・花籃」(昭和22年献上品)、「花籃・銘鳥光」(昭和28年)、「花籃・銘黄絨」(昭和30年日展)等。作品略年譜大正4年 大正天皇御即位式に際し、神服入目籃謹製大正11年 平和博覧会に「厨子花籃」出品、銀賞日本美術協会審査員となり同会解散まで在任大正15年 パリ万国装飾美術工芸博覧会に「手筥」銅賞昭和3年 御大礼に際し皇太后陛下に「掛花籃」謹製昭和6年 第12回帝展「竹手筥」。この年から昭和18年まで東京府立工芸展覧会審査員となる昭和7年 第13回帝展「竹手筥」特選昭和8年 シカゴ万国博覧会に「花籃」出品昭和9年 第15回帝展「竹風炉先屏風」特選昭和11年 文展(招待展)「花籃」昭和12年 第1回文展「釣花籃」、以後文展に招待出品をつづける作品は殆ど花籃。パリ万国博覧会にも花籃を出品する。昭和14年 第3回文展「花籃」、審査員として出品昭和16年 第4回文展「竹炭斗」招待出品昭和22年 天皇陛下栃木市御巡幸に際し「魚の舞花籃」謹製昭和24年 第5回日展「花籃・七宝あみ」依嘱出品昭和28年 「花籃・銘鳥光」(岡田茂吉蔵)昭和30年 第11回日展「花籃・銘黄絨」日展参事として出品昭和32年 第13回日展「花籃魚籃」昭和33年 日本工芸会に転属、理事となり同展に「花籃」出品12月17日没

吉田源十郎

没年月日:1958/04/04

漆工芸家、日展参事吉田源十郎は、胃潰瘍のため、4月4日世田谷区の自宅で逝去した。享年62歳。明治29年3月20日高知県安芸郡に生れ、石井士口(吉次郎)に師事し、漆芸を学び大正8年東京美術学校漆工科選科を卒業した。昭和2年第8回帝展にはじめて工芸部が設置されたが、翌年の第9回帝展で「麦の棚」が初入選となつた。その後連続入選し、昭和5年第11回展出品の「泉の衝立」、第14回展「トマトの図棚」は特選となり、昭和12年第1回文展の審査員となつた。昭和期の文展では17年、18年と審査員に推され、18年文展出品の「梅蒔絵飾棚」は芸術院賞(第2回)となつた。23年から金沢美術工芸短期大学教授に任命され、戦後の日展では審査員、参事の役をつとめていた。また、昭和12年造幣局嘱託となつたこともあり、戦後、目本漆工芸会を主宰、会長として漆工芸の発展に尽力していた。

田畑喜八〔3代目〕

没年月日:1956/12/25

染色家田畑喜八は、12月25日京都市中京区の自宅で脳栓塞のため死去した。享年79歳。明治10年二代目田畑喜八の長男として京都市に生れ、明治24年頃より幸野楳嶺に師事して日本画を修得し、同時に京都府画学校に学んだ。明治28年より竹内栖鳳について邦画独特の毛筆画(運筆画)の研究を行い、一方父より手描友禅染全般の加工々程、技術を仕込まれた。明治31年、三代田畑喜八として家業の手描友禅染を継承して以来、友禅染の第一線で活躍した。友禅染の諸工程中、彼の専門分野は下絵、彩色であつたが、その特色は、晩年に至るまで、堰出し友禅、豆描友禅等過去の画歴を活かした筆意を見せたものが多かつた。昭和28年度無形文化財に選定され、30年度には重要無形文化財技術の保持者として認定された。

山田栄一

没年月日:1956/08/11

友禅楊子糊の技術に対し無形文化財の指定をうけていた山田栄一は、8月11日、胃癌のため愛知県愛知郡の自宅で逝去した。享年55歳。号悦堂。明治33年12月17日京都市で生れ、小学校卒業後、三越京都支店染色工場に入り、友禅染の下絵彩色を学んだ。18歳で退店、以後吉川竹翁に師事して友禅染の本格的な研究を行つた。天性器用で、友禅染の技法は、下絵、糊置、彩色、地染等何れをもよくしたため、分業によらず、独自の一貫作業で製作することが多かつた。楊子糊の糊置染法による繊細な美しい糸目にその特色があつた。楊子糊の技法は昭和28年度無形文化財に選定され、写真及び文書記録を残し、30年度には重要無形文化財技術の保持者として認定された。

海野清

没年月日:1956/07/10

芸術院会員、文化財専門審議会専門委員、東京芸大教授海野清は、7月10日東大病院で逝去した。享年71歳。自宅東京都文京区。明治17年11月8日、海野勝珉の子として東京で生れた。35年郁文館中学を卒業、39年東京美術学校金工科に入学、44年卒業した。その後、自営制作に従事し、大正3年大正博覧会に「釈迦説法之図打出額面」を出品し2等賞を得、同5年には東京府金工美術展覧会審査員となつた。大正8年東京美術学校助教授、昭和7年教授となり、昭和24年東京美術学校が東京芸術大学となつたのちも、同校教授として没年迄在職した。昭和3年第9回帝展に「鸚鵡文金属小筥」が入選、特選となり、翌年から審査員、或は無鑑査出品者として出品し、昭和22年帝国芸術院会員となつてからは、日展審査員、同運営会理事となり、日展に作品を送つていた。また全日本工芸美術家協会々長、日本彫金会々長、日本美術刀剣会常任審査員など、彫金会の長老として要職にあつた。作品は、諸派の彫法をとり入れ、精巧な技術により古典的優雅な作風をもつて知られ、昭和30年重要無形文化財の指定をうけた。略年譜明治17年 11月8日海野勝珉四男として東京に生れた。明治35年 郁文館中学卒業。明治39年 東京美術学校金工科入学。明治44年 東京美術学校卒業。大正3年 大正博覧会に「釈迦説法図打出額面」出品2等賞。大正5年 東京府金工美術展覧会審査員となる。大正6年 東京美術学校雇となる。大正8年 東京美術学校助教授となり、金工科彫金実習を担任する。昭和2年 この年以後毎年、内閣から工芸審査委員会委員、商工省から第二部員を命ぜられる。昭和3年 第9回帝展に「鸚鵡文金属小筥」を出品、特選となる。昭和4年 第10回帝展審査委員となる。「双鶴文花瓶」出品。昭和5年 第11回帝展審査員。「金銀鍍壷」出品。昭和6年 第12回帝展審査員。「双鶴紋箱」出品。昭和7年 3月、東京美術学校教授。10月、金工技術研究のため在外研究員としてフランスへ留学。昭和9年 1月、帰朝。第15回帝展「青銀花器」(無鑑査出品)。昭和11年 文部省美術展覧会委員となり、11月招待展に「青金色絵瓶」。昭和12年-13年 第1回文部省美術展覧会審査員となる。昭和17年 第5回文部省美術展覧会審査員。「雲竜硯屏」出品。昭和22年 帝国芸術院会員に任命される。第3回日本美術展覧会以後、殆ど毎年日展審査員となる。昭和24年 東京芸術大学教授、日展運営会常任理事となる。昭和26年 文化財専門審議会専門委員となる。昭和27年 第8回日展審査員。「猫」出品。昭和29年 第10回日展審査員。「牛」出品。昭和30年 重要無形文化財の指定をうける。昭和31年 7月10日逝去。

徳田八十吉

没年月日:1956/02/20

九谷焼陶芸家徳田八十吉は、心臓病のため、2月20日石川県小松市の自宅で逝去した。享年82歳。明治6年11月20日石川県小松市に生れ、明治19年松本佐平の門に入り陶画を学んだ。明治30年以来、県下の各種美術展覧会では屡々最高賞をうけ、他に平和博覧会、農商務省展などにも度々出品、受賞している。大正、昭和年間にわたつて、宮中、各宮家への献上品、御下命による制作が多い。昭和27年11月、九谷焼の上絵付技術により無形文化財として選定された。

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