本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





河井寛次郎

没年月日:1966/11/18

陶芸家の河井寛次郎は、11月18日午後1時5分、京都市東山区の専売公社京都病院で老衰のため死去した。享年76才。河井寛次郎は、柳宗悦、浜田庄司らとともに昭和初年から民芸運動に挺身し、民族的で健康な民衆的な陶芸を主張し、釉薬の研究などにもすぐれた業績をあげた。ロンドン、ニューヨークなどでの個展や昭和32年ミラノ、トリエンナーレ国際工芸展における最高賞受賞など国際的にも著名であった。年譜明治23年(1890) 8月24日、島根県能義郡安来町(現、安来市)に生る。明治43年 松江中学校卒業、東京高等工業学校(現、東京工大)窯業科に入学。明治44年 赤坂、三会堂で、バーナード・リーチの新作展を見て感激、その後間もなくリーチを桜木町の寓居に訪う。大正3年 東京高等工業学校卒業、(前年、腸チフスを病み、一カ年休学)。京都市立陶磁器試験所に入る。大正5年 同試験所に浜田庄司入所、爾後、研究、制作をともに励む。大正6年 試験所を辞し、清水六兵衛の顧問となり、各種の釉薬をつくる。浜田とともに琉球及び九州諸窯を視察す。大正8年 浜田とともに朝鮮、満州、大連等を旅す。大正9年 山岡千太郎の好意により、京都、五条坂に窯を築き鐘溪窯と名づく。三上やす(現、つねと改名)と結婚。大正10年 東京、大阪両高島屋で、当時同店の宣伝部長川勝堅一の斡旋により、宋、元、明、李朝等古陶磁の手法を逐った作品「第一回創作陶磁展」を開き、絶讃をうける。(爾後、年次展を開催)また、東京、流逸荘で「李朝陶磁展」を見、李朝陶磁器の真髄に触れるとともに、この会を主催した柳宗悦を知る。大正11年 前年中の快心作の写真集『鐘溪窯第一輯』を刊行。大正12年 黒板勝美博士の知遇を受け、また大毎京都支局長、岩井武俊を識る。創作についての反省始まる。大正13年 イギリスより帰朝した浜田を介し、柳宗悦との親交始まる。恩賜京都博物館で「陶器の所産心」と題して講演を行ない、新たな所信を披瀝す。大正14年 第5回東京高島屋展に用途を重んじた新しい作風を示す。大正15年 柳、浜田とともに「日本民芸美術館」設立の念願起こす。黒板博士の努力で「河井氏後援会」生る。作家としての一大転換機をむかえ、作品の発表を差し控えて、制作に専念す。昭和2年 「河井氏後援会」主催の作品展を、東京丸の内の日本工業倶楽部で開く。柳編纂の『雑器の美』に「陶器の所産心」を掲載す。昭和3年 御大礼記念国産振興博覧会に、柳、浜田、その他日本民芸美術館同人とともに、民芸品で家具調度を整え「民芸館」と名づけた建物を新築出品す。昭和4年 帝国美術院より院展無鑑査として推薦さる。3カ年の沈黙ののち、東京高島屋で、第6回作品展覧会を開く。昭和5年 米国ハーヴァード現代芸術協会主催の「日英現代工芸品展覧会」に出品。大阪高島屋主催大阪美術倶楽部で「作陶10年記念展」を催す。昭和6年 柳、浜田とともに雑誌『工芸』を発刊。柳とともに鳥取、島根を旅し、鳥取の牛の戸窯の開窯に立会い、松江では郷里の工人を指導す。この年の展覧会に色絵を出品す。昭和7年 ロンドンの山中商会支店で個展を開く。練上手、抜蝋の作を出品。昭和8年 日本民芸美術館主催の東京高島屋での「綜合新工芸展覧会」に作品を出品す。東京、上野で開催の第8回国展に賛助出品す。倉敷文化協会主催の個展を倉敷市商工会議所で開く。柳とともに現代民窯展準備のため、中国、九州の諸窯を歴訪す。昭和9年 東京、上野の松坂屋で開催の「陶匠十家展」に出品。バーナード・リーチを自窯にむかえて、ともに制作す。東京高島屋で開催の「現代日本民芸展」にモデルルームとして浜田の食堂、リーチの書斎とともに台所を設計し出陳す。昭和10年 再度リーチを自窯にむかえる。大原孫三郎翁より柳に対し、民芸美術館設立の資金寄付の申出をうけ、協議に参画す。この年陶硯の制作に没頭す。柳と四国に旅す。昭和11年 東京高島屋で陶硯百種展を開く。柳、浜田とともに朝鮮を旅し会寧を経て満州吉林にはいる。大阪高島屋で陶硯展を開く。『工芸』68号は河井寛次郎特輯号を刊行。東京駒場に、「財団法人日本民芸館」を設立。理事となる。昭和12年 パリ万国博覧会に出品の鉄辰砂草花丸文大壺がグランプリを受賞す。再度、柳、浜田とともに朝鮮を旅す。昭和14年 民芸協会同人とともに沖縄に渡島す。米人ギルバートソンは2カ年間作陶のため弟子入りす。昭和15年 銀座鳩居堂で富本、浜田、河井の「三人展」を催しこの機会に三人の作品図録を出版す。東京、大阪両高島屋で「作陶20周年展」を催す。昭和16年 柳、浜田とともに華北を旅す。昭和18年 東西高島屋で浜田との二人展開く。昭和19~20年 戦火はげしくほとんど窯立たず、文筆に没頭す。棟方志功は版画にて鐘溪窯を賛える「鐘溪版画柵」24図を制作す。昭和21年 長女、良に養嗣子、博(現在博次と改名)をむかえる。高島屋での個展復活。昭和22年 寛次郎詞「火の願ひ」を棟方志功版画にて制作47図を完成す。自詞を自刻した陶版「いのちの窓」を完成。酒瓶を主とした個展を開く。昭和23年 『化粧陶器』『いのちの窓』を出版。陶版「いのちの窓」の個展を開く。昭和24年 日本民芸館西館で「辰砂について」と題し講演を行なう。柳著『河井寛次郎』を札幌の鶴文庫より出版。この年から異なった角度による不定形の造型始まる。昭和25年 「還暦記念展」を東京、大阪両高島屋で開く。日本民芸館では、館所蔵の河井作品300点を陳列、還暦記念展とす。昭和26年 フランスで開催の陶器展に出品。この頃しきりに木彫を試作す。昭和27年 仏人ラルー入洛し、1カ年余弟子入りす。東京高島屋増築記念として富本憲吉、浜田とともに「三人展」を開く。昭和28年 朝日新聞社より『火の誓ひ』出版。『いのちの窓』の英訳を刊行。夏、リーチ、柳、浜田とともに共著『陶器の本』(仮称)の原稿執筆のため信州松本在霞山荘に滞在。東京高島屋主催「作陶40年展」を東京の光輪閣、大阪高島屋で催す。陳列作品700点。昭和29年 大丸神戸店でリーチ、浜田と「陶芸3人展」を開く。東京高島屋でリーチ、富本、浜田とともに「陶芸4人展」を催す。泥刷毛目の手法を制作。前年よりひきつづき共著『陶器の本』の原稿執筆のため、春、千葉県房州、夏信州松本在霞山荘にて、リーチ、柳、浜田とともに滞在す。昭和31年 日本民芸館本館建物修理のため、浜田とともに抹茶碗を寄贈し、柳の書軸を加えて、民芸館にて頒布会を行う。東京、大阪、両高島屋で個展を開催。20年振りに新型陶硯、練り上げ手、陶板花手文の筒描き始む。昭和32年 朝日新聞社主催で、京都、東京両高島屋および名古屋のオリエンタル中村で「陶芸40年展」を開く。ミラノ、トリエンナーレ展で「花文菱形扁壺」グランプリを受賞。京都の民芸使節団をひきいて沖縄に渡島。昭和33年 木彫で手、人物像、動く手、動く足、面等を造る。またこれらで陶土の原型をつくる。一方幾何学的貼付陶文の試作、色釉を使った打薬の手法を始む。腸閉塞と腸癒着のため大手術をうける。昭和34年 木彫の制作つづく。秋の高島屋展に木彫の面20余点を出品。三彩打薬の手法漸く安定し、壺、大鉢、茶碗、皿等の製作に打ち込む。緑釉および陶彫の試作始まる。北海道、青盤舎で柳、浜田との「三人展」開く。昭和36年 大原美術館は四人の陶匠(富本、リーチ、河井、浜田)作品の常時陳列施設として「陶器館」を開設。昭和37年 雑誌『民芸』1月号に「六十年前の今」の第1回を掲載、第59回まで続く。和蘭のマーガレット王女来訪。天満屋広島店で、個展を開く。昭和38年 名古屋オリエンタル中村、天満屋岡山店で個展を開く。昭和39年 東京、大阪両高島屋および名古屋オリエンタル中村で個展開く。昭和40年 大原美術館は『河井寛次郎作品集』の刊行を企画。天満屋広島店で個展を開き、広島より郷里安来に旅す。また天満屋福山店の「日本民芸館同人陶器展」に賛助出品す。昭和41年 京都高島屋で「寛次郎、博次、武一三人展」を催す。名古屋オリエンタル中村で「寛次郎博次父子展」を開く。天満屋岡山店、東西両高島屋でそれぞれ個展を開く。6月頃より躰の衰弱はげしく、11月2日、専売公社病院に入院、11月18日午後1時5分永眠す。12月1日紫野大徳寺山内の真珠庵で日本民芸協会葬を執行。法名、清心院鐘溪寛仲居士。享年77才。昭和42年 3月、京都府立総合資料館で、河井寛次郎コレクション約300点を出品し「民芸展」を催す。5月、東西高島屋で、6月、大原美術館で「河井寛次郎遺作展」を催す。またこの年に、大原美術館より大型図録、『河井寛次郎作品集』を出版。

加藤菁山

没年月日:1966/09/25

瀬戸陶芸協会参与の陶芸家加藤菁山は、9月25日愛知県瀬戸市追分町の陶生病院で、胃ガンのため死去した。享年70才。瀬戸陶芸界の長老で、瀬戸陶芸協会生みの親である。帝展、文展、日展などに入選し、戦後愛知県から文化功労者として二回表彰された。

小合友之助

没年月日:1966/04/21

染織家小合友之助は、4月21日脳軟化症のため日本専売公社京都病院で死去した。享年68才。明治31年3月28日京都市中京区に生れ、大正5年京都市立美術工芸学校図案科を卒業した。同年都路華香に師事し、西陣織の染織図案を研究した。昭和7年帝展に初入選し、同11年文展「洛北山川之図屏風」で選奨となった。戦後日展に出品し、24・29年には日展審査員をつとめた。同年京都市立美術専門学校に勤務し、翌年助教授、31年教授に就任し、後進の指導にあたったり又染織工芸に新風を吹き込んだ。

早川慶五郎

没年月日:1966/02/03

無形文化財技術保存選定保持者の早川慶五郎は、2月3日老衰のため名古屋市の自宅で死去した。享年86才。愛知県に生れ、70年間七宝焼の線付け師として活躍し、昭和28年無形文化財に選定された。同35年黄綬褒章、39年11月勲六等瑞宝章を贈られた。

河村熹太郎

没年月日:1966/01/18

日展会員の陶芸家河村熹太郎は、1月18日午後10時、鎌倉市の自宅で脳出血のため死去した。享年66才。河村熹太郎は、京都の陶芸家の家に生れ、大正末期から昭和初期にかけて、新進陶工の集団「赤土同人」さらに「燿々会」に関係して保守的な京都陶芸界の改新につとめ、昭和10年には従来の帝展工芸の傾向にあきたらず生産的工芸に新境地を開拓する目的で結成された「実在工芸美術会」(高村豊周、内藤春治など)に同人として参加した。戦後は愛知県猿投山に開窯、さらに鎌倉に新窯を開いて製陶していた。略年譜明治32年(1899) 4月14日、京都市粟田に生れる。大正9年 陶芸集団「赤土同人」を創立、新しい陶芸の運動をおこす。昭和2年 帝展に新設された第四部工芸に「花瓶」「青絵皿」の2点入選。河村蜻山、河合栄之助、楠部弥一らと燿々会を結成。昭和3年 9回帝展に「大瓶」入選昭和4年 10回帝展に「白瓷花瓶」入選昭和10年 10月「実在工芸美術会」創立に同人として参加。京都市嘱託となり陶磁研究のため中国・朝鮮を視察旅行。昭和11年 実在工芸美術会第1回公募展を都美術館にて開催。昭和12年 第1回新文展に「八方形染付富貴国香之図花瓶」「金襴手雲模様八角捻水指」を出品して後者が特選となる。パリ万国博に「八角形染付菊花食籠」を出品、名誉賞を受賞。昭和18年 第6回文展で審査員昭和24年 第5回日展審査員昭和25年 愛知県西加茂郡の猿投山山麓に散在する異色ある陶土に魅力を感じ新境地を開拓しようとして京都市五条坂の陶房を猿投町平戸橋畔に移す(さなげ陶房)。フランスにおける日本陶芸展に出品「方形鉄絵皿」がチェルスキー美術館に収蔵される。昭和31年 愛知県教育委員会より表彰さる。昭和32年 愛知県学術文化功労者として表彰される。昭和33年 中日文化賞を受賞。昭和36年 鎌倉のもと北大路魯山人陶房跡に新窯其中窯を築き、さなげ陶房における研究の実験工房として「茶碗道場」の創設に着手する。昭和38年 4月、其中窯初窯による個展を東京・三越において開催する。昭和40年 備前焼の研究作品を中心に其中山房において個展を開く。12月(美術出版社)を出版。昭和41年 1月18日死去。

栗山文次郎

没年月日:1965/06/26

紫根・茜染め伝承者、無形文化財(人間国宝)指定の栗山文次郎は、6月27日午後11時40分、秋田県鹿角郡の自宅において脳軟化症のため死去した。享年77才。明治20年10月17日秋田県花輪に生れる。栗山家は、曽祖父は盛岡藩士であったが、その一族の中から秋田屋という店舗を開き、永く紫根染を家業のひとつとしてきたのであるが明治維新期に一時休止のやむなきにいたっていた。明治36年11月1日、父の先代文次郎の死により家業の呉服商を継いだが、古来の名産の杜絶えるのを憂い、古代紫根染(かづのむらさき)の復興に着手して工場を再建、染色事業を開始した。大正年間には東京三越に多量出陳して好評を博したが、化学染料の進歩によって大正13年倒産、以後事業を縮少し、また郷土の後援で小規模に製作を維持してきた。昭和4年、伊勢神宮遷宮式にあたり御用染物の命をうけた。昭和19年、商工大臣より「技術保存資格者」の指定をうける。昭和28年文化財保護委員会より、「助成の措置を講ずべき無形文化財」の指定をうけた。昭和35年文化財保護委員会より表彰を受け、39年10月黄綬褒章をうけた。

島野三秋

没年月日:1965/05/17

漆工芸家島野三秋、本名新太郎は5月17日直腸ガンのため、大阪市の自宅で没した。享年88才。明治10年7月金沢市に生れ★漆を県立工業学校漆工科の鶴田和三郎に、蒔絵を松岡吉平に、また日本画を岸浪柳渓に学んだ。明治37年27才のとき大阪市へ移住、一時京都鳴滝に静養したこともある。なお21才の折シカゴ万国博覧会に出品受賞して以来、大正14年(1925)パリ万国博、ベルギー万国博、昭和14年(1939)ニューヨーク万国博などに出品各各受賞している。また大正4年以来、12年、昭和3年、4年、7年と大阪府及び大阪市よりの献上品を謹作、昭和9年には帝国美術院の推薦をうけ、16年文展審査員となり以来毎年無監査待遇となった。戦後は日展に出品し35年に日展出品依嘱者となった。作風は枯淡、清雅の中に斬新な力強さがあり、独得の青海波描の特技をもっていた。昭和37年四天王寺の香合が終生の力作となった。大阪漆芸界の長老として大阪工芸協会理事。関西展審査員などを歴任、斯道の発展に尽し、39年全国漆工団体より功労賞をうけている。

河合瑞豊〔3代〕

没年月日:1964/12/09

陶芸家河合瑞豊は、12月9日、京都市東山区の自宅で狭心症のため逝去した。享年51才。本名喜太郎。京都市立美術工芸学校卒業、昭和31年日展特選、32年三代瑞豊を襲名、33年から屡々日展出品依嘱者となっている。現代工芸美術協会会員。

藤井達吉

没年月日:1964/08/27

藤井達吉は、明治14年6月14日愛知県碧海郡に生れた。18才の時、名古屋の服部の七宝店に入り七宝制作を学び、明治37年24才のときポートランド博覧会出品のため渡米、翌年帰国し広く工芸全般に亘る研究に精進した。日本美術協会会員、また正木直彦を会頭とする吾楽会の会員であった。大正元年、第1回フューザン会展に参加して刺繍壁7点を出品したが殆ど公募展には出品しなかった。大正12年頃から伝統工芸の技法研究に入り“鳥毛立女屏風”(御物)の手法を探研した作品などがある。昭和16年真鶴に移り、更に第二次大戦中小原村、更に25年碧南市に疎開した。制作の巾は絵画、彫刻、工芸の面では七宝はもとより、刺繍、金工、漆工、染色、紙工芸などに亘り、ことに紙漉きの過程中に染色したこうぞ等の繊維を漉き重ね、紋様を作りだす独特の漉き込み和紙は近年小原の特産となっている。昭和30年以来、所蔵の古美術品と自作など約2,000点を愛知県文化会館に寄贈している。8月27日黄だん、急性気管支炎のため没した。享年83才。

磯井如真

没年月日:1964/08/23

重要無形文化財保持者、磯井如真、本名雪枝は、明治16年3月19日香川県高松市に生れた。同36年3月香川県工芸学校用器漆工科卒その後山中商会で漆工技術を磨き、香川県立工芸学校、或は県立工芸技術研究所に勤務した。昭和8年文展初入選以来、毎年入選をつゞけ、戦後は日展に出品し、24年日展審査員となった。又、28年には、その独自の技術、蒻醤が女性の措置を講ずべき無形文化財として選定された。蒻醤とは、タイ、ビルマ地方において特異な発達を遂げた漆芸線彫加飾の技法、漆器の面で刀で模様を線彫しその中に色漆をうめて模様を表現する方法。日本には室町時代に渡来、利休茶会記にもかな書で「きんま手」とあり珍重された。わが国では文政年間名工玉楮象谷が松平家の保護によりそれにともなう藍胎漆器と共に製作し以来高松地方の特殊漆芸として伝承されたもの。如真の代表作には、きんま八角盆、彫漆しやくなげ(手箱)などがある。略年譜明治16年 3月19日香川県高松市に出生。明治36年 3月香川県工芸学校用器漆工科卒。明治36年 4月大阪市北区山中商会入社漆工芸技術を修得。明治42年 高松市に於て自営。大正5年 9月香川県立工芸研究所教諭心得を命ぜられる。昭和4年 2月香川県立工芸研究所技術師嘱託。昭和8年 文展入選。昭和11年 文展特選。昭和14年 同特選。昭和15年 同無鑑査となる。昭和24年 日展審査員。昭和28年 助成の措置を講ずべき無形文化財として選定。昭和28年 4月岡山大学教授。昭和30年 第2回伝統工芸展にて文化財保護委員会委員長賞。昭和36年 紫綬褒章を受章。昭和39年 8月23日脳出血のため高松市の自宅で逝去した。享年81才。

堂本漆軒

没年月日:1964/07/29

漆工芸家、堂本漆軒は明治22年11月3日京都市で生れた。本名五三郎。富田香漆に師事し漆芸を学んだ。昭和3年第9帝展が初入選となり、そのご屡々入選をつづけ、昭和18年までに文帝展入選8回、戦後は日展に作品を発表し、26年以来出品依嘱、29年第10回日展審査員晩年は日展評議員をつとめていた。官展以外は京都市展、京都工芸展などにも出品し、京都工芸作家協会理事、全日本工芸美術家協会京都支部の要職をつとめるなど長老として京都漆芸界の発展に大いに尽力した。日本画家、堂本印象の実兄にあたる。

魚住為楽

没年月日:1964/07/15

重要無形文化財保持者、魚住為楽は、明治19年12月20日、石川県小松市に生れた。明治40年6月から翌41年9月大阪久保田鉄工所に入所、金工業を学び、41年11月から大正5年まで天王寺区寺町山口徳蔵について仏具製作修業のかたわら鈴の鋳造について研究、24才からまた、金沢にて銅羅について独学研究をはじめた。昭和10年から19年まで、正木直彦、香取秀真について砂張鋳造を研究し、11年第1回帝展に1尺2寸の銅羅を出品した。同12年、1尺8寸、余韻1分16秒の銅羅「銘雲の井」を完成。13年から14年にかけて法隆寺夢殿厨子ヤリカンナ施工、昭和27年、銅羅制作の技術は無形文化財に選定された、更に30年2月15日重要無形文化財に指定された。なお28年には石川県知事賞をうけている。39年7月15日胃ガンの受逝去、25日従五位勲四等旭日小綬章を贈られた。

田中朝吉

没年月日:1964/05/15

七宝焼図案師田中朝吉は、5月15日名古屋市の自宅で、ボウコウ炎とカタル性肺炎のため死去した。享年87才。愛知県出身。一時東京美術学校で日本画を学んだが、七宝焼デザインに専心し、皇室、外国貴賓への贈答用の七宝焼の大部分を手がけ、昭和32年無形文化財を指定された。昭和31年に黄綬褒賞、同40年第一回の生存者叙勲で勲六等単光旭日章をうけた。

奥村博史

没年月日:1964/02/18

もと国画会洋画会員で金工家でもある奥村博史は、2月18日東京都世田谷区関東中央病院で急性骨髄白血病のため死去した。享年72歳。神奈川県に生れ、17歳のとき画家を志したが、父に許されず、19歳の春家出して日本橋浜町の奇寓から水道橋の日本水彩画会研究所に徒歩通学して絵を学んだのち日本各地、中国を旅行しながら描く。はじめ二科会に出品、うち国画会にうつり、国画会同人、日本水彩画員会となる。晩年は無所属。夫人明子は、筆名平塚らいてうで、自伝「めぐりあい」がある。略年譜明治22年 10月4日藤沢に、奥村市太郎の長男として生れる。藤沢小学校、逗子開成中学校卒業。明治42年 上京。大下藤次郎主宰の日本水彩画研究所に入学、水彩画を学。大下藤次郎逝去後油絵に転向。明治45年 巽画会に初めて油絵「青いリンゴ」を出品、受賞。大正3年 日比谷美術館で第一回油絵個展開催。第1回二科展に油絵「灰色の海」出品入選、続いて「畑」「植物園?」など初期の二科展に連続出品、入選。中途で、孤独を守るようになり、以後個展以外にはあまり発表しない。大正14年 日本水彩画会会員に推薦される。成城学園の画の教師となる。昭和5年 この頃、自宅アトリエで、デッサンの勉強会を毎週開く、武者小路実篤他、新しき村美術部のメンバー等集る。昭和7年 油絵個展を交詢社4階で開催。昭和8年 冨本憲吉氏に勸められ自作の銀指環を国展に出品、受賞。国画会会員に推薦される、以来画業とともに指環の制作は晩年まで続く。昭和9年 大阪天賞堂画廊で油絵小品と指環の個展開催。昭和11年 日本水彩画研究所時代からの旧友赤城泰舒氏と中国へ写生旅行。上海滞在中制作した臨終の魯迅像(油)は現在上海魯迅記念館蔵。昭和12年 大阪の中村ギャラリーで第2回指環個展開催。この頃から戦争に入るまでの間に、新交響楽団のバッヂ、文化学院の卒業記念のクラスリング等も制作。どの団体に所属することも好まなかったが、戦後新しき村美術部の会員となり、稀に村の展覧会に油絵デッサンを出品。昭和28年 晩年の10年の裸婦デッサンが千枚ほどに達したので、整理して二・三冊のデッサン集を作る企画中発病入院。昭和39年 2月18日死去11月、「奥村博史素描集」出版、(奥村博史遺作集刊行会編、平凡社発行)昭和40年 10月「奥村博史わたくしの指環」出版。(奥村博史遺作集刊行編、中央公論美術出版刊行)

岡部達男

没年月日:1964/01/29

彫金家岡部達男は、1月29日文京区の自宅で脳腫ようのため死去した。享年62歳。明治35年6月22日東京市本郷に生れ、大正14年東京美術学校金工科卒業。昭和5年帝展入選、同8年特選をうけ、同12年無鑑査になった。昭和18年文展第4部審査員昭和24年以来3回日展審査員をつとめ、33年から日展評議員となる。全日本工芸美術家協会委員も兼ね、日本彫金会にも関与していた。

板谷波山

没年月日:1963/10/10

陶芸家、日本芸術院会員、文化勲章受賞者板谷波山は10月10日直腸ガンのため自宅で死去した。享年91才。略年譜明治5年(1872) 3月3日、茨城県下館市に生まれる。本名嘉七。生家は醤油醸造業を営む旧家で、父善吉は半癡と号し風流文事を愛し南画を描いた。母は宇多子、波山はその三男である。明治15年(1882) 7月、父善吉没す。明治18年(1885) 下館小学校卒業。明治20年(1887) 上京し成城学校(陸士予備校)に入学。明治21年(1888) 陸士予備試験の体格検査に不合格、軍人志望を断念、下宿の近所の河久保正名の画塾に通う。明治23年(1890) 東京美術学校に入学。明治27年(1894) 東京美術学校彫刻科を卒業。同予備校美術学館彫刻科に教鞭をとり、同時に攻玉舎中学図画経師を兼ねる。卒業制作「元禄美人」(木彫)明治28年(1895) 瓜生岩子媼の媒酌により福島県出身の鈴木まると結婚、新居を本郷に構える。明治29年(1896) 9月、白井雨山氏の勧めにより石川県立工業学校木彫科主任教諭として金沢に赴任。31年木彫科廃止のため辞職を決意したが、校長の要望により陶磁器科を担当。この間約7年焼物の研究に没頭した。当時勤川と号した。明治33年(1900) 9月、母宇多子没す。明治36年(1903) 陶芸作家を決意し、8月石川県立工業学校を退職、9月上京、東京高等工業学校窯業科嘱託となる。東京田端に住家、工房をつくり、11月3日移住。このころより波山の号を使用す。明治37年(1904) 平野耕輔氏の指導により、三方焚口の洋風倒焔式丸窯を夫人まると2人で築き、1年3カ月で完成す。ロクロ工人として深海三次郎(有田出身)工作を手伝う。明治39年(1906) 4月、初窯を焼上げ好成績を得る。明治40年(1907) 1月、第2回窯は地震の被害をうけ、完全な作品は、「窯変瓢型花瓶」1点のみ。内国勧業博覧会美術部に出品、入賞。出品作「窯変瓢型花瓶」「染付百合花図花瓶」「錆釉八ツ手葉花瓶」明治43年(1910) 第1回東京美術工芸展審査員となる。深海三次郎中国に招聘され、現田市松(石川県小松出身)後任となる。明治44年(1911) 9月、窯業共進会へ出品、一等賞金牌を受く。「フキの葉文花瓶」「菊花図飾皿」「蝶貝名刺皿」東京勧業展審査員となる。大正2年(1913) 7月東京高等工業学校嘱託を辞職。マジョリカ陶器を製作。夫人まる協力し作銘玉蘭を用う。東京府工芸展に花瓶を出品、八百円で東京府買上となり、名声を挙ぐ。「彩磁花鳥文花瓶」(東京府工芸展出品)「貝水指」このころインド、ペルシャなどのサラサ文様に興味をもち図案に取入れる。大正3年(1914) 3月東京大正博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「彩磁花鳥文花瓶」(大正博出品)大正4年(1915) 東京府工芸図案会審査会委員となる。シカゴ市博覧会に「笹葉文花瓶」を出品受賞。大正天皇御大典にさいし、東京市献上品「東京十五景」のうち、磁製扇面浅草観音風景額を作る。大正5年(1916) 「白磁八ツ手葉彫文花瓶」大正6年(1917) 日本美術協会展覧会に出品金牌第1席を受賞。「葆光彩磁珍果文花瓶」(日本美術協会展)『白磁瑞獣香炉』大正8年(1919) 「葆光彩磁紅牡丹文花瓶」大正9年(1920) 「彩磁獅子騎乗童子文大花瓶」大正10年(1921) 「葆光彩磁草花文花瓶」大正11年(1922) 3月平和記念東京博覧会審査員となる。出品作宮内省買上。「白磁宝相葉彫文花瓶」(平和博出品)大正12年(1923) 12月摂政宮殿下御成婚を祝し、久邇宮家献上の「彩磁瑞鳳文花瓶」及全国文武官献上の「彩磁松竹梅花瓶」を作る。「窯変天目茶碗」「肩衝茶入」大正14年(1925) 大正天皇御成婚25年奉祝の文武官献上文房具中硯屏および筆架をつくる。小型磁器焼成窯を築く。工芸家にて工芸済々会を結成、11月第1回展を高島屋にて開催。「紅棗磁花瓶」(第1回工芸済々会展出品)「葆光彩磁呉須模様鉢」昭和1年(1926) 「葆光彩磁葡萄文香炉」(第2回工芸済々会出品)昭和2年(1927) 東京府美術館開館記念聖徳太子奉讃展覧会審査員となる。6月帝国美術院展覧会に工芸部新設され、その委員。7月帝展審査員となる。茨城工芸会を主催し現在に至る。関東在住の陶芸作家の団体東陶会結成され、それを主宰、現在会長として在任、「氷華磁瑞花文大花瓶」「葆光彩磁禽果文大花瓶」(奉讃展出品)「紫金磁珍果彫文花瓶」(帝展出品)昭和3年(1928) 9月帝展審査委員となり、出品作は院賞を受く。「彩磁草花文花瓶」(帝展出品)「白磁枇杷彫文瓶」昭和4年(1929) 帝国美術院会員となる。「彩磁唐花文様花瓶」(帝展出品)昭和5年(1930) 10月フランス政府よりバルム・オフィシェー・アカデミー賞を贈らる。「彩磁草文様花瓶」(帝展出品)昭和6年(1931) 「彩磁柘榴文花瓶」(帝展出品)昭和7年(1932) 帝展出品の「彩磁草花文花瓶」政府買上。「彩磁花卉文花瓶」「葆光彩磁草花文花瓶」(帝展出品)昭和8年(1932) 帝展出品作政府買上。「黄飴瓷文壺」(帝展出品)昭和9年(1934) 12月帝室技芸員を拝命。昭和10年(1935) 帝国美術院改組にさいし会員となる。「葆光彩磁草花文花瓶」「窯変鶴首花瓶」(帝展出品)昭和11年(1936) 「淡紅磁四方香炉」(文展出品)昭和12年(1937) 6月帝国美術院、帝国芸術院と改組、会員となる。「彩磁名華文花瓶」昭和13年(1938) 「朝陽磁鶴首花瓶」(文展出品)昭和14年(1939) 「彩磁水差」(文展出品)昭和15年(1940) 紀元2600年展覧会審査員となる。「彩磁山草文水差」(2600年展出品)昭和16年(1941) 学士会館において全工芸美術家による古稀の祝賀宴を受く、長岡市の有志により古稀記念の作品展開催、「彩磁草花文花瓶」(文展出品)昭和17年(1942) 「白磁延寿文様花瓶」(文展出品)昭和20年(1945) 4月、戦災により住居工房全焼、下館市に移住し、茨城県筑波郡菅間村洞下に仮工房を設け制作を続行。「黒飴瓷仏手柑彫文花瓶」(日展出品)昭和21年(1946) 「彩磁唐華文水差」(日展出品)昭和22年(1947) 「彩磁草花文花瓶」(日展出品)昭和23年(1948) 「白磁牡丹彫文花瓶」(日展出品)昭和24年(1949) 「凝霜磁蓮口花瓶」(日展出品)昭和25年(1950) 東京旧地に工房を再建、現窯を復興。「蛋殻磁鳳耳花瓶」「彩磁美男蔓水指」(日展出品)昭和26年(1951) 3月、下館市名誉市民に推挙される。「祥桃瑞芝文花瓶」(日展出品)昭和27年(1952) 「蚕殻磁呉須絵鯉耳花瓶」(日展出品)昭和28年(1953) 6月下館小学校に胸像建立さる。11月文化勲章を受く。「彩磁桔梗文水差」(日展出品)昭和29年(1954) 3月、茨城県名誉県民に推挙さる。「黄磁枇杷彫文花瓶」(日展出品)昭和30年(1955) 「彩磁桜草文水差」(日展出品)昭和31年(1956) 5月、水戸市にて大観・波山展を開催。「銅燿磁唐花文花瓶」(日展出品)昭和32年(1957) 「簸釉草文花瓶」(日展出品)昭和33年(1958) 8月、夫人まる病没。10月、日本橋三越においてはじめて個展を開催。「青磁瓢花瓶」「彩磁花禽文水指」昭和34年(1959) 4月、東京会館において米寿賀宴催さる。「凝霜鯉耳水指」(東陶会出品)

稲垣稔次郎

没年月日:1963/06/10

染織家 月本工芸会理事・無形文化財技術保持者稲垣稔次郎は6月10日京都府立医大附属病院で移動性ガンおよびガン性助膜炎で死去。享年61才。彼は明治35(1902)年3月3日京都府右京区に日本画家を父として生まれた。大正11(1922)年3月京都市立美術工芸学校図案科卒業、同年11月松坂屋図案部に勤務して高級衣裳のデザインに従事したが、昭和6(1931)年5月退職し、それ以後作家生活に入った。昭和15年国画会に「西瓜の図」を出品して国画賞受賞、同16年文展に「善隣譜」出品、特選、同18年同じく文展出品の「牡丹の図屏風」で特選となり、同21年日展出品「糊絵屏風松山之図」で三たび特選となった。昭和22年富本憲吉と国画会を退会して新匠会を組織した。昭和23年第1回個展ではじめて型絵染を発表した。24年京都市立美術専門学校講師、26年日展審査員、27年京都市立美術大学助教授となり、33年同大学教授、37年には型絵染の技術に対して無形文化財の指定をうけた。

富本憲吉

没年月日:1963/06/08

京都市立美術大学々長、文化勲章受章者富本憲吉は、6月8日午前9時、大阪府立成人病センターで肺癌のため逝去した。享年78才。明治19年6月5日奈良県生駒郡に、富本豊吉の長男として生れた。東京美術学校図案科建築部を経て、ロンドンに留学して室内装飾を学んだ。明治44年帰国し、翌年イギリス人バーナード・リーチと共に六世尾形乾山に師事して陶芸の道に入った。のち郷里の安堵村、つづいて東京世田谷に窯をきずいて制作にふけった。昭和2年には国画創作協会に工芸部を設け、同9年帝国美術院会員、同12年帝国芸術院会員に推された。戦後、芸術院会員、母校教授を辞して京都に移り、制作にはげむと共に新匠工芸会(のち新匠会と改称)を結成し、また京都市立美術大学の教授となり、最晩年には学長に推された。昭和36年、永年陶芸界につくした功績によって文化勲章を授けられた。はじめ、柳宗悦等の民芸運動に参加したが、のちには白磁或いは金銀彩の豪華な作品を創造し、極めて秀れた作品が多い。併し、晩年自己の一品制作にあきたらず、陶工をして模造品を作らせて市販したことは、かつてウィリアム・モーリスに私淑した精神を生かしたものである。略年譜明治19年 奈良県生駒郡、富本豊吉長男として生れ。家は法隆寺々侍の出であった。明治37年 奈良県立郡山中学校を卒業、東京美術学校図案科建築部に入学。明治41年 在学中卒業制作を提出して、英国に室内装飾研究のため私費留学した。ロンドン市立セントラル・スクール・オブ・アーツのステンドグラス科に入学、かたわら古代ペルシャ陶器、エジプト美術を研究した。英国留学はウィリアム・モーリスの思想と工芸の仕事に興味をもったためという。明治42年 東京美術学校図案科建築部卒業。明治43年 回教建築研究のため、農商務省より印度派遣。明治44年 英国より帰国。暫時清水組にて建築設計に従事、のち木版画、染織に専心、在日中の英人バーナード・リーチと親交を結ぶ。明治45年 バーナード・リーチと共に楽焼を始める。(六世尾形乾山をリーチに紹介し、その通訳をしているうちに、自分でもはじめるようになった。)大正2年 郷里安堵村に楽焼窯を築く。大正3年 東京で第1回楽焼試作展をひらく(楽焼研究も堂に入り始め、赤楽地に自宅井戸端の柘榴を線彫りにした花瓶等多く作成。大正4年 安堵村に本窯を築く。大正5年 安堵村周辺の風景の中より「竹林月夜」「大和川急雨」「曲る道」等と題する模様を創作する。大正8年 信楽焼研究のため近江へゆく。日常陶器の多量生産に関心があった。染附、白磁と手がけ始める。大正9年 肥前波佐見焼研究のため、家族を長崎に移し、中尾山波佐見、有田窯へ通う。大正11年頃 染附、老樹図陶板の作がある。陶板なる語を創案する。大正12年 朝鮮に赴き、清涼里、浅川巧宅に滞在し、李朝白磁、象嵌等研究する。大正15年 東京府北多摩郡に本窯を移し居住。野草花、洋花、小鳥などを写生して模様化し、染附、象嵌、技臘、色絵等にて大鉢、大皿、中皿、飾筥、花生等に昭和21年頃まで絵付する。昭和2年 4月、第6回国画創作協会に工芸部、彫刻部が新設され、すでに会員となっていたので工芸部を担当した。昭和3年 国画創作協会第1部(日本画部)解散。他の部門は国画会と改称して再出発した。昭和9年 帝国美術院会員となる。(この間東京の冬季の陶土凍結をさけ、九谷、信楽、益子、波佐見、京都、瀬戸等各地の陶業を研究、九谷では10カ月滞在して本格的上絵の研究をすすめる。)昭和19年 東京美術学校教授となる。昭和20年 学生と共に高山市に疎開し、終戦と同時に帰京、芸術院会員、東京美術学校教授等の一切の公職を辞退して、郷里の旧居に移り水墨画にしたしむ。昭和22年 国画会を脱退し、新匠工芸会を結成する。昭和23年 第1回新匠工芸会開催(東京高島屋)昭和24年 京都市立美術専門学校客員教授となる。京都市上京区に居住。花「白雲悠々」「風花雪月」等の文字を模様として作品に入れ始める。昭和25年 京都市立美術大学教授となる。この頃米国在の日本大使館に買上げの金銀彩蓋付壺に始めて銀に白金を混ずる事に成功、作品に色絵金銀彩椿図陶板(大原美術館蔵)、自作陶器図案50図画帖(大原美術館蔵)、自作陶器図案百図画帖(岐阜某氏蔵)等がある。昭和26年 新匠工芸会で新匠会と改称、羊歯を連続模様にすることに約1年かかって成功。作品に金銀彩羊歯文蓋付飾壺(文化財保護委員会蔵)、色絵四辨花蓋付飾壺(英国日本大使館買上)等がある。昭和30年 第1回の重要無形文化財保持者(色絵磁器)の設定をうける。11月作陶45周年記念展を東京高島屋に開く。作品に金銀彩四辨花模様八角大飾筥(文化財保護委員会蔵)等がある。昭和35年 作品に金銀彩羊歯文蓋附飾壺、色絵四辨花飾筥、大飾皿、染附竹林月夜大飾皿(各宮内庁買上げ)等がある。昭和36年 文化勲章を授与される。作陶50年記念展を東京高島屋で開く。作品に金銀彩羊歯文飾筥、染附絵替り組皿5枚、染附色絵並用絵替り組皿5枚(各文化財保護委員会蔵)等がある。昭和37年 6月、京都市東山区に移る。作品に金銀彩四辨花飾筥(イタリー、ローマ・アカデミー蔵)、金銀彩描きおこし四辨花文蓋附飾壺(文化財保護委員会蔵)等がある。昭和38年 3月、京都市立美術大学教授を定年退職。5月同大学学長となる。6月8日肺癌のため死去。78才。叙従三位。勲二等旭日重光章を授与される。昭和39年 6、7月大阪大丸、京都伊勢丹、倉敷大原美術館に於いて「富本憲吉陶芸展」開催。著作目録富本憲吉模様集(版画) 大正4年 田中屋富本憲吉模様集 大正12年 自家限定版窯辺雑記 大正14年 文化生活研究会富本憲吉模様集 昭和2年 文化生活研究会楽焼工程 昭和5年 采文閣模様寸感(自刷) 昭和6年 自家限定版富本憲吉陶器集 昭和8年 自家限定版製陶余録 昭和15年 昭森社陶器 昭和23年 朝日新聞社富本憲吉陶器集 昭和31年 美術出版社富本憲吉模様選集 昭和32年 中央公論社自選富本憲吉作品集 昭和37年 朝日新聞社

沢田宗山

没年月日:1963/03/08

陶芸家沢田宗山は明治14年5月31日京都市で生れた。本名誠一郎。京都美術工芸学校に学び、更に東京美術学校図案科に学び明治36年卒業、翌年、京都市の留学生として渡米、コロンビヤ大学に招かれ同美術部で講義をもちつつ日本図案研究所を設置した。40年帰国したが再度渡米、41年帰国して沢田図案研究所を設け各会社の嘱託となっていた。大正6年京都伏見桃山陵の西麓に陶窯を築き作陶に着手、以後、図案並びに作陶の仕事に従事、大正10年大蔵省の依頼を受け50銭銀貨の図案を作成している。昭和3年帝展特選をうけ、5年から帝展審査員、或は京都美術工芸展審査員などを嘱託され作品を出品、又、10年以後は個展に重きをおき作品を発表していた。昭和38年3月8日逝去。

酒井田柿右衛門〔12代目〕

没年月日:1963/03/07

陶芸家、無形文化財技術保持者12代酒井田柿右衛門は3月7日、佐賀県西松浦郡の自宅で老衰のため死去した。享年84才。彼は明治11(1878)年9月9日に生れ、有田工業学校の前身である有田徒弟学校を卒業し、父11代について陶芸技術、とりわけ図案を学び、一方南画も5年間習っている。昭和28(1953)年、初期の柿右衛門が創りだした濁白手(にごしで)素地の技法が中絶していたのを再現することに成功した。その技術は昭和30年3月に無形文化財として指定された。昭和25年日本貿易産業博覧会に優勝、同36年日本伝統工芸展に日本工芸会長賞、同32年同展文化財保護委員会委員長賞、同33年万国博覧会(ブリュッセル)グランプリ等を受賞している。

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