本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





根来實三

没年月日:1975/04/30

重要文化財・茶の湯釜(肌づくり)技術保持者で日本工芸会正会員の鋳金家根来實三は、老衰のため、4月30日、横浜市の自宅で死去した。享年86歳。明治21年11月20日和歌山県生まれ、明治38年大阪郵便局通信生養成所を卒業。茶の湯釜の美しさにひかれ当時裏千家の御用釜師であった佐々木彦兵衛の門に入り修行し、後に裏千家の御用釜師となった。大正14年8月末に上京し、同年9月始めから当時帝室技芸員で東京美術学校教授の香取秀真に師事する。文展無鑑査となる。戦後、昭和21年の第2回展で「四方釜」が特選となる。昭和27年の第8回日展では出品依嘱、その時の作品は「濤々釜」。茶釜づくりの名工として昭和48年3月27日重要無形文化財に指定され、同年勲四等瑞宝章を受章した。自らを「未熟者だから」と弟子はとらなかった。

井上治男

没年月日:1975/04/18

日展評議員・日本現代工芸美術協会理事・陶芸作家の井上治男は、心筋梗塞のため、4月18日、京都市の自宅で死去した。享年65歳。明治42年12月1日京都市生まれ。京都市立陶磁器講習所終了。5,6代清水六兵衛に師事。磁器に秀で、昭和7年第13回帝展に初入選、以後連続入選。戦後昭和27年の第8回日展で「白磁花瓶」が北斗賞、昭和29年の第10回日展で「白磁花瓶」が特選、第4回現代日本陶芸展で「青白磁花器」が朝日新聞社賞を受賞した。昭和32年の第13回日展からは出品依嘱となる。その後関西綜合美術展、京都府・京都市美術展の審査員をつとめ、昭和34年第2回展昭和39年の第7回日展の審査員、第3回現代工芸美術展の審査員もつとめた。第1回個展を昭和39年に日本橋・三越で、第2回個展を昭和40年に同じく日本橋・三越で行った。代表的な主要作品は前記第10回日展で特選となった「白磁花瓶」及び第4回現代日本陶芸展で朝日新聞社賞受賞の「青白磁花器」である。

坂倉新兵衛

没年月日:1975/04/17

日本工芸会正会員で陶芸作家の萩焼14代、山口県指定無形文化財萩焼保持者の坂倉新兵衛(本名治平)は、胃癌のため、4月17日、山口県長門市の長門病院で死去した。享年58歳。大正6年2月28日、山口県長門市に於いて、萩焼12代坂倉12代坂倉新兵衛の三男として生まれた。昭和9年山口県立萩商業学校を卒業。昭和21年長兄光太郎戦死のため、家業に従事する。昭和25年12代新兵衛死去によって14代新兵衛を襲名する。昭和36年の「第8回日本伝統工芸展」に入選し、以後10回入選、昭和41年に日本工芸会正会員となった。昭和36年より大阪の高島屋で、昭和37年より東京の高島屋で、双方で毎年個展を開催した。昭和39年には東京国立近代美術館主催の「現代国際陶芸展」に招待出品、昭和42年には山口県芸術文化振興奨励賞を受賞、昭和43年には山口県美術展の審査員、昭和44年の毎日新聞社主催の「日本陶芸展」に招待出品、以後連続して同展に招待出品、昭和46年に中国新聞社の中国文化賞を受賞、昭和47年に山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定された。昭和49年には芸術文化功労者として山口県知事選奨を受賞した。主要作品には、東京国立近代美術館蔵(昭和50年買上)の「萩八角菊文様食籠」、文化庁蔵(第16回日本伝統工芸展出品作、昭和44年買上)の「茶碗」、山口県立美術館蔵の「平水指」、迎賓館展示室へ山口県献納品として献納された(昭和49年)「茶入」、滋賀県立琵琶湖文化館蔵(昭和46年買上)の「茶碗」、紀州博物館蔵(昭和45年買上)の「茶碗」「水指」「茶入」等があり、萩焼技法の古式を継承する第一人者で、端正な気品と温かみの溢れるような柔らかな美しさが「新兵衛茶陶」といわれ愛好されている。

氷見晃堂

没年月日:1975/02/28

木工芸家、重要無形文化財保持者の氷見晃堂は、2月28日午後2時5分、胃ガンのため金沢市の石川県立中央病院で死去した。享年68歳。明治39年10月30日金沢市に生まれた。本名与三治。雅号の晃堂は、自分でつけ、昭和18年頃より使用した。大正10年3月金沢市小将町高等小学校の高等科を卒業したが、当時、陸軍の種々ご用達をつとめていた御用商人の祖父や父が商人よりも他人の世話にならぬ手職を身に付けた方がよいという考えにしたがい、近くの指物師北島伊三郎について指物技術を3ヶ年修業した。さらに唐木細工で献上品などを製作していた池田作美に私淑し種々指導を仰ぎ、殊にデザイン面での強い影響をうけた。大正15年石川県工芸奨励会美術工芸展に「三重棚」を出品、準会員に推薦された。この年、江戸時代に途絶えていた砂みがき法を復活するなど、以後ほとんど独学研究によって古くから伝わる加賀指物の技法を再発掘し、現代に生かしてきた。昭和3年には石川県工芸奨励会正会員に推薦された。主として生活調度としての火鉢、棚、莨盆などの製作に長技を発揮して知られたが、中央展出品の活動は、戦後にはじまったといってよい。戦後第2回の日展(昭和21年)に初入選以来、第13回までの日展に11回入選、昭和30年から日本伝統工芸展に出品するようになり、昭和49年の第21回日本伝統工芸展までに18回入選、その間2回奨励賞、1回特別賞(第20回展「大般若理趣分経之箱」20周年記念特別賞)をうけ、審査員を第18回と第21回に、鑑査員を第8回から第13回、第15回から第18回、第20回・第21回までつとめた。昭和44年3月19日には、石川県指定の無形文化財(木工芸)技術保持者となり、翌45年4月25日には国指定の重要無形文化財(木工芸)技術保持者、世にいう人間国宝に認定された。前記したように伝統的な指物技術を守るとともに、それを改良工夫して合理的なものとし、やはり「砂磨き」と同様、江戸時代に絶えていた「木象嵌」の装飾技法を復活させ、殊に晃堂独特の加飾法として金銀の線を木肌に象嵌する「線象嵌」や「縮れ象嵌」の技法を創案し、木工芸に新しい息吹をふき込んだのが有名である。

深見重助

没年月日:1974/02/19

有職糸組物師、唐組平緒製作重要無形文化財指定保持者の深見重助は老衰のため、2月19日京都市の自宅で死去した。享年88歳。明治18年3月16日京都市に生まれ、高等小学校卒業後は専ら家業の宮中御用の糸組物技術を習得、13代目であった。わが国でただ1人の唐組技術伝承者で、特に宮中・神社の祭事用装束に用いる平緒を最も得意とし、伊勢神宮の過去4回の式年遷宮に平緒を納めた。また明治神宮、石清水八幡宮、北野天満宮などの神剣に使われている唐組も彼の作で、昭和48年伊勢神宮に納めた平緒が最後の作品になった。 昭和31年4月、重要無形文化財保持者に指定され、昭和35年紫綬褒章、昭和42年4月勲四等瑞宝章、昭和46年11月京都市文化功労賞を受けた。

六角穎雄

没年月日:1973/11/25

東京芸術大学教授・漆芸家の六角穎雄(号は大壤)は心臓マヒのため、12月25日、奈良・東大寺二月堂で絵馬奉納式の席上死去した。享年59歳。大正2年12月21日名古屋に生まれ、昭和12年3月東京美術学校漆工科卒業、日展、伝統工芸展、日本工芸会、ウルシクラフト体などに出品、審査員を歴任し、日本漆工協会常任理事、日本工芸会理事であった。代表作は乾漆蒔絵提盤虚空蔵、和合食篭二段龍鳳文朱溜。 略歴大正2年12月21日 名古屋に生まれる昭和12年3月 東京美術学校漆工科卒業昭和12年~同18年 文部省美術展覧会出品、特選昭和18年昭和21年~同33年 日展出品、特選2回昭和22年5月 東京美術学校工芸科漆工部講師嘱託昭和24年4月 東京芸術大学助教授昭和33年~同34年 日本工芸会出品昭和35年 ウルシクラフト体設立運営委員長昭和37年5月 社団法人日本漆工協会理事長昭和38年以降 日本伝統工芸展、日本工芸会出品昭和43年5月 社団法人日本工芸会理事昭和47年 盛岡産業会館にて個展昭和48年11月 東京芸術大学教授同年11月25日 奈良二月堂にて死亡、正四位勲四等

元橋音治郎

没年月日:1973/09/12

日本工芸会正会員、染色作家の元橋音治郎は、腸閉塞のため、9月12日、京都市の第二日赤病院で死去した。享年75歳。京都市の出身で、小学校を卒業後60余年手描友禅一筋に打ち込み、京都市伝統産業技術功労者となる。元喜屋会長。

八木一艸

没年月日:1973/09/02

陶芸家の八木一艸(本名榮二)は、心肺機能不全のため、9月2日、京都市の京都桂病院で死去した。享年79歳。大阪市出身で、大正初め京都市陶磁器試験所で陶磁を学び、京都陶芸界の古い指導者である。大正9年、楠部弥一らと共に「赤土社」を結成し、わが国近代陶芸の道を開いた。戦後は無所属を通し、特に中国宋風の青磁、均窯などに優れた作品を残した。端正な作風で知られ、ロクロ技術は名人芸といわれた。

鷲頭ヨシ

没年月日:1973/05/14

重要無形文化財・小千谷縮越後上布苧績み技術保持者の鷲頭ヨシは、脳軟化症のため、5月14日、新潟県小千谷市の小千谷総合病院で死去した。享年92歳。新潟県小千谷市の出身で、新潟県魚沼地方に伝わる三百年来の高級麻織物の糸を作る苧績み技術の伝承者。7歳頃から技術を習得し、現在約600人いるといわれる苧績み技術の中でも第一人者といわれ、昭和45年4月にその技術保持者に指定された。

宇野宗甕

没年月日:1973/04/28

陶芸家の宇野宗甕(本名宗太郎)は、心臓麻痺のため、4月28日、京都市の自宅で死去した。享年85歳。京都市出身で、初代宇野仁松の長男、二代仁松を継承した。京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立陶磁器試験場で陶芸を学び、また父の名工初代宇野仁松に師事、中国陶磁、特に南宋の青磁研究家として知られる。セントルイス、ミラノ、シアトルの博覧会で金賞を受賞、昭和27年「辰砂」、昭和32年「青磁」で無形文化財記録保持者に選ばれた。昭和40年紫綬褒章、昭和42年勲四等瑞宝章、京都府美術工芸功労章を受章。作品は東京国立博物館、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、ボストン博物館などに買い上げられている

六谷紀久男

没年月日:1973/04/26

重要無形文化財・伊勢型紙錐彫技術保持者の六谷紀久雄は、喘息のため、4月26日、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年66歳。三重県鈴鹿市の出身で、大正末期から地元の伝統産業、伊勢型紙の彫刻師として厳しい修行を積み、錐彫の技術を受け継ぎ、その第一人者で、昭和30年2月にその技術の重要無形文化財保持者に指定された。自身の技術研究を行う傍ら後継者の育成にも努めていた。

成子佐一郎

没年月日:1973/04/23

滋賀県無形文化財保存会長、県指定無形文化財手漉和紙技術者成子佐一郎は高血圧による肝性昏睡のため、4月24日、大津市の自宅で死去した。享年61歳。明治44年5月7日大津市に生まれ、昭和5年3月近江八幡商業学校を卒業後、手漉和紙製造の技術に専心、近江雁皮紙専門の技術者となる。昭和17年2月には宮内省御用達となり、同18年11月には工芸技術保存資格者に認定、同32年県無形文化財に指定、同42年滋賀県無形文化財保存会長、同43年労働大臣より優秀技能章を受ける。全国手漉和紙連合会に所属、主要作品は平家納経修理による紙、タイムカプセルEXPO70「風俗絵巻」の用紙、桂宮本万葉集複製のための用紙等。昭和50年4月に妻の成子ちかも滋賀県無形文化財に指定された。

横山白汀

没年月日:1972/11/23

木芸家、日展評議員の横山白汀は、11月23日午前8時30分、心不全のため富山県東砺波郡の井波厚生病院で死去した。享年71歳。告別式が26日午前10時から東別院瑞泉寺で行なわれた。明治34年(1901)5月15日、宝歴13年(1764)井波瑞泉寺再建に端を発し200有余年の歴史と伝統をもつ井波彫刻の名家、横山作太郎の長子として生れた。県立高岡工芸学校に学び、若くして美術工芸の道を志した。昭和16年第4回文展に「木目込屏風」が初入選して以来、当時堂塔彫刻を軸に産業工芸一筋に発展していた井波に美術工芸の新風を吹き込み、今日の芸術的な地位にまで高め、日展に多くの出品作家を擁する芸術の町としての名声を身をもって築き上げた先駆者的存在であった。そのように、戦後は終始日展に出品発表を続け、その間、昭和26年7回日展で「北風(三曲スクリーン)」が特選、新日展第2回(昭34)、第7回(昭39)では審査員をつとめ、昭和45年改組第2回日展「鎮魂歌三曲屏風」が会員中の授賞として桂花賞に輝いた。同47年3月日展評議員に推された。一方、昭和36年発足の社団法人現代工芸美術家協会にも参加し、毎年同展に作品を発表すると共に、その海外巡回展ドイツ開催の折には、代表団の一員として渡欧し1カ月半ばかりの期間にヨーロッパ11ヶ国を訪問した。晩年には同協会理事をつとめた。いうまでもなく郷土工芸美術界の振興と発展に尽くした役割と貢献は大きく、常に後進の指導育成と工芸作家の団結に心を注ぎ、井波美術作家協会、現代工芸美術協会、富山会富山県工芸作家連盟の各委員長を歴任した。

道明新兵衛〔7代目〕

没年月日:1972/11/16

東京・上野池之端の組みひもの老舗「道明」の七代目、無形文化財保存記録提出者の道明新兵衛は、11月16日午後2時、心臓衰弱のため東京都台東区の自宅で死去した。享年68歳。告別式は19日午後2時から台東区の東京本願寺で行なわれた。明治37年10月24日東京・上野で17世紀中葉創設の組紐司の家に生れ、少年期より組紐製作に携った。郁文館中学卒業。去る昭和35年、父の六世新兵衛が在世中、国の重要無形文化財に指定された組みひもの技術を記録にまとめた。37年、父六世の死により、七世新兵衛を襲名。またこの年、皇居で皇后に組みひも技術をご進講、以来毎月皇后にお教えした。主要な研究製作に、正倉院遺物組紐復元模造があり、五世が手がけた平家納経の紐の復元を完成した。著書にひもに関する総合的な研究書「ひも」がある。

三浦小平

没年月日:1972/09/08

新潟県佐渡の小平窯で有名な陶芸家三浦小平は、9月8日午前3時28分、腸閉ソクのため佐渡郡相川町の相川病院で死去した。享年73歳。告別式は10日午前10時から同町玉泉寺で行なわれた。明治31年(1898)10月1日新潟県佐渡郡に三世常山(吉原清吉)の二男として生まれた。幼名、博。因みに生家は、祖父三浦常山(初代)が佐渡に開いた無名異焼(むみょういやき)の窯元であって、常山窯としては江戸末期から明治中期にかけての東京における陶芸の名家、三浦乾也に初代から三世まで指導・愛顧を蒙ったという。伯父良平(二世常山)の後を、父清吉が三世を継いでいた。博(のちの小平)は明治37年相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校に進学したが中退して、相川町の史家であり漢学者であった岩木拡(号枰陵)の私塾に通って漢学を学んだ。のちに上京して日本美術学校に入り、洋画を勉強した。更に葵橋洋画研究所に転じて3年間画技の修得に励んだ。当時の多感なこの画学生は、草土社の岸田劉生や中川一政、それに関根正二らのヒューマンな作品に傾倒し、また自分でも人物画をリアルに描こうと試みるなど、その影響を多分に受けた。しかし彼は、自分の画技に対する限界と、画家として立つ経済的困難性を考え、しかも父常山三世の懇請もあって、遂に画家志望を断念し、大正11年帰郷して父のもとで薫陶をうけながら家業に従事することになった。昭和4年12月22日、父が脳溢血で急逝して、その跡目は常山二世(良平)の長男舜太郎が帰郷して常山四世となったので、彼は常山窯をはなれて独立し、翌5年1月、小平窯を創始した。以後、陶芸家としての活躍は、次の略年譜に詳しいが、青年時代に修めた洋画の素養は、後年の作陶に活き、殊にその絵付けにすぐれた特技を現わし、むしろ陶芸家というより陶画家としての本領を発揮し得たといえよう。略年譜明治31年 10月1日新潟県佐渡郡において、三世常山(吉原清吉)の二男として生る。明治27年 相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校、日本美術学校と進学したが、生来の勝気と世相の変転とに影響され破乱の多い青年期を送った。大正13年 父常山の陶業に従事し、立志家業を継いだ。昭和3年 1月、三上イシと結婚する。昭和4年 12月22日、父三世常山死亡する。昭和5年 1月、家督相続について親戚協議を経て小平窯を創設する。昭和23年 日展入選「いか文花瓶」。昭和24年 8月20日、高松宮殿下御来訪。昭和24年 10月黒田陶苑にて第1回個展を開催する。以後、昭和28年第5回個展まで同時期、同場所にて毎年個展を開催。昭和29年 日本橋三越にて第6回個展を開催する。6月、朝日新聞社主催・現代日本陶芸展に招待出品、以来毎回出品する。昭和33年 東京国立近代美術館主催・国際陶芸展に招待出品「渚のリズム大皿」。10月、新潟市小林百貨店において親子三人展を開催。昭和36年 8月、三笠宮殿下御来訪。12月、相川病院に入院、胃かいようを手術す。昭和43年 7月、現代茶陶百家集、現代陶芸図鑑に作品収穫される。昭和44年 12月、現代の茶盌に収録される。昭和45年 第四銀行賞受賞。昭和47年 9月8日午前3時28分死去。勲六等単光旭日章を受ける。昭和48年 10月19・20・21日 新潟県佐渡会館にて遺作展が開催される。

高村豊周

没年月日:1972/06/02

鋳金家、日本芸術院会員、重要無形文化財保持者の高村豊周は、6月2日午前9時42分、気管支肺炎のため、東京都文京区の自宅で死去した。享年81歳。告別式は6日午後2時から文京区の吉祥寺で行なわれた。明治23年(1890)7月1日、高村光雲の三男として東京に生れた。彫刻家、詩人の光太郎は長兄にあたる。18歳で津田信夫の門に入り、大正4年3月東京美術学校鋳造科本科を卒業した。東京美術学校在学中、光太郎作「光雲還暦記念像」の鋳造を手がけ、同校卒業後「无型」(大正15年)や「実在工芸美術会」(昭和10年)などグループを組織し、それらのグループを通じて長年工芸の近代化運動に没頭した。東京美術学校教授、金沢工芸専門学校教授。鋳金界にあって造型のフレッシュさと、惣型・込型・蠍型など伝統的な技法の駆使によって斯界の大御所的存在であり、鋳造家協会長をつとめた。殊に晩年の回転体による円壷の成形は余人の追随を許さぬ至芸であった。代表作に小諸懐古園の「藤村詩碑」をはじめ、「斜交紋花筒」(昭和3、帝展特選)「提梁花瓶」(昭和22、日展出品、政府買上品)などがある。また美校在学中、与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事して短歌を学び、「露光集」「歌ぶくろ」「おきなぐさ」などの歌集や「光太郎回想」「自画像」などの著書がある。略年譜明治23年 7月1日 高村光雲の三男として東京に生まれる。大正4年 3月 東京美術学校鋳造科本科卒業。大正7年 農商務省展覧会2等賞 宮内省買上大正8年 岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉その他と装飾美術家協会をつくる。大正15年 東京美術学校助教授。「无型」を組織、新工芸運動を興す。昭和2年 藤村詩碑を作る。(小諸懐古園)、我国最初の詩碑なり。この年より3回に亘り帝展連続特選。昭和4年 帝展推薦。昭和9年 東京美術学校教授。この年より帝展、文展、日展の審査員歴任、商工省輸出工芸展、輸出工芸図案展の審査員歴任。昭和10年 「実在工芸美術会」を結成、新興工芸運動に尽す。九條武子歌碑を作る(築地本願寺)。昭和11年 生田春月詩碑を作る(瀬戸内海小豆島)。昭和13年 4月5日 朝鮮総督府美術展覧会審査員、鮮満支の工芸調査。昭和15年 6月 文部省及び商工省貿易局嘱託として北米合衆国及び中米メキシコの工芸調査。昭和16年 商工省工芸指導所嘱託。東京教育大学講師。昭和19年 東京美術学校退官。昭和22年 日展出品「提梁花瓶」政府買上。昭和24年 金沢美術工芸専門学校教授。昭和25年 7月、皇居前楠公銅像修理、12月、日本芸術院会員任命。昭和27年 8月 三越にて個展。昭和29年 如水会館にて作品展示会。昭和31年 金沢美術工芸大学退職。昭和32年 高村光太郎詩碑を作る(岩手県花巻市太田山口)。昭和33年 4月、金沢美術工芸大学名誉教授。昭和35年 銀座・和光にて古希記念個展。12月、歌集「露光集」出版。東宮御所及び皇后陛下御座所の為に花瓶制作。昭和36年 文化財専門技術審議会専門委員。昭和37年 「光太郎回想」出版。昭和39年 新年御歌会始に召人となる。重要無形文化財保持者に指定さる。昭和41年 11月、第二歌集「歌ぶくろ」出版。昭和42年 11月、勲三等旭日中綬授与。昭和43年 10月、「自画像」出版。昭和44年 7月、第三歌集「おきなぐさ」出版。昭和47年 6月2日午前9時42分、自宅で死去。9日、従四位銀杯一個を贈らる。

豊田勝秋

没年月日:1972/04/22

鋳金家、佐賀大学名誉教授の豊田勝秋は、4月22日午後2時55分、腸疾患のため東京都小平市の昭和病院で死去した。享年74才。福岡県久留米市出身。葬儀は5月2日午後2時から明善同窓会と久留米連合文化会主催のもとに久留米市民会館で行なわれた。明治30年9月24日久留米市に生れ、福岡県立中学明善校(大正4年3月卒)を経て大正9年3月東京美術学校鋳造本科卒業、更に同研究科に入り、大正12年同科を修了した。翌年6月東京高等工芸学校助教授に任ぜられた。昭和2年第8回帝展から第4部美術工芸が設けられたが、「鋳銅花盛」を出品、以後帝展、文展、日展に発表を続け、文展審査員を歴任、斯界の重鎮であった。主要作品には、「鋳銅花器」(昭和6年帝展特選、石橋美術館蔵)、「四方花挿」(昭和14年文展審査員出品、京都国立近代美術館蔵)、「広間用花挿」(昭和16年文展出品、同前蔵)、「鋳銅壷」(昭和33年日展出品、同前蔵)、「鋳銅筒形花器」(昭和35年日展出品、福岡県文化会館美術館蔵)などがある。略年譜明治30年9月24日 福岡県久留米市に生れる。大正4年3月 福岡県立中学明善校卒業。大正9年3月 東京美術学校鋳造科本科卒業。同研究科に入り大正12年、同科修了。大正13年6月 東京高等工芸学校の助教授に任ぜられる。昭和3年 大礼記念賞を授与される。昭和6年 第11回帝展特選。昭和8年 第13回帝展特選。昭和11年 第23回商工省工芸展に入賞、2等賞受賞。昭和12年 第1回文部省美術展の無鑑査となる。昭和13年7月 東京高等工芸学校教授に任ぜられ、高等官6等 正7位に叙せられる。昭和15年 第3回工芸品輸出振興展審査員を委嘱される。昭和11年 従6位高等官5等に叙せられる。昭和16年 第4回文部省美術展、及び工芸品輸出振興展の審査員を委嘱される。昭和17年2月 株式会社旭製鋼所専務取締役に就任。昭和23年 株式会社赤坂陶園(筑後市)を設立、取締役となる。昭和24年 商工技官に任命され、通産省工芸技術庁工芸指導所九州支所長を命ぜられる。昭和24年 福岡県美術協会副会長となり、常任理事を兼務また福岡県展工芸部の審査員となる。昭和28年4月 久留米連合文化副会長となる。昭和28年 文化面に於ける市功労者として久留米市より表彰を受ける。昭和28年 佐賀大学教育学部教授に任ぜられる。昭和28年 福岡県文化財専門委員を委嘱される。昭和29年 財団法人久留米絣技術保存会理事となる。昭和32年 同上 顧問となる。昭和32年 福岡県社会教育功労者として表彰を受ける。昭和40年 鹿児島女子短期大学教授。昭和43年 九州沖縄文化協会理事。久留米連合文化会々長。県立明善高等学校同窓会々長。福岡県工芸作家協会会長。昭和44年11月3日 西日本文化賞を授与される。昭和45年11月3日 勲4等旭日小綬章を授与される。昭和47年4月22日 東京都小平市昭和病院にて死去。

今井五郎

没年月日:1972/01/11

重要無形文化財、結城紬技術保持者の今井五郎は、1月11日午前9時30分ごろ、税金の青色申告説明会がある小山市役所に行くため自宅近くの停留所でバス待ち中、心臓マヒを起し、近くの病院に運ばれる途中で急逝した。享年61歳。葬儀は13日午後1時から栃木県小山市の自宅で行なわれた。今井は小山市の出身で、小学校を卒業して間もない14歳のときから、男物の亀甲がすりを染める際、糸をくくって模様をつける家業の結城つむぎの「かすりくびり」の技術を習った。昭和31年4月、「結城紬技術保存協会」が国の重要無形文化財の指定を受けたときの代表者となった。45年まで栃木県本場結城紬織物協議会理事とし後継者の育成に尽くした。

滝一夫

没年月日:1971/11/07

陶芸家、日展会員、佐賀大学教授の滝一夫は、11月7日午後6時35分、直腸ガンと尿毒症のため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年61歳。明治43年2月13日福岡市に生れ、修猷館中学を経て昭和13年東京美術学校彫刻科卒業。最初、昭和8年帝展彫刻部に初入選、同10年第11回国展彫刻部に入選、翌11年第12回国展彫刻部では褒状を受賞するなど彫刻に専心したが、美術学校卒業後まもなく陶芸に転じ、瀬戸市陶磁器試験所及び国立京都陶磁器試験所に於て10数年陶磁研究に従事した。その間、昭和15年紀元二千六百年奉祝展に入選、戦後は日展工芸部に作品を発表し続け、昭和29年第10回日展「春」特選、同30年第11回日展「緑釉飛鳥文壺」無鑑査、北斗賞受賞、同32年より日展依嘱、同36年第4回日展において新審査員、翌37年日展会員となった。同41年第9回日展でも審査員をつとめた。一方、同25年にはイタリアのファエンツァ陶磁器博物館に作品が収納され、同27年第1回現代日本陶芸展で朝日新聞社賞、翌28年第2回同展で朝日新聞社奨励賞を受けた。同37年第3回国際陶芸展(チエッコ、プラハ)で銀賞を受賞、同年第1回現代日本工芸美術展の審査員をつとめ、同40年にはベルリン芸術祭へ出品するなど国内外共に顕著な活動を示した。なお、昭和31年から没前まで佐賀大学美術科教授をつとめた。死去に当って勲4等旭日小綬章に叙せられた。

剣持勇

没年月日:1971/06/03

インテリアデザイナーの剣持勇は、昨秋来抑うつ症にかかっていたが、6月3日東京都新宿区の剣持デザイン研究所二階所長室でガス自殺を遂げた。明治45年1月2日東京に生れ、昭和7年東京高等工芸学校木材工芸科(現千葉大学工学部)を卒業、直ちに商工省工芸指導所に入所した。同19年同所技師となり、同21年東京支所木工課となった。同27年産業工芸試験所意匠部長、同29年には日本ユネスコ国内委員会調査員に併任された。翌30年には工芸試験所を退職し、剣持デザイン研究所を設立した。同研究所は32年株式会社剣持勇デザイン研究所として発足、現代インテリアデザイン界の指導的地位にあって活躍した。また受賞も多く昭和33年ブラッセル万国博覧会日本館に対し、前川国男等と金賞を受け、同38年には第9回毎日産業デザイン賞、翌年ニューヨーク近代美術館20世紀デザインコレクションに「籐丸椅子」が選定された。そのほか、イタリアイエロドームス賞(昭44)、第15回毎日産業デザイン賞(45年)、日本インテリアデザイナー協会協会賞(昭46)などがある。主要作品昭和33年 香川県庁舎各室 家具昭和35年 ホテル・ニュー・ジャパン 内装、家具昭和36年 戸塚カントリークラブ 内装、家具昭和38年 北海道拓殖銀行丸の内支店 家具、展示昭和39年 京王百貨店全店 内装、家具昭和41年 国立京都国際会館 家具昭和43年 霞ケ関東京会館 内装、家具昭和43年 B-747(日航) 内装昭和46年 ライオン油脂K.K.内装、家具昭和46年 京王プラザホテル 内装、家具

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