本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





松原定吉

没年月日:1955/12/30

染色家松原定吉は、12月30日東京都江戸川区の自宅で脳出血のため逝去した。享年62歳。富山県魚津市の出身で、11歳の時上京、染物業に従事した。江戸ゆかたの染め方「長板中形」が、30年1月重要無形文化財に指定された際、その技術の保持者として認定された。

河面冬山

没年月日:1955/10/26

漆工家河面冬山は、10月26日逝去した、享年73。本名冬一。明治15年1月20日広島市に生れ、同41年東京美術学校漆工科を卒業した。帝展以来官展に出品し、無鑑査となつたが、専ら宮内省御用品を製作して知られる。その主なものに大正天皇御即位式用御料車内賢所、大正天皇銀婚式奉祝献上品絵巻物箱、今上天皇御成婚奉祝高等文武官より献上御書棚、秩父宮御成婚奉祝宮内官献上御書棚等がある。昭和27年文部省無形文化財保護の選定を受け、また文化功労者に選ばれた。

杉田禾堂

没年月日:1955/07/29

日展参事、全日本工芸美術家協会委員長杉田禾堂は、7月29日逝去した。享年69歳。本名精二。明治19年8月1日長野県松本市に生れ、同45年東京美術学校鋳造科を卒業した。大正8年同校講師となり、昭和3年には商工省工芸指導所嘱託第二部長、同7年大阪府商工技師を歴任、同12年商工省貿易局嘱託として欧米各国に出張した。作家としては官展に出品し、昭和4年帝展特選及び推薦となり、同8年帝展審査員となつて以来、新文展、日展の審査員を屡々勤め、同25年日展参事となつた。同26年全日本工芸美術家協会設立と共に初代委員長に就任し、美術工芸界の長老であつた。

本阿弥光遜

没年月日:1955/07/26

美術刀剣保存協会評議員、審査顧問本阿弥光遜は、7月26日新宿区の自宅で肺臓癌のため逝去した。享年77歳。明治12年4月29日群馬県前橋市に生れ、12歳の時上京して本阿弥琳雅の門に入つて刀剣鑑定と研磨を修業した。明治40年独立し、日本刀研究会を起して刀剣趣味の普及に尽力した。戦後は、美術刀剣保存協会の審査顧問であり、評議員を兼ねて貴重刀剣の認定に協力した。著書に「日本刀」(大正3年)、「日本刀大観」、「刀剣鑑定講話」等がある。

沼田一雅

没年月日:1954/06/05

元東京美術学校教授、帝展審査員沼田一雅は、胃癌のため東京都新宿区で6月5日永眠した。享年80歳。明治6年5月5日福井市に生れ、竹内久一に師事して彫刻を学んだが、のちフランスのセーヴル陶磁器製作所に入つて前後2回陶磁器の研究を遂げ、陶磁器彫刻に新しい領域を開き、その第一人者となつた。また東京美術学校教授、帝展審査員等をつとめ、多年の功労によつて昭和29年5月恩賜賞を授与された。帝展、文展出品作のほか、記念像に「能楽師梅若実翁像」「原嘉道像」「根津嘉一郎像」「ウェスト博士像」(東大構内)「竹内久一像」(東京芸大構内)があり、また得意の陶像には「正木直彦像」(東京芸大陳列館内)「ワグネル博士像」(東京工業大学内)「中沢岩太像」などがある。略年譜明治6年 5月5日福井市に生る。明治15年 大阪府立北野学院卒業。明治24年 彫刻修業のため上京、美術学校教授故竹内久一に師事。明治27年 東京美術学校鋳造科蝋型助手。明治29年 4月、東京美術学校助教授。明治34年 1900年仏国巴里開催の万国大博覧会の鋳銅の「猿廻し置物」を出品、1等金牌受領。明治36年 海外窯業練習生として渡仏、6月巴里市アカデミー・ヂュリアンに入所、11月国立セーヴル陶磁器製作所に入所、同所の彫刻家サンドーズ氏の指導を受け、原形より石膏形成法、押型法仕上げ法、窯詰法、焼成法を研究、同所の希望により純日本風俗等の彫刻原型数種製作、記念として寄贈。明治38年 8月、彫刻並に陶磁彫刻研究のため、白、和、独、伊4ケ国を旅行、9月再度セーヴル製作所に入所、引続き陶磁器彫刻研究。同所技芸員に石膏薄肉彫刻の指導を受け、ドワット氏にパートアップレカションの手法を習い、同時にロダンにつき彫刻研究。明治39年 5月、仏国出帆。7月帰国、9月東京美術学校雇員となる。明治42年 東京美術学校教授、農商務省工業試験所陶磁器部嘱託。明治43年 仏国政府より「アカデミー・ドゥ・オフィシヱ」勲章授与。大正10年 3月再度渡仏、セーヴル製作所に入所、彫刻物焼成法と釉薬調合法につき研究、同年5月摂政宮殿下(今上陛下)御外遊中同所へ御成り、奨励のお言葉を賜る。彫刻陶磁製作技法研究のため、英国、デンマーク、コペンハーゲン、独のハンブルグ、ローゼンタール、ベルリン等各製陶所を1ケ月にわたり見学、帰仏後セーヴル製陶所の極秘法「パート・ドゥ・ヴェール」の製作法を探知。大正11年 8月帰朝。昭和2年 仏国政府よりセーヴル製陶所にて製作の原型に対し「オフィシエ・ドゥ・ランストリュクシヨン・レピュブリック」勲章受領。昭和3年 11月大礼記念章授与せらる(表面、高御座の図彫刻)仏国政府より「シュバリェ・ドゥ・ラ・レジヨン・ドゥヌール」勲章受領。10月、帝展第三部、第四部推薦。昭和3年 11月、京都高等工芸学校講師嘱託。昭和7年 勅任教授。昭和8年 9月帝展審査員、10月正4位勲4等、東京美術学校教授退官、講師を命ぜらる、11月奉職在勤41年により感謝状受領。昭和9年 大阪府立工芸展審査員。昭和12年 3月京都市美術展審査員、9月文展審査員。昭和13年 3月京都市美術展審査員、9月文展審査員。昭和14年~16年 東京美術学校、京都高等工芸学校、商工省京都陶磁器試験所の彫刻指導。昭和21年 10月愛知県瀬戸市に陶彫研究所創設、所長となる。昭和26年 4月日本陶彫会結成、会長となる。10月神奈川県工芸協会第一部会長となる。昭和29年 5月恩賜賞授与せらる。6月5日没。

大森光彦

没年月日:1954/05/19

日本美術展覧会参事、東陶会委員長大森光彦は、5月19日狭心症のため東京都中野区の白宅で没した。享年63歳。明治25年6月13日長野県上伊那郡に生れ、同44年愛知県窯業学絞を卒業、帝展、文展、日展に出品、審査員となり、昭和27年日展参事となつた。官展のほか、日本美術協会その他の審査員もつとめ、また東陶会を起して、陶磁界の発展につくした。著書に「陶窯巡り」「趣味の陶芸」「陶磁器の釉薬と絵具」「陶磁器の鑑賞」「粘土細工と楽焼」がある。略年譜明治25年 長野県上伊那郡に生る。明治44年 愛知県窯業学校卒業。大正13年 東京都中野区に陶窯を築く。大正14年 以来東京、大阪三越其他に数回個展を開く。昭和3年 帝展に「鶏血三彩壷」初入選、以来9回入選。昭和4年 パリ日本美術展に「山桑文花瓶」出品、仏国政府買上。昭和8年 日本美術協会審査員昭和11年 文展招待展に「陶製草文水指」出品、政府買上。以後文展5回入選。昭和16年 文展無鑑査となる。昭和17年 興亜院嘱託として中華民国へ工芸視察のため派遣さる。昭和18年 大東亜省嘱託として中華民国へ工芸視察並に文化交流のため派遺さる。昭和19年 大東亜省嘱託として中華民国へ工芸視察並に文化交流のため派遺さる。昭和20年 文部省嘱託。昭和21年 長野県上伊那郡に築窯。日展委員となる。昭和22年 日展委員となる。昭和24年 日展招待無鑑査出品。昭和25年 日展審査員に任命さる。昭和27年 日展参事に推薦さる、同時に日展審査員に任命さる。昭和29年 5月19日逝去。

松波多吉

没年月日:1954/02/04

漆工家松波多吉は、2月4日東京都世田谷区の自宅で心臓麻痺で没した。享年74歳。明治15年石川県金沢市に生まれた。12歳の時、同市の塗師礪波彦太郎に師事して15歳まで★漆の伝修を受け、その後印籠塗師として有名な東金生の門に入つた。明治34年秋東京に出て、六角紫水、磯矢完山の経営する明治漆器工場へ塗師として入り、紫水、完山について新興漆芸の新しい分野と知識について学ぶところ多く、また彩漆の研究については紫水の良き助手として将来を嘱望された。其の後宮城県から漆工指導者として招かれ、仙台に止まること3年余、同地方の漆器技術の向上につくした。同38年東京に帰り、岩崎家の専属として調度品、美術品等の修理、製作、鑑定などに従事し、また市島浅治郎などと共に神社仏閣の建築漆工にも活躍した。さらに砲兵工廠、宮内省主馬寮等にも奉職して技術の改良、施設の改善等についてしばしば当局から表彰された。この間、引箆の研究に没頭して幾多の新機軸を案出し、多くの名作を残した。その独白の技法は昭和27年3月文化財保護委員会から無形文化財に選定された。

香取秀真

没年月日:1954/01/31

帝室技芸員、日本芸術院会員でわが美術工芸界の長老香取秀真は、1月31日急性肺炎のため世田谷区の自宅で逝去した。本名は秀治郎、別号六斉、梅花翁。明治7年1月1日千葉県印旛郡に生れた。同30年東京美術学校鋳金科を卒業した。同36年以来昭和18年に至るまで母校に鋳金史、彫金史を講じ、同41年同志と東京鋳金会を創立して幹事となつたほか、諸博覧会の審査員、日本美術協会、東京彫工会、日本金工協会等の審査員、幹事となり、自らも多くの作品を発表した。大正8年農商務省工芸展覧会の審査員となり、その後帝展の工芸部設置に尽力し、昭和2年その審査員となり、同4年帝国美術院会員に挙げられ、同9年帝室技芸員を命ぜられた。また昭和2年以来帝室博物館学芸委員となり、同4年国宝保存会委員となるなどこの方面の功績も大きかつた。その作品は、その豊かな技術を駆使した古典的で品格高いものであつた。また金工家としてのほか、わが金工史の研究に前人未踏の分野を開拓し、学術的な著書も多く、さらに正岡子規門下の歌人としても著名であつた。同28年多年の功労によつて文化勲章を授げられた。略年譜明治7年 千葉県印旛郡に生る。父香取蔵之助秀晴、母たま。明治11年 印旛郡麻賀多神社祠官郡司家の養子となる(5歳)明治24年 東京に遊学す(18歳)明治25年 東京美術学校に入学す。同校に学ぶ傍大八洲学校に国史国文を学ぶ。明治30年 生家香取家へ復籍す。東京美術学校鋳金本科卒業。明治32年 正岡子規の門に入る。東京美術学校研究科に入学。明治36年 東京美術学校より鋳金史授業を嘱託せらる。明治37年 東京美術学校より彫金史授業兼務を命ぜらる。明治41年 同志と計り東京鋳金会を設立、幹事となる。明治42年 東京美術工芸展覧会評議員嘱託。明治43年 第2回東京府美術及美術工芸展覧会鑑別委員嘱託。明治44年 東京勧業展覧会審査委員嘱託。大正2年 東京勧業展覧会審査委員嘱託。大正3年 大正博覧会鑑査員嘱託。大正8年 農商務省工芸審査委員会委員被仰付。大正14年 同志と工芸済々会を創立。昭和2年 帝室博物館学芸委員被仰付。帝国美術展覧会委員被仰付。(この年より帝展に第四部設置)昭和3年 帝国美術院美術展覧会審査員被仰付。昭和4年 帝国美術院会員被仰付。国宝保存会委員被仰付。昭和5年 叙正7位。昭和8年 重要美術品等調査委員会委員を依嘱せらる。任東京美術学校教授、叙高等官4等東洋工芸史授業担任。叙正6位。昭和9年 東京美術学校より学科主任を命ぜらる。文庫課長を命ぜらる。帝室技芸員拝命。昭和10年 帝国芸術院会員被仰付。昭和11年 陞叙高等官3等、叙従5位、叙正5位。国宝保存会常務委員を命ぜらる。昭和18年 願により官を免ぜられ、東京美術学校教授の職を退く。昭和25年 文化財専門審議会専門委員となる。昭和28年 文化勲章を授与さる。昭和29年 宮中歌会始に召歌仰付らる。東京都世田ヶ谷区世田谷自宅に於て死去す。作品略年譜明治30年 東京美術学校卒業製作「上古婦人立像」 聖観音像(天岡均一合作)明治31年 日本美術協会展「獅子置物」(褒状1等)明治32年 日本美術協会展「作品」(褒状1等) 三嶋中洲翁銅像明治33年 巴里万国博覧会「作品」(銀賞牌)明治35年 東京彫工会青年研究会「古代鹿鈕万耳香炉」明治36年 橋本雅邦銀婚式祝賀贈呈品「銀印三個」明治37年 聖路易万国博覧会「鋳金銅印材」「鋳金銅硯」明治40年 東京勧業博覧会「鋳銅獅子香炉」(2等賞)明治42年 東京鋳金会展「朧銀鋳造花瓶」(妙技銀賞)大正2年 献上「菊花散ペン皿蝋製」大正3年 瑞獣置物(美術新報杜賞美賞)大正5年 東京鋳金会展「塗金唐草紋花瓶」(御買上)大正9年 農商務省第8回工芸展「亀鶴福寿文花瓶」大正11年 日仏交換展「獅子弄王水滴」 平和紀念東京博覧会「銀製春錦文釜」大正14年 朝鮮神社神鏡2面大正15年 一条家調度品「鉄瓶」昭和2年 第8回帝展「蝶鳥文八稜鏡」昭和3年 御成婚奉祝献上品「鋳金千鳥文花瓶」 第9回帝展「牡丹文鋳銅花瓶」昭和4年 第10回帝展「鹿鈕獅脚鋳銅香炉」昭和5年 第11回帝展「鋳銅牡丹透香炉」昭和6年 第12回帝展「雷文鋳銅花瓶」昭和7年 工芸三楽会展「象文尊式花瓶」昭和8年 第14回帝展「両耳★文花瓶」昭和9年 第15回帝展「台子飾」(合作)昭和11年 工芸済々会展「青銅獅子鈕水次」昭和12年 工芸済々会展「獅耳竜胆透香炉」 三聖代展「八角飾箱」昭和14年 第3回文展「月に兎釣香炉」昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展「鳴禽置物」昭和16年 第4回文展「鳳鈕香炉」(政府買上)昭和17年 第5回文展「唐銅★鈕香炉」昭和18年 第6回文展「★子透香炉」 松坂屋巨匠展「月兎香炉」昭和19年 戦時特別文展「鋳銅母と子獅子番炉」昭和21年 第2回日展「宝船香炉」昭和22年 東京都美術館記念展「金銅獅子」昭和23年 第4回日展「木兎香炉」 文部省巡回展「金銅笑獅子鈕香炉」昭和24年 同右「犬鹿四方香炉」 第5回日展「玉兎香炉」(貞明皇后へ献上)昭和25年 第6回日展「虎香炉」 文部省巡回展「鳩香炉」昭和26年 第7回日展「瑞禽飾三足香炉」昭和27年 第8回日展「騎獅弾琴菩薩香炉」昭和28年 第9回日展「みみづく香炉」著書目録日本古鏡図録 東京鋳金会刊 明治45年金銅仏写真集 東京鋳金会刊 大正元年続古京遺文(山田孝雄氏と共著) 宝文館刊 大正元年日本鋳工史稿(甲寅叢書第4編) 郷土研究杜刊 大正3年茶之湯釜図録 東京鋳金会刊 大正3年日本金燈籠年表 東京鋳金会刊 大正5年好古山陰迷求利(広瀬都巽、堀江清足両氏と共著) 東京鋳金会刊 大正9年熊野新宮手筥と桧扇(東京美術学校内) 工芸美術会刊 大正10年磬 工芸美術会刊 大正10年金鼓と鰐口 大正12年新撰釜師系譜 昭和5年仏具(錫杖)日本考古図録大成の内 日東書院刊 昭和6年支那の金工(大支那大系第10巻) 万里閣刊 昭和6年支那の金工について(啓明会講演集) 啓明会刊 昭和6年支那工芸図鑑第1冊金工篇 帝国工芸会刊 昭和7年日本金工史 雄山閣 昭和7年和鏡の話 美術懇話会刊 昭和7年新撰茶の湯釜図録 宝雲社刊 昭和8年「日本鋳工史」第1冊 郷土研究所 昭和9年水滴図解 政教社刊 昭和9年随筆「ふいご祭」 学芸書院 昭和10年鉄瓶図解 鉄瓶の会 昭和10年正岡子規を中心に 学芸書院 昭和11年歌集天の真榊 学芸書院 昭和11年和鏡図解 政教社 昭和13年中田の十一面観音金銅像 芸苑巡礼社刊 昭和14年大島如雲先生年譜 東京鋳金会刊 昭和16年金工史談 桜書房刊 昭和16年日本の鋳金(ふいごまつり、再版)現代叢書 三笠書房刊 昭和17年続金工史談 桜書房刊 昭和18年歌集還暦以後 科野雑記社刊 昭和22年鋳物師の話 講談社刊 昭和22年江戸鋳師名譜 (謄写版刷) 昭和27年

堆朱楊成

没年月日:1952/11/03

日本芸術院会員、日展審査員堆朱楊成は11月3日東京都北区の自宅で狭心症のため死去した。享年72歳、明治13年8月第十八代楊成堆朱平十郎の二男として東京根岸に生る。幼名を豊五郎と云い、★漆と彫技を家兄好三郎に学び、絵画を佐竹永湖に、又彫技を石川光明に学んだ。明治29年兄好三郎死去により、本家を相続して第二十代の楊成を襲名伝統芸術としての彫漆を継承した。明治40年はじめて東京府勧業博覧会へ彫漆香合3点を出品して2等賞を受領し、宮内省御用品となつた。大正10年農商務省第9回工芸展にて1等賞を得、昭和3年には東京府主催東京工芸博覧会に審査員を嘱託され、爾後毎年これに従事した。また同年わが国工芸美術の発達に寄与せし理由により民間功労者として緑綬褒章をさずけらる。昭和2年帝展に第四部加設されてより連年出品、昭和4年第10回帝展において無鑑査、同8年14回に審査員となり、其後逝去する年まで出品をつづけ屡々審査員をつとめた。昭和25年日本芸術院会員となる。漆芸作家大同会会長、東京都美術館顧問、日本美術協会理事等をつとめていた。略年譜明治13年 8月東京根岸に生る。明治29年 第二〇代堆朱楊成を襲名。明治40年 東京府勧業博覧会へ彫漆香合3点出品、2等賞受領、宮内省御用品となる。大正10年 農商務省第9回工芸展にて1等賞受領。昭和2年 第8回帝展「秋★」(彫漆香合)出品。昭和3年 我国工芸美術の発達に寄与せし理由により緑綬褒章を受く。東京府主催、東京工芸展覧会審査員となる。昭和4年 第10回帝展「天狐彫漆香盆」出品。無鑑査となる。昭和5年 第11回帝展「彫漆梟の図香盆」出品。昭和6年 第12回帝展「白龍存星軸盆」出品。昭和7年 第13回帝展「蓬莱山彫漆丸卓」出品。昭和8年 第14回帝展「彫漆孔雀」出品。審査員となる。昭和9年 第15回帝展「彫漆松竹梅香合」出品。昭和11年 改組第1回帝展「彫漆蓬莱山図手筥」出品。審査員となる。昭和12年 第1回文展「彫漆鶉文平卓」出品。審査員となる。昭和13年 第2回文展「彫漆獅子文飾筥」出品。審査員となる。昭和14年 第3回文展「堆黄龍文飾盆」無鑑査出品。昭和15年 紀元二千六百年奉祝美術展「春日龍神彫漆飾筥」無鑑査出品。昭和17年 第5回文展「彫漆山吹硯箱」無鑑査出品。昭和19年 戦時特別展「彫木研屏苔むす巌」出品。昭和21年 第2回日展「彫漆花の山文庫」出品。昭和24年 第5回日展「彫漆獅子硯箱」を日展運営会依頼により出品。日本芸術院会員となる。昭和25年 第6回日展「漆器存星秋草円卓」出品。日展参事及び審査員となる。昭和26年 第7回日展「彫漆花瓶(平和)」出品。昭和27年 第8回日展「巻狩彫漆手筥(未完成)」出品審査員となる。11月3日逝去。

広川松五郎

没年月日:1952/11/02

東京芸術大学教授、日展運営会参事。広川松五郎は11月2日練馬区の自宅で逝去した。享年62歳。明治22年新潟県三条市に生る。県立三条中学卒業後東京美術学校図案科に学び、大正2年卒業。同13年日本美術協会審査員となる。14年巴里万国装飾美術工芸博覧会に出品銀賞を得、15年には私立日本美術学校教授となる。又工芸団体「旡型」を創立その同人となつた。作品は主として官展に出品。昭和2年第8回帝展に入選以来、第9回、12回において特選授賞、昭和5年第11回帝展で無鑑査となつた。昭和8年第14回帝展で審査員となり、爾後官展において屡々審査員をつとめた。昭和7年には東京美術学校助教授となり、ついで10年には教授となつた。昭和15年越後工芸美術会を設立、25年には唯一の染織研究団体である示風会を創立、工芸美術の発展につとめた。略年譜明治22年 新潟県三条市に生る。明治41年 新潟県立三条中学卒業。大正2年 東京美術学校図案科卒業。大正13年 日本美術協会審査員となる。大正14年 巴里万国装飾美術工芸博覧会に出品。銀賞授与。大正15年 工芸団体「旡型」創立、同人となる。日本工芸美術会常務委員になる。私立日本美術学校図案科主任教授に嘱託さる。昭和2年 第8回帝展「唐草頌栄」(染色屏風)出品。昭和3年 第9回帝展「壁用華布」出品。昭和4年 第10回帝展「壁掛用華布」(特選)出品。昭和5年 第11回帝展「藹染壁掛」出品。無鑑査となる。昭和6年 第12回帝展「染色衝立」(特選)出品。昭和7年 東京美術学校助教授になる。昭和8年 第14回帝展審査員となる。昭和9年 第15回帝展「手織つむぎ友禅壁掛」出品。無鑑査となる。昭和10年 東京美術学校教授となる。昭和11年 文部省美術展覧会委員となる。昭和12年 第1回文展「革染三曲衝立」出品。昭和13年 第2回文展「革染風呂先屏風」出品。審査員となる。昭和14年 第3回文展「染壁掛蓬莱図」出品。第1回貿易局輸出工芸図案展審査員となる。昭和15年 紀元二千六百年奉祝美術展「染皮鷹炉屏」出品。越後工芸美術会を創立。昭和16年 第4回文展「染色松藤友禅二曲屏風」出品。昭和17年 第5回文展「青海波四曲屏風」出品。審査員となる。昭和18年 第6回文展「詩華集」出品。昭和19年 文部省戦時特別美術展「四季礼讃二曲屏風」出品。昭和21年 第1回日展「染色ばら二曲屏風」出品。昭和21年 第2回日展「染色屏風本草六姿」出品。昭和22年 第3回日展「あらべすく(友禅染塩瀬丸帯)」出品。審査員となる。昭和24年 東京芸術大学教授となる。昭和25年 第6回日展「染色水村風物壁掛」出品。審査員となる。染織工芸団体示風会創立。昭和26年 第7回日展「つゆ草」出品。昭和27年 第8回日展「染織壁掛はなかご」出品。昭和27年 11月2日死去。勲5等瑞宝章を授け、従4位に叙せらる。

北原千鹿

没年月日:1951/12/29

日展参事、日本彫金会顧問北原千鹿は、郷里高松市にて肋骨カリエス加療中脳症を併発12月29日逝去した。享年64歳。本名千禄。明治20年5月16日香川県高松市に生れ、44年3月東京美術学校彫金科を卒業、大正3年より10年まで東京府立工芸学校の教諭を勤めた。昭和2年、3年、4年帝展に続けて特選となり、同5年推薦となつた。昭和6年以来、帝展、文展、日展の審査員数度をつとめ、24年日展参事に挙げられていた。一方、昭和2年より日本美術協会展の審査員をも長くつとめた。戦後24年4月母校香川県立工芸学校復興のため小倉右一郎校長の懇望により帰郷、若い後進の指導に2年間当つた。彫金の大家として、一種稚拙味のある技法から高雅な匂いを漂わせる数々の名品を生んだ。又、大正末から昭和初めにかけて新工芸研究会「旡型」の同人として活躍し、別に工人社を創めて彫金界の有力な新人作家を誘導育成した。略年譜明治20年 高松に生る。明治39年 香川県立高松工芸学校卒業。明治44年 東京美術学校彫金科卒業。大正5年 東京府立工芸学校に教鞭をとる。大正10年 同校を辞す。昭和元年 東京府商工展審査員。昭和2年 日本美術協会審査員。第8回帝展に「花置物」特選。昭和3年 「羊置物」帝展特選。昭和4年 「兜置物」帝展特選。昭和5年 帝展推薦となり「ブラツケツト」出品。昭和6年 帝展審査員「銀の皿」。昭和7年 同展審査員「十二支文象嵌皿」出品。昭和8年 帝展出品「双魚置物」。昭和9年 帝展審査員「壁掛蛙」。昭和11年 文展出品「鶴文金彩花瓶」、秋の文展に審査員となり「金彩鹿文花瓶」出品。昭和12年 文展出品「夏の山草金彩壷」。昭和13年 文展審査員「鶉文銀彩壷」出品。昭和14年 文展出品「花瓶」。昭和15年 奉祝展出品「山壁掛」。昭和16年 文展審査主任「黄銅壷」出品。昭和17年 文展出品「銅押出し鳩置物」。昭和18年 文展審査員。昭和19年 戦時特別展出品「金地毛彫篁土讃仰文筥」。昭和21年 第1回日展出品「毛彫山水図流金金銅花瓶」第2回日展審査員「水瓶」。昭和22年 日展出品「蛙群聴教金銅華曼」。昭和24年 日展出品「透文印箪司」。昭和25年 日展出品「金冠」。昭和26年 12月29日高松にて逝去。

高井白陽

没年月日:1951/07/22

漆工芸家、日展参事高井白陽は狭心症のため7月22日中野区の自宅で逝去した。享年55歳。本名栄四郎。明治28年10月16日新潟市に生れ、大正8年東京美術学校漆工科卒業。昭和2年帝展初入選以来出品、その間特選2回、無鑑査となり昭和16年文展審査員、同21年、同22年、同24年日展審査員となり、更に26年審査員を拝命中急逝した。尚20年5月より23年、新潟県に疎開中越後工芸美術会の発展に尽力するところがあつた。

小野為郎

没年月日:1951/04/16

漆工芸家小野為郎は、4月16日胃がんのため新潟県岩船郡の自宅で逝去した。享年54歳。明治31年3月26日新潟に生れ、はじめ版画をよくし、昭和2年ロスアンゼルス国際版画展に「スノーランド」入選、同年第8回帝展第二部に「北越の冬」が初入選した。つづいて翌3年には帝展第二部に漆刻画「越後獅子」が入選したが、昭和7年以降は帝展第四部(工芸)に出品を転じ、以来漆工作品を帝展、文展、日展に出品、入選20数回を重ね、この道の権威であつた。終始越後にあり、郷土色の濃い作品をみせ、代表作に前記「越後獅子」や昭和13年ニューヨーク、ロスアンゼルス万国博出品の「漆春秋棚」などがある。

鹿島英二

没年月日:1950/05/01

染色図案家として知られた鹿島英二は脳出血のため5月1日東京中野の自宅で死去した。享年77。明治7年鹿児島県に生れ、東京高等工業学校教員養成所図案科を卒業した。農商務省の練習生としてニユーヨークに図案研究のために留学し、明治43年の日英博覧会に際して欧洲に出張した、東京高等工業学校、東京美術学校、東京高等工芸学校等の教授として図案教育に力を尽し、更に中華民国立北京芸術専科学校の教授をもつとめた。帝文展の審査員、商工省工芸展覧会等の審査員として活躍し、代表作としては文展に出品した多くの屏風に佳品がある。

六角紫水

没年月日:1950/04/15

芸術院会員漆工家六角紫水は尿毒症と老衰のため4月15日東京杉並の自宅で逝去した。享年84。本名を注多良といい、慶應3年広島県に生れた。明治26年第1回卒業生として東京美術学校漆工科を卒え、その年より同校の助教授をつとめた。同37年岡倉天心等と共に渡米し、ボストン博物館東洋部に勤務した。更にメトロポリタン博物館に勤務し、41年渡欧 ロンドン、パリ、ドイツ各地を巡つてロシヤ、清国を経て帰朝した。帰朝後再び東京美術学校に教鞭をとり後進の指導に当ると共に、楽浪漆器の研究を行い、又アルマイト漆器、彩漆等にも造詣が深かつた。昭和2年帝展に工芸部が新設されてより審査員或は無鑑査として帝文展に作品を発表する等漆芸界に残した功績は大きい。昭和16年には芸術院会員に推された。代表作に昭和5年第11回帝展に出品して帝国美術院賞を受けた「暁天吼号之図漆器手箱」、第14回帝展「海辺と湖辺衝立」、昭和14年第3回文展「抹金画飾台、慶祥山水図」等がある。

清水南山

没年月日:1948/12/07

帝室技芸員、芸術院会員として彫金界の元老であつた南山清水亀蔵は、12月7日腹膜炎のため練馬区の自宅で逝去した。年74。明治8年3月30日広島県豊田郡に生れ、明治29年東京美術学校彫金科を卒業、同年11月研究科に入つて加納夏雄、海野勝珉につき、さらに32年9月には塑造科に入学、藤田文蔵に師事した。35年研究科修了後は自営して彫金にはげみ、明治42年6月から香川県立工芸学校に奉職して約6年にわたつた。大正4年病のため教職を退き、四国八十八ヶ所の巡礼をなし、しばらく大和にあつて古美術の研究にふけつたが、法隆寺佐伯定胤にみとめられ、やがて上京して、大正天皇御即位記念に司法省より献納の金装飾太刀の製作半ばのものを岡部覚弥没後ひきついで完成した。その直後大正8年東京美術学校教授となり、以来昭和20年7月まで在職、その間昭和9年12月に帝室技芸員、昭和10年1月日本彫金会会長、6月には帝国美術院会員にあげられた。展覧会には昭和2年帝展第四科の設置以来、逝去の年にいたるまで審査員あるいは無鑑査として毎年かかさず出品し、多くの秀作を残している。代表作としては宮内省の依嘱によつて香椎宮及住吉神社に納められた黒味製鍍金の金燈籠、第10回帝展の「梅花文印櫃」、奉祝展に出た「鉄板衝立」などがあり、戦後の出品作には「切嵌平象嵌毛彫額面十二神将図」(日1)、「龍文花瓶」(日2)、「銀香炉」(日3)、「波上鉢」(日4)などがあつた。

津田信夫

没年月日:1946/02/17

鋳金界に近代的な作風を出して知られた津田信夫(号大寿)は2月17日谷中の自宅で逝去した。年71。明治8年10月23日千葉県佐倉に生れ、同33年7月東京美術学校鋳金科を卒業、34年4月同校雇となり、翌年3月助教授に進んだ。大正8年あげられて教授となり、同12年1月文部省より在外留学の命をうけて出発、14年12月に帰朝した。昭和2年帝展に工芸部が新設されると同時にその委員となり、以後審査員たること数回、昭和10年7月帝国美術院会員、同12年芸術院会員におされた。この間フランスより昭和3年オフイシエダカデミー勲章、昭和8年オフイシエエトアルノアール勲章を贈られ、また昭和16年6月には工芸技術講習所教授となり、昭和19年6月退官した。正4位勲4等にすすんだ。代表作としては、明治43年に作つた日本橋上部鋳造装飾の獅子頭があり、昭和5年作の議事堂貴賓室扉の装飾も知られている。展覧会の出品作としては「夕暗」(帝8)、「引吭長鳴」(帝9)、「ラヂエーターの装飾」(帝10)、「クーラー」(帝11)、「鋳銅新秋誦無置物」(帝14)、「鳳翔薫炉」(新文1)、「鋳銅?波衝天」(新文2)、「鋳銅飛躍」(奉)、「北辺夜猫子鋳金置物」(新文4)、「青銅万法始終」(新文5)などがある。

楽吉左衛門

没年月日:1944/07/08

楽焼の宗家として知られている第13代楽吉左衛門は7月8日京都上京区の自宅で逝去した。享年58。

藤原兼永

没年月日:1943/08/17

岐阜県関町の刀匠藤原兼永は8月17日病気のため自宅で逝去した。享年57。関伝の直系二十三代藤原包永の長男に生れ、独特の耐錆鋼日本刀を創り、渡辺兼永とともに関伝の二大巨匠と謳われていた。

河合瑞豊〔初代〕

没年月日:1943/05/03

陶芸界で知られた京都の河合瑞豊は東山の自宅で5月3日逝去した。享年81。京洛陶芸界の復興に力を尽くした人で、ことに禅家との関係が深かつた。

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