本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





平松宏春

没年月日:1971/06/02

彫金工芸家、日展評議員の平松宏春は、6月2日午前9時40分、前立せんガンのため関西電力病院にて死去した。享年75歳。明治29年1月7日兵庫県に生れ、本名礼蔵。彫金家桂光春に師事。昭和9年帝展初入選、以来戦後の日展工芸部有数の作家として毎年作品発表を重ねた。26年特選、29年日展審査員をはじめ、関西総合美術展、大阪府・市展など審査員をつとめること数回に及んだ。格調の高い作柄は宮内庁の買上にもなり、天皇皇后両陛下、東宮御所、常陸宮家への献上品となった。現代工芸美術家協会参与、大阪芸術大学教授をつとめた。大阪府芸術賞を受け、池田市名誉市民にあげられていた。

井上良斎

没年月日:1971/02/06

陶芸家、日本芸術院会員、日展顧問の井上良斎は、2月6日午後2時45分、脳軟化症のため横浜市立大学病院で死去した。享年82歳。明治21年9月4日東京浅草に生れ、本名井上良太郎。明治初年東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を示し、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれた。大正3年横浜高島町に移窯。昭和3年帝展初入選。翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。昭和18年文展無鑑査。戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。

丸山不忘

没年月日:1970/10/22

東京芸術大学名誉教授、日展会員の鋳金家丸山不忘は、10月22日狭心症のため東京・新宿区の聖母病院で死去した。享年80歳。本名義男。明治23年米沢市に生れ、大正6年東京美術学校鋳造科を卒業した。同年香川県立高校工芸学校に勤務鋳金科主任となる。大正10年同校を辞め、東京豊島区に鋳金工場を経営した。昭和7年東京美術学校講師となり、昭和21年東京美術学校教授となった。戦前は、高村光雲・高村光太郎の原型による鋳造品全部を鋳造した。また高村豊岡作品の原型と鋳造品の製作にもたずさわった。戦前農商務省工芸美術展、帝展、実在工芸美術展、工芸美術作家協会展等に出品し、戦後は鋳金家協会、日展に出品した。展覧会出品のほか、薬師寺東塔相輪修理、薬師寺日光菩薩修理、法隆寺金堂本尊前大卓製作などがある。

叶光夫

没年月日:1970/08/21

日展評議員の陶芸家叶光夫は、8月21日肺性心のため京都市東山区の自宅で死去した。享年67歳。明治36年3月2日兵庫県に生れ、京都陶磁器試験所を修了後、大正9年大連の中国陶瓷研究所で中国古陶を研究した。昭和18年満州国嘱託として官窯設営地選定のため渡満した。戦後における作陶歴は次の通り。作陶歴大正9年 支那陶瓷研究所入所 中国陶瓷研究に従事(大連)昭和18年 満州国嘱託として官窯設営地選定のため渡満昭和21年 日本美術展 初出品昭和24年 日本美術展 特選 白瓷印花壺昭和25年 文部省 買上 白瓷印花壺(近代美術館蔵)昭和25年 現代陶器巴里展 買上 白瓷壺(パロリス美術館蔵)昭和25年 依頼により伊太利フアンエンツア博物館に寄贈 蓋壺昭和27年 ボストン美術館 買上 白瓷印花魚文壺(同館蔵)昭和28年 日本美術展 北斗賞 白瓷刻花壺(サンパウロ美術館蔵)昭和28年 明治大正昭和名作巡回展参加 白瓷印花壺昭和32年 日本美術展 審査員日本芸術院 買上 白瓷胴〆壺(芸術院蔵)昭和33年 社団法人 日展 会員昭和35年 現代工芸美術展 審査員 白瓷壺昭和35年 ベルギー国際陶芸展出品昭和37年 チェコ国際陶芸展出品 天藍印花壺昭和39年 日展 審査員昭和39年 イタリー国際陶芸展出品 白瓷堆線方瓶昭和41年 京都工芸美術代表団員として中国各地視察昭和42年 現代工芸美術展 審査員昭和42年 日展 審査員文部大臣賞受賞 懸垂方瓶昭和43年 日展 評議員昭和44年 新宮殿造営に際し白瓷花瓶謹作その他個展6回

伊東陶山〔3代目〕

没年月日:1970/03/16

日展会員の陶芸家伊東陶山は、3月6日道路横断中乗用車にはねられ、頭を打って死去した。享年70歳。本名信助。明治33年京都市に生れ、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業した。大江良起に就いて画を学び、京都市立陶磁器試験所に入り釉薬研究を行った。また祖父初代陶山、父二代陶山に就き作陶技術を修め、昭和13年三世陶山を襲名した。昭和4年帝展初入選し、以後連年出品をつづけ、昭和8年「八重葎花瓶」は特選となり、皇太后陛下御買上となった。その他御用品、御買上の数も多い。また陶器研究のため中国、朝鮮に渡行すること前後3回に及び、戦後は日展に出品をつづけた。なお日展のほか、現代工芸展にも出品している。作品は、江戸中期から伝わる京焼の代表様式である粟田焼を伝承するもので、主な作品に上記ほか、「菊桜一対花瓶」(昭15)、「粟田晨光花瓶」(昭31日展作、日ソ国交記念展出品、ソ聯買上)、「粟田白梅花瓶」(東宮御所落慶御祝謹製)

甲田栄佑

没年月日:1970/01/17

重要無形文化財「精好仙台平」伝承者で織物研究家の甲田栄佑は、1月17日肝硬変のため仙台市東北大付属病院で死去した。67歳。明治35年宮城県に生れ、大正8年東京府立八王子織染工業、学校専門科を卒業、同年甲田機業場技術員として勤務した。仙台平の伝統技術を伝授され、同12年甲田機業場を経営、仙台平機業協同組合理事長、仙台織物協同組合理事長などを歴任、昭和31年精好仙台平(重要無形文化財)保持者として人間国宝に指定され、同43年紫綬褒章を受けた。

吉田醇一郎

没年月日:1969/12/23

日展評議員で漆工芸家の吉田醇一郎は12月23日、心臓麻痺のため都内練馬区の自宅で没した。享年71才。明治31年1月15日新潟県西蒲原郡に生れ、同郡白根尋常高等科卒業後、明治45年4月に上京して浅草馬道に従弟奉公し、かたわら日本画を山田敬中に学び、少しおくれて漆工を植松包美について学んだ。大正13聖徳太子奉賛展に出品入選。14年第12回農商務省展に「暁秋盆」「晩秋盆」を出品し、前者は三等賞を受賞した。昭和3年御大典に際して岐阜県より献品作成の注文を受けて制作。以後引続き文展、日展に出品し、特選を二回受賞。昭和27年日展参事となり、翌年日展改組のため辞任し、昭和35年日展会員、37年評議員となる。この年5回日展には屏風「朝暾」を出品。6回には「五つのボクサー」の出品。39年7回日展には漆文箱「池畔」を出品し、審査員をつとめた。

矢加部アキ

没年月日:1969/05/22

重要無形文化財・久留米市絣技術保存者矢加部アキは5月22日心臓病のため福岡県三瀦郡の自宅で死去した。享年73才。同町の出身で昭和32年4月25日重要無形文化財総合指定の部の久留米絣の「絣手くびり」および「手織」の技術について指定された。

河合卯之助

没年月日:1969/01/14

陶芸家河合卯之助は、1月14日午後1時10分、京都府乙訓郡の自宅で老衰のため死去した。享年79才。河合卯之助は、明治22年(1889)3月3日、陶工初代瑞豊の次男として京都五条坂に生まれ、日本画を学び明治44年京都絵画専門学校を卒業した。大正5年自刻木版画集『伊羅保』を出版、大正11年陶芸研究のため朝鮮に旅行した。大正15年『河合卯之助陶画集』を出版、昭和3年に向日窯を築いて作陶、同8年には「押葉陶器」の特許をうけた。昭和12年、パリの芸術と技術万国博に出品、同13年ニューヨーク・サンフランシスコ博に出品、同18年9月『窯辺陶語』を出版した。戦後、昭和22年8月、向日窯を再建して作陶を続け、昭和32年5月には、神戸白鶴美術館において、同年11月には東京三越において陶歴50年記念展を開催した。昭和35年、随筆集『あまどう』を出版、同41年東京三越において喜寿記念展を開催した。生涯のあいだ、いっさい団体展覧会に参加せず、在野にあって独自の道をすすみ、戦前においては正倉院御物唐三彩の研究、李朝窯の発掘で功績をあげ、独自の作風から「赤絵の卯之助」とも呼ばれた。主要作品に、「紅蜀葵海塩彩壺」「孔雀歯朶染付瓶」「野芥子櫛彫瓶」「孔雀朶赤絵盛鉢」「秋海棠群虫赤絵瓶」「杉虫草文様壺」「金彩文花瓶」などがある。

山岸堅二

没年月日:1968/12/30

染織工芸家で、日展評議員の山岸堅二は、12月28日心筋こうそくのため、東京都立川市中央病院で死去した。68歳。明治33年長野県に生まれ、洋画を太平洋画会研究所及び片多徳郎に学んだ。昭和10年頃より創作染色を専門とし、同11年新文展に「果園の家族」が初入選した。以後官展出品をつづけ、昭和18年には「防空人物譜」が特選になり、戦後は、昭和22年日展「迎火」(染壁掛)が特選になった。

北出塔次郎

没年月日:1968/12/12

日展評議員、金沢美術大学名誉教授の陶芸作家北出塔次郎は、12月12日、胃ガンのため療養先の富山県東砺波郡で死去した。享年70才。北出塔次郎は、明治31年(1898)兵庫県に生まれ、大正5年関西大学法科を中退し、大阪美術学校で矢野喬村に学び、昭和11年富本憲吉に師事した。その後、文展、日展に出品、しばしば特選となり、昭和21年金沢美術工芸専門学校講師、同24年教授となった。石川県の伝統工芸である九谷焼に新風を吹きこんだ陶芸作家として知られ、昭和23年には、第1回金沢文化賞、同26年には北国新聞文化賞を受賞した。昭和34年以降、石川県文化財専門委員、同38年石川県陶芸協会会長などをつとめ、毎年東京・和光で個展を開催、昭和44年5月、日本芸術院賞をうけた。主要作品:「色絵蓮池文磁飾皿」昭和14年3回文展、「色絵陶磁魚貝文平鉢」同15年2600年奉祝展、「悠久牛壁画パネル」同16年4回文展特選、「金魚紋盛器」同18年文展特選、「歳寒二雅瓢型花生」同21年日展特選、「水辺讃夏香炉」同27年日展、「駱駝図飾皿」同29年日展、「花鳥扇面二折屏風」同32年日展、「縞馬陶器モザイク額面」同35年日展、「陶製駱駝壁画装飾」同39年日展文部大臣賞、「陶製日本の美」同41年日展、「樹海の饗宴」同42年日展、「胡砂の旅陶製額面」同43年日展。『日本の焼物(九谷篇)』(昭和37年、淡交社刊)の著書がある。

加藤土師萠

没年月日:1968/09/25

重要無形文化財保持者(人間国宝)の陶芸家、加藤土師萠(本名・一)は、9月25日午前11時半、肝臓がんのため東京・新宿区の国立第一病院で死去した。享年68歳。加藤土師萠は、明治33年(1900)、愛知県瀬戸市に生まれ、小学校を卒業後、伊藤四郎左衛門工場の陶画工となり、大倉陶園の初代技師長の陶芸家日野厚に師事し、愛知県立窯業学校の夜学に通い、図案、絵画、英語を学ぶ。大正6年瀬戸陶磁工商同業組合検査員、大正8年愛知県立窯業学校助手となる。大正9~11年兵役に服し、除隊後復職、同14年岐阜県商工技手となり、岐阜県陶磁器試験場に勤務した。昭和3~14年応召されて北支に従軍し、帰還後、商工技手を退官して陶磁工芸の創作に専念する。昭和2年8回帝展に「福寿文壺」を出品、以降毎回出品し、昭和10年に中国・朝鮮に旅行して各地の陶業を調査、同12年パリ万国博に出品し最高賞大賞を受賞した。昭和15年横浜市日吉に窯を築いて創作活動を続け、戦後は日本工芸会に所属し、中国明時代につくられた金襴手黄地紅彩など、現在中国で杜絶えている色絵磁器の技法を再現し、華麗な作品を伝統工芸展などに発表した。昭和28年、東京芸術大学美術学部非常勤講師、同30年教授となる。昭和36年、色絵磁器によって重要無形文化財の認定をうけた。昭和42年東京芸術大学教授を退官、名誉教授となり、また日本工芸会理事、文化財専門審議委員などをつとめ、皇居新宮殿の納める飾り壺を制作中であった。

久保金平

没年月日:1968/07/03

漆芸家久保金平は7月3日慢性腎臓炎のため京都市の自宅で逝去した。65歳。明治35年12月15日に滋賀県大津市で生まれた。高等小学校卒業後大正6年に鈴木表朔(初代)に師事。昭和3年9回帝展に菓子盛器「波紋」を出品入選した。同12年第1回文展に「高雄蒔絵手筥」が入選、20年第1回京展で市長賞授与された。21年に創人社同人として活躍し、23年京都朝日画廊で個展を開催した。同30年11回日展で、「晨韻漆屏風」が特選となった。32年朱玄会より同人。33年社団法人日展に委嘱出品、35年3回日展で審査員となる。同40年8回展でも審査員に任ぜられた。主要作品は「晨韻漆屏風」(昭和30年)、「花器のあるスクリーン」(31年)、「連翔漆衝立」(33年)、および「鶴」屏風、乾漆花器「黒象」、パネル「明けわたる」などで、このうち京都市より数回買上げになった。

石黒宗麿

没年月日:1968/06/03

重要無形文化財保持者、日本工芸会理事、石黒宗麿は、6月3日、京都市左京区の自宅で死去した。享年75歳。石黒宗麿は、明治26年(1983)4月14日、富山県新湊の医師石黒伯の長男に生まれた。明治31年7月11日富山県立富山中学校を中退したが、大正8年ころ東京美術クラブにおいて、世界の名器として定評のある稲葉家から岩崎家に移った曜変天目茶碗、「稲葉天目」をみて感激し、陶芸に志すにいたった。大正10年5月に上京して渋谷区富ヶ谷に築窯して製陶研究にはいり、同12年8月埼玉県比企郡に築窯、同15年2月に金沢市に移り、昭和2年1月京都市東山に転じ、このころから小山富士夫氏らと中国、日本の古陶磁の研究に着手し、その再現に努力した。石黒宗麿は、特定の師につかず、専ら古陶磁を師として独学研究に従ったが、昭和9年6月からは1年間、佐賀県唐津市に滞在して古唐津とお茶碗窯復興に尽力し、同10年4月10日には京都市郊外八瀬に築窯した。昭和13年5月、中国、満州、朝鮮各地の陶磁業を視察し、同16年11月、柿天目、黒定窯、河南天目、木葉天目など曜変天目からの感動に発した宋窯の研究は一応その技法を解明して完成された。こうした鉄釉にかかわる宋磁研究をもとにして品格の高い作品を発表し、他の追従を許さない境地を開拓し、また唐三彩、均窯、絵高麗、三島、唐津などの作域においてもすぐれた技術を示し幅広い活動をおこなって、陶芸界に大きな影響を与えた。昭和30年2月、鉄釉陶器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。また同年設立された社団法人日本工芸会の理事に就任し、伝統工芸の振興に力を尽し、昭和31年2月には富山県新湊市名誉市民に推され、同年6月には陶芸研究家のために居住していた住居、工房を提供して財団法人八瀬窯を設立し、後継者の養成にあたった。昭和38年11月、紫綬褒章を受章。なお、晩年には社会福祉法人愛隣会を通じて、身体障害者、精神薄弱児、母子家庭、保育園などの福祉活動にも献身的に協力していた。

岡田章人

没年月日:1968/04/09

漆芸家で日展審査員の岡田章人は、4月9日心臓マヒのため京都市上京区の自宅で死去した。57歳。明治43年6月17日香川県木田郡で生まれ、香川県立工芸学校を卒業した。昭和22年第3回日展「蒟醤雪柳之図手筥」で特選となり、第4回日展で、彫漆「層」棚が菊花賞となり、同38年第6回日展で審査員となった。

中島秀吉

没年月日:1968/02/02

伊勢型紙彫刻師で重要無形文化財(人間国宝の中島秀吉は、2月2日鈴鹿市の自宅で、急性心機能衰弱のため死去した。84歳。三重県津市に生まれ、17歳の時から伊勢型紙の彫刻をはじめ「道具彫り」を専門とした。昭和30年、重要無形文化財に指定された。

富樫光成

没年月日:1967/12/23

彫漆、鎌倉彫を専門とした富樫光成は12月23日脳血栓のため東京都豊島区の自宅で逝去した。83才。明治17年1月4日新潟県岩船郡に生れる。本名助蔵。明治39年上京、堆朱楊成に師事し漆芸の道に入った。農商務省、商工省の各展覧会、日本漆芸展などに入賞、昭和2年以降は帝・文展に入選12回、中でも第9回帝展出品作「梅文鎌倉彫文庫」などは主な作品である。その後は文展無鑑査、日展出品依嘱作家に選ばれ、又、日本伝統工芸展に出品していた。昭和42年3月日本橋三越で漆芸個展を開催。元芸大漆芸科非常勤講師をつとめていたが、晩年は、日本女子大桜楓学園に勤務していた。〔主要作品〕「堆朱彫縞文手箱」(文化財保護委員会無形文化課買上)「鎌倉彫椿文硯箱」「堆朱彫瀑布図文庫」「鎌倉彫朝露文飾箱」「彫漆曲輪香合」「鎌倉彫むさし野茶入」他。

金重陶陽

没年月日:1967/11/06

重要無形文化財、日本工芸会理事の備前焼の陶芸家金重陶陽は、11月6日午後10時30分、脳軟化症のため国立岡山病院で死去した。享年71才。金重陶陽は、明治29年(1896)1月3日、岡山県和気郡において備前焼窯元の名門“六姓”のひとつに生まれ、本名を勇。15才の頃から父、楳陽に陶製法を学び、以後、備前焼の制作に没頭し、一時期低俗な雑器焼となっていた備前焼を格調ある作風に復興させるべく室町・桃山期の古備前の作風復元に努力、窯変をもった芸術的作品の制作に成功し、備前焼中興の祖といわれた。昭和17年技術保存資格者となり、同19年日本美術及工芸統制協会代議員、同22年生活用品芸術陶磁器認定委員、同23年芸術陶磁器第2部資格者、同29年岡山県無形文化財の指定をうけ、同30年6月伝統工芸の保護育成を目的とした日本工芸会の創設に参加、理事をつとめ、同32年11月から33年2月にかけて欧米を巡遊。昭和33年一水会陶芸部新設に際して委員となり、同34年11月、中国文化賞、同35年1月山陽新聞社文化賞、同年3月には岡山県文化賞をうけた。昭和39年、41年にはハワイ大学夏期大学講師をつとめ、同41年には紫綬褒章をうけた。主要作品:備前緋襷平水指、備前筒水指(昭和36年)、備前手鉢(同37年)、備前筒水指、備前壺(同39年)、累座壺(同40年)、備前緋襷平水指、備前陶板(同40年)

鈴木清

没年月日:1967/10/06

陶芸家鈴木清は、10月6日狭心症のため京都第一日赤病院で死去した。享年61才。明治36年9月12日京都市東山区に生れ、京都第二工業学校を卒業した。昭和10年国画会で初めて陶芸を発表し、同15年には国画賞を受けた。昭和16年文展出品の「茄子之図大鉢」は特選となった。戦後国画会を退会し、富本憲吉に師事して同氏中心に結成された新匠会会員となり以後毎年東京京都の同会に出品をつづけた。昭和27年朝日新聞社主催第1回現代陶芸展で「桔梗鉄絵角皿」が文部大臣賞を受け、同32年には日本工芸会正会員となり、現代工芸界の指導的地位を占めて活躍していた。また昭和11年には琉球に、同17年には朝鮮各地に研究のため視察旅行をしている。

河村蜻山

没年月日:1967/08/01

陶芸家で日展監事であった河村蜻山、本名半次郎は8月1日胃病のため鎌倉市の道躰医院で死去した。77才であった。明治23年8月1日に京都市の陶芸家の家に生れた。41年京都陶磁器試験所を卒業し、父の業をついで蜻山と号した。以後大正中期にかけて伝統の束縛のとくにつよい京都の工芸界に新しい動きを起した。染付、窯変、青磁、白磁、三島手、赤絵、金襴手等多方面にわたる作風に秀れた作品を残し、またよく後進の指導にも尽した。昭和38年には多年の活動の功によって恩賜賞を受賞した。略年譜明治23年 8月1日京都市に生れる。明治41年 京都陶磁器試験所卒。明治43年 神坂雪佳主宰佳都美会創立に参加。大正13年 同会解散。美工院創立に加わり理事となる大正15年 日本工芸美術会創立、常務委員となる。日本美術協会審査員。聖徳太子奉讃会第一回展委員、陶板奏楽図出品。燿々会創立。蒼玄会創立、その指導にあたる。昭和2年 8回帝展工芸部(第四部)開設、「楽姫之図」「瑠璃地黒花文花瓶」出品。昭和3年 9回帝展「春妍啼鳥」「高坏竹之画」出品。昭和4年 国際美術協会創立、会員となる。10回帝展「染付四方形花瓶」出品。昭和5年 11回帝展審査員。「染付釣舟花器衝立連作」出品。昭和6年 日本陶芸協会創立総務となる。12回帝展「染付芭蕉果物皿」出品。昭和8年 日本陶器株式会社顧問(~12年)。14回帝展「瑠璃磁群鷺花瓶」出品。昭和10年 日本陶芸協会解散。昭和11年 1回文展審査員「磁器染付松竹梅文大皿三枚揃」昭和12年 文展審査員。昭和13年 千葉県我孫子に移窯。2回文展「磁器鶏口吹墨花瓶」昭和14年 3回文展「青瓷香炉」昭和15年 紀元2600年奉祝展「八方形染付蒼々万古花瓶」昭和16年 工芸美術作家協会創立、常務委員。4回文展「四方形白瓷牡丹文花瓶」昭和17年 5回文展「茶葉末瓷香炉」昭和18年 美術統制会設立、部会委員。美術報国会常任幹事。6回文展「花瓶赤絵」昭和19年 日本美術統制会査定委員。戦時特別美術展「花鳥絵変十枚」昭和21年 1回日展「花瓶赤絵花鳥文」昭和22年 3回日展「花瓶染付三友図」昭和24年 5回日展「磁器富貴清香染付花瓶」昭和25年 6回日展「陶器染付花瓶」昭和26年 7回日展「花瓶四方形兎文」昭和27年 日展参事。昭和28年 9回日展「花瓶青瓷」昭和29年 鎌合に移住、10回日展「陶器花瓶流転」昭和30年 11回日展「花瓶茶金瓷」昭和31年 12回日展「水注金襴手春光」昭和33年 1回日展評議員、「緑地金襴手渦文花瓶」昭和34年 2回日展「花瓶染付蒼生」昭和35年 3回日展「花瓶果実文」昭和37年 5回日展「花瓶梅」昭和38年 37年度日本芸術院恩賜賞受賞。6回日展「花瓶染付落葉」昭和40年 日展監事、8回日展「花瓶染付松」昭和41年 9回日展「赤絵金彩空」昭和42年 8月1日死去する。

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