石井鶴三

没年月日:1973/03/17
分野:, , , (彫,洋)

 日本芸術院会員の石井鶴三は、3月17日午後10時20分、心臓衰弱のため東京都板橋区の自宅で死去した。享年85歳。4月2日正午から2時まで、葬儀及び告別式が春陽会葬(委員長・中川一政)として青山葬儀所で行われた。明治20年6月5日、東京・下谷に日本画家石井重賢(号・鼎湖)の三男として生れた。祖父は鈴木我古、長兄は柏亭と三代にわたる画家の家系である。数え12歳の時、千葉・船橋の農家、矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となったが、この頃、馬と遊ぶうちに馬体の不思議な触感に感動したのが彫刻を志す契機となったという。明治37年には実家石井へ戻り、4月から小山正太郎が指導する洋画塾「不同舎」へ通学してきびしい素描力を養い、また7月から長姉の嫁ぎ先の縁故にあたる加藤景雲の門に入り木彫の手ほどきを受け、翌年38年9月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、43年同校卒業、さらに研究科へ進み大正2年ここも修了した。彼が明治末期から美術界の多方面にわたって活躍してきたのは、この青少年時代の基礎勉強と独自な探求姿勢によるもので、油彩・水彩画、版画、挿絵などにも多彩に秀れた才腕を発揮してきたが、それはとりもなおさず彼の芸術の本領が最もよく発揮された彫刻造型の追究に帰されるものと考えられよう。東京美術学校在学中、荻原守衛の彫刻に感動し、一時は「荒川嶽」に代表される文展出品があり、大正3年再興の日本美術院の彫刻部に入り、その研究所で中原悌二郎、戸張孤雁、佐藤朝山、平櫛田中、保田竜門らと研鑽を重ねた。明治の末期、荻原のフランスからの帰国を契機として漸く近代の扉を開いた日本の彫刻界では、荻原の夭折後その系譜がごく少数の同志が残る院展彫刻部に引き継がれ、官展流とは違った内省の強い写実主義が誠実に追究された。なかでも石井は、対象の表面的で安易なまとまりを避け、内面的な造型の骨格を明示しようとつとめた稀有な存在であり、その実現は「母古稀像」「俊寛」「藤村先生」「風(試作)」などの代表作に窺われるように、峻厳な造型の内発力を示す作調となって、昭和期院展或いは別の場でながく指導的役割を果した。同じく昭和19年から34年まで東京芸大教授として「石井教室」で指導された門生たちの中には、学生時代、造型の原理をきびしくたたきこまれた師恩の深さを今に感謝しているものが全く多い。その業績の大体は、下記の略年譜(信濃教育第1044号<昭和48年11月号>の特集・石井鶴三先生追悼号に所載の岡田益雄編のものを主に参照した)で推察されたい。

略年譜
明治20年(1887) 6月5日東京市下谷区に生れる。父は重賢(号鼎湖)、母ふじの三男。兄は満吉(柏亭)。
明治30年 父重賢没。
明治31年 千葉県船橋町の農家矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となる。
明治37年 実家石井家に戻る。小山正太郎の画塾不同舎に学ぶ。加藤景雲に師事。
明治38年 9月東京美術学校彫刻科選科に入学。この頃より肺結核にかかり、20歳のとき医療を廃し、みずからの養生法をおこない快方に向う。
明治39年 東京パックに入社、漫画をかく。苦学生の生活が続く。浅間山に登る。
明治41年 第2回文展で荻原守衛の「文覚」に感動する。この頃から推古仏に関心を抱き、また埴輪の美にひかれる。
明治42年 はじめて日本アルプスに登る。以後しばしば登山し山岳のもつ彫刻美にうたれる。
明治43年 東京美術学校卒業、同校研究科に進む。
明治44年 第5回文展に「荒川嶽」入選。
大正2年 東京美術学校研究科修業。
大正4年 日本美術院同人佐藤朝山のすすめで、日本美術院に入り、研究所で彫塑研究をはじめる。福田美佐を知る。第2回二科展に「縊死者(水彩)」入選。
第2回日本水彩画会展に「溪谷」「小学校」他2点入選。
大正5年 日本美術院同人に推される。第3回二科展に「井戸を掘る」「行路病者」(共に水彩)入選。
大正6年 第4回日本水彩画会展に「峠」「山茶花」出品。
大正8年 福田美佐と結婚し、東京・田端に移り住む。
大正9年  個展(兜屋画廊)を開く。
大正10年 東京・板橋中丸の新居に移る。日本水彩画会の会員に推挙される。上司小剣作「東京」に挿絵を描く。
大正13年 日本創作版画協会の会員となる。上田彫塑研究会の講師となり、以後毎年夏期講習会において指導する。昭和45年(第46回)まで毎年続ける(但し昭20休講)春陽会会員となる。
大正14年 中里介山作「大菩薩峠」の挿絵をかく。以後断続して昭和2年に及ぶ。
大正15年 自由学園に美術を教える。(昭和15年まで)。「婦人像」(上田における第1回講習会の作品)を院展に発表。
昭和4年 伊那の彫塑講習会の講師となる。(翌年まで2回、3回目からは有志による)
昭和5年 院展に「俊寛頭部試作」「踊」を出品。「石井鶴三素描集」を刊行する。直木三十五「南国太平記」の挿絵をかく。
昭和6年 院展に「浴後」「信濃男坐像」(上田彫塑講習作)を出品。
昭和7年 子母沢寛作「国定忠治」の挿絵をか。
昭和8年 長野の彫塑講習会の講師となる。3年続くが昭和11年から上田に合流する。
昭和9年 「石井鶴三挿絵集」第1巻(光大社刊・「大菩薩峠」の挿絵)刊行。
昭和11年 院展に「針塚氏寿像」「老婦袒裼」(上田の作)を出品。
昭和12年 長野美術研究会の絵画講習の講師をつとめ、昭19・20休講しただけで昭和33年まで毎年続く。
昭和13年 随筆集「凸凹のおばけ」刊行。吉川英治「宮本武蔵」の挿絵をかく。上田で春陽会絵画講習を開き、3年継続する。
昭和14年 日本版画協会会長となる。
昭和18年 北中国旅行。上田で「石井鶴三小品展」を開く。院展に「藤村先生坐像」出品。随筆集「凹凸のおばけ」(増補版)刊行。「宮本武蔵挿絵集」刊行。
昭和19年 美術学校改組により、東京美術学校教授となる。
昭和20年 8月7日妻美佐病没(58歳)甲州棡原の山荘へ往来、以後数年に及ぶ。和田光子(妹)と同居。
昭和23年 岩手県に高村光太郎をたずねる。院展に「仕舞」(鷹野悦之輔像)を出品。
昭和24年 上田彫塑研究会25周年記念展・講演会開催。
昭和25年 院展に「肖像」(石黒忠篤氏)を出品。坂本繁二郎を九州にたずねる。日本芸術院会員に任命される。横綱審議会委員になる。
昭和26年 「木曽馬1・2」を院展に出品。「藤村先生木彫像」の第二作に着手する。
昭和27年 法隆寺金堂再建修理にあたる。翌28年まで続く。院展に「小学校教師像」(松尾砂氏像)を出品。
昭和29年 6月、「石井鶴三彫刻展」を中央公論社画廊で開催。上田彫塑30年記念展・講演会を開催。
昭和30年 子母沢寛「父子鷹」の挿絵をかく。和泉保之師につき、狂言、小舞などのけいこを続ける。
昭和31年 信濃教育会発行「彫刻家荻原碌山」刊行。
昭和33年 兄柏亭没する。院展に「校長像」(山浦政氏)を出品。中国旅行をする。
昭和34年 東京芸術大学教授退官。同名誉教授となる。上田で35周年記念「石井鶴三作品展」開催(上小教育会主催)。
昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。
昭和37年 腸閉塞をわずらい、入院手術。
昭和38年 和田光子の孫蹊子(昭和22年より同居)を養女とする。法隆寺中門仁王修理にあたる。
昭和41年 ヨーロッパ旅行。
昭和44年 相撲博物館長となる。
昭和46年 2月病気のため入院。翌年4月退院、自宅で療養。
昭和48年 3月17日午後10時20分、自宅で心臓衰弱のため死去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(233-234頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年04月04日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「石井鶴三」が含まれます。
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