清宮質文
詩的な心象世界を版画で謳う元春陽会会員の版画家清宮質文は、5月11日午後4時54分、心筋こうそくのため東京都杉並区の山中病院で死去した。享年73。大正6(1917)年6月26日、洋画家清宮彬の長男として、東京府豊多摩郡に生まれる。四谷区第五小学校を経て、昭和10(1935)年麻布中学校を卒業。同年夏、同舟舎絵画研究所に入り、駒井哲郎と出会う。同12年東京美術学校油画科に入学。藤島武二に師事し、四年からは田辺至教室に学んで、同17年3月同校を卒業。在学中、版画教室で銅版画を試みる。東美校卒業の年の6月、長野県上田中学校の美術教師となるが翌年3月辞任。同年9月に上京し、翌19年慶応義塾工業学校の美術教師となる。同年応召。同20年慶応義塾工業学校に復職し、同24年に同校を辞して商業デザインに従事。同26年より27年まで商業デザイン会社に勤務するが、同28年8月、東美校の同級生による「ゲフ(䲜)の会」の結成に参加し、これをきっかけに制作に専念するとともに、木版画を始める。同29年第31回春陽会展に「巫女」で初入選。以後同展に出品を続け、同31年同会準会員、同32年同会会員となった。同33年11月、東京のサヱグサ画廊で初個展開催。同35年12月、東京の南天子画廊で個展を開いて以降、同画廊を作品発表の場とする。同37年第3回東京国際版画ビエンナーレ展に「枯葉」「蝶(ある空間)」を招待出品。同48年第10回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに木版画10点よりなる画集「暗い夕日」を出品。同49年第51回春陽会展に「告別」を出品したのを最後に同会へは出品せず、同52年同会を退会して無所属となる。同61年南天子画廊より『清宮質文作品集』(現代版画工房編)を刊行。版画の可能性を複製性よりも造形的特色に認めてモノタイプを中心に制作し、深い思索を背景に、静謐で詩的な独自の画風を示した。没後の平成3年7月、南天子画廊で追悼展が行なわれている。なお、年譜は『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房 平成4年12月)に詳しい。
出 典:『日本美術年鑑』平成4年版(296-297頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)
例)「清宮質文」『日本美術年鑑』平成4年版(296-297頁)
例)「清宮質文 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10355.html(閲覧日 2024-10-10)
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