山田新一

没年月日:1991/09/16
分野:, (洋)

日展参与、光風会名誉会員の洋画家山田新一は、9月16日午後7時10分、肺炎のため京都市の病院で死去した。享年92。明治32(1899)年5月22日、台北市に生まれる。父の任地である甲府、東京、青森、北海道小樽、栃木で幼少年期を過ごし、大正6(1917)年宮崎県都城中学校を卒業。同年川端画学校に入る。同7年東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事し、佐伯祐三と交遊する。同12年東美校を卒業して同校研究科へ入学。同年京城より昭和20(1945)年の第二次世界大戦終戦まで同地に住んだ。この間、朝鮮総督府京城第二高等普通学校常勤講師をつとめ、大正13年第3回朝鮮美術展に「花と裸女」を出品して3等賞受賞。昭和8年同展では昌徳宮賜賞を受け、同11年同展参与となった。また、大正14年「リューシャの像」で第6回帝展に初入選。以後同展に出品を続ける。昭和3年より同5年までフランスに滞在し、アカデミー・グラン・ショーミエールでアマン・ジャンに師事。滞仏中はサロン・ドートンヌに出品した。戦後は京都に住み、日展に出品を続けるとともに、同23年より光風会展にも出品し、同年同会会員に推された。同25年第6回日展に「湖上客船」を出品して同展岡田賞を受け、同35年日展会員、光風会評議員、同52年日展参与となった。一方、京都工芸繊維大学、京都女子大学、関西日仏学館で教授をつとめるとともに、同27年開設のヤマダ洋画研究所で後進を指導した。同59年、宮崎県の記念事業として画業60年展を開催。明るく穏やかな色調で室内の婦人像を描くのを得意とした。

帝展、新文展、日展出品歴
第6回帝展(大正14年)「リューシャの像」(初入選)、7回「少女の像」、8回「W博士家族」、11回(昭和5年)「読後」、12回「女とグロキシニヤ」、文展鑑査展(同11年)「江畔」、第2回新文展(同13年)「三角巾を持てるF・Y像」、3回「赤いジレ」、2600年奉祝展「庭に憩ふ」、4回「R嬢像」、5回「樹蔭」、戦時特別展(同19年)「うすれ日の北京」、第3回日展(同22年)「九月の庭」、4回「初秋の庭にて」、5回「初秋の子供達」、6回「湖上客船」(岡田賞)、7回「ヨットと遊ぶ」、8回「ヨットの姉妹」、9回「湖畔小憩」、10回(同29年)「ヨットクラブにて」、11回「庭の前」、12回「湖畔のボートハウスにて」、13回「ヨットのかげ」、第1回社団法人日展(同33年)「湖畔の午後」、2回「山荘晩夏」、3回「窓辺」、4回「夏日」、5回「休息」、6回「うすれ陽の琵琶湖」、7回「曇日の比良」、8回「白いシュミーズのダニエル」、9回「初夏の朝」、10回「椅子の人」、11回「リスボンのジュデイト」、改組第1回日展(同44年)「亜麻色の髪のスジー」、2回「窓辺のエディット」、3回「マキシのMelle Annie」、4回「ドミニック像」、5回「スペインの衣裳」、6回「踊る女」、7回「パンタロンのジャニヌ」、8回「休息するジャニンヌ」、9回「フラメンコ」、10回(同53年)「ソファーの裸婦」、11回「長椅子の裸婦」、12回「新秋の装」、13回「椅子に凭る」、14回「裸婦」、15回「夏の装」、16回「ソファーにもたれるカーレン」、17回「ヴァレリー」、18回「盛夏の装」、19回「秋のおとずれ」、20回(同63年)「惜春(フレデリック)」、21回「赤衣」、22回不出品

出 典:『日本美術年鑑』平成4年版(302頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山田新一」『日本美術年鑑』平成4年版(302頁)
例)「山田新一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10418.html(閲覧日 2024-03-29)

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