本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





中川力

没年月日:1994/06/01

洋画家中川力は、6月1日急性呼吸不全のため東京都千代田区の杏雲堂病院で死去した。享年75。大正7(1918)年10月4日台湾高雄市に生まれる。本名力。大阪の盛器商業学校を中退後、大阪中之島洋画研究所に通い洋画家を志した。同17年応召し同21年に復員、翌年から一水会展に制作発表を行った。同24年、第14回一水会展に「裸婦」で一水会賞を、同年の第3回日展に「踊子」で特選をそれぞれ受けた。同29年渡仏しパリでアカデミー・ジュリアンへ通い、翌年サロン・ドラールリーブルに出品、同31年帰国した。同年一水会会員、日展依嘱となったが、同34年一水会、日展を離れ、以後無所属で制作発表を行った。同64年、求龍堂より『中川力画集』を刊行する。

富岡惣一郎

没年月日:1994/05/31

読み:とみおかそういちろう  独自の白色を基調とする作品で、国際的に知られた新制作協会会員の洋画家富岡惣一郎は5月31日午後7時15分、急性腎不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年72。大正11(1922)年1月8日、新潟県高田市南本町2-12に生まれる。昭和14(1939)年新潟県立高田商業高校を卒業。同29年第18回新制作協会展に初入選。同35年より40年まで三菱化成工業株式会社のアートディレクターをつとめる。同36年第25回新制作協会展に「淡いもの」「黒いもの」を出品して新作品賞受賞。同37年同展に「黒い点B」「赤い点A」を出品して新制作協会賞受賞。また同年第5回現代日本美術展に「黒い線」を出品してコンクール賞を受賞する。同年第7回サンパウロ・ビエンナーレに「永久の流れ」を出品してサンパウロ近代美術館賞受賞。同年アメリカに旅行し個展を聞く。同40年より米国ニューヨークに住んで制作。同40年メキシコへ、同41年カナダ・アラスカへ、同42年カナダへ旅行。ニューヨーク滞在中は中間色を用いた平面性の強い抽象画を描いたが、異国にあって自らを育んだ、国土に根ざす制作が、国際的にも意味を持つことを認識する。同47年日本に帰国して三重県熊野に居住。翌48年1月より京都に住んで古くから描かれてきた日本の風景に取材して制作を始める。やがて画題を自らの郷里越後を含む雪国の風景にもとめるようになり、とりわけ雪の白さの表現に執着。トミオカ・ホワイトと賞称される、特殊な白絵具を大型のベインティングナイフで入念に塗り込んだ重厚なマティエール、その上に施された黒い線描で、墨絵風の閑寂な画風を築いた。同48年国立京都国際会館で、京都・熊野シリーズを展観する個展を聞いた後、同49年銀座和光及び札幌松坂屋で北海道シリーズを、同50年銀座和光で北海道東北シリーズを展観して、以降毎年和光で個展を開催。同59年「White No.1」で東郷青児美術館大賞受賞。平成3年新潟県八海山麓にトミオカ・ホワイト美術館が開設され、作品400余点が収蔵された。京王プラザホテルのステンレスエッチング壁画「雑木林」(昭和47年)、上越市庁館アルミエッチング壁画「雪国」(同51年)、長岡市図書館アルミエッチング壁画「雪国」(同61年)等公共施設への大規模壁画も制作。作品集に『富岡惣一郎白の世界」(同63年)等がある。

瀬戸浩

没年月日:1994/05/11

読み:せとひろし  益子焼の陶芸家瀬戸浩は5月11日午前9時10分肺がんによる呼吸不全のため栃木県河内郡南河内町の病院で死去した。享年53。昭和16(1941)年2月26日徳島市に生まれ、幼少期を鳥取市で過ごす。昭和39年京都市立美術学校工芸科陶磁器専攻科を卒業。富本憲吉、近藤悠三、藤本能道、清水九兵衛に師事し、在学中の同38年日本伝統工芸展に「白い壷」で初入選。新匠展にも入選する。同40年栃木県益子に築窯。同46年日本陶芸展に「灰釉刷毛目鉢」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同47年アメリカインディアナ大学、南コロラド州立大学講師として招聴され、渡米。翌48年ニューヨーク、コロラド、インディアナ州立美術館で個展を開催する。同49年、東京の南青山グリーンギャラリーで個展「原色による試み」を開催。同51年には同ギャラリーで個展「建築空間の為に」を開催し、従来の陶芸にとどまらず、新局面への模索を続けた。同53年国際交流基金によりフィリピン、タイ、インドネシアへ派遣され、また同年オーストラリア「アートヴィクトリア’78」に招聘されるなど、国際的にも活躍。同58年北関東美術展に「ストライブの板皿」を出品して優秀賞受賞。同年第7回日本陶芸展に「黒紬銀条文板皿」を出品して外務大臣賞を受賞する。同60年朝日陶芸展に招待出品。同58、60、61年には三越本屈にて「ストライプ」と題して個展を開催している。同55年東北新幹線宇都宮駅陶壁画「栃の木讃歌」等、公共の場の壁画も制作した。

田中青坪

没年月日:1994/05/07

東京芸術大学名誉教授、横山大観記念館理事長、日本美術院評議員の日本画家田中青坪は、5月7日午前11時5分、心不全のため、東京都杉並区の病院で死去した。享年90。明治36(1903)年7月13日、群馬県前橋市に生まれる。本名文雄。東京神田の錦城中学校を3年で中退した後、太平洋画会洋画研究所に学んだが、大正10年に小茂田青樹に師事するようになる。同13年の第11回院展に「子女図」が初入選。簡潔な描写ながら、存在感のある少女と小児を描いた作品であった。その後は、昭和7年の第19回院展まで、毎回入選し、この年に、奥村土牛、小倉遊亀とともに同人に推挙された。同19年には、山本丘人とともに東京美術学校助教授となる。同34年には、東京芸術大学教授となる。また戦後もひきつづき院展に出品をつづけ、同42年の第52回展に出品の「春到」で、文部大臣賞を受けた。本作品は、自然の一角を濃密な描写と色彩でとらえた、情感豊かな扉風(四曲半双)の大作であった。さらに、同49年の第59回展出品の「浅間」からは、浅間山を主題に、スケールの大きい景観と近景の森や自然の対比を巧みに生かした風景画のシリーズを発表しつづけた。同60年の第70回展に出品した「武蔵野」が、院展への最後の出品となった。

安宅英一

没年月日:1994/05/07

読み:あたかえいいち  元安宅産業会長で、世界有数の東洋陶磁コレクション「安宅コレクション」を収集した安宅英ーは、5月7日午後1時、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年93。明治34(1901)年1月1日、安宅産業の前身である安宅商会の創立者弥吉の長男として香港に生まれる。大正13(1924)年、神戸高等商業学校を卒業して翌年安宅商会に入社し、向年より昭和9(1934)年まで同商会取締役をつとめる。戦後、同20年より22年まで安宅産業株式会社取締役会長をつとめた後、同30年より40年まで再び同役にあり、同40年相談役社賓に退く。この問、同26年に安宅産業株式会社が美術品収集を開始した際、その収集責任者となり、以後、同社が経営危機に陥り美術品収集を停止する同50年までの聞に東洋陶磁を中心とする総数約1000点、うち国宝、重要文化財十数点を含む「安宅コレクション」を築ぎ上げた。同コレクションの東洋陶磁は同52年、安宅産業株式会社が伊藤忠商事株式会社に合併されるのに伴い、エーシー産業株式会社に移管されたが、同57年に住友グループ21社によって大阪市に寄贈され、これを受けて大阪市立東洋陶磁美術館が設立された。美術の他、音楽活動の支援も行い、同12年以降、東京芸術大学音楽学部に奨学金「安宅賞」を拠出して現在に至っている。

細川宗英

没年月日:1994/04/30

元東京芸術大学教授で新制作協会会員の彫刻家細川宗英は4月30日午後10時26分肝不全のため東京都文京区の東大病院で死去した。享年63。昭和5(1930)年7月25日長野県松本市に生まれる。東京芸術大学彫刻科で菊池一雄に師事し、同29年同科を卒業。同年同専攻科に進学し、在学中の同30年第19回新制作派協会展に「トルソO」「鳥になる女」で初入選。以後同展に出品を続ける。同31年東京芸術大学専攻科を終了して同校彫刻科副手となり、また、同年の第20回新制作展に「兜をかぶる男」「うつむく女」「三人の立像」を出品して新作家賞を受賞する。同33年秀作美術展に招待出品し、また新制作協会会員となる。同34年世界平和交友美術展に出品し、佳作賞受賞。同展出品に伴いモスクワ経由でウィーンを訪れる。同39年新制作展に「装飾古墳のイメージ」を出品し、翌40年高村光太郎賞受賞。同43年文化庁芸術家在外研修員として渡米し、メキシコ、ヨーロッパをも訪れる。同47年前年の作品「道元」で中原悌次郎賞を受賞し、同55年第1回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞。同52年母校東京芸術大学彫刻科助教授、同56年同科教授となった。同58年東京現代野外彫刻展に招待出品し優秀賞を受賞。上記の他の代表作として「王妃像」「王様と王妃」などがある。対象の形を忠実に再現する人体像から、人体を部分に解体して、静物などのそティーフとともに再構成する象徴的作風を示し、具象彫刻界に指針を示した。時に、号として「無水」を用いた。

立石春美

没年月日:1994/04/27

日展参与の日本画家立石春美は、4月27日脳こうそくのため静岡県熱海市の病院で死去した。享年85。明治41(1908)年5月16日佐賀県に生まれる。本名春美。昭和2年上京し、翌年から朗峯画塾に入り伊東深水に師事する。同6年第12回帝展に「淑女」で初入選し、以後、帝展、新文展に出品した。戦後は日展を中心に制作発表を行い、同21年の第1回日展に「年寄」で特選を受け、同26年の第7回日展では「山荘の朝」で特選、朝倉賞を受賞した。同39年日展会員に推挙され、のち評議員、参与をつとめた。師深水に連なる美人画、人物画を得意としたが、簡略化した構図に独自の領域を築いた。また、昭和31年には、がんの権威中山恒明医博の依頼により、華岡青洲を題材に「麻睡実験する図」を制作した

山本陶秀

没年月日:1994/04/22

備前焼き作家で轆轤の達人と称された国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の山本陶秀は、4月22日午後零時35分肺炎のため岡山市の岡山赤十字病院で死去した。享年87。明治39(1906)年4月24日、岡山県和気郡伊部町伊部(現・備前市伊部)に農業を営む父源次郎、母君の次男として生まれる。本名政雄。大正8(1919)年伊部尋常高等小学校を卒業し、同10年当時伊部の窯元として最大手だった黄薇堂の見習いとなって陶芸の道に入る。同12年伊部の窯元桃渓堂へ移り花器、花入れ細工物等を制作する本格的な作陶を始める。昭和8(1933)年、伊部に開窯して独立、同13年楠部禰弌に入門する。同14年第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品して優良賞受賞。同16年にも同展で受賞する。同18年当時軍需省の管轄にあった国立京都窯業試験場の図案部長水町和三郎の発案により備前焼緋襷を応用した南方むけ食器を生産することとなり、その制作者に選ばれ、軍需省嘱託として備前焼きの皿などの食器制作にあたった。同23年国の技術保存認定を受ける。同26年北大路魯山人、イサム・ノグチらが伊部を訪れた際、交遊し作陶の面でも多くを学ぶ。同29年岡山県重要無形文化財作家に指定される。同30年第2回日本伝統工芸展に「備前旅枕花入」で初入選。以後同展に出品を続ける。同34年ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品してグランプリ金賞を受賞。また、同年日本伝統工芸会の正会員となる。同39年はじめて欧州旅行に発ち、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスを訪れて美術品、史迹、古窯跡とともに現代の欧州陶芸を視察し、備前焼の価値を再確認する。同42年韓国へ赴きソウルを中心に歴史ある窯元を視察。翌43年には台湾、香港、マレーシア、シンガポール等東南アジアの視察旅行に赴く。同44年地元作家、窯元、陶商の団体である備前焼陶友会副会長に就任。同45年日本工芸会理事となる。同47年岡山県文化賞受賞。同51年「陶歴55年記念備前山本陶秀茶入展」を東京日本橋三越で開催し、同展を訪れた谷川徹三に評価されて翌52年毎日芸術賞受賞。同58年「山本陶秀喜寿記念展」を東京日本橋三越、大阪心斎橋大丸、小倉井筒屋で開催。同61年「山本陶秀傘寿記念展」を岡山天満屋、岐阜近鉄百貨居、大阪京阪百貨店、東京東急百貨店、小倉井筒屋で開催。同62年国指定重要無形文化財保持者「備前焼」に認定される。その後も平成元(1989)年東京日本橋三越で「人間国宝山本陶秀展」、同2年広島福屋で「作陶70年人間国宝山本陶秀展」、同3年名古屋松坂屋および東京日本橋三越で「人間国宝 備前山本陶秀展」を開催するなど多くの個展により作品を発表した。桃山期の「間合い」を重んじた備前焼に学び、華麗な作風を示した金重陶陽、大胆豪放な趣で知られた藤原啓という備前焼の人間国宝の作風に対し、陶秀は熟練を極めた轆轤技術によって均整のとれた端正、清楚な作品を制作した。画集に『備前山本陶秀作品集』(毎日新聞社 昭和49年)、『人間国宝 備前山本陶秀』(山陽新聞社 平成4年)等がある。

国松登

没年月日:1994/04/18

読み:くにまつのぼる  国画会会員の洋画家国松登は4月18日午前4時4分、心筋梗塞のため東京都千代田区の駿河台日本大学病院で死去した。享年86。明治40(1903)年5月6日北海道函館に生まれる。昭和2年上京して帝国美術学校西洋画科で学ぶが、同校在学中の昭和6年に同郷の洋画の洋画家三岸好太郎に出会い、のち師事する。同7年道展に出品、同8年第3回独立美術協会展に「池」で初入選。同展には同12年まで出品をつづける。同13年より国画会に出品し始める。同14年帝国美術学校を卒業、また同年第14回国画会展に「薔薇と少女」を出品して国画褒状を受賞。また同年第3回文展に「雨霽るる」で初入選。同15年第15回国画会展に「ぶろんど」を出品して岡田賞を受け、同年会員となる。同20年全道展を設立し、創立会員となる。同34年北海道文化賞(芸術部門)を受賞。同36年欧米を訪れる。同52年札幌市民芸術賞を受賞。同57年北海道新聞社主催により、札幌で「画学55年回顧展」を開催する。その後間もなく「自のない魚」シリーズを描いたが、同30年代後半より「氷人」シリーズを描ぎ始め、白、緑、青など寒色系を基調とする清涼感のある色調で、情緒豊かな作風を増した。北海道立近代美術館で「風魔の心象-国松登展」を開催。同61年北海道新聞文化賞(社会文化賞)を受賞した。画集に『国松登画集』(同52年)がある。

利根山光人

没年月日:1994/04/14

読み:とねやまこうじん  造形芸術に幅広く活躍し、メキシコ美術研究でも知られた美術家利根山光人は、4月14日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年72。大正10(1921)年9月19日東京都世田谷区深沢町3-525に生まれた。本名光男。昭和18年9月早稲田大学文学部(国漢科)を卒業、学徒出陣した。在学中から美術研究会に所属し、川端画学校に学んだ。戦後の同24年読売アンデパンダン展に出品し、同26年の第3回同展出品作「雨」「風」で本格的に画壇にデビューした。また、同25には自由美術展へも出品、同27年にはタケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29から翌年にかけ佐久間ダムの工事現場へ入り、その体験から「佐久間ダムに寄す」(同30年)を制作発表し、一躍注目を浴びた。はやくから社会性を題材に行動的な制作を行った。同30年開催のメキシコ美術展に感動し、同34年以来しばしばメキシコを訪問、とくに古代マヤ文明に大きな啓示を受け、その後、マヤ文明の古代文様に現代のイメージを重ねる独特の作風を鮮烈な色彩のうちに展開した。この聞のメキシコに取材した作品に「太陽の神殿」(同41年)などがある。また、シケイロスらとの交友によって大壁画制作へも向い、JR横浜、東北新幹線北上駅などの壁画を手がけた。同37年には日墨文化交流に尽力した功績によって、メキシコ政府からアギラ・アステカ文化勲章を受章する。同46年、前年携わった聖徳学園川並記念講堂の緞帳「無限」で多田美波とともに建築美術への功績により吉田五十八賞を受賞、同50年には、活力ある文化批評を内蔵した幅広い造形芸術に対して日本芸術大賞を受けた。無所属の作家として画壇とは無縁な一方、同51年には音楽家の夫人とともに自宅に「アルテ・トネヤマ」音楽・絵画研究所を設け、美術教育に尽力し、またアトリエを開放して一年おきに個展を開催した。「ドン・キホーテ」シリーズや版画「ヒロシマ・ナガサキ・南京シリーズ」に見るように、精力的な制作活動の根底には、一貫して戦争体験に基づくヒューマニズムが底流しているところに利根山芸術の大きな特色があった。晩年の作品に「天馳ける」(平成2年)などがある他、千葉県松戸市の聖徳学園には、壁画「伝統」(昭和48年)をはじめ、20年以上にわたる作品群が残されている。作品集に『装飾古墳-利根山光人スケッチ集』(昭和51年)など。

榎戸庄衛

没年月日:1994/04/12

読み:えのきどしょうえ  洋画家の榎戸庄衛は、4月12日午後3時50分、急性肺炎による急性心不全のため茨城県東茨城郡大洗町大貫町の自宅で死去した。享年85。榎戸庄衛は、明治41(1908)年9月20日、茨城県西茨城郡岩瀬町に生まれ、大正14(1925)年、県立笠間農学校本科を卒業。その後上京して、昭和7年、太平洋美術学校洋画科本科を卒業する。翌年、第14回帝展に「母と子」が初入選。さらに同17年の第5回新文展に入選した「秋果豊収」が特選となり、翌年の第6回新文展に「九龍壁(北京)」(茨城県近代美術館蔵)を招待出品。以来、同24年の第5回日展「浴後」まで、官展に出品をつづけた。一方、同16年には、安宅安五郎、大久保作次郎、鈴木千久馬等が結成した創元会に参加、翌年には会員となって出品をつづけた。同24年、同会を退会、新たに牛島憲之、須田寿、有岡一郎とともに立軌会を結成、同34年の第11回展まで出品をつづけた。画風は、戦前の手堅く、平明な描写によるものから、戦後は様式化した具象表現へと変わり、さらに抽象表現主義的な形態の解体がすすみ、一切の団体に属することがなくなってからは、士俗的な記号を中心に独自の抽象表現を築いていった。そうした作品は、所属する会派をこえて選抜される選抜秀作美術展(朝日新聞主催)や、日本国際美術展(毎日新聞社主催)などに、たびたび出品された。また、同40年には、茨城県から、第2回茨城文化賞を受けた。

島田修二郎

没年月日:1994/04/11

東洋美術史家で、米国プリンストン大学名誉教授の島田修二郎は、4月11 日午後6時45分、呼吸不全のため、京都市西京区の関西医大洛西ニュータウン病院で死去した。享年87。明治40年3月29日、兵庫県神戸市に生まれた。父は治平衛、母は静尾。昭和2年3月、第三高等学校文科甲類を卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、同6年3月に卒業後、12年3月まで、京都帝国大学大学院で東洋絵画史を専攻した。同13年3月から17年3月まで京都帝国大学文学部副手をつとめ、また16年5月から23年4月まで京都府社寺課の嘱託として寺院什宝の臨時調査に当たった。同23年7月から国立博物館研究員として美術研究所に勤務し、26年12月から思賜京都博物館監査員、27年4月、同博物館の国への移管にともなって文部技官となり、5月には学芸課美術室長となった。39年3月、職を辞し、7月からプリンストン大学客員教授として日本美術史を担当、40年7月には同大学教授となり、50年6月に定年退職、同大学名誉教授の称号を受けた。同7月、メトロポリタン美術館顧問となり、また51年9月から52年1月までハーヴァード大学客員教授として中国美術史を教えた。52年8月、メトロポリタン美術館顧問を辞し、9月に日本に帰国。55年から57年まで京都国立博物館評議員会評議員、平成4年まで名誉評議員をつとめた。この問、57年から61年まで文化財保護審議会第一専門調査会絵画彫刻部会専門委員。また、昭和50年から61年まで、メトロポリタン東洋美術研究センター会長、57年から平成3年まで国際交流美術史研究会会長、次いで名誉会長をつとめた。島田は、中国・日本の絵画史研究に大きな足跡をのこしたが、その基礎にあったのは作品と文献への肉迫であった。画を見尽くすとも言える観察眼は、密かに書かれた画家の隠し落款を発見し、画面に刻まれた制作者の営為の痕跡を見いだす(「高桐院所蔵の山水画について」「鳥毛立女屏風)。平成元年に第一回の国華特別賞(平成元年度)を受賞した『松斎梅譜』の研究は、第二次大戦中から実に四十五年の歳月をかけて丹念になされたものであった。ただ精緻な作品や文献の分析にはとどまらず、四十八巻に及ぶ「法然上人行状絵図」の極めて複雑な成立過程の解明に見られるように、断片的と見える諸要素は一つの流れに纏め上げられて行く。島田は、史料のすべてを記憶し、論のすべてを頭の中で構成してから執筆して訂正するところがなかったという。観たものと読んだものとを綴り合わせてゆく歴史的想像力、そこに島田の真骨頂がある。「逸品画配」や「罔両画」の研究には、それがいかんなく発揮されて、平板な実証主義を越えた絵画史の具体相が描き出されている。島田が提示したのは、漢たる絵画史の大枠ではなく、その根幹をなす事象群であった。詩画軸の研究に見られるように、それが中国・日本を含む広い視野をもってなされたことも特筆される。このような研究態度が、絵画史研究者に与えた影響は大きい。京都国立博物館在職中に担当した「雪舟展」(昭和32年)では、雪舟関係の作品と資料をほぼ網羅的に展示して後の研究の基礎を作った。プリンストン大学では、欧米の学生に対して『古今著聞集』『法華経』なと、の原典講読を含む本格的な指導を行い、十一年間に二十人近くの東洋美術史専門の研究者を輩出した。その指導に対する評価の高さは、退職後間もなくの1976年、島田を称えてプリンストン大学美術館で水墨画展が催されたことからも窺える。その折に、教え子たちの執筆した「JapaneseInk Paintings」は、現在でも英文で書かれた室町水墨画に関する基本文献である。このような、東洋美術史研究における世界的な貢献により、1990年度には第61回朝日賞を受賞した。著作のほとんどは、『島田修二郎著作集』上・下(中央公論美術出版社、1987・1993年)に収められている。なお同下巻の著作目録を参照されたい。主な編著「岡両画」(『美術研究』84 ・86、1938・39年)「花光仲仁の序」(『宝雲』25 ・30、1939・43年)「宋迫と漏湘八景」(『南画鑑賞』10- 4、1941年)「詩画軸の書斎図について」(「日本諸学研究報告(芸術学)」21、1943年)「逸品画風について」(『美術研究』161、1951年)「高桐院所蔵の山水画について」(『美術研究』67、1952年)「知恩院本法然上人行状絵図」(『日本絵巻物全集』13、角川書店、1961年)『在外秘宝』障屏画琳派文人画、仏教絵画大和絵水墨画(学習研究社、1969年)Traditions of Japanese Art(Fogg Art Museum,Harvard University、1970年)「鳴毛立女屏風」(『正倉院の絵画』日本経済新聞社、1977年)『在外日本の至宝』3水墨画、1979年「鳥毛立女屏風の鳥毛貼成について」(『正倉院年報』4、1982年)『禅林画賛』(毎日新聞社、1987年)『松斎梅譜』(広島市中央図書館、1988年)

望月定夫

没年月日:1994/04/08

日展評議員の日本画家望月定夫は、4月8日心不全のため新潟県長岡市学校町の自宅で死去した。享年80。明治45(1912)年5月7日山梨県西山梨郡住吉村増坪に生まれる。日本画家望月春江は実兄。山梨県立甲府中学校を経て、昭和12年東京美術学校日本画科を卒業、また、中村岳陵の蒼野社に学んだ。新文展に4回入選し、戦後は日展に出品、会員、評議員をつとめた。

西山夘三

没年月日:1994/04/02

読み:にしやまうぞう  住宅建築界重鎮で歴史的景観保存に住民の立場から発言を続けた京都大学名誉教授の西山夘三は、4月2日午前2時7分、くも膜下出血、脳動脈りゅう破裂のため京都市左京区の京都大学病院で死去した。享年83。明治44(1911)年3月1日、大阪市比華区西九条に生まれる。昭和5(1930)年第三高等学校理科乙類を卒業。同8年京都帝国大学工学部建築学科を卒業し、同16年住宅営団(現在の住宅・都市整備公団)技師となって大衆住宅の研究を進める。同19年京都帝国大学工学部講師、同年9月同校助教授となる。同22年「庶民住宅の研究」で工学博士となる。同36年京都大学工学部教授となった。同41年『住み方の記』(文芸春秋社刊)で日本エッセイストクラブ賞受賞。「庶民住宅の研究」で同44年度日本建築学会賞受賞。同45年大阪万国博覧会では西山教室として会場整備の基本構想、に参加し、「お祭広場」を設計し、同博覧会跡地利用等、地域・都市計画にも参画した。同48年『これからのすまい-住様式の話』で毎日出版文化賞受賞。同49年京都大学を定年退官し、同名誉教授となる。早くから環境破壊を批判し、人間らしい居住空間としての地域・都市づくりを提唱。「住居学・建築計画学・地域計画学の発展に対する貢献」で同61年度日本建築学会大賞を受賞した。平成に入り、JR京都駅付近の再開発、高層計画をめぐって起きた景観論争で、同計画に反対する住民団体の代表として古都景観の保存を訴えていた。著書には他に『西山夘三著作集』全4巻(昭和44年)、『国民住宅論巧』(伊原書店)などがある。

上島一司

没年月日:1994/03/30

読み:かみじまいつし  奈良教育大学名誉教授で日展評議員の洋画家上島一司は、3月30日午前11時38分、敗血症のため奈良市六条町の西の京病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月25日高知県香美郡上人佐山田町山田1452に生まれる。昭和19年9月東京美術学校師範科を卒業。寺内萬治郎に師事する。同19年より中学校教師を務めながら制作を続け、戦後の同22年第3回日展に「未亡人」で初入選し、以後日展に出品を続ける。同24年光風会会員となる。同26年東京学芸大学助教授となる。同31年大丸百貨庄で個展を開催。同35年渡欧し、同年帰国して大丸百貨店で滞欧作を発表。同42年奈良教育大学教授となり、また同年奈良市佐紀町にアトリエを設ける。同43年光風会を退く。同年資生堂で個展を開催。同56年現洋会を結成。同60年奈良教育大学を退く。同大学名誉教授となる。同63年日展評議員となった。また同53年より大学美術教育会副理事長をつとめるなど、美術教育にも尽力した。人物画を好んで描いた。

角浩

没年月日:1994/03/30

読み:かどひろし  新制作協会会員の洋画家角浩は3月30日午前11時3分、心不全のため東京都港区の北青山病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月17日茨城県目立市に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助、藤島武二に師事。同校在学中の同6年第18回光風会展に「静物」で初入選。同7年第2回独立美術協会展に「女の子」で初入選する。同8年同校を卒業、同12年渡仏しアカデミー・グラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学び、サロン・ドートンヌに入選。オトン・フリエツの推薦によりサロン・チュイレリー無鑑査となる。同14年第二次大戦勃発により米国を経由して帰国、戦後の同25年新制作派協会に移り、同年第14回同展で新作家賞を受賞。同28年同会会員となる。同37・38年アメリカを訪れ個展を開催。同46年アフリカ、ヨーロッパ、インドへ旅行。同54年日伯国際展のためフ守ラジルを訪れ、フランシスコ・コマンドール勲章を受章する。同55年東京渋谷の東急本庄にて画業50年展を開催。同58年郷里の広島県立美術館で個展を開催した。昭和10年代の滞仏中は軽快な筆致で色彩豊かな作品を制作したが、同30年代の渡米の後、光沢のある絵具をベインティングナイフで施し、ギリシャ神話、ドンキホーテ、サーカスなどを主題に幻想的な画風を示した。またトキワ松学園女子短大造形美術学科教授として教鞭をとり、同48年より同科長をつとめたのち同大学名誉教授となる。自らの制作を「ネオ・クラシカル・ロマンティシズム」と称し、透明感のある暗色の背景から、白を基調とするそティーフが浮かび上がる独自の画風を示した。

馬淵聖

没年月日:1994/03/25

日本版画会会長の木版画家馬淵聖は、3月25日心不全のため神奈川県茅ヶ崎市の長岡病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月12日東京市京橋区南鍛冶町12番地(現中央区京橋2丁目6番地)に生まれ、第二東京市立中学校を経て、昭和16年12月東京美術学校工芸科図案部を卒業した。在学中の昭和15年光風会第27回展、造型版画協会展に初入選し、同17年造型版画協会会員となったが戦後の同25年退会する。戦後は同26年の第7回日展に「立秋」で初入選し、以後日展に出品を続けたのをはじめ、翌27年には日本版画協会会員となる。同31年光風会会員(42年評議員)となり、同35年には日版会の創立に参画し、同56年日版会会長となった。埴輪や果実を得意モチーフとして制作した。

牧野正吉

没年月日:1994/03/23

日本水彩画会顧問の洋画家牧野正吉は、3月23日午後9時7分、老衰のため東京の済生会中央病院で死去した。享年88。牧野は、明治38(1905)年8月2日、栃木県今市市に生まれ、大正14年、東京府青山師範学校本科を卒業、教職に就くかたわら、石井柏亭、赤津隆助、加藤静児に師事しながら日本水彩画会展に出品をつづけ、昭和3年には、同会の会員となる。同14年には、石井相亭が主宰する双台社の創立会員となり、同16年には、前年の中国大陸での写生をもとに、「大陸風景水彩画展」と題して最初の個展を開催(上野松坂屋)。戦後も、同29年に創元会会員になるなど、教職のかたわら創作活動をつづけ、とくに尾瀬沼の自然を題材にした水彩画を多く発表し、それらをもとに同48年には、画集『牧野正吉水彩作品集 尾瀬の四季」を発行した。

米倉寿仁

没年月日:1994/03/18

美術文化協会の創立会員で、サロン・ド・ジュワンを主宰した洋画家米倉寿仁は、3月18日午前11時2分、呼吸不全のため埼玉県所沢市の所沢緑ケ丘病院で死去した。享年89。明治38(1905)年2月19日、山梨県甲府市錦町に生まれる。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学した。昭和6年、第18回二科展に「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が初入選。また、福沢一郎と知己になり、同10年、第5回独立展に「窓」が初入選。翌年、画業に専念するために教職を辞して、上京。この頃より、いち早くシュルレアリスム的な表現をとりいれ、社会意識の強い作品を描くようになる。「ヨーロッパの危機」(原題「世界の危機」、同11年、山梨県立美術館蔵)「モニュメント」(同12年、第7回独立展出品、同美術館蔵)、「破局(寂滅の日)」(同14年、第9回独立展出品、東京国立近代美術館蔵)など、暗転する時代を表現した代表作が描かれている。同13年、創紀美術協会の創立に参加、さらに翌年、美術文化協会の創立会員となる。戦後は、同26年に、美術文化協会を退会して、翌年美術団体サロン・ド・ジュワンを結成、以後同会によりながら、作品を発表した。

神保朋世

没年月日:1994/03/10

読み:じんぼともよ  日本画家で俳人でもあった新保朋世は3月10日午前8時20分老衰のため東京都新宿区中落合の自宅で死去した。享年91。明治35年4月25日東京に生まれる。本名貞三郎(ていざぶろう)。日本画家鰭崎英朋に師事し、後、伊東深水にも教えを受ける。社会主義への共感から大衆芸術に関心を抱き、挿絵の制作を中心とするようになり、講談倶楽部、週刊朝日、週刊新潮、オール読物などの雑誌のほか、各種新聞の挿絵を描いた。戦前から「オール読物」に連載の始まった野村胡堂の「銭形平次」には、著者野村が死去するまで30年に渡り挿絵を描きつづけた。

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