本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





堀井英男

没年月日:1994/10/20

日本版画協会会員の銅版画家堀井英男は10月20日午前10時36分、肺がんのため東京都府中市の病院で死去した。享年60。昭和9(1934)年5月13日茨城県行方郡潮来町上町109に生まれる。茨城県行方郡潮来町立小学校、同町立中学校を経て同25年県立潮来高校普通科に入学。在学中に東京美術学校出身者である後藤市三教諭に油絵を学ぶ。同28年同校を卒業し、翌21年文化財保護委員会(現、文化庁)庶務課に勤務する。同萩原英雄に師事し版画に興味をいだく。同30年、勤務のかたわら東京鴬谷・寛永寺坂美術倶楽部に通い絵画を学ぶ。同31年文化財保護委員会を退職して同年4月より東京芸術大学油画科に入学。同35年、同科を卒業して同大学院に進学する。同年既成の画壇に疑問をいだき、グループを結成。翌36年3月、東京芸術大学大学院を中退し、同年4月より東京都中央区月島第三中学校図工科講師となる。同37年私立立正高校美術科教諭となるが同40年3月画業に専念するために退職。同41年より油絵のかたわら独学で銅版画の制作を始める。同42年第35回日本版画協会展に「仮装No.3」「仮装No.1」「仮装No.8」で初入選。「仮装No.8」は日本版画協会賞を受賞。同年同会会友に推され、翌年同会会員となる。同44年第8回ユーゴスラヴィア国際グラフィックアート・ビエンナーレ(リュブリアナ近代美術館)に出品。同年オーストラリアのメルボルンで個展を開催。同45年第3回クラコウ国際版画ビエンナーレに出品するなど国際的に活躍。同47 年詩画集『夢のそとで』 (黒田三郎詩・堀井英男版画)をプリント・コレクターズ・サロンより刊行。同48年版画集『水のさと』(白興出版)刊行。同51年高沢学園・創形美術学校版画科主任となる。同53年12月、詩画集『死の淵より』(高見順詩・堀井英男版画)がプリント・アートセンターから刊行され、同書発行記念「堀井英男新作展」を銀座松屋で開催。同60年11月、私学共催海外派遣研修旅行でパリ、ミュンヘンなどを中心に1ヶ月滞欧。その後、平成元(1989)年パリ国立美術学校・倉形美術学校の交換展のためパリへ、翌2年4月中国へ、同年11月及び同3年6月イタリアへ赴く。同3年4月創形美術学校校長となる。また昭和57年より金沢美術工芸大学で非常勤講師をつとめた。

田畑一作

没年月日:1994/10/19

新制作協会会員の彫刻家田畑一作は10月19日午前10時16分肺がんのため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年78。大正4(1915)年5月15日京都市中京区小川夷川上下ル下丸尾町に生まれる。父は菊池芳文門下の日本画家田畑秋濤。昭和8年京都府立一中を卒業。この頃より彫刻に志し、同年関西美術院に入り黒田重太郎に絵を学ぶ。同9年5月上京して二科会の番衆技塾に入学。藤川勇造に学び、恩師藤川の死去以後は、菊池一雄に師事する。同11年第1回新彫塑協会展に「長野君」で初入選。同16年第16回京都市展に「村の道」(油絵)「妹の像」(彫刻)で入賞。同年第6回新制作派協会展に「村井中尉」「千田大尉」で初入選の後同二展に出品をつづける。同19年第9回新制作派協会展に「久子」「戦傷荒木上等兵」を出品して新作家賞受賞。同21年第1回京展に「姑」を出品して京都新聞社賞受賞。同年上京して第10回新制作展に「画家藤田氏」「稲村君」を出品して新作家賞を受け同24年同会会員に推される。同37年9月ガーナのアクラ市内にある国立コルレブ病院に、同院で死去した野口英世の胸像をたて野口博士記念庭園を造るためにガーナを訪れ、同地の人々や黒人彫刻に感銘を受ける。この後、「若いマミー」「運ぶダゴンバ」等大地に根ざした生命感あふれる作品を制作しつづけ、同48年3月16日より21日まで銀座松屋7階画廊で「田畑一作展―アフリカ」を開催。同55年甲府の浅川画廊で田畑一作彫刻展を開く。同58年東京現代彫刻展に「花信園」を出品して大衆賞受賞。同59年大津の西武百貸庖4階画廊で個展を開いた。「肖像彫刻はモデルの一代記のようなもの、また彫刻の設置には周囲の修景が必要」とする藤川勇造の教えをうけ、肖像に佳作を生んだほか、昭和34年のエーザイ本庄工場造園、同37年ガーナ市コルレブ病院構内の日本庭園造庭、同年電気通信労政会館で竣工記念彫刻「飛びたつ白鳥」等彫刻を含む公共空間の制作にあたっては、「岩はきずいて草をすまわせる」ことをモットーに設計等も行なった。作品が「風吹けばにおう花のように」あることを目指し、大地と生命力が均衡を保ちつつ存在する植物のように自然と調和する造形を追求した。

星崎孝之助

没年月日:1994/10/15

二紀会評議員の洋画家の星崎孝之助は、10月15日心不全のため神奈川県中郡大磯町西小磯の自宅で死去した。享年88。明治38(1905)年12月17日神奈川県小田原市に生まれる。正則英語学校を経て昭和3(1928)年渡仏し、英仏文学研究とともに油絵を学び、同6年以降、アンデパンダン展、サロン・ド・メ展及び個展で制作発表を行なった。戦後もパリを拠点に日仏聞をしばしば往来し、国内では同32年二紀会委員に迎えられた。同42年、東京日本橋の東邦画廊で個展を開催、「創生」(同31年作)などを発表した。

中尾彰

没年月日:1994/10/06

読み:なかおしょう  童画家で詩人としても活躍した中尾彰は熊本市の済生会病院新館の壁画を夫人の吉浦摩耶(本名中尾鈴子)と制作中に倒れ、10月6日午前0時30分、脳しゅようのため同病院で死去した。享年90。明治37(1904)年5月21日島根県津和野市に生まれる。大正1l(1922)年、満鉄育成学校を卒業。独学で絵を学び、昭和6(1931)年に第1回独立美術展に「静物」で初入選。後、同会に出品を続ける。また、同10年ころから文芸同人誌「日歴」に参加して詩文を発表。同12年第7回独立展に「庭」「窓」を出品して協会賞を受賞。同14年同会会友に推挙された。戦前には満州鉄道の招聴で満州に数回滞在して制作。昭和16年から子どものための美術運動を展開し、童心美術協会を創立。児童出版物に執筆するとともに、教科書や新聞の挿し絵等を数多く制作し、坪田譲治とのコンビで知られた。戦後も同21年日本童画会を結成して活動を続けた。ほか戦後の同21年独立美術協会準会員、同24年同会会員に推挙された。草木と人物を組み合わせ、パステル調の色彩を多用した詩情ある作風を示した。昭和40年代後半からはパリ、インスプルックにたびたび長期滞在して制作していた。平成4(1992)年独立美術協会会員功労賞受賞。戦前の作品は戦中に不明となり、戦後の制作も昭和40年に火災のため多くは焼失している。作品の所蔵館として郷里の島根県立博物館のほか、津和野美術館、練馬区立美術館、松江美術館などがあり、大規模な制作としては昭和53年の済生会熊本病院壁画、平成5年の諏訪中央病院壁画などがある。著書に『美しい津和野』『蓼科の花束詩集』『人生』『あかいてぶくろ』『子供の四季』等がある。

圓堂政嘉

没年月日:1994/09/29

読み:えんどうまさよし  元日本建築家協会会員の建築家圓堂政嘉は平成6年2月より療養中の米国ニューヨーク市ニューヨークホスピタル、コーネルメディカルセンターで、現地時間の9月28日午後9時35分(日本時間29日午前10時35分)、心不全のため死去した。享年73。大正9(1920)年11月30日横浜市南太田町に生まれる。父遠藤政直は工学博士で横浜高等工業高校教授をつとめた。昭和2(1927)年私立精華小学校に入学。同8年県立横浜第一中学校に入学し同13年に卒業する。同15年早稲田大学高等学院に入学。応召の後同20年9月早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する。同21年村野藤吾建築事務所に入学。同24年同事務所を退き、同27年11月圓堂建築設計事務所を設立する。同37年圓堂政嘉と改名。同40年岩手県花巻の「信松園」の設計で建築業協会賞、同41年4月京王百貨店を含む業績一般に対して芸術選奨文部大臣賞を受賞。同5月下関の山口銀行本店で日本建築学会賞を受賞する。同43年より同50年まで日本建築家協会理事をつとめる。同53年西武春日井ショッピングセンターにより商業空間デザイン特別賞受賞。同55年東京大手町の大洋漁業本社により建築業協会賞を受賞する。同55年より57年まで再び日本建築家協会理事、同57年より61年まで同協会会長をつとめる。同62年、長年にわたる日米聞の建築における諸問題解決に対する貢献により、AIA(アメリカ建築家協会)名誉会員となる。同63年東京の広尾ガーデンヒルズにより建築業協会賞、同年岩手県の盛岡市先人文化記念館により同賞を受賞した。平成3(1991)年ニューヨーク市シーグラムビルにニューヨーク事務所を開き、東京とニューヨークを往復しつつ活動を続けたが、同5年末より体調を崩し、同6年2月よりニューヨークで療養中であった。

原直樹

没年月日:1994/09/21

日展参与の鋳金工芸家原直樹は、9月21日嚥下性肺炎のため新潟県柏崎市大久保の自宅で死去した。享年87。明治39(1906)年10月26日新潟県刈羽郡大洲村大久保34番(現柏崎市大久保)に生まれ、高等小学校卒業の年の大正10年5月から香取秀真に師事、また川端画学校デッサン科に学び、昭和3年東京美術学校塑造科に入学、同8年卒業した。美術学校在学中の同5年帝展第四部(工芸)に初入選、同6―8年の聞は第三部(塑像)に「心」「凝視」「讃光」が連続入選し、同9年からは第四部に出品を続けた。同18年の新文展に「鋳銅木盤」で特選を受ける。戦後は日展に所属し、同32年日展会員に同44年新日展の評議員に挙げられた。同53年3月脳血栓に襲われ以後制作不可能となり、前年作の鋳銅花器「古谿愁」が最後の日展出品作となった。この問、新潟大学教育学部美術科の講師もつとめた。作品は他に、黄銅「狐」(昭和24年)、「蝋型錫飾箱」(同26年)などがある。長男正樹は東京芸術大学教授。

足立真一郎

没年月日:1994/09/20

光風会名誉会員の洋画家足立真一郎は、9月20日午前6時、前立腺ガンのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年90。足立は、明治37(1904)年6月26日、栃木県足利市に生まれ、昭和8年、日本美術学校西洋画科を卒業。在学中の同5年、第17回光風会展に「花」2点が初入選、同7年の第19回展では、「甲州の春」「バラ」を出品、船岡賞を受ける。また、同6年の第12回帝展に「菊花」が初入選。その後も、光風会に出品をつづけ、同21年に同会会員となった。また、戦後は日展にも出品をつづけた。同32年、第13回日展に槍ヶ岳の連峰を力強くとらえた「山」を出品して以降、山岳画に徹するようになり、同35年には、日本山岳画協会会員となる。また、たびたびヨーロッパ、インド、ヒマラヤに写生旅行をする。平成5年、光風会名誉会員となるとともに、足利市民文化功労賞を受けた。

斎藤真一

没年月日:1994/09/18

盲目の女旅芸人を描いた瞽女シリーズ等で知られる洋画家の斎藤真一は9月18日午後3時46分すい臓ガンのため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年72。大正11(1922)年7月6日、岡山県児島郡味野町(現、倉敷市児島味野)に生まれる。父藤太郎は軍人であったが、尺八の都山流の大師範であった。旧制天城中学に在学中に地元の大原美術館を見て画業に志す。独学で油絵を描くうち、同16年ころ岸田劉生の『美の本體』を読んで心酔。岡山師範学校二部を昭和17年に卒業し、同年東京美術学校師範科に入学する。翌年12月学徒出陣で入隊し、終戦後復学して同23年春に東京美術学校を卒業する。同年静岡市立第一中学校に赴任し、同年の第4回日展に「鶏小屋」で初入選。翌年岡山県味野中学校へ転任。同25年第38回光風会展に「閑窓」で初入選。同28年静岡県立伊東高校へ転任する。同34年外務省斡旋留学生としてパリへ留学。アカデミー・グラン・ショーミエールに学び、また藤田嗣治と出会う。スペイン、ドイツ、ベルギ一、イタリア等をめぐり、ジプシ一等流浪する芸人たちに興味を抱く。同35年に帰国。帰国にあたり藤田嗣治が与えた助言に従って翌36年青森県津軽地方を旅するうち、瞽女を知り、越後、信濃路のご女宿を訪ね歩いて瞽女シリーズを描く。同45年10年間制作し続けた作品を「越後瞽女日記展」として文芸春秋画廊で発表し、独自の主題、画風で注目される。同46年第14回安井賞展に「星になった瞽女≪みさお瞽女の悲しみ≫」を出品して安井賞佳作賞受賞。同48年著書『瞽女―盲目の旅芸人』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞する。同50年代からは自らを道化師に重ね合わせ、現代の孤独を描くシリーズ、画家の養祖母内田久野をモデルとし、明治期の吉原に取材したシリーズなどを描き、また、画文集『明治吉原細見記』『絵草紙吉原炎上』などを刊行。初期には西洋の伝統的な空間表現、陰影法を用いて静物画、人物画等を描いたが、渡欧により風景の中にデフォルメした人物が散在する主想的な画風に変化し、瞽女シリーズでは遠近法、陰影法を無視し、人物像にも大胆なデフォルメを加えた感傷的な画風を示した。平成5(1993)年長年の支持者であった仲野清次郎によって山形県天童市に財団法人出羽美術館分館・斎藤真一心の美術館が開館している。

伊藤継郎

没年月日:1994/09/17

新制作協会会員で、元京都市立美術大学教授の洋画家伊藤継郎は9月17日午前7時41分、老衰のため神戸市西区病院で死去した。享年86。明治40(1907)年10月15日伊藤粂太郎、津起の次男として生まれる。父は大日本紡績会社の重役を務めた。大正8(1919)年、天王寺第二高等小学校に入学、同10年福島商業学校に入学する。同12年、松原三五郎主宰の天彩画塾に入る。同13年福島商業学校を卒業。同年天彩画塾が閉鎖されるのに伴い、赤松麟作主宰の赤松洋画塾に入る。同15年同塾は赤松洋画研究所と改称。昭和4(1929)年赤松洋画研究所展に「池のある森」「網引き」を出品。同5年第17回二科展に「座像」で初入選する。同年兵庫県美術家連盟の設立に参加。同6年赤松洋画研究所展に「家族の園」「少女」を出品して、丹平賞受賞。この頃から鍋井克之を知り、信濃橋洋画研究所に通い始める。同年第5回全国西洋画展に「庭」「室内の会話」「裸婦」を出品して朝日奨励賞受賞。同10年第22回二科展に「ドヤドヤ(四天王寺の裸祭り)」「親子の行商人」「鳥籠を売る親子」を出品し特待となる。同12年二科会会友に推されるが、同16年同会を退き、小磯良平、猪熊弦一郎らの誘いにより第6回新制作派協会展に「デッサンA」「デッサンB」「デッサンC」「デッサンE」「デッサンF」「室内と女」「森と少女」「静物と子供」「子供の国」を出品し会員に推される。同19年8月満洲へ出征、同20年終戦と共にシベリアに抑留され、同21年復員。同22年より新制作展に出展を続ける。同23年芦屋市美術協会の設立に参加し、この頃より自宅アトリエで研究会を開いて、小磯良平、上村松篁らと交友する。日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。同36年鍋井克之の誘いにより京都美術学校(現、京都市立芸術大学)西洋画科教授となる。同年カンボジア、インドなど、東南アジアに旅行。同42年フランス、スペイン、ギリシア、イタリアへ、同44年イタリアへ旅行。同45年京都市立芸術大学を退職して大手前女子短期大学教授となる。同48年スペインへ、同52年フランス、モナコへ、同62年南フランスコルシカ島へ赴く。平成元年神戸サンパル市民ギャラリーで「伊藤継郎の世界」展、同3年梅田近代美術館で「伊藤継郎展」、同4年2月奈良そごう、3月神戸そごうで「伊藤継郎」展を開催。同5年、大阪府が設立を予定している現代美術館のために作品350点余りを同府に寄贈した。アトリエは昭和5年に建てた当時のまま残されていたが、平成7年1月の阪神大震災により倒壊した。日常的なモティーフを好んで描き、時に工芸的と評される重厚なマティエール、地味な彩色等に特色を示した。

匠秀夫

没年月日:1994/09/14

読み:たくみひでお  日本近代美術史研究者で、現代美術の評論においても幅広く活動した茨城県近代美術館館長の匠秀夫は、9月14日食道がんのため東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年69。日本近代洋画史の研究で著名であった匠は、大正13(1924)年11月28日北海道夕張郡夕張町字住初社宅19号-2 (現夕張市)に生まれ、幼少時から札幌で養育され、北海道庁立札幌第一中学校を経て、昭和19年京都帝国大学文学部選科へ進んだが、翌年陸軍二等兵として入営した。戦後の同23年京都大学を中退し北海道大学文学部史学科に入学、堀米庸三教授の下で西洋中世史を研究し、同32年同大学大学院を修了した。この頃から日本近代洋画史への関心を深め、精査な資料収集と調査を開始し、また、河北倫明著『青木繁-生涯と芸術』(同23年)に啓発されたり、土方定一を識り作家研究の方向性を示唆されたこともあり、本格的に日本近代美術史を専攻するに至った。同39年、最初の著書『日本近代洋画の展開』を昭森社から刊行、同書は美術と文学との関わりに注目する等、事実の羅列に止まらない独自の史観を盛った斬新な日本近代洋画史論として高く評価された。一方、北海道出身の作家研究も独自に展開、同43年に「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』、翌年『中原悌二郎』の二書をその成果として世に出した。この間、同39年から、札幌大谷短期大学で教鞭を執ったが、同43年神奈川県立近代美術館主任学芸員に迎えられ、以後、同館での数多くの企画展に関わり、日本現代美術、西洋近・現代美術へも研究の領域を広げるとともに、美術評論の活動も精力的に展開した。同51年、神奈川県立近代美術館副館長、同56年同館長に就任、同60年同館を定年退職した。また、中原悌二郎賞審査委員、安井賞選考委員、現代日本美術展審査委員、高村光太郎大賞審査委員、日本国際美術展選考委員など数々の委員に携わったほか、杉野女子大学、法政大学文学部、札幌学院大学、愛知県立芸術大学などの非常勤講師をつとめた。同60年、茨城県参与(新美術館担当)を委嘱され、同63年茨城県立近代美術館開設と同時に館長に就任し、同館の運営に尽力した。執筆活動は晩年に至るまで極めて旺盛で、その全容は、残後一周忌にあたり上梓された『匠秀夫 年譜・著作目録』 (陰里鉄郎編)に詳しい。同誌から、著書(含共著、編著等)のみを以下に掲げる。著書『近代白木洋画の展開』(昭森社、昭和39年12月)『中原悌三郎・その生涯と芸術 』(旭川市、昭和43年3月)「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(北海道立美術館、昭和43年11月)「中原悌二郎』(木耳社、昭和44年12月)『近代の美術 第26号 三岸好太郎」(至文堂、昭和50年1月)『小出楢重』(日動出版部、昭和50年2月)『近代日本洋画の展開』(昭森社、昭和52年2月)『近代日本の美術と文学-明治大正昭和決の挿絵-』(木耳社、昭和54年11月)『近代の美術 第58号 日本の水彩画』(至文堂、昭和55年4月)『岩波ジュニア新書 22 絵を描くこころ』(岩波書店、昭和55年10月)『大正の個性派』(有斐閣、昭和58年4月)『棟方志功 讃』(平凡社、昭和59年11月)『小出楢重』(日動出版部、昭和60年2月)『日本の近代美術と文学-挿画史とその周辺』(沖積社、昭和62年11月)『物語 昭和洋画壇史Ⅰパリ豚児の群れ』(形文社、昭和63年10月)『戦中病兵日記』(昭森社、平成元年8月)『物語 昭和洋画壇史II“生きている画家たち” -閉塞の時代』(形文社、平成元年11月)『日本の近代美術と西洋』(沖積社、平成3年9月)『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(求龍堂、平成4年8月)『日本の近代美術と幕末』(沖積社、平成6年9月)共著、編著、訳書、監修本『彫刻の生命』中原悌二郎著、匠秀夫編(中央公論美術出版、昭和44年2月)『小熊秀雄・詩と絵と画論』小田切秀雄、匠秀夫共編(三彩社、昭和49年1月)『世界の巨匠シリーズ ムンク』トーマス・メッサー著、匠秀夫翻訳(美術出版舎、昭和49年11月)『大切な雰囲気』小出楢重著、匠秀夫編(昭森社、昭和50年9月)『衣服の文化史-美術史との交響』井上泰男、匠秀夫共著(研究社、昭和53年5月)『有島生馬芸術論集-一つの予言』紅野敏郎、匠秀夫、有島睦子編(形象社、昭和54年9月)『中原悌二郎の想出』中原信著、匠秀夫監修・編集(日動出版部、昭和56年1月)『小出楢重全文集』匠秀夫編(五月書房、昭和56年9月)『日本水彩画名作全集 二 石井柏亭』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年6月)『日本水彩画名作全集 五 中西利雄』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年7月)『現代日本の水彩画』匠秀夫監修(第一法規出版、昭和59年)『ハムレット-神奈川県立近代美術館収蔵のドラクロワの版画-』ドラクロワ、F.V.E著、匠秀夫監修(形象社、昭和59年)『日本の水彩画』匠秀夫監修(第一法規出版、平成元年)『ゴッホ巡礼』向田直幹、匠秀夫著(新潮社、平成2年11月)『土方定一 美術批評 1946-1980』土方定一著、匠秀夫、陰里鉄郎、酒井忠康編(形文社、平成5年10月)『児島善三郎の手紙』匠秀夫編(形文社、平成5年10月)『原勝郎画集』匠秀夫編(原勝郎画集刊行委員会[原のぶ子方]、平成6年2月)『小出楢重の手紙』匠秀夫編(形文社、平成6年5月)

天田起雄

没年月日:1994/09/08

読み:あまだかずお  奈良国立文化財研究所建造物研究室長天田起雄は9月8日午後10時半心不全のため東京都杉並区高井戸東3-30-14上高井戸住宅106で死去した。享年48。昭和20(1945)年10月19日新潟県佐渡郡に生まれる。同39年東京都立杉並高校を卒業して東京都立大学工学部建築工学科に入学。同43年同科を卒業して同大学院工学研究科修士課程に進み、同45年に同科を修了して奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部研究補佐員となった。同年5月同研究所平城宮跡発掘調査部遺構調査室室員となり、同47年より同部藤原宮跡調査室、同48年より同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部第一調査室につとめた。同49年文化庁文化財保護部建造物課に勤務となり、同53年文化庁文化財保護部建造物課文化財調査官(伝統的建造物群部門)、平成元年4月より同課文化財調査官(修理指導部門)、同2年には同課主任文化財調査官(修理指導部門)となった。同4年同課修理企画部門の主任文化財調査官となり、同6年4月奈良国立文化財研究所にもどって、建造物研究室長となった。建築史学会、修復学会に所属し、日本建築史、建築を中心とする修復学、文化財建造物および歴史的景観の保存を専門とした。「文建協通信」1994年11・12月合併号に追悼文が掲載されている。

中村傳三郎

没年月日:1994/08/23

東京国立文化財研究所名誉研究員の美術史家、美術評論家の中村傳三郎は、8月23日大腸がんのため千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去した。享年77。日本近代美術史、とくに日本近代彫塑史の実証的研究に先鞭をつけた中村は、大正5(1916)年10月30日兵庫県芦屋市西蔵町2番地11号に生まれ、昭和15年甲南高等学校高等科を卒業し東京帝国大学文学部美学美術史学科へ進み、同17年9月卒業した。同年4月陸軍二等兵として入営し、戦後の同21年5月ラパウルから名古屋に帰還、除隊する。翌22年5月から兵庫県武庫川学院中学校教諭となったが同年9月に退職、10月、国立博物館附属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)に奉職した。以後、同24年文部技官となり、同42年美術部主任研究官、同47年美術部第三研究室長に昇任、同53年4月定年退官した。美術研究所入所当初から日本近代美術、特に従来殆んど未開拓であった明治以降の彫塑史研究に着手し、すでに同26年には「明治末期におけるロダン」を研究所の機関誌「美術研究」第163号に発表した。同論文は、日本近代彫刻における西洋彫刻の受容と展開に着目したものであり、この分野における実証的研究に先鞭をつけた論考として注目された。続いて、ロダンの影響を最初に受け、真に彫刻界に近代をもたらしたとされる荻原守衛の生涯と芸術に関する詳細な研究を続行し、その成果を同33年以来「美術研究」誌上に6回にわたって発表した。一方、平櫛田中ら木彫家の作家研究、明治以来の彫塑団体の系統的調査研究を併行し、日本近代彫刻史の史的展開を総合的に把握するに至った。上記研究の主要な論文は、著書『明治の彫塑』(平成2年)にまとめられ、同書で平成3年、第45回毎日出版文化賞を受賞した。また、彫塑・立体造型を主とする現代美術の動向の調査研究にも従事し、その成果は在職中の『日本美術年鑑』の編集、執筆に生かされている。さらに、日本美術評論家連盟会員として、批評活動も展開し、数多くの美術批評を新聞や雑誌に発表し、作家の創作活動に大きく寄与した。主要著書・論文著書明治の彫塑(共著)(昭和31年11月、洋々社)彫塑界とロダン(共著)(昭和36年9月、角川書店)竹内栖鳳(共著) (昭和38年1月、講談社)彫刻界の動き(共著)(昭和39年7月、角川書店)工芸・彫刻(共著)(昭和50年3月、東京国立文化財研究所)岡田三郎助(共著)(昭和50年5月、集英社)北村西望-その人と芸術(共著)(昭和51年6月、講談社)工芸・彫刻(共著)(昭和52年1月、有斐閣)荻原守衛とその周辺(昭和52年3月、至文堂)近代日本彫刻の流れ(共著)(昭和52年6月、東京芸術大学)明治の彫塑(平成3年3月、文彩社)論文明治末期におけるロダン(昭和26年11月、美術研究163)明治時代の彫塑団体青年彫刻会について(昭和31年1月、美術研究184)四条派資料「村松家略系」と呉春・景文伝(昭和36年5月、美術研究216)松村景文筆雪中白梅豆鳥図(昭和38年12月、国華861)荻原守衛-生涯と芸術-(昭和39年7月、美術研究235(以下、264、266、274、279、290号に継続))平櫛田中-人と芸術-(昭和48年4月、形象12)(なお、「碌山美術館報」第16号に詳細な著作目録-中村傳三郎「近・現代日本の彫塑」主要著作目録-が編集収載されている。)

満岡忠成

没年月日:1994/08/22

読み:みつおかただなり  日本陶磁協会理事の陶磁器研究家満岡忠成は8月22日午後1時15分、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年1月3日三重県に生まれる。昭和5(1930)年東京帝国大学美学美術史科を卒業し、大和文華館に勤務したのち同43年から京都市立芸術大学教授として教鞭を取る。同47年同大学を退き滴翠美術館館長となる。また、同49年より同61年まで大手前女子大学教授をつとめた。東洋陶磁史を中心に研究し、同45年ニューギニア・セピック美術を調査、同49年韓国の慶尚南道窯を訪れる。著書に『茶の古窯』(同47年)、『信楽・伊賀』(平成元年)等がある。昭和62年小山富士夫記念賞功績褒賞を受賞した。

馬場梼男

没年月日:1994/08/13

読み:ばばかしお  元東京造形大学教授で春陽会会員、日本版画協会理事の版画家馬場梼男は、8月13日午後2時、横浜市保土ヶ谷区の横浜市立横浜市民病院で死去した。享年66。昭和2(1927)年東京に生まれる。春陽会研究所で油絵を学び、同38年第40回春陽会展に「記号化した人一C」「歩む」「記号化した人一B」を出品して同会研究賞受賞、同40年第33回日本版画協会展に「記念写真」を出品して日本版画協会賞受賞。同41年国際ミニアチュール版画コンクール展でDr.s,M rs. Paul A Brodlow賞を受賞する。同41年現代日本美術展に出品、同42年日本版画会員となる。同43年東京国際版画ビエンナーレ展にも出品する。同44年、春陽会版画部会員となる。同46年、第4回国際ミニアチュール版画展に「赤い馬」を出品して受賞する。同47年版画集『標的』を刊行、翌年版画集「Crazy Kids」を刊行する。同53年東京造形大学助教授、同57年同教授となる。遠近法を用いず、画布に人物像をちりばめたユーモラスな作風で知られた。

西村千太郎

没年月日:1994/07/21

二科会会員の洋画家西村千太郎は、7月21日脳こうそくのため名古屋市内の病院で死去した。享年87。明治40(1907)年3月12日名古屋市中区元場町三ノ切35(現中区大須3-18)に生まれた。横井礼二の指導する緑ケ丘研究所で洋画を学び、はじめ春陽会展へ出品したが第16回展から二科展へ出品、昭和28年第38回二科展に「過ぎたるは及ばず」で二科賞を受賞し、同36年二科会会員に推挙された。また、同42年-51年の間、名古屋造形芸術短期大学教授をつとめた他、自宅に研究所を設けるなど後進の指導にも尽力した。

山本常一

没年月日:1994/07/07

新制作協会会員の彫刻家山本常ーは、7月7日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年84。ニワトリやフクロウなど鳥の彫刻で知らされた山本は、明治45(1912)年4月9日神戸市に生まれ、大分県中津市で育った。日本大学中退、一時、東宝特殊撮影製作に従事した。はじめ国画会彫刻部に出品(第10-14回)したが、昭和11年創立の新制作派協会第1回展出品以来同会に所属し、戦後の同24年同会員に推挙され、以後、新制作協会を中心に制作発表を行った。また、選抜秀作美術展、日本国際美術展などにも出品する。同52年には前年制作の「夜の詩」で長野市野外彫刻賞を受賞、その後も鳥をモチーフに写実的で温かみのある作風を展開した。作品集に『鳥BIRD』(昭和38年、美術出版社)、著書に「鳥粘土でつくるたのしい造形」(同43年)がある。葬儀・告別式は新制作協会葬(葬儀委員長佐藤忠良)として、7月12日東京都杉並区梅里の堀ノ内斎場で執り行われた。

小野光敬

没年月日:1994/06/29

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀剣研磨師小野光敬は6月29日午前1時18分、肝不全のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年80。大正2(1913)年7月30日、岩手県盛岡市に生まれる。本名清之助(せいのすけ)。刀剣研磨の道に志し、昭和4(1929)年、研師加藤勇之助に入門。同13年には上京して本阿弥光遜(こうそん)に師事し、万剣制作に関する基礎的知識を得ると共に、相州伝を中心に各伝の鍛法をいかす正統な技法を学んだ上、本阿弥流の「家研ぎ」の技法を修得、同18年独立し、以後、専ら優品の研磨に従事した。戦後、同22年4月より、同42年まで東京国立博物館学芸部工芸課刀剣室に勤務。この問、同27年に正倉院蔵万三振の研磨、同年四天王寺蔵国宝「丙子椒林剣」「七星剣」の研磨、同32年より42年まで第一次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわる。同42年には国宝「沃懸地獅子文毛抜形太刀」の研磨を行い、翌43年より52年まで第二次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわった。この間同45年日本万研磨技術保存会副幹事長となり、同50年に重要無形文化財「刀剣研磨」の保持者に認定された。同57年日本刀研磨技術保存会幹事長に就任。上古刀をはじめ社寺仏閣所蔵の刀剣研磨を中心に活躍し、地鉄の研究をもとに自然の地肌や刀剣を研ぎ起す「差し込み研ぎ」技法を復活させることに貢献した。また、各種講習会により伝統的な技術を後進に伝綬することにもつとめ、万剣研磨技術の伝承、発展に尽力した。

池上忠治

没年月日:1994/06/28

読み:いけがみちゅうじ  神戸大学教授で美術史家の池上忠治は6月28日午後10時45分、胃ガンのため神戸市中央区の神戸大学病院で死去した。享年57。昭和11(1936)年7月30日新潟県に生まれる。同35年東京大学文学部美術史学科を卒業し、同37年東京大学大学院美学美術史修士課程を修了。同年より東京大学文学部助手をつとめる。同38年フランス政府給費留学生としてフランスに渡り、パリ大学美術考古学研究所、エコール・ドゥ・ルーヴルに学ぶ。同41年帰国。同43年神戸大学文学部講師、同46年同助教授、同56年同教授となった。西洋美術史、特にフランスの18、19世紀美術史を専攻し、当時の日仏美術交流の一面を示すジャポニスムについて早くから調査・研究を進めた。おもな著書に『フランス美術断章』(美術公論社)、「随想フランス美術」(大阪書籍)、『世界美術大全集』第22巻「印象派の時代」第23巻「後期印象派の時代」(小学館)、訳書にリウォルド編『セザンヌの手紙」(筑摩書房、美術公論社)、ルネ・ユイグ著『イメージの力』(美術出版社)、矢代幸雄著『サンドロ・ボッティチェルリ』 (共訳、岩波書店)などがある。神戸大学文学部教授として教鞭を取り、また美術史学会西支部委員として学界に貢献したほか、ジャポネズリー研究学会常任理事をつとめた。神戸大学文学部発行の「芸術学芸術史論集」第7号に追悼文、年譜、文献目録が載せられている。

水野富美夫

没年月日:1994/06/19

アフリカ在住の洋画家水野富美夫は現地時間の6月19日午前4時心不全のためケニアの首都ナイロビのナイロビ病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月20日東京芝に生まれる。昭和6(1931)年宮本三郎洋画研究所に学び、同21年白日会会友となり翌22年第23回同展で会友奨励賞受賞。翌23年同会会員となる。同25年第6回日展に「梅林」で初入選。同40年東南アジア、欧州等をめぐった後、エチオピアに滞在し、以後エチオピアの風景、女性を描き続ける。同42年一時帰国し野沢デパートで帰朝展を開催。同43年本格的にエチオピアに移住しアディスアベパに住んで制作し、白日会展に出品を続けた。同45年の大阪万国博覧会ではエチオピア館に特別出品。同61年からケニアの首都ナイロビに移り住み、同62年からは日本各地で「エチオピアの光と影」などと題して個展を開き作品を発表していた。

岩崎吉一

没年月日:1994/06/13

東京国立近代美術館次長で、美術評論家の岩崎吉ーは、6月13日午後7時25分、肺がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年59。岩崎は、昭和10年5月13日、福岡県北九州市八幡西区香月町に生まれ、都立日比谷高校卒業後、学習院大学文学部にすすみ、富永惣ーの指導をうける。同38年学習院大学大学院修士課程を修了、同36年から東京国立近代美術館に勤務。その問、同44年から翌年にかけて、大阪万国博覧会開催にともなう、万国博美術館に勤務、展覧会企画および運営を担当。同54年に、同美術館美術課長、同57年からは、企画資料課長を歴任し、平成4年からは次長となった。在職中、「徳岡神泉遺作展」(昭和49年)、「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術展」(同52年)、「東山魁夷展」(同56年)、「村上華岳展」(同59年)、「モディリアーニ展」(同60年)、「写実の系譜II 大正期の細密描写」展(同61)、「杉山寧」展(同62年)、「高山辰雄展」(平成元年)、「手塚治虫展」(同2年)等、数多くの企画展を担当した。さらに、こうした美術館活動のかたわら、「名古屋市美術館開館記念館 20世紀絵画の展開」(昭和63年)をはじめ、各地の美術館、新聞社等の企画展にも積極的に協力した。また、画集『村上華岳』(日本経済新聞社、昭和59年)、『平山郁夫画集』 (朝日新聞社、平成元年)、『小茂回青樹画集』(日本経済新聞社、同2年)、『定本徳岡神泉画集』(朝日新聞社、同5 年)等の画集の監修執筆など、代表的な近、現代の日本画家の作家論を中心に執筆活動も旺盛におこなった。その評論は、美術館で今泉篤男、河北倫明の薫陶をうけ、作家の全体像をつねに念頭におぎながら、その芸術の本質を把握しようとつとめる姿勢がつらぬかれていた。なお、歿後、亡くなるまでの十年間の日本画に関する代表的な論考をまとめた、論集『近代日本画の光芒』(京都新聞社、平成7 年)が公刊され、同書巻末に「岩崎吉一主要著作」として初期から晩年にいたるまでの著作目録が付されているので、参照されたい。

to page top