本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





松本富太郎

没年月日:1995/02/13

読み:まつもととみたろう  近代美術協会代表の洋画家松本富太郎は2月13日午後6時48分、急性心筋こうそくのため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年89。明治38(1905)年2月24日大阪此花区西九条上通1丁目120番地に生まれる。大阪市立堂島商業高等学校を卒業。青木大乗に絵画を学び、昭和3(1928)年に上京して田辺至に師事。同4年第10回帝展に「湖畔の道」で初入選。翌年も「農村の或る日」で入選する。同10年同11年文展鑑査展に「台湾の村里」で入選する。昭和10年代に台湾、満州にそれぞれ半年づつ滞在。戦後も日展に参加。同28年第9回日展に「アトリエのポーズ」を出品して岡田賞、翌年第10回日展に「みみずくを配す」を無鑑査出品する。同31年第12回日展に「山」を出品して特選を受賞する。同30年に川島理一郎、和国三造らとともに新世紀美術協会の創立に関わって活動。同31年同回第1回展に「裸婦」を出品して黒田清輝賞、同36年第6回同展で川島理一郎賞を受賞。同36年日展を退会し、翌37年新世紀美術協会をも退く。同40年3月「純粋な制作活動を」提唱して近代美術協会を創立し、同年10月大阪市立美術館で同会の第1回展を開催する。このころ、作風は具象表現から抽象へと移行。同40年現代日本美術展に出品。同47年初めて渡欧し5年間滞在する。滞欧中の同48年ル・サロン展に出品して受賞、フランス国際展金賞、フランス共和党展金賞、同49年フランス国際展会員に推挙される。また同49年ベルギー・オスタンド国際展、同51年モナコ・モンテカルロ国際展など欧州各国の美術展に出品。同51年フランス・オーヴェルニュー国際展に出品してグランプリを受賞する。同年帰国。同63年画業60 年を記念して画集『松本富太郎』(松本富太郎画集出版刊行会)を刊行する。また、同年の近代美術協会の創立25周年記念展に代表作約30点を特別陳列する。初期には、写実にもとづいた具象画を描いたが、日展退会以後は抽象表現を好み、渡欧後は西洋との対比による東洋の認識から「陀達」「斎宮女御」「存在と無」などの作品を描いた。没後の平成7年第32回近代美術協会展で追悼展が行われた。

廣田熙

没年月日:1995/02/06

読み:ひろたひろし  古美術販売業壷中居店主の廣田熙は2月6日午前7時40分心不全のため東京都目黒区碑文谷の自宅で死去した。享年85。明治43年6月11日富山県富山市に生まれる。富山県立富山商業学校を卒業し、昭和13(1938)年叔父広田不孤斎が合資会社壷中居を設立するとその代表社員となった。同24年株式会社壷中居を設立して代表取締役社長に就任。古陶磁を主な対象とし、同25年日本陶磁協会理事となるなど、陶磁器研究にも寄与するところがあった。同52年壷中居取締役店主となる。同24年東京美術倶楽部取締役、東京美術商組合理事となり、同組合顧問をもつとめた。

秋元松子

没年月日:1995/01/30

読み:あきもとまつこ  光風会名誉会員の洋画家秋元松子は、1月30日午前0時5分、急性腎不全のため千葉県流山市の流山病院で死去した。享年95。明治32(1899)年6月4日、当時の千葉県東葛飾郡流山町に生まれ、跡見女学校を卒業、大正10(1921)年頃より富田温一郎に師事し、ついで岡田三郎助に師事した。昭和6(1931)年の第12回帝展に「盛夏読書」が初入選、同9年の第15回帝展に「閑庭」、同17年の第5回新文展に「早春池畔」がそれぞれ入選した。戦後は、同21年の第2回日展から出品をつづけ、同32年の第13回日展に出品した「静物」が特選となった。この作品は、形態の解釈や筆致など主観性のつよい表現ながら、色彩は中間色を基調に、美しくひびきあったものであった。また、白日会、朱葉会などにも会員として出品していたほか、同21年に光風会会員となり、同展にも出品をつづけ、平成7年の第81回展には、奔放な表現による「枯葉と土器と」が、遺作として出品された。

津高和一

没年月日:1995/01/18

読み:つたかわいち  大阪芸術大学名誉教授の洋画家津高和ーは1月17日の兵庫県南部地震のため倒壊した家の下敷きになって死去したことが、18日に確認された。享年83。明治44(1911)年11月1日兵庫県西宮市高木西町9番6号に生まれる。昭和2(1927)年、詩作を始め、個人雑誌「貌」を創刊。同7年篠山衛生病院に衛生兵として入隊し、翌年ハルピン陸軍病院に派遣される。同11年より13年まで結核のため療養生活を送る。この間同12年詩誌「神戸詩人」の同人となる。同14年頃より絵にも興味を抱き、大阪中之島洋画研究所で学ぶ。同18年召集により満州に派遣される。戦後同21年第1回行動美術協会展に「黄昏の車庫裏」を出品。同25年行動美術関西展に出品して友山荘賞を受賞。同26年第6回行動展に「母子像」を出品して、評論家今泉篤男などにより注目される。同27年第7回行動展に「埋葬」を出品して同会会員となる。翌年第4回秀作美術展に「埋葬」を出品するとともに第1回ゲンビ展(現代美術懇談会)に出品する。同30年大阪大丸で「詩と造形」展を開催し、第3回日本国際美術展に出品。また、同年吉原治良、須田剋太、八木一夫らと国際アートクラブ関西支部を創立。戦後のアンフォルメル運動の隆盛を背景に、書との関連などから国際的に興味を抱かれた津高の作品は同31年東西交流アメリカ巡回展、スミソニアン・インスティテューションをはじめアメリカを巡回した「日本現代美術6人展」にも出品された。同32年第4回サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年神戸そごうで「津高和一自選展」を開催する。同33年「日本現代美術展」のヨーロッパ巡回展に出品。また同年第3回現代日本美術展で優秀賞を受ける。同34年中南米に旅行し、サンパウロ、リオデジャネイロ、ブエノスアイレスなど各地で個展を開催。同35年ニューヨークのグッゲンハイム賞美術展に出品する。同37年より56年まで毎年秋自宅の庭で「対話のための作品展」を開く。同37年渡欧しミラノ、トリエステで個展を開催。同40年行動美術協会を退会する。また同年作品・エッセー集『美の生理』(天秤パブリックス)を刊行。同43年大阪芸術大学美術学科教授となる。同44年および45年、ブラジルへ旅行し、各地で個展を開催。同46年ブラジルへ旅行しサンパウロに滞在する。同50年兵庫県立近代美術館で「抽象の四人-須田剋太・津高和一・元永定正・白髪一雄」展、同54年米国ワシントンのフィリップス美術館で「岡田謙三・篠田桃紅・津高和一」展、同年大阪グランドギャラリーで「岡本太郎・元永定正・津高和一」展、同58年和歌山県立近代美術館で「津高和一・泉茂・吉原英雄」展、同63年東京池袋西武百貨店で「透明な抽象空間-津高和一展」が開催される。詩画集『動物の舌』(亜騎保・津高和一共著)(昭和36年)、素描集『架空通信』(同51年、石版画集『無の空間』『対位する空間』(二部集、同51 年)、画と論『騙された時間』(同53年)、詩画集『鳥の眼』(同61年)、画集『津高和一作品集(もうひとつのコスモス)』(同62年)がある。1950年代の初頭までは具象画を措いたが、その頃からすでに対象の形態を簡略に線でとらえ、色面と線による画面構成を行っており、以後、それが独特の詩情ある抽象画へと展開した。同60年大阪芸術大学名誉教授となり、平成3年国立国際美術館で大規模な回顧展を開催。西宮大谷記念美術館で個展を開催する準備を進めている中での被災であった。

清水錬徳

没年月日:1995/01/13

読み:しみずれんとく  独立美術協会会員の洋画家清水錬徳は、1月13日午後8時、急性心不全のため新宿区の聖母病院で死去した。享年90。明治37(1904)年2月1日石川県小松市龍助町に生まれる。本名貞吉。大正15(1926)年、上京して本郷絵画研究所で岡田三郎助、満谷国四郎に師事し、昭和3(1928)年同研究所を修了。同4年の第4回一九三O年協会展に「久世山辺」、「郊外」が初入選、また翌年の第17回二科展に「麹町風景」が入選。同7年の第2回独立展に「ニコライ堂を望む」を初出品以来、同展に入選をかさね、同15年の第10回展では、協会賞を受賞。戦後の同25年に同協会会員となり、また東洋美術学校教授もつとめ、平成4(1992)年に同協会会員功労賞を受けた。初期から、日本的なフォーヴィスムといわれるような主観的な自然観賞による風景画を多く描き、独立展最後の出品となった平成6(1994)年の第62回展の「夏山・駒ヶ岳(日野春)」まで、雄大な景観を重厚なマチエールで表現しようとした山岳風景を描きつづけた。

小川光晹

没年月日:1995/01/12

読み:おがわこうよう  同志社大学教授、環太平洋学会長の美術史家小川光晹は1月12日午前1時15分、脳こうそくのため京都市左京区の石野病院で死去した。享年69。大正15(1926)年1月3日奈良市登大路59番地に生まれる。父は美術写真家の草分けのひとりで飛鳥園を営んだ小川晴晹。奈良県立師範学校附属小学校、奈良県立郡山中学校を経て、昭和19(1944)年8月第二早稲田高等学院文科を卒業。早稲田大学文学部に入学するが、同21年3月に中退。同志社大学文学部に入学し、同25年に同大学を卒業する。在学中は思想史家、石田一良に師事した。同24年東山高等学校教諭となり、翌年奈良県立奈良高等学校へ移ったが、同26年同志社大学文学部助手となり、同29年専任講師、同34年助教授、同40年教授となった。同41年5月より11月まで外遊し、主に米国ボストン美術館で調査・研究にあたった。主要論文に「法隆寺夢殿救世観音像」(『文化史学』3号、昭和26年)、「白鳳彫刻の成立」(『文化学年報』第6 昭和32年)、「古墳と埴輪」(『文化学年報』第7 昭和33年)、「美術史と時代区分」(『文化史研究』9号 昭和34年)、「古代の肖像彫刻に現われた歴史意識』(『日本における歴史思想の展開』至文堂 昭和36年)、「天平様式の成立について」(『日本文化史論集』 昭和37年)、『奈良美術史入門』(飛鳥園 昭和34年)などがある。文化史的観点から仏像等を中心に日本美術史を論じ、晩年は環太平洋地域という新たな視野での調査・研究に従事したほか、博物館学的見地からの論考も多数ある。著作目録は『博物館学年報』27 号(1995年12月)に詳しい。

吉岡道隆

没年月日:1995/01/02

読み:よしおかみちたか  筑波大学名誉教授、東京家政学院大学教授のデザイン家吉岡道隆は1月2日午後10時20分肺がんのため東京都港区の病院で死去した。享年70。大正13(1924)年4月22日新潟県高田市大手町250番地に生まれる。昭和21(1946)年東京美術学校工芸科漆工科を卒業して同研究科に進学。同22年第3回日展に「柳文文具飾箱」で初入選、同23年第4回日展には「棚」、同24年第5回日展には「金属漆器盛器」、同25年第6回日展には「漆器装飾壁面」、同27年第7回日展には「PORTABLE RADIO」、同27年第8回日展には「装飾壁面ノ部分 昼と夜」を出品した。また、同22年4月より30年5月まで東京国立博物館学芸部工芸課漆工室に勤務。この間同26年4月より同30年5月まで文化財保護委員会無形文化課工芸技術部員をもつとめる。同29年5月渡米しクランプルック・アカデミー・オブ・アーツに入学して同30年に同校を卒業。同年米国シカゴのイリノイ工科大学大学院で工業デザインを学び、同33年6月同校より工業デザインの修士号を受ける。同34年千葉大学工業短期大学部助教授となり、同35年同大工学部助教授となる。同年11月より翌36年5月までイタリアに滞在してイタリア共和制百年記念国際博覧会日本館の展示にあたる。同37年同大工学部教授となり機器意匠学を担当する。同38年7月より11月まで中国に滞在して同地の工業デザインについて調査し、同40年『中華民国に於ける産業開発と工業意匠の教育の計画』を刊行する。同51年筑波大学芸術学研究科教授となり生産デザインについて講ずる。同63年同大を退職し、同名誉教授となり、また同年より東京家政学院大学人文学部工芸文化学科教授となった。同40年から51年まで日本インダストリアル・デザイナー協会理事、同49年以降日本デザイン学会理事をつとめ、同46年から58年までは優良デザインに与えられるGマーク商品審査をつとめた。

浜口隆一

没年月日:1995/01/02

読み:はまぐちりゅういち  建築評論家の浜口隆一は1月2日午後7時心不全のため静岡県掛川市亀の甲の自宅で死去した。享年78。大正5(1916)年3月26日に東京に生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学工学部を卒業して同校大学院へ進学する。近代建築史を中心に研究し、同19年『新建築』に「日本国民建築様式の問題」を発表。同23年東京大学建築学科助教授となり、のち日本大学教授となる。同26年アメリカにわたり、建築雑誌の編集にたずさわる。同27年日本の現代建築に関する著書『ヒューマニズムの建築』を刊行。建築評論家の先駆として注目され、以後建築ジャーナリズムの中心的存在として活躍した。同42年『現代建築の断面』を刊行。日本サイン学会会長、社団法人日本サインデザイン協会顧問をもつとめた。近年はネオンサインや看板などを含めた都市景観について発言していた。

佐藤亜土

没年月日:1995/01/01

読み:さとうあど  洋画家の佐藤亜土は、1月1日午後0時37分、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年58。昭和11(1936)年神奈川県横浜市に、画家佐藤敬、声楽家美子の長男として生まれ、同35年に慶応大学文学部美学美術史科を卒業。同37年に渡仏、以来パリで創作活動をつづけた。国内では、村松画廊、ギャルリーワタリ等で個展をかさね、同59年開催の吉井画廊の個展では、九州の装飾古墳の文様から触発されたシリーズ「古墳時代」をさらに展開し、土俗的な形態をモチーフに、明快な色彩と曲線による抽象絵画を発表した。また、同年にはグランパレ美術館、東京都美術館で開催された第10回日仏現代美術展においてフィガロ賞第一席を受賞。ほかに、写真家篠山紀信、作家の石川淳とともに版画集『巴里』を制作した。

安保健二

没年月日:1994/12/29

読み:あんぽけんじ  新制作協会会員の洋画家安保健二は12月29日午前1時30分、心不全のため横浜市鶴見区東寺尾中台の自宅で死去した。享年72。大正11(1922)年3月22日愛媛県新居浜に生まれる。昭和6(1931)年、横浜に移り住む。神奈川県立川崎中学校在学中、同校の美術部で小関利雄に師事。のち佐藤敬のアトリエで開かれていたデッサン会に通う。同17年東京美術学校油画科に入学。翌年学徒出陣し、同20年終戦をむかえて復学。同21年第1回日展に「S嬢の像」で初入選。同23年東京美術学校を卒業。同校では寺内萬治郎、小磯良平に師事した。同24年第13回新制作協会展に「黒人兵」で初入選。同27年第16回同展に「トラックと鉄屑」「壊れた自動車」を出品して新制作協会新作家賞を受賞。この頃から同30年代にかけて、工場や埋め立て地等、高度経済成長により変化していく景観をとらえている。やがて破船や船の骨組みをモティーフに、画面構成の力強い作風へと移行。同41年新制作協会会員となる。同43、44年安井賞展に出品。同47年、美術教育法研修のため渡米。同49年、英、仏に、同52年スペイン、ポルトガルに旅行。同58年ギリシャ、フランスへ、同59年スペイン、同60年フランスへ赴く。同61年オランダ、ベルギーに同62年ユーゴスラヴィアに旅行。平成元(1989)年横浜市民ギャラリーで「安保健二自選展」が開かれた。船、海、港の風景を好んで描き、おだやかで静かな趣のある作風を示した。

森田曠平

没年月日:1994/12/29

歴史に取材した作品や女性像に独自の画境を示した日本美術院同人の森田曠平は12月29日午後5時50分、心不全のため川崎市中原区の市立井田病院で死去した。享年78。大正5(1916)年4月17日京都市中京区烏丸二条下ル秋野々町に生まれる。母方の祖父茂は浜口雄幸内閣の衆議院議長や第11代京都市長をつとめ、美術品収集家でもあり、橋本関雪、土田麦僊、富田渓仙らと親交があった。10歳で結核性腹膜炎にかかるなど幼い頃から病弱で、絵や祖母のよくした能、謡曲に親しむ。昭和5(1930)年本庄尋常高等小学校を卒業し私立甲陽中学に入学するが、同7年京都府立第三中学校(現・府立山城高校)に転入。この頃より関西美術院に通い、伊谷賢蔵らにデッサンと油絵を学ぶ。同10年第l回京都市美術展洋画部に「洛北風景」で入選。東京美術学校西洋画科への進学を希望するが、病弱のため京都を離れることを許されず、京都市立絵画専門学校への入学を志して、当時京都市立美術工芸学校教師であった前田荻邨に入門する。しかし、間もなく結核が再発して進学を断念。同11年京都府立第三中学を卒業後は、独学で絵画、陶芸を制作する。同15年より小林柯白に師事して本格的に日本画を学ぶ。同18年第30回院展に「広沢の冬」で初入選。同19年安田靫彦に入門。戦後の同21年第31回院展に「比叡山」で入選し、以後同展に出品を続ける。同23年京都から小田原に転居し、翌24年より数年間、小田原市立第三中学校図画教師をつとめる。同30年横浜市に転居。翌31年多摩美術大学日本画科助教授となり、同年の第41回院展出品作「波止場」で奨励賞を受賞する。翌32年第42回院展では「磯」で再度奨励賞を受賞。同36年第46回院展では「大原女」で、同39年第49回院展では「流人島にて」で奨励賞を受賞。同40年第50回院展では「洛北仲秋」で日本美術院賞(大観賞)を受賞。同41年第51回院展に「虫あわせ」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、翌年第52回院展に「歌占」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、同43年第53回院展に「桜川」を出品して日本美術院賞(大観賞)と受賞を重ね、同43年日本美術院同人に推される。同48年第58回院展に「京へ」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同51年中国を訪れ北京、西安、桂林、広州、上海等に赴く。同52年南蛮風俗を取材するためスペイン、ポルトガル、イタリアへ旅行。同53年訪欧。同54年オランダ、オーストリア、ドイツ、同55年スイス、フランス、イタリア、同56年スイス、フランス、ベルギー、同57年スイス、イタリア、イギリス、同59年スペイン、イタリア、イギリスを訪れる。同57年第67回院展に「花鎮め」を出品して文部大臣賞受賞。画集に『森田曠平』(三彩社、昭和50年)、『森田曠平文集』(大日本絵画、昭和61年)、『森田曠平自選画集 夢幻女人』(集英社、昭和54 年)、『森田曠平画文集 歴史画のこころ』(大日本絵画、同58年)などがある。

小林尚珉

没年月日:1994/12/27

日展会員の彫金、鍛金作家小林尚珉は12月27日午前6時20分肺炎のため京都府宇治市の病院で死去した。享年82。明治45(1912)年6月25日青森市に生まれる。本名国雄。昭和15年2600年奉祝展に初入選。以後、新文展第4回、第5回に入選。日展には第2回目から出品を続ける。同27年祇園祭の菊水鉾の再興に際し鉾の金具を制作。同29年第10回日展に「浴光鉄打出置物」を出品して北斗賞を受賞する。同38年青森市、弘前市で個展。同39年第7回日展に「創生」を出品して菊華賞受賞。同42年日本現代工芸美術展会員、翌43年日展会員となる。同52年青森市で「小林尚珉父子四人展」を開催。同54年日本新工芸家連盟が創立されるとその創立会員となったほか、平成元年京都創工展創立会員、同3年日工会創立会員となった。昭和60年京都府文化功労者に選ばれている。同54年青森市制施行80周年記念「アルミ打出し―白鳥」(青森市民美術館蔵)、平成2年滋賀県湖東町立老人福祉センターロビーに「双鶴―アルミニウム打ち出し壁画」など大規模な作品も制作した。

古田行三

没年月日:1994/12/22

国指定重要無形文化財「本美濃紙」の保持団体「本美濃紙保存会」会長をつとめた古田行三は12月22日午前6時55分脳こうそくのため岐車県美濃市蕨生1914-1の自宅で死去した。享年72。大正12(1923)年3月10日岐阜県美濃市蕨生1914-1に父恒二、母なつの長男として生まれる。昭和11(1936)年下牧高等小学校卒業。同年4月製紙試験場で古田健ーに実技研修を受け、同年5月より自宅で父母の指導のもとに紙漉きを学ぶ。同15年紙業界不況のなかで漉き手として自立するが、同18年徴兵され、同20年12月復員するまで家業を離れる。紙漉き業界は戦時下の原料統制、戦後の混乱のなかで低迷し、同30年代の高度成長期には後継者不足に悩んだ。こうしたことから、同35年那須楮を原料としている紙漉き業者が協議して生産協同組合を結成、同43年同組合を「本美濃紙保存会」と改称し、その初代会長となる。同会は翌44年文部省により重要無形文化財保持団体の認定を受ける。同50年代後半から文化財保存等の観点から美濃紙が再評価され、海外での紙漉きの実演、指導等が行われるようになり、一方、原料を海外に求める等、生産技術の革新も試みられるようになった。原料問屋が紙の市場を支配し、紙漉き人は問屋から楮を借りて生産するという旧体質を改善し、洋紙の大量生産によって衰退の一途を辿りつつあった美濃紙の紙漉ぎ技術を守り伝えることに尽力した。

曽宮一念

没年月日:1994/12/21

元二科会会員、国画会会員として活躍し、昭和40年に失明し画業を廃したのちもエッセイスト、歌人として知られた洋画家曽宮一念は、12月21日急性心不全のため静岡県富士宮市泉町の自宅で死去した。享年101。はやくから風景画に独自の作風を示した曽宮は、明治26(1893)年9月9日東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に父下田喜平、母たみの子として生まれた。本名喜七。翌年、新聞社の編集長などをつとめた曽宮六佑の養子となり、同39年早稲田中学校へ入学、すでに水彩画への関心を強めており、翌年から大下藤次郎の日本水彩画会研究所へ通い大下や丸山晩霞の指導を受けた。中学卒業の同44年には赤坂溜池の白馬会研究所へ通い、同年東京美術学校西洋画科予備科に入学、同期に耳野卯三郎、寺内万治郎らがいた。美校では藤島武二、山下新太郎の指導を受け、在学中に光風会第1回展から出品、大正3年には第8回文展に「酒倉」が入選し褒状を受けた。同5年中村彝を識りその影響を受け、同年東京美術学校を卒業した。同8年、第7回光風会展に「娘」で今村奨励賞を、第9回展でも同賞を受賞した。この間、福島県石川町、兵庫県西宮町などに居住したが、同9年に上京し、翌年豊多摩郡下落合623番地にアトリエを構えた。また、同年の第8回展から二科会に出品し、同14年の第12回二科展出品作「冬日」で樗牛賞を受賞、翌年二科会会友、昭和6年二科会会員となった。ついで、昭和10年に独立美術協会会員となり、第5回独立展に「種子静物」他を発表したが、同12年には独立美術協会を離れ国画会に所属した。戦時中静岡県に疎開し、戦後は富士宮市に居を定めて制作活動を行った。同29年第1回現代日本美術展に「風の日」を出品、同展へは第4回展まで連続出品した。国画会展へも出品を続け、「雨後」(30回)、「桜島黒神」(36回)などを発表し、奔放な筆触と大胆な色調による独自の風景表現を拓いたが、同40年には緑内障による視力障害のため国画会を退会、同46年には両眼を失明し画業を廃した。この間、同33年の随筆集『海辺の熔岩』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど、すぐれた文筆の才も示した。その後は、自ら「へなぶり」と称した短歌をはじめ、詩や書に親しんだ。著作に『東京回顧』(昭和42年)、詩画集『風紋』(同52年)、『武蔵野挽歌』(同60年)などがある。また、昭和62年10月には、静岡県立美術館で画業の全容を明らかにする充実した回顧展が開催された。年譜、文献等は同展図録に詳しい。なお、本人の遺志で遺体は日本医科大学へ献体され、葬儀、告別式は行われなかった。

関谷四郎

没年月日:1994/12/03

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家関谷四郎は12月3日午前3時10分、肺炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年87。明治40(1907)年2月11日、秋田市外旭川字家ノ前(現、秋田市保戸野新町)に生まれる。5才の時、父を失い幼時の大病によって足が不自由になったことから、座業を生業とするべく秋田市内の森金銀細工工店で秋田の伝統工芸、銀線細工を学ぶ。昭和2(1927)年、秋田県主宰の鍛金講習会のため来県していた河内宗明に出会い、同年弟子入りする。同6年より日本鍛金協会展に出品を重ねる。同13年独立して東京の本郷団子坂に工房を設立。同17年第5回新文展に「銀流し花瓶」で初入選。以後同展、日展に出品する。同37年より日本伝統工芸展に出品し、同38年伝統工芸新作展で奨励賞、同40年日本伝統工芸展で優秀賞、同年の伝統工芸新作展で優秀賞、教育委員会賞、同43年日本伝統工芸展で総裁賞を受賞。同44年以降日本伝統工芸展に招待出品を続け、たびたび審査員を努める。同48年新作工芸展20周年記念展で特別賞、同51年同展で稲垣賞受賞、同52年国指定重要無形文化財保持者に認定された。彫金による表面加工を行わず鍛金のみで豊かな質感をもたせる工夫として、異種の細い板金をろうで溶接する接着技法を創出しその織りなす洗練された、幾何学文様と、表面の質感を特色とする斬新な作風を示した。金工作家グループ東京関友会を同56年、秋田関友会を同60年に設立、後進の育成にも尽力した。同62年秋田魁新報社主催により傘寿記念展を開催。平成6年8月28日から10月2日まで秋田市立赤れんが郷土館で「米寿記念人間国宝関谷四郎展」を開催した。

ベル・串田

没年月日:1994/12/02

二科会理事の洋画家ベル・串田は12月2日午前5時20分心不全のため岡山市の病院で死去した。享年81。大正2(1913)年11月20日岡山県上道郡金田村(現・岡山市金田)に串田千尋、金子の長男として生まれる。本名串田岩彦。生家は祖父の代から金田村村長をつとめていた。岡山大学教育学部の前身である岡山師範学校技能科美術部を卒業し、高等女学校教諭となる。同10年より3年聞にわたり満州、朝鮮、中国をめぐる。昭和13(1938)年第25回二科展に「少女仮睡図」で初入選したのを機に退職し、画家を志して藤田嗣治、東郷青児に師事する。戦後も二科展に出品し、昭和25(1950)年第35回二科展に「お話し」「郷愁」を出品して特待となる。同32年渡仏。同36年および37年に渡米。同38年同展に「あはれ文化」を出品して同会会友に推挙される。同36年第46回同展に「田園詩集」を出品し同会会員に推される。同38年第48回同展に「ニューヨークサーカス」「ハワイアンパラダイス」を出品して会員努力賞を受賞。同41年アメリカ、オランダ、スイス、スペイン、フランスを訪れ制作。同42年フランスを経てニューヨークに渡り制作。同44年ニューヨーク、シカゴ、ニース、カンヌに渡り制作する。同48年第58回同展に「日本讃歌」を出品して同会総理大臣賞を受賞する。以後も、欧米、オーストラリア等を訪れて制作。同55年二科会監事、同59年同会理事となった。画中に蝶を描くことを好み、すべらかなマティエール、明快な彩色で風景、人物を描き、時に童画風の作風を示した。

吉野正明

没年月日:1994/12/01

二科会評議員の洋画家吉野正明は、12月1日多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年81。大正2(1913)年11月17日熊本県菊池市に生まれる。台北第二師範学校を卒業。昭和16年第28回二科展に初入選、以後同展に出品を続け、同35年の二科展で特選を受け、翌年二科会会友、同41年には二科会会員となった。同57年二科展会員努力賞受賞、同59年二科会評議員となる。二科展での制作発表の他、個展も数多く開催した。二科展への出品作に「雪と古城」(第67回)、「白亜の宮殿」(70回)などがあり、同63年には広島赤十字原爆病院に「ベニスの大競艇」を寄贈した。

庫田叕

没年月日:1994/12/01

読み:くらたてつ  元東京芸術大学教授の洋画家庫叕は12月1日午後8時38分、肺炎のため東京都世田谷区の木下病院で死去した。享年87。明治40(1907)年2月7日、福岡県宗像郡福開町に生まれる。本名倉田哲介(くらた・てつすけ>。大正12(1923)年宗像中学を4年で中退。翌年上京して川端画学校に入り約3年間、人体研究等を行った。昭和4(1929)年第16回二科展に倉田哲介の名で「溜池風景」「池畔風景」を初出品。同6年第18回同展に「猫と女」「白い風景」、同7年第19回同展に「三夜荘風景」を出品する。同10年師高村光太郎の推薦により青樹社で個展を開き、翌年にも青樹社で個展を開催。同12年第12回国画会展に「松」「松小品」を庫田叕の名で初出品し、同会同人となる。翌13年第2回新文展に「松と竹」で初入選し特選受賞。翌14年第3回同展には「松」を出品して再度特選となった。官展には同15年の紀元2600年奉祝展に「牡丹」、同17年第5回新文展に「龍頭」、同19年戦時特別展に「蓮」を出品した後出品せず、国画会展のほか、同14年4月求龍堂と兜屋の共同主催による三昧堂での個展、同16年求龍堂主催による資生堂での個展等、個展を中心に作品を発表。同33年国際具象派展に出品。同35年渡欧し、主にローマに滞在して同37年帰国する。同38年東京高島屋および大阪、名古屋のフォルム函廊で滞欧の成果を示す「滞イタリー展」を開催。同43年より49年まで梅原龍三郎を囲む5人の画家による臥龍会展に毎年出品する。同46年彩壺堂サロンで「石の系譜」展を開き、同年国画会を退会した。翌47年東京芸術大学油画科教授に就任。同48年同大学陳列館で旧作展を開く。同49年同大学を停年退官。同53年イタリアを再訪して翌54年日動画廊で「再訪のイタリア」をテーマとして個展を開催。同58年日本橋三越で「樹木と石と花」をテーマに個展を開いた。木、特に松のある風景を得意とし、緊密な構図と明快な色調をもつ豊かな画風を示した。

佐藤蔵治

没年月日:1994/11/29

日展会員、日本彫刻会運営委員の佐藤蔵治は、11月29日急性心筋こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年75。大正8年11月6日福島県安達郡岩代町小浜下杉内に生まれる。戦後から制作発表を開始し、昭和33年の日彫展に初入選、同35年には同展で奨励賞を受賞、また同年第3回新日展に初入選した。同42年第10回日展に「孤柳」で特選を受け、日彫展でも日彫賞を受賞、同48年の改組日展第5回に「ポーズする女」で再度特選を受けた。日彫展審査員、日展審査員もつとめ、同56年日展会員に推挙され、同60年には日彫会運営委員となった。

田中繁吉

没年月日:1994/11/01

創元会創立会員で同会理事長の洋画家田中繁吉は11月1日午前3時50分、肺炎のため東京都世田谷区の駒沢病院で死去した。享年96。明治31(1898)年9月13日、福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1059に、父勘助、母かよの第12子6男として生まれる。生家は地主で郡下屈指の素封家であった。同44年山鹿尋常小学校を卒業し東筑中学校に進学。同校の美術教師で東京美術学校出身者であった藤崎某に油絵を学び東京美術判交進学を志す。大正5(1916)年春に上京し、同年東京美術学校西洋画科に入学。1年次には長原孝太郎、2年次に小林万吾、3年からは藤島武二に師事する。同級生に伊原宇三郎、前田寛治、鈴木千久馬、鈴木亜夫、田口省吾らがいる。同10年東京美術学校を卒業して同校研究科に進学。同11年第14回帝展に「ロミちゃんの庭」で初入選。前田寛治の勧めにより同15年春に渡仏。はじめアカデミー・グランショーミエールに学ぶが、のちアカデミー・ランソンに移りビシエールに師事。当時評の高まっていたキスリングに魅せられ、豊潤な色調の女性像を多く描くようになる。昭和3(1928)年7月に帰国。同年第9回帝展に「婦人像」で入選。翌4年白日会会員となる。同8年第14回帝展に「三人裸婦」を出品して特選受賞。同19年創元会創立会員となる。同32年再度渡欧し翌年帰国。同年日展評議員、同49年日展参与となる。同60年東京池袋西武アートフォーラムで「画業六十年記念田中繁吉展」が開催された。明快な色調の婦人像を得意とし、鮮やかな紫、緑などを使用した独特の色彩感覚を示した。

to page top