本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1994/03/07 新制作協会会員の洋画家石川滋彦は3月7日午前9時8分、腎不全のため東京都新宿区の国立国際医療センターで死去した。享年84。明治42(1909)年10月14日、東京都麹町区麹町4丁目5番地に洋画家石川欽一郎の長男として生まれ、少年期を湘南ですごす。昭和2(1927)年東京美術学校西洋画科に入学し岡田三郎助に師事。同校在学中の同4年第10回帝展に「湖畔の丘」で初入選。同7年同校を卒業して研究科に進学し、同11年に同科を終了する。同13年第2回新文展に「信濃の鍛冶屋」を出品して特選となり同14年第3回新文展には「迷彩する商船」を出品して2年連続特選となった。同14年光風会会員となる。戦中は海軍報道班員として南方に赴く。同22年光風会から新制作派協会に移り同年会員となり以後同展に出品。同27年日本の貨物船に乗り世界一周旅行をし、以後たびたび海外へ赴く。海や船を愛し、アムステルダム、ヴェネチア等水辺の風景を好んで描き、同61年「7月のアムステルダム」で第10回長谷川仁記念賞を受賞。明るく爽やかな緑色を基調とする穏健な画面を示す。同60年東京セントラル絵画館で、平成4(1992)年日動画廊で個展を開催。作品集に『石川滋彦・人と作品』(昭和50年刊)があり、著書に『日曜画家の油絵入門』(昭和37年実業之日本社刊)がある。また昭和17年東京帝国大学工学部講師、同22年学習院大学講師をつとめたほか東海大学教養学部などでも教鞭をとった。
続きを読む »
没年月日:1994/03/04 日展会員の染織工芸家平野利太郎は3月4日午後11時43分急性呼吸不全のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年89。明治37(1904)年4月18日東京都四谷区永住町に生まれる。曾祖父以来代々刺繍を家業とする家に生まれ、父松太郎に師事して伝統的な日本刺繍を学ぶ。また、岡倉秋水に日本画を学ぶ。昭和4(1929)年第10回帝展に「宝相華(三折衝立)」で初入選。同8年第14回帝展に「七面鳥刺繍手箱」で入選して以後、新文展、日展に出品を続ける。同11年秋の文展に「みのり刺繍壁掛」を出品して選奨受賞。同16年新文展無鑑査。戦後も日展に出品し同21年第1回日展に「海山の幸刺繍二曲屏風」を出品して特選となる。同26年日展依嘱。同33年日展会員となる。同28年よりたびたび日展審査員をつとめた。江戸時代から続く伝統的な日本刺繍を現代に生かし、屏風、衝立等を多く出品。日本工芸会、工彩会等にも出品し、昭和30年から実践女子大学講師もつとめた。
続きを読む »
没年月日:1994/02/26 創画会会員で、日本画家の竹山博は、2月26日午後8時37分、胃ガンのため、横浜市の病院で死去した。享年70。竹山は、大正12(1923)年6月30日、東京府文京区曙町に生まれる。本名博二。昭和15年、京北中学校4年修了後、東京美術学校日本画科予科に入学。同18年、学徒出陣により応召、翌年9月、出征中ながら同校を卒業。同20年復員後、翌年の第30回院展に初入選、さらに同22年の第31回展に「晩秋」、また第3回日展に「秋暮」が入選した。一方、戦後間もなく、山本丘人宅で開かれていた若い日本画家たちによる研究会「凡宇会」に出入りするようになり、その世話係をする。そして、同23年に山本丘人、上村松篁、吉岡堅二等が中心になって結成された美術団体「創造美術」の第1回展に「藁家」を出品、つづいて同26年、同会が新制作派協会と合同し、日本画部となると、これに出品するようになった。同38年、第27回同協会展に出品の「巌と滝」によって、さらに同40年の第29回展出品の「源流」、「凍雪」によって新作家賞を受け、同41年には会員となった。同49年、同協会の日本画部会員が創画会を結成、以後、同会展に毎回出品する。同会展への出品は、平成5年の第20回展の「海棠(未完)」が最後となった。色彩表現を抑制した、精緻な線描による花鳥画を多く描いた。
続きを読む »
没年月日:1994/02/20 読み:みやつぐお 日本美術史家で実践女子大学文学部教授の宮次男は2月20日午前9時30分、肺がんのため東京都田無市の病院で死去した。享年65。宮は昭和3年6月2日、三重県鈴鹿市南若松町で出生した。同28年3月、東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業し、同29年5月同大学文学部助手となる。同30年9月に東京国立文化財研究所美術部技術員、同33年7月に文部技官に任官した。昭和35年5月には東京国立文化財研究所における共同研究「醍醐寺五重塔の壁画」で日本学士院恩賜賞を授賞した。同47年主任研究官となり、同52年には情報資料部に配置換となる。この年6月、「金字宝塔憂陀羅の研究」により東北大学より文学博士号を授与される。同53年4月には美術部第一研究室長に、さらに同57年4月には情報資料部長となる。同62年3月に東京国立文化財研究所を退官し、4月に実践女子大学文学部教授に就任する。宮の研究対象は日本中世絵画を中心とするが、その関心は多岐にわたっている。特に絵巻物研究では『日本絵巻物全集』への関与によってもたらされた幅の広さを基礎に、合戦絵・高僧伝絵・寺社縁起絵から御伽草子、奈良絵本や絵解き研究までも視野に入れ、数々の論考を残している。また日本中世期の代表的なジャンルと目される肖像画においても、前後をみわたした肖像画史をこころみるなど、先駆的な足跡を残している。しかし博士論文のテーマに代表される法華経をテーマとした仏教説話画研究への関心は、東北大学での思師故亀田孜教授への傾倒を示すかのように終始かわることはなく、宮の研究のパックボーンを形成している。晩年は十王経や「往生要集』に関わる絵画に関心を収斂させていたかに見うけられるが、その成果を世に問いはじめていた途上での逝去であった。美術史学会常任委員、民族芸術学会評議員をつとめた。東京国立文化財研究所名誉研究員。定期刊行物所載論文など1965年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌75-5、昭和41年5月)日本の合戦絵1 奥州十三年合戦絵巻(日本美術工芸333、昭和41年6月)日本の地獄絵(日本美術土芸335、昭和41年8月)日本の合戦絵2 源平合戦絵(日本美術工芸337 昭和41年10月)長谷寺縁起(古美術15 昭和41年11月)一遍聖絵の錯簡と御影堂本について(美術研究244、昭和41年12月)伊保庄本北野天神縁起(古美術18、昭和42年7月)後三年合戦絵巻(日本美術工芸348、昭和42年9月)調馬図巻(古美術20、昭和42年12月)図版解説 弥勅来迎図(美術研究250、昭和42年12月)後三年合戦絵巻をめぐる三、三の問題 上、下(美術研究251、254、昭和43年2月、昭和44年2月)「井田の法談」―一遍上人絵伝断簡―(古美術21、昭和43年3月)聖徳太子伝絵巻(古美術21、昭和43年3月)古画に見る笑い(日本美術工芸354、昭和43年3月)雷神の美術(日本美術工芸359、昭和43年8月)日本の地獄絵(古美術23、昭和43年9月)十王地獄変相(古美術23、昭和43年9月)時宗の絵巻(日本美術工芸362、昭和43年11月)善光寺如来絵伝(古美術24、昭和43年12月)目連救母説話とその絵画―日連救母経絵の出現に因んで―(美術研究255、昭和44年3月)亀田孜博士の学風とその研究業績(文化33-1、昭和44年7月)地蔵菩薩と目連尊者(日本美術工芸371、昭和44年8月)足利義尚所持狐草紙絵巻をめぐって(美術研究260、昭和44年9月)金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図私見(仏教芸術72、昭和44年10月)大和文華館蔵「一遍上人絵伝」断簡をめぐって(大和文華51、 昭和44年11月)拾遺古徳伝絵残欠(古美術28、昭和44年12月)1969年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌79-6、昭和45年6月)絵巻入門1~34(本美術工芸390~425、昭和46年3月~49年2月)善光寺如来絵伝(国華931、昭和46年3月)研究資料 長谷寺縁起上、下(美術研究275、276、昭和46年11月、12月)雪渓筆獅子・虎豹図屏風一双(古美術35、昭和46年12月)谷文晃筆一偏上人絵伝(古美術36、昭和47年3月)研究資料 公刊 長谷寺縁起 詞書(美術研究278、昭和47年3月)拾遺古徳伝絵巻残欠―浄土開宗の段―(古美術38、昭和47年9月)研究資料 西行物語絵巻 詞書公刊(美術研究281、昭和47年10月)永徳元年の一遍上人絵伝残欠(古美術39、昭和47年12月)一遍上人絵伝残欠(金光寺本)(古美術39、昭和47年12月)立本寺蔵 妙法蓮華経金字宝塔曼陀羅図について(美術研究282、 昭和47年12月)海北友雪筆徒然草絵巻(古美術40、昭和48年3月)『平治物語』諸本中における平治物語絵巻の位置(美術研究289、 昭和49年2月)地蔵霊験記絵巻について(仏教芸術97、昭和49年7月)中世絵巻の展望(MUSEUM284、昭和49年11月)弘法大師絵伝残欠(古美術47、昭和50年1月)矢取地蔵縁起について(美術研究298、昭和50年3月)東寺本弘法大師行状絵巻―特に第十一巻第一段の成立をめぐって―(美術研究299、昭和50年11月)お伽草子絵巻―その画風と享受者の性格(国文学解釈と教材の研究 22―16 昭和50年12月)説話と絵巻(文学45-1、昭和52年1月)歓喜天霊験記私考(美術研究305、昭和52年3月)古代・中世秘画絵巻考(アート・トップ39、昭和52年4月)1976年の歴史学界―回顧と展望―(史学雑誌86-5、昭和52年5月)金字宝塔曼茶羅 上、中、下 ―ユニークな仏教説話図―(日本美術工芸467~469、昭和52年8月~10月)金字法華経絵について(金沢文庫研究257、昭和54年5月)お伽草子絵巻と奈良絵本(萌春291、昭和54年9月)御伽草子と土佐光信―鼠草紙絵巻考―美術研究313、昭和55年3月)絵巻物に見る日本仏教―餓鬼草紙を中心として―(東洋学術研究19-1 、昭和55年4月)鎌倉時代の美術 高僧伝絵と縁起絵(世界の美術(週刊朝日百科) )113 、昭和55年5月)文学と絵巻のあいだ(国語と国文学675、昭和55年5月)法華経の絵と今様の歌(仏教芸術132、昭和55年9月)国宝・伴大納言絵巻(解説)(芸術新潮374、昭和56年2月)芭蕉の風貌(太陽(別冊37)、昭和56年12月)日本の説話画(古美術61、昭和57年1月)日本の変相(国文学解釈と鑑賞47-11、昭和57年10月)中世人生絵巻(芸術新潮395、昭和57年11月)研究資料 白描西行物語絵巻(美術研究322、昭和57年12月)絵解き≪昭和五十七年度大会シンポジウム記録≫(説話文学研究18、昭和58年6月)宋・元版本にみる法華経絵(上) (下)(美術研究325、326、昭和58年9月、12月)八幡大菩薩御縁起と八端宮縁起 上、中、下(美術研究333、335、336、昭和60年9月、昭和61年3月、8月)研究資料 永福寺本遊行上人縁起絵(美術研究339、340、昭和60年9月)永福寺蔵遊行上人縁起絵巻(古美術77、昭和61年1月)妙法寺蔵妙法蓮華経金字宝塔曼荼羅について(美術研究337、昭和62年2月)八幡大菩薩御縁起と八幡宮縁起 附載一、二(美術研究339、340、昭和62年3月、11月)出相観音経の諸問題(実践女子大学美学美術史学4、平成1年3月)源平合戦図屏風 海北友雪筆(古美術92、平成1年10月)十王経絵について(実践女子大学美学美術史学5、平成2年3月)両界曼荼羅(古美術95、平成2年7月)和字絵入往生要集について(国文学研究資料館文献資料部・調査研究報告12、平成3年3月)十王経絵拾遺(実践女子大学美学美術史学7、平成4年3月)十王地獄絵(実践女子大学美学美術史学8、平成5年3月)博物館学と文化財(MUSEOLOGY12、平成5年4月)単行図書掲載文献類型より写実へ 鎌倉時代の肖像画(日本絵画館4、昭和45年3月、講談社)肖像画(原色日本の美術23、昭和46年6月、小学館)平治物語絵巻の絵画史的考察(新修日本絵巻物全集10、昭和50年11月、角川書店)蒙古襲来繪詞について(新修日本絵巻物全集10)「後三年合戦絵詞」について(日本絵巻大成15、昭和52年11月、中央公論社)鎌倉時代肖像畫と似繪(新修日本絵巻物全集26、昭和53年9月、中央公論社)中殿御會圖について(新修日本絵巻物全集26)法華經繪巻について(新修日本絵巻物全集25、昭和54年6月、中央公論社)在米の弘法大師伝絵巻について(原色日本の美術27在外美術 、昭和54年7月、中央公論社)遊行上人縁起繪の成立と諸本をめぐって(新修日本絵巻物全集23、昭和54年9月、中央公論社)中世絵画の誕生(日本美術全集10、昭和54年9月、学習研究社)絵巻物(日本美術全集10)大画面による説話画(日本美術全集10)肖像画(日本美術全集10)駒競行幸繪巻(新修日本絵巻物全集17、昭和55年1月、学習研究社)小野雪見御行繪巻(新修日本絵巻物全集17)なよ竹物語繪巻(新修日本絵巻物全集17)宗俊本遊行上人縁起繪諸本略解(新修日本絵巻物全集23)極楽再現(日本古寺美術全集15、昭和55年3月、集英社)槻峯寺建立修行縁起について(新修日本絵巻物全集別巻1 、昭和55年11月、集英社)八幡縁起繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2、昭和56年2月、集英社)天稚彦草子繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)鼠草紙繪巻(新修日本絵巻物全集別巻2)祖師像と祖師伝絵巻(日本古寺美術全集21、昭和57年5月、集英社)妙心寺の肖像と頂相(日本古寺美術全集24、昭和57年9月、集英社)浄土教の絵画(全集日本の古寺8、昭和59年8月、集英社)高僧・祖師伝絵(全集日本の古寺4、昭和60年6月、集英社)縁起絵について―中世の社寺縁起を中心に―(全集日本の古寺5 、昭和60年7月、集英社)わが国の仏教説話絵(全集日本の古寺15、昭和60年5月、集英社)単行図書日本の美術56(昭和46年1月、至文堂)日本の地獄絵(昭和48年10月、芳賀書店)日本の美術33(昭和50年5月、小学館)金字宝塔曼荼羅(昭和51年3月、吉川弘文館)合戦絵巻(昭和52年11月、角川書店)日本絵巻大成15(昭和52年11月、中央公論社)日本の美術146(昭和53年7月、至文堂)絵巻と物語(昭和57年11月、講談社)日本の美術203(昭和58年4月、至文堂)日本の美術271(昭和63年12月、至文堂)
続きを読む »
没年月日:1994/02/14 読み:めんやしょうぞう 京人形師で本名岡本庄三の名で新制作協会会員の彫刻家としても活躍した面屋庄三は2月14日午後10時30分、急性心不全のため京都市中京区押小路通富小路角橘町の自宅で死去した。享年83。明治43(1910)年4月20日京都市下京区に生まれる。昭和4(1929)年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業。人形を先代の12世面屋庄次郎に、彫刻を藤川勇造に学ぶ。伝統的京人形を制作し、昭和28年に三ツ折人形で国の無形文化財保持者に認定された。同33年よりあまがつ会人形展を毎年開催。同38年からは荘人会人形展も開催し、京人形の普及に努めた。同45年に13世面屋を襲名。また、彫刻家として新制作協会展に出品し、昭和26年第15回展に「女像」を出品して新作家賞、翌27年には「習作婦」「首」を出品して同賞を受賞し翌28年同会会員となった。彫刻は婦人像を中心に人体を主要なモティーフとし、表面のマティエール等に人形との共通点が見いだせる。京都市文化功労者、国際芸術文化賞などを受賞。『京人形あれこれ』などの著書もある。三ツ折人形のほか、御所雛、相込人形等も得意とした。京都五條大橋西詰の「牛若弁慶像」を制作したことでも知られる。
続きを読む »
没年月日:1994/02/07 日展会員で、日本彫刻会運営委員の彫刻家西村房蔵は、2月7日午後2時32分、急性肺炎のため東京都墨田区の健生堂病院で死去した。享年74。西村は、大正8 (1919)年7月20日、千葉県に生まれ、仏像彫刻を本業としながら、昭和36年の第4回日展に「立」が初入選。同43年の第11回展に出品の「霞光」が特選を受けた。同45年の第2回改組日展でも、「葦角」が再び特選を受ける。同49年の第6回展では、審査員をつとめ、同59年に同展会員となる。堅実な手法による自然なポーズをとる女性像を毎回日展に発表した。
続きを読む »
没年月日:1994/02/01 日本芸術院会員で、示現会理事長、日展常務理事の洋画家大内田茂士は、2月1日午前5時54分、多臓器不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年80。大内田は、大正2(1913)年9月24日、現在の福岡県朝倉郡朝倉町に生まれ、福岡県立朝倉中学校を卒業後、上京して、昭和12年新宿洋画研究所に入り、鈴木千久馬に師事する。同18年に第6回新文展に初入選、また翌年、第四回国展に出品した「壺など」により国画奨学賞を受ける。戦後は、同23年創立の示現会に会員として参加、また同26年の第7回日展に出品した「室内」により、特選・朝倉賞を受ける。同38年の第6回日展では、審査員をつとめ、翌年会員となる。同59年、第16回日展に出品した「秋の卓上」により、内閣総理大臣賞を受け、さらに同63年の第19回日展に出品した「卓上」により、日本芸術院賞恩腸賞を受ける。平成2年、日本芸術院会員となり、また同4年には、示現会理事長に就任した。洗練された色彩表現と、適度にモチーフのフォルムを平面化したアンティームな作品を多く残した。
続きを読む »
没年月日:1994/01/31 二科会理事の洋画家福島金一郎は1月31日午前8時30分、心不全のため東京都大田区の木村病院で死去した。享年96。明治30(1897)年12月16日岡山県勝田郡勝間町字勝間田704に生まれる。大正4(1915)年岡山県立勝間田農学校を卒業し、同15年神戸仏語学校を卒業、同年第13回二科展に「風景」「堂徳山風景」「海の見える庭園」で初入選。大阪信濃橋研究所で小出楢重、鍋井克之に師事し、上京後はアテネ・フランセでフランス語を学ぶ一方、太平洋画会研究所に通う。昭和3(1928)年フランスに渡り、アカデミー・ランソンでピシエールに師事、後ボナールの教えも受ける。同4年サロン・ドートンヌに「街」で初入選、サロン・デ・ザンデパンダンにも出品する。同3年帰国。同10年第22回二科展に「樹下」「五月の森」「田園」を出品し特待となり、同12年第24回同展に「畠」「緑の風景」「山の家」を出品して同会会友に推される。同14年、第26回同展に「山村」「鹽屋風景」「海辺の庭」を出品して推奨となる。同16年第28回展に「海の見える叢」「山の家」を出品して同会会員に推される。その後も二科展に出品する。共にフランスの画壇でも活躍。同35年サロン・コンパレゾン出品のため渡仏し約1年間滞仏。同40年第50回二科展に「すてきな橋」などを出品して、会員努力賞受賞、同41年渡仏、同48年第58回同展に「公園の人々(B)」「公園の人々(A)」「リュクサンブール公園」を出品して、青児賞を受ける。同51年サロン・ドートンヌ会員となる。同56年第66回二科展に「公園の人々」「パリの街角」を出品して、内閣総理大臣賞を受賞した。公園など人の集う場所の情景を好み、明るい色調を示した。
続きを読む »
没年月日:1994/01/23 読み:すぎまたただし 元東京芸術大学教授の洋画家杉全直は1月23日午前4時55分、脳こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年79。大正3(1914)年3月26日、東京都品川区東大井4丁目に父寅二、母ちくの次男として生まれる。父方の家系は代々九州秋月藩の御藩医であった。同10年大井尋常小学校に入学するが、同13年父の死去により姫路にある母方の実家に移住する。昭和元(1925)年姫路市城東小学校を卒業、同2年同校高等科を修了して旧制姫路中学校に入学。在学中、同校の美術教師で帝展出品者であった飯田勇に絵を学ぶ。同7年同校を卒業して上京し、小林万吾の主宰する同舟舎に通う。同8年家族とともに浦和に移住。同年東京美術学校油画科に入学する。同校では小林万吾に師事。同11年第23回二科展に「蓮池」で初入選。同13年東京美術学校を卒業。同年の第8回独立美術協会展に「蝕まれた街」「時の悪戯」で初入選。同14年兵役につくが、同年の第9回独立展に「鏡(映像)」「頒歌」を出品し、独立美術協会賞を受賞する。同年より同22年まで美術文化協会展に出品。同23年モダン・アート協会が設立されると同展にも第1回展より出品する。同28年美術文化協会を退会。現代日本美術展、日本国際美術展にも出品し、同33年第3回現代日本美術展に「窪んだ空間A・B」を出品して優秀賞受賞。同34年第5回日本国際美術展に「湧く」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。初期にはシュール・レアリスムに学び、人体を中心として画面を構築していたが、戦後、抽象絵画の試みを経て、同35年ころ、自らの歩みを六角形「きっこう」をめぐる試みであったとする認識から「きっこう」のシリーズを制作し始める。同36年第6回日本国際美術展に「きっこう」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。同年第6回サンパウロ・ビエンナーレにも「眼」「作品」など12点を出品する。同37年第31回ヴェネチア・ビエンナーレ(コミッショナー・今泉篤男)に「きっこう」「きっこう2」など10点を出品。同38年第7回日本国際美術展に「無音」を出品して優秀賞を受賞する。同40年9月渡欧し翌年7月帰国。同43年多摩美術大学油画科教授となるが、同48年教授を辞任。同52年母校の東京芸術大学油画科教授となる。同55年同校退官にあたり東京芸術大学陳列館・大学会館展示室において6月30日より7月12日まで「東京芸術大学退官記念展-1938~75杉全直展」を開催する。同展などにより一貫した抽象表現の追求を示したことにより、同56年にはいって、同55年度芸術選奨文部大臣賞を受賞。同56年東京芸術大学を定年退官する。同62年回顧的な内容を持った「杉全直展」を姫路市立美術館、東京のO美術館で開催した。年譜、参考文献等は同展図録に詳しい。
続きを読む »
没年月日:1994/01/09 日展会員で、日本画家の川島浩は、1月9日午後2時15分、胆管ガンのため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年83。川島は、明治43(1910)年2月20日、京都市伏見区深草願成町40に生まれる。昭和2年、京都府立桃山中学校卒業後、京都絵画専門学校予科に入学、本科を経て、同12年研究科を卒業。在学中は、西村五雲、山口華楊に師事した。また、同7年の第13回帝展に「大和の麦秋」が初入選、同10年には、第1回京都市美術展覧会に「獲物」が入選した。以後、帝展、新文展に入選をかさね、戦後も日展に出品をつづけた。同41年の第9回日展に出品した「湖」により、特選・白寿賞を受けた。さらに同48年の第5回改組日展に出品の「山頂湖」が、再び特選となり、同58年の第8回展では、審査員をつとめ、翌年同展会員となった。同63年、京都府文化功労賞を受けた。山中の湖や湿原の景観を題材に、簡潔な構図と整理された色彩表現による、静謐な情感を漂わせる風景画を多く残した。
続きを読む »
没年月日:1994/01/08 日展理事のガラス工芸家岩田久利は1月8日午前9時44分呼吸不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。昭和元(1925)年12月18日、ガラス工芸家岩田藤七の長男として東京に生まれる。東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選し以後も日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究する。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選となった。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をもつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞した。父の創立になる岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。
続きを読む »
没年月日:1994/01/02 二科会評議員の彫刻家高須賀桂は、1月2日急性肺炎のため東京都品川区の北品川総合病院で死去した。享年80。白色セメント造形美術会にも所属した高須賀は、大正2(1913)年11月27日愛媛県温泉郡拝志村字上村に生まれ、愛媛県立松山中学校を経て、昭和13年東京美術学校工芸科図案部を卒業した。同年森永練乳株式会社宣伝部に入社、制作活動も併行し、同16年の第28回二科展に「女の首」で初入選、以後同展への出品を続けた。同18年応召し同21年に復員、翌年鉱工品貿易公団美術工芸室に勤務、その後、貿易庁、特許庁に勤めた。二科展へは同25年から復帰し、同27年の第37回展に「バラ色の髪」で特待賞を受け、同29年の第39回展に「試作」を発表し二科会会友、同34年の第44回展では「コンポジション」を出品し、二科会会員に推挙された。同58年の第68回展に「コンポジション(競)」で会員努力賞を受賞、翌年二科会評議員となった。この間、同30-45年の問、白色セメント造形美術会野外彫刻展に毎年出品を続けた他、同34年仏国サロン・ド・コンパレーゾンに出品、同47、48年建築と共にある彫刻展に参加、同51年グループ13(東美校昭和13年卒)結成に加わるなど、積極的に制作活動を展開した。同50年特許庁審判長を退官する。野外彫刻作品としては、品川区立図書館など数多く設置されている。
続きを読む »
没年月日:1994/01/01 武蔵野美術大学名誉教授で独立美術協会会員の洋画家斉藤長三は1月1日午後10時55分、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。享年83。明治43(1910)年9月6日山形県酒田市漆曽根に父興一郎、母たけの三男として生まれる。北平田小学校を経て大正12(1923)年県立酒田中学校([日制])に入学。同校美術教師で水彩画家であった井口亘のすすめにより山本鼎著『由画の描き方』等を手引きに油絵を描き始める。昭和3(1928)年同校を卒業。同4年東京高等工芸学校に入学し、永地秀太に師事。同校在学中の同5年第5回1930年協会展に「母子」で初入選。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「自画像」で入選し、以後同展に出品を続ける。同7年東京高等工芸学校を卒業。同年糸園和三郎らと同人展プルミエ洋画展を開催。同9年グループ「飾画」を結成する。同10年第5回独立展に「馬車の到着」「五反田駅「わが旅への誘い」を出品しD賞受賞。同年の同展に出品された海老原喜之助の「曲馬」にひかれて海老原を訪ね兄事する。同11年独立美術協会に会友制度が導入されるに伴い同会会友となる。同15年第10回独立展に「市井風物A・雪」「市井風物B・月」「市井風物C・川」を出品して岡田賞受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「働く少年たち」を出品する。同16年独立美術協会会員となり、同年9月より自由学園講師となる。戦後も独立展に出品する一方、秀作美術展、日本国際美術展、現代日本美術展等に出品。同31年武蔵野美術大学教授となり、また日本大学芸術学部講師となる。同35年10月東京八重洲の大丸デパートで「斉藤長三作品展」を開催。同39年第32回独立展に「山麓の村」「高原の村」を出品してG賞受賞。同48年郷里の山形美術博物館で「斉藤長三画業展」を開く。同54年より独立美術協会会員10人をメンバーとする十果会にも出品。同56年イタリアを訪れ、主にフィレンツェに滞在する。同年9月武蔵野美術大学美術資料図書館で「斉藤長三教授作品展」が開かれる。同57年同校を退職し同名誉教授となる。平成5(1993)年2月「ねりまの美術93」として深沢紅子と二人展を開催した。画歴、参考文献は同展図録に詳しい。昭和初期にはシュール・レアリスム風の作品を描いたが、同10年代には労働者のいる風景を多く描くようになり、同20年代後半から30年代にかけて抽象美術が隆盛した時期には対象の形態、色彩に画家独自の改変を加え、白を基調とする抽象化された風景を描いた。同40年代からは華麗な色調の風景画を描き続けた。
続きを読む »
没年月日:1993/12/19 日展会員の洋画家野田健郎は、12月19日午後3時56分、心不全のため熊本市の済生会熊本病院で死去した。享年72。大正10(1921)年10月29日、北海道旭川市に生まれる。本名健郎。昭和14(1939)年川端画学校を修了。同19年東京美術学校油画科を卒業する。同29年第13回創元展に「静物」で初入選するとともに第10回日展にも「静物」で初入選。同年より熊本県立荒尾高校に勤務する。同30年第14回創元展に「花とラッパ」「ヴァイオリンと壷」を出品して受賞し、同会準会員に推される。同31年第15回創元展に「鶏のある静物」を出品して準会員賞を受賞し同会会員に推挙される。同年大牟田市民会館で第1回個展を開催。同42年熊日ホールで「野田健郎自選展」を開催。同年熊本県立済々黌高校に転勤となる。また同年第1回渡欧。同46年再び渡欧し、オランダ、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャをめぐり、以後同47、48、50、58、59年にも渡欧。同46年第3回改組日展に「運河の午后」を出品して特選、同50年第7回改組日展に「広場」を出品して再び特選となり、同51年日展会友となった。同52年第1回日洋展に出品、また、同年熊本大学教育学部講師となる。同53年創元会を退会。同54年取材のためアラスカを訪れる。同58年日展会員となり、同62年には新日洋会の設立に参加した。初期には静物画を多く描いたが、後に街の一角に取材した作品を好んで描くようになった。対象を色面でとらえ、細かい色面によって画面を構成するのを特色とした。同60年熊本日日新聞社主催「野田健郎展」、同63年「熊本の現代作家」展(熊本県立美術館)に主要な作品を出品している。
続きを読む »
没年月日:1993/11/17 行 動美術協会会員の彫刻家野口鎮は、11月17日午後2時2分、心不全のため東京都練馬区の高松病院で死去した。享年69。大正13(1924)年4月8日、東京に生まれる。本名鎮夫。昭和12(1937)年東京府湯島尋常小学校、同17年豊山中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学。同19年学業なかばにして宇都宮の陸軍飛行学校に入る。同20年、東京美術学校に復学、翌21年より加藤顕清に彫刻を学ぶ。同22年第3回日展に「若き人の像」が初入選するが、以後日展へは出品していない。同23年東京美術学校を卒業。父親が人形作家であったことから、翌24年人形劇団プークの美術部員となった。同29年より東京都港区立北芝中学校、同愛宕中学校、都立高等工芸学校の講師を歴任する。同37年UNIMA(国際人形劇連盟)日本代表としてポーランド、ワルシャワ会議に出席。同39年第19回行動展に「En,tropie」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年同会会友、同46年第26回同展に「ほぞ」を出品して奨励賞を受賞。同48年同会会員となった。この間、同44年チェコ・プラハで行なわれたUNIMA第10回大会にも出席したほか、同年カンボジア・アンコールをも訪れている。初めは人体像を中心に具象彫刻を制作したが、戦後抽象彫刻へ移行。支柱と直交する角柱による「音叉」のシリーズの簡潔な造形から、昭和60年前後には、水道の蛇口などからしたたる水のしずくを共通のモティーフとする「水は天から貰い水」シリーズへと展開した。このほか、東京都田無福祉法人緑寿園ロビー、神戸市垂水区歌敷山通称院記念碑、泉佐野市犬鳴山七宝滝寺記念碑など公共の場のための制作も行なっている。美術教育にも寄与し、昭和51年から平成5年まで女子美術大学の講師をつとめた。
続きを読む »
没年月日:1993/10/26 鎌倉中期の備前一文字助真の流れをひく「重花丁字乱れの刀文」で知られた刀匠、石井昭房は10月26日午後7時、心不全のため千葉県鴨川市の病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月3日、千葉県館山市に生まれる。本名昌次。千葉県安房郡館野の山本尋常小学校を卒業。昭和10(1935)年1月より栗原昭秀、笠間繁継に師事。笠間には同10年10月まで師事したが、後には専ら栗原のもとで備前一文字の作刀法を学ぶ。同14年5月独立。同30年第1回作刀技術発表会に入選。同31年第2回同展で努力賞、同32、33年の同展では特選となった。日本美術刀剣保存協会に所属し、千葉県指定無形文化財となった。山城の技術も研究したが、備前一文字の作刀法を最も得意とし、代表作に昭和15年制作の丁字の刀、同年作の安房神社蔵の丁字の太刀、同39年制作の長狭高校蔵の大丁字の太刀などがある。
続きを読む »
没年月日:1993/10/25 二科会常務理事で大阪芸術大学名誉教授の松井正は、10月25日心不全のため兵庫県西宮市の上ケ原病院で死去した。享年86。本名正一。明治39(1906)年12月14日広島市に生まれる。大正12年県立広島工業学校電気科を中退し、翌13年大阪へ出、小出楢重に入門、赤松麟作画塾へも通ったが小出の信濃橋洋画研究所開設とともに同研究所へ移った。昭和2年第14回二科展に「樹間展望」で初入選し、以後同展へ出品を続け、第20回展「夏の日」が特待を受け翌昭和10年二科会会友となり、同16年第28回展に「人々」を出品し二科会会員に推挙された。この間、昭和13年には第5回佐分賞を受賞した。また、小出没後中之島洋画研究所(信濃橋作画研究所を改称)で教えたのをはじめ、大阪市立美術研究所などの講師をつとめた。戦後も二科会会員として活躍し、同25年第35回二科展に「二科三十五人衆」を出品、会員努力賞を受け、同40年第50回展には「好評と云う名の看板」で第1回青児賞を受賞した。同36年二科会理事に、同58年社団法人二科会常務理事にそれぞれ就任する。一方、同39年に大阪芸術大学教授となり後進の指導にあたり、美術学科長などをつとめ同63年退職、翌年同大学名誉教授の称号を得た。また、同49年には大阪芸術賞を受賞した。同63年大阪芸術大学塚本記念館・芸術情報センター展示ホールで「松井正画業70年記念展」を開催、二科展出品作を中心に49点が展示された。二科展への出品作には、他に「瓦焼風景」(20回)、「メルカード」(53回)、「カッパドキヤ」(63回)、「占師の庭」(67回)などがある。
続きを読む »
没年月日:1993/10/22 日本芸術院会員で日展事務局長をつとめた彫刻家小森邦夫は10月22日午後6時33分、心不全のため水戸市の水戸赤十字病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月6日、東京都浅草今戸に生まれる。赤坂高等小学校を経て日大皇道学院に学ぶ。昭和10年、構造社彫塑研究所に入り斉藤素厳に師事。構造展に出品し、同15年紀元2600年奉祝展に「めぐみ」で入選して官展初入選をはたす。翌16年第4回新文展に「断」で入選するが、後従軍。同21年春、第1回日展に「久遠」で入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第9回日展に「ながれ」を出品して特選・朝倉賞受賞、同年第1回日本彫塑会展に「婦(A)」を出品して、以後同会にも出品を続ける。同30年第11回日展に「裸婦立像」を出品して特選、翌31年第12回展では「若い女」で2年連続特選となり、翌32年には日展依嘱となった。同年中国平和委員会からの招待で茨城県文化人代表として約40日間中国視察旅行、中国の古代遺跡等を訪れた。同33年よりたびたび日展審査員をつとめ、同34年日展会員、同39年日展評議員となる。同55年第12回日展に「腰かけた婦」を出品して文部大臣賞受賞。同60年、戦後間もない同23年から運営委員、審査員を続けていた茨城県展に「青春譜」を出品し、この作品により昭和59年度日本芸術院賞を受賞した。同60年日展理事、日本彫刻会理事となる。平成元(1989)年日本芸術院会員に選ばれた。裸婦像によって抽象的概念や情趣を表現するのを得意とし、流麗なポーズ、穏やかな作風を好んだ。代表作に茨城県立運動公園に立つ「緑に舞う」、勝田市駅前「であい」、土浦市にある「湖畔に佇つ」などがある。 新文展・日展出品歴昭和15年紀元2600年奉祝展「めぐみ」、同16年第4回新文展「断」、同21年春第1回日展「久遠」、同年秋第2回「想」、同22年第3回「女性」、同23年第4回「影」、同24年第5回「追憶」、同25年第6回「蒼茫」、同26年第7回「荒海」、同27年第8回「妻の首」、同28年第9回「ながれ」(特選・朝倉賞)、同29年第10回「残陽」、同30年第11回「裸婦立像」(特選)、同31年第12回「若い女」(特選)、同32年第13回「女の顔」、同33年改組第1回「野性」、同34年第2回「ポーズする女」、同35年第3回「手を組む」、同36年第4回「碧」、同37年第5回「抗」、同38年第6回「あすなろ」、同39年第7回「膝をつく」、同40年第8回「ヴェール」、同41年第9回「腰かけたポーズ」、同42年第10回「雲」、同43年第11回「丘に立つ」、同44年社団法人日展第1回「浴後」、同45年第2回「砂丘」、同46年第3回「樹下佳人」、同47年第4回「佇立女」、同48年第5回「遊歩」、同49年第6回「腰かけた女」、同50年第7回「ポーズするエイ」、同51年第8回「浴」、同52年第9回「渚」、同53年第10回「海辺」、同54年第11回「閑寂」、同55年第12回「腰かけた婦」、同56年第13回「晨(あした)」、同57年第14回「想」、同58年第15回「仰ぐ」、同59回第16回「粧い」、同60年第17回「湖畔に佇つ」、同61年第18回「南国」、同62年第19回「瀬音」、同63年第20回「風」、平成元年第21回「舞う」、同2年第22回「碧」、同3年第23回「佇む婦」、同4年第24回「磯」、同5年第25回「砂」
続きを読む »
没年月日:1993/10/22 日展参与の彫刻家長沼孝三は10月22日午前10時35分、心筋こうそくのため東京都品川区の昭和大学病院で死去した。享年85。明治41(1908)年1月18日、山形県西置賜郡に生まれる。長井小学校を経て大正14(1925)年県立長井中学校を卒業。同15年東京美術学校彫刻科に入学し、昭和6(1913)年、同校を卒業する。同年第12回帝展に「インテリゲンチャ」で初入選。以後官展に出品を続け、同12年第1回新文展には「踊る」を出品した。同14年中国北部を約二ケ月旅する。同15年紀元2600年奉祝展に「山の鎮」を出品。同16年第2回聖戦美術展に「英霊」を出品し陸軍大臣賞を受賞した。同17年7月高村光太郎を顧問とする造営彫塑人会の創立に参加し、同会会員となる。同年第5回新文展に「若者は征く」を出品して特選となる。同18年満州美術学校開校とともに同校教授となった。同20年陸軍美術展に聖戦記念碑「ラバウル」を出品。同21年春第1回日展に「葡萄」を出品。同年秋の第2回日展には「愛と平和」を出品し、以後同展に出品を続ける一方、同22年7月に沢田政廣らが設立した日本彫刻家連盟にも参加し、同23年の第1回同展に「女」を出品した。同24年7月戦後初めての野外彫刻「愛の女神」を東京・上野駅前広場に設置した。同28年日本彫刻家連盟が解散し、日本彫塑家倶楽部が設立されると同連盟に参加して出品を続けた。同35年日展評議員、同59年日展参与となる。後進の指導にも尽力し、同38年から同53年停年退官するまで東京家政大学教授をつとめたほか、同41年に設立された東京デザインアカデミー(現東京デザイン専門学校)の顧問を、設立時からつとめた。関野聖雲に師事し寓意的女性像を得意としたが、同49年からその後ライフワークのように連続してつくられることとなる念仏踊を主題とする作品の制作を始める。一方で、社会批判を含む作品を日展に出品し続けた。平成4年郷里長井市の生家、丸大屋敷内に長沼孝三彫塑館(山形筈長井市十日町1-11-7)が開設された。 帝展・新文展・日展出品歴第12回帝展(昭和6年)「インテリゲンチャ」、第13回「子供の家」、第14回不出品、第15回「坊やは春」、第1回新文展(同12年)「踊る」、第2、3回不出品、紀元2600年奉祝展(同15年)「山の鎮」、第4回新文展「熟慮」、第5回(同17年)「若者は征く」(特選)、第6回不出品、第1回日展(同21年春)不出品、第2回(同年秋)「愛と平和」、第3回「スタイル」、第4回「おとめ」、第5回(同24年)「風」、第6回「女」、第7回「女」、第8回「女」、第9回「ひととき」、第10回(同29年)「山羊と女」、第11回「手」、第12回「女」、第13回「女」、改組第1回日展(同33年)「女二人」、第2回「若い二人」、第3回「一姫誕生」、第4回「母の像」、第5回(同38年)「風」、第6回「辰年のうた」、第7回「七夕」、第8回「仮面」、第9回「縄文」、第10回(同43年)「女」、第1回社団法人日展(同44年)「若衆」、第2回「念」、第3回「うそふき」、第4回「傀儡」、第5回(同48年)「1973怪」、第6回「怪いよいよ怪」、第7回「ありうべからざる怪」、第8回「話があわない」、第9回「お先真っ暗」、第10回(同53年)「歌う」、第11回「居直り時代」、同12回「まず損得」、第13回「キナ臭い」、第14回「凶器を持たすな」、第15回(同58年)「心中はごめん」、第16回「桜下念仏」、第17回「雪国」、第18回「念仏踊 枕打」、第19回「舞う」、第20回(同63年)長井橋「今」、第21回(平成元年)「けん玉」、第22回「現代うかれ雛」、第23回「さかさに見るとおもしろい」、第24回「渋茶も結構」、第25回(同5年)「黒衣讃歌」(遺作)
続きを読む »
没年月日:1993/10/20 読み:すぎやまやすし 日本芸術院会員で、文化勲章受章者の日本画家杉山寧は10月20日午前0時5分、心不全のため東京都文京区の東京日立病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月20日、紙や文具類を売る店を営んでいた杉山卯吉、みちの長男として東京浅草に生まれる。東京府立第三中学校を卒業した翌年の昭和3(1928)年に東京美術学校日本画科に入学。同校在学中の同6年の第12回帝展に「水辺」を初出品して入選する。翌年の第13回帝展にも「磯」が入選し、特選となる。同8年、同校を首席で卒業、在学中に師事した松岡映丘が主宰する研究会「木之華社」の例会に時折出席するようになる。翌年、第14回帝展に出品した「海女」が再び特選となる。この作品は、卓抜した描写力と構成力とともに、清新な感覚で描かれた作品であり、戦前期の画風の特色をよくつたえている。またこの年、松岡映丘門下の有志とともに「瑠爽画社」を結成、翌年同人とともに銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回展を開催、同13年の第3回展までつづく。同17年、中国大陸を旅行、ことに雲岡石窟寺院では、約半月にわたり石仏の写生に励んだ。戦後は、同21年の文部省主催日本美術展覧会(日展)が発足し、出品を委嘱されたが応ぜず、同26年の第7回日展に戦後初めての大作であり、ギリシャ神話に取材した「エウロペ」を出品する。以後、日展には、同組織が社団法人となった同33年から会員として、同49年まで出品をつづけ、その間評議員、常務理事、また審査員などをつとめたが、同51年に退会、しかし請われて顧問に就任した。そのほか、同26年に東京美術学校出身の橋本明治、山本丘人、東山魁夷等とともに、画会「未更会」(兼素洞主催)の発足にあたり、会員として加わったのをはじめ、多くの画会に参加、そのつど新作を発表した。また、雑誌「文藝春秋」の表紙絵原画を同31年4月から同57年6月号まで毎号制作する。同32年の第12回日展出品の「孔雀」(東京国立近代美術館蔵)に対して、同13回日本芸術院賞を送られる。この作品は、緊張感のある画面構成ながら、新鮮な華やかさをもった作品で、中期の代表作となった。しかし、同36年の沖縄旅行、翌年のエジプト、ヨーロッパ旅行を契機に、それまでの平明な自然描写にかわって、重厚なマチエールによって自然を抽象化する傾向を強め、また「穹」(同39年、東京国立近代美術館蔵)に代表されるように、エジプトの古代遺跡を題材に象徴的な画面づくりに向かっていった。さらに、同48年頃から、夢幻的な空間の中に裸婦、鳥、動物を配した作品へと展開していった。同53年、56年に中近東に旅行し、トルコのカッパドキアの遺跡や風物など、その折の取材をもとにした作品が生まれた。同49年には、文化勲章を受け、また文化功労者として顕彰された。同57年11月から61年6月まで、日本芸術院の第一部長をつとめた。同62年8月には、東京国立近代美術館において、本画、素描等総点数123点からなる本格的な回顧展として「杉山寧展」が開催され、同年10月にも富山県近代美術館において回顧展が開催された。さらに、平成4(1993)年には、東京美術倶楽部において「杉山寧の世界」展が開催された。(同氏の年譜及び出品歴については、上記の展覧会図録に詳しい。)
続きを読む »