本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1996/10/08 読み:すずきけんじ 美術評論家で滋賀県立陶芸の森館長、元九州芸術工科大学教授の鈴木健二は、10月8日午後10時、肝硬変のため福岡市南区の病院で死去。享年67。昭和4(1929)年9月27日山形県に生まれる。同30年東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業し、同35年に京都大学大学院文学研究科博士課程を修了。同38年国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)文部技官となり、特別展「現代の陶芸―カナダ・アメリカ・メキシコと日本」(昭和46年)などを担当。その後同館主任研究官、九州芸術工科大学教授、佐賀県立有田窯業大学校長などを経て平成5(1993)年滋賀県立陶芸の森館長に就任。近代以降の陶芸を中心にした工芸が専門。とくに戦後の陶芸の動きに積極的に発言し、九州の現代作家についても活発に評論活動をした。『現代日本の陶芸』(講談社)を編集。
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没年月日:1996/09/29 読み:うちやまただし 元国立西洋美術館長、元文化庁次長の内山正は、9月29日午後10時28分、肺炎のため川崎市宮前区の病院で死去した。享年79。大正6(1917)年4月1日、佐賀県に生まれる。東京大学を卒業後、昭和25(1950)年大分県教育委員会、同29年岡山県教育委員会を経て、同35年文化財保護委員会無形文化課長、同38年文部省調査局国語課長となる。同42年に同省文化局審議官、同43年文化庁文化財保護部長、同47年奈良文化財研究所長、同49年文化庁次長、同51年国立劇場理事となる。同54年には国立西洋美術館長に就任、同57年まで務めた。同62年勲二等瑞宝章受章。
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没年月日:1996/09/16 読み:たかみけんしろう 美術評論家で武蔵野美術大学教授の高見堅志郎は、9月16日午前2時50分、肺水腫のため千葉県市川市の国府台病院で死去した。享年62。昭和8(1933)年兵庫県に生まれる。同32年早稲田大学文学部卒業。同36年同大大学院修士課程(美術史学専攻)修了。同38年より武蔵野美術大学で教鞭をとり、後に武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科教授、早稲田大学文学部講師を務める。主な著書に『近代世界美術全集 第11巻 近代建築とデザイン』(共著 社会思想社 昭和40年)、『ヴィヴァン 第22巻 シャガール』(講談社 平成7年)、監修に『世界の文様』(青菁社 平成元年)など近代美術・近代デザインに関するものが多い。昭和62年から雑誌『武蔵野美術』の責任編集者。武蔵野美術大学が運営する「ギャラリーαM」の企画にも関わる。平成6年からは市政顧問(館長予定者)として、新設される宇都宮美術館の構想・企画・作品収集などに従事していた。
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没年月日:1996/09/04 読み:つちやゆきお 洋画家で、武蔵野美術大学名誉教授の土屋幸夫は、9月4日午前8時36分、肺気しゅのため東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年85。明治44(1911)広島県尾道市に生まれ、昭和6(1931)年に東京高等工芸学校を卒業、翌年第2回独立美術展に「イゝグラの坂路」が初入選した。以後、独立美術協会には、同8年の第3回展に「尾道風景」、同十年の第5回展に「出帆」、同11年の第6回展に「静物(母性的果実)」、同12年の第7回展に「歪められたる静物の印象」、同13年の第8回展に「飛翔の幻想」が入選した。一方、同8年には、郷里の尾道市商工会議所において最初の個展を開催、同11年には、銀座紀伊国屋画廊でも個展を開いた。同12年には、糸園和三郎、斎藤長三等が同9年に結成した前衛美術グループ「飾絵」の同人として参加、この年の第4回展に出品した。この当時の作品として残されている「仮装」(1936年)では、抽象表現を試みており、また「人形の行進(鬼)」(1937年)では、写実表現ながら、幻想性をつよく感じさせ、シュルレアリスムからの影響をしめしている。しかし、このグループは翌年4月に解散し、同月に結成された創紀美術協会に創立同人として参加した。同年7月の同協会京都前哨展に「果てなき嗜食」、翌年の第1回展に「哺乳の海邊」、「錯覚する者」、「苛める」を出品した。同14年には、美術文化協会創立にあたり同人として参加、翌年の第1回展に「蒐集狂的散点模様」、「睡れる提琴」、「小児季記憶のあらはれ(瀬戸内海の島々)」を出品した。同17年の第4回展まで会員として出品し、応召と戦後の復員までの中断をはさんで、同24年の第9回展まで出品をつづけた。また、戦後の同22年には、日本アヴァンギャルド美術家クラブ結成に参加し、同26年にはタケミヤ画廊で個展を開催した。同32年には、武蔵野美術大学に赴任し、後進の指導にあたるようになり、また同50年から同56年まで、現代芸術研究室を設け、ここを会場に自身の個展を開催するとともに、多くの新人にも作品発表の機会をあたえた。平成7(1995)年には、パルテノン多摩市民ギャラリーを会場に、「土屋幸夫1930ー1995展」を開催、初めての回顧展として初期から近作までを出品した。戦前の前衛画家として出発した土屋は、戦後も、アンフォルメルなど現代美術の潮流から影響をうけつつ、絵画や立体作品に、一貫した独自の造形感覚を示しつづけた。
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没年月日:1996/08/30 読み:おおのしょうわさい 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の木工芸家大野昭和斎は8月30日午前5時36分、肺炎のため岡山県倉敷市の倉敷平成病院で死去した。享年84。明治45(1912)年3月4日岡山県総社市八代244番地に大野斎三郎の長男として生まれる。本名片岡誠喜男(かたおか・せきお)。大正9(1920)年、一家で倉敷市西阿知町に移住し、同15年西阿知尋常高等小学校を卒業して同年より父に木竹工芸の手ほどきを受ける。昭和10(1935)年文人画家柚木玉邨より「昭和斎」の号を授受。同12年中国四国九県連合展に「松造小箱」を出品して特賞受賞。同13年より岡山県工芸協会工芸展に出品し同14年同会評議員となる。同38年日本工芸会中国支部展に「桑盛器」を出品して支部長賞受賞。同40年第12回日本伝統工芸展に「欅香盆」で初入選し、以後同展に出品を続け、同43年第15回同展に「拭漆桑飾筥」で日本工芸会会長賞を受賞して、同年日本工芸会正会員となる。同49年「木創会」を創立し、伝統工芸の保護と後進の指導にあたった。同52年岡山県重要無形文化財の指定を受け、同59年には国の重要無形文化財「木工」保持者となった。また、同年日本工芸会参与となる。同60年人間国宝認定記念展として「大野昭和斎-木のこころ」展が倉敷市主催により市立美術館で開催される。平成4(1993)年『人間国宝大野昭和斎の木工芸』が至文堂より刊行され、また同年その出版記念として「傘寿 人間国宝大野昭和斎木工芸展」が倉敷三越百貨店で開催された。指物、くり物、木象嵌、すり漆等の諸技術を総合的に駆使し、伝統技術を現代の器に生かす試みを続け、木目に金箔を擦り込む「杢目沈金」の技法を創出して知られた。
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没年月日:1996/07/25 読み:のぐちそのお 衣裳人形作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の野口園生は7月25日午後5時10分、心不全のため静岡県伊東市大室高原の自宅で死去した。享年89。明治40(1907)年1月23日東京府下谷区谷中清水町1番地に生まれる。大正13(1924)年、東京市立女子第一技芸高等女学校(現・東京都立忍岡高校)を卒業。昭和12(1937)年堀柳女人形塾に入門し、翌13年申戌会芸術人形展に「みぞれ降る日」を出品。同14年童宝美術院人形展に「家路」を出品して奨励賞、同15年同展に「遊山」を出品して優秀賞を受ける。同18年戦時下にあって堀人形塾が解散したため、しばらく制作を中断するが、戦後再開し、同22年第3回日展に「宴の途」を出品。同23年第1回東京都工芸協会展に「秋の草」を出品して二等賞、翌年の同展には「港町」を出品して同三等賞を受賞した。同25年人形塾を開き、また同年の現代人形美術展に「雨後」を出品して朝日新聞社賞受賞。同28年の現代人形美術展では「霧の朝」で努力賞を受賞する。同30年より蒼園会を主宰し銀座松屋で展覧会を開催する。同31年日本伝統工芸展に入選して以後同展に出品を続け同34年日本工芸会会員となった。同37年日本伝統工芸展新作展に「寂秋」を出品して奨励賞受賞。以後も日本伝統工芸展、同新作展に出品を続ける。同59年喜寿記念『ごくらく一寸のぞきみ』を刊行。同61年国指定重要無形文化財保持者(衣裳人形)に認定され、同年『野口園生人形作品集』が刊行された。同62年より平成5年まで人間国宝新作展に小品の出品を続けた。日常生活に根ざした季節感、自然の情趣を大胆にデフォルメした人体によって表現し、独自のフォルムと詩情を持つ作風を示した。
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没年月日:1996/07/21 読み:しんどうたけひろ 跡見学園女子大学教授で東洋美術史研究者の新藤武弘は、7月21日午後10時、多臓器不全のため千葉県君津市の玄々堂君津病院で死去した。享年62。昭和9年(1934)4月25日、東京に生まれる。同35年(1960)3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業、大阪市立博物館の学芸員となり、翌年京都国立博物館学芸課文部技官、その後、同38年ハーヴァード燕京協会奨学金でアメリカへ留学、ハーヴァード大学でマックス・ラー教授に師事、同41年6月同大学大学院修士課程を修了。翌年、サンフランシスコ・アジア美術館に勤務。同43年には大阪万国博美術館副参事を務める。同49年4月に跡見学園女子大学文学部文化学科の専任講師となり、52年4月に助教授、56年4月から教授。この間、昭和51年(1976)4月から60年3月までは、新潮社嘱託として、現在最も基本的な美術辞典である『新潮世界美術辞典』の編集に関わった。研究対象は幅広く、巨然から石涛・八大山人までについての論攷がある。専門の中国絵画史以外にも、蕪村についての研究があり、詩と歌・中国と日本・夢と現実など様々なものを淵源とするイメージが、俳諧と絵画の中に自在に立ち現れる様を描いている。その視野には、異なるメヂィア・異なる文化の中でのイメージの往来というより大きな問題があった。英語・中国語に堪能で、マイケル・サリバンやジェームス・ケーヒルの主著の翻訳があり、米国・中国でも多彩な研究活動を行った。主要研究業績『山水画とは何か-中国の自然と芸術』福武書店 1989年「八大山人と石涛の友情について」『跡見学園女子大学紀要』9、1976年「巨然について-北宋初期山水画における南北の邂逅」『跡見学園女子大学紀要』17、1984年「都市の絵画-清明上河図を中心として」『跡見学園女子大学紀要』19、1986年「石涛と≪廬山観瀑図≫」『跡見学園女子大学紀要』21、1988年「蕪村小考-計画論的-考察」『日本絵画史の研究』1989年翻訳マイケル・サリバン『中国美術史』新潮社 1973年ジェームズ・ケーヒル「中国絵画における奇想と幻想」『国華』978~980、1975年ジェームズ・ケーヒル『江山四季-中国元代の絵画』明治書院 1980年王概編『新訳芥子園画伝』日貿出版社 1985年ジェームズ・ケーヒル『江岸別意-中国明代初中期の絵画』明治書院 1987年
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没年月日:1996/07/16 読み:きのしたよしのり 洋画家で、一水会創立会員、女子美術大学名誉教授の木下義謙は、7月16日午後7時47分、心不全のため東京都世田谷区の吉川内科小児科病院で死去した。享年97。明治31(1898)年、現在の東京都新宿区四谷に生まれた。両親とも和歌山県出身で、父友三郎は、法政局参事官から明治大学の校長、学長を歴任した。大正4(1915)年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校機械科に入学、同7年に卒業、翌年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した同10年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。このとき、やはり油彩画を独学していた兄孝則(1894~1973)も、「富永君の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、同15年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、同12年の第1回展から同14年の第4回展まで出品した。同15年に結成された1930年協会の会員として、昭和2(1927)年の第2回展、翌年の第3回展に出品した。同3年から7年まで渡仏、パリで制作し、サロン・ドートンヌなどにも出品した。帰朝した年の第19回二科展には、滞欧作品36点が特別陳列された。同11年、二科会会員を辞退し、石井柏亭、安井曽太郎、兄孝則とともに一水会を結成した。戦後になると、ひきつづき一水会や日展に出品するとともに、同22年からは女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の教授となり、後進の指導にあたった。同25年、前年の第5回日展に出品した「太平街道」により、芸能選奨文部大臣賞を受賞、またこの年より陶芸制作をはじめた。その後、しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するようになり、同33年には、硲伊之助とともに同会に陶芸部を創設した。同51年には、平明な自然観照にもとづいた誠実な画風からなる初期作品から近作にいたる油彩画87点と陶芸作品11点から構成されたはじめての回顧展として「木下義謙作品展」が、和歌山県立近代美術館において開催された。同54年に、勲三等瑞宝章を、翌年には和歌山県文化功労賞を受賞した。同57年には、画業50年を記念して油彩画、水彩画65点からなる「木下義謙展」を日動画廊において開催した。
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没年月日:1996/07/13 読み:ほんあみにっしゅう 刀剣研ぎ師で国指定重要無形文化財保持者の本阿弥日洲は7月13日午前7時35分、急性心不全のため東京都大田区上池台の自宅で死去した。享年88。明治41(1908)年2月23日、東京に生まれる。本名猛夫。名研ぎ師と言われた父平井千葉に幼少のころから家業の刀剣研磨・鑑定を学んだ後、本阿弥琳雅に師事して刀剣鑑定法を修練した。昭和3(1928)年本阿弥家の養子となって室町時代から続く名家である本阿弥家を継いで第23代当主となった。戦前は内務省神社局の命により伊勢神宮内陣や明治神宮内陣の宝刀の研磨を行う一方、軍刀審査員となり、また文部省の命により神社仏閣等の国宝、重要文化財刀剣の研磨に従事した。戦後は長く刀剣登録審査委員をつとめ、研師の立場から日本刀の姿、平肉の置き加減、帽子の形、焼刃の処理などについて現代刀匠の刀剣制作に助言を与え、伝統的作刀の技法を継承することに寄与した。古刀から現代刀に至る幅広い時代の刀の研磨に通暁し、特に相州物、山城物などの各伝の刀剣類の研磨を得意とした。海外に所蔵される日本の刀剣の調査、保存にも寄与し、昭和47年には米国のメトロポリタン美術館、ボストン美術館にある日本の刀剣の調査を行っている。砥石の選択、刀身の砥石への当て方、刀身の押し引きの調子、鍛造及び下地の仕上げ、拭いの材料の作り方等に卓抜な技量を示し、同50年に国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。上古刀をはじめ、美術刀剣類の研磨、刀剣鑑定に優れ、後進の指導に尽力した。
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没年月日:1996/06/17 読み:みつはしいとじ 水彩画家で、水彩連盟理事長の三橋兄弟治は、6月17日午前9時40分、結腸がんのため、神奈川県茅ヶ崎市の自宅で死去した。享年85。明治44(1911)年1月22日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれ、大正15(1926)年小学校高等科を卒業し、同年神奈川県師範学校に入学した。在学中の昭和4(1929)年、第6回槐樹社展に「妹の像」が初入選し、また同会同人の金沢重治を知り、以後指導を受けるようになった。翌年、同学校を卒業して小学校教員になるが、画家志望の念が強まり、翌年には教員をやめて上京、独立美術研究所などで学んだ。その間、同10年の第4回旺玄社展に「サナトリウムの一角」等が、また翌年の第23回二科展に「浴衣のルーちゃん」がそれぞれ初入選した。以後、再び教員となりながら、制作をつづけ、同15年の第9回旺玄社展に出品した「港」により第一賞をうけ、翌年には同会同人に推挙され、また紀元二千六百年奉祝展に「芝生に憩う少女」が入選した。戦後になると、創元会、日展、水彩連盟展などに出品をつづけ、同28年には、水彩連盟展の会員となった。しかし同30年には創元会会員を退き、同時に日展への出品も以後とりやめた。また、同27年頃より、水を使わずに絵具を堅い筆で紙にこすりつける描法をとりいれ、静物画や肖像画において点描風の温雅な画面をうみだすことに成功した。しかし、次第に構成的な表現に変化し、同33年頃からは、いわゆる「熱い抽象」の影響をうけて、抽象表現を試みるようになった。茅ヶ崎市の中学校の教員を辞した同39年から翌年にかけて、はじめてヨーロッパ旅行をした。この旅行を契機に、ヨーロッパの景色、風物に惹かれるようになり、同43年からは、ふたたび具象的な表現にかえった。その後は、たびたびスペイン、南仏を中心に取材旅行におもむき、その収穫として静謐な古都市の風景画の多くを水彩連盟展や個展で発表しつづけた。同63年、水彩連盟展の初代理事長に選出され、その翌年には60年におよぶ画業を記念して新宿小田急本店グランドギャラリーで回顧展が開催され、また平成2(1990)年にも、茅ヶ崎市、横浜市において約100点からなる「三橋兄弟治の世界展」が開催された。
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没年月日:1996/06/07 読み:たにぐちりょうぞう 日展評議員の陶芸家谷口良三は6月7日午後6時15分、肺がんのため京都市上京区の京都府立医科大病院で死去した。享年70。大正15(1926)年3月8日京都市東山区五条橋東6丁目に生まれる。昭和17年京都市立第二工業高校窯業科を卒業。同20年日本製鉄に勤務する。同22年四耕会を結成。翌23年京都陶芸家クラブに加入し六代清水六兵衛に師事する。同31年第5回現代日本陶芸展に「白釉線花器」を出品して第一席となる。同36年第4回日展に「線花器」を出品して北斗賞特選受賞。同39年国際陶芸展に「赫釉方壷」を招待出品する。同40年第9回日展に「碧象」を出品して菊華賞受賞。同47年ヨーロッパ、中近東に研修旅行し、同49年フランス、イタリア、スペインに赴く。同51年第62回光風会展で辻永記念賞受賞。同年東京日本橋三越本店ではじめての個展を開催する。同56年、平成3年にも同店で個展を開催。この間同52年岡山高島屋、同53年京都朝日画廊、同59年高砂市福祉センターなどで個展を開催。同56年京展に「樹想」を出品して須田賞受賞。平成元(1989)年京都府文化功労賞受賞。同2年日展評議員となり、同7年第27回日展に「夕照」を出品して内閣総理大臣賞を受賞した。同年高砂文化センターで個展を開催している。碧彩と呼ばれる独自の色合いの陶磁器を制作し、京焼に新風を吹き込んだ。昭和50年より60年まで新潟大学非常勤講師、同51年より平成6年まで金蘭短期大学非常勤講師をつとめ、後進の指導にあたった。
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没年月日:1996/05/14 読み:すがいくみ 現代美術家の菅井汲は、5月14日午後1時35分、心不全のため神戸市の六甲病院で死去した。享年77。大正8(1919)年3月13日、神戸市東灘区御影町に生まれ、幼少時、心臓弁膜症と診断され、病床生活を送り、そのため中学進学の時期にも遅れたため、昭和8(1933)年知人のすすめで大阪美術学校に入学した。しかし、病後の回復も充分ではなかったことから退学し、同12年から20年まで、阪急電鉄の宣伝課に勤務し、商業デザインの仕事に従事した。自作の油彩画を吉原治良から批評してもらいながら、独学していたが、二科展などには落選しつづけた。同27年にフランスに渡り、同29年には、パリのクラヴェン画廊と契約して、最初の個展を開催した。翌年には、リトグラフを試みるようになった。1950年代後半から60年代前半には、重厚なマチエールと単純化された土族的なフォルムによる抽象絵画を制作していた。同32年には、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフを出品、同年の新エコール・ド・パリ展(ブリヂストン美術館)にガアッシュを出品、これが日本での最初の作品紹介となった。また、同33年には、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、翌年には第2回ドクメンタ展(カッセル)、第3回リュブリアナ国際版画展など、国際展に出品をかさね、フランス国内から国際的にも高い評価をうけるようになった。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、東京国立近代美術館賞を受けた。同42年、ヴァカンスの帰路、自動車事故をおこし、頚部骨折の重傷を負い、完治まで数年を要した。同44年、東京国立近代美術館から依頼された壁画「フェスティバル・ド・トーキョウ」が完成し、その取付に立ち会うために、渡仏以来、18年ぶりに帰国した。制作面では、「オート・ルート」シリーズなど有機的なフォルムと明るい色彩による抽象表現から、70年代以降は、「フェスティヴァル」シリーズなど道路標識をおもわせる無機的で、規格化されたフォルムと明快な色彩によって構成された平面作品を制作するようになった。戦後、欧米を中心に活躍しはじめた日本人作家としては、もっとも早い位置にあり、国際的な評価を得た画家であった。同58年から翌年にかけて、初期作品から近作まで80点によって構成された国内で最初の回顧展「菅井汲展」が東京の西武美術館、大原美術館を巡回した。平成3(1991)年には、芦屋市立美術博物館で、翌年にも大原美術館でそれぞれ個展を開催した。画集には、『菅井汲作品集』(昭和51年、美術出版社)、『SUGAI 菅井汲』(平成3年、リブロポート)などがあり、また吉行淳之介、原広司等との対談集『異貌の画家・菅井汲の世界』(昭和57年、現代企画室)を残している。
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没年月日:1996/04/28 読み:おだかねたろう 日本美術史家、富岡鉄齋研究者で元鉄齋研究所所長、鉄齋美術館名誉館長の小高根太郎は、4月28日午前11時56分、心不全のため、東京都世田谷区内の病院で死去した。享年87。小高根は明治42(1909)年4月23日、福岡県久留米市に生まれた。本籍は東京都世田谷区世田谷4の656。旧制東京府立第一中学校から、父の転勤に伴って昭和2(1927)年旧制大阪府立北野中学校卒業。昭和5年旧制大阪高等学校卒業。昭和8年東京帝国大学文学部美術史科を卒業して同大学院に進み、昭和10年6月文部省所管、帝国美術院美術研究所(現・東京国立文化財研究所)嘱託となり、同17年5月まで勤めた。その後、文部省国民精神文化研究所、さらに同研究所の改編により教学錬成所(現・国立教育研究所)に勤務した。戦後は東京都立大山高校教員のかたわら、東京国立近代美術館調査員、東京工業大学非常勤講師を勤めた。また、昭和50年4月から同58年3月まで鉄齋研究所長を勤め、平成5年2月から没するまで鉄齋美術館名誉館長であった。早くから富岡鉄齋の研究に取り組み、美術研究所時代に「富岡鉄齋・公私事歴録」(『美術研究』65号、昭和12年5月)、「富岡鉄齋詩文集上・下」(『美術研究』70、71号、昭和12年10月、11月)、「富岡鉄齋の旅行記について 富岡鉄齋旅行記 公刊」(『美術研究』82号、昭和13年10月)を発表し、昭和19年2月には、今も鉄齋研究の基本文献である『富岡鉄齋の研究』(藝文書院)を刊行した。その後も、『富岡鉄齋』(養徳社 昭和22年)、『人物叢書・富岡鉄齋』(吉川弘文館 昭和35年)、『鉄齋』(朝日新聞社 昭和48年)、『鉄齋大成』全5巻(講談社 昭和51年)など生涯に鉄齋に関して約40点の編著書、論文を著わした。中でも昭和44年から没するまでの28年にわたって『鉄齋研究』(全71号)に、鉄齋作品約2000点について、賛文を読み起こし、その出典を和漢の浩瀚な書籍を博捜して明らかにし、訓読し解釈した作業は、鉄齋研究における金字塔であり、余人の追随できないもので、その業績は永く鉄齋研究の基礎となるものである。その作業を通じて、小高根は鉄齋旧蔵の稀観書を少なからず発見し、それらの一部は鉄齋研究所の収蔵に帰した。また、小高根は鉄齋作品の鑑識にもすぐれ、清荒神清澄寺法主坂本光聡、富岡鉄齋嫡孫富岡益太郎とともに鉄齋作品の再発見に貢献した。主要編著書・論文富岡鉄斎「公私事歴録」 『美術研究』65(昭和12年5月)富岡鉄斎詩文集 上 『美術研究』70(昭和12年10月)富岡鉄斎詩文集 下 『美術研究』71(昭和12年11月)従軍画家としての寺崎廣業『美術研究』75(昭和13年3月)富岡鉄斎の旅行記に就いて富岡鉄斎の旅行記 公刊 『美術研究』82(昭和13年10月)菱田春草 (美術資料第九輯)(美術研究所 昭和15年3月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動 『美術研究』110(昭和16年2月)アーネスト・エフ・フェノロサの美術運動(二) 『美術研究』111(昭和16年3月)富岡鉄斎 (養徳社 昭和22年3月)平福百穂 (東京堂 昭和24年8月) 无声会の自然主義運動 『美術研究』184(昭和31年4月)富岡鉄斎 人物叢書56 (吉川弘文館 昭和35年12月 新装版 昭和60年11月)富岡鉄斎 (日本美術社 昭和36年8月)富岡鉄斎・日本近代絵画全集第14 (講談社 昭和38年3月)鉄斎 (座右宝刊行会編 集英社発行 昭和45年5月)鉄斎(共著) ( 朝日新聞社 昭和48年12月)鉄斎・文人画粋編第20巻 (中央公論社 昭和49年10月)富岡鉄斎・日本の名画 (中央公論社 昭和50年5月)菱田春草 (大日本書画 昭和51年1月)鉄斎大成:全5巻(共編著) (講談社 昭和51年9月―57年6月)富岡鉄斎・現代日本絵巻全集第1巻 (小学館 昭和57年1月)鉄斎研究・全71号 (鉄斎研究所 昭和44年12月―平成8年6月
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没年月日:1996/04/20 読み:ますむらましき 髹漆の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の漆芸家増村益城は4月20日午前2時12分、腹膜炎のため東京都豊島区の平塚胃腸病院で死去した。享年85。明治42(1910)年7月1日、熊本県上益城郡益城町(旧津森村)田原344に父増村仁五郎、マタの七男として生まれる。本名成雄(なりお)。大正6(1917)年津森尋常小学校に入学し、同12年同校を卒業して同校高等科に入学するが、翌年熊本市立商工学校漆工科に入学。その頃、同校漆工科教員には財間六郎、藤芳太直(美術史、蒔絵)、川俣熊三郎(会津漆芸)らがいた。昭和2(1927)年同校漆芸科を卒業し、同校研究所研究生となる。同4年同研究所を修了。翌5年1月、熊本市立商工学校漆工科の同期生であった山本剛史の誘いにより奈良の漆芸家辻富太郎(永斎)に師事し、同7年1月やはり山本剛史の誘いによって上京して赤地友哉に師事する。同11年第13回東京工芸品展に本名成雄の名で「皆朱輪花盆」を出品し三等賞を受賞。翌年より独立して漆芸家として作家活動を始める。同13年第3回実在工芸展、同14年第4回同展に出品。また同14年第3回日本漆芸院展に益城の名で「黒呂色平卓」を出品して第二席となる。同15年紀元2600年奉祝記念展に「乾漆八花盆」で入選。同17年第5回文展に「髹飾卓」で入選。戦後も官展に出品し、同22年第3回日展に「髹飾卓」で入選以後、日展に出品を続ける。同27年第1回漆芸作家大同会に「柿紅葉銘々皿」を出品して研究賞を受賞し、以後同展に出品を続ける。同30年第1回日本漆芸展に「溜塗文机」を出品して文大臣賞受賞。同31年より日展のほか日本伝統工芸展にも出品し、同32年第4回同展に「乾漆盛器(日の丸)を出品して日本工芸会総裁賞受賞。翌年第5回同展に「乾漆根来盤」を出品して日本工芸会奨励賞、同35年第7回同展では「髹飾線文盛器」で日本工芸会文化財保護委員会委員長賞を受賞して、同40年より同展鑑査員をつとめる。同53年重要無形文化財「髹漆」保持者に認定され、同年より人間国宝新作展にも出品する。また、同年熊本岩田屋伊勢丹で「増村益城漆芸展」が開催された。後進の育成にも尽くし、同43年より香川県漆芸研究所講師、同51年より石川県輪島漆芸研究所講師をつとめる。同62年日本工芸会参与となった。乾漆技法を用い、複雑な曲線をもつ近代的な形、絵付けをせず、朱色、黒など漆本来の色一色で仕上げる独特の仕上げにより、現代生活に根ざした作風を確立した。同56年5月東京三越本店で「増村益城髹漆展」、同62年10月には熊本県立美術館で回顧展「増村益城展」が開催され、没後の平成7年には東京国立近代美術館で遺作展が開かれた。
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没年月日:1996/04/18 読み:かんきけいぞう 上智大学教授で美術評論家の神吉敬三は4月18日午前9時2分、肺ガンのため埼玉県伊奈町の埼玉県立がんセンターで死去した。享年63。昭和7(1932)年5月8日、山口県下関市長府町松小田に生まれる。同14年下関市名池小学校に入学するが同年9月、旧国鉄職員であった父の職務の関係で東京池袋高田第二小学校に転入する。同17年静岡市森下小学校に転入し、同20年同校を卒業して静岡県立静岡中学校に入学する。同年9月岐阜県立第二中学校に転入し同22年4月、埼玉県立浦和中学校に転入。同23年同校を卒業し同県立浦和高校に入学して、同26年同校を卒業した。同27年上智大学経済学部商学科に入学。同30年4月、聖イグナチオ教会で受洗し、クリスチャンとなる。同31年、上智大学を卒業してスペイン政府給費留学生としてスペイン国立マドリード大学哲文学部に留学。翌32年6月、同大学スペイン学コースを卒業して7月にドイツ美術研究のためドイツを訪れる。同年9月マドリード大学哲文学部美術史コースに学ぶ。同33年7月パリ・カトリック協会給費生としてフランス、ベルギー、オランダに遊学。翌34年8月イタリア美術研究のためイタリアに渡るが、同年9月上智大学の帰国要請によりマドリード大学を中退して帰国し、上智大学外国語学部イスパニア語学科助手となる。同36年上智大学外国語学部イスパニア語学科専任講師、同40年同助教授となり、同44年同教授となった。同48年より翌年までスペイン政府の招聘によりスペイン高等科学研究所美術部門(ベラスケス研究所)で研究したほか、同50年スペイン王立サン・フェルナンド美術アカデミー客員、同52年スペイン王立サンタ・イザベル・デ・ウングリア美術アカデミー客員となるなど、スペインでの研究活動も積極的に行い、その内容は気候、風土、生活習慣などの体験的理解にもとづくものであった。また、同47年よりしばしば国立西洋美術館購入委員をつとめた。同52年より地中海学会初代事務局長となったほか、日本イスパニア学会理事をもつとめるなど、学会活動にも寄与した。同60年日本スペイン協会より会田由賞受賞。平成9年地中海学会賞受賞。平成3年より大塚国際美術館創設のプロジェクトのひとつとして、エル・グレコの大祭壇衝立の復元に取り掛かり、没するまでこれに従事した。著書に『ゴヤの世界』(講談社原色写真文庫 1968年)、『ゴヤ』(ヴァンタン版 原色世界美術全集 集英社 1973年)、『グレコ』(新潮社美術文庫 1975年)、『ベラスケス』(世界美術全集 集英社 1976年)、『ピカソ』(現代世界美術全集 講談社 1980年)、『青の時代』(ピカソ全集1 編・著 講談社 1981年)、『バラ色の時代』(ピカソ全集2 編・著 講談社 1981年)、『キュビスムの時代』(ピカソ全集3 編・著 講談社 1982年)、『幻想の時代』(ピカソ全集5 編・著 講談社 1981年)など、また、翻訳書にフォンタナ著『白の宣言』(現代芸術25 1964年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『大衆の反逆』(角川書店 1967年)、ホセ・オルテガ・イ・ガゼット著『芸術論集』(オルテガ著作集3 白水社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『バロック論』(美術出版社 1970年)、エウヘニオ・ドールス著『プラド美術館の三時間』(美術出版社 1973年)などがあり、16世紀以降のスペインの巨匠について幅広く研究するとともに、日本でのスペイン美術紹介に尽力した。上智大学のほかに東京大学、東北大学、慶応義塾大学、学習院大学などでもスペイン美術史を講じ、後進の指導にも尽くした。没後、著作集『巨匠たちのスペイン』(毎日新聞社 1997年)が刊行され、年譜・著作目録は同書に詳しく掲載されている。
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没年月日:1996/04/06 読み:しおみにろう 創画会会員の日本画家塩見仁朗は4月6日午前6時16分、心不全のため京都市北区の社会保険京都病院で死去した。享年67。昭和4(1929)年宮崎市に生まれる。同26年京都市立美術専門学校日本画科を卒業し、同研究科へ進学する。在学中の、同29年第18回新制作協会展に日本画「青島風景」で初入選。同31年京都市立美術専門学校研究科を卒業する。同36年第25回新制作展に亜熱帯の植物を描いた「林間緋桐A」「林間緋桐B」を出品して新作家賞を受賞。同40年第29回同展に「樹陰青熟」「樹間白花」を出品して新作家賞、同42年第31回同展に「樹叢間隙」「樹陰白光」を出品して新作家賞を受賞し、翌43年第32回同展でも同賞を受賞して、同44年同会会員となった。同49年新制作協会日本画部が同会を連袂退会して創画会を結成するのに参加し、同会設立会員となる。同52年より57年まで京都日本画専門学校副校長をつとめ、平成4年から京都市立芸術大学客員教授となって教鞭を取った。初期には火山に興味を抱き、桜島、霧島などを描いた作品が多いが、昭和30年代後半から奄美、沖縄、南太平洋の島々などを訪れ亜熱帯、熱帯の植物をモティーフに生命の横溢する情景を神秘的雰囲気で描いた。
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没年月日:1996/03/23 読み:くさかはっこう 東京芸術大学名誉教授で装飾古墳壁画の模写で知られる日本画家日下八光は3月23日午後5時45分、肺機能障害のため東京都清瀬市の国立療養所東京病院で死去した。享年96。明治32(1899)年9月18日徳島県那賀郡羽浦町大字岩脇に生まれる。本名喜一郎。大正13(1924)年東京美術学校日本画科を卒業。昭和3(1928)年から4年にかけて大谷光瑞の請来品で当時、朝鮮総督府博物館所蔵となっていた西域壁画を東京美術学校の委嘱により模写し、同6年より約10年にわたり当時の帝室博物館で古画の模写に励む。この間、同12年東京府豊島師範学校講師、同15年東京府女子師範学校講師をつとめる。同18年より東京美術学校に奉職し、同19年同校助教授、同20年同校教授となった。この間、昭和5(1930)年第11回帝展に「錦の秋」で初入選。この後、同7年第13回帝展に「晩秋」を出品し、後第15回帝展、第5、6回新文展、第2、5回日展に出品し、官展でも活躍した。同28年から30年にかけて文化財保護委員会の委嘱により宇治平等院鳳凰堂装飾画の現状模写および復元を行い、つづいて同30年から同じく文化財保護委員会の委嘱により装飾古墳壁画の模写に従事した。陰湿な古墳内部での模写作業に忍耐強くのぞみ、技法、画法等に関する学究的な姿勢を失わず、模写を手がけた古墳についての研究書として昭和42年に朝日新聞社から『装飾古墳』を刊行。また模写された絵画は同44年2月から3月にかけて東京国立博物館で行われた「装飾古墳模写展」ならびに、平成5年国立歴史民俗博物館で開かれた「装飾古墳の世界」展に展示された。経年変化や表面の凹凸により明瞭に認識できない古墳壁画を、美術材料学、考古学、美術史学などの学識者の研究成果をもとに現状模写、復元模写し、関連学界の調査研究に寄与した。昭和42年東京芸術大学を定年退官し、同学名誉教授となった。著書に『装飾古墳の秘密』(講談社)、『東国の装飾古墳』(近刊)がある。
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没年月日:1996/03/18 読み:さいとうさぶろう 洋画家の斎藤三郎は、3月18日午前4時50分、多臓器不全のため埼玉県浦和市元町の自宅で死去した。享年78。大正6(1917)年5月10日、埼玉県熊谷に生まれる。父は橋梁技師で日本画もたしなんだ。東京物理学校(現、東京理科大学)在学中の一時期、本郷絵画研究所に通う。昭和15(1940)年物理学校を中退して第二次世界大戦に出征。戦地で画家になることを決意し独学で多くのデッサンを描く。同20年復員。同21年第31回二科展に「向日葵」が初入選し、以来同展に出品を続ける。同23年第33回展に「敗戦の自画像」を出品して特待、同25年に「信仰の女」を出品して二科賞を受け会友に推挙、同29年会員となる。同35年に会員努力賞、同36年にはパリ賞受賞により翌年フランス、スペインに遊学。昭和30年代には抽象画を描いたが、渡欧後はスペインの踊り子や風景をテーマに鮮やかな色彩で情熱的、華麗な世界を描き、大衆的な人気を集め続けた。同47年「セビージャの祭」で内閣総理大臣賞を受ける。平成2(1990)年勲四等瑞宝章受章。
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没年月日:1996/02/22 読み:あさのやえ 画家浅野弥衛は、2月22日午前6時45分、脳梗塞のため三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年81。大正13(1914)年10月1日、三重県鈴鹿市の参宮街道に面した、江戸時代から煙草の仲買商を営んでいた旧家の長男として生まれた。昭和7(1932)年、中学校を卒業後、職業軍人となり、同年満州に渡り、翌年帰国したとされる。この頃から絵筆を手にするようになり、また戦後詩人として知られるようになる津市在住の野田理一(1907年生まれ)と親交するようになり、野田の所有していたヨーロッパの画集や雑誌から、欧米の新しい芸術運動を知った。しかし、未知の表現も、彼にとって「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」(「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」、『中日新聞』1971年3月13日)と回想しているように、後に独自の抽象絵画にむかう姿勢を、すでにしめしていた。本人の回想によれば、「昭和十三年か、十四年か、」に美術創作家協会に初出品し、「上野の美術館」に自作である「モノクロームの小さい作品」を見るために上京した、としている。(「ふるさと」、『朝日新聞』1961年1月17日)しかしながら、この初出品については、改称する以前の自由美術家協会展の第2回展(同12年)から第4回展(同15年)までの出品目録では確認できず、また改称後に上野で開催された第5回展(同16年)の出品目録は未見のため、確認できていない。戦争中は、三度応召し、戦後の同25年に鈴鹿信用組合理事となり、また美術文化協会会員となった。同28年、鈴鹿信用組合が鈴鹿信用金庫に改組され、その代表理事に就任、同34年まで勤め、その間、昼間は銀行での勤務、帰宅後の夜に制作をする生活がつづいた。同38年、美術文化協会を退会。その後、名古屋、東京、三重県内での個展を毎年開催しながら、制作をつづけた。その独自の抽象表現を築いたのは、1950年代後半からで、乳白色の画面をひっかいた無数の鋭い線によって表現され、ナイーブだが、独特の叙情的な小世界をつくりあげていた。この線を主体にした表現は、その後も一貫して追求され、徐々に評価をたかめていった。同62年から平成2(1990)年まで、愛知県立芸術大学の客員教授をつとめ、翌年には三重県民功労賞を受賞した。歿する直前の同8年1月に、郷里の三重県立美術館において初期から近作にいたる約250点によって構成された回顧展「浅野弥衛展」が開催され、自らの資質に沿いながら制作をつづけてきたこの寡黙な抽象画家の全貌が紹介された。
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没年月日:1996/02/18 読み:よしわらみちお 具体美術協会のメンバーで、現代美術家の吉原通雄は、2月18日午後6時49分、脳内出血のため死去した。享年63。昭和8(1933)年兵庫県芦屋市に生まれ、父は美術家の吉原治良。関西学院大学在学中の同29年、具体美術協会の結成に参加、第1回展から同47年の第21回展まで、毎回出品した。第1回展では、地面にひろげたベニヤ板に、コールタールを流し、上から砂をふりかけ、アスファルト道路をはぎとったような絵画作品を出品した。同33年の大阪で開催された第2回「舞台を使用する具体美術」発表会では、美術と舞踏を融合させた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を演出した。同40年には、オランダとドイツの前衛グループ「ヌル」が主宰するヌル国際展に、具体グループが招かれ、父治良とともにアムステルダムのステデライクミュージアムに赴き、展示にあたった。具体美術協会解散後は沈黙していたが、近年再び活動をはじめていた。
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