本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





久野真

没年月日:1998/08/22

読み:くのしん  美術家の久野真は8月22日午前9時、前立腺がんのため名古屋市の自宅で死去した。享年77。大正10(1921)年3月3日、名古屋市に生まれる。昭和18(1943)年東京高等師範学校芸能科(現筑波大学)を卒業。同27年より新制作協会を発表の場とし、石膏による作品で話題を呼ぶ。しかしその素材の速効性に対し次第に疑問をもつようになり、同33年頃から鉄を主体に石膏や布、特種染料等の多彩な材料を用いた作品を手掛けることになる。同34年の第23回新制作協会展では新作家賞を受賞するも、翌年第24回展への出品を最後に同会を退会、その一方で同34年のイタリアでのプレミオ・リソーネ国際美術展への招待出品、同36年のアメリカのカーネギー財団主催によるピッツバーグ国際美術展への招待出品、同38年のロンドンの画廊マクロバート&タナードでの個展開催、同39年のアメリカ美術連盟主催による現代日本絵画彫刻展への招待出品と、東京画廊の支援を受けながら海外で作品を発表するようになる。同41年から翌年にかけてロックフェラー財団運営のジャパン・ソサエティの奨学金を得てニューヨークに研究滞在、帰国後はニューヨークで得た自由の精神を日本で試そうと考え、一時期金属から離れてナイロンやポリウレタンフォーム、発砲スチロールなどの合成樹脂を素材とした立体作品の仕事に取り組む。しかし同47年の個展から再び金属による作品を制作、使用する鉄も極力情感を排除するために錆びにくく一定の表情を保つステンレススチールを採用し、画面も鋭角的な線による突出感を強調するような幾何学形態を不連続で不安定な構図のなかに配置した作品を創り出した。その後窓枠のような矩形を少しづづずらしながら二重三重に重ね合わせた立体的構造の作品を経て、同60年代にはかつて情感を排除すべく用いることのなかった曲線を表現のなかに復活させ、題名も「長い手紙-0」のような前にはない具体的な名称をつけるなど新たな展開をみせていた。平成10(1998)年には愛知県美術館にて「久野真・庄司達展 鉄の絵画と布の彫刻」が開催されている。

小堀四郎

没年月日:1998/08/09

読み:こぼりしろう  洋画家の小堀四郎は8月9日午後6時45分、脳こうそくのため埼玉県新座市の病院で死去した。享年96。明治35(1902)年7月20日、尾張徳川家に仕えた名古屋市内の漢学者の家に生まれる。大正10(1921)年愛知一中を卒業後上京し、藤島武二に師事、川端画学校でデッサンを学ぶ。翌年東京美術学校西洋画科に進学、同期生には猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、小磯良平らがいた。2年生の時には特待生となり、昭和2(1927)年に卒業、全同期生と上杜会を結成し、9月にその第1回展を開催する。同年11月の第8回帝展には「静姿」が初入選する。翌年渡欧、フランスを中心にヨーロッパ各国で西洋絵画、とりわけレンブラントやコロー、ドーミエの模写で表現力を磨いた。同8年に帰国し、藤島武二の奨めで東京上野の松坂屋と名古屋の松坂屋で173点からなる滞欧作品展を開催。同10年、帝展改組の混乱を期に画壇を離れ、以後は上杜会にのみ出品。同20年から30年まで疎開先の長野県蓼科にこもり、農耕生活をしながら画業に専念する。画家を志した際、漢学者の父から「作品を売って生活してはならぬ」と戒められたことを終生守り、孤高の姿勢を貫いた。モティーフを初期の人物から風景画に移しながら古典的色合いを持つ堅実で精神性のこもった作品を描き、戦後は夜景をテーマに宗教性・神秘性を帯びた作風を展開。 同51年には東京大学のイラン・イラク発掘調査行に加わり、翌年その体験を基に「無限静寂」三部作(築地カトリック教会祭壇画)を制作。平成3(1991)年には高潔な画業と優れた人格を対象とする中村彝賞(第2回)を受賞。昭和61年に渋谷区立松濤美術館、平成3年に茅野市美術館、同4年には卒寿を記念して東京ステーションギャラリーで回顧展を開催。同7年には豊田市に油彩53点、ドローイング41点を寄贈した。なお妻は森鴎外の次女で随筆家として知られる小堀杏奴。

高松次郎

没年月日:1998/06/25

読み:たかまつじろう  60年代から今日まで、芸術表現に一貫して根源的な問いとかけと視点をもちつづけながら、作品と言説においてつねに現代美術をリードしていた美術家高松次郎(本名、高松新八郎)は、直腸ガンのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年62。昭和11(1936)年、2月20日東京に生まれ、同34年東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻を卒業、同年3月に第10回読売アンデパンダン展に出品。同38年、赤瀬川原平、中西夏之とグループ「ハイレッド・センター」を結成。同年、「ミキサー計画」(新宿第一画廊、宮田内科診療所)で、「紐」シリーズの作品を発表、さらに街頭ハプニングなど反芸術的な運動をはじまた。また、同年の第15回読売アンデパンダン展に「カーテンに関する反実在性について」と題する作品を発表、これは上野駅から会場の東京都美術館までを紐でつづけるというもので、はやくも観念性のつよい傾向をしめしていた。このように点、線(紐)といった、最小限の表現の単位を最小限の素材(針金)から自身の表現を開始した。ついで、同39年頃から、画面に人間の影だけを描き、実在物と虚像の在り方を問いかける「影」のシリーズをはじめ、この年の第8回シェル美術賞展に「影A」を出品、佳作となり、さらに翌年の第9回シェル美術賞展に「影の圧搾」、「影の祭壇」を出品、1等賞となった。同40年の第2回長岡現代美術館賞展に「カーテンをあけた女の影」を出品、優秀賞をうけた。同42年からは、「遠近法」のシリーズをはじめ、立体作品によって視覚として感じられる遠近感と遠近法との差異を提示しようとした。また、70年代には、木、鉄、布、紐など、さまざまな物質を組み合わせ、構成する「複合体」のシリーズは、立体作品というよりも、空間をつかいながら、物質とそこにはたらく重力の関係を注視することが意図され、今日でいうインスタレーションに近い作品となっている。同47年、第8回東京国際版画ビエンナーレに、「The Story」を出品、国際大賞を受賞した。これは、文字や記号をつかった作品で、あらたなシリーズとなった。その後も、同48年に第12回サンパウロ・ビエンナーレ、同52年にはドクメンタ6(ドイツ、カッセル市)に出品するなど、国内外において作品を発表しつづけた。80年代は、身体的なストロークを残す、平面作品を制作した。日本の現代美術界にあって、終始一貫して、観念性の深い、知的な視覚表現をもとめつづけた作家であったといえる。没後の平成11(1999)年10月に、国立国際美術館において「高松次郎―『影』の絵画とドローイング」展、平成12年5月には、千葉市美術館において「高松次郎 1970年代の立体を中心に」があいついで開催された。

進藤蕃

没年月日:1998/04/17

読み:しんどうばん  洋画家の進藤蕃(本名、しげる)は、頸部腫瘍のため東京都港区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年、東京都に生まれ、同27年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、在学中は小磯良平の指導をうけ、同31年に首席で卒業、大橋賞をうけた。同35年、フランス政府給費留学生として渡仏、パリのエコール・ド・ボーザールにて、モーリス・ブリアンションに師事した。帰国後、安井賞展に5回出品するほか、女子美術大学、東京芸術大学、愛知県立芸術大学などで、非常勤講師をつとめた。同42年には、中根寛、小松崎邦雄とともに濤々会を結成、また同49年には井上悟、橋本博英、大沼映夫、山川輝夫などと黎の会を結成、東京セントラル美術館で展覧会を開催した。国内外を取材のため精力的に歩くが、なかでも中国の風景をテーマに、同58年にパリのグランパレ美術館にて、第10回FIAC展(国際現代美術展)において個展を開催した。平成6年には、「両洋の眼」展に出品、また笠井誠一、福本章とともに三申会展を開催した。南ヨーロッパをおもわせる明るい陽光のもとでの風景画、あるいは室内の静物画を得意としたが、ことに中国の桂林などでの取材旅行からうまれた80年代の一連の風景画は、明快な色彩構成のうちに深い情感をたたえるもので、コロリストとしての画家の資質がもっとも発揮され、質の高い具象表現となっていた。

立石大河亞

没年月日:1998/04/17

読み:たていしたいがあ  美術家の立石大河亞は4月17日午後7時40分、肺がんによる心不全のため死去した。享年56。昭和16(1941)年12月20日、福岡県伊田町(現・田川市)に生まれる。本名紘一。少年期を筑豊の炭坑地域で過ごした後、同36年に上京、武蔵野美術大学短期大学芸能デザイン科に入学する。同38年第15回読売アンデパンダン展に玩具や流木を貼りつけたレリーフ的作品「共同社会」を出品、針生一郎ら評論家の絶大な支持を集める。同年武蔵野美術短期大学芸能デザイン科を卒業、次回の読売アンデパンダン展にネオン絵画「富士山」を出品すべく品川のネオン会社に翌年まで勤務、エアーブラシの技法を身につける。同39年東野芳明の企画による南画廊での「ヤング・セブン展」、および初個展の「積算文明展」で旭日旗のイメージをとりこみつつ立体的ロゴ等の広告的表現による作品を発表し、日本ポップ・アートの嚆矢としてさらなる注目を浴びる。またこの年、中村宏と観光芸術研究所を設立し、多摩川川原で旗揚げ展を開催、以後富士山や漫画のキャラクターといった大衆的なイメージを引用した作品を制作する。観光芸術研究所は同41年にその活動を止め自然解散となるが、その前後から漫画を雑誌に発表しはじめ、同43年からはタイガー立石のペンネームを使用するようになる。同44年渡伊し、ミラノに滞在し欧米各地で個展を開催、同46年~49年にはオリベッティ社のエットレ・ソットサス工業デザイン研究所に嘱託として在籍しイラストレーション等を手がける。またミラノ滞在中の同44年頃から漫画の如く分割された画面をもつ「コマ割り絵画」を描き始める。同57年帰国、その後も油彩画、掛軸、屏風、陶土のオブジェなど表現を多様に変化させながら作品を造り続ける。平成2(1990)年の市原での個展以後、立石大河亞の名を使用。同4年アルティウムで多次元パノラマ絵巻展、同6年郷里田川市美術館で「立石大河亞1963―1993展 筑豊・ミラノ・東京、そして…」を開催。没後の同11年には田川市美術館で「立石大河亞展 THE ENDLESS TIGER」、O美術館で「メタモルフォーゼ・タイガー 立石大河亞と迷宮を歩く」展が開催された。 

浅蔵五十吉

没年月日:1998/04/09

読み:あさくらいそきち  九谷焼の陶工で文化勲章受章者の浅蔵五十吉は4月9日午後1時25分、呼吸不全のため金沢市の金沢大学医学部付属病院で死去した。享年85。大正2(1913)2月26日、石川県能美郡寺井町に生まれる。父は先代五十吉で、10代の頃から父に師事して陶芸を学び、昭和3年に初代徳田八十吉に師事。同21年から色絵陶磁の北出塔次郎に師事する。同21年第1回日展に「青九谷水鉢」で初入選し、以後毎年出品。同27年第8回日展に「磁器長角水盤」で、同30年第11回目日展に窯変「交歓」花器で北斗賞受賞。同32年第13回目日展には「構成の美」花器を出品して特選・北斗賞を受賞する。同52年第9回改組日展に「釉彩華陽飾皿」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同56年「佐渡の印象」により日本芸術院賞を受賞し、同59年日本芸術院会員、平成4(1992)年文化功労者となった。同8年文化勲章を受章。伝統的な技法を基礎に、花鳥を主とする独特の意匠を施し、鑑賞性と実用性の両立に留意した制作を試みる。同2年、横浜、京都、大阪、東京の高島屋で戦後から新作までの作品を展観する喜寿記念展が開催された。昭和62年には『色絵磁器・浅蔵五十吉作品集』(産経出版)が刊行されている。

寺井直次

没年月日:1998/03/21

読み:てらいなおじ  人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家寺井直次は3月21日午後0時55分、内臓疾患のため金沢市の病院で死去した。享年85。大正元(1912)年12月1日、金沢市の鍛冶職で金物商を営む家に生まれる。昭和5(1930)年石川県立工業学校漆工科描金部を卒業し、東京美術学校工芸科漆工部に入学、六角紫水・松田権六・山崎覚太郎らの指導を受ける。また在学中に日本画を金沢出身の画家田村彩天に学び、その後の工芸意匠案出の糧とする。同10年同学校を卒業、乾漆による卒業制作の「鵜文様飾筥」は翌年の改組第1回帝展に初入選するが、展覧会活動は以後しばらく休止し、財団法人理化学研究所に勤務しながらアルミを素地にした金胎漆器の技術の開発に専念した。同16年からは輸出漆器生産のため同研究所の静岡工場に工芸部長として赴任、同16年からは副工業長を勤める。戦後は依願退職して金沢に帰り、鶏などの卵の殻を細かく割り、その一つ一つを張り合わせて、柔らかな量感に富む蒔絵の卵殻技法に工夫を重ねた。創作活動再出発の第一作として卵殻を用いた「双鳩模様手筥」を制作、これが同21年の第1回日展に入選する。同23年第4回日展«鷺之図小屏風»、および同30年第 12回展に「極光」二曲屏風で特選を、 同29年第11回日展に「雷鳥の図箱」で北斗賞を受賞、同32年には日展会員となる。同25年より47年まで石川県立工業学校漆工科教諭となる。同30年からは日本伝統工芸展に出品し、主として鶉の卵殻を用いた、より繊細で華麗な作品を発表、同35年には同会理事に就任する。同43年北国文化賞、同45年金沢市文化賞を受賞。同47年石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長となるが、翌年辞任、以後はかつて理化学研究所で研究していた金胎漆器の制作に再び取り組むようになる。同52年加賀蒔絵で石川県指定無形文化財保持者に認定。同58年に勲四等瑞宝章を受章。同60年、蒔絵で重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定、同年社団法人日本漆工協会功労賞を受賞。同63年文化庁工芸技術記録映画「蒔絵 寺井直次の卵殻のわざ」完成。平成元(1989)年中日文化賞を受賞。同4年新東京国際空港の貴賓室にかかげる漆額「極光(オーロラ)」を作成。同5年『寺井直次作品集』(能登印刷出版部)刊行。同6年石川県立美術館で「蒔絵・人間国宝 寺井直次の世界」展が開催された。

萬野裕昭

没年月日:1998/03/04

読み:まんのやすあき  萬野美術館館長の萬野裕昭は3月4日午前3時55分、肺炎のため兵庫県西宮市の病因で死去した。享年91。明治39(1906)年8月17日大阪府泉北郡忠岡村(現・忠岡町)で生まれる。父は土木建築請負業の萬野組を経営していた。大正14(1925)年父より萬野組を引き継ぎ、昭和6(1931)年には合名会社南海鉄筋混凝土(コンクリート)工務店を設立、煙突建設請負業を始める。同15年株式会社萬野組を設立。戦後は不動産業を志し、その他にも船舶、運輸、外食産業、レジャーと多くの事業を手がける。その古美術収集については、青年時代に骨董類に興味を持ち、茶碗、香炉、徳利などを収集。戦時中は一時途絶えるものの、戦後しばらくして財閥・富豪が所持していた伝世品が流出しだすと、中国陶磁と茶道具を主に収集を再開し、琳派・肉筆浮世絵等の絵画、書蹟、さらには金工、刀剣・甲冑から染織へと範囲を拡大、東洋古美術に関しては仏像等直接信仰の対象となるもの以外は全てコレクションとして網羅されていると自負するまでに至る。その収集方法についても、美術館の展覧会を企画するかのようだともいわれるほど、各ジャンルにわたり系統的だったものであった。また収集を通じて細見良ら関西のコレクターや山根有三ら美術史家とも親交が深かった。もっともそのコレクションが国宝・重要文化財を含み一千点を超える屈指の収集家になっても表に出ず、好事家の間で「謎のコレクター」といわれたが、同57年所蔵する「佐竹本三十六歌仙斷簡 源公忠」がテレビで放映され、収集家としての存在が世間に知られるようになる。この頃にはすでに美術館建設の構想を固め、同62年財団法人萬野記念文化財団の設立が文化庁より認可、翌年大阪御堂筋沿いに萬野美術館を開館させた。平成元(1989)年文化芸術関係功労者として大阪府知事表彰を、また地域文化功労者として文部大臣賞を受ける。同6年には自伝『事業と美術と』を出版した。

松島健

没年月日:1998/02/27

読み:まつしまけん  2月27日午後0時33分、胆嚢ガンのため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉病院で死去。文化庁美術工芸課主任文化財調査官を経て、東京国立文化財研究所情報資料部長を歴任。享年54。日本彫刻史。松島は昭和19(1944)年2月27日、東京で生まれた。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程において日本彫刻史を専攻。ことに鎌倉彫刻に関心を寄せ、修士論文『運慶の生涯と芸術』を大学に提出する。なお、この修士課程在学中の同43年から2年間、文化庁の調査員に採用されている。同45年4月、同大学院後期博士課程に進学するも5月1日、東京国立博物館学芸部資料課資料室に文部技官として採用され、これにともない大学院後期博士課程を退学する。同46年4月1日付で、学芸部美術課彫刻室併任となり、同48年8月1日付で、文化庁に出向、文化財保護部美術工芸課に転任。同55年10月1日付で文化財保護部美術工芸課文化財調査官に昇任する。同57年12月1日から86年5月31日まで文化財保護部美術工芸課文化財管理指導官を併任し、平成2(1990)年4月1日文化財保護部美術工芸課主任文化財調査官に昇任する。同8年4月1日付で東京国立文化財研究所情報資料部長に昇任した。  松島の日本彫刻史の研究者としての研鑽は文化庁文化財保護部美術工芸課時代に培われたものといっても過言でない。この文化庁時代の松島の仕事は文化財(彫刻)の指定および指定文化財の修理計画の立案と修理指導、保存施設事業計画の立案と実施指導、保存管理、文化財の公開活動など文化財保護行政の多岐にわたった。また職務の一環として中国における鑑真大師像回国巡展(昭和55年4月19日~5月24日)をはじめとして在職中、海外で開催された日本美術の展覧会において自ら日本彫刻の名品の選定に関わりその魅力を海外に伝えた功績は大きい。ことに平成2年、主任文化財調査官に昇任してからは彫刻部門の総括責任者として指定・保存・公開事業に強い指導力を発揮し、一時期中断していた仏像の国宝指定を積極的に推し進め、以後、仏像の国宝指定を再開させた功績は特筆されよう。この松島の文化庁での職務は美術史研究者としての方向性にもおおきく反映し、職務の傍ら現場において実査にもとづく知見に立脚した論を展開させていった。その関心の中心は大学院時代以来、終始一貫して鎌倉彫刻、ことに運慶にあったようで、その意味では同3年にイギリス大英博物館において行われた「鎌倉彫刻展」はかれのこれまでの研究活動に裏打ちされた作品選定がなされており、鎌倉時代の仏像をはじめてまとまった形で海外に紹介した展覧会としても高い評価を得た。また、同5年まで行われた東大寺南大門金剛力士像の本格的解体修理は主任文化財調査官として監督・監修に携わるとともに松島の彫刻史研究者としての生涯において大きな意味を持ち得たようである。この自らのなし得た仕事と金剛力士像・運慶への熱い思いは東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、同9年)および、松島の死をもってうち切られることとなった産経新聞の紙面上での中世史学者・上横手雅敬との対論「運慶とその時代」(のちに文化庁文化財保護部美術工芸課時代の部下であった根立研介・現、京都大学文学部助教授によって『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』(文永堂、同11年)としてまとめられた)において窺われる。松島の研究者生活において転機となったのは同8年4月の東京国立文化財研究所へ情報資料部長としての移動であった。文化財の指定・保護という長年の激務から解放され研究者として研究活動に専念、その精力的な調査研究活動は周囲に万年青年ぶりを印象づけた。そのなかで松島が新たに取り組んだのは、ひとつは東京国立文化財研究所での情報資料部長という職掌を念頭においた国宝彫刻のCD-ROM版化であり、いまひとつは勢力的に調査・研究活動を行うなかで自らが見出した長野・仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を探ることである。ことに後者は大学院時代以来のフィールドワークの中心に運慶があったことを窺うに足る。そして、翌同9年10月22日に開催された東京国立文化財研究所美術部情報資料部公開学術講座では、この仏法紹隆寺不動明王像の運慶作の可能性を「新発見の運慶様の不動明王像」と題して講演に及び自説を披露している。しかしながら、その頃、すでに癌は松島の身体を蝕みはじめ、病名について告知を受けながらもあえて延命治療は行わず、力の限り研究に邁進した。おしむらくは松島が最後に取り組んだ研究の内容が活字化をみなかったことである。12月には湘南鎌倉病院に再入院。翌2月27日に東京国立文化財研究所情報資料部長の現役のまま、54歳の生涯を終える。墓所は生前みずから選定した鎌倉・光則寺とする。没後、東京国立文化財研究所時代に立案・監修にあたったCD-ROM版「国宝仏像」全5巻が完成をみる。なお美術史家河合正朝・慶應義塾大学文学部教授は義兄にあたる。編著書『名宝日本の美術5・興福寺』(小学館、昭和56年)、『日本の美術225・紀伊路の仏像』(至文堂、昭和60年)、『日本の美術239・地蔵菩薩像』(至文堂、昭和61年)、『KAMAKURA-The Renaissance of Japanese Sculpture(鎌倉時代の彫刻)』(British Museum Press、平成3年)、『東大寺南大門・国宝木造金剛力士像修復報告書』(東大寺、平成5年)『原色日本の美術9・中世寺院と鎌倉彫刻』(小学館、平成8年)、『大三島の神像』(大山祇神社、平成8年)、週間朝日百科『日本の国宝5・奈良薬師寺』(朝日新聞社、平成9年)、論文「興福寺十大弟子像」(『萌春』200、昭和46年)、「運慶小考」(『MUSEUM』244、昭和46年)、「鞍馬寺毘沙門三尊像について」(『MUSEUM』251、昭和47年)、「鎌倉彫刻在銘作品等年表」(『MUSEUM』296、昭和50年)、「吉祥天像」(『國華』991、昭和51年)、「地方における仏像の素材」(『林業新知識』753、昭和52年)、「立木仏について」(『林業新知識』754、昭和52年)、「千手観音像(旧食堂本尊)興福寺」(『國華』1000、昭和52年)、「慶禅作聖徳太子像・天洲寺」(『國華』1001、昭和52年)、「善導大師像来迎寺」(『國華』1001、昭和52年)、「日応寺の仏像(上・下)」(『國華』1011、1012、昭和53年)、「乾漆像の技法」(『歴史と地理』、昭和55年)、「東大寺金剛力士像(阿形・吽形の作者)」(『歴史と地理』、昭和55年)、「伊豆山権現像について」(『三浦古文化』、昭和56年)、「滝山寺聖観音・梵天・帝釈天像と運慶」(『美術史』112、昭和57年)、「道成寺の仏像―本尊千手観音像及び日光・月光菩薩像を中心にして-」(『仏教芸術』142、昭和57年)、「木造阿弥陀如来及両脇寺侍像」(『学叢』6、昭和59年)、「西園寺本尊考(上)」(『國華』1083、昭和60年)、「仏師快慶の研究」(『鹿島美術財団年報』3、昭和61年)、「地蔵菩薩像」(『國華』1097、昭和61年)、「天神像・荏柄天神社」(『國華』1099、昭和62年)、「奈良朝僧侶肖像彫刻論―鑑真像と行信像―」(『仏教芸術』176、昭和63年)、「石山寺多宝塔の快慶作本尊像」(『美術研究』341、昭和63年)、「円鑑禅師の寿像と造像」(『仏教芸術』181、昭和63年)、「書評と紹介・清水真澄著『中世彫刻史の研究』」(『日本歴史』493、平成元年)、「長楽寺の時宗祖師像」(『仏教芸術』185、平成元年)、「河内高貴寺弁財天像私見」(『國華』1147、平成3年)、「東大寺金剛力士像(吽形)の構造と製作工程」(『南都仏教』66、平成3年)、「東大寺金剛力士像(阿形)の構造と製作工程」(『南都仏教』68、平成5年)、「満昌寺鎮守御霊明神社安置の三浦義明像」(『三浦古文化』52、平成5年)、「興福寺の歴史」(『日本仏教美術の宝庫奈良・興福寺』展覧会図録概説、平成8年)、「臼杵摩崖仏の成立試論」(『國華』1215、平成9年)、随筆「平安初期の仏像―特別展平安時代の彫刻に寄せて」(『萌春』205、昭和46年)、「運慶とその時代(1・3・5・7・9)」(『産経新聞』平成8~9年)、「国宝の旅3・整形された仁王の顔」(『一冊の本』10、平成9年)、「解説薬師寺・藤原京から平城新京へ移転/薬師寺の移転をめぐる論争」(『週間朝日百科・日本の国宝005・奈良薬師寺』、平成9年)、「仁王像は“超大型のプラモデル”」(『一冊の本』15、平成9年)、作品解説「原色版解説・国宝梵天坐像」(『MUSEUM』246、昭和46年)、「原色版解説・家津美御子大神坐像」(『MUSEUM』247、昭和46年)、「原色版解説・毘沙門天立像」(『MUSEUM』248、昭和46年)、「口絵解説・鎌倉初期の慶派仏師の二作例」(『仏教芸術』96、昭和49年)、「千葉県君津市と富津市の彫刻」(『三浦古文化』16、昭和49年)、「国宝鑑賞シリーズ6大仏師定朝と鳳凰堂本尊」(『文化庁月報』182、昭和59年)、「国宝鑑賞シリーズ19木造十一面観音立像(国宝)」(『文化庁月報』195、昭和59年)、「男神坐像・京都府出雲大神宮―新国宝・重要文化財紹介」(『国立博物館ニュース』588、平成8年)、「そして一本の檜材に 寄木造り彫刻の構造と技法」(東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』朝日新聞社)、対論「運慶とその時代」(『歴史ドラマランド・運慶の挑戦 中世の幕開けを演出した天才仏師』文永堂)、CD-ROM版「国宝仏像」全5巻。 

植村鷹千代

没年月日:1998/02/26

読み:うえむらたかちよ  美術評論家の植村鷹千代は2月26日午前0時42分、肺気腫のため東京都新宿区の病院で死去した。享年86。明治44(1911)年11月2日、奈良県高市郡高取町の旧華族の家に生まれる。昭和7(1932)年大阪外語学校仏文科を卒業。その後日本外事協会、南洋経済研究所に勤務、南方古美術の研究を担当するかたわら、同14年より評論活動を開始、美術評論の草分け的存在として活躍する。同18~20年同盟通信社に勤務。この時期、「決戦下における生産美術の指命について」(『画論』27号)など戦意高揚のための評論を執筆する。同22年、モダンアートの幅広い結束を求めて結成された日本アバンギャルド美術家クラブに代表員として参加、翌24年3月の『アトリエ』には「レアリテとレアリズム」を掲載し、いわゆる“リアリズム論争”に加わって前衛美術擁護の論陣を張った。同40年より日本大学芸術学部講師となるが、この頃から伝統や風土への復帰への論調が目立つようになった。同46年美術愛好会サロン・デ・ボザール会長に就任。同52年紫綬褒章受章。同57年から10年間文化勲章・文化功労者選考委員を務めた。主要著書に『現代美の構想』(生活社 昭和18年)、『現代絵画の感覚』(新人社 昭和23年)、『幻想四季』また翻訳に、ドラクロワ『芸術論』(創元社 昭和14年)、ハーバード・リード『芸術と環境』(梁塵社 昭和17年)、アルフレッド・H.バー・ジュニア『ピカソ 芸術の50年』(創元社 昭和27年)、ハーバード・リード『芸術による教育』(水沢孝策と共訳 美術出版社 昭和28年)、ハーバード・リード『今日の絵画』(新潮社 昭和28年)、ガートルード・スタイン『若きピカソのたたかい』(新潮社 昭和30年)がある。 

北村哲郎

没年月日:1998/02/20

読み:きたむらてつろう  元共立女子大学教授、元東京国立博物館学芸部長の北村哲郎は2月20日午後0時35分、肺癌のため千葉県船橋市の千葉徳洲会病院で死去した。享年76。大正10(1921)年9月21日東京に生まれる。昭和19(1944)年10月慶應義塾大学文学部芸術学科を卒業する。同22年2月帝室博物館臨時職員となり、同年6月国立博物館事務嘱託となり陳列課染織室につとめる。同24年6月文部技官となる。同27年7月京都国立博物館学芸課勤務となり同37年8月同館学芸課普及室長となる。同41年1月から7月までアメリカ、カナダでの日本古美術展に随行して両国へ滞在。同43年1月東京国立博物館学芸部資料課主任研究官、翌44年4月同館学芸部工芸課長、同50年4月同企画課、翌51年9月同学芸部長となる。同53年4月文化庁文化財保護部文化財鑑査官となり、同57年退官して共立女子大学家政学部教授となった。服飾・染色史、人形の研究を専門とし、朝廷などの儀式に着用する有職の染織品や能装束の研究家として知られた。著書に『日本の工芸 織』(淡交社 昭和41年)、『日本の美術 人形』(至文堂 昭和42年)などがある。 

友部直

没年月日:1998/02/04

読み:ともべなおし  共立女子大学名誉教授で遠山記念館館長をつとめた美術史家の友部直は2月4日午前7時47分、呼吸器疾患のため東京都板橋区の病院で死去した。享年73。大正13(1924)年10月14日、神奈川県に生まれる。昭和29(1954)年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業、同30年同大学助手となる。同31年共立女子大学文芸学部助手、同32年同大学専任講師に就任。同38年から39年までイギリスに留学し、ロンドン大学ウォーバーグ研究所でE.H.ゴンブリッチ教授に、大英博物館ギリシア・ローマ部でR.A.ヒキンズ博士に師事。同39年より共立女子大学文芸学部助教授、同45年より教授に就任、主にエジプト、古代地中海美術、および西欧工芸美術史について研究・執筆を続ける。同53~57年、同61~平成2(1990)年同大学文芸学部部長を、昭和57~61年同大学文学芸術研究所長を務める。平成3年から同9年まで遠山記念館館長に就任。同6年には共立女子大学名誉教授に推挙される。主要著書に『ヨーロッパのきりがみと影絵』(岩崎美術社 昭和54年)、『美術史と美術理論』(放送大学教育振興会 平成3年)、『エーゲ海 美の旅』(小学館 平成8年)、また翻訳にE.H.ゴンブリッチ『美術の歩み』(美術出版社 昭和47、49年)、ニコラウス・ペヴスナー『英国美術の英国性』(蛭川久康と共訳 岩崎美術社 昭和56年) がある。

佐竹徳

没年月日:1998/02/03

読み:さたけとく  日本芸術院会員の洋画家佐竹徳は2月3日午前9時3分、肺炎のため、岡山市の岡村一心堂病院で死去した。享年100。明治30(1897)年11月11日、大阪に生まれる。本名徳次郎。関西美術院で鹿子木孟郎に学び、後に上京して川端画学校で藤島武二に学ぶ。安井曽太郎にも師事した。大正6(1917)年、第11回文展に「清き朝」で初入選。同9年第2回帝展に「並樹」「静物」の2点が入選。同10年第3回帝展に「静物」を出品して特選受賞。この年、坂田一男からセザンヌ画集を見せられ感動する。同12年関東大震災の救済のために神戸から上京したキリスト教社会運動家賀川豊彦の講演を聞いて共感し、クリスチャンとなり、自然を神の造化として謙虚に見る姿勢を確立する。昭和4(1929)年第10回目帝展に「ダリア」を出品して再度特選となった。同5年帝展無鑑査となり、また、同年第11回帝展出品作「巌」で3回目の特選を受賞した。戦後も同21年第1回日展に「竹園」を出品して特選となり、その後も日展に出品を続けた。同24年頃から十和田奥入瀬の風景に魅せられ、長期滞在して制作。その後も風景を主なモティーフとした。同34年、セザンヌの作品に触発されて、赤土と青緑色のオリーブが織りなす岡山県牛窓の風景を好んで、同地にアトリエを構える。同42年第10回目新日展に牛窓風景に取材した「オリーブと海」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。翌43年同作品により第24回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となった。同44年社団法人日展の改組が行われ、あらたに理事に選出されて同48年まで在任。退任にあたり参与への就任を固辞して会員としてとどまった。同61年4月「リージョンプラザ・上田創造館快感記念小山啓三、佐竹徳二人展」年が開催され、翌年東京の日動サロンおよび大阪日動画廊で「佐竹徳展」が開催された。平成元(1989)年第1回中村彝賞を受賞。同3年には茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開催された。自然の素直な観照を緊密な構図、穏やかな色調で表現した。

星野眞吾

没年月日:1997/12/29

読み:ほしのしんご  日本画家の星野眞吾は12月29日午前2時3分、呼吸不全のため愛知県豊橋市の病院で死去した。享年74。大正12(1923)年8月15日、愛知県豊橋市に生まれる。昭和19(1944)年京都市絵画専門学校図案科を卒業後、同校日本画科に入学。同23年卒業し、研究科に進む。在学中より三上誠と親交し、24年三上、下村良之助、大野秀隆(俶嵩)ら京都市立絵画専門学校卒業生でパンリアル美術協会を結成、伝統的な日本画と決別すべく、敢えて“膠絵”と称し、現代美術としての可能性を摸索する。同24年同協会展第3回「巣」、翌年第五回「割れた甕」などの具象表現から、同35年第18回「厚紙による作品」、同37年第20回「心象」など抽象的表現に移行。同39年、矢野純一・針生一郎が主宰した日本画研究会に参加。同年の父の死を契機に身体を画面に押しつけた“人拓”による作品を多く制作。同49年中村正義らとともに日本画研究会を発展させて先鋭的な作家集団として从会を結成、個性的な展覧会を開催する。この間、同26年中村正義、平川敏夫、高畑郁子らと画塾中日美術教室をはじめ、同37年第5回中部日本画総合展で最優秀賞を受賞。日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、同46年には東京造形大学非常勤講師となる。同60年福井県立美術館で三上誠・星野眞吾二人展、平成8(1996)年には豊橋市美術博物館、新潟市美術館で星野眞吾展が開催された。

佐多芳郎

没年月日:1997/12/16

読み:さたよしろう  日本画家の佐多芳郎は12月16日午後5時17分、心筋こうそくのため横浜市港北区の病院で死去した。享年75。大正11(1922)年1月26日、東京麹町に医師の長男として生まれる。昭和14(1939)年より日本画家北村明道に基礎を学び、翌15年より安田靫彦に師事、同16年にはその研究会である一土会に参加する。その後チフス等で療養を余儀なくするが、同19年に入営、終戦まで軍隊生活を送る。同25年の第35回日本美術院展覧会に「浪切不動」が初入選。翌年、『読売新聞』連載の大佛次郎『四十八人目の男』の挿絵を担当、その後、山本周五郎の『樅ノ木は残った』、池波正太郎の『鬼平犯科帳』といった数々の時代小説の挿絵を手がけた。同54年より宿願の絵巻物制作の準備に入り、翌年小下絵を制作、同60年に三巻からなる「風と人と」を完成させた。平成元(1989)年に日本美術院を退院。同4年、毎日新聞社より『風霜の中で 私の絵筆日記』を出版。

竹田道太郎

没年月日:1997/12/10

読み:たけだみちたろう  美術評論家で元女子美術大学教授の竹田道太郎は12月10日午前2時58分、肺炎のため川崎市幸区の病院で死去した。享年91。明治39(1906)年11月6日新潟県柏崎市に生まれる。早稲田大学文学部独逸文学科を卒業後、昭和7(1932)年4月、都新聞第二部(社会部)に入り警視庁、裁判所詰めを経て文部省クラブに所属、金井紫雲のあとをうけて美術記者を務めた。同10年帝展改組の折には改組反対の立場から精力的に記事を書き、なかでも小杉放庵の芸術院会員辞退の特ダネを抜き、注目された。同11年2月より朝日新聞社会部、学芸部、雑誌編集室(週刊朝日)で美術関係を担当。昭和36年11月定年退職以後、武蔵野美術大学教授、女子美術大学教授を務める。主要編著書『新聞における美術批評の変遷』(朝日新聞調査研究室報告 昭和30年2月)『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(鈴木進と共著 雪華社 昭和32年12月)『画壇青春群像』(雪華社 昭和35年4月)『美術記者30年』(朝日新聞社 昭和37年7月)『日本近代美術史』(近藤出版社 昭和44年)『小林古径』(集英社 昭和46年12月)『続日本美術院史』(中央公論美術出版 昭和51年1月)『今村紫紅とその周辺』(至文堂 昭和51年11月)『大正の日本画』(朝日新聞社 昭和52年9月)『原三溪』(有隣新書 昭和52年11月)『巨匠達が生れる迄』(真珠社 昭和60年6月)『安田靫彦』(中央公論美術出版 平成元年10月)

浦田正夫

没年月日:1997/11/30

読み:うらたまさお  日本芸術院会員で元日展事務局長の日本画家浦田正夫は11月30日午前9時15分、肝臓ガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年87。明治43(1910)年5月1日熊本県山鹿市に生まれる。大正4(1915)年東京市小石川区音羽に転居。昭和3(1928)年松岡映丘に入門、また本郷絵画研究所にも通う。翌年東京美術学校日本画科に入学し、同9年に卒業。この間、津田青楓洋画研究所の夜学に通い一年あまり洋画を学ぶ。同8年第14回帝展に「展望風景」が初入選。同9年映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を、15年には高山辰雄、野島青茲らと一采社を結成、その中心的役割を果たす。同13年には現地嘱託として満蒙地区に赴き、四ヶ月の間巡遊、また同17年には大同雲崗石仏研究のため一か月間滞在する。戦後は同26年より山口蓬春に師事し、同28年第9回日展で「関口台」が白寿賞、同30年第11回日展出品作「湖映」、同32年第13回日展出品作「磯」がともに特選・白寿賞を受賞。さらに同35年第3回新日展で「池」が菊華賞、同45年第2回改組日展で「双樹」が桂花賞、同48年同第5回展で「蔓」が文部大臣賞を受け、同53年には前年の第9回改組日展出品作「松」により日本芸術院賞を受賞。自然景をモチーフに穏やかで温かな、その中に質朴な自然感を滲ませる作調を展開した。昭和47年より日展評議員、同54年より同展理事をつとめ、同63年日本芸術院会員、平成元年には日展事務局長となった。

平塚運一

没年月日:1997/11/18

読み:ひらつかうんいち  日本版画界の長老であった木版画家の平塚運一は11月18日午後6時17分、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年102。明治28(1895年10月17日、島根県松江市の宮大工の家に生まれる。大正2(1913)年、松江商業学校を中退。同年、石井柏亭の洋画講習に参加して絵に興味を抱き、同4年に上京して柏亭に師事し、また、版画技術を伊上凡骨に学ぶ。同5年第3回二科展に「出雲のソリツコ舟」「雨」で初入選、同年第3回院展に「出雲風景」「麓の小山」で初入選する。版画の全制作過程をひとりで行う「自画自彫自摺」により、作品のオリジナリティーを高める近代版画の先駆者のひとりであり、同7年日本創作版画協会の創立に参加した。昭和2(1927)年、『版画の技法』を出版。このころから山本鼎の農民美術運動に参加して版画講師として全国をめぐった。同3年棟方志功らとともに版画雑誌「版」を創刊。同5年国画会会員となり、同6年国画会版画部を創設した。同10年より東京美術学校で講師をつとめ、木版画を指導する。戦後は黒と白のコントラストを生かした力強い作風で裸婦や風景を多く描いた。同37年に米国に渡り、ワシントンに定住して制作、発表を続けるとともに、日本の伝統的な木版技術の普及につとめた。平成3(1991)年、長野県須坂市に平塚運一版画美術館が開館。同7年に帰国。翌8年横浜の平木浮世絵美術館で「平塚運一展百寿記念」が開かれた。

斎藤清

没年月日:1997/11/14

読み:さいとうきよし  郷里会津地方の風景に取材した版画で知られた版画家の斎藤清は11月14日午後8時30分、肺炎のため福島県会津若松市の病院で死去した。享年90。明治40(1907)年4月27日、福島県河沼郡会津坂下街に生まれる。同45年父の事業の失敗により北海道夕張に移る。大正10(1921)年尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、同13年北海道ガス小樽支店の見習い職工となる。昭和2(1927)年、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営。同4年、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う。同5年に一時上京したのが翌年の東京移住の契機となり、宣伝広告業のかたわら絵画の勉強を続けた。同7年第9回白日会展に「高圓寺風景」で初入選。翌8年、第1回東光会展に入選、同11年第11回国画会展に「樹間雪景」で初入選する。同年第5回日本版画協会展に「少女」で初入選。翌12年第12回国画会版画部門に「郷の人」「子供坐像」で初入選する。同14年第26回二科展に「裸婦と少女」(油彩)で初入選。同17年東京銀座鳩居堂で初めての版画個展を開催し、「会津の冬」などを発表し、叙情的な作風で注目される。同19年朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当する。また、同年第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となる。戦後も日本版画協会、国画会版画部に参加。同21年第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品。また第20回国画会版画部に「会津の冬(A)(B)(C)」を出品して同会会友となり、同24年には会員となった。同26年サンパウロ・ビエンナーレに「凝視(花)」を出品して、サンパウロ日本人賞を受賞。同29年朝日新聞社を退社して版画制作に専念することとする。同31年アメリカ国務省アジア文化財団の招きで渡米。同32年第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「館」を出品して受賞し、同年アジア・アフリカ諸国国際美術展に「ハニワ(婦人」を出品して受賞する。同34年渡仏してパリに滞在。同37年アメリカ・ニューヨークのノードネス画廊での個展のために渡米し、この頃日本版画協会を退会する。同39年ハワイ大学芸術祭に招かれてハワイを訪問し、翌年はオーストラリアに渡り、帰途タヒティに立ち寄った。同42年インド文化省主催の「斎藤清版画展」のためインドへ渡り、同44年にはアメリカ・カリフォルニアのサンディエゴ美術館での個展のために渡米。同45年東京の日本橋三越で「斎藤清墨画・版画展」を開催する。また、同年神奈川県鎌倉市に移住。同52年プラハでの個展のためにチェコスロバキアを訪問。同56年「福島県立美術館収蔵記念斎藤清展」(福島県文化センター)が開催される。同58年神奈川県立近代美術館で大規模な「斎藤清展」が開催され、初期から新作にいたる245点が出品されて制作の歩みが回顧された。同62年鎌倉を離れ、福島県河沼郡柳津町に転居する。翌63年アメリカ・オレゴン州のポートランド美術館で「斎藤清展 会津の冬とそのほかの版画」、平成3年「斎藤清-その人と芸術」展がいわき市美術館で開催され、同4年には福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展が開催された。画集には『斎藤清版画集』(大日本雄弁会講談社 1957年)、『斎藤清版画集』(講談社 1978年)、『斎藤清版画集 会津の冬』(講談社 1982年)、『斎藤清の世界』(あすか書房 1984年)、『斎藤清墨画集』(講談社 1985年)、『斎藤清スケッチ画集』(講談社 1987年)、『斎藤清画業』(阿部出版 1990年)などがあり、単行書に『私の半生』(栗城正義編 角田行夫刊行 1987年)がある。郷里・会津の冬景色を好んで主題としたほか、奈良京都など古都の風景や花鳥を題材に木版画に新境地を開いた。また、欧米に日本の伝統的木版画技法の解説、実技指導を行うなど、国際的な普及活動にも寄与した。年譜、参考文献は福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展図録に詳しい。

森芳雄

没年月日:1997/11/10

読み:もりよしお  主体美術協会会員で武蔵野美術大学名誉教授の画家森芳雄は11月10日午前8時20分、老衰のため東京都世田谷区のアトリエで死去した。享年88。明治41(1908)年12月21日、東京麻布区北新門前町に貿易商社社員福與藤九郎の第7子三男として生まれる。幼時に叔母森ふみの養子となるが、渡欧時まで実家で生活した。父の職業柄、幼少時から西洋美術の図録に親しみ、大正14(1925)年、慶應義塾普通部に通学する一方、白瀧幾之助に木炭デッサンを学ぶ。翌年慶應義塾普通部を修了し、東京美術学校を受験するが失敗したため、本郷絵画研究所に入り、デッサンを中心に学ぶ。翌年も東京美術学校を受験するが、再度失敗し、東京近郊の農園に1年あまり勤務した。昭和3(1928)年1930年協会絵画研究所で中山巍に師事し、あらためて油彩画とデッサンを学び、翌年第4回1930年協会展に初入選する。同5年第17回二科展に初入選。同6年第1回独立美術協会展に入選した。同年渡仏し、今泉篤男、山口薫、浜口陽三を知る。同7年サロン・ドートンヌに入選。同9年に帰国して、翌年東京銀座の近代画廊で「渡仏作品展」を開催した。同11年第6回独立美術協会展に「日時計」「晴日」「広告塔」「ローマ郊外」を出品してD賞を受賞、同13年同会第8回展に「母子」「坐像」を出品するが、同14年第9回展の出品を最後に同会を退会する。同年第3回自由美術家協会に出品し、同会会員となる。同18年東宝映画撮影所特殊映画部に入り、同23年まで勤務した。この間、同22年日本美術会主催第1回日本アンデパンダン展に出品。同26年より武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に勤務し、後進の指導にあたった。同37年ヨーロッパに渡り、パリを中心に5ヶ月滞在。同年同教授となり、同56年に退職するまで長く美術教育にあたった。同37年、神奈川県立近代美術館で麻生三郎との二人展を開催する。同39(1964)年、麻生三郎、糸園和三郎、寺田政明らを含む38名とともに自由美術家協会を退会し、同年主体美術協会を結成してその代表となった。同40年日中文化協会による日本美術家訪中団の一員として中国へ渡る。同44年ヨーロッパ旅行。同46年インドへ、同47年モンゴル・シルクロードへ旅行。同年より東京芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとった。同49年、『森芳雄画集』(日本経済新聞社)を出版。同55年、『森芳雄素描集』(朝日新聞社)を刊行。同50年、東京渋谷の東急百貨店、大阪の梅田近代美術館で「森芳雄展」が開催された。同53年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「森芳雄教授作品展」が開催される。同54年には東京銀座の松屋および仙台の藤崎で「森芳雄デッサン展」が開催される。同56年には渋谷区立松涛美術館で「森芳雄展」が開催された。同61年、名古屋画廊で「森芳雄展」、平成4(1992)年にも同画廊で「森芳雄近作展」が開催された。平成元(1989)年、東京日本橋高島屋で「森芳雄展」が開催され、また、写真集『画家森芳雄平成元年80歳』(森芳雄写真集刊行会)が刊行された。平成2年には茨城県近代美術館で「森芳雄展」が開催されている。かたちを簡略化した象徴的人体像を画面内に配置することにより、かたち相互の拮抗や調和に、造形上の整合性と論理性を求め、「母子像」を多く描いた。

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