本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





大沢昌助

没年月日:1997/05/15

読み:おおさわしょうすけ  明快な色調の抽象画で知られた画家大沢昌助は5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため東京都大田区田園調布の自宅で死去した。享年93。明治36(1903)年9月24日、東京三綱町に生まれる。父は東京美術学校図案科の教授となった大沢三之助。御田小学校、御田高等小学校、芝中学校を経に学び、この間、絵に興味を抱いていた父から水彩画を学び、また、父の蔵書によって西欧美術に触れる機会を持った。父の交遊する富本憲吉、バーナード・リーチ、高村光太郎らを幼少から知るなど、美術に親しむ環境のなかで育つ。大正11(1922)年、東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学んだ後、藤島武二教室に入る。昭和3(1928)年同校西洋画科を首席で卒業。同4年第16回二科展に「丘上の少年」「青衣の像」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同9年、昭和3年の東京美術学校西洋画科卒業生による「三春会」が設立され同年その第1回展に「松」「梅林」「婦人像」を出品し、以後、同展にも出品を続ける。同11年第8回新美術家協会展に「作品A」「作品B」「作品C」「作品D」「作品E」「作品F」を初出品し、同年同会会員となる。同13年第25回二科展に「河岸」「夏の日」を出品して特待となる。同15年紀元2600年奉祝展に「入江のほとり」を出品。同年第27回二科展に「岩と人」「岩と花」を出品して会友に推挙される。同17年第29回二科展に「波」「運河」を出品して二科賞受賞。翌年同会会員となる。戦後は二科展の再建に会員として参加し、同展に出品を続ける。また、同22年から同26年まで美術団体連合展にも出品する。同27年第1回日本国際美術展に「夕暮」「不安の群像」を出品して以後、同展に出品を続け、また、同29年第1回現代日本美術展に「荒地の人」「化石の森」を出品して以後、同展にも出品を続ける。同年多摩美術大学教授となる。戦前から人物を主要なモティーフとし、堅実な写実を基本とする作品を描いていたが、同30年代に対象の形態、色彩を簡略化してとらえ、画面上で再構成する抽象的な作風に移行。同40年代には簡潔な線、明快な色面、大胆な構図による斬新な作品を描いた。同42年第52回二科展に「曲線風景」「白黒の像」を出品して青児賞を受賞。同45年同大学を退職。同56年池田二十世紀美術館で「大沢昌助の世界展」を開催する。同57年二科会を退会。以後、個展を中心に作品を発表した。平成3(1991)年9月、練馬区立美術館で「大沢昌助展」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。

亀倉雄策

没年月日:1997/05/11

グラフィックデザイナーで、文化功労者の亀倉雄策は、5月11日、心不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年82。大正4(1915)年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町に生まれた。旧制日大第二中学校卒業後の昭和10(1935)年に、川喜田煉七郎が主宰する新建築工芸学院で、バウハウス流の基礎的な構成理論と方法論を学んだ。同13年、日本工房に入社、写真家名取洋之助のもと、デザイナー河野鷹思、そして友人であった写真家土門拳とともに、海外向けのグラフ雑誌の編集にたずさわった。戦後の同26年には、公告美術を、単なる商品宣伝から、社会的、文化的な意味をも担わせる目的から、全国のデザイナーを糾合する団体日本宣伝美術会(日宣美)の創立に、呼びかけの人のひとりとして参画した。同会は、公募展を主催するなど、戦後日本のグラフィックデザインの水準を上げ、裾野をひろげたことで大きな功績があった。また、デザイナーとしての亀倉の才能が発揮されるのも、50年代から60年代にかけてであり、代表的な作品には、直線と曲線を駆使し斬新な構成をしめした日本光学(NIKON)のカメラの一連のポスター、そして写真を使用して力動感と競技の一瞬の緊迫感をストレートに表現した東京オリンピックのポスターがあり、ことに後者は、同41年の第一回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにおいて芸術特別賞を受賞し、国際的にも高い評価を得た。以後、同45年の万国博覧会、同47年の札幌オリンピック冬季大会の公式ポスターを手がけ、内外にその名がひろく知られるようになった。同53年に日本グラフィックデザイナー協会の創立に参加し、会長に就任するなど、70年代から80年代にかけては、デザイナーとして活躍する一方で、デザイン会のリーダーとして中心的な役割をはたした。同59年には、毎日芸術賞の美術部門賞を受賞し、平成3(1991)年には、文化功労者に選出された。同8年には、東京国立近代美術館フィルムセンターで、戦後からの代表作93点からなる「亀倉雄策のポスター」展が開催され、それぞれの時代にあって人々の感覚と嗜好を先取りし、社会的にも文化的にも、メルクマールとなるようなポスターの数々が回顧された。

乗松巌

没年月日:1997/05/11

読み:のりまついわお  二科会名誉理事で女子美術大学名誉教授の彫刻家乗松巌は、5月11日午後8時22分、老衰のため松山市の病院で死去した。享年86。明治43(1910)年5月23日、愛媛県松山市に生まれる。昭和4(1929)年松山中学校を卒業し、同10年東京美術学校図案科を卒業する。その後、水野欣三郎に師事して彫刻に志す。同13年第25回二科展に「首」で初入選。同16年第28回同展に「女」「若い女」を出品して二科賞を受賞。同18年第6回新文展に「立像」を出品し、戦後第2回日展に「婦人頭像」を出品して戦中、戦後の一時期、官展に参加している。しかし、同25年に二科会に復帰し同会会員となる。同28年第38回同展に「恐怖の均衡」の連作である「シジフオス」「ひと」「おんな」を出品して会員努力賞を受賞。同35年に渡欧し約6ケ月間滞在し、この間、イタリア、ギリシャの古典彫刻に注目して研究した。同50年第60回二科展に「道」連作中の「使者」2点を出品して東郷青児賞を受賞。同55年第65回同展に「魅惑の果て」「シーシュポス」などを出品して二科会文部大臣賞を受賞する。同56年郷里の愛媛県立美術館で弟乗松俊行と兄弟展「彫刻と備前焼展」を開催し、また同年東京のストライプハウス美術館で個展を開いた。ヨーロッパをはじめ、中近東、アフリカ、アメリカなど世界の原始から近世におよぶ美術の源流に興味を抱き、たびたび海外へ遊学、特にヒルデブラントの「造形における形式の問題」に関心を抱いていた。同21年から女子美術大学で教鞭を取り、同28年より同教授をつとめ、ながく後進の指導にもあたった。平成6(1993)年10月松山市小坂に乗松巌記念館「エスパス21」が開館されている。

増田洋

没年月日:1997/05/11

読み:ますだひろみ  美術評論家の増田洋は、5月11日午後9時33分、食道ガンのため死去した。享年64。昭和7(1932)年6月17日、兵庫県神戸市に生まれ、同31年に神戸大学文学部哲学科芸術学専攻を卒業後、同年に石橋美術館の学芸員となり、同35年からは大阪市立美術館学芸員に転任した。同44年兵庫県立近代美術館学芸課長に赴任した。同61年、同美術館次長となり、平成6年には参与となった。編著書に「小出楢重」(日本の名画17巻 中央公論社)、「平福百穂・富田溪仙」(共著 現代日本美術全集2巻 集英社)、「小磯良平油彩作品全集」(求龍堂)、「小磯良平」(現代日本素描全集9巻 ぎょうせい)、「向井潤吉・小磯良平」(共著 20世紀日本の美術17巻 集英社)などがある。こうした美術研究のかたわら、美術館学芸員として、37年間一貫して現場から発言をつづけ、それらは「学芸員のひとりごと」(増補新装版 芸艸堂)としてまとめられた。

末松正樹

没年月日:1997/04/28

読み:すえまつまさき  画家で、多摩美術大学名誉教授の末松正樹は、4月28日午後5時53分、脳出血のため東京都品川区の病院で死去した。享年88。明治41(1908)年8月28日、新潟県新発田市に生まれた。軍人であり、後に教職についた父四郎に従い、秋田市、朝鮮江原道春川、新潟市、宮崎市で幼少時代をすごした。中学時代から、美術や文学に親しむようになり、昭和2(1927)年に山口高等学校に進学した後も、芸術を愛好する仲間たちと絵画や詩をつくっていた。高等学校卒業後の同8年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわら日本に紹介されはじめたノイエ・タンツなどの前衛舞踏に関心をもち、舞踏家とも交友するようになり、また同11年には、滝口修造が中心となって組織された「アヴァンガルド芸術家クラブ」に参加した。同14年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。翌年、第二次世界大戦がはげしくなり、日本人画家が帰国するなかパリに留まっていたが、ドイツ軍の進駐を逃れて、マルセイユに移り、同地の日本領事館で働いた。同19年、マルセイユも危険となり、スペインに逃れようとするが、捕虜として警察に拘留された。同21年、復員船で帰国。この年の11月、パリ在住時代親しくしていた井上長三郎に再会し、ついで松本竣介、麻生三郎とも親しくなり、その縁から22年自由美術家協会に参加し、会員となった。また、帰国直後には、大戦中のヨーロッパ美術の動向を知る唯一の画家として、新聞、雑誌にヨーロッパ美術に関する記事を寄稿した。同29年再渡欧、フランスのプロヴァンス地方を訪れたことが契機となり、それまでの半抽象的な群像表現から、光を意識した色彩による流動的な抽象表現へと画風が変化した。同39年、自由美術家協会を退会し、主体美術協会結成に参加し、会員となる。同44年、福沢一郎の後任として、多摩美術大学学長代行に就任したが、翌年退任。平成4年、板橋区立美術館で「末松正樹-その抽象と舞踏の時代」展が開催され、初期から近作まで126点によって回顧された。

村上炳人

没年月日:1997/03/28

読み:むらかみへいじん  二科会理事の彫刻家村上炳人は3月28日午前2時18分、脳こうそくのため京都市西京区のシミズ病院で死去した。享年81。大正5(1916)年2月25日、富山県高岡市佐野の浄土真宗の寺に生まれる。本名丙(あきら)。昭和8(1933)年富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業して上京し、平櫛田中の内弟子となる。同9年日本美術院春季展に初入選。同12年第24回院展に「鹿」で初入選し、以後同展に入選を続け、同17年9月院友となる。同12年より15年まで、および同18年より21年まで戦地に赴く。帰国後、京都に住んで古社寺をめぐり彫刻研究を進め、一方、連年院展に出品を続けた。同24年第34回院展に「青年像」を出品して奨励賞、同25年第35回同展に夫人をモデルにした「婦女像」を出品して同じく奨励賞を受賞。同28年の同展小品展でも奨励賞を受賞している。この間、同28年より29年まで石井鶴三の主導による法隆寺金堂の復元事業に参加。院展には第43回展まで連続入選するが、抽象彫刻への興味が高まり、同32年「献水」を院展に出品したのを最後に同34年、日本美術院を退会して二紀会に参加し、以後、同展に出品を続けた。同36年第15回二紀展に「道化」「人間模様」を出品して同人優賞受賞。同30年代から40年代にかけて抽象彫刻の研究を進める一方で、同36年より38年まで大阪四天王寺金堂本尊救世観音菩薩像を、引き続き同39年より翌年まで同寺八角大灯篭を制作するなど、古典的仏教彫刻や具象的な作品も制作している。同48年第27回二紀展に「つめこまれたちえぶくろ」「文化人間」を出品して菊花賞受賞。同50年代には再度具象的な表現にもどり、抽象彫刻で培った幾何学的な形態の構成力をもとに、対象のかたちを再構築する作品を制作。同52年二紀会評議員となり、同55年二紀会理事となった。この間、同54年東京都銀座の和光ホールで第1回目の個展を開催。同57年京都朝日新聞社の朝日画廊で個展を開催する。同59年第38回二紀展に化粧する舞妓をモティーフとした「esquisse」を出品して文部大臣賞を受賞。同61年東京銀座和光で第2回個展、平成5年には同所で第3回個展を開催した。抽象彫刻を制作しはじめてから、公共空間のための作品やモニュメントをも手がけ、富山市制80周年記念のための壁面彫刻「め」(昭和55-56年)、大分市平和祈念像「ムッちゃん」(同57-58年)、尼崎市近松公園の「近松門左衛門像」(同60-61年)、大分市総合彫刻「宇宙曼荼羅」などの作例がある。平成8年7月、郷里の高岡市美術館で「村上炳人展 日本の心を刻む造形への執念」展が開催されている。逝去は同展準備中のことであった。

神原泰

没年月日:1997/03/28

読み:かんばらたい  画家・詩人として大正期の前衛芸術運動の指導者として活躍した神原泰は3月28日午後9時2分、心不全のため横浜市南区の佐藤病院で死去した。享年99。明治31(1898)年東京に生まれる。白樺派の正親町公和、園池公致と従兄弟であり、父親同士が親しかったことから有島生馬と幼少期から親交があり、雑誌「白樺」に紹介された西洋美術の新しい動向に早くから興味を抱いた。大正4(1915)年4月号の「美術新報」に掲載されたウンベルト・ボッチオーニ著・有島生馬訳の「印象派対未来派」に啓発されてマリネッティと直接文通するなど、積極的に未来派の研究を進めた。同6年に雑誌『新潮』や『ワルト』などに強烈な色彩と運動感をうたった未来派的な詩を発表。同年第4回二科展に「麗はしき市街、おゝ複雑ないらだちよ」で初入選。同年石油会社に入社し社員として勤務するかたわら、二科展に出品を続ける。同9年10月に東京丸の内の鉄道協会で「生命の流動、音楽的創造」と題して個展を開催し、同時に「第1回神原泰宣言」を発表。当時の画界を激しく批判して注目をあつめた。同11年中川紀元、矢部友衛らとともに、二科会で未来派的作品を発表していた古賀春江、横山潤之助や未来派美術協会に参加していた浅野孟府らに呼びかけて美術団体「アクション」を結成。同12年4月東京三越呉服店7階で「『アクション』第1回造形美術展覧会」を開催し、その作品目録に「『アクション』同人宣言書」を発表した。同宣言は「アクション」が同じ主義を持つ作家の集団ではなく、「前衛たらんとする熱情と喜び」を共にする団体であることをうたっているが、同13年10月に解散する。同月、神原を含む同会の同人の一部を中心に美術団体「三科」が結成される。また、同年11月に「造型」が結成されるとこれにも参加した。同14年アルス社から『ピカソ』を刊行。同年イデア書院から『未来派研究』を刊行する。昭和2(1927)年、「造型」が「造型美術家協会」に再編成されると同会には参加せず、以後、美術界の最前線からは距離をおいた。その後の作品の発表としては、同8年東京神田三省堂で「鎌倉の最後のハイカラな海辺風景」と題する個展があるが、出品作に海水浴風景などが含まれていたため、時節に不適切であるとして即日閉会となり、作品はすべて警視庁に没収された。同11年東京銀座伊東屋で検挙・拷問ののち難渋する岡本唐貴を援助する趣旨で開かれた「画友展覧会」に油彩画2点、素描1点を出品。戦後の同47年5月に東京銀座の日動サロンで「シンガポール・乳房-神原泰絵画展」が開かれ、同61年東京の南天子画廊で「神原泰 戦後作品自選展」が開催されて、大正期の抽象表現を基盤として継続されてきた画業が紹介された。神原は「人類の美術史上初めて絵画である絵画をつくった」画家として、パブロ・ピカソを高く評価し、生涯その研究・紹介に努め、そうした活動のなかで収集した蔵書のすべてを、昭和50年前後に岡山県倉敷市の大原美術館に寄贈した。平成2(1990)年、大原美術館から「神原泰文庫目録」が刊行されている。前述以外の著書に『ピカソ礼賛』(岩波書店 昭和52年)などがある。一方、石油業界でも活躍し、昭和53年に石油統計の業績により第1回大内賞を受賞したほか、世界石油会議日本国内事務局長などを歴任した。

池田満寿夫

没年月日:1997/03/08

読み:いけだますお  版画家で、小説執筆、映画監督など多分野にわたり多彩な活動をつづけた池田満寿夫は、急性心不全のため死去した。享年63。昭和9(1934)年旧満州国奉天市に生まれ、昭和20年に郷里の長野県長野市に帰り、この地で成長。昭和27年、18歳で上京、東京芸術大学を受験するが、不合格となった。昭和30年、既成の美術団体を否定したグループ「実在者」の結成に参加、この年、同グループの靉嘔の紹介により瑛九を知った。翌年、瑛九主宰のデモクラート美術家協会会員となり、また瑛九の助言により色彩銅版画をはじめた。昭和32年、美術評論家で、コレクターであった久保貞次郎を知り、彼から援助をうけるようになり、この年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に「太陽と女」が初入選した。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に「女の肖像」、「女 動物たち」、「女」3点を出品、ドライポイントとアクアチントを併用した銅版技法で、繊細だが、奔放な線描による作品がドイツの美術評論家ヴィル・グローマンの推薦をえて、文部大臣賞を受賞、一躍注目されるようになった。同37年の第3回展では東京都知事賞を受賞、ニューヨーク近代美術館版画部長で、同展の国際審査員ヴィリアム・S・リーバーマンにみとめられた。同39年の第4回展では、「夏」、「私は何も食べたくない」、「化粧する女」の3点によって国立近代美術館賞を受賞。この連続の受賞によって、国内外で広くみとめられるようになり、翌年にはニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催した。同41年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門において、28点の出品作品により大賞を受賞した。翌年、第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また、制作の場も、ヨーロッパ各地やニューヨークなどにうつし、精力的に制作をつづけた。この70年代の作品では、雑誌写真などグラッフィックなイメージを画面にとりこみながら、エロチィックなイメージが追求されていた。そして「スフィンクス」、「ヴィーナス」など、銅版画の技法をこらした緻密な表現によるシリーズが生まれた。しかし、帰国後の同51年にはリトグラフ「マンゴ」などにみられるように、一転して奔放でスピード感のある線描があらわれ、さらに琳派への関心から日本回帰を感じさせる平面作品を制作するようになった。また、同52年には小説「エーゲ海に捧ぐ」によって、第77回芥川賞を受賞、翌年には、原作、脚本、監督を担当して、映画「エーゲ海に捧ぐ」を制作した。同58年頃から、作陶をはじめ、翌年からはブロンズ制作もこころみるようになった。同61年には、国立国会図書館新館1階にタペストリー・コラージュ「天の岩戸」を設置。このように創作活動は多岐にわたるようになり、版画制作でも、平成元(1898)年には、コンピューター・グラッフィックによる版画を発表、つねに旺盛な創作活動をつづけた。戦後からの現代版画において、国内外にひろく知られた代表的な作家のひとりであり、その晩年は、マルチ・タレントとしてテレビなどマスコミにも登場し、また作風もピカソを意識していたといわれるように変化しつづけた。没後の同9年4月には、長野県松代町に池田満寿夫美術館が開館、「追悼 池田満寿夫展 初期から絶作まで」が開催された。

守田公夫

没年月日:1997/03/07

読み:もりたきみお  奈良国立文化財研究所工芸室長をつとめた染織史家守田公夫は3月7日午後3時36分、肺炎のため神奈川県厚木市の病院で死去した。享年89。明治41(1908)年2月15日、熊本県に生まれる。昭和2(1927)福岡県立小倉中学校を卒業し、翌3年4月弘前高等学校文科甲類に入学。同6年同校を卒業して東京帝国大学文学部に入学する。同大学在学中の同8年8月、帝室博物館(現・東京国立博物館)研究員となり同館美術課に配属となった。同9年同大学文学部美学美術史学科を卒業。同15年同館研究員を免ぜられるとともに、同館勤務を命じられる。同20年5月、博物館を依願免官となり、戦後は、同23年から同26年まで繊維貿易公団に勤務する。同27年9月、奈良国立文化財研究所美術工芸室勤務となり、同36年同所美術工芸研究室長となった。この間、同30年から奈良女子大学非常勤講師をつとめる。このほか、日本伝統工芸展審査員、滋賀県文化財専門委員、京都府文化財専門委員、龍村美術織物顧問、永青文庫評議員をつとめ、聖母女子大学でも教鞭をとった。同45年奈良国立文化財研究所を停年退官した。著書に『日本の染織』(アルス社)、『日本の文様』(アルス社)、『名物裂』(淡交社)、『日本絵巻物全集 北野天神絵巻」(角川書店)、『日本被服文化史』(柴田書店)などがある。

岡田隆彦

没年月日:1997/02/26

読み:おかだたかひこ  美術評論家、詩人で慶應大学環境情報学部教授の岡田隆彦は、2月26日午後2時5分、下咽頭ガンのため、埼玉県富士見市の三浦病院で死去した。享年57。慶應大学文学部仏文科在学中に、吉増剛造、井上輝夫らと詩誌「ドラムカン」を創刊、詩集「史乃命」などで60年代を代表する詩人のひとりと目された。昭和60(1985)年には、詩集「時に岸なし」(思潮社)によって第16回高見順賞を受賞した。一方、東京造形大学教授、「三田文学」編集長、美術評論家連盟事務局長などをつとめ、近現代美術を中心とする美術評論も積極的に執筆した。主要な美術に関する著作、翻訳は下記のとおりである。「日本の世紀末」(小沢書店、1976年)、「ウィリアム・モリスとその仲間たち」(岩崎美術社、1978年)、「美術散歩50章」(大和書房、1979年)、「かたちの発見」(小沢書店、1981年)、「ラファエル前派」(美術公論社、1984年)、「現代美術の流れ」(エドワード・ルーシー・スミス著、水沢勉共訳、パルコ出版局、1986年)、「アーシル・ゴーキー」(メルヴィン・P・レーダー著、篠田達美共訳、美術出版社、1989年)、「ラファエル前派の夢」(ティモシー・ヒルトン著、篠田達美共訳、白水社、1992年)、「芸術の生活化」(小沢書店、1993年)。 

川田清

没年月日:1997/01/27

読み:かわたきよし  国画会彫刻部会員の川田清は1月27日午後10時50分、がん性悪液質のため東京都新宿区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年1月13日埼玉県深谷市成塚231に生まれる。同26年埼玉県立熊谷高校を卒業して、東京芸術大学彫刻科に入学し、同30年同校を卒業する。同30年タケミヤ画廊で行われた「六土会展」に出品したほか、平和美術展、日本アンデパンダン展にも出品する。同39年国画会彫刻部に「武藤氏像」で初入選。同40年同会彫刻部に「民の声 A」「民の声 B」を出品し、野島賞受賞。翌年同会彫刻部会友となる。同年東京銀座のスルガ台画廊で個展を開催。同42年第41回国画会展に「蝕(67B)」「罠(67A)」を出品して会友優作賞を受賞し、同会会員に推挙される。同44年毎日現代日本美術展に出品。同45年および48年に東京のときわ画廊で個展を開く。同60年日本金属造形作家展に出品。同63年那須友愛の森彫刻シンポジウムに参加した。前述の個展のほか、同39年東京の愛宕山画廊で個展を開催し、以後平成2(1990)年に至るまで同画廊で十数回の個展を開いた。小学校教員をつとめる一方で、彫刻の制作を行いデフォルメした人体像と小動物や静物を組み合わせ、抽象的な概念を表現した。

佐々木静一

没年月日:1997/01/17

神奈川県立近代美術館学芸員、多摩美術大学美術学部教授をつとめた日本近代美術史研究者、美術評論家の佐々木静一は1月17日、肺炎のため死亡した。享年73。大正12(1923)年7月3日、大使館勤務であった父の赴任先のポーランド、ワルシャワに生まれる。昭和26(1951)年3月早稲田大学文学部芸術学美術史専攻課程を卒業。在学中は安藤更正に師事した。同年4月、開館を11月にひかえた神奈川県立近代美術館の学芸員となり、東京国立近代美術館に先だつ初めての日本の近代美術館であった同館の初代学芸員として活躍。初代館長村田良策および2代目館長土方定一のもと、多くの展覧会を担当した。同43年同館を退き、多摩美術大学美術学部教授となって以後、画材、美術技法の東西交流を主要なテーマとする「材料学」の研究に取り組んだ。なかでも、青色顔料であるプルシャン・ブルーの流通、洋風油彩技法やガラス絵、泥絵技法の伝搬に興味を持ち、海外調査を行った。また、画法・技法という視点から日本の近代画法を見ることにより、日本的な絵画表現の例としての文人画、特に多くの油彩画家に関心を抱かれた近代文人画に注目し、論考を加えた。平成3(1991)年同大学を定年退官して同名誉教授となった。昭和61年脳梗塞で倒れ、一時、不随となったが再度著作できるまでに回復し、『日本近代美術Ⅰ』に続く著作集を準備中であった。主要な著書に『ギリシャの島々』(日本経済新聞社 1965年)、『近代日本美術史 1幕末・明治』・『近代日本美術史 2大正・昭和』(有斐閣 1977年)、『現代日本の美術 11鳥海青児・岡鹿之助』(集英社 1975年)、『日本近代美術論』(瑠璃書房 1988年)、『海外学術調査Ⅱ アジアの自然と文化』(共同執筆 日本学術振興会 1993年)などがあり、論文には「ヨーロッパ油彩画の日本土着過程の研究 泥絵、硝子絵」(『多摩美術大学材料学研究室紀要』1976年)、「北斎 小布施町祭舞台天井画竜図」(『多摩美術大学研究紀要』1 1982年)、『近世(18世紀以降の)アジアに於けるブルシャン・ブルーの追跡』 (『多摩美術大学研究紀要』2 1985年)、「インドネシア硝子絵調査Ⅰ、Ⅱ」(『多摩美術大学研究紀要』3 1987年)、「鳥海青児・初期を中心に」(『鳥海青児展』図録、練馬区立美術館 1986年)、「昭和初期の美術」(『多摩美術大学50年史』1986年)などがある。

宮田雅之

没年月日:1997/01/05

読み:みやたまさゆき  切り絵画家の宮田雅之は1月5日午後5時5分、急性脳こうそくのため千葉県成田市の病院で死去した。享年70。大正15(1926)年東京赤坂に生まれる。昭和29(1954)年、チャールズ・E・タトル出版社にブックデザイナーとして入社。同35年、全米ブックジャケットコンテストに入賞。同38年、谷崎潤一郎に見出だされ谷崎文学の挿絵に取り組み、独創的な切り絵の世界を確立。同47年、講談社出版文化賞(挿絵部門)受賞。同56年、バチカン美術館宗教美術コレクションに「日本のピエタ」が収蔵される。同59年、「源氏物語」五十四帖を完成。同63年、鑑真和上生誕1300年を記念して奈良唐招提寺に「鑑真和上像」を献納し、平成2(1990)年には米・ホワイトハウスに「桜花図」を納める。同6年、NHK大河ドラマ「花の乱」のタイトル画を担当し、NHK出版より画集『花の乱』を刊行。同7年、国連創設50周年を記念して、日本人初の国連公認画家に選任され、「赤富士」が国連アートコレクションとして特別限定版画となり世界的に紹介された。

加藤東一

没年月日:1996/12/31

読み:かとうとういち  元日展理事長で文化功労者の日本画家加藤東一は12月31日午後零時2分、肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年80。大正5(1916)年1月6日、岐阜県岐阜市美殿町1番地に生まれる。6男5女のうちの五男、第9子で生家は漆器商を営み、三男の兄栄三は後に日本画家となった。昭和9(1934)年岐阜県立岐阜中学を卒業し、画家を志しながら家業の手伝いをすることとなる。同12年千葉県在住の叔父宅に寄宿し、柏市の広池学園で道徳科学を学ぶ。同15年12月東京美術学校を受験するため千葉県市川市に住んでいた兄栄三を頼り上京し、翌16年同校日本画科に入学する。結城素明、川崎小虎らに師事。同17年応召し、同20年復員。同21年東京美術学校に復帰し、小林古徑、安田靫彦らに師事する。同22年同校を卒業。同年より高山辰雄を中心とする「一采社」に参加し同第6回展より出品を始める。また、同年第3回日展に「白暮」で初入選。以後同展に出品を続ける。翌23年より山口蓬春に師事。同27年第8回日展に「草原」を出品し特選となる。同30年第11回日展に「砂丘」を出品して特選・白寿賞を受賞し、翌年より日展出品委嘱となった。同32年山口蓬春の勧めにより大山忠作らと研究団体「三珠会」を結成し、展覧会を開催する。同33年日展が社団法人として発足したのちも同展に出品を続ける。同36年日展審査員となる。同38年5月から7月まで大山忠作とともにギリシャ、エジプト、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ等を巡遊。同42年12月、日本縦断を主題に1年を費して制作した「津軽風景」等8点の新作を兼素洞で発表する。同43年末から翌年1月中旬にかけて兄栄三、大山忠作らとともにインド、ネパールへ旅行する。同45年第2回改組日展に「残照の浜」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。同50年日展理事に就任。同52年第8回改組日展に「女人」を出品して第33回日本芸術院賞を受賞。同54年同監事となる。同55年日本放送出版協会から現代日本素描集第15巻『長良川流転』が出版される。同59年9月東京銀座松屋で「加藤東一展」(日本経済新聞社主催)が開催され、昭和24年以降の日展出品作を中心に回顧展的な展観が行われた。同展は岐阜県美術館、大丸心斎橋店(大阪)に巡回した。平成元(1989)年日展理事長となる。同3年岐阜市に加藤栄三・東一記念館が開館。同7年文化功労者となった。昭和44年サカモト画廊、同45年彩壷堂、同47年名古屋松坂屋、同54年北辰画廊、同57年日本橋高島屋など、画廊、百貨店での個展を数多く開催し、作品の発表を続けた。一貫して風景、人物等に取材した具象画を描き続けたが、昭和30年代の一時期、抽象表現を試みたのち、色面や形体の構成に緊密の度を増した。日展での受賞作のほか、5年の歳月をかけて平成5年に完成させた金閣寺大書院障壁画などが代表作として挙げられる。この壁画を展示する「加藤東一金閣寺大書院障壁画展」が平成8年1月4日から29日まで東京の伊勢丹美術館で開催された。

北岡高一

没年月日:1996/12/18

読み:きたおかこういち  機織りに用いる竹筬の製作者で国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の北岡高一は12月18日午後10時、心筋こうそくのため京都市上京区小川通寺之内下ルの自宅で死去した。享年62。昭和9(1934)年2月20日京都市上京区小川通寺之内下ル射場町577番地に生まれる。生家は天正9(1581)年創業と伝えられる京都の筬(おさ)屋で、京都の重要な地場産業である絹織物のための機織り道具である筬(おさ)を製作し続けてきた。筬は縦糸の配列を整えるとともに織幅を一定に保ち、さらに縦糸と緯糸の打ち込みを堅固にするための櫛のような機能を持つ。材料により金筬と竹筬に分類され、また用途によって絹織物用の絹筬と綿織物用の綿筬等に分けられる。絹織物に用いられる竹筬は密度が高く、曲尺一寸に120枚もの羽が入る精巧なもので、金欄や爪掻き綴など濡緯(水で濡らした緯糸)を用いる高度な織物には絹筬が必須である。北岡高一は幼少時から父忠三に師事して伝統的な絹筬の製作、修理を学び、京都第一工業高校(現洛陽高校)を卒業後、家業の絹筬製作に専念した。平成3年(1991)年京都府選定保存技術筬製作の保持者として京都府教育委員会の認定を受け、同8年5月に国の重要無形文化財(筬製作・修理)保持者(人間国宝)として認定された。精緻な絹筬製作に高度な技術を示し、また、破損した筬の修理も併せて手がけ、伝統的な絹織物制作のために尽力した。

藤松博

没年月日:1996/12/01

読み:ふじまつひろし  前衛的な作品で知られた洋画家の藤松博は12月1日午後2時35分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年74。大正11(1922)年7月12日、長野県に生まれる。昭和20年東京高等師範学校を卒業。瀧口修造と交友し、同27年読売アンデパンダン展に「手相」を出品。翌年同展に「花火」「玉のり」などを出品し、前衛的な作風で注目される。同31年渡米し、36年までニューヨークに滞在して活動する。帰国後、切り紙風のシルエットのような人体像や色斑による人体像を描き、抽象表現に学んだ具象画で注目された。代表作に「月(ひとがた)」や「旅人」の連作などがある。

鹿島一谷

没年月日:1996/11/23

読み:かしまいっこく  布目象嵌の技術を伝承する金工家で区に指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鹿島一谷は11月23日午後零時20分、老衰のため東京都台東区池之端の自宅で死去した。享年98。明治31年5月11日、東京都下谷区に生まれる。父一谷光敬、祖父一谷斎光敬と金工を家業とする家の長男で本名栄一。同45年下谷高等小学校を卒業。父、祖父より布目象嵌を、後藤一乗、関口一也、関口真也父子に彫金を学び、父が早世したため20歳で独立する。昭和4(1929)年第10回帝展に一谷の名で「焔文様金具」で初入選。同7年第13回帝展に栄一の名で「朧銀布目水鴛文盆」を出品する。同24年第5回日展に「金工水牛文花器」で特選受賞。同30年社団法人日本工芸会の創立に参加し同会正会員となる。同32年3月文化財保護委員会により、記録作成等の措置を投ずるべき無形文化財布目象嵌の技術者として選択される。同39年、唐招提寺蔵国宝金亀舎利塔保存修理、同40年山形県天童市若松寺重要文化財金銅観音像懸仏保存修理に従事する。同54年国指定重要無形文化財保持者の認定を受ける。同59年、東京都日本橋三越本店で初めての個展を開催し、その後同じく日本橋三越本店で同63年、平成5、7年に個展を開催。平成2(1990)年には日本橋三越本店で「人間国宝 音丸耕堂・鹿島一谷」展を開催した。

久保貞次郎

没年月日:1996/10/31

読み:くぼさだじろう  美術評論家で跡見学園短大学長、町田市立国際版画美術館館長をつとめた久保貞次郎は10月31日午前11時30分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年87。 明治42年5月12日、栃木県足利市に、父小此木仲重郎、母ヨシの次男として生まれる。昭和3年4月日本エスペラント学会に入会。同8年東京帝国大学文学部教育学科を卒業して同大大学院に進学する一方、同年4月より一年間、大日本聯合青年団社会教育研究生となる。また、同年11月結婚により久保家の婿養子となり、久保と改姓する。同10年、日本エスペラント学会の九州特派員として九州各地をまわり、宮崎で後に瑛九となる杉田秀夫に出会い、現代美術への興味を深め、以後瑛九を通じてオノサト・トシノブなどの作家たちと交遊を持つにいたった。同13年4月栃木県真岡町小学校校庭に久保講堂が竣工し、その記念事業として児童画展が行われるに伴いその審査員をつとめ、同年8月児童美術ならびに美術の研究のため北アメリカ、ヨーロッパへ渡り翌14年5月に帰国する。同19年秋、真岡に航空会社を設立。戦後の同26年瑛九を中心にデモクラート美術協会が結成されると、会員とはならずに外部から評論家として支援。同27年創造美育協会設立に参加した。評論家、収集家として主に現代版画の振興に尽くし、瑛九のほか、北川民次、利根山光人、泉茂、吉原英雄、池田満寿夫、小田㐮、深沢史朗、木村光佑らと交遊が深かった。同41年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表をつとめる。同52年10月跡見学園短期大学学長に就任し、8年間その任にあたった。また、同61年9月から平成5年3月まで町田市立国際版画美術館館長をつとめた。著書に『ブリウゲル』(美術出版社)、『シャガール』(みすず書房)、『児童画の見方』(大日本図書)、『児童美術』(美術出版社)、『子どもの創造力』(黎明書房)、『児童画の世界』(大日本図書)、『ヘンリー・ミラー絵の世界』(叢文社)、『久保貞次郎 美術の世界』全12巻(叢文社)などがある。平成4年6月、町田市立国際版画美術館で「久保貞次郎と芸術家展」が開かれ、その業績が回顧された。

鈴木良三

没年月日:1996/10/19

読み:すずきりょうぞう  元日展審査員の洋画家鈴木良三は10月19日午後9時3分、肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年98。明治31(1898)年3月29日茨城県水戸市東台665に下市病院院長鈴木錬平(とうへい)の三男として生まれる。県立水戸中学校を卒業して大正6(1917)年東京慈恵医大に入学。同年、叔父の幼なじみであった画家中村彝を訪ね、以後彝に師事。慈恵医大に在学しながら同年から川端画学校にも通学し、同11年平和記念東京博覧会に「夕づける陽」を出品する。同年慈恵医大を卒業するが、中村彝周辺の画家たちとともに「金塔社」を結成して活動し同年6月に第1回金塔社展を開催する。また、同年第4回帝展に「秋立つ頃」で初入選。この後も帝展に出品したほか光風会展、太平洋画会展などにも出品。昭和3(1928)年5月に渡仏し、同5年12月に帰国。この間、栗原信、永瀬義郎、中西利雄らと交遊し、また、スペイン、イタリア等を旅行している。滞欧中にパリから第11回帝展に「微睡」を、翌昭和6年の第12回帝展に「グラス風景」を出品。同7年芸術使節団の一員として東南アジアを訪問。同11年12月、有島生馬、石井柏亭、木下義謙、安井曽太郎らによって一水会が創設されると、同展に出品し、以後同展に出品を続ける。同14年第3回一水会展に「手術」「若き母」を出品して、具方賞を受賞。また、同年に行われた第1回聖戦美術展に「鉄道員の活躍」を出品する。同18年陸軍参謀本部と日本赤十字の依頼により従軍画家としてビルマ方面に赴く。戦後の同21年一水会会員となり、同27年同会委員となる。戦後の制作には海をモティーフとした作品が多く、海景の画家として知られた。同49年フランス、スペインなどを写生旅行。同56年茨城県県民文化センターで「画道60年記念鈴木良三展」が開催され、同60年東京セントラル美術館で「米寿記念鈴木良三海姿百景展」が開かれた。また、平成3(1991)年茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開かれており、年譜は同展図録に詳しい。その作風は中村彝が「鈴木良三君があの素直で平明な観照のもとに、美しき自然の諸相を描き」と評したように、簡略化した形態把握と豊麗な彩色を特色とした。

青山義雄

没年月日:1996/10/09

読み:あおやまよしお  洋画家青山義雄は、10月9日午前9時34分、膀胱がんのため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去した。享年102。明治27(1894)年1月10日、現在の神奈川県横須賀市に生まれ、父の転勤にともない三重県鳥羽、北海道根室で幼年時代をすごし、同39年に根室商業学校に入学した。しかし同41年、画家をこころざして同学校を中退し、講義録をもとに絵を独習しはじめた。同43年に上京、翌年1月に日本水彩画会研究所に入所し、大下藤次郎に師事し、同年10月に大下が没すると、永地秀太に指導をうけた。大正2(1913)年、根室にもどり、水産加工場、牧場、小学校の代用教員など、さまざまな仕事をしながら制作をつづけた。かねてより外国に渡る意志をもっていたが、同10年にフランスに渡った。パリでは、はじめアカデミー・ランソン、ついでグラン・ショーミエールでデッサンを学び、また日本人会の書記として、館に住み込みで働くようになった。また、この年には、はやくもサロン・ドートンヌに初入選し、翌年にも「二人の男」が入選した。この日本人会において、林倭衛、土田麥僊、木下杢太郎、大杉栄、小宮豊隆などパリに滞在する多くの日本人画家や文化人と親交した。同14年、喀血したため、医師のすすめで南仏カーニュに転居した。翌年、ニースの画廊に委託していた自作が、アンリ・マティスの眼にとまり、その色彩表現を賞賛されたことが機縁となり、その後マティスに作品の批評を受けるようになった。また、翌年、マティスを介して福島繁太郎を知り、その後福島からは物心にわたる援助を受けることになった。一方、フランスで制作をつづけるかたわら、昭和3(1928)年の第6回春陽会展から出品し、同9年の第12回展まで出品をつづけ、会員となっていたが、この年に同会を辞した。また、同年には、和田三造の紹介により、商工省の嘱託となり、ヨーロッパ各地の工芸事情を視察した、その結果を報告するために同10年に帰国した。帰国の翌年には、梅原龍三郎の勧誘をうけて国画会会員となった。同12年には、第1回佐分真賞を受賞、翌年には、第2回新文展の審査員として、幼年時代をすごした北海道根室に取材した「北洋落日」を出品した。同27年、フランスに渡り、ニースに住むマティスに再会、カーニュにアトリエをかまえて制作をつづけた。同32年には、63才にして運転免許をとり、ヨーロッパ各地を取材旅行するようになった。その後は、平成元(1989)年に帰国するまで、日仏間を往還しながら、旺盛な制作をつづけ、国内では個展において新作を発表していた。同5年、中村彝賞を受賞、同7年には茨城県近代美術館において中村彝賞受賞記念して初期から近作にいたる約120点からなる回顧展が開催された。南仏特有の明るい陽光からうまれた、その鮮やかな色彩表現は、終生衰えることはなかった。

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