本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





林美一

没年月日:1999/03/31

読み:はやしよしかず  江戸文芸研究家、時代考証家の林美一は3月31日午後11時5分、パーキンソン病のため神奈川県逗子市の病院で死去した。享年77。1922(大正11)年、大阪に生まれる。大阪市立東商業高校を卒業し、大映京都撮影所宣伝部に勤務。溝口健二監督作品の時代考証を手がける。51(昭和26)年、個人研究誌「未刊江戸文学」を創刊する。同誌の刊行は全17冊別巻7冊にのぼった。59年「江戸文学新誌」を創刊し、同誌6冊を刊行。60年、大映京都撮影所を退社し、江戸文学、浮世絵の研究家として独立する。同年、『艶本研究国貞』を刊行。同書は、散逸している艶本を再現した意義と価値は認められながらも、わいせつ図画販売罪で有罪となった。江戸の艶本研究の第一人者として活躍し、著書に『艶本研究シリーズ』(全14巻、有光書房、1960―76年)、『時代風俗考証事典』(河出書房新社、1977年)、『江戸看板図譜』(三樹書房、1977年)、『江戸の枕絵師』(河出書房新社、1987年)、『江戸枕絵師集成』(全20巻、別巻2巻、内既刊5巻、河出書房新社、1989年―)、『江戸の24時間』(河出書房新社、1989年)、『艶本江戸文学史』(河出書房新社、1991年)、『浮世絵春画名品集成』(全24巻、別巻3、河出書房新社、1995年)などがある。映画、舞台、テレビ番組などの時代考証家としても活躍し、「北斎漫画」「キネマの天地」「近松心中物語」などの映画、演劇の時代考証の業績によって日本風俗学会・江馬賞を受賞した。

國領經郎

没年月日:1999/03/13

読み:こくりょうつねろう  日本芸術院会員、日展常務理事の洋画家國領經郎は、13日午前3時50分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年79。1919 (大正8)年10月12日、神奈川県横浜市井土ヶ谷に生まれる。26年、横浜市立日枝第二尋常小学校に入学。同校が火災にあったため、横浜市立共進尋常高等小学校に移り、32(昭和7)年同校尋常科を卒業。同年神奈川県立横浜第一中学校(現、希望ヶ丘高校)に入学する。35年父を、翌36年母を亡くし、長兄のもとで生活する。38年、横浜第一中学校を卒業し、川端画学校に通う。39年東京美術学校図画師範科に入学。小林万吾、南薫造、伊原宇三郎らに油彩画を、矢沢弦月らに日本画を学ぶ。41年、第二次世界大戦により、同科を繰り上げ卒業。42年1月、新潟県柏崎中学校教諭となるが、同年4月に召集を受け近衛師団に入隊、のちに中国中央部へ渡る。46年に復員し、47年4月、再度柏崎中学へ赴任。同年第3回日展に「女医さん」で初入選する。48年冬、柏崎商工会議所で初の個展を開催。50年、東京都大田区立大森第一中学校教諭となり、川崎市へ転居。51年第37回光風会展に「小憩」が初入選。以後、日展と光風会展に出品を続ける。50年代半ばから点描法を用いるようになり、このころから、55年第41回光風会展に出品して光風会賞を受賞した「飛行場風景」に見られるように、実景をもとにしながら、対象を単純な幾何学的フォルムに還元し、再構成する作風へと移行する。55年の第11回日展に出品した「運河」も同様の作品であり、特選となっている。56年光風会会友、57年同会会員となる。58年日展が社団法人となったのちも、同展に出品。60年前後から画面は再現描写を離れて、構成的要素を強めていく。66年横浜高島屋で個展を開催。68年、東京都職員を辞して横浜国立大学教育学部助教授となり、後進の教育に携わる。この頃から後年の國領のイメージを決定づけた砂のモティーフが画中に現れる。69年第1回改組日展に「砂上の風景」を出品して特選となる。70年代の学園紛争を大学という教育の現場で体験し、集団で行動しながら孤独を抱いている若者たちを砂丘に配する作品を多く描くようになる。82年第14回日展に、車の轍が走る砂丘に二人の女性の後ろ姿を配した「轍」を出品し、第2回宮本三郎賞受賞。翌年第2回宮本三郎賞受賞記念「國領經郎展」が東京日本橋、大阪北浜、横浜の三越で開催される。86年「ある静寂の午後」を日展に出品し、内閣総理大臣賞受賞。91(平成3)年「呼」で1990年度日本芸術院賞受賞。91年日本芸術院会員に選ばれる。高度成長を遂げた後、物質的な豊かさの一方で深い孤独を抱くに至った日本人の精神風景を絵画化した作家として注目される。99年4月から横浜美術館で開かれる個展を前にしての死去であった。年譜、関連文献目録は同展図録に詳しい。

濱谷浩

没年月日:1999/03/06

読み:はまやひろし  写真家の濱谷浩は3月6日午後2時57分、肺炎のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年83。1915(大正4)年3月28日東京に生まれる。関東商業学校(現関東第一高校)在学中に写真部をつくるなど写真に熱中する。33(昭和8)年同校を卒業後、実用航空研究所を経て、オリエンタル写真工業に勤務。東京の下町風景を撮影、37年フリーのカメラマンとして独立。翌年瀧口修造、兄の田中雅夫らと前衛写真協会を、また土門拳らとともに青年報道写真家協会を結成する。41年政府の広報機関ともいえる東方社に入社、対外宣伝誌『FRONT』の写真を担当するが、上部と衝突して退社。44年新潟県高田市(現上越市)に移り、ここを拠点に日本海側の風土や人々の営みの記録に力を入れ、55年『カメラ』に「裏日本」を連載した。60年国際的な写真家集団マグナムの会員となる。60年代後半から目を世界の自然に向け、約8年間で六大陸を踏破、自然の妙を撮り続けた。五十年間の活動の軌跡をまとめた『濱谷浩写真集成―地の貌 生の貌』で81年日本芸術大賞を受賞。86年には米国の国際写真センターより世界最高峰の写真家に与えられるマスター・オブ・フォトグラフィー賞を、翌年には日本人写真家として初めてスウェーデン、ハッセルブラッド財団の国際写真賞を受賞した。この間90(平成2)年川崎市民ミュージアム、97年東京都写真美術館で個展を開催。終生反骨精神を貫き、教科書検定に反発、81年度芸術選奨文部大臣賞を返上したほか、戦争の罪滅ぼしの念からアジア諸国に図書を寄贈するなどの活動もした。作品集に新潟県内の村で行われる小正月の行事を民俗学の面からとらえた『雪国』(1956年)、『裏日本』(1958 年)、『見てきた中国』(1958年)、60年安保闘争を徹底取材した『怒りと悲しみの記録』、『日本の自然』(1975 年)、『學藝諸家』(1983年)などがある。

村井正誠

没年月日:1999/02/05

読み:むらいまさなり  モダンアート協会の創立者のひとりで、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家村井正誠は2月5日午前6時58分急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年93。1905 (明治38)年3月29日、岐阜県大垣市に生まれる。幼少時、医師であった父の転任にしたがい、現在の和歌山県和歌山市、ついで新宮市に転居した。22(大正11)年、和歌山県立新宮中学校を卒業すると上京、父のすすめる医学校を受験するが不合格となり、また翌年には画家をこころざして東京美術学校西洋画科を受験するが、これも不合格となった。この頃、川端画学校に通いはじめ、ここで盟友となる山口薫、矢橋六郎と出会った。25年、文化学院に新設された大学部美術科の第一期生として入学、28(昭和3)年に同学院卒業と同時に、渡仏した。留学中は、滞仏中の日本人画家と交友するとともに、アンデパンダン展に出品した。32年帰国、34年に初めての個展(銀座、紀伊国屋ギャラリー)で開催、留学中の作品を出品した。また同年、長谷川三郎、山口薫、矢橋六郎等とともに新時代洋画展を結成、第1回展を開いた。同グループは、37年の自由美術家協会創立に際し、参加することで解消した。38年、文化学院の講師になる。戦後は、戦時中、活動が途絶えていた自由美術家協会の再建をはかり、また美術界の民主化などをめざして結成された日本美術会に参加した。47年には日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加し、さらに50年には、山口薫、矢橋六郎、中村真、植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄とともに、モダンアート協会を結成し、以後、同協会展に発表をつづけた。同54年には武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)本科西洋画の教授になった。62年には、第5回現代日本美術展に「黒い線」(油彩)、「うしろ姿」、「人」(石版画)を出品、これにより最優秀賞を受賞、また同年の第3回東京国際版画ビエンナーレに出品した「月影」、「黒い太陽」、「風」(各石版画)によって文部大臣賞を受賞した。73年には、神奈川県立近代美術館において村井正誠展が開催され、初期作から近作までの油彩画104点などによって回顧された。その後も、和歌山県立近代美術館(1979年)、世田谷美術館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(1993年)、神奈川県立近代美術館等5美術館巡回(1995年)などで、たびたび回顧展が開催された。そのほか、長年にわたる美術界への貢献に対して、97(平成5)年には、中日文化賞、世田谷区文化功労者を受賞。98年には、中村彝賞を受賞した。 仏留学時代から、同時代のマチスをおもわせる鮮やかな色面による半抽象的な構成からはじまり、次第に純粋な抽象表現に展開していった。1930年代には、「ウルバン」、「CITE」などの連作にみられるように、白地上に大小の短冊状の色面が点在する抽象表現を試みていた。戦後は、ことに50年代になると、そうした構成にくわえて、黒い帯状の線が、ときには具象的なイメージをともなって画面にあらわれるようになった。60年代には、その黒が画面全体をおおいつくすようになった。以後、再び鮮やかな色面構成にかえるが、黒の線と面は、つねに画面構成の重要な部分をしめるようになり、とくに晩年の90年代には、「東洋的」とも評されるような、独特の深さと緊張感をただよわせる作品を描いていった。近代日本の絵画史において、いち早く抽象絵画を描きはじめた画家のひとりということで、「日本における抽象絵画のパイオニア的存在」と位置付けられている村井だが、一貫して深められつづけたその「抽象」に関する造形思考は、独自のものとして評価されていくだろう。 

相原求一朗

没年月日:1999/02/05

読み:あいはらきゅういちろう  新制作協会会員の洋画家相原求一朗は、2月5日午後4時、肝不全のため埼玉県川越市砂の自宅で死去した。享年80。1918 (大正7)年12月3日、埼玉県川越市本町2丁目5番地に生まれる。本名茂吉(もきち)。生家は雑穀、乾物、青果などの卸問屋として古くから知られており、25年に同業の合名会社となった。31(昭和6)年、川越市立第二尋常小学校を卒業する。この頃から絵画に興味を持ち始め、東京美術学校入学を志すようになる。病弱であったため、この年、求一朗と改名する。36年、川越商業学校(現、川越商業高等学校)を卒業し、実家の家業に携わる一方、独学で油彩画を描き始める。40年、召集により入営し、中国東北部へ渡り、翌年ルソン島へ渡る。44年、フィリピンから空路帰還途中、搭乗機が沖縄沖に不時着し、重症を負って漂流しているところを救出される。47年から48年にかけて日本橋の北荘画廊で開かれていたデッサン研究会に参加、48年に新制作協会の画家大国章夫を知り、その紹介により猪熊弦一郎の田園調布純粋美術研究所に入所する。50年、第14回新制作協会展に「白いビル」で初入選。以後、同展に出品を続けるが、50年代半ばにアンフォルメルが日本に紹介されたことなどが契機となり、絵画制作に疑問を抱き、制作に行き詰まる。60年、61年には新制作協会展に出品するが連年落選。61年秋に北海道を旅行し、その風景に抽象表現に通う幾何学的な構成を見出し、具象画の新たな指針を得る。62年、第26回新制作協会展に狩勝峠を描いた「風景」を出品し、再入選を果たす。63年第27回同展に「原野」「ノサップ」を出品して新作家賞を受賞、同会会友となる。以後、冬枯れの北の大地は、相原の原風景となり、生涯のモティーフとなった。64年カナダ、フランス、イタリア、アラブ連合へ旅行。65年「ヨーロッパを主題として」と題する個展を銀座・日動サロンで開催する。また、同年第29回新制作協会展に「白い教会」「赤い教会」を出品して新作家賞を受賞。同年11月から12月までアメリカ、中南米を旅行し、翌年、その成果を日動サロンでの個展で発表する。68年、新制作協会会員となり、同年、池袋・西武百貨店で北海道に取材した作品で構成した個展「北の詩」を開催する。69年、パリ、スペインへ、72年、イギリス、フランスへ、77年アメリカへ、78年にはフランスへ取材旅行するなど70年代末までは積極的に海外を訪れ、それぞれの旅行の成果を個展で発表する。80年代以降は国内での制作を中心とし、北海道のほか佐渡、津軽、富山などを訪れ、毎年「北の風土」と題する個展を開催。この個展が90年代半ばから「私の風土」と改名されたように、風景に作家の内面を反映し、画面化する制作が続いた。青灰色、白、黒といった色数を限った寒色を用い、原野や原生林など、大地と気候・風土がせめぎ合う地形を安定感のある幾何学的構図で捉え、厳しさ、そこに芽吹く一脈の明るさを表現した。画集に『相原求一朗画集』(1977年、日動出版)、『相原求一朗画集』(1984年、講談社)、『相原求一朗画集』(1991年、日動出版)などがある。96(平成6)年、北海道河西郡中札内村に「相原求一朗美術館」が開館。また、97年には北海道帯広市に「相原求一朗デッサン館」が開館する。97年、郷里の川越市立博物館で「相原求一朗展」、98年、飯山市美術館で「相原求一朗展」、99年「相原求一朗の世界展」が丸広百貨庖川越庖で開催されるなど、90年代後半には画業を回顧する大規模展が相次いで開催され、没後の2000年、本格的な回顧展「相原求一朗の世界を顧みて」が川越市立博物館で開催された。年譜は同展図録に詳しい。

加賀美勣

没年月日:1999/01/31

読み:かがみいさお  愛知県立芸術大学教授で、洋画家の加賀美勣は1月31日午前5時38分、急性肺腫のため長野県茅野市の病院で死去した。享年59。1939 (昭和14)7月9日、山梨県甲府市に生まれる。58年、甲府第一高等学校を卒業、東京芸術大学美術学部絵画科(油絵)に進学、63年に卒業、65年に同大学大学院を修了した。在学中には、大橋賞を受賞。66年に愛知県立芸術大学に赴任、また同年第40回国画会展に「食後に(1)」、「食後に(2)」 2点を初出品、国画賞40周年記念賞を受賞した。翌年の第41回同展に「一人で昼食」、「早朝の食事」2点を出品、国画賞を受賞するとともに同会友となった。68年にフォルム画廊で初の個展開催、また同年、国画会会員となった。92(平成4)年に愛知県立芸術大学教授となった。その間、同大学で後進の指導にあたるとともに、国展に出品をつづけ、東京のフォルム画廊、日動画廊、泰明画廊、また名古屋市の丸栄などでたびたび個展を開催した。鋭角的なフォルムと鮮やかな色彩によって構成された室内風景や田園風景を制作した。 

角谷一圭

没年月日:1999/01/14

読み:かくたにいっけい  釜師の角谷一圭は1月14日、肺炎のため大阪市の病院で死去した。享年94。1904(明治37)年10月12日大阪市に生まれる。本名辰治郎。17(大正6)年釜師の父巳之助より茶の湯釜の制作技法を習得。のち大国藤兵衛、香取秀真に茶釜、鋳金全般を学ぶ。また細見古香庵からも茶釜制作上の影響を受けた。47(昭和22)年昭和天皇大阪行幸の際に釜を献上する。52年第8回日展に初入選、以後56年第12回日展まで出品するが、58年第5回日本伝統工芸展に「海老釜」を出品して高松宮総裁賞を受賞し、以後は同展に出品、61年には同8回展出品作「独楽釜」で朝日新聞社賞を受賞、その間58年布施市文化功労賞、同年大阪府芸術賞を受けるなど受賞を重ねる。終戦直後に出回った名釜修理・修復に携わり、茶釜の形態、地紋、鉄味を調査、その成果に基づき鎌倉期の筑前・芦屋釜を範とし、のち和銑釜を研究、優雅で格調高い作風を確立した。73年第60回伊勢神宮式年遷宮神宝鏡31面を鋳造、93(平成5)年第61回遷宮の折も制作を手がけた。76年勲四等瑞宝章を受章、78年国の重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(人間国宝)となる。84年文化庁企画「茶の湯釜」記録映画で「馬ノ図真形釜」を制作。著書に『釜師―茶の湯釜のできるまで』(1974年 浪速社)がある。弟莎村は釜師、長男征一は金工作家。

安西啓明

没年月日:1999/01/11

読み:あんざいけいめい  日本画家の安西啓明は1月11日、老衰のため東京都大田区の病院で死去した。享年93。1905 (明治38)年4月15日、東京府八王子に生まれる。本名正男。1920(大正9)年荒木寛畝門下の広瀬東畝に師事したのち、21年川端龍子に入門。26年第13回再興院展に「学校」が初入選するが、29(昭和4)年龍子が青龍社を結成するに及んでこれに参加、同年の第1回展に「アパート」「本門寺風景」を出品した。以後同展で36年第8回「集鹿」がY氏賞、39年第11回「埴輪」が奨励賞、40年第12回「游亀」が蒼穹賞を受賞し、30年青龍社社子、翌年社友、42年社人となる。また龍子の画塾御形塾の塾頭もつとめた。45年6月満州(中国東北部)に開校した新京芸術院の教授として同地に渡るが、終戦とともに帰国。48年より全国の建築をテーマにした風景連作を青龍展に発表、60年からは急速な勢いで変貌していく東京の街や建物に思いを寄せ、連作「東京シリーズ」に着手する。またその一方で坂口安吾「信長」(52年)、室生犀星「杏っ子」(56年)、庄野潤三「夕べの雲」(64年)といった新関連載小説の挿絵を描く。57年以後毎年個展を開き、61年には自ら主宰する青明会の第一回展を開催。同66年龍子死去に伴い青龍社は解散、以後、無所属で活動する。日本美術家連盟理事もつとめる。98(平成10)年3月大田区ほかの主催で「安西啓明日本画展」(於太聞区民プラザ)を開催。

下村良之介

没年月日:1998/12/30

読み:しもむらりょうのすけ  日本画家の下村良之介は12月30日午前11時8分、肺気腫のため京都市上京区の病院で死去した。享年75。大正12(1923)年10月15日、大阪市の能楽師の家に生まれる。本名良之助。5歳より謡・仕舞の稽古のために桃谷の能楽堂に通う。昭和10(1935)年12歳の時に京都に移り、翌年京都市立美術工芸学校に入学。同16年からは京都市立絵画専門学校に学び、同18年学徒動員のため繰り上げで同校を卒業。同年、卒業制作の「暖日」を第8回市展に出品するが、落選する。満州・台湾に赴いた後、同21年復員。同23年3月には新たな芸術活動を目指して山崎隆・三上誠・星野眞吾ら京都の若手日本画家を中心にパンリアルが結成されるが、同年10月星野眞吾の推薦により下村も大野秀隆(俶崇)とともに入会。翌年第1回パンリアル展を京都藤井大丸で開催、日本画の革新を唱えるパンリアル美術協会が公にスタートする。下村は「祭」「作品」「デッサン」を出品し、以後晩年に至るまでパンリアル展を発表の中心にすえることになるが、昭和20年代から30年代前半にかけてはキュビスム的な群像表現から次第に鳥にテーマを集中させ、建築用の墨つぼを使用した鋭い線描による画面へと移行していく。同33年カーネギー財団主催のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、同35年中南米巡回日本現代絵画展に出品するなど海外展にも発表するようになるが、この頃から紙粘土を画面に盛り上げてレリーフ状にし、あたかも化石のような鳥の形象を表現するという、独自の質感を持った強靱な作風を完成させていく。同36年第1回丸善石油芸術奨励賞(留学賞)を受賞し、翌年より一年間ヨーロッパ、中近東、東南アジア等を遊学。同41年大谷大学幼児教育科助教授に就任(同46年同大学教授に就任)。同44年関西歌劇団公演の歌劇「椿姫」(大阪厚生年金会館大ホール)以後、舞台美術の仕事も多く手がけ、また“やけもの”と称する陶器や宮尾登美子「序の舞」(同56~57年『朝日新聞』連載)等の挿絵も試みるなど多彩な表現活動を行った。同57年に美術文化振興協会賞を、同62年には第5回京都府文化賞功労賞を受賞。平成元(1989)年にO美術館で回顧展を開催。作品集に『反骨の画人・下村良之介作品集』(京都書院 平成元年)、著書に『題名に困った本』(私家版 昭和58年)、『単眼複眼』(東方出版 平成5年)がある。

白洲正子

没年月日:1998/12/26

読み:しらすまさこ  能や美術工芸についての執筆活動で知られる白洲正子は12月26日午前6時21分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年88。明治43(1910)年1月7日、樺山伯爵家の二女として東京で生まれる。4歳から梅若宗家に能を習い、14歳で女人禁制だった能楽堂の舞台に女性として初めて立った。大正13(1924)年学習院女子部初等科を修了後、米国に留学。昭和3(1928)年に帰国しその翌年、実業家で後に吉田茂首相の側近となる白洲次郎と結婚。同18年、志賀直哉や柳宗悦らに勧められ『お能』(昭和刊行会)を処女出版。この頃から終戦直後まで細川護立に中国古陶磁の鑑賞の仕方を教わり、数々の骨董屋を紹介される。戦後は美術評論家の青山二郎を中心とした文化人グループの中で、小林秀雄、河上徹太郎らから文学や骨董の指導を受け、美に対する情熱と鋭い鑑識眼で、芸術・芸能を大胆に論じた随筆、紀行文を数多く残した。同30年、銀座の染織工芸店「こうげい」の開店に協力、翌年より同45年まで直接経営にあたり、多くの染織作家を発掘する。同39年『能面』(求龍堂)、同47年『かくれ里』(同46年 新潮社)で二度読売文学賞を受賞。美術工芸に関する著作としては、他に『十一面観音巡礼』(新潮社 昭和50年)、『日本のたくみ』(新潮社 昭和56年)、『白洲正子 私の骨董』(求龍堂 平成7年)。

隅谷正峯

没年月日:1998/12/12

読み:すみたにまさみね  刀剣作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の隅谷正峯は12月12日午後1時16分、急性循環器不全のため石川県松任市の石川中央病院で死去した。享年77。大正10(1921)年1月24日、金沢で醸造業を営む隅谷友吉の長男として生まれる。旧制金沢第一中学校に在学中に日本刀に興味を抱くようになり、立命館大学理工学部機械工学科を昭和16年に卒業した後、同学に創設された日本刀鍛錬研究所で同17年より桜井正幸に師事して作刀技術を学ぶ。また、広島県尾道市にあった興国日本刀鍛錬所でも作刀研究を進めた。戦後、帰郷し、作刀禁止が解かれた同28年から制作を再開。同29年作刀許可を受け、第1回作刀技術発表会に初入選。以後39年まで全10回行われた同展に毎回出品し、優秀賞を4回、特賞を4回受賞する。同30年日本美術刀剣保存協会の新作刀技発表会に入選。同40年作刀技術発表会を引き継ぐかたちで創設された新作名刀展に第1回から出品して名誉会長賞並びに正宗賞、同41年第2回同展で正宗賞・毎日新聞社賞を受賞する。同42年、同展無鑑査となり、審査員を委嘱され、同49年第10回同展で正宗賞を受賞する。この間、同42年石川県指定無形文化財保持者となる。同46年小型たたらによる自家製鋼を研究・開発し、同50年正倉院御物の刀子の研究・模造を行うなど、各地の古今の作刀、研磨技術を研究し、同56年国指定重要無形文化財保持者に認定された。この間、同46年日本美術刀剣保存協会協議員を委嘱され、同59年には全日本刀匠会理事長に就任。平成2(1991)年には同会顧問、同4年には日本美術刀剣保存協会理事となった。主な作品に、伊勢神宮式年遷宮御神宝纏御太刀(昭和39年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十二振(同44年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十六振(平成元年)のほか、皇太子妃、秋篠宮真子内親王の守り刀などがある。飛鳥・奈良時代から現代にいたる刀剣技術を研究し、なかでも鎌倉期の備前伝の鍛錬法を得意とした。奈良時代に貴人が装身具に用いた「刀子(とうす)」の制作で知られた。平成3年、佐野美術館、石川県立美術館で「隅谷正峯展」が開催され、略歴などは同展図録に詳しい。 

森田子龍

没年月日:1998/12/01

読み:もりたしりゅう  書家の森田子龍は12月1日午後7時、心筋梗塞のため滋賀県大津市の自宅で死去した。享年86。明治45(1912)年、兵庫県豊岡市に生まれる。昭和22(1947)年上田桑鳩らと書道芸術院を創設。翌年には『書の美』を発刊、同誌は書道芸術院の機関誌的役割を果たす。また抽象画家長谷川三郎と交友を深め、同25年秋から『書の美』に絵画を含めた実験作品を公募するα部を設けて、長谷川にその選評をゆだねた。同26年には京都において書芸術総合誌『墨美』を創刊、同誌は海外の前衛美術を積極的に紹介し、津高和一や吉原治良ら関西の抽象画家達に大きな影響を与えるとともに、海外の画家にも日本の前衛書を知らしめる媒体となった。同27年にはより前衛的な運動をめざして井上有一らと墨人会を結成。さらに異ジャンルの前衛的な作家達を糾合した現代美術懇談会(ゲンビ)が同年発足すると、これに参加した。また森田は、ニューヨーク近代美術館の「日本の建築と書」展(同28年)、カーネギー国際美術展(同33年)、フライブルグ書展(同35年)、モントリオール万国博美術展(同42年)等に出品し、書と西洋美術の交流に貢献した。同55年京都市より京都市文化功労者として表彰、同60年、京都新聞文化章を受賞、同61年京都市美術館で「今日の作家3 森田子龍」展が、また平成4(1992)年に兵庫県立近代美術館で「森田子龍と『墨美』」展が開催された。

田口善国

没年月日:1998/11/28

読み:たぐちよしくに  東京芸術大学名誉教授の漆芸家で、国の重要無形文化財(人間国宝)の田口善国は11月28日午前2時11分、心不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年75。大正12(1923)年3月1日東京都麻布に生まれる。本名善次郎。生家は医者で、父と交遊のあった漆芸家松田権六に昭和14(1939)年に弟子入した。また、やはり父と交遊のあった奥村土牛に昭和11年から同16年まで日本画を学び、吉野富雄に古美術を学んだ。同21年第2回日展に「風呂先屏風みのりの朝」で初入選。以後、同22年第3回日展に「風呂先屏風蒔絵俵に鼠」、同23年第4回展に「蒔絵盃ピアノとルリ鳥」、同26年第7回展に「四枚折蒔絵屏風親子つばめ」で入選する。この間、同25年から2年間、東京芸術大学研究生として小場恒吉に日本文様を学び、図案などを研究する。同35年より日光東照宮拝殿蒔絵扉の復元修理に従事。同36年日本伝統工芸展に「蒔絵手箱」を出品して奨励賞を受賞し、同37年日本工芸会会員となる。同38年の同展では「平文蒔絵箱」で、翌年は「蒔絵飾箱 日蝕」で2年連続奨励賞を受賞。同43年同展では「野原蒔絵小箱」で文部大臣賞を受賞する。同53年MOA岡田茂吉賞工芸部門優秀賞を受賞。同55年大倉集古館所蔵の蒔絵「夾紵大鑑」の復元修理をする。同64年国の重要無形文化財保持者(蒔絵)に指定された。同39年中尊寺金色堂復元修理に参加。同49年から翌年まで東京芸術大学美術学部講師をつとめ、同50年同学助教授、同57年同教授となった。平成2(1990)年同学を停年退職し、同名誉教授となった。古美術品の復元修理を通して伝統的な漆芸技法を研究し、蒔絵、螺鈿の高度な技術を習得。そうした技術を生かし、動植物を主なモティーフとする斬新な意匠、表現を試みて現代的な漆器を制作した。 

宮上茂隆

没年月日:1998/11/16

読み:みやかみしげたか  建築史家の宮上茂隆は11月16日午後7時21分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。享年58。昭和15(1940)年7月26日、東京小石川の華道家元の家に生まれる。同39年東京大学工学部建築学科を卒業、同41年同大学院修士課程を修了し、同43年から55年にかけて同学科助手を務める。その間の同54年に『薬師寺伽藍の研究』(私家版 同53年)で工学博士となる。同55年竹林舎建築研究所を設立。同58年、二十年がかりで大阪城本丸設計図を復元完成。平成元年から同5年にかけて掛川城天守閣の復元設計に携わる。 奈良時代の寺院から江戸時代の城郭に至るまで日本建築の研究・復元設計を幅広く手がけた。主要著書に『法隆寺』(西岡常一と共著 草思社 昭和55年)、『大坂城』(草思社 昭和59年)がある。 

小杉一雄

没年月日:1998/10/22

読み:こすぎかずお  美術史家で、早稲田大学名誉教授の小杉一雄は、10月22日午前10時35分、急性肺炎のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年90。明治41(1908)年6月4日画家小杉未醒(放庵)の子として東京都本郷区千駄木町に生まれた。昭和2(1937)年第一早稲田高等学院に入学、同4年4月早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻入学、同7年4月早稲田大学大学院に進み、会津八一教授の指導を受けた。同14年4月から早稲田大学第二高等学院講師、同20年11月から早稲田大学文学部講師、同24年4月早稲田大学文学部教授になり、同54年3月定年退官。同年早稲田大学名誉教授となった。この間、同32年4月には「中国美術史に於ける伝統の研究」により、早稲田大学より文学博士号を授与された。同55年11月勲三等瑞宝章叙勲。平成5(1993)年2月紺綬褒章受章。  その美術史研究は中国美術における文様史と仏教美術史を根幹とした。文様史の研究においては自身が中国文化の実質的出発期と位置づける殷時代の文様に注目し、この時代の文様がほとんど爬虫類系のものであるという観点から、多様な文様を綿密な考証によって解読し、この文様の流れがその後の数千年におよぶ中国美術、ひいては日本美術の中に脈々として存続し同時にこれらを生育していったという状況を説き明かした。仏教美術の研究においては、南北朝時代の仏舎利信仰と仏塔、天蓋・仏龕・台座という荘厳具、肉身肖像、鬼神形などのテーマを柱としながら、関心を多岐におよぼし、壮大な仏教美術論を展開した。それは図像的考察と文献的考察によって独自の境地を開くものであった。この二つは学位取得論文を構成するもので、その後の論文も合わせて、文様史に関しては『中国文様史の研究―殷周時代爬虫文様展開の系譜』(昭和34年、新樹社)、仏教美術史に関しては『中国仏教美術史の研究』(昭和55年、新樹社)が刊行されている。  その他の主な著作として、『アジア美術のあらまし』(昭和27年、福村書店)、『日本の文様―起源と歴史』(昭和44年、社会思想社)、『中国の美術』(昭和49年、社会思想社)、『小杉一雄画文集』第一輯(昭和60年、自費出版)、『中国美術史―日本美術史の研究』(昭和61年、南雲社)、『小杉一雄画文集』第二輯(昭和63年、自費出版)、『奈良美術の系譜』(平成5年、平凡社)がある。妻瑪里子は美術史家(白梅短期大学名誉教授)、長男正太郎は早稲田大学教授(心理学)、次男小二郎は洋画家。 

平島二郎

没年月日:1998/10/20

読み:ひらしまじろう  建築家の平島二郎は10月20日午後11時15分、胸部大動脈瘤破裂のため東京都千代田区の病院で死去した。享年69。昭和4(1929)年6月22日、東京都港区高輪南町に生まれる。同17年森村学園初等科を卒業し、同年麻布中学校に移ったが、同19年に成城学園に転じる。同25年東京芸術大学美術学部建築科に入学。一方で在学中に俳優座養成所舞台技術講習生となり舞台美術コースを同29年卒業、俳優座劇場舞台美術製作所に在籍する。同29年東京芸術大学を卒業するが、卒業設計には当時まだ知る人の少なかったシェル構造を選ぶ。シェル構造からスペインのトローハの作品に注目、さらにヨーロッパとアラブ世界の交流史に興味を持ち、また日本と世界の住宅の歴史を精査、自身の建築設計に独自の風土論を実現することとなる。同29年山脇巌の自邸内の研究室に入室し、バウハウスに留学した山脇夫妻のもと、グロピウス展の展示計画にも加わった。同30年、朝吹四朗建築事務所に就職。同36年スペイン政府名誉留学生に合格、スペイン国立マドリード大学トローハ研究室と、サン・フェルナンド美術学校に一カ年在籍。その間のヨーロッパ各地、また船旅の往路途次ではアジア各地を、帰国時に南米各地、北米合衆国を、建築、とくに住宅について視察した。同38年建築事務所開設。同年母校の講師として同43年まで在職、東京芸術大学図書館ほかの設計に加わった。同41年文部省委託のカッパドキア中世遺跡調査に従事。主な作品にはクレッセント・ハウス(同43年)、奥志賀高原ホテル(同44年)、那須御用邸基本設計(同49年)、葉山御用邸(同53年)、赤坂御用地内東宮仮御所(同57年)。平成10年の遠藤周作文学館の基本設計が遺作となった。著書に『世界建築史の旅』(美術出版社 昭和42年)。

三輪福松

没年月日:1998/10/10

読み:みわふくまつ  美術史家の三輪福松は10月10日午後0時12分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87。明治44(1911)年7月6日、静岡県で生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、及び同大学医学部図書室勤務を経て、同24年東京大学助教授となる。同28年よりイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学び、帰国後は多摩美術大学教授(同34~38年)、慶應義塾大学講師(同38~47年)を歴任。同47年より東京学芸大学教授、同50年より弘前大学教授、同55年より群馬県立女子大学教授を務める。また同60年から平成元(1989)年まで清春白樺美術館長を務めた。主要著書に、『ワトオ』(アトリエ社 昭和15年)、『巨匠の手紙』(不二書房 昭和19年)、『ヴユネツイア派』(みすず書房 昭和31年)、『モヂリアニ』(みすず書房 昭和31年)、『イタリア美術夜話』(美術出版社 昭和32年)、『イタリア美術の旅』(雪華社 昭和39年)、『イタリア』(美術出版社 昭和41年)、『エトルリアの芸術』(中央公論美術出版 昭和43年)、『美術の主題物語・神話と聖書』(美術出版社 昭和46年)、『美の巡礼者』(時事通信社 昭和58年)、『美術のたのしみ』(里文出版 平成6年)、また翻訳にフロマンタン『レンブラント』(座右宝刊行会 昭和23年)、フロマンタン『昔の巨匠達』(座右宝刊行会 昭和23年)、マルク・シャガール『シャガールわが回想』(村上陽通と共訳 美術出版社 昭和40年)、L.B.アルベルティ『絵画論』(中央公論美術出版 昭和46年)、B.ベレンソン『ベレンソン自叙伝』(玉川大学出版部 平成2年) がある。

藤本東一良

没年月日:1998/09/17

読み:ふじもととういちりょう  日本芸術院会員で日展顧問の洋画家藤本東一良は9月17日午後3時1分、心室細動のため東京都新宿区の朝日生命成人病研究所で死去した。享年85。大正2(1913)年6月27日、静岡県伊豆下田に生まれ、同年8月大阪に移住する。昭和5(1930)年、大阪府立天王寺中学校在学中に京都のアカデミー鹿子木に入り、鹿子木孟郎に石膏デッサンを学ぶ。また、赤松洋画研究所にも学び、赤松麟作の指導を受ける。同6年大阪府立天王寺中学校を卒業して上京。川端画学校に入学する。同8年寺内萬治郎の門下生となる一方、同舟舎絵画研究所で小林萬吾の指導を受ける。同10年東京美術学校油画科に入学。藤島武二教室に学ぶ。同12年夏、サイパン、ヤップなど南洋に旅行。同14年第26回光風会展に「水夫M君像」「機関車の人」で初入選し、F氏賞を受賞する。また同年第3回海洋美術展に「天測」を出品し海軍協会賞を受賞する。同15年東京美術学校を卒業。同年第4回海洋美術展に「ウラカス島を望む」を出品して朝日新聞社賞を受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「貝殻図譜」を出品する。同16年第28回光風会展に「貝殻をみる女」を出品して同会会友に推挙される。また、同年第4回新文展に「父とゴムの木」で初入選。同17年第29回光風会展に「画室の女」を出品して光風特賞を受賞する。同19年南方従軍を命ぜられ、台湾方面へ赴き、同20年海軍報道部に出向しポスター等の原画を描く。同年8月復員。同21年第1回日展に「赤い服」で入選し、同年秋の第2回日展に「室内」を出品して特選を受賞する。同22年第33回光風会展に「N氏像」を出品して光風特賞を受賞、また同年第3回日展に「刺繍する女」を無鑑査出品して特選を受賞する。その後も日展、光風会展に出品を続け、同28年10月フランスに留学してアカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ。同30年9月帰国するが、その間、ベルギー、オランダ、スイス、イタリア、スペイン等に旅行する。同35年日展会員、同41年日展評議員、同47年光風会理事に就任。翌年よりほとんど毎年、フランスを訪れる。同54年ソビエト旅行。同56年第13回日展に「五月のコート・ダジュール」を出品して、文部大臣賞を受賞。翌57年日動サロンで「藤本東一良展1979-1981」を開催し、以後同63年日動画廊で「藤本東一良展1986-1988」、平成4(1992)年、同画廊で「藤本東一良展1989-1992」を開いた。この間、昭和58年東京銀座松屋で「藤本東一良新作油絵展」を開催。また、同64年小山敬三美術賞を受賞したのを記念して、昭和15年以降の作品を回顧する「藤本東一良展」を日本橋高島屋で開催した。略歴はこれらの展覧会の図録に詳しい。平成5年第25回日展出品作「展望台のユーカリ」で第49回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年日本芸術院会員となった。フランスの水辺の風景を、遠近法的空間表現に基づきながら、リズミカルな筆触、明快な色調で描いた。昭和39年より48年まで東京教育大学講師、昭和46年より61年まで金沢市立美術工芸大学講師として後進の指導にもあたった。 

新妻実

没年月日:1998/09/05

読み:にいづまみのる  アメリカ在住の彫刻家新妻実は8月に脳卒中で倒れ入院していたが、9月5日午後4時(日本時間6日午前5時)、ニューヨークの病院で死去した。享年67。昭和5(1930)年東京都に生まれる。同年東京芸術大学彫刻科に入学し石井鶴三に師事。在学中の同29年、モダンアート協会展に初入選。同会に出品を続け、同32年同会会員となる。同30年同校を卒業する。また、同年東京のタケミヤ画廊で個展を開催。また、同32年棕櫚会を結成してグループ展を開催する。同34年にニューヨーク市ブルックリン美術館附属美術学校より奨学金を得て渡米。同39年より45年まで同校彫刻科で講師をつとめる。同41年および43年にニューヨークのハワード・ワイズ・ギャラリーで個展。また、同41、43年のホイットニー美術館でのスカルプチュア・アニュアル展に出品する。同46年ニューヨーク国際彫刻シンポジウムを企画、主催し、翌年からニューヨーク・コロンビア大学美術科講師となり、後に助教授となって同59年まで教鞭をとった。同49年ニューヨークおよびスイス・ルガーノ国際大学院大学理事兼教授に就任。同58年ニューヨーク・ストーン研究所所長となった。この間、ニューヨークほかアメリカ各地およびチューリッヒなどで個展を開催したほか、同44年のオーストリア国際彫刻シンポジウム、同50年のアントワープ国際野外彫刻展、同56年のポルトガル国際シンポジウムなどに参加。また、同51年東京西武美術館で個展を開催、同52年第3回彫刻の森美術館大賞展に「水中の歌」を出品、同56年第2回ヘンリー・ムーア大賞展に「太陽とピラミッド」を出品して美ケ原美術館賞を受賞するなど日本でも作品を発表した。昭和40年代からシリーズで制作した大理石による「眼の城」で独自の作風を確立し、ニューヨーク、ポルトガルに拠点を持って、国際的に活躍した。石の素材自体が持つ色、質感を生かし、単純な幾何学的形態により量塊感ある抽象彫刻を制作した。 

尾藤豊

没年月日:1998/08/26

読み:びとうゆたか  洋画家の尾藤豊は、心不全のため東京都北区の赤羽病院で死去した。享年72。大正15(1926)年3月、東京に生まれ、昭和18(1943)年、東京美術学校建築科に入学、戦中は学徒動員により江田島にて航空図面作成にあたり、同20年7月赤羽工兵隊に入営、終戦をむかえた。同22年、同美術学校を卒業、この年の前衛美術会の第1回展に参加、また同28年には、青年美術家連合展に参加した。この時期には、「失われた土地A」(同27年、宮城県立美術館)にみられるように、地元でおこった軍事基地問題に触発され、手足など人体の形を大胆に変形した群像を描き、政治、社会の問題を告発する「ルポジュタージュ絵画」の先駆けのひとりとなった。同45年からは、齣展に参加した。「日本のルポジュタージュ・アート」(同63年、板橋区立美術館)、「昭和の絵画 戦後美術―その再生と展開」(平成3年、宮城県立美術館)など、80年代以降、各美術館で戦後美術が回顧される企画展には、時代の証言としてその作品がたびたび出品された。 

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