本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1995/10/20 読み:えのくらこうじ 東京芸術大学教授の美術家榎倉康二は10月20日午後6時30分、東京都世田谷区の自宅で倒れ急死した。享年52。昭和17(1942)年11月28日東京に生まれる。同36年私立独協高等学校を卒業して、同37年東京芸術大学油画科に入学。同41年、同科を卒業して同大学大学院油画科に進学。また、同年より同48年まで、すいどーばた美術学院非常勤講師をつとめる。この間、同42年東京のイトー画廊でグル一プ.ルモン第1回展を開催。同43年に大学院を修了する。同44年を東京の椿近代画廊で第1回個展「The ceremony of walking(歩行儀式)」を開催。同45年第10回日本国際美術展に、同46年第10回現代日本美術展、第7回パリビエンナーレに出品。早くから物質相互の浸透、物質と人間の関係などに興味を抱き、同45年東京村松画廊での個展「The Infinit Zone(不定地帯)」、同46年東京のウォーカー画廊での個展「湿質」、同47年田村画廊での「榎倉康二提示場」などで制作を発表。同49年ドイツのアーへン市立美術館で個展を開催し「予兆―海・肉体」他を発表する。同51年ときわ画廊で個展「不定領域」を開催、また第2回シドニー・ビエンナーレに出品する。同53年東京画廊で個展「干渉率」を開催した。同55年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。同56年東京芸術大学美術学部講師となり、同58年同助教授となる。平成4年ボローニア市立近代美術館での「70年代日本の前衛展」に出品。同5年東京芸術大学美術学部教授となった。同年世田谷美術館での「70年代日本の前衛 抗争から内なる葛藤へ」展、同7年北九州市立美術館、広島市現代美術館での「1970年―物質と知覚」展などに出品していることから知られるように、作家活動の初期から鋭い感性で自らの生きる時代の問題に切り込む制作を発表し続けた。80年代には「FIGURE」のシリーズを、90年代には「干渉」のシリーズを制作。オブジェやインスタレーションから平面やタブローへと作品形態の中心が移行したが、ものごとのはじまりや生成、ないしは存在することそれ自体を、「浸透」「干渉」などを鍵としてとらえようとする試みは一貫していた。
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没年月日:1995/10/19 読み:まるきいり 日本画家の丸木位里は、10月19日午前11時15分、脳こうそくのため埼玉県東松山市の自宅で死去した。享年94。明治34(1901)年6月20日、現在の広島県広島市安佐北区安佐町に生まれ、飯室高等尋常小学校卒業後、絵を独学、大阪出て一時大阪精華美術学院に学んだのち、大正12(1923)年上京して同郷の田中頼璋の天然画塾に入門したが、この年の関東大震災により広島にもどった。広島では、広島県美術展覧会に出品していたが、昭和9(1934)年に再び上京、落合朗風主宰の明朗美術研究所に入門した。同11年の第8回青龍社展に「池」が初入選、翌年の第9回展にも「峡壁」が入選した。また、この頃、同じ広島県出身の靉光と親交し、同11年広島市で開催された第1回藝州美術協会展にともに出品した。同14年歴程美術協会結成に参加したが、同年の第2回展に出品した後、岩橋英遠、船田玉樹とともに脱退した。翌年福沢一郎の勧誘をうけて、唯一の日本画家として美術文化協会結成に参加、同21年の第6回展まで、出品をつづけた。また、同16年に二科展に出品していた赤松俊子と結婚。同20年、広島に原爆が投下されたことを知ると、数日後には肉親の安否をたしかめるために広島に行き、遅れてきた妻とともに惨状を目のあたりにしながら被災者の救護にあたった。戦後は、原爆の記憶がうすれていくことの批判をこめて、「原爆の図」第一部「幽霊」を完成させ、「八月六日」と改題して同25年の日本美術会主催第3回日本アンデパンダン展に出品した。このシリーズは、俊子との共同制作で同30年までに第10部が完成し、各種の展覧会にそのつど出品された。またその間、国内はもとより、同25年と同31年には、この作品をたずさえて、ヨーロッパ各国、中国などで世界巡回展を開催し、各地で反響をよんだ。同30年代からは、日本アンデパンダン展のほか、毎日新聞社主催により隔年で開催された現代日本美術展、日本国際美術展(東京都美術館)などに毎回出品した。同42年には、埼玉県東松山市の自宅の敷地内に原爆の図丸木美術館が開館、また同年第9回サンパウロ・ビエンナーレに出品した。同51年、第2回从展に、妻俊(同31年に改める)との共同制作による「南京大虐殺の図」、翌年の第3回展には「アウシュビッツの図」を出品。同54年には、第3回反ファシズムトリエンナーレ国際具象展(ブルガリア)に俊との共同制作「三国同盟から三里塚まで」を出品、大賞を受賞。同55年の第6回从展に「水俣の図」、同58年の第9回从展に「沖縄の図」のシリーズを出品した。このように、「原爆の図」シリーズ(同57年までに15部が完成)を起点に、社会性の強い作品を制作しつづけた一方、中国、ヨーロッパ各地を写生旅行し、その作品をもとに俊との三人展をたびたび開催し、剛胆な水墨表現を一貫して追求していた。
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没年月日:1995/10/02 読み:さのたけお 京都市立芸術大学名誉教授で日本芸術院賞受賞のろうけつ染作家の佐野猛夫は10月2日午前4時26分、がん性腹膜炎のため京都市左京区の石野病院で死去した。享年81。大正2(1913)年10月22日、滋賀県守山町(現守山市)に生まれる。母あいの生家は西陣の刺繍業者であった。長浜尋常高等小学校在学中の大正12年ころから絵に熱中するようになり、同14年同校を卒業した翌年、京友禅の仕事をしている京都の兄宅に同居する。昭和2(1927)年京都市立工芸学校図案科に入学。山田江秀、山鹿健吉(清華)らに師事する。同5年ころより懸賞図案に応募し入賞する。同7年京都市立美術工芸学校を卒業。一時服飾図案を志したが、創作図案の道を選び、同8年第20回商工省工芸美術展図案部に創作図案「祭礼の図額」で初入選。同年第14回帝展に「大阪天満祭ノ図鑞染壁掛」で初入選。翌年の帝展には落選するが、同年山鹿清華の東宝劇場大緞帳制作に参加したことから、以後東京、大阪、神戸などで緞帳制作に携わるようになる。同10年1か月ほど沖縄に滞在して紅型や沖縄の工芸を学ぶ。同年に開設された京都市美術展に「鑞染壁掛琉球ノ女」を出品。また同年京都市美術工芸学校卒業の新人染織家集団「木旺社」の結成に参加する。同11年蒼潤社第1回美術工芸展で工芸奨励賞受賞。同12年第2回京都市展に「請雨の図染額」を出品して市長賞を受賞、同年第1回新文展に臈纈染四曲屏風「鳴禽の図」を出品。同13年第2回工芸院展に風呂先屏風「沼」を出品し工芸院賞を受賞。同15年紀元2600年奉祝展に出品するとともに、山鹿清華、皆川月華、稲垣稔二郎らによって結成された京都染織繍芸術協会に参加。同17年第7回京都市展に「土に遊ぶ染屏風」を出品して市長賞受賞。翌年より日本美術及工芸統制協会により戦時下の統制が始まるが、文部省より特別待遇の査定を受け、独自の研究を継続する。同19年奉祝京都市展に「屏風雛二題」を出品して受賞。戦後、同20年第1回京展に「木綿を織る」を出品して市長賞第二席となり、以後も同展に出品したほか、翌年から開催された日展にも参加。同21年秋、第2回日展に臈纈屏風「童女の図」を出品して特選となる。同23年初個展を京都河原町三条の朝日会館で開催。同年は京展、日展に出品せず新匠工芸会展に「蠟染布」を出品して新匠工芸会賞を受賞し同会会員に推される。また、同年京都府主催輸出工芸美術展において「蠟染更紗布」「立花壺文広幅染布」で商工大臣賞を受賞。同27年小合友之助が日展処遇問題により新匠会を退会したため、日展、新匠会を退くが、小合自身からも、また岩田藤七、高村豊周らからも日展復帰を促され、同29年第10回日展に臈纈「風景屏風」を出品して特選受賞。この頃多様な布地を用いたり、実用性を離れた自由な表現を試みたりし、昭和30年代半ばを過ぎると自然物の写実に基づく図案化から抽象図案へと展開を示した。同36年京都市立芸術大学工芸科染織専攻の助教授に就任、同38年同教授となった。同39年より自由な蠟の操作を求めてバック・ワックス技法による制作を試み、同42年京都市立美術大学のインドネシア調査旅行に参加してジャワ・パリ島を中心に染織技法の調査を行うなどして、研究を進めた。同44年第1回改組日展に「黒い潮」を出品して文部大臣賞受賞。同48年第4回改組日展に「噴煙の島」を出品して日本芸術院賞を受賞、同49年社団法人日本学士会よりアカデミア賞を受賞する。同51年よりたびたび日展常務理事をつとめたほか、同57年京都工芸美術作家協会理事長に就任した。同58年京都工芸界の高度な水準の維持に貢献し、優れた創作と育成活動をしたことが評価されて京都新聞文化賞を受賞。同63年京都府文化賞特別功労賞を受賞した。平成2(1990)年京都府文化芸術会館の主催により自選回顧展を開催。同3年作品集『佐野孟夫蠟染作品』(ふたば書房)を刊行した。伝統的な臈纈染を基礎に、より自由な表現を目指して多様な技法の研究により独自の手法を築き、水、潮をモティーフとした抽象的な作品に斬新な感性を示した。昭和41年より下村良之介、辻晋堂らとともに版画グループ「八ピキの泉」展に参加し銅版画も制作。著書に『染織入門』(昭和44年、保育社)、エスキース集『佐野猛夫倉創作の周辺』(同51年、マリア書房)がある。
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没年月日:1995/09/26 読み:おかひでゆき アート・ディレクターで呉学園・日本デザイナー学院名誉院長の岡秀行は、9月26日午後1時23分心不全のため東京都中野区の中野総合病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月11日福岡県に生まれる。関東大震災の直後に上京し、図案家門屋秀雄に図案を学ぶ。昭和10年図案、写真撮影を併せて行う「オカ・スタジオ」を創設。戦後、商業デザイン産業が発展するなかで同業団体の設立に尽力し、同25年日本宣伝美術会創立に参加して同会の事務所をオカ・スタジオに置いた。同27年東京商業美術家協会を設立して同会委員長となる。同37年には地方17団体の結束を促して全国商業美術家連盟を結成し、その理事長に就任する。民家、民具など日本の風土や生活に根ざしたデザインに興味を抱き同35年に米国ニューヨーク近代美術館で開催される国際パッケージ展に出品を依頼されて以降、日本の伝統的な「包む」造形に注目して収集を始める。同39年には全国商業美術家連盟の第一回展として「日本伝統パッケージ展」を提案して日本橋白木屋で開催。わら、和紙、竹皮などによる様々な包装を展示し、モダニズム全盛時代にあって、異色の展観として識者の関心を引いた。同展の出品作品を写真撮影して同40年に刊行した『日本の伝統パッケージ』(美術出版社)は、国際的な注目を浴び、英語、ドイツ語、フランス語に訳されて各国で刊行された。同警がきっかけとなり、同50年ニューヨークのジャパン・ハウス・ギャラリーで「包む-日本の伝統パッケージ」展が開催され、同展は28か国、99回の展示を重ね、各地で高い関心を呼んだ。包む造形に表れた風土、環境、人々の心を紹介することに尽力し、他に『包 TSUTSUMU』(毎日新聞社 昭和47 年)、『こころの造形』 (美術出版社 同49年)を著すとともに、同63年目黒区美術館での「日本の伝統パッケージ展」開催に寄与した。
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没年月日:1995/09/26 読み:かいだまさなお 漫画家の改田昌直は9月26日午後3時30分、心不全のため東京都新宿区の都立大久保病院で死去した。享年71。大正12(1923)年10月28日高知県室戸市に生まれる。帝国美術学校日本画科を中退して昭和24年漫画集団に入る。同25年から34年まで日本経済新聞に「パクさん」「ぼっちゃん」「あさぼら家」などの四コマ漫画を連載。同35年から38年まで高知新聞に4コマ漫画「茶の間さん」を連載。同年35 年から41 年まで『漫画読本』「週間漫画」などに作品を発表し、同41年作品集『ミステリー・カクテル』(コダマ・プレス)を出版する。同50年から63年まで共同通信社へ政治漫画を寄稿する一方、研究社の英和辞典の挿し絵等も描く。同60年、都市風俗と風景を風刺的に描いた作品集『アーバン世界』(思索社、同59年)により日本漫画家協会大賞を受賞した。
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没年月日:1995/09/24 読み:かくらいかずお 日本芸術院会員で、日展常務理事の日本画家加倉井和夫は、9月24日午前8時33分、急性心不全のため横浜市旭区内の病院で死去した。享年76。大正8 (1919)年9月11日、横浜市青木町に生まれ、昭和13(1928)年旧制茨城県立太田中学校を卒業、東京美術判交日本画科に入学、山口蓬春に師事した。本格的な作品発表は戦後からで、同22年の第3回日展に「林」が初入選、同24年の第2回創造美術展にも出品した。同27年の第8回日展からは毎回出品し、澄んだ川の流れと水に浸る石を装飾的にとらえた「流れ」を同33年の第1回新日展に出品、特選白寿賞を受けた。以後、同展で無鑑査、委嘱出品をかさね、同42年に会員となった。同55年の第12回日展出品の孔雀を華麗に描いた「青苑」によって、翌年日本芸術院賞を受ける。平成元(1989)年日本芸術院会員に選出された。
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没年月日:1995/09/23 読み:みやぢとらひこ 日展参与の彫刻家宮地寅彦は、9月23日午前30分、脳こうそくのため東京都小平市の自宅で死去した。享年92。明治35(1902)年9月24日に石川県金沢市に生まれ、昭和2(1927)年東京美術学校彫刻科を卒業、翌年の第9回帝展に「白哲」が初入選。また構造社展にも出品、「猫」によって構造賞を受賞、会員となった。戦後は、日展を中心に出品をつづけ、審査員をつとめ、また出品委嘱をかさねた。また、日木彫塑会の選考委員、理事などもつとめた。同39年には日展評議員となり、同45年には参与となった。近年は、次第に人体表現のなかにフォルムの単純化による抽象的な要素をもりこむようになっていたが、平成7(1995)年の第27回展には、ブロンズによる座像「口笛」が遺作として出品された。
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没年月日:1995/09/17 読み:おやまのぼり 日展評議員の日本画家尾山幟は、9月17日午後4時34分、間質性肺炎のため東京都多摩市の多摩南部地域病院で死去した。享年74。大正10(1921)年5月5目、北海道釧路市に生まれ、昭和20(1945)年多摩美術学校日本画科を卒業。同26年の第7回日展に「緑苑」が初入選、以後同展に出品をつづけ、同27年の第8回展出品の「蒼苑」で特選・朝倉賞、同30年の第11回展出品の「叢」で特選・白寿賞を受けた。その後、同展の審査員、会員をつとめ、評議員となり、平成7年の第27回展に「寂」が遺作として出品された。自然のなかで遊ぶ鳥をモチーフに、明るい色彩と装飾的な画面構成でまとめあげた作品を出品していた。
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没年月日:1995/09/06 読み:わだとおる 立軌会同人の洋画家和田徹は9月6日午後7時44分胃静脈りゅう破裂のため死去した。享年72。大正12(1923)年1月24日東京都港区麻布市兵衛町2-36に生まれる。本名嘉之(よしゆき)。東京市中野高等無線電信学校を卒業して昭和16(1941)年、旭石油株式会社船舶部に入社。同19年に入営し、21年復員。同22年より24年まで角浩の主催する近代絵画研究所に学び、同25年より猪熊弦一郎の主催する純粋美術研究室に学ぶ。同年読売アンデパンダン展に出品。同26年第15回新制作展に「築港」で初入選。同28年第17回展から19回展まで、また同33年第22回展より24回展まで出品するが、同36年に同会を退会する。このころから版画家菅野陽に銅版画を学ぶ。同37年および39年養清堂画廊で銅版画展を開催。同40年イスラエルハイファ美術館版画展に銅版画を出品する。同41年第10目安井賞展に出品。同44年立軌会展に招待出品して以後同会に出品し、同45年会員となる。主な個展に同52年大阪大丸本店、同58年東京新宿の小田急百貨店、同60年および62年に日本橋三越、同63年および平成3年東京渋谷東急本店、同4年横浜高島屋、同7年上野松坂屋での油彩展がある。海にちなむモティーフを好んで描き、静謐な画風を示した。
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没年月日:1995/08/28 読み:いまいずみとしみつ 刀工の最長老で岡山県指定重要無形文化財保持者の備前刀刀工今泉俊光は8月28日午後4時24分、老衰のため岡山県邑久郡長船町長船172の自宅で死去した。享年97。明治31(1898)年4月21日、佐賀県に生まれ、大正13(1924)年に岡山県倉敷市で独学で作刀の研究を始める。昭和20(1945)年2月岡山県邑久郡長船町に移り住み、鍛刀場を開設。伝統的備前刀を中心に本格的な作刀研究に取り組み、衰退の危機にあった備前長船刀を復興させた。同34年岡山県重要無形文化財保持者の認定を受ける。同43年吉川英治賞を受賞。同52年全日本刀匠会の名誉会員となる。平成3(1991)年新作刀展覧会で特別賞を受賞。同5年には岡山市の林原美術館で「今泉俊光-作刀六十年の歩み」展が開催された。素材づくりから工夫を重ね、刃文に鎌倉時代の味わいのある独自の風格ある作風を示した。
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没年月日:1995/08/28 読み:たまいちゅういち 日本版画協会会員の版画家玉井忠ーは、8月28日午前10時40分、心不全のため富山県高岡市の光ヶ丘病院で死去した。享年85。明治45(1912)年1月15日、富山県高岡市に生まれ、昭和3(1928)年県立高岡工芸高校を卒業。棟方志功に師事するとともに、創作活動をはじめる。同24(1949)年の第23回国展に「鯉」が初入選、以後同33年の第32回展の「石像」まで、入選をかさねた。一方、日本版画協会展にも出品し、会員となり、同60年の第53回展には、円形を中心に幾何学的なフォルムによって構成した木版画「石障 II」を出品した。また、創作活動のかたわら農業を営み、高岡市にとどまり、市内の小中朝交で木版画教室を開催して、その講師をつとめ、同48年には高岡市民功労賞を贈られた。
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没年月日:1995/08/03 読み:みさかこういちろう 日本芸術院会員で日展顧問の彫刻家三坂耿一郎は8月3日午後4時55分腎うしゅようのため東京都田無市の佐々総合病院で死去した。享年87。明治41(1908)年5月26日福島県郡山市湖南町に生まれる。本名政治(まさじ)。昭和4(1929)年私立郁文館中学校を卒業。東京美術学校彫刻科に入り、朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らに師事する。同12年同校を卒業して、同校彫刻研究科に進学、同年第1回新文展に「若い女」で初入選し、以後官展に出品を続ける。同14年研究科を修了。同15年より清水多嘉示に師事する。戦後も日展に出品し、同32年第13回日展に「渺〔はるか)」を出品して特選、翌33年第1回社団法人日展に「気流」を出品して二年連続特選となり同35年日展会員に推挙される。同41年イタリアへ渡って彫刻を研究。同43年銀座資生堂で初個展を開く。同45年改組第2回日展に「布」を出品して桂花賞受賞。同46年日展評議員となる。同47年改組第4回日展に「フォルム1」を出品して文部大臣賞受賞。同48年再度渡欧。同50年銀座資生堂で個展を開催した。同53年第2回新日展に「壺中天」を出品して日本芸術院賞を受賞し同61年日本芸術院会員となった。日常的で身近なポーズの女性像を得意とし、表面に孔をうがっていく隙孔表現によって作者の制作の跡の看取される素朴さのただよう作品を制作した。
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没年月日:1995/07/29 読み:こばやしかず 独立美術協会会員の洋画家小林数は、7月29日午後3時、呼吸不全のため千葉県船橋市の自宅で死去した。享年79。本名数雄(かずお)。大正5(1916)年、北海道稚内市に生まれ、林武に師事、昭和17(1942)年の第12回独立展に「花」が初入選、戦後も再び同展に出品をつづけ、同33年の第26回展に出品の「静物」によって独立賞を受賞、翌年の第27回展でも、「金魚と鳥の静物」、「黄壷と裸婦」によって再度独立賞を受け、同会会員にとなった。同36年、フランスに留学、翌年帰国して、同42年の第35回展では、「ヨットのある風景」、「真鶴半島」によってG賞を受賞した。平成6(1994)年には、同会の会員功労賞をうけた。同7年の第63回展には、遺作として「太束崎」を出品されたが、その画風は、フォーヴ的な解釈による明快な色彩と意志的な輪郭線によるもので、近年はスケールの大きい半島風景や山岳風景を描きつづけていた。
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没年月日:1995/07/20 読み:せいのつね トキワ松学園横浜美術短期大学名誉教授でモダンアート協会名誉会員の洋画家清野恒は7月20日午後8時58分、脳こうそくのため川崎市多摩区の自宅で死去した。享年84。明治43(1910)年12月8日山形県上山市鶴脛赤山700に生まれる。本名恒太郎(つねたろう)。昭和10(1935)年早稲田大学文学部西洋史科を卒業。在学中に二科展に出品し、大学卒業の年、米国を経由して渡欧。パリでフェルナン・レジェに師事する。同12年サロン・ド一トンヌに出品。滞欧中、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコ、オランダ、ベルギーなどを訪れる。同14年に帰国し、自由美術家協会に参加する。戦後は同28年第3回モダンアート協会展に「森1」「森2」「いえ」「家」等を出品して同年同会会員となる。同32年より山形大学講師となる。同38年毎日国際美術展に出品し、翌年より国際形象展に毎年出品する。同42年ヒマラヤに写生旅行し、山中のラマ廟で生活する。以後しばしばヒマラヤを訪れ、インドなど周辺各地にも赴く。「エトルスク」「シェルパの舞」「祭」、また同62年第37回モダンアート展出品作「ベナレスのガード」等、ヒマラヤを中心に来訪地の風景風俗に取材した作品を多数制作。同41年よりトキワ松学園横浜美術短期大学で教鞭を執り、絵画、色彩学を教授した。同40年日動画廊で、同43、46年日本橋三越で個展を開いており、また山形美術館、東京都渋谷のギャラリー・ジェイコ等で回顧展が聞かれた。
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没年月日:1995/07/08 読み:にしでだいぞう 重要無形文化財保持者(人間国宝)で日本工芸会参与の西出大三は7月8日午前4時30分、脳こうそくのため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年82。大正2(1913)年6月7日石川県江沼郡橋立村字橋立に生まれ、昭和7(1932)年石川県立第一中判交を卒業して東京美術学校彫刻科に入学。木彫および古美術品の修理を学ぶ。特に仏像にほどこされた截金に興味を抱いて研究を進める。また、同7年より25年まで袈裟の研究も行った。同12年同校卒業。同13年第21回二科展に「裸婦」で入選。同21年春第1回日展に木彫「あま」を出品。同30年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択された截金の技術保持者として同年より翌31年にかけて記録作成にたずさわる。同33年第5回日本伝統工芸展に「截金彩色飾合子富士」を出品して技術賞を受賞。同34年東京芸術大学で截金についての特別実習および特別講義を行って以降、国内外で截金技術の紹介を行う。同60年国の重要無形文化財保持者に選ばれた。日本工芸会理事、財団法人民族衣装文化普及協会評議員、日本七宝作家協会顧問をつとめ、截金のみならず七宝、ガラスなど従来注目されていなかった諸分野の発展、向上に尽くした。香合、合子、置物、盤などの古典的器物のほか木彫の置物、絵画にも繊細な截金装飾をほどこし、伝統技法を今日の造形に活かした。
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没年月日:1995/07/01 読み:よしだとおし 日本版画協会会員の版画家吉田遠志は、7月1日午前7時20分、前立腺がんのため東京都世田谷区の福原病院で死去した。享年83。明治44(1911)年7月25日、洋画家吉田博、吉田ふじをを両親として東京市本郷動坂町100番地に生まれる。暁星中学校を卒業し、同舟舎デッサン研究所、太平洋美術学校に学ぶ。また、13歳のころから父に木版画を学び、15歳ころから本格的な制作に入る。昭和5(1930)年、父とともにインド、ピルマ、マレーシアなど東南アジアを写生旅行。同11年には中国東北部、朝鮮半島を父とともに訪れる。同13年太平洋画会に初入選し以後同展に出品を続ける。戦後は同22年日展に「浅海の陽光」を出品。またアンデパンダン展にも出品する。同25年太平洋画会を退会してプラス美術家群を創立。翌年日本版画協会会員となる。同27年ニューヨークのジャパン・ソサエティーの協力を得て、アメリカ各地で講演、伝統的木版画の技法紹介、展覧会などを行ったのち、欧州へ渡る。同29年弟で洋画家の穂高を伴い米国各地で講演会、展覧会を開催。のちキューバ、メキシコへ渡る。同41年以後、しばしば渡米して木版画の講演会、展覧会を開催。同48年東アフリカを訪れ、以後動物をモティーフとする版画を主に制作。後にインド、オーストラリア、南極などへも旅行して各地の野生動物を描く。同55年長野県北安曇郡美麻村の小中学校の旧校舎を利用して「美麻文化センター」を創設し、木版画、ガラス細工、陶器などの技術指導の場とする。同57年より絵本「野生動物シリーズ(アフリカ)」の出版を始め、『はじめてのかり』で、同57年イタリア・ボローニア国際児童書フェスティヴァルでエルバ賞、『あしおと』で同63年フランスのアミアン市文化交流賞を受賞。同シリーズにより絵本にっぽん賞を受賞している。
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没年月日:1995/06/04 読み:たちばなしげお 日展会員の洋画家立花重雄は、6月4日午前6時、肝不全のため福岡県田川市の病院で死去した。享年75。大正9(1920)年1月18日、福岡県飯塚市に生まれ、中央美術学園で学んだ。昭和39(1964)年の第7回日展に家々の屋根が折り重なるようにつづく光景を荒い筆致と豊かなマチエールで描いた「家並」を出品、特選となり、翌年の第8回展では、無鑑査で「家並」を出品した。同58年の第15回展に「古都」を、同60年の第17回展に「裏町」をそれぞれ委嘱出品した。同62年の第19回展では会員として、「裏町」を出品、独特の厚塗りのマチエールがさらに深まっていった。平成7年の第27回日展に重厚なマチエールによる暗い海面に浮かぶ一隻の白い舟が印象的な「高島」が遺作として出品された。
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没年月日:1995/05/23 読み:こうのひでお 現代童画会名誉会長の洋画家河野日出雄は、5月23日午後7時、糖尿病のため神奈川県茅ヶ崎市の病院で死去した。享年73。大正11(1922)年6月1目、父の赴任地であったソウル市に生まれ、日本大学芸術科予科を修了した後、日本美術学校油画科を卒業。角浩に師事。戦後、二科展をはじめ各団体展に出品をはじめるが、昭和26(1951)年に病気のため、療養生活をつづけることになった。その聞に、出版物に童画を描きはじめた。同43年に一陽会展に出品、同45年には同展にて特待賞を受け、同49年に会員となった。同51年には、イラスト、デザインを描く商業美術の作家たちにも、絵画を描く機会をあたえることを目的に、現代童画会を創立、その発起人となり、第1回展から出品をつづけ、同54年に同会会長となり、あわせて一陽会を退会。同59年には、神奈川県藤沢市の画廊で、妻こうのこのみ、長男りうのすけ、長男の妻りえの四人による最初のファミリー展を開催、平成4(1992)年からは、これを「ファンタスティックの世界展」として、各地で毎年開催していた。
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没年月日:1995/05/20 読み:ふくやまとしお 日本学士院会員、京都大学名誉教授の建築史家福山敏男は5月20日午後6時13分、肺炎のため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年90。明治38(1905)年4月1日福岡県柳川市大字本城町27に生まれる。昭和2(1927)年京都帝国大学工学部建築学科を卒業。同年より造神宮使庁に勤務。同14年5月京都帝国大学より工学博士の学位を受ける。同15年『神宮の建築に関する史的調査』(造神宮使庁刊)を刊行。同17年文部技師として宗教局に勤務。同18年『日本建築史の研究』(桑名文星堂)を刊行。同22年東京国立博物館附属美術研究所(現・東京国立文化財研究所)に勤務となり、同26年同所資料部長、同29年より同所美術部長をつとめ、同34年京都大学教授となった。同43年に同大を退官した後は京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長をつとめた。古代仏教寺院や神社建築の調査・研究にあたり、出雲大社、大阪四天王寺、九州観世音寺などの調査発掘を指導して創建当時の事情や建築構造を明らかにして、日本建築史学の基礎を築いた。奈良県天理市の石上神宮の七支刀の銘文解釈等、金石文の研究でも知られる。同62年日本学士院恩腸賞を受賞し、平成2年日本学士院会員となった。同57年『寺院建築の研究』(上・中・下 福山敏男著作集1-3) 、『神社建築の研究』(福山敏男著作集4) 、『住宅建築の研究』(福山敏男著作集5) 、『中国建築と金石文の研究』(福山敏男著作集6)を中央公論美術出版から刊行。著作については『文建協通信』22所載の「福山敏男先生著作目録」に詳しい。
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没年月日:1995/05/12 読み:むなかたまつか 日本板画院名誉会長の版画家棟方末華は、5月12日午前9時5分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年82。大正2(1913)年4月14日、青森県青森市に生まれた。本名末吉。昭和6(1931)年、青森市夜間中学校を卒業、上京後の同14年から戦後の49年まで府中刑務所に事務官として勤務した。その間に創作活動をはじめ、同16年の第4回新文展に、「秋深き山門と石像」(版画)が初入選した。そのほか、国画会、白日会、日本版画協会展にも出品したが、同27年には日本板画院の創立会員として参加した。同40年には、日本浮世絵協会理事に就任、また同49年には、日本板画院会長となった。府中市の文化財専門委員をつとめたほか、同51年には芸術文化に功労があったことから青森県より褒賞を受け、また同61年には美術文化功労者として東京都より表彰された。
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