本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





奥村霞城

没年月日:1937/10/16

漆工家、新文展無鑑査奥村霞城は10月16日逝去した。本名享。明治26年京都に生る。同44年京都市立美術工芸学校漆工科卒業後、船橋舟珉に師事、大正2年京都美工院の同人となり、昭和5年京都市立美術工芸学校教員を命ぜられ、同7年京都市主催工芸品展委員、10年京都漆芸会幹事及京都市主催大衆向工芸展審査委員に就任した。昭和11年春の帝展に「紫陽花手箱」を出品して推奨に挙げられ、次で同年文展より無鑑査となり同12年第1回文展出品の「鹿の図パネル」が絶作となつた。

岩倉具方

没年月日:1937/10/14

洋画家岩倉具方は本年9月海軍省嘱託画家並報知新聞特派員として上海戦に従軍したが、10月14日上海呉淞路にて敵弾の為名誉の戦死を遂げた。維新の元勲岩倉具視公の曽孫として明治41年東京に生る。太平洋美術学校に洋画を学び、昭和2年二科に初入選し、同5年渡欧、11年に帰朝した処であつた。

磯矢完山

没年月日:1937/10/04

日本工芸美術会委員磯矢完山は10月4日膵臓病のため逝去した。享年63。本名邦之助。明治8年、茶人磯矢宗庸次男として大阪に生る。同23年小川松民に就て蒔絵を学び、師の没するに及び帝室技芸員川之辺一朝の門に入つた。同30年東京美術学校漆工科本科を卒業、34年小石川に日進塗料工場を設立、40年迄六角紫水と共同経営をなした。45年明治天皇御大葬に際し、御葬具を謹製す。大正8年故川之辺一朝及完山の門下生、木白社を組織し同13年迄日本橋高島屋に展覧会を開催、完山も多数出品した。同15年日本工芸美術会創立され会員となる。昭和4年同会主催工芸リーグ展に「孔雀文手筥」「草花文蒔絵香炉と卓」を出品、同7年同会の委員となり、同年の展覧会に「夏の菓子器」「苺文手筥」を出品、翌年帝展第14回に「蒔絵菜文茶箱」を、次いで9年日本工芸美術会展に「独楽文菓子器」「千本しめじ香合」を出品した。同10年東京高島屋に於て親戚一同にて一門会美術工芸展を開催、自らも多数出品した。同年日本工芸美術会展に「花器」「小膳」を出品、11年「短冊筥青柳と橋の図」「硯箱猿三番叟之図」を完成し、又同年7月自邸内に作品陳列所を建て「朱文筵」と称した。12年工芸美術会大阪展に「瓢文茶箱」「二菜葵棗」「蝉香合」「茸香合」「花文棗」等を出品した。

太田義一

没年月日:1937/10/01

日本画家太田義一は10月1日逝去した。明治24年山形県に生る。大正4年東京美術学校を卒業、帝展入選8回に及び、尚帝国女子専門学校の講師の職にあつた。

伊東陶山

没年月日:1937/09/07

陶工家伊東陶山は9月7日腎臓炎の為京都の自宅で逝去した。明治4年滋賀県に生れ、同20年故内海吉堂に就き日本画を学ぶ。同24年、故帝室技芸員先代陶山に就き製陶法を学び、その非凡なる才能を見出されて養子となり、大正9年二代を襲名した。昭和3年御大典に際し、宮内省御用品を献納す。同年帝展に於て推薦となり、同6年及び8年に帝展第四部審査員に任命された。晩年は日本美術協会々員、京都工芸美術協会評議員及審査委員、其他京都に於ける各種の団体の要職に就いてゐた。

片山牧羊

没年月日:1937/08/26

日本画家片山牧羊は宿痾の為め広島県の郷里に於て静養中の処8月26日逝去した。明治33年尾道に生る。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。

和田英松(ヒデマツ)

没年月日:1937/08/20

国宝保存会委員文学博士和田英松は8月20日腎臓病のため帝大病院に於て逝去した。慶応元年広島県に生れ、明治21年東京帝国大学文科大学古典講習科図書課卒業、同28年同大学史料編纂掛に入り、32年学習院教授、40年東大史料編纂官に任ぜられ、大正7年帝国学士院恩賜賞を授与され、同10年文学博士の学位を授けられた。昭和8年依願免官となり、従3位勲2等に叙せらる。尚最近は帝国学士院会員の外史料編纂所嘱託、内閣嘱託、国宝保存会委員、重要美術調査委員会委員、国学院大学教授等の要職にあつた。

塚本靖

没年月日:1937/08/09

東京帝国大学名誉教授、帝国芸術院会員(正3位勲2等)工学博士塚本靖は豫て胃癌の為病臥中の処8月9日小石川の自邸で逝去した。享年69。我国建築及美術工芸界の耆宿であり、教育者として又実際家として幾多の功績を貽し、人格的にも徳望篤く、其の長逝は各方面の惜む処であつた。 略歴―明治2年京都に生れ、同26年東京帝国大学造家学科を卒業後大学院に於て建築装飾法の研究に従事、31年東京帝国大学工科大学講師を嘱託せられ、翌32年助教授に任命、同年より35年迄建築学研究の為、英仏独3ヶ国に留学、帰朝するや直ちに教授に陞任、翌36年工学博士の学位を授けられた。38年特許局審査員を命ぜられ、翌39年、貿易工芸品の意匠調査の為清国に差遣、翌年帰朝、41年再び差遣さる。42年日英博覧会の用務の為英国へ出張を命ぜられ、翌43年1月出発、同10月帰朝した。同43年議院建築準備委員会臨時委員を仰付られ、又特許局技師に任命。大正4年明治神宮造営局評議員を仰付られ、同5年帝室技芸員撰択委員、翌年、古社寺保存会委員を仰付らる。同7年明治神宮造営局参与、又臨時議院建築局常務顧問を仰付らる。8年東京帝国大学工学部講堂並教室及実験室新築工事設計を嘱託さる。翌9年宮内省内匠寮御用掛を仰付られ、同年東京帝国大学工学部長に補せらる。11年特許局審判官を命ぜられ、同年勲2等に叙せられ瑞宝章を授けられた。12年工学部長を免ぜられ、同大学評議員、旅順工科大学商議員の任に就いた。14年営繕管財局顧問を仰付られ、翌15年より昭和4年迄再度東京帝国大学工学部長に補せらる。昭和4年同大学教授を免ぜられ、同時に正3位に叙せられ、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。昭和10年、同大学より工芸史に関する調査を嘱託さる。同12年、紀元二千六百年記念日本万国博覧会々場計画委員会委員を嘱託され、同年6月帝国芸術院創設さるるや会員を仰付られた。逝去に際しては、畏き辺より生前の建築界に致せる功績顕著なるを思召され特に金杯1個を下賜あらせられる旨の御沙汰があつた。上記の他に明治40年より連年7回に亙り文展審査員を命ぜられたのを始め、幾多の工芸展及博覧会等の鑑査、審査に鞅掌し、工芸美術界に貢献せる処多大であつた。又、博士の東西古美術に関する著作は多数に上るが、略歴年表と共に其の目録は建築雑誌(第51輯、第631号)に紹介されてある。

西井敬岳

没年月日:1937/07/04

自由画壇同人西井敬岳は7月4日逝去した。本名敬次郎。明治13年福井県に生れ、同35年京都に出で山元春挙に師事、師の没後早苗会評議員として今日に至る。旧文展の入選8回に及び、又同志と共に日本自由画壇展覧会を組織し、毎次同会に出品した。尚文展第7回に「怒涛」を出陳、皇后宮御用品として御買上の光栄に浴した。

野沢如洋

没年月日:1937/06/11

日本画家野沢如洋は、6月11日脳溢血の為逝去した。本名三千治。慶応元年弘前に生る。明治25年京都に出て、独力画法を研究、日本美術協会に毎回出陳して屢々受賞し、28年には1等賞を受領宮内省御買上の栄に浴した。37年支那に渡り、各地を巡歴、在留8年に及ぶ。又大正8年欧米美術行脚の途につき、翌年帰朝、昭和5年東京に転住し、爾後数次個展に依り作品を発表した。同11年弘前市に於ける秩父宮殿下御仮邸に伺候、御前揮毫の栄に浴した。

中村春楊

没年月日:1937/05/04

早苗会々員中村春楊は、宿痾の為5月4日京都太泰の自宅に於て逝去した。本名新太郎。明治24年京都に生れ、同40年故山元春挙に師事し、同門下生を以て組織する早苗会の一員として今日に至つた。大正7年文展第12回に初入選してより帝展を通じて入選10回に及んで居た。

田辺竹雲齋

没年月日:1937/04/26

竹工家、竹雲齋田辺常雄は4月26日堺市の自邸で逝去した。享年61。尼ケ崎市に生れ19歳の時初代和田和一齋に就て竹工の技術を修業、屡々畏き辺へ作品を献上し、大正14年大正天皇銀婚式に際し堺市よりの献上品「天盃形盛花籃」「貢船盛花籃」を製作し、又同年巴里万国博覧会に農商務省の指定に依り「瓢形花籃」を出品して銅牌を受領した。

高木長葉

没年月日:1937/04/21

日本画家高木長葉は4月21日永眠した。享年50歳。四日市市の出身、大正8年より?々個展に依り作品を発表し、同9年同志と共に蒼空邦画会を結成、日本画の創造運動に従つた。昭和4年銀座資生堂に意匠部長として入社し、翌年同社より広告美術の研究を目的として欧洲へ出張し、同10年に退社してゐたものである。

落合朗風

没年月日:1937/04/15

明朗美術聨盟主宰落合朗風は4月12日急性肋膜炎の為赤十字病院に於て逝去した。享年42。本名平治郎。明治29年東京芝区に生る。大正3年画家として立つことを決心し、京都の小村大雲に約半歳ほど師事した。同4年明治絵画会に「后興」を出品、翌年21歳の時第5回文展に「春永」が初入選した。次で8年院展に六曲一双「エバ」を出品し、是が出世作となつた。同10年院展と袂別、13年第5回帝展に「三十三間堂」を出品以後昭和6年迄殆ど毎回出品したが、帝展の内情に嫌焉たるところあり、之と袂別し、青龍社の主張に共鳴して同展第3回に「華厳仏」を出陳し、青龍賞に推奨された。昭和7年青龍社展第4回に「那覇の麗人」を出品、同人に推挙さる。次で同9年、惟ふ処あり、川口春波と青龍社を離脱し、明朗美術聨盟を創立。同年上野松坂屋に創立記念試作展を開催した。爾来同聨盟を率ゐて画壇に活動し、昭和12年3月下旬明朗美術春季試作展の出品画「春夏秋冬」四幅対を完成、又4月1日に紙本横物「白椿」を完成したが翌日から臥床し、同作が絶筆となつた。 其の画風は質朴で、舒情的な題材が多く扱はれ、甘美な色彩と装飾的形式化を其の特徴とした。明朗展第2回出品の「かまくら」は形式の発展を示す佳作であり、将来を期待せしめた作家であつた。作品略年表年次 年齢大正4年 20 明治絵画会第6回展「后興」六曲半双大正5年 21 第5回文展「春永」大正8年 24 第6回院展「エバ」六曲一双大正9年 25 第7回院展「島村余情」対幅大正10年 26 第8回院展「肥牛」四曲半双大正13年 29 第5回帝展「三十三間堂」大正15年 31 第7回帝展「洛外風趣」四幅対昭和2年 32 第8回帝展「梅ケ畑ノ麦秋」昭和3年 33 第9回帝展「漁村」昭和4年 34 第10回帝展「南房漁港」昭和5年 35 第11回帝展「内陣」昭和6年 36 第12回帝展「秋の北山」、第3回青龍展「華厳仏」、上野松坂屋に於て第1回個展開催昭和7年 37 第4回青龍展「那覇の麗人」八曲大屏風 上野松坂屋に於て第2回個展開催昭和8年 38 第5回青龍展「浴室」二曲大屏風、「室内静物」AB、上野松坂屋に於て第3回個展開催昭和9年 39 第1回明朗展「人魚」金地六曲一双、「東京風景三題」一、不忍池二、銀座三、地下鉄昭和10年 40 上野松坂屋に於て第4回個展開催、第2回明朗展「常夏の国」六曲大屏風一双、「三人の音楽隊」「道化」「画人の像」昭和11年 41 5月上野松坂屋に於て第5回個展開催、第3回明朗展「かまくら」二曲一双、「我が庭の眺め」二曲一双、「遊踪処々」、11月海軍大演習御召艦比叡の御座所奉掲画「章魚」の図を献上昭和12年 42 明朗美術春季試作展 春夏秋冬「春夢」「彩浜」「秋垣」「雪余」四幅対、「秋柿」

菅原精造

没年月日:1937/04/12

漆芸家菅原精造は4月12日パリ郊外ロスチヤイルド男のシヤンチイユ別荘で持病の肝臓癌の為逝去した。享年54。山形県の出身で、東京美術学校卒業後明治38年渡仏、爾来日本漆芸の伝統的技法を欧洲に伝へパリ工芸界の異色ある存在として認められて来た。有名な仏人漆芸家ジヤン・ジユナンの如きも其の技法は故人の指導に負ふ所多く、両人の協力に成る作品が多数にある。古くから乾漆技法に依る前衛彫刻の製作を試みて居り、其の作品は年々サロン・ドオトンヌに出陳され、特異な作風を記憶されて居たものである。(アトリエ14ノ7に依る)

福井江亭

没年月日:1937/03/08

元東京美術学校教授福井江亭は豫てより千葉県市原郡に於て静養中であつたが3月8日逝去した。享年73。本名信之助。天真堂と称した。明治11年洋画を学び、後南画を学ぶ。同17年川端玉章に師事し同門下の俊才であつた。24年日本美術協会に於て1等賞を受領、36年青年絵画共進会に於て1等褒状を受けた。31年日本画会の設立と共に審査員に挙げられ、又翌年平福百穂、結城素明等と無声会を組織して当時の画壇に新生面を開拓した。36年名古屋高等工業学校教授に任命され、42年東京美術学校教授に任ぜられた。大正5年同校教授を辞し、支那に渡り名蹟勝地を探ること5ケ年に及ぶ。昭和6年在支5年間の作品展を丸ビルに開催した。昭和元年以後は悠々画筆の生活を楽んでゐた。

松島白虹

没年月日:1937/02/22

日本画家松島白虹は2月22日東京帝大附属病院に於て逝去した。本名松太郎。明治28年、岡山市に生れ、大正10年東京美術学校日本画科卒業後、結城素明に師事、大正7年文展第12回に初入選し、その後帝展に9回入選、昭和11年新文展に「占茶」を出品した。尚大正10年より女子美術専門学校の教授の職に在つた。

久保田満明

没年月日:1937/02/14

日本画家久保田満明は2月14日食道狭窄症のため荏原区の自邸で逝去した。享年64。雅号は米?又米所の別号がある。故久保田米僊の長男として京都に生る。小学校を卒へるや直ちに米国オークランド中学校に学び、4年後帰朝。東京に遷り、はじめ洋画を原田直次郎に学び、後日本画を田崎草雲、橋本雅邦に就て学んだ。其後仏国に留学、滞在すること4年、帰朝後は三越呉服店及松竹興業会社に関係して衣裳考証、舞台装置等に従事し、故実考証に専念してゐた。尚日清戦役には成歓、牙山及威海衛に国民新聞記者として画筆をとつて従軍した事がある。 

島崎柳塢

没年月日:1937/01/21

日本美術協会理事島崎柳塢は豫て腎臓病で加療中の処1月21日荒川区の自邸で逝去した。享年73。本名は友輔、別に栩々亭山人、墨水漁夫等の号がある。東京牛込の出身、幼にして桜井謙吉に洋画を学び後竹本石亭、松本楓湖、川端玉章等に就て日本画を学ぶ。明治20年頃より諸会に作品を発表し、旧文展には毎次出品して3等賞2回、褒状3回を受領した。又日本美術協会に於ても早くより?々受賞し、同会委員、理事、審査員の任に就いてゐた。

佐竹永陵

没年月日:1937/01/08

日本美術協会委員佐竹永陵は、1月8日宿痾の為本郷の自邸で逝去した。享年66。旧姓黒田、本名は銀十郎。明治5年東京に生る。同20年佐竹永湖に師事し後佐竹家の養子となつた。永湖の父は谷文晁の高弟佐竹永海であり、永陵は三代に当る。内国勧業博覧会、大正博覧会に出品して受賞し、初期文展に於ては第6回に「夏景山水」「冬景山水」を、第9回に六曲一双「水墨山水」を出品して、3等賞を授与せられた。日本美術協会に於ては?々受賞及宮内省御買上の栄に浴し、又大正天皇の御前揮毫を奉仕したことがある。晩年は専ら日本美術協会に出品して文帝展に関係せず、作画の傍ら文晁の画風を研究し、その鑑定に従事した。

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