本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





泉鏡花

没年月日:1939/09/07

帝国芸術院会員泉鏡花は9月7日逝去した。本名鏡太郎、明治6年に金沢に生れ小説家として聞えてゐた。

橘糸重

没年月日:1939/08/31

帝国芸術院会員橘糸重は8月31日病気の為逝去した。享年67歳。女史はピアニストとして令名あり明治25年以来東京音楽学校の教職に在り、30余年勤続してゐた。

加藤秋

没年月日:1939/07/12

建築家加藤秋は7月12日逝去した。享年51。千葉県の出身で、明治43年に日本工芸学校建築科を卒業、大正7年に建築事務所創立以来主として劇場、映画館の設計に従事し、多くの作品を残した、

大沼かねよ

没年月日:1939/07/12

洋画家大沼かねよは7月12日肺炎のため逝去した。享年35歳。明治38年宮城県に生れ、女高師図画専修科を出て、帝文展に「家族」「野良」「遊楽」等が入選し、又槐樹社にも「三人」其他を出品、その画風を注目されてゐた。

喜田貞吉

没年月日:1939/07/03

東北帝国大学講師文学博士喜田貞吉は病気の為7月3日逝去した。享年69歳。博士は法隆寺再建論を持してさきには故関野貞博士、最近は足立康博士と論争を交へて、夙に学会にその令名が喧伝して居た。しかし博士は唯に法隆寺問題のみではなく、歴史一般に就いても博覧強記を以て聞え、著書には「帝都」「国史の教育」その他数種があり、関係雑誌に発表された研究論文等は無慮一千余に達し、又自ら「民族と歴史」「社会史研究」「東北文化研究」の刊行を主宰してゐた。尚この間教職にあつて後進の誘掖にあたり、文部編修官となつて教科書の編纂等に尽す処があつた。左にその略歴を掲げる。 明治4年徳島県に生れ、明治29年東京帝国大学文科大学国史科を卒業、同治33年早稲田専門校講師、同34年国学院大学講師を嘱託され、同年文部図書審査官に、36年には文部編修官に転じ44年退官した。この間に39年には東京帝大、41年には京都帝大文科大学講師を嘱託され、42年文学博士を授けられた。大正9年京都帝国大学教授に任ぜられ、13年退官同年東北帝大、京都帝大講師となつて現在に至つた。

北村耕造

没年月日:1939/06/27

宮中顧問官北村耕造は肺炎のため6月27日逝去した。享年63歳。明治10年9月25日京都に於て出生、同36年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、東京清水満之助本店に入り、同45年視察のため欧米に出張、帰朝後大阪支店長になつたが、大正6年同店を退き、次で同10年まで財団法人理化学研究所建設技師に就任した。同10年官内技師に任ぜられ、翌年内匠寮工務課長を命ぜられてより、その在職中、同12年の震災復旧諸工事、昭和2年の 大正天皇御大喪並に翌年の今上天皇御大礼諸工事を担当した。同6年より臨時帝室博物館造営課長を命ぜられ、工事完了の上同12年本官を免ぜられ、同時に宮中顧問官に就任、高等官1等に叙せられた。尚薨去に際し正3位に陞叙せられた。作品目録(建築雑誌14年9月号より転載)清水組在職中明治44年 日本女子大学講堂兼図書室及教育部校舎明治38年 第一銀行横浜支店其他石井健吾邸・日比谷平左衛門邸、諸葛小弥太邸等理化学研究所在職中大正10年 理化学研究所物理部並化学部本館及其附属家宮内省在職中昭和5年 葉山御用邸を初め震災復興諸工事大正15年 那須御用邸大正3年 奥宮殿改築大正4年 大宮御所大正5年 学習院特別教室、中等科教室及青年寮大正3年 多摩御陵築造、昭和大礼諸設備大正14年 東伏見宮邸昭和2年 秩父宮邸、図書寮庁舎昭和4年 李王邸昭和6年 高松宮邸昭和8年 朝香宮邸昭和13年 東京帝室博物館復興造営

小野玄妙

没年月日:1939/06/27

仏教芸術史の権威、文学博士小野玄妙は脳溢血のため6月27日逝去した。享年57歳。本名金次郎、明治16年2月28日横浜に生る。同29年鎌倉光明寺に入つて浄土宗僧侶となり、名を玄妙と改めた。大正7年宗教大学教授となり、同12年に大正新脩大蔵経の編纂主任となり、その完成に力を注いだ。昭和3年高野山大学教授、又翌年東洋大学教授となり、同7年文学博士の学位を授けられた。同9年以後文部省国宝調査会委員となり、諸寺所蔵の蔵経の調査に従つた。その著述は「仏教之美術及歴史」「大乗仏教芸術史の研究」「仏教経典総論」其他十余種に上り、就中粉本図像の研究に於て業績を残した。主なる著作を掲げる。「仏教年代考」(明治38年)「大日本仏教全書」(同45年望月信亨博士の下に於て編纂)「仏教之美術及歴史」(大正5年)「仏教美術概論」(同6年)「仏像ノ研究」(同7年)「画図解説仏教美術講話」(同10年)「大分の石仏に就て」(同11年)「健駄邏ノ仏教美術」(同12年)「極東の三大芸術」「五台山写真集」(同13年)「仏教文学概論」(同14年)「仏教美術」(同15年)「大乗仏教芸術史の研究」(昭和2年)「仏教概説」(同3年)「仏教神話」(同8年)「仏教経典総論」(同11年)「仏教ノ美術ト歴史」(同12年)

猪飼嘯谷

没年月日:1939/06/16

文展無鑑査猪飼嘯谷は病気のため6月16日逝去した。本名卯吉、明治14年4月12日京都に生る。同33年京都市立美術工芸学校を卒業、同38年同校の助教諭を拝命、後教諭となり、又絵画専門学校の教諭となつたが、大正14年退職した。故谷口香?の門人で、文展には「烏夜亭」「大燈国師」「画僧」「近江国柞」「拾君」「六昆征伐」等の作を出品した。昭和5年宮内省の命により「大正天皇御大礼絵巻」を謹写し、又同9年には京都市の依頼により明治神宮絵画館の壁画「御即位礼図」を謹作した。

三上参次

没年月日:1939/06/07

帝大名誉教授文学博士三上参次は病気の為6月7日逝去した。享年75歳。兵庫県に生れ、明治22年東京帝大文科を卒業、引続き母校の助教授、教授を経て文学部長となつた。同32年博士を授けられ、大学を退職後は名誉教授、学士院会員、貴族員議員の地位に就いた。この間傍ら史料編纂の事業を主宰し、大日本史料大日本古文書の編纂等に貢献する処があつた。又保存事業に於ても、明治33年帝国古蹟取調会の創立に当り、学事顧問、次いで調査委員に挙げられ、又大正8年史蹟名勝天然紀念物調査会官制の施行に際しその委員となつた。而してこの官制の廃止後昭和8年、明治天皇聖蹟に関する調査保存事業が始められ、文部省に史蹟名勝天然紀念物調査委員会が設立されるに及び、その会長に推挙された。歴史学会に於ける業績は多大であるが就中特記すべきは、御歴代天皇聖蹟を調査、保存し奉るべきを提唱し、これが実施を誘導したことであつた。(史蹟名勝天然記念物14ノ7による)

内藤藤一郎

没年月日:1939/05/13

仏教美術史の研究家内藤藤一郎は5月13日病気の為逝去した。明治29年大阪に生れ、早稲田大学を卒業、夙にその研究を関係雑誌等に寄稿してゐた。「法隆寺壁画の研究」ほか数種の著述がある。

ラグーザ・玉

没年月日:1939/04/06

女流洋風画家ラグーザ・玉は、4月6日芝区の清原家に於て急逝した。享年79歳。同9日芝増上寺に於て葬儀を執行、其後遺骨は麻布長玄寺に埋葬、一部はイタリア、パレルモに送られた。 女史は清原姓、幼名を多代と称し、文久元年6月10日江戸芝に生れた。幼より絵事を好み、若くして日本画を学び、次で永州なる画家に就て西洋画法の指導を受けた。明治10年予て工部美術学校に彫刻学教師として招聘されてゐたヴインチエンツオ・ラグーザと識り、その画才を認められて西洋画法の指導を受け、得るところ多かつた。同15年ラグーザの帰国に際し伴はれてイタリア、パレルモ市に渡行、サルバトーレ・ロ・フオルテに師事した。同17年ラグーザがパレルモ市に工芸学校を開設するやその絵画科の教師となつた。此の工芸学校が市立となり高等工芸学校となるに至つて教授となり、女子部の絵画の指導に当り、其の後女子部の廃止と共に退き、専ら家庭に在つて子女の指導に当つた。此の間パレルモに於ける諸種の美術展覧会の外モンレアレ、ヴエネツイア或は米国市俄古、聖路易等の美術展覧会、博覧会等に出品して最高賞を与へられた。而して、昭和2年ラグーザの没後、パレルモ市に在り、同地よりラグーザの遺作多数を東京美術学校に寄贈し、昭和8年渡伊後50有余年にして帰国した。其の後は芝区の旧家の辺清原家に画室を構へ、専ら画筆に親しんでゐたが、昭和14年4月5日脳溢血に倒れ翌6日遂に長逝したものである。女史は長く故国を離れ、直接わが画壇との交渉を絶つてゐたが、イタリアに於いては夙に著名であり、わが国に於いても再度の展覧会に依て滞伊中の制作及び帰朝後の作品が紹介さるるに際し、其の堅実な画風を確認したのであつた。

平野千惠子

没年月日:1939/04/04

米国ボストン美術館東洋部勤務の平野千惠子は賜暇を得て帰国中急逝した。享年64歳。新潟県出身で、東京女高師、津田英学塾を経て米国シーモーカレツヂに入り、英文学と図書館学を学び、明治29年ボストン美術館に勤務した。爾来同館東洋部にあつて蔵品及び図書の整備に従つたが、大正9年以来浮世絵師清長の研究に専念し、英文の著述「清長」が米国で公刊されてゐる。

伊東紅雲

没年月日:1939/04/02

文展無鑑査、伊東紅雲は4月2日脳溢血のため逝去した。本名は常辰、明治13年7月13日東京に生る。同27年に村田丹陵門に入り、土佐派を学ぶ。同40年文展第1回に「防矢」が入選、大正4年に「船出」が3等賞となつた。同14年帝展委員に任命される迄「生★」「消息」「関の清水」「手向」「護世四天」「さすらひ船」「朝猟」「賭戯」等が入選してをり、昭和2年以降は「防人」「出陣」「戦火の後」「献甲」等を出品してゐる。予て小堀鞆音の門に出入し、革丙会にも関係し、最近は朱弦会に参加してゐた。故実に精しく、専ら歴史画を制作した。尚昭和3年に明治神宮絵画館に「御元服図」を謹作してゐる。

荻島安二

没年月日:1939/03/21

構造社会員荻島安二は3月21日急性リウマチスのため、逝去した。享年45歳。明治28年横浜市に生る。朝倉文夫に師事し、旧文展及初期帝展に逐年出品したが後ニ科展に転じた。昭和8年構造社に入会し、同年第7回より毎年出品、同12年に文展無鑑査に推薦された。予て商業彫塑の方面に独自の才能を発揮し、島津製作所マネキン部の顧問であつた。尚本年の構造社第12回展に遺作の特別陳列が行はれた。

佐藤紫煙

没年月日:1939/03/10

日本画家佐藤紫煙は3月10日逝去した。享年65。本名文治郎、明治6年岩手県に生れ、瀧和亭に就いて花鳥を学び衣笠豪石に山水画の描法を受けた。明治29年明治天皇日本美術協会へ行幸の際、御前揮毫を仰付けられ、大正天皇に献上の揮毫まで凡20回の光栄を担つた。明治30年京都府全国絵画共進会に出品の「秋蘭図」は1等賞、翌31年日本美術協会展には2等賞を受け、40年文展に対抗して開かれた正派同志会第1会展には3等賞を受けている。大正7年秋には文展審査に慊らず南北画系作家と共に建白書を時の文相に提出したことがある。

関衛

没年月日:1939/03/06

東亜美術協会顧問関衛は3月6日逝去した。明治23年長崎県に生る。心理学及美術史を専攻し、数種の著作を残した。

岡本綺堂

没年月日:1939/03/01

帝国芸術院会員岡本綺堂は3月1日病気のため逝去した。享年68歳、本名敬二、東京の生れで、戯曲、小説、随筆に多数の著作がある。

加藤英舟

没年月日:1939/02/15

故西村五雲と共に竹内栖鳳門下の先輩として知られた加藤英舟は2月15日逝去した。本名栄之助、明治6年名古屋に生る。初め名古屋の奥村石蘭に学び、同23年京都府立画学校に入学、幸野楳嶺の薫陶を受けたが、楳嶺没するに及び岸竹堂に師事し更に竹堂の没後竹内栖鳳の門に入つた。花鳥動物を得意とし、その画風は質朴温雅、伝統的技巧を守り、小品の花鳥画に佳作を遺した。文展第6回出品の「かすみ網」で褒賞を受け、昭和3年帝展委員に推薦された。主なる作品には、文展第2回出品の「野狐の図」、同第4回「秋晴の図」、同第6回「かすみ網」、同第9回「大羽打」、帝展第2回「小さき夢のさまざま」、同7回「花の市」、同8回「秋の園」、同第10回「湖辺の秋」、同第12回「巨椋早涼」、同第14回「秋の脊戸」等が挙げられる外、京都東本願寺黒書院の障壁画を揮亳をしてをり、又大正11年、皇后陛下の関西行啓に際しては川崎家よりの献上画を謹作した。

小林孝行

没年月日:1939/01/13

ニ科会の出品者で、九室会の会員であつた小林孝行は1月13日真鶴の海に投身自殺した。享年25歳。昭和7年ニ科に初入選となり、同11年よりニ科展に毎回超現実主義の作品を発表した。尚12年に銀座、サロン・ルウエに壁画を執筆した。14年3月紀伊国屋に遺作展が開催された。

野田英夫

没年月日:1939/01/12

新制作派協会の会員として近年注目されてゐた野田英夫は1月12日病気のため逝去した。日系米国市民で1910年3月3日北米加州サンノゼ市に生れた。桑港加州美術学校に入学し、当時スタツクポール、マキー、アーナルド・ブランチに師事し、尚デエゴ・リベラに壁画の指導を受けたことがある。31年ブランチの招聘により紐育ウツドスタツクに行き、同地で国吉康雄、ユージン、スパイカー、グローツ、リユーサ等を知り、壁画、テンペラ画の研究製作に従つた。34年日本を訪れ翌年銀座青樹社に個展を開催、又ニ科会に出品した。37年母校の加州ピドモント・ハイスクールの壁画を製作、次で欧州を遍歴し、9月帰朝、新制作派協会の会員となつた。米国に於ける展覧会ではウツドスタツク美協会展、ニユーヨーク・ホイツトニイ全米作家展、シカゴ・アートインステチユート展、桑港美術協会展、ワシントンココランギヤラリー展等に出品、度々授賞せられてゐる。油絵の外に壁画を得意とし、米国に多数の作品を残してゐるが、来朝後は新制作派展に出品し、好んで小市民的な題材に幻想を求めた特異な画風を示してゐた。尚、本年度の新制作派展に遺作の特別陳列が行はれ、11月に春鳥会より「野田英夫作品集」が刊行された。

to page top