本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





一水隩二郎

没年月日:1938/06/05

洋画家一水隩二郎は6月5日逝去した。享年42歳。 元宮相一木喜徳郎男の二男として明治31年東京に生る。大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、昭和2年より5年迄外遊し、帝展に4回入選してゐた。

水木要太郎

没年月日:1938/06/01

奈良帝室博物館学芸委員水木要太郎は6月1日逝去した。享年70歳。十五堂と号す。 慶応元年愛媛県に生る。明治42年より昭和2年迄奈良女子高等師範学校教授として在職し、大正4年以降奈良帝室博物館に勤務してゐた。

牡鹿頂山

没年月日:1938/05/31

彫刻家牡鹿頂山は5月31日逝去した。享年39歳。 本名春吉、大正14年上京、羽下修三、関野聖雲、北村西望に師事す。旧帝展第7回より14回迄連年入選してゐた。

合田清

没年月日:1938/05/06

西洋木版画の先覚合田清は5月6日逝去した。享年77歳。 文久2年5月7日東京赤坂に生る。明治13年兄に随つて渡仏、始め農業学研究を志望したが、当時滞仏中の山本芳翠の勧めで西洋木版の研究に転じ、パリーのサン・ニコラ工業学校の教師で木版の大家なるバルバンの工場に約5年学び、次でチリア教授の下に職工として傭はれ、その間にサロンに入選した。 滞仏中松岡寿、原田直次郎、黒田清輝、五姓田義松、藤雅三等と交遊があり、同20年山本芳翠と共に帰朝し、帰国後、山本芳翠の下絵、合田清の製版で文部省教科書の仕事をした。その頃芝桜田本郷町に山本と共同で生巧館を新築し、2階を山本の画室、階下を製版工場とし、両人共門弟を養成、山本の方は生巧館画学校と称し、之は白馬会の前身となり、合田の方は生巧館木版部と称した。当時の日本橋金港堂、及び博文館出版物の挿絵、東京朝日新聞、東京毎日新聞等の附録木版を彫つた。会津磐梯山の爆発の際は朝日新聞の依頼で、山本が大形な木版台木を携へ、現地に急行写生して持帰り、合田が二日一晩で彫上げ新聞附録としたこともあつた。その後多数の門弟を養成、同22年には印刷局の依頼で、同館より暹羅へ木版講師を派遣した。一方版下に写真を応用する技術を写真師成田常吉に依頼研究の結果写真膜転置法が考案され斯界に大進歩を促した。尚当時朝日新聞の新年附録に応学筆「猛虎図」を新聞一頁大に彫刻印刷し賞讃を博した。其後同館は麻布簟笥町、赤坂溜池、渋谷伊逹跡等に次々に移転された。同29年東京美術学校に洋画科設置されるに及び、合田は仏語の講師に就任、爾後30年間勤続し、静かな余生を送つた。著述に「西洋木版昔話」(アトリエ社版)がある。

津端道彦

没年月日:1938/04/03

日本画家津端道彦は予てより神経痛のため加療中のところ4月3日逝去した。享年71歳。 明治元年10月21日新潟県中魚沼郡に生る。同19年上京、福島柳圃に南宗派を家び、同27年山名貫義に就て住吉派を、又29年旧平戸藩絵師片山貫道に土佐派を、又松原佐久に有職故実を学んだ。同35年日本美術協会歴史部の主事を委嘱され、同43年には同会第一部委員に嘱託された。又帝国絵画協会、巽画会の会員、日本画会の客員であつた。明治天皇、大正天皇の御前揮毫の光栄に浴したことがあり、文展では又2等賞1回、3等賞2回、褒状1回を受けた。又日本美術協会其他に於ては銀牌及銅牌を受けること数十回に及び5度宮内省御買上の栄に浴して居る。作品略年表明治35年 「足利忠綱宇治川先登」日本美術協会育英部展明治39年 「富士牧狩図」歴史展覧会明治40年 「嵯峨野の月」東京勧業博覧会明治41年 「勿来関」文展第2回3等賞明治42年 「龍田川図」襖4枚、大阪天満宮明治43年 「紅梅金鳩図」「紅葉白菊図」杉戸4枚、大阪天満宮明治43年 「闘鶏図」朝鮮総督府明治44年 「うたげの装」文展第5回褒状明治45年 「杣山会戦之図」屏風一双、日本美術協会展大正元年 「火牛」文展第6回2等賞大正2年 「真如」文展第7回3等賞其他 大本山総持寺紫雲台襖 大阪豊国神社「八十島祭絵巻」3巻、杉戸4枚

林明善

没年月日:1938/03/28

洋画家林明善は3月28日逝去した。享年40歳。 明治32年9月18日名古屋市に生る。智山大学卒業後大正14年上京し、川端画学校、同舟舎を経て、片多徳郎に師事した。帝展の第8、9、11、13回及び新文展第1回に入選、又昭和7年に第一美術協会の会員に推薦されて居た。尚昭和13年4月名古屋市鶴舞公園美術館に於て遺作展が開催された。

小林福太郎

没年月日:1938/03/26

建築学会、日本建築士会の正員で、社寺建築の専門家である小林福太郎は、3月26日逝去した。享年57歳。 明治15年11月東京に生る。同32年工学院造家学科を卒業、内務省社寺局に奉職し、又古社寺保存会に勤務、次で宮内省内匠寮に入り、日本趣味を基調とする建築の設計を担当した。大正8年日光廟修理工事主任として赴任し、主要建造物の大修理に従つた。明治神宮御造営に際しては其事務取扱を嘱託された。後年社寺建築設計事務所を自営し、その設計に係る社寺は全国各地に亙り甚だ多数に上つて居る。尚各県より国宝建造物修理工事監督として嘱託されて居た。

美澄政博

没年月日:1938/03/24

美術研究所嘱託美澄政博は3月24日逝去した。享年30歳。 山口県の生れで、昭和10年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年美術研究所の嘱託となり、同所の明治大正美術史編纂に従事してゐたものである。

和田不二男

没年月日:1938/03/06

恩賜京都博物館長正6位勲5等和田不二男は脳溢血の為3月6日逝去した。享年70歳。 明治26年岐阜師範学校卒業後小学校教員、視学を経て大正6年京都府知事官房主事となつた、退職後同15年恩賜京都博物館長に任ぜられ、爾後美術界の為に尽すところが多かつた。

松岡映丘

没年月日:1938/03/02

帝国芸術院会員松岡映丘は近年心臓性喘息を病み療養中3月2日小石川雑司ヶ谷の自宅で逝去した。享年58歳。 本名輝夫、明治37年東京美術学校を卒業、同41年同校助教授となり、大正3年文展に「夏立つ浦」を出品、大和絵に新機軸を示して注目され、次で5年吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織した。文展にはその後「室君」、「道成寺」、「山科の宿」を出品して特選を贏ち得た。同7年美校教授、8年帝展審査員に就任、同10年門下を率ゐ新興大和絵を提唱する絵画運動「新興大和絵会」を創立した。昭和4年帝展出品の「平治の重盛」が院賞となり翌5年伊太利展開催に際し渡欧、同年帝国美術院の会員を仰付られた。同7年の帝展には「右大臣実朝」を出品。同10年東京美術学校教授を辞し、国画院を創立して盟主となり、大和絵による新民族絵画の建立を提唱、同12年の第1回展に六曲一双屏風「矢表」を出品したが、之が大作の絶筆となつた。 制作の上では人物画を得意とし、武者絵を最も多く作つたが、常に典雅なる画格を備へ、又「室君」「伊香保の沼」等に於ては優婉な一面を発揮した。大正3年の「夏立つ浦」以来従来の土佐絵を現代的に再生し、普遍化するに大なる指導的役割を果した。 尚古来の絵巻物、武具服飾等の故実の方面に造詣深く、又教育者としても優れた業績を挙げ、更に演劇方面に貢献せる処も少なくなかつた。略年譜年代 年齢明治14年 7月9日兵庫県神崎郡田原村に生る。(松岡操五男)明治32年 19 東京美術学校日本画科に入学、丹青会展「北の屋かげ」出品明治37年 24 東京美術学校日本画科主席卒業明治38年 25 神奈川県立高等女学校教諭兼神奈川県師範学校教諭となる明治40年 27 神奈川県女子師範学校教諭を兼任、明治40年8月右教職を辞す明治41年 28 東京美術学校助教授となる大正元年 32 第6回文展「宇治の宮の姫君達」出品大正2年 33 第7回文展「住吉詣」褒状、宮内省御買上大正3年 34 第8回文展「夏立つ浦」大正4年 35 第9回文展「御堂関白」3等賞、政府買上大正5年 36 吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織、第1回展「いでゆの雨」「若葉の山」「春光春衣」、第10回文展「室君」特選制最初の首席大正6年 37 金鈴社第2回展小品数点、第11回文展「道成寺」特選2席大正7年 38 東京美術学校教授に任ぜらる 金鈴社第3回展「枕草紙絵巻」其他、第12回文展「山科の宿」特選主席大正8年 39 東京女子高等師範学校教授を兼任 金鈴社第4回展「紅玻璃」「燈籠大臣」、第1回帝展「目しひ」 第1回帝展審査員に推挙さる、御神宝桧扇絵の揮毫を嘱託さる大正9年 40 金鈴社第5回展「伊豆の絵巻」 第2回帝展審査員大正10年 41 金鈴社第6回展「銀鞍」其他、第3回帝展「池田の宿」 第3回帝展審査員、新興大和絵会結成さる大正11年 42 金鈴社第7回展「更級日記」其他、第4回帝展「霞立つ春日野」 3月平和記念東京博審査官嘱託、金鈴社解散大正12年 43 日本画会客員となる大正13年 44 第5回帝展審査員大正14年 45 第6回帝展「伊香保の沼」、第6回帝展審査員大正15年 46 第7回帝展「千草の丘」昭和2年 47 明治天皇御神像奉納昭和3年 48 第9回帝展「さ月まつ浜村」、同展審査員、静岡県茶業組合よりの献上画「富嶽茶園」を謹作、朝鮮ポスター展審査官、御大典奉納名古屋博及国際美術審査員昭和4年 49 第10回帝展「平治の重盛」院賞昭和5年 50 2月羅馬開催日本美術展の為渡欧、日本美術展「屋島の義経」「伊衡の少将」「時雨ふる野路」「東海」 第11回帝展「即興詩人」 帝国美術院会員仰付らる、新興大和絵会解散昭和7年 52 第13回帝展「右大臣実朝」昭和8年 53 5月第12回朝鮮美術展審査の為渡鮮 第14回帝展「花のあした」昭和9年 54 第15回帝展「安土山上の信長」昭和10年 55 9月国画院創立、東京美術学校教授を辞す昭和11年 56 明治神宮聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」を完成、文展第1回展審査員昭和12年 57 国画院第1回展「矢表」「後鳥羽院と神崎の遊女達」 帝国芸術院会員仰付らる昭和13年 58 3月2日没

小村大雲

没年月日:1938/02/20

日本画家小村大雲は2月20日郷里島根県簸川郡平田町に帰省中逝去した。享年56歳。 本名権三郎。明治16年島根県に生る。18歳の時、京都に出で、一時都路華香に師事したが、明治36年山元春挙塾早苗会に転じ、そこで名を成した。大正元年第6回文展出品の「釣日和」が3等賞となり、其後続いて3等賞を3回、特選を2回獲得し、同8年推薦され、その後は2度帝展の委員に就任した。文展、帝展の出品目録は左の通りである。文展第6回 「釣日和」3等賞文展第7回 「放ち飼」3等賞文展第8回 「憩ひ」3等賞文展第9回 「東へ」3等賞文展第10回 「画舫」特選文展第11回 「神風」特選文展第12回 「古代の民」帝展第1回 「佐登」推薦帝展第3回 「美哉蒼窮」帝展第4回 「剛敵」帝展第5回 「往時追懐」帝展第8回 「清風山月」帝展第9回 「梁風子」帝展第12回 「黄金の茶室」帝展第14回 「三蔵渡印」以上

関如来

没年月日:1938/02/20

美術評論家関如来は動脈硬化症の為、東京府立大塚病院に於て逝去した。享年73歳。 本名巌二郎、慶応2年11月16日大和櫛羅藩永井信濃守の家臣関祐忠の四男として葛城山下の藩地に生る。明治10年大阪府立大阪英語学校に入学、ついで東京大学予備門に転じ、同18年同校を退き、同27年読売新聞社に入社、文学及美術を担当した。同30年、一時帝国博物館の帝国美術略史編纂を嘱託され、又同年臨時博覧会事務局の事務を嘱託され、同32年には臨時博覧会鑑査官を仰付けられた。同31年日本美術院創立に参画し依つて天心よりその正員たらんことを求められたが受けなかつた。同35年読売を退社、美術史の著作に従事し、傍ら「ステユデイオ」社の日本通信員となつた。同43年読売に復社し美術部主任となつたが、大正3年退社した。昭和4年京都日出新聞社より聘せられてその発行人となり爾後京都に寓居した。読売入社当時訪問記事「当世名家蓄音器」を連載、その後31年の美術学校紛擾の際も美術記者として筆を揮つた。又29年より美術評論の執筆に生涯を終始した。「美術」「書画之研究」「関」等の雑誌を発行したことがあり、著者としては「当世名家蓄音機-文禄堂発行」、「五色の酒-春陽堂発行」があり、其他「日本靖献帖」の解説編輯、「霊華追悼画集」の編纂等がある。

渡辺晨畝

没年月日:1938/02/11

日本画家渡辺晨畝は2月11日逝去した。享年72歳。 慶応3年11月3日福島県安積郡多田野村に生る。荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としてゐた。大正7年支那に漫遊、北京に於て日華聯合絵画研究会を組織し、同10年及び13年に日華聯合展を開催、又昭和9年には新京に日満聯合展を開催した。満洲国皇帝の知遇を辱ふし、日満支三国美術の交驩に貢献せる処大であつた。尚、東方絵画協会幹事の任にあつた。

武田五一

没年月日:1938/02/05

正3位勲2等工学博士武田五一は急性肺炎のため2月5日京都の自宅で薨去した。享年67歳。 明治5年11月15日広島県福山市に生る。同30年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、同32年、同工科大学助教授に任ぜらる。翌33年文部省留学生として図案学研究のため英独仏に留学を命ぜられ、翌年3月出発、同36年帰朝した。同年京都高等工芸学校の教授に任ぜられ、同校図案科主任として大正7年迄在職した。この間京都工芸界に大なる貢献をなすと共に建築界に於ても指導的地位を保ち、即ち古建築方面に於ては同37年京都府技師を兼任して京都地方古社寺の修理保存に従事し、新建築界に於ては大蔵省臨時建築部技師を兼任して帝国議会議院建築に当初より参画し、諸官衙建築調査等のために欧米へ前後3回に亙つて出張して居る。大正4年工学博士の学位を受く。同5年法隆寺壁画保存法調査委員、翌年古社寺保存会委員となる。同7年名古屋高等工業学校長に転任し、兼ねて臨時議院建築局技師の任にあつた。当時京都帝国大学工学部の建築学科創立の事あり、その委員として尽力し、同9年同科の設置を見るや勅任教授に任ぜられ、主として建築計画法を講じ同科の今日の基礎を築いた。京都帝国大学に於ては教授たるに止らず、同11年其の建築顧問、同14年に大蔵省営繕管財局技師を兼ね、昭和4年より6年迄は営繕課長事務取扱として学内建築物造営に関与した。尚この時代は博士の建築活動の高潮期で幾多の作品を残して居る。工芸界に於ては大正元年農商務省第1回図案及応用作品展以来今日迄商工省工芸審査委員会の委員として、又各博覧会等の審査官として力を尽し、更に都市計画の方面に於ても京都、大阪、名古屋等の顧問として多大の貢献をなした。昭和6年欧米に出張し、同7年長年の教授の職を辞したが、建築界に於ける活動は毫も衰へず、最近の大作としては日本赤十字社京都支部病院、京都電燈株式会社等が挙げられる。晩年特記すべきは昭和9年4月法隆寺国宝保存工事事務所長及び同協議会委員に就任して、爾来4ヶ年国家的事業たる同寺国宝建造物保存事業に傾倒したことで、その大事業の半ばにして急逝し、学界の痛惜するところとなつたものである。多年京都に居住したため、関西方面の重要公共建築には殆んど関与せざるものなく、我国建築界の重鎮であつた。左に主なる建築作品の目録を掲載する。(以上「建築雑誌」52の639記事に依る)作品略年表明治32年 日本勧業銀行(旧)(東京市)明治32年 台湾神社明治38年 福島邸(旧)(東京市)明治40年 清野邸(京都市)明治42年 京都府記念図書館明治42年 富山県県会議事堂明治43年 京都商品陳列所(旧)明治44年 同志社女学校静和館(京都市)明治44年 伊藤博文公銅像台座(神戸市)明治45年 芝川邸(兵庫県)大正2年 同志社女学校ゼームス寮(京都市)大正2年 京都市二条橋大正3年 京都帝国大学文学部陳列館大正3年 京阪電鉄株式会社本社(大阪市)大正4年 桑港博覧会日本政府館迎賓館大正4年 京都商工会議所大正4年 佐久間象山先生遭難之碑(京都市)大正4年 求道会館(東京市)大正5年 稲畑邸(京都市)大正5年 兵庫県立農工銀行大正5年 山口県庁及県会議事堂大正5年 大阪朝日新聞社大正5年 御大典記念京都博覧会大正6年 龍安寺鳳凰閣(大阪府)大正6年 清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(兵庫県)大正6年 大阪電燈株式会社心斎橋陳列場大正8年 山王荘(東京市)大正8年 那覇市役所大正9年 清水寺山門・鐘楼(兵庫県)大正10年 北村本邸(奈良県)大正10年 京華社(京都市)大正10年 山口仏教会館(京都市)大正11年 勝田邸(神戸市)大正11年 京都帝国大学工学部建築学教室大正11年 浅沼銀行(大垣市)大正11年 阿部伊勢守正弘公銅像台座(福山市)大正1年 青柳邸(京都市)大正11年 小川邸(京都市)大正12年 東本願寺内侍所(京都市)大正12年 清水寺大塔(兵庫県)大正12年 藤本ビルブローカー門司支店大正12年 武道専門学校(京都市)大正13年 北村邸(和歌山市)大正13年 京都帝国大学本館大正13年 京都市医師会館大正13年 尼港遭難記念碑(東京市)大正13年 中之島公園音楽堂(大阪市)大正13年 京都銀行集会所大正13年 岐阜商工会議所大正14年 大阪工業試験所研究室大正14年 村瀬西洋料理店(京都市)大正14年 光明寺根本本堂(兵庫県)大正15年 星野邸(京都市)大正15年 藤井美術館(有隣館)(京都市)大正15年 中田商店(京都市)大正15年 電気大博覧会(大阪市)大正15年 持宝院大師堂(兵庫県)大正15年 田中別邸(京都市)大正15年 大阪市伏見橋大正15年 石黒ビルデイング(金沢市)昭和2年 奈良信託株式会社昭和2年 大平邸(京都市)昭和2年 阿部伯爵邸(東京市)昭和2年 島津製作所(京都市)昭和2年 大阪市渡辺橋昭和3年 天王寺公園音楽堂(大阪市)昭和3年 商工省京都陶磁器試験所本館昭和3年 岩倉文庫(京都府)昭和3年 大阪鉱業監督局昭和3年 大阪毎日新聞社京都支局昭和3年 岐阜市公会堂昭和3年 高野山大学図書館(和歌山県)昭和3年 三井相続会館(京都市)昭和3年 御大礼京都博覧会昭和3年 御大礼京都市街路装飾昭和3年 華頂会館(京都市)昭和3年 京都日出新聞社昭和3年 大阪市四ツ橋昭和3年 六鹿邸(京都市)昭和3年 春田文化集合住宅(名古屋市)昭和4年 大阪市浪速江橋昭和4年 山代温泉共同浴場(石川県)昭和4年 三宅清次郎商店(京都市)昭和4年 永平寺大光明蔵(福井県)昭和4年 学士会京都支部会館昭和5年 河野邸(兵庫県)昭和5年 福山市役所昭和5年 伊谷邸(京都市)昭和5年 高野山癸亥震災霊碑堂昭和5年 大阪市桜宮大橋昭和5年 中山邸(兵庫県)昭和5年 東方文化学院京都研究所昭和5年 石黒邸(金沢市)昭和5年 山中町共営浴場(石川県)昭和6年 熊本医科大学山崎博士記念図書館昭和6年 高知県立城東中学校昭和7年 同志社女学校栄光館(京都市)昭和7年 藤山邸(東京市)昭和7年 京都薬学専門学校昭和8年 円教寺摩尼殿(兵庫県)昭和9年 高野山金剛峯寺金堂及根本大塔昭和9年 日本赤十字社京都支部病院昭和10年 新大阪ホテル昭和10年 沢田邸(神戸市)昭和11年 黒谷金戒光明寺大方丈併附属建物(京都市)昭和11年 山中観光ホテル(石川県)昭和11年 法隆寺鵤文庫(奈良県)昭和11年 杉山邸(兵庫県)昭和12年 京都電燈株式会社工事中 法隆寺宝蔵

山桝儀重

没年月日:1937/12/25

日本美術学校長山桝儀重は、腎臓病の為12月25日逝去した。享年49。鳥取県の出身で、京都帝大文科を卒業後師範学校教諭、大阪視学に歴任、現在は鳥取新聞社長で、大正13年以来代議士に選出されて民政党に属し、岡田内閣当時は松田文相の下に文部参与官に任ぜられた。昭和11年故紀淑雄の後を承けて日本美術学校長に就任してゐた。

長野宇平治

没年月日:1937/12/14

元日本建築士会々長。工学博士長野宇平治は12月14日逝去した。慶応3年越後高田に生る。明治26年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業後、奈良県技師日本銀行技師を経て、大正2年建築設計監督事務所を開設し、同4年工学博士の学位を授けられた。同7年渡米。昭和2年、日本銀行増改築の為、臨時建築部設置せられ其の技師長の任に就いて居た。尚大正6年日本建築士会々長に選任され爾後数回再選されて居る。在世中設計監督せる主なる建築物は左の通りである。明治28年 奈良県庁舎明治39年 日本銀行名古屋支店明治39年 日本銀行京都支店明治44年 日本銀行函館支店明治45年 日本銀行小樽支店大正2年 日本銀行福島支店大正4年 志立鉄次郎邸大正5年 三井銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行下関支店大正8年 三井銀行下関支店大正9年 明治銀行金沢支店大正9年 日本興業銀行大阪支店大正10年 三井銀行日本橋支店大正11年 日本銀行岡山支店大正12年 明治銀行本店大正12年 明治銀行大阪支店大正12年 三井ビルデイング大正14年 三井銀行広島支店大正14年 鴻池銀行本店昭和2年 横浜正金銀行東京支店昭和2年 亀島広吉邸昭和2年 藤井栄三郎邸昭和2年 日本銀行神戸支店昭和11年 日本銀行広島支店昭和7年 日本銀行本店増築(第一期工事)昭和10年 日本銀行本店増築(第二期工事)昭和13年 日本銀行本店増築(第三期工事)建築設計競技応募明治42年 台湾総督府庁舎大正元年 大阪市公会堂

高橋箒庵

没年月日:1937/12/12

茶人として又研究家として聞えた高橋箒庵は、豫て病気の処12月12日赤坂の自邸で逝去した。享年77。本名義雄。文久元年水戸に生る。明治15年慶応義塾卒業時事新報記者となり同24年三井銀行に転じ、それより三越理事、三井鉱山理事、王子製紙会社々長等を歴任、昭和10年三越取締役に選ばれ今日に至つた。茶道、花道に造詣深く、50歳にして身を著作界に投じ、「東都茶会記」を始め「大正名器鑑」、「水戸学」、「近世道具移動史」、「箒のあと」等著作頗る多い。

曾禰達蔵

没年月日:1937/12/06

建築学会名誉会長、工学博士曾禰達蔵は12月6日急性腸閉塞の為め逝去した。享年86。嘉永5年江戸に生れ、明治12年当時の工部大学校第一期生として卒業、本邦近代工学の揺籃時代より明治大正昭和を通じて我国工学界の発達の為に貽した功績は偉大であつた。 略歴―明治12年工部大学造家学科を卒業後、同年工部8等技手に任命営繕局出勤となり、14年工部大学校助教授に、次で19年工科大学助教授、又同年海軍4等技師に任ぜられ、22年呉鎮守府建築部長仰付けられ翌年同官を免ぜらる。同年三菱社に入社、26年震災予防調査会委員となり、又同年帝国大学より米国シカゴ博覧会の鉄造家屋取調を嘱託されて渡米した。32年工学博士の学位を授けられ、34年岩崎久弥男に随行して英国ロンドンへ出張、39年三菱を退社し同社建築顧問となり、自ら建築事務所を開設した。40年東京勧業博覧会審査官を嘱託せられ、翌年中条精一郎と共同にて曾禰中条建築事務所を開いた。又東京高等工業学校講師を嘱託された。大正7年臨時議院建築局顧問仰付けられ、同9年正5位に叙せらる。14年営繕管財局顧問仰付けられ、同年震災予防評議員を仰付けられた。 其の建築作品に就ては日本建築士誌(第22巻第3号)は第一期海軍省時代、第二期三菱社及び三菱合資会社時代、第三期曾禰中条建築事務所時代の三期に分けて幾多の作品を紹介して居るが、第二期の作品である初期三菱諸建築及第三期の東京海上ビルチング、日本郵船ビルヂング、有楽館、華族会館、慶応義塾諸建築等は其の主要なる作品である。

加賀月華

没年月日:1937/11/24

陶磁作家加賀月華は11月24日逝去した。本名常次郎。明治21年桑名町に生れ、大正11年より桑名の物産として名ありし万古窯の再興を図り、地元の赤須賀に築窯して古万古の作風を学び今日に至つた。帝展文展には昭和4年以来連年入選、其他日本美術協会、商工省工芸展等に出品し、屡々受賞してゐた。

八条弥吉

没年月日:1937/11/04

洋画家八条弥吉は11月4日千葉医大附属医院に於て逝去した。明治10年大阪府に生れ、同34年東京美術学校洋画科を卒業、日露戦役に大阪毎日新聞社特派員として従軍した。同43年第4回文展に「茶屋」を出品、3等賞を受領。大正11年渡仏、翌年帰朝。昭和11年度文展招待者に推され「斜陽の庭」を出品、同12年第1回文展に「南総風景」を出品した。

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