本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





佐崎霞村

没年月日:1939/01/09

木彫家佐崎霞村は病気のため1月9日逝去した。享年62歳。本名宗二、明治11年3月22日、造園師佐崎宗平(号可村)の次男として東京に生れた。初め京都の大仏師内藤光石に入門し、24歳の時上京して竹内久一に師事した。大正11年帝展に初入選し、昭和5年大作「執金剛神」が特選となり、無鑑査に推された。帝展には常に薄肉彫刻仏像を出品し、「聖観」「不動」「寂光」等が主なもので又毎回日本木彫会に出品したほか、昭和11年に比叡山阿弥陀堂本尊の木彫丈六如来像を制作し、同13年には浅草本願寺別院内陣蟇股彫刻を製作してゐた。

比田井天来

没年月日:1939/01/04

帝国芸術院会員比田井天来は宿痾のため1月4日64歳を以て逝去した。本名鴻、長野県の出身、故日下部鳴鶴の高弟で、書道の大家であつた。

彭城貞徳

没年月日:1939/01/04

洋風画家彭城貞徳は、1月4日逝去した。享年82。安政5年2月11日長崎市に生る。同市の宏運館に学び、明治5年上京、同8年高橋由一の天絵学舎に入り、洋風画を初めて学ぶ。同9年工部美術学校に入学アントニオ・フオンタネージの薫陶を受く。其後一時石版会社玄々堂の図案部に入り、次で17年長崎に帰郷、長崎商業学校等に教鞭をとる。明治26年米国市俄古万国博覧会に際し渡米、費府美術学校に学ぶ。28年英国に渡り、ウオータールー石版会社に入り図案家として働く。明治30年仏蘭西に至り、滞留5年の後同34年帰朝す。36年長崎に帰郷、東山学院、鎮西学院、活水女子校等に生徒を指導し、傍ら画塾を開く。大正4年上京日本橋芳町に商家を構へ、余暇制作す。終世中央画壇との交渉を有たず知らるるところ尠かつたが、その作品は一種の風格を持つてゐる。又音楽に趣味を持ち、就中尺八は二代目一調として知られてゐた。

ブルノー・タウト

没年月日:1938/12/24

独逸の建築家ブルノー・タウトはトルコ、イスタンブールに於て脳溢血のため旧臘24日逝去した。享年59歳。昭和8年来朝して、3ヶ年余り日本に滞在、高崎市外少林山に寓居し、我が国の古建築及び文化全般に就て研究を続けた。「ニツポン」「日本文化私観」をはじめ数種の著述がある。滞在中、自己の建築作品は終に残さなかつたが、商工省工芸指導所及び高崎工芸指導所に関係して、工芸の方面に於て忘却し得ぬ大いなる業績を残した。11年秋トルコ、イスタンブール国立大学に教授として招聘を受け、我が国を去つた。

小川芋銭

没年月日:1938/12/17

日本美術院同人小川芋銭は1月以来中風のため茨城県牛久沼畔の自宅に於て静臥療養中のところ12月17日逝去した。享年71歳。少年時代本多錦吉郎画塾に洋画を学び、又同時に日本画をも独学し、同40年前後には平民新聞、読売新聞等に主として農民を主題とした漫画を執筆、大正4年迎へられて珊瑚会々員に、同6年日本美術院同人に推薦された。 明治29年以降は概ね郷里牛久に住し、専ら沼畔の風物に取材した。仕事は姶んど水墨及び水墨淡彩に一貫し、東西画の素養に基く独自の南画を創作して後年の構図、筆意の逞しさは宋元画に想到せしむるものがある。晩年は漂渺として明快に向ひ、六曲一双「江村六月」或ひは二曲一双「桃花源」は其の人柄と特色を示すと共にこの作者として珍らしい大作であらう。尚、書及び俳諧にも造詣があり、老荘の学に親しみ、好んで河童を描いたことは有名である。画号は明治20年頃より大正10年頃まで牛里(俳句に多く用ゆ)、草汁庵、芋銭、大正11年頃より晩年まで芋銭子、莒飡子等を用ひ、昭和3年頃稀に字銭子を用ひた。略年譜年次 年齢明治元年 2月18日赤坂溜池、山口筑前守藩邸に、小川伝右衛門賢勝の長男として生る。幼名不動太郎、後茂樹吉と改む明治4年 4 一家山口氏旧領牛久村に帰農明治11年 11 東京に出で京橋区新富町某小間物商の丁稚となる、此頭より余暇を偸みて絵を学ぶ明治13年 13 親戚本多錦吉郎の画塾彰技堂に洋画を学ぶ明治17年 17 濁力洋画の研修に従ひ、又市隠抱朴斎に就て漢画を問ふ明治19年 19 機縁ありて加地為也に画事を問ふといふ明治21年 21 朝野新聞に客員となる明治24年 24 此頃朝野新聞に漫画を掲載、初めて芋銭の号あり明治26年 26 父の命により帰国し農事に従ふ、余暇を愉みて画作す、翌々年妻を迎ふ明治40年前後 同30年頃以降、いばらき新聞、雑誌文芸界、平民新聞、東亜新報、国民新聞、雑誌ホトトギス 読売新聞等に挿絵、漫画等を描く明治41年 41 「草汁漫画」を刊行す明治44年 44 東京三越に小杉未醒と共に芋銭未醒漫画展を開く大正4年 48 平福百穂、川端龍子、森田恒友等の組織する珊瑚会々員となる大正6年 50 珊瑚会第3回展出品「水郷二題」外4点 日本美術院同人となる、同院第4回展出品「沢国五景」大正7年 51 院展第4回試作展出品「雪景」、珊瑚会第4回展出品「百魔絵巻」「虚陵米価」等、院展第5回「峡谷朝雷」「峡谷秋草」「陶土之丘」大正8年 52 珊瑚会第5回展「抱甕痴」、院展第6回「樹下石人談」、同院同人作品展「恍惚郷」大正10年 54 日本美術院米国展出品「水虎と其脊族」「若葉に蒸さるゝ木精」、院展第8回「山彦の谷」大正11年 55 同院第8回試作展「朧夜」、院展第9回「沼四題」(桧原、鰌取り、小鰕漁、家鴨小屋)大正12年 56 同院第9回試作展「白雲想」、院展第14回「水魅戯」、茨城美術展創立会員となり、「樹間如水人如魚」を出品大正13年 57 同院第10回試作展「新緑潤国土」院展第11回「夕風」「芦花浅水」大正14年 58 同院第11回試作展「月輪穿沼」、院展第12回「野干燈」大正15年 59 聖徳太子奉讃展出品「早夏清朝」、院展第13回「丹陰霧海」昭和2年 60 同院第12回試作展「雪姥と黒狐」昭和3年 61 院展第15回「浮動する山岳」「荒園晴秋」、還暦記念として「芋銭子開七画冊」を刊行昭和4年 62 同院第14回試作展「畑のお化け」、院展第16回「止水」「怒涛」昭和5年 63 院展第17回「積雨収」「太古香」、羅馬開催日本美術展出品「河伯安住所」昭和7年 65 同院第16回試作展「十二橋」、院展第19回「海島秋来」昭和9年 67 院展第21回「反照」昭和10年 68 帝院改組に当り参与に推さる、日本美術院第19回試作展「長沙散歩」、8月「雲巒煙水」「江村六月」六曲塀風一双成る、院展第22回「雪巒煙水」昭和11年 69 帝国美術院第1回展「暁烟」、院展第23回「聴秋」昭和12年 70 院展第24回「湖上迷樹」、11月日本橋東美倶楽部に、草汁会主催の名を以て自己発意による古稀記念新作展開催、「新嘗之慈雲」外約60点出品、古稀記念として「芋銭子開八画冊」刊行昭和13年 71 2月東京俳画堂より「河童百図」公刊、12月17日没(主として「故小川芋銭遺作展」目録による)

長尾建吉

没年月日:1938/12/03

磯谷額縁店主、嶽陽長尾建吉は、郷里静岡に於て静養中の処12月3日逝去した。行年79歳、高輪泉岳寺に葬られた。額縁製造業の創始者として、又数多の作家の恩人として、多年我が洋画壇の為に尽した功労者であつた。 万延元年2月10日、静岡市磯谷利右衛門三男として生る。15歳の時東京日木橋斎藤商会店員となり、明治11年19歳にして、巴里万国博覧会へ松方総裁随行員として渡欧、翌年静岡県嘱託として濠洲シドニー博覧会へ出張、同年帰朝した。同13年3月渡米、5月小村侯等と英国に渡り、更に巴里に於て洋風家具を学んで、翌年帰朝、長尾家の養嗣子となつた。同22年上京し、山本芳翠と共に洋風家具及額縁の研究に従ひ、同25年芝愛宕町に洋画専門の額縁製造業を始めた。其後京都、大阪博覧会の洋画陳列を依託され、又同36年には、東京音楽学校に於ける日本最初の歌劇「オルフオイス」の背景を山本芳翠を援けて製作した。同37年常設展覧会場を京橋区竹川町に設け、翌38年工場及び店を芝区に移し、磯谷商店となし、美術雑誌「L・S」を創刊した。同41年文展の陳列を命ぜられ、現在に及ぶ。大正3年大正博覧会に出品、金賞受領、同13年東京日日新聞社より美術界功労者として、金賞を受く。明治37年の有栖川宮家に於ける室内装飾金箔工事をはじめ、赤坂御所、聖徳記念絵画館等の額縁工事を承つて居た。昭和4年知友主催で鶴見花月園に於て、古稀生別会を催した。故人の伝記には、「嶽陽長尾健吉」(長尾一平編纂)がある。

倉田白羊

没年月日:1938/11/29

春陽会々員、元日本美術院同人倉田白羊は宿病の糖尿病のため11月29日逝去した。享年58歳。 本名重吉。浅井忠の門人で、明治34年東京美術学校を卒業後太平洋画会々員、雑誌「方寸」同人、日本美術院同人を経て大正11年同志と共に春陽会を創立して現在に及んだ。文展の「つゆはれ」、院展の大作「冬」等は青年期の代表作で穏やかな構想に成るが、大正12年以降信州の山村風物を主題として、比較的小品に於て厳格な客観描写を追求した。昭和9年以後、大作の製作へ掛り、「たそがれ行く」「たき火」「冬野」を次々完成、独自の格調を築き上げたものである。略年譜年次 年齢明治14年 12月25日儒者倉田幽谷の末子として埼玉県浦和に生る明治27年 13 中兄の弟次郎没するに及び、其の遣業を継がんことを志して親戚浅井忠の門に入る。弟次郎は浅井に師事し、明治美術会の会員で同年24才を以て夭折した明治31年 17 明治美術会の準通常会員となり、同年東京美術学校に入学、浅井教室に学ぶ明治34年 20 同校洋画科専科を首席卒業。群馬県沼田中学校に奉職明治35年 21 1月太平洋画会創立、その会員となる明治37年 23 沼田中学校を辞職、時事新報社に入社明治40年 27 文展第1回出品「つゆはれ」明治41年 28 文展第2回「牝牛」明治42年 29 時事新報社を退社明治43年 30 文展第4回「小倉山の微雨」同年より翌年にかけて雑誌「方寸」を編輯す大正元年 32 文展第6回「川のふち」大正3年 34 新画材を求めて小笠原島に移住、押川春浪同行す。当時春浪の主筆たりし武侠世界社に関係して居た。同年薯書「洋画の手ほどき」発行。(発行所東京神田、鳥田文盛館)大正4年 35 小笠原島より帰る。帰京後日比谷美術館に於て小笠原島滞留作品40点を発表す。同年再興日本美術院洋画部同人に推挙された。院展第2回出品「葡萄を採る男」大正5年 36 院展第3回「蝦蟇仙人」大正6年 37 院展第4回「投網帰り」外3点 同年東京より房州に移る大正7年 38 院展第5回「もろこし」外2点大正8年 39 院展第6回「防風林」外6点大正9年 40 院展第7回「冬」(大作)。第7回展終了後洋画部同人5名と共に連盟脱退した。大正11年 42 同志6名と共に春陽会を創立した。同年の暮山本鼎の創立にかかる日本農民美術研究所の事業を援くる為房州より信州上田市に移転す大正12年 43 春陽会第1回展「冬の林檎畑」外11点大正13年 44 春陽会第2回展「夏の林檎畑」「信濃の家」外7点大正14年 45 春陽会第3回展「冬の段畑」外3点大正15年 46 春陽会第4回展「雑木の丘」外4点昭和2年 47 上田市の東北に定住、春陽会第5回展「冬の麗日」「雑木の丘」外1点昭和4年 49 春陽会第7回展「崖を負ふ家」「庭の隅」同年2月銀座資生堂で個展開催昭和5年 50 春陽会第8回展「夏蠶の頃」「葡萄棚」「山ふところの小村」「深秋の烏帽子嶽全容」を始め計20点昭和6年 51 春陽会第9回展「雪後の桑園」外4点昭和7年 52 春陽会第10回展「秋の風景」「冬のよき日」外3点昭和8年 53 春陽会第11回展「つゆばれ」「とび色の頃」等昭和9年 54 銀座資生堂に於て個展開催。春陽会第12回展「たそがれ行く」(大作)外2点。「随筆雑草園」を四谷区竹村書房より発行昭和10年 55 春陽会第13回「たき火」(大作)等。尚「たき火」製作に際して、過労のため危く失明に瀕した。晩年視力減じ、仕事も半人前なりとの意にて好んで「半人忘斎」と号す、春、木版彫刷「半人三字文」を上枠(彫刷中西義男)昭和11年 56 春陽会第14回展「白き部落」「朝の葡萄園」等6点、銀座三昧堂にて個展開催、主として房州太海滞在中の小品を発表昭和12年 57 長野県上小教育会に於て講演集「美育談片」を編輯発行。大阪美交社にて個展開催、近作27点発表「初冬果園」「冬の崖」「山居の秋」「村の店」等。春陽会第15回展「冬景色」「冬野」(大作)「朝鮮牛」(大作)等昭和13年 58 春陽会第16回展不出品。9月以降は失明した。11月29日没

濱田増治

没年月日:1938/11/27

商業美術家濱田増治は十一月二十七日脳溢血の為逝去した享年四十七歳。 明治二十五年十月十五日大阪に生る。大正三年東京美術学校に彫刻を学び、在学中より雑誌に挿絵漫画を執筆。同五年頃同士と赤鳥社を組織して絵画を発表し、又太平洋画会に抽象表現主義の作品を出品した。同八年コドモ雑誌の編集主任となり、又会社に入り、広告図案、装飾設計等に従った。同十年、一時、図案事務所を経営したが、後新聞社に入り漫画挿絵を担任、又美術批評を執筆しその傍ら雑誌「広告と陳列」(後に広告界)の編集に関与した。同十五年商業美術家協会を有志と共に創立し、その創作展を逐年東京府美術館に開催した。昭和三年現代商業美術全集の編集委員長となり、二ヵ年を費して二十四巻を完成、同四年銀座に商業美術研究所を創立した。その後、新聞社其他の商業美術関係諸事業に関係し、七年に戸塚町に商業美術構成塾を創立、塾生の指導に従って居た。著述は商業美術総論(アルス発行)、商業美術教本上下二巻(富山房発行)、商業美術教科書上下二巻(富山房発行)、商業美術大意及び読本(高陽書院発行)、商業美術講義(富山房発行)、商業美術構成原理(高陽書院発行)、商業美術教本二巻(富山房発行)、商業美術講座五巻(アトリエ社発行)等がある。

アンリ・ユルリツク・オダン

没年月日:1938/11/08

日本美術の研究家として知られた仏人アンリ・ユルリツク・オダンは11月8日東京杉並区の自宅で逝去した。 安政6年11月30日、デイジヨン市に生れ、明治15年巴里法科大学に入学、傍ら美術の研究に従事し、其後絵画研究視察のため西班牙、伊太利、白耳義、和蘭、独逸、墺太利諸国の美術館を訪ねた。明治32年初めて日本に来り同年帰国せるも、翌33年再度来朝、京都に居住、日本絵画の研究に従ひ、同40年に短期間帰国をなしたる外同44年迄滞在。大正9年4度来朝し、同11年帰国。昭和8年仏国文部省の美術囑託を兼ね、5度来朝し、東京に定住した。同11年文化に関する勲功により勲5等瑞宝章を授けられた。著述に「オダン蒐集画集」がある。

木島桜谷

没年月日:1938/11/03

旧帝展審査員木島桜谷は最近神経過労症に悩みつつあつたが11月3日大阪府枚方附近に於て京阪電車に触れ不慮の災禍の為急逝した。享年62歳。 本名文治郎、字文質、別に龍池草堂主人、聾廬迂人の号を用ひた。明治10年3月6日京都の商家に生る。少年の頃より今尾景年の門に入り傍ら儒者山本亡羊に就て経学を修めた。明治32年全国絵画共進会に「瓜生兄弟」を出品して営内省の御買上に浴したが之が出世作となつた。次で文展第1回出品の六曲一双「しぐれ」が2等賞を受領し、その後勢に乗じて毎回赫々たる成績を続け、名声を馳せた。爾後数次に亙り文帝展審査員に選ばれたが、帝展第14回に「峡中の秋」を出品、某の後は展覧会作品を示さなかつた。人となり志操堅固を以て聞え、晩年は筆硯に尊念する外は詩書を友として世交より遠ざかつてゐた、その画風は四条円山の形式を継承しつつ己の工夫を加へ平明な親しみある筆意を示して居た。作品年譜明治32年 金国絵画共進会「瓜生兄弟」3等9席明治33年 美術協会展「野猪」2等1席明治34年 美術協会展「剣の舞」3等5席明治35年 美術協会展「咆哮」2等1席明治36年 内国勧業博「揺落」3等明治37年 美術協会展「桃花源」2等1席明治38年 美術協会展「古来征戦幾人回」4等1席明治39年 美術協会展「奔馬」明治40年 美術協会展「田舎の秋」2等1席明治40年 文展第1回「しぐれ」2等明治41年 文展第2回「勝乎敗乎」2等明治42年 文展第3回「和楽」3等明治43年 文展第4回「かりくら」3等明治44年 文展第5回「若葉の山」2等大正元年 文展第6回「寒月」2等大正2年 文展第7回「駅路の春」審査員大正3年 文展第8回「涼意」無鑑査大正4年 文展第9回「うまや」大正5年 文展第10回「港頭の夕」大正6年 文展第11回「孟宗薮」大正7年 文展第12回「暮雲」大正10年 帝展第3回「松籟」大正11年 帝展第4回「行路難」大正13年 帝展第5回「たけがり」大正14年 帝展第6回「婦女三趣」大正15年 帝展第7回「遅日」昭和2年 文展第8回「灰燼」昭和3年 文展第9回「えもの」昭和5年 文展第11回「望郷」(?奴に於ける蘇武)昭和6年 文展第12回「画三昧」昭和7年 文展第13回「つのとぐ鹿」昭和8年 文展第14回「峡中の秋」

森村宜稲

没年月日:1938/10/04

日本画家、日本美術協会審査員森村宜稲は予て神経痛の為名古屋の自宅に於て加療中の処10月4日急性肺炎のため逝去した。享年68歳。 幼名悌二、雲峰と号し、別に稲香村舎と号した。明治4年12月26日儒者森村宜民の子として名古屋に生る。幼にして木村雲渓の門に入り、後また日比野白圭に就て大和絵を学んだ。古くより日本美術協会に出品し、後同会の審査員となり、又文展に出品して、昭和6年帝展推薦に挙げられた。主として大和絵の手法を継承し、又雪舟、探幽に私淑し、殊に晩年は田中納言、浮田一蕙の研究に従ひ、自らは多く省筆の作に特色を発揮し小品を得意とした。代表作には展覧会出品画の外に聖徳記念絵画館の壁画がある。尚稲香画塾を開いて門下の養成に当つて居た。作品略年譜文展以前「志賀寺花見」 明治24年京郡絵画共楽会出品、2等賞御用品「信長」 名古屋共進会「栄華物語田植」 日本美術協会「万蔵楽」 日本美術協会「春宵」 明治画会「雨中江村」 明治画会「鴬宿梅」 久迩宮殿下御下命画文帝展大正元年 旧文展第6回「尚歯会」褒状大正3年 旧文展第8回「奈良祭」大正4年 旧文展第9回「勅箭」大正15年 帝展第7回「野干」昭和2年 帝展第8回 「六代乞請」昭和7年 帝展第13回「火柱妙供」昭和8年 帝展第14回「小瀬餌飼」昭和9年 帝展第15回「槙立つ山」昭和11年 文展第1回「西行と聖」昭和12年 文展第1回「颶風」其他日本美術協会、東海美術協会毎年出品聖徳記念絵画館壁画「農民収穫御覧」桑港博出品「奈良祭」金牌受領日独展 「鶉」米国展 「鴛鴦」仏国展 「養老行幸」日満展 「芦葉神祖」

西村五雲

没年月日:1938/09/16

帝国芸術院会員西村五雲は宿病の糖尿病のため京都府立病院に入院加療中のところ9月16日逝去した。享年62。 明治23年岸竹堂に師事し、同26年日本美術協会に初出品入賞した。師の没後、同32年竹内栖鳳の門に入つた。大正2年京都市立美術工芸学校の教諭に就任同3年夏頃より病床に臥し、大正7年頃に至り漸く病臥のまま小品製作に着手し得るやうになつた。同9年帝展委員に推薦せられ、13年京都絵画専門学校教授に任ぜられた、昭利8年帝国芸術院会員を仰付られ、同11年絵専教授を辞した。 主に病気が凶で大作は寡なく、文展出品の「咆哮」「まきばの夕」「秋興」、帝展の「日照雨」「秋茄子」及び新文展の「麦秋」等がその主なもので、概して花鳥、魚貝、菜果を主題とする小品に数多くの製作を残した。 竹堂、栖鳳両師の画風を摂取し、就中栖鳳の筆意を祖述せる点で其の後継者としての地位にあつたが、衷に自らの写実に発する領域を拓きつつ、渾然として穏雅な画格を完成して居た。尚長年画塾晨鳥社を開いて門下の育成に当つた。略年譜年次 年齢明治10年 11月6日京都市に生る。本名源次郎明治23年 14 岸竹堂に学僕して入門す明治26年 17 日本美術協会展「菊花図」出品、褒状明治30年 21 岸竹堂に死別す 全国絵画共進会「梅花双鶴」4等賞。後素青年会「虎」第9席明治32年 23 第2回全国絵画共進会「群鷲争餌」4等賞、竹内栖鳳に師事す明治33年 24 京郡美術協会「柳岸薫風」3等賞明治36年 27 第5回内国勧業博覧会「残雪飢虎」褒状明治40年 31 文展第1回「白熊」3等賞明治43年 34 京都美術学校教諭心得被命明治44年 35 文展第5回「まきばの夕」褒状大正2年 37 文展第7回「秋興」褒状 京都市立美術工芸学校教諭に被任大正3年 38 夏頃より神経衰弱症の為病欧大正7年に及ぶ大正7年 42 此年あたりより病欧のまヽに小品制作始まる大正11年 46 日仏交換展「老猿」大正13年 48 第5回帝展委員被仰付。京都市立絵画専門学校教授被補。大正14年 49 第6回帝展審査員大正15年 50 第7回帝展審査員昭和2年 51 第8回帝展審査員昭和4年 53 巴里日本美術展「冬の渓流」「五月晴」 第10回帝展審査員昭和5年 54 羅馬開催日本美術展「淡光」昭和6年 55 伯林現代日本美術展「閑日」。米国トレド日本画展「午間」。暹羅展「栗鼠図」。帝展第12回「日照雨」文部省買上。同展審査員昭和7年 56 帝展第13回「秋茄子」宮内省御買上昭和8年 57 帝院会員被仰付。大礼記念美術館評議員を依囑さる。京都市美術教育顧問依嘱せらる。昭和9年 58 珊々会第1回展「冬暖」昭和10年 59 珊々会第2回展「砂丘」昭和11年 60 京都市立絵画専門学校教授を辞す。昭和12年 61 帝国芸術院会員被仰付 春虹会展「猿猴」、文展第1回「麦秋」文部省に寄贈、同展審査員三越綜合展「虎」昭和13年 62 第3回京都市展「園裡即興」市質上。本山竹荘依囑の「秋霧」2尺5寸横物絶筆となる。

青柳喜兵衛

没年月日:1938/08/28

元旺亥社同人青柳喜兵衛は8月28日逝去した。享年35歳。福岡に理葬された。 明治37年1月1日筑前博多に生れた。早稲田大学商科に学び、傍ら川端画学校に学ぶ。大正14年吉村芳松に帥事した。同15年以降帝展に毎回入選、昭和6年春槐樹社の無鑑査に推薦され、同11年文展無鑑査に推薦された。代表作品としては「アトリエにて」(200号)、「妊婦」(150号)、「風船を配せる図」(120号)、「千子の壁」(80号)等がある。

橋本独山

没年月日:1938/08/15

臨済宗相国寺派前管長橋本濁山は胃癌の為8月15日相国寺内林光院で遷化した。享年70歳。 明治2年越後に生れ、少年の頃画家を志し、富岡鉄斎に帥事したことがあるが、中年出家して峨山和尚の法を嗣ぎ明治42年相国寺派管長となり、昭和8年迄其の職にあつた。南苑、流芳、対雲等と号し、其の禅余に揮毫せる書画は夙に世の重んずるところとなつてゐた。

福井謙三

没年月日:1938/08/03

春陽会出品者福井謙三は、昭和13年8月3日房州太海々岸に於て不慮の死を遂げた。 明治37年4月19日、榊戸市に生る。大正13年東京美術学校洋画科に入り、長原孝太郎、小林万吾、岡田三郎助に師事、在学中帝展第9回(昭和3年)に初入選した。同4年卒業と同時に渡仏、同7年帰朝した。同9年銀座資生堂に帰朝第1回個展を、翌年新宿ノーヴにて第2回展を開いた。春陽会には第7、12、13、15回等に出品、「アカデミーにて」「赤い服」「読書」「ボンネツト」等の作品があり、同会に於て将来を期待されて居た作家である。「福井謙三画集」(造形文化協会発行)がある。

後藤泰彦

没年月日:1938/07/29

構造社会員後藤泰彦は昭和13年5月出征し、中支戦線に於て伍長として奮戦中7月29日敵弾を受け、名誉の戦死を遂げた。明治35年4月3日、熊本県に生る、昭和4年妻子を郷里に残し単身上京、一時彫刻家田島亀彦に師事したが、後彫塑を独修し、昭和5年構造社展に初入選し、同7年会友に、同9年会員に推薦され現在に至った。晩年の作品として「黎明」「李氏騎馬像」「永井柳太郎氏像」等がある。尚構造社第12回展に於て、遺作を陳列した。

浜田耕作

没年月日:1938/07/25

京都帝国大学総長正3位勲2等浜田耕作は7月25日薨去した。享年58歳。京都帝国大学に於て学葬が行はれた。 明治14年2月22日、大阪府南河内郡に於て、浜田源十郎の長男として生る。明治38年東京帝国大学文科大学史学科を卒業、引続き大学院に入学し、又暫く雑誌「国華」の編輯に従つたが、同42年京都帝国大学文科大学講師を嘱託され、次で大正元年考古学研究の為、英、仏、伊に満3箇年留学を命ぜられた。同2年同文科大学助教授に、同6年教授となり、考古学講座を担当し、翌7年文学博士の学位を授けられた。同14年京大評議員を命ぜられ、昭和2年欧米へ出張、翌年帰国した。同4年東方文化学院理事に就任、また国宝保存会委員を仰せ付けられ、翌5年同大学文学部長に補せられ、同7年辞任した。尚同6年に帝国学士院会員を仰付けらる。同8年重要美術品等調査委員会委員、又朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存会委員、同9年法隆寺国宝修理協議会委員、同10年宮内省臨時陵墓調査委員等の任に就いた。同12年6月京都帝国大学総長に任ぜられ、爾来満1ヶ年間全学の輿望を担つて同大学の粛学に尽瘁して現在に及んだものである。博士は本邦考古学界の耆宿であり、斯学を科学的学問として樹立せしめたその功績は大きく、国内は勿論朝鮮満洲等の発掘調査には殆ど悉く関与して居り、尚斯学関係全般に亙る要職にあつた。博学多趣味の人で東西の美術に造詣深く、著書随筆も多数に上り、且つ青陵と号して、書に絵に巧みであつたことは有名であり、人格的に徳望頗る高かつた。(考古学雑誌に依る)編著目録京都帝国大学文科大学考古学研究報告第1冊(梅原末治と共著) 大正6年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第2冊 大正7年希臘紀行 大正7年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第3冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 大正8年南欧遊記 大正8年京都帝国大学文学部考古学研究報告第4冊、第5冊(榊原政職と共著) 大正9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第6冊(長谷部言人、島田貞彦と共著) 大正10年「泉屋清賞」?器部 大正11年慶尚北道慶尚南道古墳調査報告(梅原末治と共著) 大正11年通論考古学 大正11年「陳氏旧蔵十鐘」鐘概説及図版解説 大正11年金海貝塚発掘調査報告(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第7冊(新村出、梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第8冊(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部陳列館考古図録 大正12年慶州金冠塚と其遺宝上冊(梅原末治と共著) 大正13年支那古明器泥象図説 大正14年京都帝国大学文学部考古学研究報告第9冊 大正14年有竹斎古玉譜(古玉概説) 大正14年百済観音 大正15年橋と塔 大正15年ミハエリス氏美術考古学発見史 昭和2年京都帝国大学文学部考古学研究報告第10冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 昭和2年有喜貝塚調査報告 昭和2年「泉屋清賞」続篇上冊 昭和2年慶州金冠塚と其遺宝図版下冊(梅原末治と共著) 昭和3年博物館 昭和4年貔子窩 昭和4年天正年間遣欧使節関係文書(新村出と共著) 昭和4年考古遊記 昭和4年東亜文明の黎明 昭和5年東亜考古学研究 昭和5年天正遣欧使節記 昭和6年モンテリウス氏考古学研究法 昭和7年慶州の金冠塚 昭和7年南山裡(島田貞彦と共著) 昭和8年刪訂泉屋清賞(梅原末治と共編) 昭和9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第13冊(梅原末治と共著) 昭和9年京都帝国大学文学部陳列館考古図録(続篇) 昭和10年楽浪彩篋塚遣物聚英(梅原末治と共編) 昭和11年京都帝国大学文学部考古学研究報告第14冊 昭和12年サンデ帥遣欧日本使節対話録(全訳校閲) 昭和12年仏国寺と石窟庵(藤田亮策、梅原末治と共編) 昭和13年赤峯紅山後(水野清一と共著) 昭和13年

渡辺公観

没年月日:1938/07/20

日本自由画壇同人渡辺公観は7月20日逝去した。享年61歳。 名耕平、明治11年1月20日滋賀県大津に生る。同27年京都美術工芸学校に入り、翌年退学、森川曽文に師事す。同35年曽文長逝後他門に入らず独自研究を続けた。文展には第1回及び第8回より12回迄出品、大正8年井口華秋、広田百豊と共に日本自由画壇を創立し、爾後毎年同展に出品した。同展第13回出品の「放牧」二曲一双は代表作に推される。

藤井厚二

没年月日:1938/07/17

京都帝国大学工学部教授工学博士藤井厚二は7月17日逝去した。享年51歳。 明治21年広島県福山市に生る。大正2年東京帝国大学建築学科を卒業、竹中工務店に入り同7年迄勤務、同10年京都帝国大学建築学科に勤務して現在に及んだ。建築学の外に陶器の研究に従つてゐた。雅号聴竹。

稲田吾山

没年月日:1938/07/15

日本画家稲田吾山は7月15日鎌倉建長寺境内の寓居で逝去した。享年59歳。 本名伊之助、明治13年米沢市に生れ、東京美術学校を経て、寺崎広業に師事し、旧美術研精会の委員であつた。

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