本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





平木収

没年月日:2009/02/24

読み:ひらきおさむ  写真評論家、九州産業大学教授の平木収は2月24日、食道がんのため福岡市内の病院で死去した。享年59。1949(昭和24)年8月7日京都府与謝郡宮津町(現、宮津市)に生まれる。京都市伏見区で幼少期を過ごし68年京都府立桃山高等学校卒業。72年早稲田大学第二文学部に入学、77年卒業(美術史専修)。少年時代より写真に関心を持ち、大学在学中の76年3月に東京綜合写真専門学校研究科の学生であった谷口雅らと新宿百人町に自主ギャラリー「フォトギャラリー・プリズム」を開設、77年10月の活動終了までに二度の個展(「レオナルドにならいて」、1976年、「写真機は文房具かなあ」、1977年)を開催する。大学では写真の芸術性について研究し、二つの個展が写真論的な視点にもとづくものであったことにも表われているように、写真をめぐる理論や歴史研究にも早くから幅広い関心をもち、75年『カメラ毎日』誌(6月号)に初めての評論「フォルカー・カーメン著『芸術としての写真』エネルギッシュな収集、対比の妙」を寄稿、80年『日本カメラ』誌において写真展評の連載を始め、実作から評論・研究へと軸足を移す。以後、同誌や『アサヒカメラ』誌などに多くの写真展評、書評などを寄稿、写真評論家として活動する。その評論活動は写真展や写真集などを丹念に実見するフィールドワークに基づくものであり、78年の初の渡欧以降、晩年に至るまでパリ写真月間、アルル写真フェスティバルをはじめとする写真関連の催しの取材や写真研究のため、欧米やアジア諸国にたびたび渡航するなど、そのフィールドは広く海外にも及んだ。85年にツァイト・フォト・サロンにより期間限定で開館した「つくば写真美術館’85」で開かれた「パリ・ニューヨーク・東京」展(つくば写真美術館’85の会期終了後、宮城県美術館に巡回)では、キュレーター・グループの一員として展覧会の企画・運営に携わり、主として19世紀の写真を担当。87年には川崎市教育委員会市民ミュージアム準備室嘱託となり、川崎市市民ミュージアムの設立準備に従事、88年同ミュージアム開館に際し学芸第二室写真部門担当学芸員に就任、1994(平成6)年同学芸主任を辞するまで同ミュージアム写真部門で「写真家・濱谷浩展」(1989年)、「ルイス・ボルツ 法則」(1992年)など多くの写真展を担当する。退任後も、「ピュリツァー賞写真展二〇世紀の証言」(Bunkamuraザ・ミュージアム他、1998年)など多くの写真展を企画・監修した。81年には東京綜合写真専門学校の非常勤講師となり、以後、日本写真芸術専門学校、武蔵野美術大学、京都造形芸術大学、早稲田大学、同芸術学校、玉川大学、東京藝術大学、東北芸術工科大学などで非常勤講師を務め写真史などを講じる。02年早稲田大学芸術学校客員教授に就任(06年3月まで)。05年には九州産業大学芸術学部教授に就任し、死去の直前まで学生の指導にあたった。原点としての実作者としての活動に始まり、評論家、キュレーター、教育者など、平木の写真に関わる広範な活動は、彼自身の造語「フィログラフィー(画像学)」に見られるように、狭義の写真史・写真研究にとどまらない、より広範な文明史的文脈のなかに写真を位置づけ、また畏敬し、享受しようとする柔軟な態度に貫かれていた。写真への尽きせぬ関心をさまざまな方法で伝え続けたその多面的な仕事を通じて、指導を受けた学生だけでなく、写真家や写真研究者にも平木の薫陶を受けたものは多い。そうした功績に対し、99年に日本写真文化協会功労賞、死去の翌年第60回日本写真協会賞功労賞が授与された。単著に『映像文化論』(武蔵野美術大学出版局、2002年)、遺稿集『写真のこころ』(『写真のこころ』編集委員会〔佐藤洋一、竹内万里子、徳山喜雄〕編、平凡社、2010年)がある。また09年5月に東京・市谷で開かれた「お別れの会」に際して刊行された『平木収 1949―2009』に詳細な年譜、執筆文献リストが収載されている。

鶴田武良

没年月日:2009/01/18

読み:つるたたけよし  中国絵画史の研究者である鶴田武良は1月18日、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。享年71。1937(昭和12)年3月2日、大阪市に生まれる。61年東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業後、シェル石油株式会社に入社するが、64年に東北大学大学院文学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学。66年に修士課程を修了後、同研究科博士課程に進学。68年から72年まで大阪市立美術館に学芸員として勤務。72年に東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)に転職後は美術部資料室、情報資料部文献資料室、美術部第一研究室の研究員を経て、80年より修復技術部第二研究室長、83年より情報資料部写真資料室長を務める。88年に情報資料部長、1992(平成4)年に美術部長となり、98年定年により退職。中国絵画史を専門とし、大阪市立美術館勤務時代、橋本末吉コレクションとの出会いをきっかけに72年特別展「近代中国の画家」を開催、それまで研究対象として顧みられることの少なかった中国の近代美術に目を向けるようになる。東京国立文化財研究所に転職後は、近世~近代の来舶画人についての論考を『国華』や同研究所が発行する研究誌『美術研究』に連載。80年から翌年にかけて文部省在外研究員としてアメリカで調査を行った他、中国、台湾で地道な資料収集を重ね、『民国期美術学校畢業同学録・美術団体会員録集成』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要2・3・4号 1991年)、『中国近代美術大事年表』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要7・8・9号 1997年)等の基礎資料集成に結実。論考もそれらの資料に裏付けられた手堅い手法によるもので、91年からは清末~解放後の美術を対象に「近百年来中国絵画史研究」と題した連載を7回にわたり『美術研究』に発表。北京や台北でも学会発表や講演を重ね、数多くの論考が中国語に翻訳されている。退職後は中国近現代美術研究資料センターを主宰。99年台湾・林宗毅博士文教基金会第1回文化賞を受賞。2007年には収集した書籍・スライド・写真・フィルム等を広東美術館に寄贈、「鶴田武良中国近現代美術史研究文庫」として伝えられることになる。主要な編著書は下記の通りである。 『近代中国絵画』(角川書店、1974年)『近代中国絵画』(1974年角川書店刊本の中国文訳本、台湾・雄獅美術図書公司、1977年)米沢嘉圃と共著『水墨画大系第11巻 八大山人・揚州八怪』(講談社、1975年)川上涇と共編『中国絵画』(朝日新聞社、1975年)長尾正和と共著『呉昌碩』(講談社、1976年)川上涇と共著『中国の名画』(世界文化社、1977年)宮川寅男他と共著『東洋の美術Ⅰ』(旺文社、1977年)『月影館審定近代中国絵画』(日貿出版社、1984年)『鉄斎筆録集成』第1巻(便利堂、1991年)『日本の美術326 宋紫石と南蘋派』(至文堂、1993年)『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)『風景心境―台湾近代美術導読』(台湾・雄獅図書公司、2001年)『定静堂蒐集明清書画』(和泉市久保惣記念美術館、2001年)顏娟英他と共編『上海美術風雲―1872―1949 申報藝術資料條目索引』(台湾・中央研究院歴史語言研究所 2006年)

田実栄子

没年月日:2009/01/03

読み:たじつえいこ  染織研究家の田実栄子は1月3日死去した。亨年81。1927(昭和2)年4月26日、朝鮮全羅北道裡里邑に生まれる。旧姓神谷(かみや)。40年4月、京城第一公立高等学校に入学し43年7月に同校を中退。44年4月に東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)文科に入学し、48年3月に同校を卒業、東京国立博物館附属美術研究所技術員となる。51年1月同第二研究部勤務となり、52年4月美術研究所が東京文化財研究所となるに際し美術部第二研究室勤務となって染織品の調査研究を行う。56年「鳴海有松地方の絞染」(『MUSEUM』61号)「明治期の型友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』69号)、57年「明治期の写友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』72号)を発表。62年美術部資料室に配置換え、73年1月美術部第一研究室研究員となり、同年4月美術部主任研究官となる。染織研究家山辺知行に師事し、『美術研究』に多くの論稿を発表。上杉家、徳川家、片倉家、伊達家など大名家遺品の調査研究のほか、型染、小千谷縮、辻が花などについても調査研究を行う。その後、それらの作品調査の成果を、『上杉家伝来意匠』(講談社、1969年、山辺知行と共著)、『小袖』(「日本の美術」第67号、1971年)、『紀州東照宮の染織品』(芸艸堂、1980年)、『武家の染織』(共著、中央公論社、1982年)、『型染』(芸艸堂、1975年)などにまとめる。本務の一方、お茶の水女子大学家政学部や日本女子大学大学院、東京造形大学、東京藝術大学美術部で講師を併任する。1989(平成元)年3月、東京国立文化財研究所を停年退官して同所名誉研究員となる。同年4月より96年3月まで大妻女子大学家政学部教授として「博物館実習」「服飾史特論」「染織工芸特論」などを講じた。 

大川栄二

没年月日:2008/12/05

読み:おおかわえいじ  財団法人大川美術館の理事長兼館長であった大川栄二は、12月5日、大動脈弁狭窄症のため死去した。享年84。1924(大正13)年3月31日に、群馬県桐生市に生まれる。桐生高等工業専門学校色染化学科を卒業。1948(昭和23)年4月、三井物産株式会社に入社。しかし、49年から52年まで、肺結核のために入院、療養につとめる。その間に、様々な画家が描いた週刊誌の表紙を収集するようになり、大川の回想によれば、これを貼ったスクラップブック作成が、美術コレクションの原点となったという。69年、株式会社ダイエーに入社。76年、マルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長に就任。81年、株式会社ダイエー取締役副社長、同年株式会社ダイエーオーエムシー(旧ダイエーファイナンス)代表取締役会長となる。上記のようなサラリーマンの生活を送りながら、美術コレクションをすでにはじめており、コレクターの面では、86年、愛媛県越智郡玉川町(現、今治市玉川町)に、同地出身の実業家徳生忠常が、作品と美術館建設費を町に寄贈して設立された玉川近代美術館の創設にあたっては、大川は作品の収集に協力をおしまなかった。同美術館の創設にあたり刊行された名品選カタログに、大川は寄稿しているが、そこからはコレクターである大川自身の美術館像と美術に対する情熱がつぎのように記され、生活に根ざした美術の価値を深く信じていたことがうかがえる。「よい作品を出来るだけ多く、又、何度もみることが大事です。他のよい美術館とて同じです。公立はいうに及ばず、私立といえど殆んどは財団法人となっている以上、社会的な文化財であり、庶民のものなのです。画廊の高い絵は買えなくとも美術館にある絵を自分のものとして親しく厳しく、たのしく鑑賞し、庶民の文化媒体として精々利用されたら、いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然をみる鑑賞力も人をみる判断力も豊かとなり、街並をみることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウィンドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生れ、素晴らしい地方文化が生き続けられるのです。」(「付ろく 絵画入門 絵のある生活と人生」より、『玉川近代美術館』、1986年)88年には、同美術館の名誉館長となった。さらに、1989(平成元)年4月、郷里である群馬県桐生市に同市の支援をうけて財団法人大川美術館が開館。同美術館の理事長兼館長に就任した。同美術館のコレクションは、大川が40年以上にわたって収集してきた近代日本洋画を中心に、欧米の近代、現代美術も加えて約6500点によって形成されている。特に、近代日本洋画については、大川が最初に関心をもった松本竣介、野田英夫の作品を核として、この二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を与えたと考えられる画家たちの作品が収集されており、美術史の固定化された視点から離れ、大川の鑑賞眼に基づく個人コレクションとしてユニークな内容となっている。翌90年、株式会社ダイエーを退社し、美術館の業務に専念するようになった。95年、群馬県総合表彰、2005年には群馬県文化功労賞を受けた。大川が美術について、あるいは美術館について語るとき、止まることを知らないほど情熱的であった。また、美術コレクターとして、多くの随筆を残しており、主要な著作は、次の通りである。 『美の経済学』(東洋経済新報社、1984年) 『美のジャーナル その投資と常識のウラ』(形象社、1989年) 『父と子のために 絵のみかた たのしみかた』(クレオ、1993年) 『美術館の窓から 僕はこころの洗濯屋』(芸術新聞社、1993年) 『二足の草鞋と本音人生』(上毛新聞社、2003年) 『新・美術館の窓から』(財界研究所、2004年) 

山岸信郎

没年月日:2008/11/04

読み:やまぎしのぶお  画廊主で評論家の山岸信郎(ペンネーム真木忍)は11月4日、東京女子医大病院で肺炎のため死去した。享年79。1929(昭和4)年5月9日、宮城県仙台市に生まれる。47年、仙台工業専門学校(仙台工専)から東北大学工学部へ転学。51年、東北大学を中退し、学習院大学文学部仏文科入学、59年卒業、後、同大人文科学研究科哲学専攻・修士博士前期課程に入学、64年まで在籍、富永惣一に学ぶ。62年、銀座の五番館画廊の運営に参加。『三彩』誌で68年1月号から69年7月号まで展評などを執筆する。新制作協会の事務局、日本橋の秋山画廊勤務をへて、69年2月、田村正勝、三浦武男とともに田村画廊を東京都中央区日本橋本町3-5に開設する。73年に画廊は日本橋本町4-15に移転するが、この間、後に「もの派」といわれる一群の作家たちの活気ある発表の場となる。75年日本橋本町4-9に真木画廊を開設する。77年田村画廊を閉廊し、神田西福田町2に新田村画廊(78年田村画廊と名称変更)を開設する。1990(平成2)年田村画廊を閉廊し、91年から真木画廊を真木・田村画廊として2001年まで運営した。日々の運営に関しては妻良枝の力も大きかった。山岸は拠点とした神田界隈の他の画廊、秋山画廊、ときわ画廊とともに70年代以降の貸画廊活動の一時代を築いた。さらに、79年から85年まで駒井画廊(日本橋室町3-1)の運営をし、また、郷里となっていた山形市に77年から画廊大理石を開廊し、移転しながら82年からギャラリールミエール、85年からはルミエール画廊の運営も行った。また、オフミュージアム的な展覧会の企画・運営に数多くあたり、90年代後半からの韓国との交流展をはじめ、草の根的な美術活動を行った点も忘れがたい。ミニコミ美術誌『あいだ』の追悼記事23本(155号から173号まで不定期に掲載)では、故人について数多くの作家、知人が文章をよせている。また、画廊に残された資料は、2010年国立新美術館アートライブラリーに収蔵された。

灰野昭郎

没年月日:2008/10/01

読み:はいのあきお  漆芸史研究者の灰野昭郎は、10月1日、心筋梗塞のため死去した。享年66。1942(昭和17)年、新潟県に生まれる。67年早稲田大学第一文学部美術専修卒業。69年より鎌倉国宝館学芸員として勤務、73年には同館図録第19集『鎌倉彫』を執筆し、特別展「鎌倉彫」を手がけた。同館在職時代の鎌倉彫の徹底した作品調査と、現代の工房で行われている技法の調査は、文献研究もふまえて『鎌倉彫』(京都書院、1977年)にまとめている。同書は現在でも、もっとも充実した写真図版と論考・資料を備えた鎌倉彫の研究図書となっている。76年より京都国立博物館に勤務し、資料管理研究室長、学芸課普及室長、工芸室長を歴任した。同館では「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」展(1978年)、「高台寺蒔絵と南蛮漆器」展(1987年)、「18世紀の日本美術」展(1990年)、「蒔絵 漆黒と黄金の日本美」展(1995年)をはじめ、漆工芸関係の研究・展覧会業務に従事した。1999(平成11)年より奈良大学文学部文化財学科教授を務めた。2004(平成16)年より昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科大学院生活機構学専攻担当教授となり、同大学光葉博物館館長を併任、2007年から逝去時まで同大学院特任教授を務めた。灰野は「私の漆」(『学叢』26、2004年5月)で述懐しているように、工芸研究者が少ない中で、着実に作品の調査を重ねながら、展覧会業務とともに、精力的に普及活動を行った。主な著作には次のものがある。『漆工―近世編(日本の美術231)』(1985年)、『婚礼道具(日本の美術277)』(1989年)、『近世の蒔絵―漆器はなぜジャパンと呼ばれたか』(中公新書、1994年)、『日本の意匠―蒔絵を愉しむ』(岩波新書、1995年12月)、『漆―その工芸に魅せられた人たち』(講談社、2001年)灰野の没後、その約5000冊の漆工芸を中心とする蔵書は、石川県輪島漆芸美術館に寄贈され、同館で灰野昭郎文庫として公開されている。

横田洋一

没年月日:2008/09/22

読み:よこたよういち  横浜浮世絵や明治初期洋画など、横浜を舞台として幕末から近代にかけて繰り広げられた様々な美術活動の調査研究を行った横田洋一は、9月22日、がんのため死去した。享年67。1941(昭和16)年6月6日、群馬県に生まれる。幼少期を中国天津で過ごし、44年10月に帰国。64年3月上智大学文学部新聞学科を卒業し、同年4月に早稲田大学第一文学部美術専修課程に入学。66年3月に同課程を修了する。同年4月、68年の開館に向けて準備段階であった神奈川県立博物館の学芸員となり、自然史、歴史を含む総合博物館である同館で美術分野を担当する。就任とともに同館が所蔵する6000点を越える浮世絵からなる丹波コレクションの調査および横浜ゆかりの美術に関する調査を開始し、69年から翌年にかけて『丹波コレクション目録』第1―3編を刊行。また、幕末に横浜を訪れた英国人画家チャールズ・ワーグマンや、五姓田芳柳・義松といった幕末明治期の洋画、真葛焼に代表される「はまもの」と呼ばれた輸出工芸品など、横浜の文明開化に関わる美術工芸品の調査を進め、勤務先の神奈川県立博物館(95年より神奈川県立歴史博物館)で、76年「横浜浮世絵と長崎版画」展、82年「浮世絵の歴史と横浜浮世絵」展、86年「横浜真葛焼と宮川香山」展、86年「明治の宮廷画家 五姓田義松」展、1990(平成2)年「没後100年記念 チャールズ・ワーグマン ロンドン発・横浜行き あるイギリス人画家の幕末・明治」展、97年「横浜浮世絵と空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀」展、2001年「王家の肖像―明治皇室アルバムの始まり」展などを開催した。これらの展覧会図録への論文、解説のほか、共著による単行図書、定期刊行物にも横浜浮世絵や文明開化期に横浜で活躍した画家、写真家などに関する著作を多く残した。これらは、日本における最初の近代美術館となった神奈川県立近代美術館が、土方定一の強い指導力のもとに西洋近代的な狭義の「美術」概念によって展覧会を開催し続けたのに対し、同県下の総合博物館という立場で地域における広義の美術を紹介する展示となっており、日本近代美術史の流れの中でも先駆的業績として評価される。特に、高橋由一と同時代に活躍しながら評価の遅れていた五姓田義松を再評価した功績は大きい。2002年3月、36年間在職した神奈川県立歴史博物館を定年退職。03年4月、関東学院大学比較文化学科特約教授となり08年まで教鞭を取った。1993年3月の中国旅行以降、中国の年画の調査、収集に興味を抱き、十数回にわたり中国を訪れた。年画のコレクションは那須野が原博物館に所蔵されている。2002年12月、04年2月にはインドを訪れている。逝去の翌年、横田洋一論文集『リアリズムの見果てぬ夢―浮世絵・洋画・写真』(横田洋一論文集刊行会編、学藝書院、2009年)が刊行されており、履歴、業績等は同書に詳しい。

樋口清治

没年月日:2008/08/17

読み:ひぐちせいじ  応用化学の研究者で東京文化財研究所名誉研究員の樋口清治は、8月17日、心不全のため東京都葛区の病院で死去した。享年82。1926(大正15)年6月3日、東京市に生まれる。1943(昭和18)年10月に工学院本科応用化学科を卒業、同年12月より東京帝国大学附属綜合試験所に入所、45年12月に同助手、46年3月文部教官、49年5月東京大学助手に任命される。52年11月、当研究所保存科学部科学研究室文部技官に転任の後、73年7月の修復技術部発足に伴い、第2修復技術研究室長に昇任。78年には第3修復技術研究室長に配置換となり、82年4月に修復技術部長、翌年3月定年により退官。当研究所在職時は、我が国の高度経済成長期、文化財保存修復に関する概念が進展するのにともなった新しい修復技術や材料開発の要請に対して、合成樹脂など近代的な材料を導入した。その実例は、彩色剥落止め、木造建造物部材修復、石造文化財修復、金属文化財修復、遺構の発掘処置法など多岐にわたった。特に木造建造物部材修復においては、人工木材の材質改良・文化財修復への導入に果たした功績は大きく、73年、重要文化財・旧富貴寺羅漢堂の再建において腐朽部材の合成樹脂による含浸強化および人工木材による欠損部分補修を採用し、当時所長であり再建事業の総括をした関野克とともに建築学会賞を受賞した。主要な著書は、『新建築学体系歴史的建造物の保存』(共著 彰国社、1999年)や、『総説エポキシ樹脂 第4巻応用編Ⅱ』(共著 エポキシ樹脂技術協会、2003年)など。主要論文は『保存科学』に所載。退官後は株式会社京都科学の技術顧問として、文化財修復における民間の技術水準向上と修復倫理の普及に努めた。1997(平成9)年、勲四等旭日小綬章を受勲。

鈴木進

没年月日:2008/07/16

読み:すずきすすむ  美術史家、美術評論家で東京都庭園美術館名誉館長の鈴木進は7月16日午前6時8分、老衰のため東京都世田谷区内の病院で死去した。享年96。1911(明治44)年8月14日、静岡県に生まれる。旧制静岡中学を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同学科で日本美術史の藤懸静也に師事。1936(昭和11)年卒業と同時に同学科初代の助手に就任。40年文部省学芸課嘱託となり、美術問題を調査研究。戦争中の44年から45年に兵役に就く。復員後の46年に東京帝室博物館調査課に勤務、文部技官となり国宝・重要文化財の指定・調査・研究に携わる。50年文部省の外局の文化財保護委員会の設立に従事。以後、同委員会が文化庁となると絵画部門の文化財調査官として長年国内の調査にあたり、また海外への紹介に努めた。さらに公務の一方で、慶応義塾大学、東京都立大学の講師を務める。52年の美術評論家連盟の結成時には幹事として尽力。近世日本絵画、とりわけ文人画を中心とする研究、そして近現代日本画を軸に幅広い分野の評論活動を行った。83年には開館したばかりの東京都庭園美術館の館長に就任し、1996(平成8)年まで務めた。その間、「日本の美 ジャポネズリーのルーツ」展(1985年)や「江戸美術の祝祭」展(1989年)等、とくに江戸美術への見識を活かした展覧会を実現させた。また80年に創設されたジャポニスム学会に幹事として尽力し、2002年からはその顧問となった。その経歴と人となりについては、同学会の機関誌『ジャポニスム研究』28号(2008年)に掲載された岡部昌幸「鈴木進先生追悼―グローバルな視点で日本美術を国内外に紹介、美術界の発展に尽くされた」に詳しい。主要な編著書は下記の通りである。 『東洋美術文庫14 応挙』(アトリヱ社、1939年) 『毎日少年ライブラリー 国宝ものがたり』(毎日新聞社、1954年) 編集『講談社版アート・ブックス29 玉堂』(大日本雄弁会講談社。1955年) 編集『浦上玉堂画集』(日本経済新聞社、1956年) 竹田道太郎と共著『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(雪華社、1957年) 高見順と共著『原色版美術ライブラリー121 大雅』(みすず書房、1958年) 編集『蕪村』(日本経済新聞社、1958年) 『講談社版日本近代絵画全集21 鏑木清方・平福百穂』(講談社、1962年) 編集『世界美術全集10 日本10(江戸2)』(角川書店、1963年) 編集『芋銭』(日本経済新聞社、1963年) 編集『竹田』(日本経済新聞社、1963年) 編集『日本の美術39 応挙と呉春』(至文堂、1969年) 編集『日本絵画館10』(講談社、1971年) 『近世異端の芸術 若冲・蕭白・芦雪』(マリア書房、1973年) 飯島勇と共著『水墨美術大系12 大雅・蕪村』(講談社、1973年) 『日本の名画9 浦上玉堂』(講談社、1973年) 編集『日本の美術114 池大雅』(至文堂、1975年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術46 蕪村と俳画』(小学館、1976年) 『日本の名画7 横山大観』(中央公論社、1976年) 『カルチュア版世界の美術8 日本の名画Ⅱ』(世界文化社、1976年) 尾崎正明と共著『日本美術絵画全集24 渡辺崋山』(集英社、1977年) 田中一松・吉澤忠・松下英麿・山中蘭径と共編『浦上玉堂画譜』全3巻(中央公論美術出版、1977~79年) 編集『日本の美術148 浦上玉堂』(至文堂、1978年) 佐々木丞平と共著『日本美術絵画全集18 池大雅』(集英社、1979年) 『俳人の書画美術11 江戸の画人』(集英社、1980年) 『俳人の書画美術12 明治の画人』(集英社、1980年) 監修『「巨匠が描く」日本の名山』全6巻(郷土出版社、1997~99年) 監修『日本の美富士』(美術年鑑社、2000年) 監修『さくら』(美術年鑑社、2001年) 

佐谷和彦

没年月日:2008/05/23

読み:さたにかずひこ  佐谷画廊代表であった佐谷和彦は、食道癌のため、5月23日に死去した。享年80。1928(昭和3)年、京都府舞鶴市に生まれ、第四高等学校を卒業後、京都大学経済学部に進学。53年、農林中央金庫に入社。73年に退社、株式会社南画廊(東京、日本橋)の経営者志水楠男に勧誘されて、同画廊に入社した。77年に同画廊を退社し、翌78年佐谷画廊を東京、京橋に創設した。82年に銀座4丁目に移転。2000(平成12)年に東京荻窪の自宅に移転。佐谷画廊としての活動は、日本人作家としては、池田龍雄、中川幸夫、阿部展也、山口勝弘、駒井哲郎、荒川修作、桑山忠明、松沢宥、清水九兵衛、福島秀子、山田正亮、若林奮、赤瀬川原平、戸谷成雄、辰野登恵子、小林正人等、また海外作家としては、パウル・クレー、エルンスト、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ジャコメッティ、クリスト等の展覧会を開催した。とくに詩人瀧口修造と交流のあった作家をとりあげた「オマージュ 瀧口修造」展は、28回開催され、佐谷のこの詩人への敬愛の念がこめられていた。また佐谷の回想によれば、二十年にわたって銀行での勤務の経験があったからこそ、画廊経営、また社会と美術について、冷静な判断と深い認識が培われたと語っている。とくに美術作品を扱う画廊、画商の社会的、文化的な存在意義については、つぎのように明確な考えをもっていた。「美術品という特別な、文化に関わる商品を取り扱っているという認識を持つ必要がある。ところがここがむずかしいところで、文化には商売として成立しがたい要素がある。美術品の絶対的価値と市場流通価値の乖離が、このことを示している。だからといって儲かる作品であれば何でも扱う、というのでは単なるブローカーになってしまう。画廊、画商の主張が見えてこなければ、存在理由はない、と私は思う。もうひとつ言えば、美術品は質の問題に尽きる。質に対する意識がないと、輝いたしごとはできない。文化程度が高い社会とは、質の高い芸術が人びとの周辺に存在する社会のことである。つまり良質の美術品に感応し、感動し、それを理解し、楽しむ境地に達した人間が多く存在することが望ましい。画廊、画商はそのような社会に関わっていることに誇りを持てるような存在でありたい。」(『アート・マネージメント 画廊経営実感論』、平凡社、1996年)さらに画廊が現代美術を扱うことについても、その意義をつぎのように記していた。「現代美術を取り扱う画廊のもっとも重要なしごとは、新しいすぐれた作家を社会に送りだすことである。すぐれた作家は同時代の証言者であり、時代精神を表現している。このような作家を紹介することが、画廊の社会的義務である。」このように単なる画廊経営者にとどまらずに、美術、とりわけ国内外の現代美術に対する理解者、支援者としての活動は、特筆されるべきであろう。造詣が深いからこそ、同画廊で開かれた展覧会のカタログの「あとがき」として、作家論等を数多く寄稿している。また、アート・マネージメントや文化行政に対する発言も多く、これらは、上記の引用著述以外に、下記の著作にまとめられている。 『知命記 ある美術愛好家の記録』(佐谷画廊、1978年) 『私の画廊―現代美術とともに―』(佐谷画廊出版部、1982年) 『画廊のしごと』(美術出版社、1988年) 『原点への距離―美術と社会のはざまで』(沖積舎、2002年) 『佐谷画廊の三〇年』(みすず書房、2007年) 

金子裕之

没年月日:2008/03/17

読み:かねこひろゆき  考古学者で奈良文化財研究所(奈文研)名誉研究員・奈良女子大学特任教授であった金子裕之は3月17日、癌のため奈良市内の病院で死去した。享年63。1945(昭和20)年2月16日に富山県高岡市に生まれる。70年國學院大學大学院文学研究科を修了、同年神奈川県高座郡座間町立座間中学校の教員となり、2年間を過ごす。72年4月に奈良国立文化財研究所文部技官として採用され、その後一貫して奈良の地を拠点として考古学研究に従事した。86年以降、奈文研平城宮跡発掘調査部考古第一調査室長をはじめとして飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センターで室長を歴任し、1999(平成11)年から2005年まで奈良女子大学大学院人間文化研究科教授を併任した。1999年に奈文研埋蔵文化財センター研究指導部長、2001年に独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部長、03年に飛鳥藤原宮跡発掘調査部長となり、05年4月退職。以後奈良女子大学特任教授として教育・研究に貢献した。金子の研究の対象には、学生時代からの関心でありつづけた縄文文化、奈良に赴任してからのフィールドとなった飛鳥や平城京の調査研究を契機とした我が国古代の都城制、それに出身大学の学的伝統でもある神祇への関心に発する古代祭祀という三つの大きな柱があった。金子はそのいずれについても、日常業務の多忙さの中にありながらも、重厚な成果を積み重ねていった。個別の論文は枚挙にいとまがないので、著書のいくつかに限って言及しておこう。『日本の美術 まじないの世界Ⅰ』(至文堂、1996年)は金子の畢生の研究テーマであった祭祀についての総説ともいうべき好著で、縄文時代から古代にわたる壮大な歴史の流れの中に脈々と生き続ける「まじない」、「まつり」のありようを、考古資料を駆使して生き生きと叙述した。同年に刊行された金子著の『歴史発掘12 木簡は語る』(講談社)でも浩瀚な知識に裏付けられつつ、自身の独自の研究成果を基軸にして、わかりやすい表現で古代人の精神生活のありようが解き明かされている。こうした闊達な文章表現は金子の真骨頂とするところで、本来堅苦しくなりがちな学術成果を、解きほぐすような筆致で語りかける文章術は類まれなものであった。金子の、はからざる晩年の関心は庭園遺跡の史的位置づけに重点がおかれたように思える。平城宮の内外での発掘調査でみつかった幾多の庭園跡をどのように位置づけるべきか。金子は、庭園は皇権さらには都城に関わる祭祀と結合すると考え、関連する国内外の研究者を糾合して庭園の史的論理の追究に努力を傾注した。その成果の一端は2002年に刊行した編著『古代庭園の思想―神仙世界への憧憬―』(角川選書)に結実しているが、まだ道半ばというところであった。金子の研究姿勢は、総じて峻烈であった。徹底的に事実に拘泥し、妥協を許さず、一言一句をゆるがせにしなかった。時として挑戦的で、しかし、いくつもの研究会を組織したことや多くの編著書が物語るように、調和、調整そして総合を重んじる人でもあった。発掘や整理作業に従事する人々に寄せる優しい気配りは、その峻厳な風貌からは窺いがたいものの、近くに過ごす者達の等しく知るところであった。

細野正信

没年月日:2008/03/11

読み:ほそのまさのぶ  美術史家、美術評論家の細野正信は3月11日午前8時58分、胆管がんのため千葉県船橋市の病院で死去した。享年81。1926(大正15)年9月11日、群馬県前橋市に生まれる。1947(昭和22)年群馬師範学校を卒業後、前橋市立第一中学校教諭を務め、翌年早稲田大学高等師範部へ入学。49年に同大学第一文学部に編入学、57年に同大学院文学研究科美術史学専攻修士課程を修了し文部省へ入省、翌年には同芸術課の日本芸術院事務局に勤務する。63年東京国立博物館へ出向。72年に同館美術課絵画室主任研究官、85年に同課建築室長となる。87年同館を定年退官し、山種美術館学芸部長となる。1997(平成9)年には高崎タワー美術館館長。2000年に同館館長を辞し、03年までヤマタネ美術顧問を務める。また1963年から71年まで女子美術大学、71年から88年まで早稲田大学で講師を務めた。2000年には船橋市教育文化功労者として表彰された。1960年代前半より『美術手帖』『萠春』誌上に展評や美術評論を執筆し、東京国立博物館在任中は、青木木米・中山高陽等の近世文人画家や司馬江漢についての論考を『MUSEUM』をはじめとする諸雑誌に発表。70年代には美術全集の刊行が相次ぐ中で、とくに狩野芳崖や横山大観といった近代日本画に関する巻の執筆・編集を担当し、美術雑誌や展覧会図録でも旺盛な執筆活動を展開、また日本美術院を主とする同時代の日本画家についての評論も行う。75年からは『日展史』全41巻、89年からは『日本美術院百年史』全15巻編纂の監修を務め、日本近代美術史に大きく与る団体の基礎資料集成を築いた功績は大きい。その著述においても近代日本画の通史のスタンダードをつくりあげ、専門家はもとより多くの美術愛好家の手引となった。主要な編著書は下記の通りである。 編集『日本の美術36 洋風版画』(至文堂、1969年) 『現代日本美術全集2 横山大観』(集英社、1971年) 『カラーブックス 竹久夢二』(保育社、1972年) 編集『近代の美術9 下村観山』(至文堂、1972年) 編集『近代の美術17 フェノロサと芳崖』(至文堂、1973年) 『カラーブックス 日本の画家 近代日本画』(保育社、1973年) 編著『日本の名画17 菱田春草』(講談社、1973年) 『読売選書 司馬江漢 江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売新聞社、1974年) 監修『日展史』全41巻(社団法人日展、1975~2002年) 編集『日本の名画1 狩野芳崖』(中央公論社、1976年) 『現代日本美人画全集5 伊東深水』(集英社、1977年) 富岡益太郎・吉沢忠と編著『日本の名画8 富岡鉄斎・横山大観・菱田春草』(講談社、1977年) 『皇居造営下絵 杉戸絵と襖下絵』(京都書院、1977年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術52 江戸狩野と芳崖』(小学館、1978年) 『現代日本の美術4 東京画壇』(小学館、1978年) 編集『日本美術全集25 近代絵画の黎明:文晁・崋山と洋風画』(学習研究社、1979年) 監修『日本の花鳥画』全6巻(京都書院、1980~81年) 『明治花鳥画下絵集成 宮内庁内匠寮旧蔵』(京都書院、1981年) 『短冊絵300撰 内田コレクション』(芸艸堂、1981年) 浜田台児と監修『伊東深水全集』全6巻(集英社、1981~82年) 『現代日本絵巻全集16~18 東海道五十三次合作絵巻』(小学館、1982~83年) 『現代日本画全集1 堅山南風』(集英社、1983年) 編集『日本の美術232 江漢と田善』(至文堂、1985年) 『竹久夢二と抒情画家たち』(講談社、1987年) NHK取材班と共著『流転・横山大観「海山十題」』(日本放送出版協会、1987年) 『日本の美術262 江戸の狩野派』(至文堂、1988年) 監修『近代の美人画 目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1988年) 『日本美術院百年史』全15巻(財団法人日本美術院、1989~99年) 監修『近代の日本画 花鳥風月:目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1990年) 責任編集『昭和の文化遺産1 日本画1』(ぎょうせい、1990年) 編集『巨匠の日本画2 横山大観 遥かなる霊峰』(学習研究社、1993年) 『日本画入門 よくわかる見方・楽しみ方』(ぎょうせい、1994年) 『日本絵画の表情1 雪舟から幕末まで』(山種総合研究所、1996年) 編著『名画の秘密 日本画を楽しむ』(ぎょうせい、1998年) 監修『日本絵画の楽しみ方完全ガイド 絵画を楽しむための「20のポイント」と日本の巨匠72人の名作』(池田書店、2007年) 

米倉守

没年月日:2008/02/25

読み:よねくらまもる  美術評論家で、多摩美術大学教授、松本市美術館長であった米倉守は、下咽頭癌のため、東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。1938(昭和13)年、三重県津市に生まれる。関西学院大学を経て、関西大学文学部を卒業。卒業後、朝日新聞社に入社、同社大阪本社学芸部、ついで東京本社学芸部で美術を担当した。その後、編集委員となった。1994(平成6)年に多摩美術大学教授となり、同大学造形表現学部長を務めた。また2002年に開館した長野県の松本市美術館の館長を歴任した。新聞記者時代から、展覧会等の批評記事を数多く執筆した米倉であるが、そこには一貫して「現場」(画廊での個展、創作のアトリエ等)に対するこだわりがあった。そして書かれた美術批評は、また一貫して「一般読者」に向けられていた。その点は、米倉の批評の姿勢であり、新聞社を退いた後に書かれた、つぎのような一節からも了解される。「私は画家に呼びかける文体をとったとしても、作家自身に直接向かって書いたことは一度としてない。どうとられようと対象は一般の人たちである。もし何らかの影響が作家側にあるとすれば、一般人、一般読者に投影して、そのはるか反映が作家の制作に影を落とすやもしれない場合に限るだろう。評論家と作家の間に大きな位置を占めている一般読者という存在こそすべてである。評論家の願望を描き、作家、作品を一般大衆に語る自由はあるからだ。(中略)美は壊れやすく滅びやすく、はかない。そして事実滅びてゆくけれど、それを語り描くことが評論だと思っている。」(「靴を隔てて痒きを掻く」、『美術随想 夢なら正夢―美の賑はひに誘ふ一〇〇章』、求龍堂、2006年)米倉は、美術を「現場」から見つめつづけ、「一般読者」に向かって「批評」として発信をつづけたジャーナリストであった。上記引用した著書以外の主要な著書は、下記のとおりである。 『中村彝 運命の図像』(日動出版部、1983年) 『個の創意―現代美術の現場から』(形象社、1983年) 『評伝有元利夫 早すぎた夕映』(講談社、1986年) 『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』(講談社、1991年) 『美の棲家1 東洋編』(彩樹社、1991年) 『美の棲家2 西洋編』(彩樹社、1991年) 『流産した視覚 美の現在・現代の美術』(芸術新聞社、1997年) 『両洋の眼・21世紀の絵画』(瀧悌三共著、美術年鑑社、1999年) 『非時葉控 脇村義太郎 全人翁の美のものさし』(形文社、2002年) 

中山公男

没年月日:2008/02/21

読み:なかやまきみお  西洋美術史家で美術評論家の中山公男は、2月21日肺気腫のため死去した。享年81。1927(昭和2)年1月3日、大阪船場の裕福な商家に五人兄弟の三男として生まれる。中学時代より書店や古本屋をめぐり、哲学、美術、文学、歴史書などの収集と読書を日課とする。44年4月、新潟高等学校に入学。47年4月、東京帝国大学文学部哲学科美学美術史学科入学、矢崎美盛に師事。高校時代からの友人丸谷才一のほか、篠田一士、永川玲二など外国文学関係者や画家の松本竣介、麻生三郎らと交友を深める。50年同学科卒業。卒業論文は、フランシス・グリューベルを中心としたフランスの戦後派美術をテーマに選ぶ。53年、同大学大学院特別研究生修了、修士論文では、初期中世の写本芸術をテーマとした。同年、女子美術大学専任講師、54年より多摩美術大学講師、日本大学芸術学部助教授として、西洋美術史、美学概論、芸術論、芸術学、彫刻史、フランス語の講義を行うほか、文化学院でも教鞭を執る。この頃、丸谷才一、篠田一士とともに『ユリイカ』のコラムを毎月号担当、「第一回ルーヴル展」(1954年)のカタログ編集委員会、続いて「朝日秀作美術展」の事務局及び選考委員会に従事、昭和30年代半ばまで携わる。59年5月、国立西洋美術館の開館にともない文部技官主任研究員として勤務、「ミロのビーナス特別公開」「ギュスターヴ・モロー展」「ルオー遺作展」などに関わる。63年から在外研究員として3ヶ月間欧州に滞在。68年万国博覧会参事を務め、同年7月国立西洋美術館を退官。83年多摩美術大学教授、87年~90年筑波大学教授、1991(平成3)年~97年明治学院大学教授を歴任する。また、86年から2005年まで群馬県立近代美術館長を務め、この間、美術館連絡協議会理事長(1995年~2001年)、全国美術館会議会長(1997年~2001年)として、美術館の不備、学芸員の処遇の改善などを訴え、美術館行政の抜本的な改革を目指した。このほか、地中海学会の設立に関わり、副会長を務めた。西洋美術にとどまらず、美術全般に幅広い知識をもち、専門家から一般の美術愛好家に向けて数々の評論、解説、エッセーを残した。変貌をテーマとした画家論『レオナルドの沈黙―美の変貌』(小沢書店、1976年)、昭和20年代から40年間にわたる論考を納めた『美しき禍い』(小沢書店、1988年)、また自伝的エッセーとして『私たちは、私たちの世代の歌を持てなかった―ある美術史家の自伝的回想』(生活の友社、2004年)などが知られるが、なかでも代表作は、日本人としていかに西洋と向き合うかという問いを発した『西洋の誘惑』(初版、新潮社、1968年・改訂版、印象社、2004年)である。自ら「被誘惑者」として語る西洋と自己、あるいは西洋と日本の対峙というテーマは、中山の思索において根幹をなす。太平洋戦争によって、読書を通じて憧憬した西洋に、理念でとらえているにもかかわらず現実には近づけない状況に直面し、西洋の受容について熟考することとなる。「思考や想像力が、ひとつの理念を生みだそうとするとき、些細な経験は無にひとしい。体験は、理念追求の力を訂正することはあっても、それを凌駕することはできない」。美術史にとって感覚的な体験が絶対であることを認めながらも、理念は体験に勝るという結論に至った中山は、理念に到達するためには、体験の背後にある「思惟体系なり審美体系なりの違い」を把握することが必要であると説く。被誘惑者にとって西洋は幻影であり、両者には容易には到達し得ない膨大な距離がある。西洋と上辺だけの対峙をする「似非モラリスト、疑似エステート」に対し、時に痛烈な批判を浴びせながら、真の西洋受容とは、その幻影を認め、その誘惑を知ることと論じた。1960年代に展開されたこの主張は、半世紀を経た今なお色あせることなく、21世紀の我々に、今度こそ幻影を「奪取」するよう促している。このほか、『モローの竪琴―世紀末の美術』(小沢書店、1980年)、『ユトリロの壁―絵画随想26篇』(実業之日本社、1984年)、『画家たちのプロムナード―近代絵画への誘い』(悠思社、1991年)、翻訳書に、ルネ・ユイグ著、中山公男・高階秀爾訳『見えるものとの対話1~3』(美術出版社、1962~63年)、アンリ・ドベルビル著、中山公男訳『印象主義の戦い』(毎日新聞社、1970年)、クラルス・ガルヴィッツ著、中山公男訳『桂冠の詩人ピカソ―1945年以降の絵画作品』(集英社、1972年)、フランシス・ポンジュ他著、中山公男訳『ピカソ―破壊と創造の巨人』(美術出版社、1976年)などがある。また新聞、美術雑誌、展覧会カタログ、美術全集等に多数の執筆を残した。詳しくは、『芸術学研究』7号(1997年)に明治学院大学文学部芸術学科編「中山公男教授 著作目録」が掲載されている。蔵書は吉野石膏財団に寄贈され、現在、約3000点あまりが中山文庫として公開されている。

桑原住雄

没年月日:2007/12/15

読み:くわばらすみお  武蔵野美術大学名誉教授で、美術史研究、美術評論家であった桑原住雄は、病のため長らく療養中であったが、12月15日、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年、広島県広島市に生まれ、幼少時に家族とともに台湾に渡り、旧制台北高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進む。戦中期に応召したが、戦後に復学し美術史を専攻、さらに同大学大学院を修了。東京新聞社、朝日新聞社に勤務。その間の1963(昭和38)年に、アメリカ国務省の人物交流計画と称されたプログラムにより招聘され、ニューヨークをはじめ、アメリカ各地を訪れた。当時は、抽象表現主義の隆盛から、ポップアートが誕生する時代で、アメリカの現代美術に直にふれ、また、19世紀以来のアメリカ美術の歴史のなかにリアリズムの底流があることに強い関心を抱き、以後、アメリカ美術も研究テーマのひとつとなった。77年4月に筑波大学芸術学系に転じて教授として82年3月まで後進の指導にあたった。ついで82年4月から1995(平成7)年3月まで、武蔵野美術大学教授として務め、退任後同大学名誉教授となった。生前の研究、評論活動は、19世紀から現代までのアメリカ美術の歴史、及び古今の日本美術史に及び、旺盛な評論活動を行った。とりわけアメリカ美術については、1886(明治19)年に来日したアメリカ人画家ジョン・ラファージ(1835―1910)の残した滞日記録『画家東遊録』の翻訳(久富貢との共訳)と、同書に付した論文「ラファージと日本美術」に示されたように、それまで日本において紹介されることのなかったアメリカにおけるジャポニスム研究、及び日米の美術交流史研究が特筆される。また、日本美術については、前田青邨、東山魁夷、髙山辰雄、岩橋英遠、荻須高徳、宮本三郎から現代作家まで、多数にわたる作家論、評論を残した。主要な業績は、下記にあげる単行書、翻訳書にあるとおりであるが、なかでも古希を記念して刊行された『桑原住雄美術論集 日本篇、アメリカ篇』(沖積舎、1995・96年)には、生前の研究、評論の成果が集約されている。 編著書: 『東京美術散歩』(角川書店、1964年) 『日本の自画像』(南北社、1966年、改訂版沖積舎、1993年) 『日本画の内景』(三彩社、1974、76年) 中山公男、中森義宗共著『モナ・リザ』(朝日ソノラマ、1974年) 『現代日本の美術5 東山魁夷』(集英社、1974年) 『現代日本の美術7 東山魁夷』(集英社、1976年、普及版) 『アメリカ絵画の系譜』(美術出版社、1977年) 『日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1977年) 『カンヴァス日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1979年) 『東山魁夷の世界』(講談社、1981年) 『東山魁夷ビブリオテカ』(美術出版社、1982年) 『現代日本画全集 第9巻 岩橋英遠』(集英社、1982年) 『日本の近代絵画 伝統と創造(NHK市民大学)』(日本放送出版協会、1985年) 田中穣共編『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン16 東郷青児/宮本三郎』(編著担当「宮本三郎」、集英社、1986年) 『東山魁夷』(講談社、1995年) 『桑原住雄美術論集 日本篇』(沖積舎、1995年) 『桑原住雄美術論集 アメリカ篇』(沖積舎、1996年) 『広場の芸術』(日貿出版社、1998年) 桑原住雄詩、香月泰男画『夢マンダラ』(日貿出版社、2002年)  翻訳書: 翻訳バーバラ・ローズ著『二十世紀アメリカ美術』(美術出版社、1970年) 翻訳ハロルド・ローゼンバーグ著『荒野は壷にのみこまれた 大衆状況のなかの美術』(美術出版社、1972年) 翻訳(桑原未知世共訳)エイブラハム・A・デイビッドソン著『アメリカ美術の歴史』(PARCO出版、1976年) 翻訳(下山肇共訳)マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』(新潮社、1977年) 翻訳(久富貢共訳)ジョン・ラファージ著『画家東遊録』(中央公論美術出版、1981年) 翻訳バーナード・ブリソン・シャーン著『ベンシャーン画集』(リブロポート、1981年) 翻訳監修『ワイエス画集3』(リブロポート、1987年) 翻訳監修『ワイエス画集4』(リブロポート、1988年) 翻訳(斎藤泰嘉共訳)ハーリー・F・ゴーグ著『モダン・マスターズ・シリーズ ウィレム・デ・クーニング』(美術出版社、1989年) 

鈴木敬

没年月日:2007/10/18

読み:すずきけい  日本学士院会員で東京大学名誉教授の鈴木敬は、10月18日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年86。1920(大正9)年12月16日、静岡県伊東市に生まれる。旧制水戸高等学校を卒業後、1942(昭和17)年4月に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、44年9月、学徒動員令により同大学を繰り上げ卒業。同年12月に現役兵として入隊し、46年に復員。49年1月に国立博物館(現、東京国立博物館)調査員となり、52年9月からは文化財保護委員会(現、文化庁)美術工芸品課に勤務。59年11月には東京芸術大学助教授となり、65年に東京大学東洋文化研究所助教授となった。この間、52年12月から8ヶ月間渡米、58年1月より翌年4月まで渡欧。67年9月には定年退官した米澤嘉圃にかわって東京大学教授となり、70年12月から72年3月まで東洋文化研究所長および同研究所附属東洋学文献センター長を務めた。81年3月に東京大学を定年退官して同年4月に名誉教授となった。この間、1975(昭和50)年6月から1979(昭和54)年2月まで美術史学会代表委員を務めた。鈴木が東京大学で教鞭を執った時期は大学紛争の混乱期を含んでいるが、北宋・元の李郭派を中心とする自身の研究および戸田禎祐・嶋田英誠をはじめとする後進の指導育成、海外の研究者との交流には余念がなく、これによって世界における日本の中国絵画研究の水準を飛躍的に高めた。また東洋文化研究所の美術史・考古学部門を中国絵画の写真資料センターとすべく、数次にわたって中国、台湾、アメリカ、ヨーロッパ等での中国絵画悉皆調査を敢行して20万点を越える膨大な資料を収集。これを整理して内外の研究者に公開し、あらゆる研究者がアクセスし得る強固かつ開かれた研究基盤を構築したことは特記される。79年から郷里である静岡県立美術館の設立準備に携わり、翌年には静岡県教育委員会事務局参与、86年1月には同美術館の初代館長となり(同年4月に開館)、1993(平成5)年6月末まで館長を務めた。同館の研究活動重視の姿勢は主として鈴木による情熱的な指導の賜物であり、同館は今日にいたるまで日本の地方公立美術館の中で随一と言うべき企画力を持っていることで知られているところである。これらの功績により、84年11月に紫綬褒章、91年4月に勲二等瑞宝章を受章。88年1月には皇居で「講書始の儀」の進講者を務めている。東京大学定年退官後も、「両宋画院について」(『美術史論叢』23号、2007年)にいたるまで、その探求心は衰えることがなかったし、緻密で真摯な研究態度も終始崩れることがなかった。鈴木は実証的で系統的、基礎的かつ網羅的な研究で戦後の日本における中国絵画研究を生涯にわたり主導し続けた。従来等閑視されがちであった明代宮廷画人たちに光をあて、「プレ浙派」を提唱した『明代絵画史研究・浙派』(木耳社、1968年)、膨大な作品と文献資料を緻密に組み上げることで中国絵画史全体を俯瞰した大著『中国絵画史』(上、中之一、中之二、下、吉川弘文館、1981~95年)、各所に分蔵される中国絵画を悉皆的に調査して逐一基礎データと図版を掲げた『中国絵画総合図録』(全5巻、東京大学出版会、1982~83年)は、鈴木が美術史学界にうち立てた金字塔と言うべきものである。このうち『中国絵画史』で、85年6月に(その時点で未完結であったにもかかわらず)日本学士院賞を受賞し、1990(平成2)年12月には日本学士院会員となっている。また『中国絵画総合図録』については、引き続き東洋文化研究所で『同 続編』(全4巻、東京大学出版会)がつくられ、さらに『同 三編』の準備も進行している。さらに同様の手法をとった『中国古代書画図目』(全24冊、1986~2002年、文物出版社)や『故宮書画図録』(刊行中、1989年~、台北故宮博物院)が刊行されるなど、鈴木の理念と手法が中国絵画研究の基礎として多くのコンセンサスを得、日本国内外で継承発展されていることは特筆すべきであろう。その他にも著書、共著、研究論文等多数がある。主要業績は「鈴木敬教授略歴・主要著作目録」(『東京大学東洋文化研究所紀要』85冊、1981年)および、東京大学東洋文化研究所東アジア美術研究室/東洋学研究情報センター「中国絵画所在データベース」の沿革にある「歴代教授略歴および主要論文」(http://cpdb.ioc.u―tokyo.ac.jp/suzuki.html)を参照のこと。また、追悼記事には東洋文化研究所「訃報 鈴木敬名誉教授」(『東京大学学内広報』1367号、2007年12月14日)、小針由紀隆「鈴木敬初代館長を偲んで」(静岡県立美術館ニュース『アマリリス』88号、2007年冬)、武田恒夫「故鈴木敬会員追悼の辞」(『日本学士院紀要』631号、2008年)などがあるので、あわせて参照されたい。なお、2008年12月、遺族により、故人の蔵書のうち『景印文淵閣四庫全書』『四部叢刊初編縮本』『大清歴朝実録』が東京文化財研究所に寄贈された。

山本正男

没年月日:2007/10/10

読み:やまもとまさお  元東京芸術大学長、元沖縄県立芸術大学長で、美学研究者であった山本正男は10月10日、急性肺炎のため神奈川県逗子市の病院で死去した。享年95。1912(明治45)年1月12日、長野県長野市に生まれる。1930(昭和5)年4月、第三高等学校文科乙類に入学。33年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科(美学専攻)に入学、同級生に西洋美術史研究者となった摩寿意善郎がいた。36年3月、同大学卒業、卒業論文は「アリストテレスのテクネーについて」。38年3月、同大学大学院修了。40年4月、文学部副手に採用され、大西克礼教授の美学研究室に勤務することとなった。戦中期には、勤労動員の学生の引率出張をしながらも、文学部における研究課題「明治文化の総合研究」において「明治時代の美学思想」を担当した。47年、同大学文学部助手となる。49年大西教授退官後、竹内敏雄助教授が後継となる。同年、全国規模の美学会設立にあたり、その準備に参加し京都にて発会式をかねた総会を迎えた。50年4月、横浜国立大学助教授に就任。また同年より東京文理科大学(後年の東京教育大学)講師に併任され、同大学哲学科の下村寅太郎主任教授の薫陶を受ける。同大学在任中の53年、戦中期からはじめた明治期の美学思想研究を「明治時代の美学思想」(『国華』722、726、727、729号)と題して発表した。同論文は、移入された学問として美学を歴史的に検証した先駆的な論文であった。また54年、『美の思索』(美術出版社)を刊行した。同書は、美学の啓蒙書であるばかりでなく、学術的、論理的な考察が戦後の美学研究のなかで高く評価されている。58年には、「東西芸術の比較方法」(『国華』793、794号)を発表、同論文からは後年の「比較芸術学」確立にむけた関心の萌芽を読みとることができる。62年、学位論文「芸術史の哲学」を東京教育大学に提出、文学博士号を取得し、同論文をもとに『芸術史の哲学』(美術出版社)を刊行。65年、『東西の芸術精神の伝統と交流』(理想社)を刊行、同年10月、東京芸術大学教授に転じた。66年、編著『現代の芸術教育』(三彩社)を刊行。71年、『美学への道』(理想社)を刊行。73年、改訂増補版として『美の思索』(美術出版社)を刊行。74年、東京芸術大学美術学部の美学研究室を中心に国際研究交流の成果として『比較芸術学研究』全6巻の刊行を開始した。完結した80年までに、第1巻「芸術と人間像」、2巻「芸術と美意識」、3巻「芸術と宗教」、4巻「芸術と様式」、5巻「芸術と表現」、6巻「芸術とジャンル」からなる同論文集の監修にあたり、国内外の多数の美術史、美学研究者の寄稿を仰ぎ、新しい美学の研究領域の確立を図ることとなった。その間の77年に同大学美術学部長に選任された。79年に同大学を退官、同大学名誉教授となる。同年12月、同大学の学長に選出され、85年までその任にあった。82年、美学会の会長代行となる。86年4月、創設された沖縄県立芸術大学の初代学長となる。また同年、長野県信濃美術館長を委嘱された。同年、『芸術の森の中で』(玉川大学出版部)を刊行。さらに『生活美学への道』(勁草書房、1997年)では、「東西の風景画と東山芸術」、「現代と生活の美学」等において、東西芸術の比較と現代における芸術を視野に入れながら、新たに「生の場に立ち戻って、機能・生態重視の生活美学」を提唱した。また、『芸術の美と類型―美学講義集』(スカイドア、2000年)では、その序文において、自らの半世紀に及ぶ美学研究をふりかえりながら、現代における美学の学術的な展望をつづっているので、その一節をつぎに引用しておきたい。「わたくしは我が国美学の世代史からすれば、まさに講壇美学の時代に教育を受け、大戦後の大学改革の中に、新たな人間性開示の教養美学を芸術実践の場に展開すべく務めてきた一人である。しかしそれから半世紀の時代の進展は激しく、国際的な芸術・芸術文化の影響とともに、終戦後の教養美学の『世代』もすでに転回を示し、美や芸術の問題関心は、その文化的・社会的機能へと移った。それはもはや環境美学とも称すべき新世代を生みつつある。この『講義集』がかつての教養美学の『世代』を語る資料として、我が国での美学史的反省に与り得ればまことに幸いである。」(なお、故人の経歴については、同書巻末の「筆者 略年譜」を参照した)常に現代に開かれた美学、芸術学を目ざそうとした学究として、同時に多くの学生が深い薫陶を受けていることからも、慈愛あふれる優れた教育者として、実に誠実に研究と教育に向き合った生涯であったといえる。

若桑みどり

没年月日:2007/10/03

読み:わかくわみどり  美術史家でジェンダー文化研究でも多くの業績を残した千葉大学名誉教授の若桑みどりは10月3日、虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年71。1935(昭和10)年11月10日、英文学者山本政喜、ふじゑの次女として東京都品川区に生まれる。41年4月谷中国民学校入学。45年4月、宮城県栗原郡若柳町に疎開し、その地で敗戦を迎える。同年9月、世田谷区山崎小学校に編入。47年4月玉川学園中等部入学、50年4月同高等部入学。同年9月都立駒場高校芸術科に編入学。53年4月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学。摩寿意善郎教授に師事し、イタリア美術を専攻する。58年、カラヴァッジオをテーマに卒業論文を提出し同大学を卒業後、同大学芸術学科専攻科に入学。60年3月同専攻科卒業、同年4月同学科副手就任。61年より63年の間、イタリア政府留学生としてローマ大学哲学・考古学科、美術史学科に留学し、カルロ・アルガン教授に師事。イタリア滞在中に仏文学者若桑毅と結婚(後に離婚)。帰国後の63年9月東京芸術大学美術学部芸術学科副手就任。翌年4月より同大学音楽学部講師、78年同教授。87年4月千葉大学教養部教授に就任、1994(平成6)年4月同大学文学部に配置替え。2001年3月同大学を定年退官。一年間のイタリア・ローマ滞在を経て、翌02年川村学園女子大学教授着任。06年には同大学を退職し、ジェンダー文化研究所を設立、所長を務める。この他、東京外国語大学、聖心女子大学、清泉女子大学、大阪大学、神戸大学、北海道大学、東京大学等で非常勤講師を務め、また、広い観客層を対象とした講演なども積極的に行い、40年以上にわたる「教師」生活により多くの後進を育てた。自宅にアトリエを有し、油絵を描いていた父政喜の影響もあってか幼少の頃より絵をよく描き、第13回行動美術展(58年)に作品を出品するなど、一時期までは画家を志望していた。加えて、中高等部と通った玉川学園はキリスト教教育で知られ、若桑の仕事の大きな柱の一つとなったキリスト教美術研究にはこのような背景があったとみられる。戦時中には下谷区(現、台東区)で空襲により防空壕で生き埋めとなり、また、母の縁で宮城県に疎開するが、後年、これらの戦争体験が自らにとっての原体験であったと若桑は述べている。「60年安保闘争」にも身を投じ、芸大音楽学部時代には明治村(愛知県犬山市)への移築が決定されていた旧東京音楽学校奏楽堂の現地保存運動に取り組む(奏楽堂は台東区管轄のもと上野公園へ移築され、88年には重要文化財に指定される)。芸大ではイタリア語教師としての採用であったが、この間、イタリア美術を中心として、ルネサンス、マニエリスム、バロックと幅広く、かつ多くの論考を著す。最初の単著『マニエリスム芸術論』(岩崎美術社、1980年)をはじめとして、ハウザー『マニエリスム』全3巻(岩崎美術社、1970年)他、多くの基本となる研究書の翻訳も手がける。80年には編著となった『美術のなかの裸婦 寓意と象徴の女性像』(集英社、1980年)で第2回サントリー学芸賞を、85年には日本におけるイコノロジー研究の嚆矢とも言える『薔薇のイコノロジー』(青土社、1984年)により第35回芸術選奨文部大臣賞を受賞。『女性画家列伝』(岩波書店、1985年)では、女性画家の発掘・紹介にとどまらない、女性画家の置かれた社会史的・文化史的背景に踏み込んだ分析を発表する。82年~89年にかけては、ヴァティカン・システィーナ礼拝堂修復調査グループに参加。その成果は、『光彩の絵画―ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画の図像解釈学的研究』(哲学書房、1993年)に結実する。芸大から千葉大へと移籍する前後には、女性研究者としての日常を綴るエッセイ集『レット・イット・ビー』(主婦の友社、1988年)も出版。90年代に入ると、これまでの若桑の主たるフィールドであった西洋のみならず、日本近代にも分析の対象を広げ、美術史研究の枠組みにとどまらない精力的な研究活動を進める。イコノロジー研究を基盤としつつ、様々な分析の視点を交錯させるその手法は一言でまとめられるものではないが、とりわけフェミニズム/ジェンダーの視点に立った視覚表象研究、戦争や政治/権力と表象をめぐる文化史的研究、世界システムの中でのキリスト教文化の研究といったテーマそのものが、若桑の大きな問題意識とそのスケール感を物語っているだろう。91年10月には、美術史学会「フェミニズムと美術史」の第1回シンポジウムで「フェミニズムと美術史の諸問題」、93年1月には同第2回シンポジウムで「フェミニズム美術史の新地平」、94年5月の第47回美術史学会全国大会のシンポジウム「戦争と美術」では「戦争と女性イメージ」と題して発表し、美術の持つ政治的側面を鋭く突いた。95年3月には千野香織らとともにイメージ&ジェンダー研究会を設立。97年12月東京国立文化財研究所国際シンポジウム「今、日本の美術史学をふりかえる」での千野の発表「日本の美術史言説におけるジェンダー研究の重要性」をめぐって、稲賀繁美との間で美術史における「ジェンダー論争」を展開する。その後も、中国、韓国、インドといったアジア各国における視覚表象へと関心の対象を広げ、また、男女共同参画、バックラッシュに関する積極的な講演活動を行う。この間、イメージ研究とその解釈に関する『絵画を読む―イコノロジー入門』(日本放送出版協会、1993年)、『イメージを読む―美術史入門』(筑摩書房、1993年)、『イメージの歴史』(放送大学教育振興会、2000年)の他、『戦争がつくる女性像―第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(筑摩書房、1995年)、『岩波近代日本の美術(2)隠された視線―浮世絵・洋画の女性裸体像』(岩波書店、1997年)、『象徴としての女性像―ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』(筑摩書房、2000年。80年刊行の『寓意と象徴の女性像』の全面改訂版)、『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』(筑摩書房、2001年)、『お姫様とジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(筑摩書房、2003年)、『戦争とジェンダー―戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』(大月書店、2005年)等を著わす。上記書籍のうち、『イメージを読む』、『皇后の肖像』、『戦争とジェンダー』は韓国語訳された。96年にはイタリア共和国カヴァリエーレ勲章、03年には紫綬褒章を受章。04年には戦国時代の天正遣欧少年使節を描いた『クアトロ・ラガッツィ―天正少年使節と世界帝国』(集英社、2003年)で第31回大佛次郎賞を受賞。遺著となった『聖母像の到来』(青土社、2008年)は学位請求論文として準備されたもので、若桑の死後、多くの同学や教えを受けた研究者たちの尽力によって出版され、07年10月3日に遡って、提出先であった千葉大学より名誉博士号が授与された。ロシア文学者で東京大学名誉教授の川端香男里は実兄。なお、この他の若桑の業績に関しては、池田忍編「若桑みどり先生を送る」(『人文研究(千葉大学)』30号、2001年3月)、および「若桑みどりさんの業績一覧(暫定版)」(『イメージ&ジェンダー』9号(若桑みどり追悼特集)2009年3月)を参照されたい。『イメージ&ジェンダー』9号には、未発表論文、ブックレビュー、および各誌に掲載された若桑への追悼文なども掲載されている。

髙橋榮一

没年月日:2007/08/07

読み:たかはしえいいち   西洋中世美術史研究者で早稲田大学名誉教授であった髙橋榮一は、8月7日、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。享年75。1932(昭和7)年2月5日、大分県杵築市に生まれる。56年早稲田大学第一文学部卒業、同大学院修士課程入学、その後同大学院博士課程、59年同大学文学部助手を経て、64年同学部専任講師、67年同学部助教授となり、74~2002(平成14)年の29年間にわたり同学部教授を務めた。98~2002年には同大学會津八一記念博物館長も兼務した。2002年3月に同大学を定年退職、同年4月に同大学名誉教授となった。学部・大学院学生時代にはロマネスク彫刻を中心とした研究を行い、12世紀ロマネスク着衣像の特色の一つである衣襞表現の多様な表現形式に着目し、装飾写本挿絵を参考にしながらその様式展開を明らかにした。大学院では西洋美術史家・板垣鷹穂に師事し、その後生涯を通じてビザンティン美術についての研究を深めた。千年の歴史を有するビザンティン帝国の美術は、西洋美術史の形成に大きな役割を果たしているにもかかわらず、波乱に満ちた帝国の状況と滅亡後の政治・宗教の激変により現存作例が少ないために、研究上の難題を宿命的に抱えている。髙橋の研究の基盤は数々の現地調査によって形成され、ギリシアなど地中海地域のみならず、ビザンティン美術の流れを汲むロシアや東欧スラブ諸国など広域をその対象としていた。地理的あるいは社会経済的にも孤絶した各地の美術は、日本ではもちろん、当時は西洋でも研究が十分に進められておらず、こうした分野に実践的な美術史研究の光をあてた功績は大きい。68年に早稲田大学ソ連・東欧美術調査隊隊長として渡欧、74~5年にはギリシア政府招聘研究員として現地に滞在、アトスをはじめ各地のビザンティン遺蹟の調査を行った。また80~81年にはギリシア・カストリアを対象として「ギリシア中世教会堂壁画調査」(早稲田大学の科研調査)を実施した。これらの調査研究活動は下記の公刊書籍等にまとめられている。 訳著R.マルタン『ギリシア(世界の建築)』(美術出版社、1967年) 共編著『ビザンティンの世界(世界の文化史蹟11)』(講談社、1969年) 編著『ローマ(世界彫刻美術全集5)』(座右宝刊行会、1976年) 編著『初期キリスト教・ビザンティン(週刊朝日百科36)』(朝日新聞社、1978年) 編著『ロシアの聖堂』(講談社、1980年) 編著『聖山アトス(世界の聖域13)』(講談社、1981年) 編著『ビザンティン美術(世界美術大全集 西洋編6)』(小学館、1999年)  髙橋は、現地で作品と真摯に向き合う研究スタイルを終始堅持し、後進の育成・指導においても尽力した。没後、早稲田大学美術史学会より遺稿集『ビザンティンへの船出』(2007年)が編集・刊行されている。 

久野健

没年月日:2007/07/27

読み:くのたけし  仏教彫刻史研究者の久野健は7月27日午前2時58分、膵臓がんで東京都新宿区内の病院で死去した。享年87。  久野は1920(大正9)年4月19日に久野亀之助の三男として東京府下滝野川田端に生まれた。1942(昭和17)年3月に水戸高等学校を卒業し、同4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。44年9月には同大学院に進学するも翌年5月31日付で中退し、同日に文部省美術研究所に助手として採用。52年4月には東京文化財研究所の組織規定にともない同研究所美術部文部技官となる。67年2月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、69年4月には同所美術部第一研究室長に昇任。78年4月には同所情報資料部の初代部長に就任。82年3月に退官。退官後は自宅に隣接して仏教美術研究所を設立・主宰し、同学を志す若い研究者に開放し、若手の育成を行った。久野の研究が戦後日本の仏教彫刻史を牽引したことは衆目の認めるところである。ことに長く在籍した美術研究所から東京国立文化財研究所時代の研究では、仏像のX線透過撮影を推し進めるとともに、その成果を踏まえながら卓抜した彫刻史のビジョンを示した。すなわち、『日本霊異記』の記述と照らし合わせて平安初期の木彫像の発生およびその支持推進が民間の私度僧による造像にあったことを提唱し、この学説は多少の修正は加えられながらも今日でも支持されている。また、都鄙を問わず現地での調査研究を行ったことも研究の特色であり、成果の公表は『美術研究』を中心に行われ、『東北古代彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1971年)や『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年)といった大著として結実している。さらに、上述の光学的研究手法を援用しながらの研究は、金銅仏を中心とする古代彫刻研究の分野では、76年の『押出仏と磚仏(日本の美術118)』(至文堂)、78年の『白鳳の美術』(六興出版)、79年の『古代朝鮮仏と飛鳥仏』(東出版)などへと結実し、中世彫刻の分野では、静岡・願成就院および神奈川・浄楽寺の作例群が運慶作であることを解明したことも大きな成果である。研究活動と並行して教育普及活動にも携わり、美術研究所着任の二年後の47年4月からは女子美術学校(現在の女子美術大学)において日本美術史を講義する(同校での講義は67年3月まで続いた)とともに、62年に新潟大学をはじめとして、その後も名古屋大学、東京大学、静岡大学、東京芸術大学で日本彫刻史を講義した。76年6月には東京大学より文学博士の称号授与を受けた(博士論文は『平安初期彫刻史の研究』)。この他にも編集委員を多く引き受け、56年には『図説日本文化史大系』全13巻(小学館)、66年には『原色日本の美術』全30巻(小学館)、68年には『日本の歴史』全13巻(読売新聞社)、79年には『図説日本文化の歴史』全13巻(小学館)の刊行に携わり、79年の『日本古寺美術全集』全25巻(集英社)、86年からの『仏像集成』(学生社)には監修として名を連ねた。

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