西川新次

没年月日:1999/09/18
分野:, (学)
読み:にしかわしんじ

 9月18日午前3時40分、脳腫瘍のため入院先の千葉県柏市内の病院で死去。慶應義塾大学名誉教授、佐野美術館館長、醍醐寺霊宝館館長。享年78。日本彫刻史。
 西川は1920(大正9)年12月11日、福井県武生市蓬莱42の商家に生まれた。幼少年時代から慶慮義塾大学で日本彫刻史の研究を志す頃までの一端は「読書遍歴―少・青年時代のころ―」(『三色旗』312号、慶慮義塾大学、1974年)に詳述される通りで、日本彫刻史の研究を志すきっかけについても、和辻哲郎『古寺巡礼』の名文に刺激されて日本美術ことに仏像に興味を覚えたことを回顧している。そして、慶應義塾大学文学部2年の頃に、生涯の師となる丸尾彰三郎(当時、慶應義塾大学に非常勤講師として招かれていた)の門を敲く。その折、古代彫刻を学ぶにあたって読むべき本を尋ねたところ「先ず『六国史』を読んで自分なりの年表や索引を作ることを薦められ、論文集ではと語を継ぐと津田左右吉の『文学のあらわれたる我国国民思想の研究』・『黒川真頼全集』・平子鐸嶺の論文集など、直接関係なさそうな、一見古くさい本を挙げられたのには驚いた」が「それぞれを読み進めながら、いずれも根本的な思考や研究につながる、大きな意味を含んでいることを、改めて思い知らされた」と述べている。このあたりに後年、文献を緻密におさえ論を構築していく西川の学風の淵源が求められそうである。学問にかける情熱は日本彫刻史にとどまらず中国石窟芸術にも及び「召集直前に広告の出た水野清一長廣敏雄氏の『竜門石窟の研究』は、父に頼んで、先輩・松下隆章氏を患わして買って貰った。生きて読めるかどうかわからないのに、呑気な話である。幸いに戦が終って、その本に接した時の喜びは、なににも優る思いであった」と記すことに窺うことができる。そして、満州四乎街の予備仕宮学校時代に現地の本屋でその頃発行された足立康の『日本彫刻史の研究』を購入し「ベットの上の整理箱にしまって置いたところ、教官に見つかって散々に油を絞られた」が「断固として反抗し、妥協することを止めた」ために「本は学校を卒業するまで教官におあずけとなってしまった」という逸話も、日本彫刻史にかける情熱と意志の堅さを示すであろう。43(昭和18)年9月、慶應義塾大学文学部哲学科(芸術学専攻)卒業。同月、東京帝室博物館に採用。列品課勤務(技術雇員)。なお、この頃、丸尾彰三郎の紹介で東京・品川寺に下宿し、住職の子息・仲田順和(現、醍醐寺執行長)と文字通り寝食をともにする。後年、西川が醍醐寺と格別関係が深かったことも、この頃にまで遡る。47年5月、国立博物館陳列課勤務(文部技官)。 50年9月、文化財保護委員会保存部美術工芸課に配置換。58年1月から11月、外務事務官兼務(外務省文化情報局勤務)。同3月から9月、ヨーロッパ巡回日本古美術展開催のためパリ・ロンドン・へーグ・ローマに出張。62年8月より文化庁文化財保護部美術工芸課修理主査。67年4月より東京国立博物館学芸部資料課長。69年12月より71年3月まで文化庁文化財保護部美術工芸課長。71年4月、慶應義塾大学文学部教授となり、86年3月、定年退職。この問、慶應義塾大学において指導を仰ぎ、仏教美術を志した学徒のなかから中川委紀子、紺野敏文、片山寛明、関根俊一、林温、塩津寛樹、金子信久、浅見龍介、山岸公基が輩出することとなった。なお、慶應義塾大学における門弟への指導は非常に厳しいものがあったことはあまり知られていない。慶應義塾大学三田校舎での最終講義は「藤原彫刻の成立」についてであった。このテーマを最終講義に選んだのは当時、責任編集に当たった『平等院大観』第2巻・彫刻篇(岩波書店、1987年)において大仏師定朝と平等院鳳風堂の彫刻について改めて取り組んだことによるところが大きいものとみられるが、一方で、西川の関心の中心が平安彫刻史にあったことを示すものでもあろう。同年4月慶應義塾大学名誉教授となる。そして、84年7月より91年3月まで山梨県立美術館長を勤める。また、学習院大学文学部、中央大学文学部、東京芸術大学大学院美術研究科、静岡大学教育学部、早稲田大学大学院文学研究科、東京大学文学部、成城大学大学院文学研究科、仁愛女子短期大学、慶應義塾大学大学院文学研究科の非常勤講師を勤め、紳土の品格を備えた西川を慕い慶應義塾大学以外においても指導を仰ぐ学徒が多く慕い集まった。学術審議会専門委員、文化財保護審議委員会専門委員(第一専門調査会絵商彫刻部会長、第二専門調査会建造物部会を兼ねる)、東京国立博物館客員研究員、美術史学会常任委員、仏教芸術学会委員、密教図像学会委員、千葉県・静岡県・岩手県・新潟県・東京都・山梨県の各文化財保護審議会委員、柏市文化財保護委員会委員長、新潟県三条市史および山梨県史の編纂委員会委員、福井県史編纂文化財部会参与、中日共同敦煌莫高窟修復委員会委員、東大寺南大門修復委員会委員長、臼杵磨崖仏修理委員会委員、福井県立博物館建設委員会委員、福井県立美術館運営協議会委員、出光美術館評議委員、三井文庫評議委員、佐野美術館常任理事を勤める。死亡時には佐野美術館館長、醍醐寺霊宝館長の職にあった。西川の学風は現場での知見を重んじるとともに、文献を押さえた緻密な論の構築にあったが、前者は博物館および文化庁時代に現場で調査・修理に携わった経験を通じて培われた。学問領域は飛鳥時代から鎌倉時代にまで及ぶ。しかも発表されたどの論考も今日でも遜色なく、その後の研究の指針となっている。業績において特筆されるのは師・丸尾彰三郎を中心に毛利久井上正・水野敬三郎と『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代造像銘記篇・全8巻(中央公論美術出版、1966~71年)を刊行したことで、その刊行によって日本美術の研究分野において彫刻史がいち早く作品の調査方法、記述の仕方、写真の撮影カット等の確立をみた。まさに近代にはじまる日本彫刻史研究を今日のスタイルに固めた業績は大きい。そしてこれを承けてさらに田辺三郎助と西川杏太郎が参加して『日本彫刻史基礎資料集成』平安時代重要作品篇・全5巻(中央公論美術出版、1973~97年)を完成させている。また、これと併行してはじまった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店、1968~73年)や『大和古寺大観』全7 巻(岩波書店、1976~78年)において日本彫刻作品の鑑賞のあり方に一つの指針を示した。さらに、文化庁美術工芸課の課長時代の国宝・重要文化財修理の経験と文化財行政で得た信用は、88年から93年にかけて行われた文字通り世紀の大修理となった東大寺南大門金剛力士像の大修理において保存修理委員会委員長を務め、指導を行ったことは記憶に新しい。そして、最後の論考は『密教図像』17号(1998年)に発表した「重源と醍醐寺・村上源氏(上)―大蔵卿栢杜堂と醍醐寺の三角五輪塔を巡って―」であった。これは前年、四日市市立博物館で開催された特別展『重源上人』の会期中、同館を会場として行われた密教図像学会全国大会における記念講演をもとに執筆したものである。自らが修理に関わった東大寺南大門金剛力士像の造像勧進者と知られる俊乗房重源と、霊宝館長を務めた醍醐寺とを視野にいれて、重源と醍醐寺の関わりを信仰に及んで論じたものである。99年2月に上梓し、その抜き刷を各方面に送付すべく書斎で自ら作業を行っている時に倒れたが、その後、回復・退院する。4月末頃より同年秋に東京・東武美術館と大阪・市立美術館において開催される『役行者と修験道の世界』図録のための執筆にとりかかったのが最後の仕事となった。七月初旬に再入院。『平等院大観』刊行後、西川の念願であった『醍醐寺大観』全3巻の刊行が漸く実現へと動きだした9月18日、78歳の生涯を閉じる。『醍醐寺大観』刊行の遺志は水野敬三郎(東京芸術大学名誉教授、新潟県立近代美術館長)が引き継ぎ、2001年冬、漸く刊行がはじまる。その監修者として山根有三とともに名を連ねることとなった。編著書・論文かの述作については『日本彫刻史論集』(中央公論美術出版、1991年)に総目録がある。それ以後に執筆された論考は以下の通り。「中道町円楽寺の役行者像」〔植松先生頒寿記念論文集刊行会編『甲斐中世史と仏教美術』(名著出版、1994年)〕、「七百九十年目の甦り その尊容と平成修理の概要」〔東大寺監修・東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会編『仁王像大修理』(朝日新聞社、1997年)〕、「役行者像から見た修験の世界」(役行者神変大菩薩一三00年遠忌記念特別展図録『役行者と修験道の世界』、1999年)「重源と醍醐寺・村上源氏(上)―大蔵卿栢杜銅と醍醐寺の三角五輪塔を巡ってJ (『密教図像』17号、1998年)。なお、没後、莫大な蔵書・抜刷・調書・写真資料の行方について各方面から関心が寄せられたが、学閥にとらわれることなく後進の研究者の育成を願った西川の遺志を汲んだ夫人の配慮により、生前、霊宝館長を勤めた醍醐寺に西川文庫を創設し、研究者に公開し研究の進展に益すべく移管され、西川が館長時代に進め、2001年秋に開館された下醍醐の新宝物館内の、国宝薬師三尊像が鎮座する隣室に開設が予定されており、目下、公開すべく作業が進められている。 

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(261-263頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「西川新次」『日本美術年鑑』平成12年版(261-263頁)
例)「西川新次 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28160.html(閲覧日 2024-04-18)

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