本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





太田博太郎

没年月日:2007/01/19

読み:おおたひろたろう  建築史家で日本学士院会員、東京大学名誉教授の太田博太郎は1月19日午前11時20分、老衰のため東京都狛江市内の病院で死去した。享年94。1912(大正元)年11月5日、東京に生まれる。1932(昭和7)年旧制武蔵高等学校を卒業後、東京帝国大学工学部建築学科に入学。35年卒業後、法隆寺国宝保存工事事務所助手等を経て、43年東京帝国大学助教授、60年東京大学教授。73年同定年退官、同大学名誉教授。同年より74年まで武蔵野美術大学教授。74年より78年まで九州芸術工科大学学長。78年より1990(平成2)年まで武蔵学園長。92年より97年まで財団法人文化財建造物保存技術協会理事長。伊東忠太と関野貞に始まった日本建築史学を継承、大きく発展させ、戦後における研究の基礎を築いた。その研究の柱は古代・中世の寺院建築史と日本住宅史であるが、そこにとどまらない幅広い分野で活躍した。大学卒業後の数年間、法隆寺をはじめとする文化財建造物の修理工事に現場で携わるが、そこで浅野清から学んだ実証的手法と文献資料の徹底した渉猟をもとに43年、初の著作である『法隆寺建築』を上梓する。47年には日本建築史の代表的概説書として今日も広く読まれる『日本建築史序説』(彰国社)、翌48年には『図説日本住宅史』(同)を著すなど、研究者として一気に頭角を現す。54年、「日本住宅史の研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞、57年には「中世の建築」にて工学博士号を取得している。その研究手法は機能主義的建築史学と言われるが、『書院造』(東京大学出版会、1966年)に見られるように、構造や機能の面から中世仏堂の発生や書院造の成立過程を説明し、その後の人々の日本建築史の理解に多大な影響を与えた。一方で、『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店、1979年)など、研究の基礎となる基本的資料の整理においても大きな実績を残しており、このような基礎資料を重視する姿勢は数多くの全集本の編集に携わったことにも表れている。その代表的成果として、『建築学大系』(彰国社、1954-64年)、『奈良六大寺大観』(岩波書店、1968―73年)、『日本建築史基礎資料集成』(中央公論美術出版、1971年-)、『大和古寺大観』(岩波書店、1976-78年)などがあり、63年には「建築学大系の刊行」で日本建築学会賞(業績)を受賞している。このような研究者の立場とともに、東大任官後も文部技官を併任した時期に十数件の文化財建造物修理工事を監督した実務者の顔を持ち、これが建造物の調査手法の体系化へとつながった。また、文化財の保存をめぐって自ら活発な働きかけを行い、近鉄車庫の建設計画を契機とする平城宮跡の保存問題では最終的に計画の中止と国費による全域買い上げを実現させた。さらには、妻籠宿保存への協力がその後の全国的な町並み保存運動や伝建制度創設につながるなど、多くの場面で先導的な役割を果たした。日本建築学会副会長、文化財保護審議会委員などを歴任し、学会と文化財行政の双方における重鎮であった。金堂や西塔をはじめとする薬師寺伽藍の復元もまた、後世に残る業績として挙げることができる。76年、「妻籠宿の保存」で毎日芸術賞特別賞受賞。84年、勲二等旭日重光章。89年、「日本建築史の広い分野にわたる顕著な研究業績」で日本建築学会大賞。97年、学士院会員。上記以外の主な著作に、『床の間』(岩波書店、1978年)、『歴史的風土の保存』(彰国社、1981年)、『建築史の先達たち』(彰国社、1983年)など。また代表的な論文は、『日本建築の特質』、『日本住宅史の研究』、『社寺建築の研究』(岩波書店、1983-86年)に収録されている。

阿部良雄

没年月日:2007/01/17

読み:あべよしお  ボードレール研究の第一人者で東京大学名誉教授の阿部良雄は、1月17日11時30分、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年5月23日、英文学者で小説家であった阿部知二の長男として東京都に生まれる。55年3月東京大学フランス文学科を卒業。同大学院を修了後、58年よりフランス政府給費留学生として3年間パリ高等師範学校(エコール・ノルマール・シュペリユール)に留学。62年、日本フランス語フランス文学会学会誌第1号に仏語論文 “Un Enterrement a Ornan” et l’habit noir baudelairien ― sur le rapport de Baudelaire et de Courbet(「オルナンの埋葬」とボードレールの黒い燕尾服―ボードレールとクールベの関係について)を発表、クールベの«オルナンの埋葬»を取り巻く同時代の批評及びボードレールがクールベに与えた影響関係の是非を検証した。同論文は、その後展開していくボードレールの美術批評研究の出発点となる。63年中央大学文学部専任講師となり、翌年同助教授となる。66年再びフランスに渡り、フランス国立科学研究所の研究員として2年間勤務、68年よりフランス国立東洋語学校講師となる。この間、碩学ジョルジュ・ブランに師事、ボードレール研究を深化させていく。4年間のフランス滞在を終えて70年に帰国、東京大学教養学部助教授となり、76年に同教授となる。コレージュ・ド・フランス客員教授、オックスフォード招聘研究員。1993(平成5)年の退官後は上智大学教授となり、98年より帝京平成大学教授をつとめた。97年から2001年まで日本フランス語フランス文学会会長。研究に対する姿勢は緻密かつ決して妥協を許さないものであった。難解と評されることもあったその文体は、時に行間から生じることのある曖昧さを徹底的に排除する態度から生まれたものである。「構造主義ないし意味論的アプローチが全盛をきわめているように見えるフランスの文学・芸術研究の領域で、本当に面白い発見はやはり徹底的に歴史学的かつ社会学的な探索から生まれてくる」(『群衆の中の芸術家』、中央公論社、1975年、あとがき)とし、一貫して歴史家としての視座にたち、ボードレールが打ち立てた「モデルニテ」概念の究明にあたった。実証的な論考は、ボードレールを軸とした19世紀フランス絵画から19世紀美術に及び、クールベ、マネ、ドラクロワ、ルドン、シャルダンなどに関する論文がある。1983年よりボードレールの個人完訳に挑み、10年をかけて『ボードレール全集』全6巻(筑摩書房)を刊行。原文に忠実かつ正確な翻訳、使用する日本語の適正さ、詳細に加えられた注釈などから、ボードレール文献の決定版となっている。同著は日仏翻訳文学賞を受賞。『シャルル・ボードレール:現代性の成立』(河出書房新社、1995年)によって東京大学人文社会系研究科博士号を取得。第8回和辻哲郎文学賞(学術部門)を受賞。同著の刊行直後にパーキンソン病をわずらい、10年あまりの闘病生活を余儀なくされた。逝去後、ボードレール研究会が追悼シンポジウム「阿部良雄先生とボードレール」(2007年5月19日、明治大学)を開催した他、『水声通信』(18号、2007年6月)が特集号「阿部良雄の仕事」を刊行し、同輩や教え子などが寄せた追悼文及びシンポジウムの発表内容を掲載している。妻は与謝野晶子の孫、文子。主要著書は、上記のものに加え、先の仏語論文の日本語版「«オルナンの埋葬»とボードレールの」を含む62年~79年までの論文・エッセーを収録した『絵画が偉大であった時代』(小沢書店、1980年)、美術と群衆、あるいは美術批評と画家との関わりを論じた『群衆の中の芸術家―ボードレールと19世紀フランス絵画』(中央公論社、1975年)他、以下の通りである。 単著: 『若いヨーロッパ:パリ留学記』(河出書房新社、1962年) 『西欧との対話:思考の原点を求めて』(河出書房新社、1972年) 『悪魔と反復:ボードレール試解』(牧神社、1975年) 『イメージの魅惑』(小沢書店、1990年) 『モデルニテの軌跡:近代美術史再構築のために』(岩波書店、1993年) など  共編著: 渡辺一夫、阿部良雄編『新しいフランス』(河出書房新社、1964年) 草野心平・阿部良雄・高階秀爾著『カンヴァス世界の名画4 クールベと写実主義』(中央公論社、1972年) 高階秀爾監修、阿部良雄編集・解説『現代世界美術全集 25人の画家5 クールベ』(講談社、1981年) 阿部良雄、与謝野文子編『バルテュス』(白水社、1986年) など  翻訳書:  ベネディクト・ニコルソン著、阿部良雄訳『クールベ画家のアトリエ』(みすず書房、1978年) 共訳『アンドレ・ブルトン集成』3、4(人文書院、1970年) ダニエル・マルシェッソー編著、阿部良雄監修・訳『マリー・ローランサン全版画』(求龍堂、1981年) カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄他訳『世界伝記双書 ヴァン・ゴッホ』(小学館、1983年) イヴ・ボヌフォワ著、阿部良雄、兼子正勝訳『現前とイマージュ』(朝日出版社、1985年) など

嘉門安雄

没年月日:2007/01/05

読み:かもんやすお  西洋美術史研究、美術評論家で、東京都現代美術館名誉館長であった嘉門安雄は、1月5日、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年93。1913(大正2)年、石川県に生まれる。1937(昭和12)年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史研究者の児島喜久雄教授の助手を務めた。戦後の1947年に東京国立博物館に採用され、同館の表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展等を担当した。59年開館の国立西洋美術館に転じ事業課長となり、また56年からブリヂストン美術館の運営委員となり、76年12月から1995(平成7)年5月まで同美術館長を長年務め、同美術館のコレクションの収集、各種の展覧会開催の中心として活動した。その間に、東京都現代美術館の設立準備のための諮問委員会委員となり、94年から2000年まで同美術館長を務め、同年4月から同美術館名誉館長となった。また、全国美術館会議の会長、ジャポニスム学会長等も歴任した。戦後の美術復興、そして近年までの美術館人としての活動、美術書刊行による著述活動、美術ジャーナリズムにおける評論活動等、その活動は多岐にわたっていた。しかも、その学術的な関心の領域は、西洋美術史全般、日本の近代美術にまで及んでいるが、なかでもレンブラントを中心にルネッサンス期からバロック、ロココ様式の16、17世紀に広がり、さらに印象派、ファン・ゴッホまで実に広範であった。また戦後から1990年代までの長きにわたるその著述活動を示すために掲出した、下記にあげる著述等の主要業績の一覧は、嘉門安雄個人にとどまらず、一面で戦中期から近年までの日本における「西洋美術研究」史、及び美術評論等の出版の歴史を示すものとなっている。 主要著述・翻訳等一覧:(書名の前に断り書きがないものは故人による単著である。その他は、翻訳、解説、監修等を付し、刊行年順に列記した)。 『西洋美術文庫 第34巻リューベンス』(アトリヱ社、1940年)    『ナチス叢書 ナチスの美術機構』(アルス、1941年)    石井柏亭、嘉門安雄解説『マネ』(鶴亀屋、1942年)    『レムブラント』(侑秀書房、1947年)    翻訳『ブルクハルト著作集 第1巻 チチエローネ.古代篇』(筑摩書房、1948年)    『西洋の名画』(筑摩書房、1950年)    奥平英雄、大久保泰共編著『絵の歴史』(美術出版社、1952-53年)    編著『絵画の見方』(河出書房、1955年)    『図説文庫 第20巻 世界美術物語』(偕成社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第8巻 レンブラント』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第12巻 レオナルド』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第21巻 リューベンス』(大日本雄弁会講談社、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第6巻』(執筆担当「硲伊之助」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第8巻』(執筆担当「荻須高徳」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第9巻』(執筆担当「東山魁夷」、角川書店、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第9巻 北方ルネッサンス』(みすず書房、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第10巻 北方バロック』(みすず書房、1956年)    責任編集『西洋美術史要説』(吉川弘文館、1958年)    『角川新書 北欧の美神』(角川書店、1959年)    河北倫明等著『近代の洋画人』(執筆担当「満谷国四郎」、中央公論美術出版、1959年)    編著『大原美術館作品選』(大原美術館、1960年)    監修『西洋美術史』(美術出版社、1961年、改訂増補72年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『ポール・ゴーガン』(美術出版社、1961年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第5巻 岸田劉生』(講談社、1962年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第6巻 安井曽太郎』(講談社、1962年)    編著『世界美術大系 第19巻 オランダ・フランドル美術』(講談社、1962年)    『少年少女図説シリーズ 第15巻 世界美術物語』(偕成社、1962年)    編著『世界美術全集 第33巻 西洋(9)近世Ⅰ』(角川書店、1963年)    嘉門安雄、河北倫明、町田甲一編『世界の美術』第1~8巻、別巻(講談社、1963-65年)    富永惣一、今泉篤男、嘉門安雄編『世界の名画』第1~12巻(学習研究社、1964-66年)    『日経新書 美術を見る眼』(日本経済新聞社、1964年)    編著『カラーコンパクト ルーヴル美術館』(集英社、1965年)    編著『世界の美術館 第24巻 パリ国立近代美術館』(講談社、1966年)    編著『世界美術全集 第1巻 ダ・ヴィンチ,ラファエロ/嘉門安雄執筆』(河出書房新社、1967年)    『旺文社文庫 ゴッホ:炎の人、太陽の画家』(旺文社、1967年)    『レンブラント』(中央公論美術出版、1968年)    『ヴィーナスの汗:外国美術展の舞台裏』(文芸春秋社、1968年)    編著『世界の美術館 第17巻 ロンドン国立絵画館』(講談社、1969年)    解説『ファブリ世界名画集 第13巻 ペーター・パウル・ルーベンス』(平凡社、1969年)    日本語版監修C.V.ウェッジウッド著『Time life books.巨匠の世界 ルーベンス:1577-1640』(タイムライフインターナショナル、1969年)    日本語版監修ロバート・ウオレス著『Time life books. 巨匠の世界 レンブラント:1606-1669』(タイムライフインターナショナル、1969年)    責任編集『大系世界の美術 第18巻 近代美術1 ロマンティスムの時代』(学習研究社、1971年)    富永惣一先生古稀記念会〔編〕『富永惣一先生古稀記念論文集』(掲載論文「レオナルドの『最後の晩餐』とレンブラント―レンブラント芸術成立に対する一考察」、天心社刊行会、1972年)    解説『現代世界美術全集 第16巻 モディリアーニ・ユトリロ』(集英社、1971年、普及版72年)    河北倫明、嘉門安雄解説『現代日本美術全集 第7巻 青木繁・藤島武二』(解説担当「藤島武二」、集英社、1972年、普及版73年)    責任編集『大系世界の美術 第15巻 ルネサンス美術3 北方ルネサンス』(学習研究社、1973年)    解説『ファブリ世界名画集 第81巻 ムリリョ』(平凡社、1973年)    編著『新潮美術文庫 9 レンブラント』(新潮社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第10巻 レンブラント』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第19巻 ゴッホ1』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第20巻 ゴッホ2』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第23巻 ピカソ』(集英社、1974年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第14巻 ヴァン・ゴッホ』(研秀出版、1975年)    解説『世界美術全集 第12巻 ルーベンス』(集英社、1975年、普及版78年)    編集解説『双書版画と素描 第12巻 レンブラントの素描』(岩崎美術社、1975年、改訂版86年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第16巻 モロー、ルドン、ムンク、アンソール、キルヒナー』(研秀出版、1976年)    解説『世界美術全集 第7巻 ラファエルロ』(集英社、1976年、普及版78年)    監修『西洋の美術:Deluxe gallery』第1~4巻(旺文社、1976-77年)    嘉門安雄、河北倫明監修『巨匠の名画』第1~9巻(学習研究社、1976-77年)    解説、林忠彦写真『日本の画家108人』(美術出版社、1978年)    編著『安井曽太郎』(日本経済新聞社、1979年)    『A&Aブックス 巨匠の横顔:モネからピカソ』(日本経済新聞社、1981年)    解説、岡村崔撮影『ミケランジェロヴァティカン宮殿壁画』(講談社、1981年)    『ゴッホの生涯』(美術公論社、1982年)    『北方の画家:大地の祈り』(美術公論社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 新約篇』(学習研究社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 旧約篇』(学習研究社、1984年)    『朝日選書:304 ゴッホとロートレック』(朝日新聞社、1986年)    嘉門安雄、島田紀夫共訳R.J.M.フィルポット著『River books ファン・ゴッホ』(西村書店、1989年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ゴーガン』(美術出版社、1990年、新装版1994年)    監修(門田邦子訳)セルジュ・ブランリ著『美の再発見シリーズ モナ・リザの微笑』(求龍堂、1996年。同シリーズは、1998年まで13冊刊行され、いずれも監修にあたっている)。    『人物文庫 ゴッホの生涯』(学陽書房、1997年) 

關千代

没年月日:2006/12/16

読み:せきちよ  近代日本画の女性研究者として草分け的存在であった關千代は、2005(平成17)年暮れに大腿骨を骨折して東京都板橋区の病院に入院し、同区の板橋ナーシング・ホームに移って療養中であったが、12月16日、同ホームで死去した。享年85。1921(大正10)年9月25日、東京浅草で生まれ、1940(昭和15)年3月東京府立第一高等女学校を卒業。在学中から絵画を趣味として描いた。知人の紹介により、43年12月帝国美術院附属美術研究所に入所し、隈元謙次郎のもとで研究補助にあたる。45年4月初めから、同所所蔵図書・資料が山形県酒田市に疎開するに伴い、その梱包・輸送作業にあたり、図書・資料とともに酒田市に滞在。同年9月に東京にもどる。57年、美術研究所が東京国立博物館と合併するのに伴い、文部技官となる。このころから女性日本画家について調査を始め、58年3月『美術研究』に「上村松園とその作品」(195号、1958年)を発表。63年『日本近代絵画全集 17 竹内栖鳳・上村松園』(講談社)、72年「近代の美術12 上村松園」(至文堂)を執筆する。その後、女性画家のみならず近代日本画全体についても調査研究を広げ、64年「黒猫会・仮面会等覚書―明治末年における京都画壇の一動向―」(『美術研究』232号 1964年)を発表。また、1888(明治21)年に完成され1945年に戦災により焼失した明治宮殿の杉戸絵35組が宮内庁や東京国立博物館に保管されているのが発見され、東京国立文化財研究所が保存修復・調査研究を行うに際し、美術史学的調査にたずさわり、その成果を70年「皇居杉戸絵について」(『美術研究』264号、1970年)として発表、後にその集大成となる『皇居杉戸絵』(京都書院、1982年)を刊行する。近代日本画の祖とされる狩野芳崖についても調査を続け、「芳崖の写生帳 上―「奈良官遊地取」について―」(『美術研究』286号、1973年)、「研究資料 狩野芳崖の書状―十一月六日(安政四年)付―」(『美術研究』311号、1979年)、「研究資料 芳崖の写生帳 下」(『美術研究』316号、1981年)を発表したほか、『現代日本美人画全集6 中村貞以』(集英社、1978年)、『近代の美術60 近代の肖像画』(至文堂、1980年)、『日本画素描大観5 前田青邨』(講談社、1984年)の編集、執筆を行った。83年3月、東京国立文化財研究所を停年退官し、同所名誉研究員となる。在職中は、近代日本画の調査研究だけでなく、同所が編集・発行する『日本美術年鑑』の編集に尽力。また、同所の所蔵する黒田清輝の作品・資料の調査研究にもたずさわった。退職後も近代日本画史の研究を続け、学生時代から交遊のあった月岡栄貴が死去するとその画業を跡づける『月岡栄貴画集』(月岡房子、1999年)の編集・論文執筆にあたり、2002年には日本画団体烏合会についての解説「烏合会」(『近代日本アートカタログコレクション28 烏合会』 ゆまに書房)を執筆した。女性日本画家、とりわけ上村松園の研究では第一人者として知られ、宮尾登美子著『序の舞』執筆にあたって、豊富な資料と知見によって協力。また、学生時代から絵画を趣味として描き、在職中から描きためたパステル画によって2004年東京銀座の画廊で個展を開催した。

大島清次

没年月日:2006/11/23

読み:おおしませいじ  栃木県立美術館、世田谷美術館の館長を歴任した、美術評論家、美術史研究者であった大島清次は、11月23日、肺炎のため栃木県下野市の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年11月13日、栃木県宇都宮市に生まれる。1951(昭和26)年に早稲田大学文学部を卒業。その後、栃木県立高等学校教諭、法政大学文学部講師となり、栃木県立美術館の副館長、館長となった。86年に世田谷美術館の館長となり、2003(平成15)年3月31日まで同館長を務めた。その間、多数の西洋近代美術を中心にした翻訳、著述、評論活動があり、80年に刊行した『ジャポニスム:印象派と浮世絵の周辺』(美術公論社)は、今日までのジャポニスム研究にあって先駆的で本格的な研究業績であった。また、美術評論家連盟の常任委員を務め、82年には全国の公立美術館35館と読売新聞社、日本テレビ放送網が参加した美術館連絡協議会設立に尽力した(現在、同連絡協議会には124館が加盟している)。美術館長時代には、国内美術館の問題点を現場から指摘し、その改善策を積極的に提言した。美術館人としての一連の発言は、後に『美術館とは何か』(青英舎、1995年)にまとめられた。さらに美術館問題に端を発したこうした提言は、同書の続編として刊行された『「私」の問題:人間的とは何か』(青英舎、2001年)でもつづけられており、文化史、文明史的な視点から人間、美術、自然、経済活動にわたるまで、ひろく論じられ思索が深められていったことがわかる。上記の著作以外に主な翻訳、著作書は、刊行年順にあげると下記の通りである。 翻訳ジャン・ヴェルクテール著『古代エジプト』(白水社、1960年)翻訳フランソワ・フォスカ著『美術名著選書 文学者と美術批評:ディドロからヴァレリーへ』(美術出版社、1962年)翻訳ピエール・フランカステル著『絵画と社会』(岩崎美術社、1968年)解題『双書・美術の泉 ロートレックのデッサン』(岩崎美術社、1970年)『ドガ』(岩崎美術社、1970年)編集『日本の名画12 青木繁』(中央公論社、1975年)共著『世界の名画3 アングルとドラクロワ:新古典派とロマン派』(中央公論社、1972年)編著『世界の素描19 ミレー』(講談社、1978年)翻訳サミュエル・ビング編『芸術の日本:1888~1891』(美術公論社、1981年)編集・解説『25人の画家:現代世界美術全集6 マネ』(講談社、1981年)翻訳アンドレー・ケイガン著『モダン・マスターズ・シリーズ マルク・シャガール』(美術出版社、1990年)翻訳ロベール・レー著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ドーミエ』(美術出版社、1991年)翻訳フレデリク・ハート著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ミケランジェロ』(美術出版社、1992年)

福部信敏

没年月日:2006/11/01

読み:ふくべのぶとし  ギリシア美術史研究者で、跡見学園女子大学(1972―2000年)、東京芸術大学(2000―2006年)にて教鞭をとった福部信敏は、11月1日自宅で死去した。享年68。1938(昭和13)年7月26日横浜に生まれる。63年東京教育大学卒業、同大専攻科入学、その後65年早稲田大学大学院入学、72年早稲田大学大学院博士課程を修了し、跡見学園女子大学講師となる。80年、跡見学園女子大学教授、1990(平成2)―92年、同大副学長をつとめる。2000年、跡見学園女子大学を退職、同年、東京芸術大学教授に就任し、06年3月、東京芸術大学を退職した。東京教育大学時代、ギリシア美術史家の澤柳大五郎と出会い、澤柳の指導のもと、パルテノン研究に着手し、その後生涯を通じてギリシア美術研究を深めた。学部卒業論文は、パルテノン神殿のフリーズ彫刻に関するもので、修士論文はクラシック期最大の画家ポリュグノートスの壁画についての論考である。福部の研究業績は、西洋美術の源流にある古代ギリシアのクラシック期の美術を、パルテノン神殿の様式や図像と照らし合わせて検証したことにあり、さらにクラシック期の時間の表現や、死生観の表現へ研究は展開した。これらの研究は机上の理論として構築されたのではなく、海外調査が重要な役割をはたした。79―80年にかけてのアテネ留学、81年の「ギリシア中世教会堂壁画調査」(早稲田大学の科研調査)、および95年と96年における「パルテノン神殿の造営目的に関する美術史的学術調査」(東京学芸大学の科研調査)がその一部である。これらの研究成果は、「パルテノン神殿フリーズと本尊台座浮き彫りとの関係」『澤柳先生古稀記念美術史論集 アガルマ』(同朋舎、1982年)や、『ギリシア美術紀行』(時事通信社、1987年)や、『パルテノン神殿・フリーズ図像様式一覧』(東京学芸大学 科研報告書第Ⅱ分冊、1999年)や「パルテノン南メトープ、S21の祭神像について―への一提言」(『Aspects of Problems in Western Art History』 vol.6 [東京芸術大学西洋美術史研究室紀要]第2分冊(2005年)などに発表された。また福部の略年譜と著作目録は上述の[東京芸術大学西洋美術史研究室紀要] 第1分冊(2005年) (福部信敏先生退任記念論文集)および、『アルゴナウタイ―福部信敏先生に捧げる論文集』(アルゴ会編、早稲田メディアミックス刊、2006年)に収録されている。ギリシアの古詩へも造詣が深く、またギリシア美術研究会「アルゴ会」をたちあげ、後進の指導・育成にも尽力した。

高田修

没年月日:2006/10/27

読み:たかたおさむ  仏教美術研究者の高田修は10月27日、脳出血のため山梨県甲府市内の病院で死去した。享年99。1907(明治40)年9月8日、奈良市油留木町28番地で出生、同年出身地である三重県名賀郡依那古村大字沖(現、上野市沖)906番地に帰った。三重県立上野中学校、浦和高等学校文科丙類を経て、1928(昭和3)年4月東京帝国大学文学部印度哲学科に入学、31年3月同大学を卒業した。卒業論文は「印度古代期佛教美術の研究」であった。この年以降、数年間、インド美術について逸見梅栄博士の指導を受け、33年4月から35年12月まで東京帝国大学文学部印度哲学研究室の副手を務めた。36年から43年に至る間、社団法人日本鉱業会会誌の編集事務を行う傍ら、『南傳大藏經』中の「本生経」や「譬喩経」の邦訳や、『國譯一切經』中の「大慈恩寺三藏法師傳・大唐西域求法高僧傳」の訳注を分担し、『佛教の傳説と美術』(三省堂、1941年)や『印度・南海の佛教美術』(創芸社、1943年)を著した。この後、陸軍司政官としてジャワに赴任し、ボロブドゥール、ブランバナンなどの遺跡を見学した。終戦はジャワで迎えた。戦後、連合軍総司令部(GHQ)民間情報教育局の美術顧問となり、近畿地方に所在する文化財の保存状況を調査した。52年12月東京国立文化財研究所に就職、美術部第一研究室に配属となった。58年から翌年3月まで、印度仏蹟踏査隊員としてインドやガンダーラの仏教遺蹟、アンコールの遺蹟を調査した。59年に、『居庸關』(村田治郎編、京都大学工学部、1957年)の共同研究により第49回日本学士院賞を受賞し、翌60年5月には、京都・醍醐寺五重塔の壁画の共同研究をまとめた『醍醐寺五重塔の壁画』(高田修編、吉川弘文館、1959年3月)によって第50回日本学士院恩賜賞を受賞した。62年に美術部長となった。68年に、「『仏像の起源』(岩波書店、1967年)にいたる仏教美術史の研究」によって、朝日賞を受けた。69年4月から71年3月まで東北大学文学部教授、73年4月から78年3月まで成城大学文芸学部教授を務めた。78年10月、東京国立文化財研究所の名誉研究員となった。日本の仏教美術の調査・研究に加えて、インド、スリランカ、インドネシアをはじめとする東南アジア諸国、パキスタン、アフガニスタン、イラン、韓国、中国、欧州各国などを訪れ、そこに所在する遺蹟を調査し、またその地域にある博物館や美術館の所蔵品の調査と撮影を積極的に行い、実見に基づいた緻密な論考を多数著した。著書としては、上記の他に、『佛教美術史論考』(中央公論美術出版、1969年)、『国宝両界曼荼羅図 教王護国寺』(『日本の仏画』第Ⅱ期第10巻、学習研究社、1978年6月)、『仏像の誕生』(岩波書店、1987年)などがある。また、40年以上にわたって研究に取り組んだインドのアジャンタ石窟群に関しては、その成果が『アジャンタ壁画』(日本放送出版協会、2000年)としてまとめられた。その他の著作については、下記の2書を参照していただきたい。 東北大学記念資料室編『高田修教授著作目録』(東北大学記念資料室、1971年)高田修博士八十の賀を祝う会編『高田修博士年譜著作目録』(1987年)

片桐賴継

没年月日:2006/10/15

読み:かたぎりよりつぐ  レオナルド・ダ・ヴィンチの研究者として活躍していた美術史家片桐賴継は10月15日午前4時10分、肺がんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年49。前年7月から一年あまり闘病をつづけていた。勤務先の実践女子大学では没年の4月から教授に昇任したが、新しい職名では一度も授業をすることができなかった。片桐は1957(昭和32)年4月15日、岐阜市に生まれた。岐阜県立岐阜北高校を経て78年武蔵野美術短期大学美術科油絵専攻を卒業したが、創作ではなく美術史の研究を志すようになった。翌年学習院大学文学部哲学科1年に再入学、さらに同大学院博士前期課程、後期課程に進んで美術史を学んだ。1989(平成元)年博士後期課程の単位を取得して退学。在学中86年から一年間はローマ大学文学哲学部美術史学科に留学しコラッド・マルテーゼ教授に師事した。武蔵野美術大学、学習院大学、学習院女子短期大学(現、学習院女子大学)、杉野女子大学(現、杉野服飾大学)、実践女子大学、文化学院、お茶の水美術専門学校などの非常勤講師を勤めた後、97年実践女子大学文学部美学美術史学科専任講師となり、2000年助教授、06年教授に就任した。実践女子大学在職中も成城大学短期大学部、学習院大学、日本大学短期大学部、創形美術学校などに出講したほか、04年から一年間はトスカーナ州ヴィンチのアレッサンドロ・ヴェッツォージ教授が館長を務める、レオナルド・ダ・ヴィンチ想像博物館での在外研修のためイタリアに滞在した。片桐は一貫してレオナルド・ダ・ヴィンチを中心の課題とし、しかも初期には「三博士礼拝」、後に「最後の晩餐」という画家にとっても代表的な作品を対象に選んだ。未開拓の分野や作家に挑んでいった同世代の研究者たちの中で、このことはむしろ異彩を放つものだったが、イタリア・ルネサンス研究の王道を行きながら、一見語り尽くされたかのように見える作品に新たな光を当てようとする企図は十分な成果をあげ、イタリアの学会でも評価された。ことに「最後の晩餐」の修復完成前後にはNHKと協同して復元画像を制作、ほかにもさまざまな場面で自作の立体画像を提示するなど、美術史研究の蓄積の上に実作の経験やコンピュータの技術を生かした独自の境地を切り開いた。「最後の晩餐」については『レオナルド・ダ・ヴィンチ復活「最後の晩餐」』(小学館、1999年)、『よみがえる最後の晩餐』(アメリア・アレナスと共著、日本放送出版協会、2000年)の2著があり、最後の著書『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』(角川書店、2003年)が主著として遺されることになった。本書では天才神話にまみれたレオナルドの存在を今日の立場から冷徹に見直し、内外の最新の研究成果を過不足なく取り入れた新しいレオナルド像を明快に示している。このほか、多くのイタリア関係の翻訳、解説、またカタログ編集など展覧会への協力があり、現代美術を含む多方面の作品への深い理解と共感を示すエッセイも執筆した。長年にわたってイタリアへの学生の美術研修旅行を企画、引率、さらに各大学・学校の授業や研究指導でもなごやかで親切な教育者として慕われ、数多くの学生を美術の世界に誘ったことも長く記憶されるはずである。『実践女子大学美学美術史学』第22号(2008年)は「片桐賴継教授追悼記念号」として発行され、年譜、業績一覧、セバスティアーノ・デル・ピオンボとレオナルドの関係に関する未発表論文などを掲載している。また友人による追悼集『片桐賴継@Tokyoを語る本』(同編纂委員会刊、2007年)も刊行された。

白畑よし

没年月日:2006/06/02

読み:しらはたよし  大和絵研究者であり、女性美術史家の草分け的存在であった白畑よしは、6月2日午後6時35分、心筋梗塞のため埼玉県川口市で死去した。享年99。1906(明治39)年10月29日、山形県酒田市に生まれ、9歳で指物師であった父が上京するのに同行して上京。1926(大正15)年4月文部省専門学校入学者検定試験に合格。黒田清輝の遺言によって設立されることになり、東京美術学校の矢代幸雄研究室で準備作業が行われていた美術研究所に、1928(昭和3)年8月に入所。図版資料の作成、中川忠順文庫の整理にあたる。1930年6月帝国美術院附属美術研究所雇に就任。当時の研究所員であった田中喜作に図版解説執筆を勧められ、その指導によって、「仲津姫像(図版解説)」(『美術研究』39号、1935年)、「板絵神像 奈良薬師寺蔵(図版解説)」(『美術研究』45号、1935年)を発表。35年、論文執筆を勧められて「勧修寺繡帳の技法について」(『美術研究』48号)を発表する。以後、「人麿像の像容について」(『美術研究』66号、1937年)、「佐竹侯爵家蔵三十六歌仙絵雑考」(『美術研究』77号、1938年)、「女絵考」(『美術研究』132号、1943年)、「截金文様の研究 平安朝仏画を中心として」(『美術研究』139号、1946年)など中世絵画を中心とする論考を発表する。戦中は美術研究所の資料の疎開に伴って酒田に滞在。戦後は同研究所資料部、資料部主任を経て、49年6月文部技官に任官し、「歌仙絵の変遷」(『国華』688号、1949年)を執筆するなど、文化財の調査研究と指導につとめた。52年8月に京都国立博物館学芸課に転任。62年8月資料室長となり、研究図書、関係資料の充実に努力する。この間、「源氏物語白描絵雑考」(『大和文華』12号、1953年)、「寝覚物語絵巻雑考」(『大和文華』14号、1954年)等、大和絵の絵巻を中心に調査研究を行い、また、同館の東洋美術品の収集に尽力した。68年3月に京都国立博物館を停年退職。その後も京都市伏見桃山町に住んで、大和絵に関する論考を発表。最晩年は川口市に住む甥のもとに転居し、同地で死去した。白畑の作品研究は、作品を観察し、画中の人物の着衣や文様などの細部に注目するとともに、文学との関わりから描かれた主題や作家の考察におよび、広範な知識と鋭い洞察によって、多くの新知見がもたらされた。女性研究者の少ない時代にあって、第一線で認められる論考を発表し、後進に指針を示し続けた。著作には以下がある。 「仲津姫像 図版解説」(『美術研究』39号、1935年)「板絵神像 奈良薬師寺蔵 図版解説」(『美術研究』45号、1935年)「勧修寺繡帳の技法について」(『美術研究』48号、1935年)「人麿像の像容について」(『美術研究』66号、1937年)「佐竹侯爵家蔵三十六歌仙絵雑考」(『美術研究』77号、1938年)「歌絵と芦手」(『美術研究』125号、1942年)「女絵考」(『美術研究』132号、1943年)「法華経歌絵について」(『美術史学』88号、1943年)「上畳歌仙敦忠図解説」(『国華』641号、1944年)「松平伯爵家蔵法華経見返に就いて」(『美術研究』137号、1944年)「截金文様の研究 平安朝仏画を中心として」(『美術研究』139号、1946年)「歌仙藤原信明朝臣図解説」(『国華』696号、1945年)「やまと絵と女絵」(『三彩』3号、1946年)「白描源氏歌合絵について」(『古美術』193号、1948年)「歌仙絵の変遷」(『国華』688号、1949年)「隆能源氏の季節の題材について」(『美術研究』158号、1951年)「人麿像解説」(『国華』722号、1952年)「隆能源氏「柏木」の表現について」(『美術研究』165号、1952年)「あしでとやまと絵」(『墨美』18号、1952年)「歌仙重之像」(『国華』730号、1953年)「源氏物語白描絵雑考」(『大和文華』12号、1953年)「やまと絵の松」(『艸美』16号、1954年)「寝覚物語絵巻雑考」(『大和文華』14号、1954年)「歌仙斎宮女御図解説」(『国華』755号、1955年)「法然上人像解説」(『国華』781号、1957年)「藤田本紫式部日記絵巻について」(『大和文華』22号、1957年)「女絵補考」(『仏教芸術』35号、1958年)「法界寺壁画(飛天)の製造期に関する推察」(『美術史』32号、1959年)「牛絵四点」(『淡交』158号、1961年)「平家納経と檜扇」(『仏教芸術』52号、1963年)「青蓮院本准胝観音像に就いての私見」(『国華』865号、1964年)「仏鬼軍絵巻について」(『大和文華』72号、1964年)「扇面写経」(『仏教芸術』56号、1965年)「平家の美意識」(『美術工芸』337号、1967年) 著書 『紅白梅図燕子花図』(共著、美術出版社、1955年)『古美術ガイド 京都』(共著、美術出版社、1964年)『やまと絵(日本の美と教養)』(河出書房、1967年)『王朝の絵巻』(鹿島研究所出版会、1968年)『京のうちそと』(京都文庫、1971年)『貝あわせ(日本の遊戯具1)』(共著、フジアート出版、1974年)

林宗毅

没年月日:2006/04/03

読み:はやしむねたけ  実業家で、中国書画の収集家としても知られる林宗毅は、病気療養中のところ、4月3日、東京にて死去した。享年83。林宗毅は、台湾三大名家の第一に挙げられる板橋林本源家の嫡流として、1923(中華民国12)年4月22日、台北の板橋鎮に生まれた。字を志超といい、定静堂と号した。原籍は福建省漳州府龍渓県。1778(乾隆43)年、五代の祖である林應寅の代に台湾に移り、のちに應寅の子林平侯が居を台北県新荘鎮に定め、土地の開墾・塩の専売・貿易等によって財を築いた。1846(道光26)年から1853(咸豊3)年の間に、平侯の二人の子、林國華・林國芳が板橋鎮に移居し、林國華・林國芳それぞれの屋号である本記・源記を合わせて、林家は林本源と総称するようになった。福建の造園技術の粋を集めて築造した林本源園邸は、現在も台北県の古跡として一般に公開されている。定静堂をはじめ、来青閣、方鑑斎、汲古書屋等の別号は、いずれも林本源園邸の楼亭や書斎の名称に由来している。1944(中華民国33)年、台北帝国大学医学部に入学するも、翌年終戦のため退学。1948(中華民国37)年、国立台湾大学文学院外国文学系を卒業。1953(昭和28)年、東京大学大学院(旧制)文学部英文学科を修了。1973(昭和48)年、日本に帰化した。長らく、台湾・日本・アメリカなどで実業家として活躍するかたわら、30歳の頃から中国書画の収集に心を砕き、約1000件のコレクションを形成した。それらの収蔵品は、一般に公開して研究に役立てたいとの考えから、『定静堂中国明清書画図録』(求龍堂、1968年)・『定静東方美術館開館記念展目録』(凸版印刷、1970年)・『近代中国書画集』(中央公論事業出版、1974年)を編修発行、一方では林家にまつわる貴重な文献を『定静堂叢書』として刊行した。収蔵品は、台北の国立故宮博物院(1983・1984・1986・2002年)、東京国立博物館(1983・1990・2001・2003年)、和泉市久保惣記念美術館(2000年)に寄贈し、それにより紺綬褒章を受章(複数回)、中華民国教育部文化奨章(1984)、国立故宮博物院栄誉章(1986年)、中華民国総統奨状扁額(1986年)、中華民国行政院文化建設委員会「第6回文馨奨」の「金奨特別奨章」(2003年)を受章した。『定静堂清賞』(東京国立博物館、1991年)、『林宗毅先生捐贈書画目録』(国立故宮博物院、1986年)、『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)等があり、三館に寄贈した収蔵品から名品を選んだ『定静堂中国書画名品選』(財団法人林宗毅博士文教基金会・国立故宮博物院、2004年)がある。1983(中華民国72)年、中華学術院名誉哲士。1987(中華民国76)年、中国文化大学名誉文学博士。

吉田清

没年月日:2006/01/26

読み:よしだきよし  東京美術倶楽部代表取締役の吉田清は1月26日、肺炎のため死去した。享年78。1927(昭和2)年2月11日、東京都に中村嵩山の四男として生まれ、吉田家養子となる。44年電機高校を中退。古美術商水戸幸に入店し、56年有限会社赤坂吉田を設立して同社代表取締役となる。58年、同社を有限会社赤坂水戸幸と改称。61年から63年まで東京美術倶楽部青年会理事長をつとめ、この間、第二次大戦で行方や消息が不明であった佐竹本三十六歌仙絵を一堂に集めた「佐竹本三十六歌仙展」を開催して注目された。東京美術倶楽部にあっては、81年に監査役、83年に取締役、1995(平成7)年に取締役副社長、97年に代表取締役となった。また、東京美術商協同組合にあっては、66年に理事、77年に専務理事、91年に理事長となり、99年全国美術商連合会会長となった。宗翠と号して茶の湯をよくし、79年財団法人小堀遠州顕彰会理事、84年光悦会役員、86年財団法人MOA美術館光琳茶会役員、2000年大師会理事となり、東都茶道界の重鎮であった。著書に『佐竹本三十六歌仙図録』(共著、東京美術青年会、1962年)、『古筆手鑑梅の露』(書芸文化院、1964年)、『写経手鑑紫の水』などがある。

川上涇

没年月日:2006/01/18

読み:かわかみけい  東洋絵画史研究者の川上涇は1月18日、老衰のため東京都品川区上大崎の自宅で死去した。享年85。1920(大正9)年3月19日、京都市上京区河原町通荒神口に生まれる。1932(昭和7)年3月東京府立第一中学校を卒業。39年旧制第一高等学校を卒業し、同年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学する。瀧精一に師事し、41年12月に同科を卒業。42年4月応召して第一補充兵として近衛歩兵第一連隊に入隊し、42年12月陸軍少尉、45年8月陸軍中尉となり応召を解除される。45年10月より東京女子大学講師として日本美術史を講じ、46年2月より美術研究所嘱託となった。47年6月に東京帝国大学大学院を中退し、同年7月に美術研究所職員となる。48年12月東京女子大学を退職。52年4月に美術研究所が東京文化財研究所となると、同所美術部資料室に配属された。54年7月、東京国立文化財研究所の改組により同所美術部第一研究室に配属され、67年第一研究室長となり、76年4月美術部長となった。この間、1950年10月より成蹊大学講師、64年から67年3月まで横浜国立大学講師、67年からは埼玉大学講師をつとめたほか、東京大学、京都大学、東北大学の講師としても教鞭を取った。明代清代の絵画史を主な研究対象とし、作品に即した実証的な調査研究を行い、60年米沢嘉圃、鈴木敬とともに、台湾に渡り、当時台中にあった故宮博物院の所蔵になる絵画2800点あまりのうち約1000点を調査して、中国絵画の主要な優品の調査に基づく、新たな中国絵画史研究に一石を投じた。82年3月、停年により東京国立文化財研究所を退官する。その後も沖縄県立芸術大学などで講師として教鞭を取った。著書に『東洋美術 絵画Ⅰ』(共著、朝日新聞社、1967年)、『日本絵画館 12 渡来絵画』(講談社、1971年)、『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)、『大阪市立美術館蔵中国絵画』(共編、朝日新聞社、1975年)、『水墨美術大系 4 梁楷・因陀羅』(共著、講談社、1977年)などがあり、個別作家の研究としては明代の宮廷画家王諤に関する論考「送源永春還図詩画巻と王諤」(『美術研究』221号、1962年)、「王諤筆山水図」(同232号、1964年)、および揚州八怪のひとりともされる華嵒に関する論考「新羅山人早期の作品 付華嵒略年譜」(『MUSEUM』174号、1965年)、「華嵒の秋声賦意図」(『美術研究』236号、1965年)、「研究資料 張四教筆新羅山人肖像―華嵒伝記の一資料」(同256号、1969年)がある。美術史学会、東方学会等に所属し、東方学会においては1987年から1999(平成11)年まで、秋山光和とともに同学会内に部会を組織し、同会内の美術史部会への道を開くなど、後進のために尽力し、長年の功績により2005年同会より功労者特別表彰を受けた。 『原色版美術ライブラリー0104 中国』(共著、みすず書房、1959年)『世界の美術10カルチュア版 中国の名画』(世界文化社、1977年)「邵宝題扁舟帰闕図私考」(『美術研究』248号、1967年)「研究資料 張四教筆新羅山人肖像―華嵒伝記の一資料―」(『美術研究』256号、1969年)「東洋館開館 宋元名画の数々」(『MUSEUM』212号、1968年)「研究資料 祁豸佳の生年」(『美術研究』269号、1970年)「祁豸佳の画蹟 上」(『美術研究』279号、1972年)「王鑑の画蹟(一)」(『美術研究』304号、1977年)

林巳奈夫

没年月日:2006/01/01

読み:はやしみなお  東洋考古学者で、京都大学名誉教授、日本学士院会員の林巳奈夫は、1月1日、急性心不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年80。1925(大正14)年5月9日、神奈川県に生まれる。1950(昭和25)年京都大学文学部史学科考古学専攻を卒業し、平凡社編集部を経て、57年京都大学人文科学研究所助手として赴任。68年助教授となり、75年同研究所教授となる。同年に京都大学より文学博士学位を取得した。1989(平成元)年定年退官、京都大学名誉教授となり、2005年に学士院会員に選定された。86年からは泉屋博古館理事の職にあった。林は、青銅器、玉器の考古学的研究、漢代の画像石の図像学的研究などを中心に、中国新石器時代から漢時代までの文化について、幅広く論究した。資料観察を徹底する実証主義的な考古学と、広範な資史料の精緻な解読の双方の成果を総合させることにより、中国古代社会の諸相を浮かび上がらせた。まず林は、青銅器の考古学的研究に取り組んだ。初期の著作である『中国殷周時代の武器』(京都大学人文科学研究所、1972年)をはじめ、とりわけ『殷周時代青銅器の研究 殷周青銅器綜覧一』(吉川弘文館、1984年)、『殷周時代青銅器紋様の研究 殷周青銅器綜覧二』(同、1986年)、『春秋戦国時代青銅器の研究 殷周青銅器綜覧三』(同、1988年)の三部作は、中国青銅器研究が依拠すべき基本図書として、国内外で広く受け入れられている。『殷周時代青銅器の研究』(1984年)により、翌年学士院賞を受賞した。これらの研究では資料の網羅性が徹底されており、膨大な資料の形態分析と機能分析、そしてそれにもとづいた精緻な編年が行われている。こうした研究手法は、玉器の研究においても遺憾なく発揮されており、『中国古玉の研究』(吉川弘文館、1991年)、『中国古玉器総説』(同、1999年)に結実している。また、学部生の頃に興味を抱いたという画像石の研究に新しい方法を切り開いた。すなわち、拓本や写真図版では確認しづらい図像を線画に描き起こし、そのかたちや配置を分析するもので、その成果の一端は、『漢代の文物』(京都大学人文科学研究所、1976年)にまとめられている。これは、1970年より5年間、京都大学人文科学研究所で行われた「漢代文物の研究」という共同研究を基にしたものである。後世の範とされる漢時代の文化的諸相について、金石、古文書など、伝統的な文献史料以外の文字資料の解読と、遺物、図像資料の考証の双方から体系的に捉えたもので、考古学ばかりではなく多くの学問分野が依拠すべき重要な業績としてよく知られている。定年退官後も、次々と論考、著作を発表し、林の学術的探究は亡くなるまでとどまることはなかった。机の上には書きかけの原稿があり、近年発表されていた論文をもとに出版の準備を進めていたという。先述の著作のほか、『三代吉金文存器影参照目録 附小校経閣金文拓本目録』(大安、1967年)、『漢代の神神』(臨川書店、1989年)、『中国古代の生活史』(吉川弘文館、1992年)、『中国文明の誕生』(吉川弘文館、1995年)、『神と獣の紋様学 中国古代の神がみ』(吉川弘文館、2004年)などがある。

三谷敬三

没年月日:2005/12/18

読み:みたにけいぞう  元株式会社東京美術倶楽部社長の三谷敬三は、12月18日午前6時56分、心不全のため川崎市内の病院で死去した。享年89。1916(大正5)年11月20日に生まれ、1934(昭和9)年3月に東京府立工芸学校を卒業後、自動車製造株式会社(現在の日産自動車株式会社)に入社。戦後同社を退社、戦時中休業していた家業の美術商三渓洞を継ぎ、営業を再開した。47年には株式会社三渓洞に組織変更し、代表取締役に就任。一方、51年には東京美術商協同組合の専務理事になり、59年には同組合の理事長、75年には顧問に就任した。また、53年に株式会社東京美術倶楽部の鑑査役、57年に同社常務取締役、69年に代表取締役社長、87年から1995(平成7)年まで代表取締役会長を勤めた。その間、77年から82年まで東京美術倶楽部鑑定委員会委員長を務め、また69年から87年まで五都美術商連合会の代表を務め、斯界において長年にわたり取りまとめ役に精励した。その業績に対して、80年11月に藍綬褒章を受章、87年11月には勲四等旭日小綬章を叙勲した。 

柳生不二雄

没年月日:2005/12/17

読み:やぎゅうふじお  美術評論家の柳生不二雄は12月17日、死去した。享年80。1925(大正14)年8月10日、東京府豊多摩郡大久保町に生まれる。1948(昭和23)年学習院高等科文科を卒業。50年慶応義塾大学法学部を卒業。平凡社での『世界美術全集』編集を機に知り合った美術評論家の土方定一に誘われ、51年日本で最初の公立近代美術館として新設をひかえた神奈川県立近代美術館に勤務、副館長の土方らと開館に尽力し、59年まで在職。その後彫刻家の関敏の紹介で、63年から70年まで日本橋で開廊していた秋山画廊の運営に中川杏子と携わり、当時画廊で扱われることの稀だった彫刻(立体造形)、とりわけ抽象彫刻を主体とした展覧会を企画、土谷武、若林奮、堀内正和、江口週、最上寿之といった作家を取り上げた。74年から85年まで神奈川県立県民ホールでギャラリー課長として勤務。持ち前のバランス感覚を発揮し、絵画や版画、彫刻の領域で活躍する中堅から大家クラスの個展を集めて行う「現代作家シリーズ」や、県在住の版画家を母体に無審査、無償制度の「神奈川版画アンデパンダン展」、工芸の中でも美術的な傾向の強い工芸家と地元の工芸家による作品展にギャラリー側の企画を組み合わせる「日本現代工芸美術展」を三本柱に展覧会を開催。特に彫刻に関しては開館5周年記念「現代彫刻の歩み」展を企画、彫刻の県民ホール・ギャラリーという美術界の評判を印象づけた。また秦野や小田原、平塚で県市共催の野外彫刻展の運営や審査に携わった。83年から1993(平成5)年まで美術雑誌『三彩』に「彫刻のあるまちづくり」を連載、大企業や自治体、再開発地域や商店街などが彫刻・立体造形を屋内外に盛んに設置するようになる中で、全国を歩き野外彫刻の試みを伝えた。85年から87年まで横浜市市民文化室、87年から財団法人横浜美術振興財団に勤務。その傍ら86年から2005年まで『神奈川新聞』の「美術展評」を担当。97年に発足した屋外彫刻調査保存研究会にはその準備段階から参加し、04年まで初代会長を務めて研究会の方向性を作り上げた。著書に『ルネ・ラリック』(PARCO出版 1983年)がある。 

村越伸

没年月日:2005/12/17

読み:むらこしのぶる  村越画廊社長の村越伸は12月17日午後6時26分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日、横浜市に生まれる。父は商船の機関長。横浜の本町尋常高小卒業後、母の知己を頼り14歳で古物商の芝・本山幽篁堂に丁稚奉公に入り、主人の本山豊実のもと古美術の基礎を身につける。また本山の知人だった吉田幸三郎の知遇を得、その義弟である速水御舟や、村上華岳、横山大観らの作品に惹かれ、日本画を中心とした新画商の道を志す。1943(昭和18)年に兵役につき、復員後の48年に銀座で画商として再出発。51年旧友の山本孝、志水楠男とともに東京画廊を拠点として営業、サム・フランシス、フンデルトワッサー等、現代美術をも扱う。56年銀座8丁目の並木通りに村越画廊を開設。59年横山操、加山又造、石本正の三作家による日本画のグループ展轟会(後に平山郁夫が参加)をスタートさせ、74年まで16回開催し、美術界に新風を吹き込んだ。71年日本画商相互会の会長(82年再選)、83年東京美術商協同組合理事長に就任。78年には評論家吉村貞司の提案により、多摩美術大学で横山操、加山又造の教えを受けた小泉智英、中野嘉之、松下宣廉、米谷清和によるグループ野火を発足させ、88年まで毎年開催した。1990(平成2)年藍綬褒章を受章。92年パリのギメ美術館に対する尽力を評価され、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。95年勲四等瑞宝章受章。著書に自叙伝『眼・一筋』(実業之日本社、1986年)がある。 

徳川義宣

没年月日:2005/11/23

読み:とくがわよしのぶ  徳川美術館館長で尾張徳川家21代当主の徳川義宣は11月23日午前5時5分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。享年71。1933(昭和8)年12月24日、伯爵堀田正恒の六男正祥として東京都渋谷区上智町に生まれる。尾張徳川家20代当主義知の長女三千子と結婚して徳川家の養子となり、義宣と改名した。56年、学習院大学政経学部経済学科を卒業し、東京銀行に就職。57年からは財団法人徳川黎明会の評議員、60年から同会理事を歴任。61年には東京銀行を退職し、62年から徳川黎明会徳川美術館担当理事、67年から同会専務理事をつとめた。この間東京大学農学部林学科研究生として林業を学ぶかたわら、東京国立博物館研究生となって美術史を学んで学芸員資格を取得した。76年からは徳川美術館館長を兼務、93年からは没した義父にかわって徳川黎明会会長をつとめた。そのほか日本工芸会顧問、東京都重要文化財所有者連絡協議会会長、全国美術館会議副会長、漆工史学会副会長、日本博物館協会理事、愛知県博物館協会理事、日本陶磁協会理事、茶の湯文化学会理事、東洋陶磁学会常任委員などをつとめた。徳川美術館に伝えられた尾張徳川家コレクションの保存に尽力するにとどまらず、研究を美術館活動の中心に据え、旧大名家コレクションを収集して館蔵品を増強し、87年には地元政財界の協力のもと展示室と研究室を充実させる美術館の増改築を実現させるなど、徳川美術館を個性の際立つ日本有数の私立美術館に育てあげた手腕と実績は特筆される。私立美術館博物館の地位向上ひいては日本の博物館活動の振興に寄与するところが多く、91年には博物館法制定40周年文部大臣表彰と日本博物館協会顕彰を、2002年には文化庁長官表彰をうけた。美術史学や歴史学など幅広い分野に造詣が深く、とくに源氏物語絵巻と徳川家康文書の研究で第一人者として知られた。なお、93年までの履歴と著作は『徳川義宣氏略歴 著作目録』(徳川義宣氏の還暦に集う会編集発行、1994年)に詳しい。 

東野芳明

没年月日:2005/11/19

読み:とうのよしあき  美術評論家で、多摩美術大学名誉教授の東野芳明は、1990(平成2)年に病に倒れて永らく療養していたが、11月19日午後0時15分、東京都杉並区の病院で急性心不全のため死去した。享年75。1930(昭和5)年9月28日東京に生まれ、54年東京大学文学部を卒業、同年「パウル・クレー論」により第1回『美術評論』新人賞を受賞。57年には、『グロッタの画家』(美術出版社)を刊行。58年、60年にヴェネツィア・ビエンナーレのアシスタントとして渡欧、その折の欧米での見聞をもとに『パスポート No.328309 アヴァンギャルドスキャンダルアラカルト』(三彩社、1962年)を刊行した。60年代には、既成の表現をはなれた現代美術の動向を「反芸術」と名づけ、議論をまきおこした。抽象表現主義以後のアメリカ現代美術を中心とする紹介と旺盛な美術評論活動のかたわら、67年から多摩美術大学において教鞭をとり、同大学において新しい芸術の受容層の育成のために芸術学科創設に尽力し、それは81年に開講した。その間、78年から80年にかけて、マルセル・デュシャン本人の許可のもと、彼の代表作である「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」(1915-23年、フィラデルフィア美術館蔵)のレプリカ制作を東京大学と共同で行うプロジェクトの中心として、「東京ヴァージョン」(東京大学教養学部美術博物館蔵)として完成させた。60年代から80年代にかけて、その評論活動は、同時代の欧米美術の紹介にとどまらず、混迷する現代美術の状況を音楽、演劇等広く文化史的な視野からとらえつつ思索をつづけ、つねに今日的な問題を提起しつづけたことは特筆に値するものであった。翻訳、画集等の編集は数多く、また評論集等の主な著作は下記のとおりである。『現代美術―ポロック以後』(美術出版社、1965年)、『ジャスパー・ジョーンズ そして/あるいは』(美術出版社、1979年)、『裏切られた眼差:レオナルドからウォーホールへ』(朝日出版社、1980年)、『曖昧な水 レオナルド・アリス・ビートルズ』(現代企画室、1982年)、『ロビンソン夫人と現代美術』(美術出版社、1986年)、『ジャスパー・ジョーンズ アメリカ美術の原基』(美術出版社、1986年)、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年) 

下山肇

没年月日:2005/09/22

読み:しもやまはじめ  静岡県立美術館館長の下山肇は9月22日午後4時58分、静岡市内の病院で死去した。享年59。1945(昭和20)年東京都に生まれ、70年京都大学文学部美学美術史学科を卒業。兵庫県立近代美術館学芸員となり、76年京都大学大学院修士課程美学美術史学科を修了、79年同博士課程を修了。同年京都市美術館学芸員となり、84年5月から静岡県教育委員会美術博物館設立準備室に勤務して、コレクション形成や1994(平成6)年設立のロダン館の設置などに尽力した。静岡県立美術館開館後は、86年度から88年度まで静岡県立美術館学芸課長をつとめ、89年4月より同課長と部長を兼務、96年4月同部長となった。この間、「エルミタージュ美術館名作展―ヨーロッパの風俗画」(91年)、「ロダンと日本」(2001年)などを企画。2001年4月に尾道大学芸術文化学部教授となった。05年6月1日、静岡県立美術館館長に就任。同年2月、現職のまま死去した吉岡健二郎前館長の後任として赴任したばかりであった。ノルウェーの画家エドワルド・ムンク、京都で活躍した日本の洋画家須田国太郎についての論考がある。著書に『ムンク』(日経ポケットギャラリー、1993年)、『巨匠たちの自画像』(マヌエル・ガッサー著、桑原住雄と共訳、新潮選書、1977年)がある。 

濱中真治

没年月日:2005/09/18

読み:はまなかしんじ  美術史家で川越市立美術館学芸員の濱中真治は9月18日、自宅で急逝した。享年43。1962(昭和37)年4月10日、熊本県玉名市で生まれる。81年熊本県立玉名高校を卒業して佐賀大学教育学部特設美術科に入学。82年同大学を中退して翌年東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。1990(平成2)年同大学大学院美術研究科芸術学科日本東洋美術史専攻を修了し、山種美術館に学芸員として就職する。それまで感覚的な言葉で語られがちだった近代日本画の実証的研究に努め、典拠となる美術資料の収集・編纂に力を入れた。その成果は本業の傍ら助力を惜しまなかった『日本美術院百年史』の編纂、速水御舟をはじめとする作家展カタログの文献目録や年譜に反映された。また「三人の巨匠たち―御舟・古径・土牛」展(96年)や「美人画の誕生」展(97年)の図録テキストでは、「新古典主義」や「美人画」といった近代日本画を語る上で当為とされる概念の問い直しを試みている。2002年川越市立美術館準備室に転職し、同館の立ち上げに尽力。同館開館後は小茂田青樹ら川越ゆかりの作家展を手がけた。97年から99年まで恵泉女学園大学で非常勤講師を勤める。遺稿集として、濱中真治論文集刊行会編『日本画 酔夢抄』(2006年)がある。 

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