本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





白髪一雄

没年月日:2008/04/08

読み:しらがかずお  足で絵を描くフット・ペインティングと呼ばれる独自の技法を確立し、戦後美術を代表する一人として国際的に活躍した白髪一雄は4月8日午前7時25分、敗血症のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年8月12日、兵庫県尼崎市の呉服商の長男として生まれる。幼少の頃から書画や骨董に親しみ、旧制中学時代に画家を志すようになる。東京美術学校(現、東京芸術大学)への進学を夢見るが、家業を継がせたい家族の猛反対と、太平洋戦争が勃発し食料や物資の不足が深刻になり始めていたこともあり、自宅から通学可能な京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)へ1942(昭和17)年に入学。当時同校には図案科と日本画科しかなく、入学したのは日本画科であった。しかし日本画へは興味を示さず、48年同校卒業後は洋画に転向、大阪に新設された市立美術研究所に通い、次に新制作派協会(51年に新制作協会に改称)の会員だった芦屋在住の洋画家、伊藤継郎のもとで更なる研鑽を重ねる。新制作派協会の関西展や東京本展で、童話的な主題による具象画を発表。その後、52年に大阪で発足した現代美術懇談会(ゲンビ)に参加するなど前衛美術に傾倒し、同年新制作協会の村上三郎、金山明、田中敦子らと「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」として0会を結成。ペインティングナイフや指を多用した作品を経て、54年の0会の展覧会で、初めて足で制作した作品を発表する。55年、0会は芦屋在住の吉原治良が若い美術家たちと結成した前衛美術グループ、具体美術協会から合流の誘いを受け、参加。以後、同協会を活動の舞台とし、なかでも55年7月に芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」で赤い丸太に斧で切り込んだ「赤い丸太」を、同年10月に東京、小原会館で開催された第1回具体美術展では庭に置いた約1トンの泥の中で格闘する「泥にいどむ」を、そして57年5月と7月に大阪、産経会館と東京、産経ホールで開かれた「舞台を使用する具体美術」には「超現代三番叟」を発表、激しいアクションを物体に定着させた立体作品やパフォーマンスを試みた。その一方で足による制作も続けたが、57年フランス人美術評論家のミシェル・タピエが来日、タピエの提唱するアンフォルメルを体現する絵画として位置づけられ、国際的にも高く評価される契機となる。この時期、愛読していた『水滸伝』の豪傑のあだ名を作品に付した「水滸伝」シリーズを開始。59年イタリア、プレミオ・リソーネ国際展で買上げ賞を受賞。62年パリのスタドラー画廊、トリノのノティティエ画廊で個展を開いて以降フランス、イタリア、ドイツなど海外でも個展を開催。65年第8回日本国際美術展に「丹赤」を出品して優秀賞を受ける。「丹赤」では素足ではなくスキー板を履いて制作し、以後板や棒を用いて画面に襞や扇状の半円を作り出し、画面に流動感を与えるようになる。70年には比叡山に上って天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請い、翌年得度し、「素道」の法名を授けられる。72年具体美術協会解散後も個展を中心に活動するが、密教との出会いを機に、その作風は宗教性を深めた。2001(平成13)年に兵庫県立近代美術館で回顧展を開催。没後の09年から10年にかけて「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館・尼崎市総合文化センター・横須賀美術館・碧南市藤井達吉現代美術館を巡回して開催、画業の全貌が回顧された。

大津鎮雄

没年月日:2008/01/31

読み:おおつしずお  日展参与の洋画家大津鎮雄は1月31日午前1時30分、大動脈弁狭窄症のため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年87。1920(大正9)年10月25日、東京市本郷区千駄木に生まれる。父が大阪商船に勤務し転勤が多かったため、幼少期は沖縄、神戸などに住み、1929(昭和4)年に吉祥寺に居を定める。この頃、父とともに東京府美術館で開催される美術団体展に赴き、洋画に興味を抱く。33年武蔵野町立第三尋常小学校を卒業し、日本美術学校(現、日本美術専門学校)初等科に入学、小島善太郎に師事して油彩画を描き始める。37年第1回一水会展に「遠望」で初入選。39年日本美術学校本科洋画科を卒業する。41年赤坂歩兵隊に入隊し、同年から43年まで一水会には従軍のため不出品。44、45年は戦争により一水会展が開催されなかった。46年3月中国から復員。同年より安井曽太郎に師事する。48年より東京日比谷のアニーパイル劇場で舞台美術のデザインを担当。49年第5回日展に「松と洋館」で初入選。以後、日展に出品を続ける。50年第12回一水会展に「夏の午後」「赤煉瓦」を出品し、一水会賞受賞。翌年、一水会会員となる。51年第7回日展に「寒木邸」を出品し日展岡田賞受賞。57年第19回一水会展に「欅」を出品し会員優賞受賞。61年から翌年まで約半年間渡欧し、以後、ヨーロッパ風景を主要なモティーフとするようになる。65年第8回社団法人日展に「裏庭」を出品して菊華賞受賞。68年日展会員および一水会委員となる。86年日展評議員となる。1991(平成3)年第23回日展に「山添いの家」を出品して文部大臣賞受賞。99年10月、「大津鎮雄油絵展 風景画の輝き―南仏の田園から」(武蔵野市文化会館アルテ展示室)が開催され、1950年代から近作までが展示される。2000年第15回小山敬三美術賞を受賞し、同年、これを記念して「小山敬三美術賞受賞記念大津鎮雄展」が日本橋高島屋で開催され、初期から近作まで約40点が展示される。01年日展参与となる。04年「画業70年記念大津鎮雄展―陽光まばゆい南フランスの自然を見つめて」(サトエ記念21世紀美術館)が開催され、没後の09年2月には同美術館で「大津鎮雄展―美しい風景を求めて・旅情を描いた画家の生涯」展が開催された。年譜は同展図録に詳しい。人物や静物を描くのに適性を持つと評した師安井曽太郎のことばに拘わらず、大津は初期から風景、しかも洋風の都市風景を好んで描き、61年のヨーロッパ旅行以後は、西欧風景を主要なモティーフとした。日展、一水会展に出品を続け、晩年は次第に西欧の地方都市を好んで描き、穏健な写実的画風を示した。

片岡球子

没年月日:2008/01/16

読み:かたおかたまこ  日本画家で日本芸術院会員、日本美術院同人の片岡球子は1月16日午後9時55分、急性心不全のため神奈川県内の病院で死去した。享年103。1905(明治38)年1月5日、北海道札幌市に、醸造家の長女として生まれる。1923(大正12)年北海道庁立札幌高等女学校(現、北海道札幌北高等学校)補習科師範部を卒業後、女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学。実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、26年同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。女子美術学校在学中より松岡映丘門下の吉村忠夫に師事し、また洋画家富田温一郎にデッサンを学んだが、帝展に落選を続け、勤務先の小学校の近くに住む中島清之の勧めで院展に出品。1930(昭和5)年第17回院展に「枇杷」が初入選し日本美術院の研究会員、39年第26回院展出品の「緑蔭」で院友に推挙される。42年院展の研究会で課題「雄渾」に対して御嶽山の行者を描いた作品が小林古径に注目され、激励を受ける。46年第31回院展で「夏」が日本美術院賞を受賞。同年中島清之を介して安田靫彦に入門。続いて48年第33回院展「室内」、50年第35回「剃髪」で日本美術院賞、51年第36回「行楽」で奨励賞、52年第37回「美術部にて」で日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。この間51年には量感表現を勉強するため約一年間、彫刻家で東京芸術大学教授の山本豊市に彫刻デッサンの指導を受ける。55年には大岡小学校を退職するが、小学校教師としての歳月はその作風における初々しい素朴さを培うこととなった。同年女子美術大学日本画科の専任講師となり、以後助教授を経て65年に教授となる。54年第39回院展に「歌舞伎南蛮寺門前所見」を出品するが、歌舞伎、能、雅楽など伝統芸術の集約された世界との出会いが転機となり、院展の典雅な感覚から遠い作風ながら、このテーマを掘り下げることによって現代日本画の新生面を切り拓く。61年、前年の第45回院展出品作で能の石橋に取材した「渇仰」と個展により、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また61年の第46回院展でも「幻想」が文部大臣賞を受け、日本美術院評議員となる。いっぽう60年代には日本各地の火山を取材旅行してエネルギッシュな作品を制作、65年第8回日本国際美術展で「火山(浅間山)」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。その後は富士山をテーマに晩年に至るまで取り組み続ける。60年代半ばには美術評論家の針生一郎を中心とする日本画研究会に参加。66年愛知県立芸術大学開校とともに日本画科主任教授となり、その剛柔併せもつ人柄は学生たちの信頼を集め、多くの俊英を育てた。また大学を移ったのを機に、66年の第51回院展に足利将軍の三部作を出品してライフワークの「面構シリーズ」を開始し、武将や浮世絵師といった歴史上の人物をテーマに、彫刻や肖像画、文献等を研究して時代考証に独自の解釈を加え、生気みなぎる力強い人物画の連作を発表する。69年女流の美術家による総合美術展「潮」を結成、83年の最終第15回展まで毎回出品。72年パリで「富嶽三十六景」による個展を開催。74年第59回院展出品作「面構(鳥文斎栄之)」により、翌75年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。78年神奈川県文化賞を受賞。79年自作を神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館へ寄贈。81年より日本美術院理事をつとめる。82年日本芸術院会員となる。83年以降は裸婦の連作にも取り組み、春の院展に出品する。86年には永年の日本画による人物探究の業績が評価され、文化功労者に叙せられる。1989(平成元)年文化勲章を受章。また同年中日文化賞を受ける。92年パリの三越エトワールで回顧展を開き、2005年には百歳を記念し、神奈川県立近代美術館葉山・名古屋市美術館・茨城県近代美術館で本格的な回顧展が開催された。

鶴岡義雄

没年月日:2007/10/27

読み:つるおかよしお  日本芸術院会員で洋画家の鶴岡義雄は10月27日、直腸がんのため東京都目黒区の病院で死去した。享年90。  1917(大正6)年4月13日、茨城県土浦市中城町に生まれる。父は義太夫の名手、母は三味線の師匠、芝居小屋や映画館を経営してきた芸能一家に育つ。旧制茨城県立土浦中学校(現、茨城県立土浦第一高等学校)在学時より絵画に興味を抱き、同校の先輩にあたる熊岡美彦の講習会に参加したおり勧められて画家を志すようになり、1937(昭和12)年日本美術学校(現、日本美術専門学校)に進学、林武に師事して洋画を学んだ。ここで織田広喜、鷹山宇一ら後の二科会幹部らとも知り合う。41年同校卒業、第28回二科展に「台湾蛮女」を出品し初入選を果たす。44年関東軍報道班としてハルピンに赴任、帰国後まもなく土浦で終戦を迎える。46年、服部正一郎を中心に二科会茨城支部を結成、創立会員として参加し、以後二科には毎回出品する。47年、第32回二科展に「化粧」ほか連作3点を出品し二科賞受賞。49年、服部正一郎らとともに創立会員として茨城洋画会を結成(54年の茨城美術家協会結成に伴い発展的解消)。同年二科会準会員。50年二科会員推挙。戦時中は風景・人物の写実描写が多かったが、50年代半ばからシュルレアリスムやキュビスム風の描写、ジオメトリックな構成絵画などに次々取り組む。初めてのスケッチ旅行で57年に北・中米、60年には西欧各国を訪れ、粗目のタッチではあるが細かに計算された構図・配色によるモダンな風景画を多数制作。66年、日本美術学校講師、69年サロン・ドートンヌ会員となる。70年、第55回二科展に「愛」「ムーラン・ルージュ」を出品して東郷青児賞受賞、翌71年二科会委員となる。73年、パリにアトリエを構えマドモアゼル・シリーズに取り組む。74年第59回二科展に「ソワル・ド・パリ」を出品し内閣総理大臣賞を受賞、この作品で同シリーズの耽美様式が確立され、この頃から舞妓も描くようになる。舞妓を描いた数ある作家の中でも鶴岡は、西洋的造形思考に立脚して描写を行ったところにその独自性がみとめられる。舞妓を描いた主な作品には、シュルレアリスム的手法による「舞う」「京の四季」、また遊びに興じる素顔の舞妓や出番待ちの場面を幻想的に描いた「歌留多」「合わせ鏡」などがある。80年二科会常務理事就任。81年インターナショナルアメリカ展グランプリ。86年『鶴岡義雄画集』(日動出版)が刊行される。第74回二科展に「舞妓と見習いさん」を出して翌1990(平成2)年日本芸術院賞を受賞。93年、日本美術学校名誉教授就任、勲四等旭日小綬章受章。94年日本芸術院会員。96年日本美術学校名誉校長に就任。2002年二科会理事長、06年同会名誉理事就任。90年代以降は日本の初期シュルレアリスムを想わせる作風が現れ、再び幾何学的、抽象的な作品が多くなる。主な個展に「鶴岡義雄展」(日動サロン、1971年)、「“京洛四季の舞妓”鶴岡義雄展」(日動画廊、1980年)、「画業60年鶴岡義雄の世界展」(茨城県つくば美術館、1996年)、「卆寿記念・鶴岡義雄展」(しもだて美術館、2007年)などがある。

内藤ルネ

没年月日:2007/10/24

読み:ないとうるね  戦後の少女画を代表するイラストレーター内藤ルネは10月24日、心不全のため静岡県伊豆市の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年11月20日、愛知県岡崎市に生まれる。本名、内藤功。第二次大戦末期の混乱のさなか、偶然みつけた中原淳一の雑誌口絵の美しさに感動する。16歳で岡崎中学を卒業後、住み込みで紳士服洋裁店に勤務、その傍ら、絵や詩をつけた手紙を中原に送るようになる。その画才に目をつけた中原に呼ばれ19歳で上京、ひまわり社に入社する。中原に師事しながら雑誌『ひまわり』『それいゆ』の編集・挿絵に携った後、54年の『ジュニアそれいゆ』創刊から主力に加わりイラストやエッセイを発表、雑貨デザインも手がけるようになる。この頃ペンネームを「内藤瑠根」としていたが、56年頃から「内藤ルネ」も用いるようになり、これが定着する。58年『少女』(光文社)の付録別冊漫画の表紙に自作の人形が写真掲載され出すなど、この頃から他社の仕事も受け始め、64年頃まで『少女クラブ』(講談社)、『りぼん』(集英社)、『なかよし』(講談社)、『女学生の友』(小学館)といった少女雑誌の口絵・付録・イラスト作品を多数手がける。59年、中原が病に倒れると代わって表紙を担当、以後ひまわり社のスター的存在となる。61年、個人的に制作を依頼した陶器のビリケン人形を、発注先である大竹陶器が強く希望して商品化。これが大ヒットし同社は後に株式会社ルネと改名してルネグッズを多数製作するが、これらはいわゆるファンシーグッズの先駆となった。64年から『服装』(婦人生活社)に手芸やインテリア等をテーマにエッセイを書き始め、後に「私の部屋」に引き継がれ断続的に92年まで連載される。65年頃には、『装苑』(文化出版局)、『non-no』(集英社)等若い女性向けの雑誌でも仕事をする。70年代にはトマトやイチゴなどをモチーフにしたステンシールが大流行。今日のパンダキャラクターの原型となっているルネパンダも、中国からのパンダ来日前年の71年に商品化されている。74年、南青山に「薔薇色雑貨店・ルネハウス」をオープン。84年2月より1998(平成10)年9月まで『薔薇族』(第二書房)の表紙を担当。2001年静岡県修善寺に住まいを移し、内藤ルネ人形美術館を開館、森本美由紀を中心とする「RUNE DOLL ASSOCIATES」がルネの人形を復刻し展示を行うようになる。02年、宇野亜喜良等7名と銀座スパンアートギャラリーで「2002―少女頌」を、弥生美術館にて初の回顧展「内藤ルネ展~ミラクル・ラヴリー・ランド~」を開催。また05年には同館にて「内藤ルネ初公開コレクション展―日本の可愛いはルネから始まった」を開催。主な著書に『こんにちは!マドモアゼル』(ひまわり社、1959年)、『幻想館の恋人たち』(山梨シルクセンター、1968年)等がある。

前田常作

没年月日:2007/10/13

読み:まえだじょうさく  曼荼羅を参考に、密教図像や抽象的形態を組み合わせた絵画を描いた前田常作は10月13日、小磯記念大賞展の審査のため大阪市内のホテルに滞在中、心臓発作のため死去した。享年81。1926(大正15)年7月14日、富山県新川郡椚山村に生まれ、病弱な幼年期を過ごす。1933(昭和8)年、椚山村立尋常小学校尋常科に入学し、39年に同校を卒業して、同小学校高等科に入学。41年、同科を卒業し、富山師範学校予科に入り、44年同科を修了して本科に入学する。同科では丸山豊一に美術を学ぶ。45年に応召して富山69歩兵連隊に入隊。同年8月の富山大空襲で市中の惨状を目の当たりにし、人間の生死について深く感ずるところがあった。47年、富山師範学校本科を卒業し、同年4月から富山県下新川郡の上青中学校で図工科を教える。48年、東京都台東区忍岡中学校に移り、この頃から鶴田吾郎洋画研究所と中央美術研究所に通う。同年8月、美術出版社主催の夏期洋画講習会に参加し、安井曽太郎の指導を受けて感銘を受ける。49年、本格的に画家を志して武蔵野美術学校西洋画科に入学し、デッサンを清水多嘉示、洋画を三雲祥之助に学ぶ。同年8月、鶴岡政男を知り、アトリエを訪れるようになった。同年9月、忍岡中学校を退職して画業に専念し、同年10月第13回自由美術家協会展に「水蓮」など2点が初入選する。52年、黒色会展に出品。53年、武蔵野美術学校西洋画科を卒業し、東京都北区滝野川第一中学校の図工専科教員となる。同年秋、美術、映画、写真等の実作者による「制作者懇談会」に入会し、同会で池田龍雄、河原温などと交遊。55年第8回日本アンデパンダン展に「狂った人」「偶像」「アリバイ」など6点を出品。同年6月、瀧口修造の推薦により最初の「前田常作個展」をタケミヤ画廊で開催する。同年10月第19回自由美術家協会展に「目撃者」など2点を出品し、会員に推挙される。57年、「今日の新人」展に「城」「夜」「前兆」を出品し、佳作賞を受賞。また、同年第一回アジア青年美術展に「殖」を出品して大賞および国際美術賞を受賞し、副賞としてパリ留学費用を得る。58年春にパリに渡り、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スイス等を巡遊。59年に批評家ジェレンスキーにより≪夜のシリーズ≫などの作品を「マンダラ」と評され、自らを現代美術家と考えていたため虚を突かれるが、以後、曼荼羅を意識した制作を行うようになり、パリで注目される。62年長女の誕生をきっかけに≪人間誕生≫≪人間空間≫シリーズの制作を始める。63年、一時帰国し、東寺の両界曼荼羅に感銘を受ける。同年、自由美術家協会を退会し、山口勝弘らによる団体アート・クラブに参加。65年1月に再渡仏し、翌年3月に帰国するが、この間、仏教的思想の現代的意義について考えるところがあり、アジアの仏教国への関心が高まる。また、伝統的な曼荼羅の様式から離れ、今日的な展開を試みるようになる。70年、インド、ネパールを旅行し、人間の生死や輪廻について考えを深めた。この頃から≪青のシリーズ≫≪インド旅行シリーズ≫を始め、72年、東京セントラル美術館で「前田常作展」を開催して、初期から近作までを展示する。73年≪須弥山界道シリーズ≫、74年≪須弥山マンダラ図シリーズ≫の制作を開始。77年、日本美術家連盟の派遣により1月にネパール、インド、スリランカを、9月に中国を訪れ、帰国後、≪観想マンダラ図シリーズ≫の制作を始める。79年、77年の訪中の成果の発表と長年のマンダラ研究が評価され第11回日本芸術大賞を受賞。また、同年より西国巡礼を始め、リトグラフによる≪西国巡礼シリーズ≫を開始する。1989(平成元)年富山県立近代美術館で「前田常作展」が開催され、初期から近作までを展示。93年、「天曜≪瞑想マンダラ図シリーズ≫」により第16回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。初期の抽象表現を志向する時代から、特定の幾何学的パターンの繰り返しを行い、東洋の曼荼羅を意識して以後はかたちに思想的背景が盛り込まれるようになった。曼荼羅研究が進む中で、伝統的曼荼羅の様式から離れ、宇宙や悠久のイメージが絵画化されるようになっている。美術教育にも尽力し、1970年に東京造形大学美術科助教授、72年から73年まで同教授として教鞭をとったほか、79年7月より83年3月まで京都市立芸術大学美術学部教授、83年4月からは武蔵野美術大学教授となり94年からは同学長を務めた。著書に『曼荼羅への旅立ち』(河出書房新社、1978年)、『マンダラの旅―前田常作対話集』(法蔵選書、1982年)、『私とマンダラ』(精神開発叢書、1983年)、『世紀末の黙示録』(酒井忠康と共著、毎日新聞社、1987年)、『心のデッサン』(佼成出版社、1989年)、『前田常作のアクリル画』(河出書房新社、1995年)、『前田常作版画作品集』(佼成出版社、1989年)、『前田常作 観音マンダラ―南養寺大悲殿天井画』(里文出版、2005年)などがある。

髙山辰雄

没年月日:2007/09/14

読み:たかやまたつお  日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。1912(明治45)年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しむ。1930(昭和5)年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受け、31年東京美術学校日本画科に入学する。33年松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品し、翌34年、在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。36年卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業した。37年、映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加、40年同会解散後、41年旧会員を中心として新たに一采社を結成する。また43年川崎小虎、山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続く。戦後、46年春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受ける。46年秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。続いて49年第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていく。51年第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。次いで53年第9回日展「月」、54年第10回「朝」、56年第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。59年第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞し、65年には64年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧、東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。62年第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフとし、69年第1回改組日展「行人」、72年第4回「坐す人」、74年第6回「冬」、75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開し、その後77年第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」、81年第13回日展「二人」、83年同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。73年には個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、85年、2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。70年日本芸術大賞を受け、72年日本芸術院会員、79年文化功労者となり、82年文化勲章を受章した。59年日展評議員となってのち、69年同理事、73年常務理事、75年理事長(77年まで)となり、82年東京芸術大学客員教授となる。87年から『文芸春秋』の表紙絵を担当(99年まで)。89年東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼ぶ。90年平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。93年「聖家族 1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示す。95年には海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。99年、構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては80年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、84年に山種美術館、87年に世田谷美術館、89年に東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館、98年にメナード美術館、2000年に日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回)、04年に茨城県近代美術館で開催。没後の08年には練馬区立美術館で遺作展が開催されている。

深見隆

没年月日:2007/07/29

読み:ふかみたかし  洋画家の深見隆は7月29日、心筋梗塞のため神奈川県川崎市の病院で死去した。享年80。1926(大正15)年10月22日、長崎県壱岐郡に生まれる。1952(昭和27)年、第7回行動美術協会展(以後、行動展と記す)に、半抽象的な表現による「造船所」が初入選。以後、同展に出品を続ける。54年2月、第1回四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を養清堂画廊で開催。55年1月、行動四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を上記画廊にて開催、同年、10回行動展に「人間の風景(A)」、「人間の風景(C)」を出品、これにより行動美術新人賞を受賞、会友に推挙される。56年1月、第7回朝日新聞社選抜秀作美術展(会場、日本橋三越)に出品、同年2月、朝比奈隆と前川桂子とともに3人展を村松画廊で開催。また同年の第11回行動展に「孤独の部屋」外2点を出品、これにより行動美術賞を受賞。57年2月、田中稔之、朝比奈隆、前川桂子とともに村松画廊にて4人展を開催。59年、行動美術協会の会員となる。60年、「風化」により第4回安井記念賞を受賞。同作品(東京国立近代美術館蔵)は、多層的でニュアンスに富んだマチエールにおおわれた画面の中央に鋭い亀裂が走り、同時代の心象風景を思わせる表現であった。受賞の際に語られた作者自身の言葉の一節をつぎに引用しておきたい。「私は、長崎の壱岐の小島に生れましたので、子供の頃、海というものが、私達の生活とは切り離せない、むしろ、生活の殆どといってもいい程の親しみをもっていました。荒浪にたたかれ、蝕まれた海岸で、貝を拾ったり、白砂の上に打ち上げられた、魚介の残骸を無心に眺めたりした頃の事を、今も忘れることが出来ません。制作の途中で、ふっと、思い浮かべ、何かしら和やかな郷愁を憶えます。此の度の『風化』も、これと共通な、風雨にさらされ、傷めつけられながらも、いかにも忍耐強く、しかし決して烈しくなく、力まず、てらわず、それでいて厳しさを秘めた、壁や、岩石の中に、豊かな、つきることのない、詩情を感じたので、私には到底充分表現するだけの力はありませんが、いくらかでも自然の秘密に近づければ、と思って描きました。」(「受賞にあたり」、『現代の眼』74号、1961年1月)ここで語られた自然に対する取り組みは、その後も変ることがなかったが、70年代から画面に円環が象徴的に描かれるようになった。そうした作品のシリーズである「条紋」について、当時作者は、「きびしい自然環境に長い間ひっそりと耐えている姿に、限りない豊かな詩情を感じます。只製作する場合、情感におぼれると構成の厳しさが失われがちになるので、自分の中で再構築して描くように心掛けてはいますが。情感と構成がお互いに密度を深め、響き合う作品をと願っているのです」(「コメント「条紋(A)」『美術グラフ』(27巻9号、1978年10月)と語っている。この円環のモチーフは、以後一貫して画面上で追求され、「石紋」のシリーズに展開していった。82年11月、ギャラリー・ジェイコで「深見隆自選展」を開催。2007(平成19)年9月、第62回行動展への「石紋(環)」が最後の出品となり、没後の翌年9月の第63回展には、遺作として「石紋」が出品された。

岡本彌壽子

没年月日:2007/06/25

読み:おかもとやすこ  日本画家で日本美術院同人の岡本彌壽子は6月25日午前4時30分、老衰のため死去した。享年98。1909(明治42)年7月16日、東京青山に生まれる。1926(大正15)年東京府立第三高等女学校本科卒業。1930(昭和5)年女子美術専門学校高等師範科を卒業し、奥村土牛に師事、翌31年土牛の紹介で小林古径に入門する。34年第21回院展に「順番」が初入選し、以後終戦までの約10年間は横浜共立学園教諭として美術を教えながら制作、院展に出品を続ける。戦後は画業に専念。51年第36回「花供養」、52年第37回「秋雨」で奨励賞、53年第38回「無題」(後に「歩道」と改題)は佳作、55年第40回「猫と娘たち」、57年第42回「夕顔咲く」、60年第45回「聖夜の集い」、61年第46回「千秋」で奨励賞を受賞、62年第47回「初もうで」で日本美術院次賞を受賞。この間57年に小林古径が死去し、以降は再び奥村土牛に師事。さらに64年第49回「みたまに捧ぐ」、65年第50回「無題」(後に「集う」と改題)がいずれも奨励賞を受賞。67年第52回「花供養」は日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。日常的な出来事を背景にした女性をテーマに、女性的な淡い色彩と繊細な描線からなるナイーブな画風を展開し、76年第61回「夢のうたげ(1)」は内閣総理大臣賞を、86年第71回「折り鶴へのねがい」は文部大臣賞を受賞した。88年に回顧展を横浜市民ギャラリーで開催。1992(平成4)年横浜文化賞、97年神奈川文化賞を受賞。

白鳥映雪

没年月日:2007/06/15

読み:しらとりえいせつ  日本画家で日本芸術院会員の白鳥映雪は6月15日、心筋梗塞のため長野県小諸市の病院で死去した。享年95。  1912(明治45)年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現、小諸市)の農家に生まれる。本名九寿男。1932(昭和7)年周囲の反対を押し切って上京し、遠縁にあたる水彩画家丸山晩霞の紹介で伊東深水の画塾に入門、美人画を学ぶ。夜間は川端画学校、本郷洋画研究所でデッサンを学んだ。深水や山川秀峰らが結成した日本画院展に39年「母と子」が入選したのち、40年から41年にかけて報知新聞社委嘱特派員を兼ね従軍画家として中国に渡る。43年第6回新文展に「生家」が初入選。戦後47年より日展に出品。50年第6回「立秋」が特選・白寿賞となり、57年第13回「ボンゴ」が再び特選・白寿賞を受賞する。その後も美人画や人物群像を中心に制作しながら、仏像と美人画を組み合わせた72年第4回改組日展「掌」、74年同第6回「追想(琉球ようどれ廟)」などを制作。86年には名古屋の尼僧堂に参禅して取材した「寂照」を第18回展に出品して内閣総理大臣賞を受賞。この間65年日展会員、82年評議員となる。女性の人物画を中心に清新な作品を数多く残した。また51年新橋演舞場での日本舞踊「大仏開眼」をはじめ、5年間にわたり舞台考証を手がけ、66年林芙美子の小説挿絵(『現代日本文学館』30 文芸春秋)を描いた。85年佐久市立近代美術館で「日本画の歩み50年―白鳥映雪展」が開催。晩年はとくに能楽をテーマにした作品を発表し、1994(平成6)年には前年制作の「菊慈童」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。97年に日本芸術院会員となる。2003年には脳梗塞で倒れ右手が使えなくなるものの、左手で再起をはかり日展への出品を続けた。故郷の長野県小諸市には、代表作を展示する市立小諸高原美術館・白鳥映雪館がある。

岩壁冨士夫

没年月日:2007/04/19

読み:いわかべふじお  日本画家で日本美術院同人の岩壁冨士夫は4月19日午後0時20分、肝不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。1925(大正14)年12月4日、神奈川県茅ケ崎市に生まれる。本名富士夫。1947(昭和22)年東京美術学校日本画科を卒業後は、小中学校で教鞭をとりながら院展に出品するが、落選を繰り返す。55年頃小谷津任牛に師事し、任牛門下の飛鳥会に入って研鑽を積む。56年第41回院展に「三人」が初入選、以後連続して同展に入選し、59年第44回院展「旅人」で日本美術院院友に推挙。この間飛鳥会が奥村土牛の研究会と合流し八幡会となり、土牛の指導も受ける。60年から翌年にかけ沖縄へ写生旅行を行い、以後66年まで沖縄を主題にのびやかな作風を展開する。69年にヨーロッパを巡遊、とくにポルトガルの風景との邂逅は以後の画業に決定的なものとなり、同地をテーマとしながら太い筆線と確かなデッサン力による力強い画風を確立する。75年第60回院展で「夕陽はサンタマリアに」が日本美術院賞を受賞、特待となる。77年第62回院展「モンテ・ゴールドの家族」、78年第63回「マール」、79年第64回「丘のべ」、80年第65回「望洋」、81年第66回「ビラマアール」、82年第67回「海風」と、6年連続で奨励賞を受賞する。83年第68回「マリアの家族」が再び日本美術院賞を受賞、同年同人に推挙された。84年から1989(平成元)年まで武蔵野美術大学日本画科の講師をつとめるなど、後進の育成にも力を尽くした。92年第77回院展出品作「母子」が内閣総理大臣賞を受賞。

桜井浜江

没年月日:2007/02/12

読み:さくらいはまえ  洋画家の桜井浜江は、2月12日午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月15日、山形県山形市宮町に生まれる。桜井家は周辺有数の素封家で15代続く地主。山形県立山形高等女学校(現、山形県立山形西高等学校)在学中、松本巍七郎による図画の授業で絵画に興味を持つ。1924(大正13)年に同校を卒業、26年父省三の決めた縁談を拒否して上京。女子美術学校へ入学手続きを行うが両親の承認を得られず断念。展覧会や上野図書館に通いながら、川端画学校洋画部や岡田三郎助の研究所に出入りするが雰囲気が合わず、1928(昭和3)年代々木山谷に開設された1930年協会洋画研究所に入り、里見勝蔵らの指導を受けた。30年里見らが独立美術協会を結成すると、翌年行われた第1回展に参加、入選を果たす。独立展へ出品を続ける一方、同会に属する女性画家11人らとともに34年女艸会を結成、38年の第6回展まで続けられた。この間、32年に帝大英文科出身の秋沢三郎と結婚、その文学仲間である井伏鱒二や太宰治、檀一雄などの来訪で住まいは多くの文士が集う場となっていた。39年に離婚した後も再会した太宰が仲間を連れて度々訪れ、彼女をモデルに「饗応夫人」を書いている。46年、女艸会創立会員である三岸節子らとともに日本橋の北荘画廊で現代女流画家展を開催、この時の出品者らを発起人として翌47年女流画家協会を結成。49年、北荘画廊にて初の個展を開催。戦前戦中に描いた初期作品にはフォーヴ的なものや、それとシャガール的幻想性が融合された「途上」などの他、「二人」「雪国の少年達」のようにクールでモダンなものと変遷をみせる。46年頃から描かれた「壺」の連作は作為性を殆ど留めず、ナイフのタッチが際立った作風で、荒々しいまでの桜井的厚塗り手法はここでほぼ完成される。やがて「花」、ルオーを思わせる「人物」などのシリーズを手がけ、この時期の作品の中では「象」と「花」が47年の第2回新興日本美術展に出品され読売賞を、「臥像」は51年の第19回独立展(創立20周年記念展)でプール・ブー(奨励賞)を受け準会員となった記念すべき作品である。54年独立美術協会会員となる。戦後日本の洋画界に押寄せた抽象絵画流行の波に些かも流されず、連作「樹」に取り組み始める。大胆に切り取られた構図、その大画面には幹がダイナミックに描かれ、情熱を塗り込めたような赤の色調とともにみるものを圧倒する生命力を放つ。66年第20回女流画家協会展で花椿賞受賞。60年代半ばに差し掛かる頃から山形県鶴岡市の三瀬海岸や、千葉県銚子市にある犬吠崎や屏風岩を取材した連作が開始され、色使いは多彩となりより明るい画面となる。78年頃から大樹をテーマとした100号2枚組の大作を数点制作。晩年まで大画面の作品に取り組み続けるが、90年代から再び、色・構図ともにシンプルな傾向となり、特に赤を好むようになる。やはり山や海などの自然に対する畏敬のまなざしが強く感じられる作品が中心となるが、代表作である1999(平成11)年の「雨あがる、ぶどう棚」は色彩豊かで、それまでになくドライで細やかなストロークとなっている。2002年に体調を崩し入院、それまで制作していた「富嶽」が未完のまま絶筆となった。作品集に『桜井浜江画集』(芸林社、1990年)がある。主な回顧展に「桜井浜江画業展」(1979年、山形美術館)、「桜井浜江―画業65年の軌跡」(1995年、青梅市立美術館)。没後の2008年には「生誕100年記念 桜井浜江展」が山形美術館と一宮市三岸節子記念美術館で開催された。

鳥居敏文

没年月日:2006/08/15

読み:とりいとしふみ  独立美術協会会員の洋画家鳥居敏文は8月15日午後2時10分、多臓器不全のため東京の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月26日、新潟県村上市に生まれる。旧制村上中学校に学び、後に新制作協会で活躍する竹谷富士雄と親交が深く、ふたりとも美術部に在籍。中学校在学中に、同郷の矢部友衛に啓発されてマルクスを学ぶ必要を感じ、東京外国語学校(現、東京外語大学)独語科に入学。1931(昭和6)年に同校を卒業する。プロレタリア美術家同盟に参加し、太平洋美術研究所に学び画家を目指していた竹谷に誘われて、32年、シベリア鉄道でドイツに渡り、のちソヴィエト、ギリシャ、スペイン、イギリス、オランダを旅行する。33年、パリに定住し、アカデミー・グランショーミエールでデッサンを学び、シャルル・ブランに師事。また、パリ滞在中の画家林武のアトリエに通ってその制作に学ぶ。35年に帰国し、37年第7回独立展に「ロバに乗る少年」を出品。以後、一貫して独立展に出品する。39年第9回同展に「山の仲間」「子供たち」を出品して独立美術協会賞を受賞。40年第10回同展に「森の家族」「休息」を出品し、独立美術協会会友に推される。42年中国東北部(当時の満州)に写生旅行。43年第13回独立展に「家族の旅」「路傍」を出品して岡田賞受賞。同年国民総力決戦美術展に「鉱山に働く」を出品して朝日新聞社賞を受賞。同年の文展に「鉱山の娘達」を無鑑査出品する。44年文部省戦時特別美術展に「必中」を出品。46年独立美術協会会員となる。同年、日本美術会結成に参加。47年、日本アンデパンダン展を開催。また、美術団体連合展に出品する。52年美術家懇話会結成に参加し平和美術展を開催する。53年、美術懇話会は美術家平和会議と改称する。60年、米国サクラメント市クロッカー美術館で開催された「独立6人展」に出品。63年第31回独立展に「草の上」「野外静物」を出品して独立G賞を受賞。64年、林武門下生によるグループ「欅会」を結成し、79年まで毎年展覧会を開催する。67年、具象画家による「新具象研究会」を結成し、73年まで季刊誌「画家」を刊行する。70年、73年に南欧旅行。79年日本美術家連盟代表として韓国美術家協会を親善訪問。80年郡山市東苑現代美術館で自選展を開催。81年ソ連文化省招待によるソヴィエト写生旅行に参加する。82年独立美術協会会員10人による「叢人会」を結成する。83年、パリに旅行。87年新潟市美術館で「鳥居敏文展」が開催される。1989(平成元)年東京セントラル美術館で「鳥居敏文自選展」を開催。同年および90年にパリ旅行。91年『鳥居敏文画集』を刊行。96年居住する練馬区の区立美術館で「ねりまの美術 楢原健三、鳥居敏文」展が開催された。1930年代に池袋周辺につくられた芸術家村、いわゆる池袋モンパルナスの一員であり、36年11月15日から30日まで池袋にあった香蘭荘、コティ、紫薫荘、セルパンで開催された池袋美術家倶楽部第1回展覧会に小熊秀雄、寺田政明、桑原実、佐藤英男らとともに出品している。原色を多用する初期の独立展の作風の中で、穏やかな色調で労働者や市井の人々を描いて注目された。生涯、具象画に徹し、戦後は着衣の若者群像を室内や風景の中に配して、平和や自由への希求を表現した。ピカソの「ゲルニカ」、ドラクロアの「民衆をひきいる自由の女神」など著名な作品を画中に取り入れる手法でも知られる。9月17日午後3時から東京都千代田区飯田橋のホテルグランドパレスで「偲ぶ会」が開かれた。

田中稔之

没年月日:2006/08/07

読み:たなかとしゆき  行動美術協会会員の画家、田中稔之は8月7日午後1時14分がんのために死去した。享年78。1928(昭和3)年4月13日、山口県防府市牟礼岸津に生まれる。35年防府市牟礼尋常小学校に入学し、一水会の画家津田正毅(三木)に担任され、絵に興味を持ち始める。41年、同校を卒業し、山口県立防府中学校に入学。43年、山口県光海軍工砲工部機具工場に学徒動員。46年に中学に復帰し、同年卒業して山口青年師範学校農学部に入学。この頃から画家を志す。49年師範学校を卒業し、同年、徳山第二中学校(現、湖南中学)教諭となり、2年間、理科、図工、職業(農業)を教える。同年、徳山市美術展で特選を受けたことを契機として、安野光雅との交遊が始まる。通信教育などをもとに独学で絵を学び、日展に出品するが落選。50年夏、上京して東京美術研究所でデッサンを学ぶ。同年、東京芸術大学を受験するが不合格となり、日本大学芸術学部3年生編入に合格するが、支援の望みがなく断念。51年に再度上京し、大田区赤松小学校図工専科教諭となる。また、向井潤吉に師事し、行動美術研究所でデッサンを学ぶ。52年第38回光風会展に「水」で入選。52年第7回行動展に「内海の小港」で初入選。以後、同展に出品を続ける。53年、読売アンデパンダン展に出品。54年、第9回行動展に「或る日の波止場」を出品して奨励賞受賞、55年同会会友となる。57年、新宿風月堂で「井上武吉・田中稔之―絵画と彫刻展」を開催。58年第13回行動展に「動」「落石」を出品し、行動美術賞を受賞。翌年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展に「作品A」「作品B」を出品。61年、大田区赤松小学校を退職し、画業に専念。62年、第5回現代日本美術展に「赤の地平A」を出品。同年、渡欧のため下関大丸、宇部市役所、防府丸久などで展覧会を開き、資金を得て、63年に渡欧。パリを拠点にイギリス、ノルウェー、オランダなどを巡遊する。同年、ウィリアム・ヘイター教室で版画、絵画を学ぶ。64年、当時パリで活躍中であった菅井汲のアシスタントとなりアトリエに通う。また、同年スペイン、イタリア、スイスに旅行。65年5月に帰国。アンフォルメルの抽象表現主義的作風から幾何学的抽象へと作風が変化し始める。73年ころから、後年田中の主要モチーフとなる円が画面に登場するようになる。75年、多摩美術大学非常勤講師となる。また同年坂崎乙郎の企画により、新宿紀伊国屋画廊で坂本善三、白野文敏と三人展を開催。これを契機として坂本善三との交遊が始まる。77年、モンゴル、シベリアに旅行し、大地と空のみの壮大な自然に触れ、地平に沈む太陽に感銘を受ける。79年、西チベット、ラダックへ旅行、80年新疆ウイグル自治区を訪れ、大地と空のみの空間体験を重ねる。これらの体験により、画面を構成する幾何学的円が具象性を持つものとなる。85年多摩美術大学教授となる。86年、「円の光景‘85―31(天円地方)」により第9回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。87年第3回東郷青児美術館大賞作家展に大賞受賞作他15点を出品。また、同年、神奈川県民ホールギャラリーで個展を開く。1989(平成元)年、山口県芸術文化功労賞受賞。97年、パリでSAGA展を開催する。99年多摩美術大学退職記念展を同大附属美術館で開催。2001年坂本善三美術館で個展「田中稔之―響きあう世界 大地・海・天空」を開催し、初期から新作まで67点を展示した。最初期には具象的風景画を描いたが、まもなく色彩と有機的なかたちで画面を構成する抽象画へと移行し、70年代後期から円を主なモチーフとした明快な色面による幾何学的抽象絵画を描いた。画集に『Red Horizon』(石版画集)(MMG、1976年)、『田中稔之』(東美デザイン、1981年)、『朱の舞』(版画集)(スズカワ画廊、1990年)がある。また、下関市民会館壁画「海峡の陽」(1980年)、防府市議会ロビーモザイク「瀬戸内の陽」(1982年)、徳島市総合スポーツセンター壁画「静と動」(1992年)など公共建築のための壁画も多く制作している。幼い頃から海に親しみ、釣りを趣味とし、2003年、海との関わりをテーマに写真と絵画を組み合わせたコラージュとエッセイで構成した『海との青い交信』を刊行した。

芝田米三

没年月日:2006/05/15

読み:しばたよねぞう  日本芸術院会員の洋画家芝田米三は5月15日午前4時14分、胃がんのため京都市左京区松ヶ崎西山の自宅で死去した。享年79。1926(大正15)年9月12日、京都市中京区に生まれる。1945(昭和20)年に独立美術京都研究所に入り、須田国太郎に師事。47年第15回独立展に「紫野」で初入選。50年第18回同展に「兄の像」「木の間風景」を出品して独立賞を受賞。同年サロン・ド・プランタン賞を受賞する。53年、独立美術協会準会員となる。57年、同展出品作「丘の樹」が第一回安井賞展に入選。この時期までは風景画が主であったが、58年第26回同展に動物を主要なモチーフとする「老いた山羊」「山羊」「雑草」を出品し、独立美術協会会員に推挙される。63年第31回独立展出品作「樹下群馬」を第7回安井賞候補展に出品し安井賞受賞。65年ヨーロッパに旅行し、以後しばしば欧州、米国、中南米、東欧を旅する。66年第34回独立展に「ナザレの語り」を出品し、G賞受賞。同年から日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象派美術展、国際形象展などに出品する。70年代に入ると人物を主要なモチーフとするようになり、次第に人物によって収穫など人間を含む動植物の生命を象徴する作品へと移行する。73年ユーゴスラヴィア、79年ソヴィエトに旅行。同年、グループ展である十果会展が開催され、以後、同展に出品を続ける。80年『芝田米三画集』(求龍堂)を刊行。81年パリのベルネーム・ジュンヌ画廊およびバルセロナのゴスランド・ギャラリーで個展を開催する。83年「世界の民族に捧げる讃歌 芝田米三展」を大阪梅田大丸ミュージアムで開催。84年「昭和世代を代表する作家シリーズ・1 生命讃歌 芝田米三展」を東京の伊勢丹美術館ほかで開催する。86年京都府主催により京都府立文化芸術会館で芝田米三展を開催、1989(平成元)年に京都府文化功労賞を受賞する。92年にバルセロナのサグラダ・ファミリア教会を背景にアントニオ・ガウディの肖像を描いた「或る建築家未完の譜」を制作して以降、音楽家や哲学者などの肖像にそれらの人物とゆかりの深い場所の風景を組み合わせる作品を多く描く。93年、独立美術協会会員功労賞を受賞。94年、前年の第61回独立展に出品した「楽聖賛歌」によって第50回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となる。97年「不滅の楽譜を讃える―芝田米三展」を京都、東京、大阪、横浜、岐阜の高島屋および名古屋丸栄で開催。98年いよてつそごうで「生命うるわし芝田米三展」を開催する。2002年、東京、京都ほかの高島屋で「永遠なる音の翼―芝田米三展」を開催。05年には「地球讃歌―芝田米三展」を日本橋、仙台、名古屋ほかの三越で開催した。06年秋の独立展から芝田米三賞が設けられた。

平川敏夫

没年月日:2006/05/14

読み:ひらかわとしお  日本画家で創画会会員の平川敏夫は5月14日、肺炎のため死去した。享年81。1924(大正13)年10月6日、愛知県宝飯郡小坂井町に生まれる。1940(昭和15)年に高等小学校を卒業、京都の図案家稲石武男の塾に住み込み、仕事の中で日本画材の扱いなど基礎を身につける。翌年太平洋戦争の勃発により京都から帰郷。戦後、47年に我妻碧宇によって結成された新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。50年第1回豊橋美術展に出品した「大崎風景」(水彩画)が豊橋市長賞を受賞。同年中村正義の勧めで第3回創造美術展に出品した「街」が初入選。51年同会が新制作協会日本画部となって以後同会に出品し、54年第18回新制作展「庭四題」、58年同第22回「陶土」「陶土のある街」、62年第26回「樹濤」(文部省買上げ)「樹冬」と、三度にわたり新作家賞を受賞。63年同会会員となった。この間、60年第24回展に「白樹」を出品し、以後、各地に残る原生林を訪ね歩き、樹木を題材に生命の脈動と神秘を表現する。64年第28回「樹焔」、67年第31回「樹響」等を出品。この他、現代日本美術展、日本国際美術展や、71年現代幻想絵画展等にも招待出品。73年にはパリで個展を開催。74年創画会結成に参加し、同会会員として出品を続けた。70年代から80年代にかけて樹木と併せ、塔を主題に閑雅な作風を展開。次第にその色数を減らしながら80年代以降はマスキングによる白抜きの効果を取り入れた水墨表現を追究した。80年中日文化賞、83年愛知県教育委員会文化功労賞、85年東海テレビ文化賞を受賞。1997(平成9)年に岐阜県美術館で「華麗なる変遷 平川敏夫展」が開催されている。

今野忠一

没年月日:2006/04/15

読み:こんのちゅういち  日本画家で日本美術院常務理事の今野忠一は4月15日、脳梗塞のためさいたま市の病院で死去した。享年91。1915(大正4)年3月26日、山形県東村山郡干布村(現、天童市上荻野戸)に生まれる。本名忠市。1931(昭和6)年山形の南画家後藤松亭に入門し、松石と号する。34年山形出身の日本画家高嶋祥光を頼って上京、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。しかし40年には同郷の彫刻家新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。40年第27回院展に「菜園」が初入選。郷里での疎開ののち、戦後46年より再び院展に入選を続け、54年第39回「晩彩」、56年第41回「残雪」、59年第44回「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞する。55年第40回「暮秋」は日本美術院賞、57年第42回「樹と鷺」が同賞次賞、58年第43回「老樹」は同次賞・文部大臣賞を受賞し、59年同人に推挙された。初期の花鳥画から50年代には風景画に転じ、主に山岳風景をモティーフに、写実と心象が深く融合する深遠な画境を展開。60年第45回「源流」、61年第46回「照壁」等を発表し、77年第62回「妙義」は内閣総理大臣賞を受賞した。78年から88年まで愛知県立芸術大学日本画科主任教授を務める。88年日本美術院理事に選任。1990(平成2)年郷土の天童市美術館で「今野忠一とその周辺展」を開催、以後同館で回顧展をたびたび催し、没後すぐの2006年にも追悼展を行っている。92年から96年まで『中央公論』の表紙絵を担当。92年東北芸術工科大学芸術学部美術科主任教授となる。同年には『今野忠一画集』(ぎょうせい)が刊行。2001年日本美術院常務理事となる。

大野五郎

没年月日:2006/03/07

読み:おおのごろう  洋画家の大野五郎は3月7日、慢性心不全のため東京都あきる野市内の病院で死去した。享年96。1910(明治43)年2月13日、父大野東一、母幹の五男として東京府下北豊郡岩淵町(現在の東京都北区)に生まれる。父東一は、当時の栃木県都賀郡谷中村の村長を務めていたが、08年に足尾銅山鉱毒事件のために離村していた。青年期に及んで実兄で詩人であった四郎の影響もあって絵画に関心をもち、26年、斉藤與里の紹介で藤島武二が指導する川端画学校に入学する。1928(昭和3)年、第3回一九三〇年協会展に「姉弟三人」など3点が初入選、第5回展まで出品した。この頃長谷川利行、靉光、井上長三郎を知る。29年、同協会の絵画研究所に入り、里見勝蔵に師事し、ゴッホ、フォーヴィスムの影響を深く受けることになり、原色と太い筆致を特徴とする画風の基礎を形成することとなった。また、ここで田中佐一郎、中間冊夫、森芳雄、伊藤久三郎と知りあうことになる。30年に第17回二科展に「風景」「少女」が入選。31年、第1回独立美術協会展に「横向いた肖像」「Nの肖像」が入選、O氏賞を受賞した。この頃、兄四郎がバー「ユレカ」を開店、店を手伝うようになり、ここにあつまる小熊秀雄などの詩人たちとの交友がはじまる。42年横瀬喜久枝と結婚、44年には長男俊介が誕生した。その間の43年に井上長三郎、寺田政明、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、松本竣介、麻生三郎と新人画会を結成し、展覧会を翌年の第3回展まで開催した。46年に再興した独立美術協会の準会員に迎えられるが、翌年同会を脱退して自由美術家協会に参加。64年には、同協会を離れ、寺田政明、森芳雄、吉井忠とともに主体美術協会を結成した。以後、2005(平成17)年まで毎年出品をつづけ、同協会の結成会員として象徴的な存在となった。また昭和期の史的回顧展に出品されることが多く、88年に練馬区立美術館、広島県立美術館を巡回した「靉光展 青春の光と闇」、91年に板橋区立美術館にて開催された「昭和の前衛展 表現の冒険者たち」、同年に神奈川県立近代美術館にて開催された「松本竣介と30人の画家たち展」、08年に板橋区立美術館で開催された「新人画会展 戦時下の画家たち」等に戦前期の作品が出品された。その没後の同年4月に、「大野五郎―画業八〇年の軌跡」が、八王子市夢美術館にて開催され、初期作から05年までの作品67点が出品された。その画風は、自ら語るように酒を愛し、豪放磊落の性格を表したように、赤い輪郭線を特徴とするフォーヴィスムの流れを汲んだものであった。

佐藤圀夫

没年月日:2006/01/24

読み:さとうくにお  日本画家で日本芸術院会員、名古屋芸術大学名誉教授の佐藤圀夫は1月24日、転移性肺がんのため東京都立川市内の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年8月16日、岩手県九戸郡野田村に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科に入学し、46年卒業。同年第31回院展に「みそあげ」が初入選し、翌47年同第32回展にも「豆ひき」が入選。48年より髙山辰雄の誘いで一采社の研究会に参加し49年の第8回一采社展より出品、以後解散する61年第20回展まで出品する。49年第5回日展に「野田村」が初入選、以後日展に出品する。51年より一采社世話役の画商栗坂信の紹介で山口蓬春に師事。54年第10回日展「冬」が特選・白寿賞を受賞し、朝日秀作美術展に推薦された。続いて59年第2回新日展で「津軽の浜」が再び特選・白寿賞となり、62年同第5回「夕凪」は菊華賞を受賞。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描く。64年日展会員、76年同評議員となり、76年第8回改組日展に「十三湖の村」を出品、翌77年同第9回「山里」は文部大臣賞を受賞した。この間、70年に名古屋芸術大学教授となる(97年まで)。88年第20回日展出品作「月明」で1989(平成元)年日本芸術院賞を受賞。同年日展理事、99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

脇田和

没年月日:2005/11/27

読み:わきたかず  新制作派協会創立会員の洋画家脇田和は11月27日午前8時35分、心筋梗塞のため東京都中央区の病院で死去した。享年97。1908(明治41)年6月7日、東京氏赤坂区青山高樹町17番地に生まれる。父勇は貿易商社脇田商行を経営し欧州、東南アジアからの輸出入を行っていた。1921(大正10)年青南尋常小学校を卒業して青山学院中等部に入学。同院では当時、白馬会の画家小代為重が図画教師をしており、小代から油彩、木炭デッサンの指導を受ける。23年7月、姉夫妻が三菱商事ベルリン駐在となるのに伴い、青山学院を中退して同行して渡欧。24年ドイツ帝室技芸員のマックス・ラーベスに師事し、その紹介でミューラー・シェーンフェルト画塾に通う。25年ベルリン国立美術学校に入学しエーリッヒ・ウォルスフェルト(1884-1956)の教室に入る。1926(昭和元)年夏、南ドイツを旅行し、ホドラー、デューラー、ゴッホなどの作品に感動する。27年6月夏休みに一時帰国し翌年2月まで滞在。この間、写真に興味を持つ。28年春に帰国し、4月からカール・ミヒェルの教室でリトグラフ、エッチング、アクアチントを、オスカール・バンゲマンの教室で木口木版を学ぶ。同校で銅メダルを受賞し、学校内に単独のアトリエを与えられる。30年、ベルリンの自由美術展(フラウエ・クンストシャウ)にデッサンを出品。同年9月、美術学校より金メダルを授与され同校を卒業。同月18日に父が死去したことにより、急遽帰国の途に着き、10月東京に帰着し、その後10年間、父の会社を継いで会社を経営する一方、画業を続ける。31年、母の紹介により水彩画家春日部たすくを知る。32年第28回太平洋画会展に「風景」で初入選。また第19回光風会展に「風景」「静物」で初入選し、船岡賞を受賞。第13回帝展に「白い机の静物」で初入選する。この頃、大野隆徳研究所に夜間通い、人体デッサンを行う。33年、第20回光風会展に「静物A」「静物B」「閑窓」「アコーディオン」を出品し、光風会賞を受賞して会員に推挙され、また、日本水彩画会20周年展にパステルの風景画を出品して同会会員に推挙される。同年、第14回帝展に「大漁着」で入選。34年第21回光風会展に「椰子の実と子供」「ニッカーの子供」「ユニフォームの子供」を出品。日本水彩画展にも出品を続ける。35年第22回光風会展に「三人」「母子」「ドアマンと子供」を出品し、光風特賞を受賞。同年10月松田文相による帝展改組に反対して、在野展として開設された第二部会に参加し「ピクニック」「父子」を出品。「ピクニック」は特選となり昭和洋画奨励賞を受賞する。36年第23回光風会展に「画室の一隅」を出品し、二度目の光風特賞受賞。5月、春日部たすくと共に満州を旅行。旅行中の7月、新制作派協会設立への参加を電報で打診される。7月25日、猪熊弦一郎、伊勢正義、小磯良平、内田巌、佐藤敬らと新制作派協会を創立。官展の次代を担うと期待されていた若手作家が反官展を標榜し、清新な制作を唱う団体として注目される。これに伴い、光風会を退会。同年11月に行われた第1回新制作派協会展に「ジャズバンド」「ダンス」「二人」を出品。また、「前進」「向上」を表現した協会のロゴマークをデザインする。以後、生涯にわたって同会を中心に作品を発表する。38年5月、上海軍報道部の委嘱による記録画作成のため上海へ赴く。39年第1回聖戦美術展に「呉淞鎮敵前上陸」を出品。40年紀元2600年奉祝展に「夫婦と犬」を出品。41年「大東亜建設に捧ぐ」をテーマに展示された第7回新制作派協会展に「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」を出品。43年9月、フィリピン、マニラ陸軍報道部勤務となり、44年8月に帰国。45年新制作派協会員らとともに神奈川県相模湖付近の藤野村に集団疎開。同地で芸術家村を構想し、藤田嗣治、文士石坂洋次郎らも加わって制作のかたわら、楽団を結成し演奏活動などを行うなどして49年まで滞在する。46年、民主主義美術を目標に設立された日本美術会の創立に参加。47年第一回美術団体連合展に新制作派協会も参加し脇田は「猫と子供」を出品。また、同年第11回新制作派協会展に「少女と妖精」「草笛」等を出品。50年、今泉篤男企画による檀会に参加し、資生堂ギャラリーでの檀会美術展に出品する。51年6月、開廊したばかりのタケミヤ画廊で滝口修造の企画により小品展を開催し、10月には戦後の日本人美術家の国際展参加としては初めての出品となる第1回サンパウロ・ビエンナーレに「子供のカーニバル」を出品、以後、52年のサロン・ド・メ、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、53年の第2回国際現代美術展(ニューデリー)など、国際展にも積極的に参加する。54年、最初の画集となる『日本現代画家選Ⅲ 16 脇田和』(美術出版社)を刊行。55年第3回日本国際美術展に「あらそい」「鳥追い」を出品し、「あらそい」で最優秀賞を受賞。翌年、この作品によって第7回毎日美術賞を受賞する。56年3月よりアメリカ国務省人物交流部の招聘により3ヶ月間アメリカ各地を視察。6月より半年間、パリ郊外に滞在。この間、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに11点出品し、美術評論家のアラン・ジュフロアの高い評価を受け、9月には第1回グッゲンハイム国際美術賞の日本国内賞を「あらそい」で受賞。12月にはパリからニューヨークに移り、57年4月、ニューオーリンズ、ニューメキシコ、ロスアンゼルス、ハワイを巡って帰国。59年より東京藝術大学版画教室非常勤講師、64年同助教授、68年同教授となって、70年、同学を退官。72年井上靖の詩による詩画集『北国』『珠江』(求龍堂)を刊行。74年、東京セントラル美術館で「脇田和作品展1960-1974」を開催。同年、『画集脇田和1960-1974』(求龍堂)を刊行。この頃から今泉篤男、岡鹿之助の意見などにより個人美術館の構想を持つ。76年から心筋梗塞をわずらい、79年に手術。82年『脇田和作品集』(美術出版社)刊行。86年神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館で「脇田和展」を開催。87年、ハワイ経由で渡米し、パリ、バルセロナを周り、ベルリン等ドイツの諸都市を訪れる。1989(平成元)年より軽井沢のアトリエ敷地内に個人美術館設立を計画し、91年6月「脇田美術館」を開館して館長に就任するとともに、美術館から『脇田和作品集』『随筆集え・ひと・こと』を刊行。92年、パリ日動画廊、バーゼル・インタナショナル・アートフェアにて脇田和展開催。96年10月パリの吉井画廊で個展を開催し、同月パリ、ニューヨークに赴く。98年平成10年度文化功労者に選ばれ、99年東京藝術大学名誉教授となった。晩年に至っても新制作協会展には出品を続けたほか、99年脇田和回顧展(神戸市立小磯記念美術館)、2002年脇田和展(世田谷美術館)など大規模な個展を開催した。初期から子供を重要なモチーフとして再現描写にとどまらない詩的な画面を構成し、戦後は、鳥をも好んで画中に取り入れて、平和や人と自然の関わりなどといった抽象的な概念を象徴的に描いた。作品の芸術性を指標としない画壇の政治性に批判的な姿勢を保ち続け、誠実で真摯な制作態度を貫いた。 新制作協会出品歴 1回(36年)「ジャズバンド」「ダンス」「二人」、2回「瀞」「渓」「森」、3回「水辺」「立つ座る」「チャアチャン」「静物」「樹陰」、4回「窓辺」、5回「海浜」、6回「母への絵」「子供」「幼児と子供」、7回「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」、8回「画室の子供」「花持つ子供」「子供」、9回出品するも題不明、10回「沐浴する児」「なつめ・女・猫」「子供と兎と花」「南の子供」「豆柿の静物」「猫・児・花」、11回「少女と妖精」「草笛」「ファウンの子供」「石の庭」、12回「女と猫」「子供と猫」「女と花」「子供と花」「三人」「静物」、13回「浴室」「二人」「小さいヴァイオリン」、14回「花に来る天使」「子供の手品師」「子供はトランプが好き」、15回(以後新制作協会展)、16回「桃太郎」「魚網」「捕虫網」「金太郎」、17回「慈鳥」「放鳥」、18回「貝殻と鳥」「西瓜と貝殻」、19回「水槽の鳥「鳥と住む」「鳥と横臥する女」、20回「花を持つ」、21回「緑園」、22回「庭」「花・鳥・人」「女と鳥」、23回「飛翔」「翼」「相思樹の実」、24回「解体する五つの顔と鳥」「断層の人と鳥」、25回「蚤の市のグリーダア・プッペ」「スタニーポイントの女陶芸師」、26回「不出品、27回「きんぎょ」「つた」「はげいとう」、28回「化粧台と猫」「窓(ベニス)」「赤い窓」「三つの顔と鳥」、29回「巣・石・葉」「雨(三題ノ一・二・三)、30回「空に叫ぶ」「キャンドルと天使」「土偶と鳥」「三粒の豆」、31回「デリカテッセン」「カシミールの織子」、32回「鳥寄せ」「羽音」、33回「窯場の朝」「窯場の夜」、34回不出品、35回「鳩舎」「鳥花苑」、36回「薔薇園」「輪花」、37回「雷鳥」「鶉」、38回「茨の冠と薔薇の花」、39回「雲崗石仏」、40回不出品、41回「かたつむり」、42回「幼き日の虫干し」、43回不出品、44回「かくれんぼ」(文化庁買上)、45回「ポンコツ車を誘導する鳥」、46回「車はまだ走っている」、47回「画家は毎日シャツを取り替える」「今日の選択」、48回「亜熱帯の漂流物」「ALOHA」、49回「暖帯」「緑雨」、50回「鳥の来る道」、51回「燃える楽譜」、52回「帰ってきた楽譜」「荷ほどき」、53回「E子のコレクション」「隠袋」、54回「花開く」「芽吹き」、55回「秋色」「黄色い鳥」、56回「鳥飼いの収集物」「鳥の閑日」、57回「移り香」、58回「比翼」「連理」、59回「二つの安居」「さつきまつ」、60回「一つ咲く花」「遺された壺」、61回「双鳥」「四色の季節」、62回「来い来い鳥よ」「おいでおいで」、63回「土の香」「夜わの鳥」、64回「画房夢想曲」「漂鳥」、65回「志野」「織部」、66回「窯出しを祝う」「黄瀬戸の感触」 

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