今野忠一

没年月日:2006/04/15
分野:, (日)
読み:こんのちゅういち

 日本画家で日本美術院常務理事の今野忠一は4月15日、脳梗塞のためさいたま市の病院で死去した。享年91。1915(大正4)年3月26日、山形県東村山郡干布村(現、天童市上荻野戸)に生まれる。本名忠市。1931(昭和6)年山形の南画家後藤松亭に入門し、松石と号する。34年山形出身の日本画家高嶋祥光を頼って上京、児玉希望の門人となり、欣泉と号して写実的な風景画を学ぶ。しかし40年には同郷の彫刻家新海竹蔵を介して郷倉千靱の草樹社に入塾、忠一と号して花鳥画に取り組む。40年第27回院展に「菜園」が初入選。郷里での疎開ののち、戦後46年より再び院展に入選を続け、54年第39回「晩彩」、56年第41回「残雪」、59年第44回「吾妻早春」がいずれも奨励賞を受賞する。55年第40回「暮秋」は日本美術院賞、57年第42回「樹と鷺」が同賞次賞、58年第43回「老樹」は同次賞・文部大臣賞を受賞し、59年同人に推挙された。初期の花鳥画から50年代には風景画に転じ、主に山岳風景をモティーフに、写実と心象が深く融合する深遠な画境を展開。60年第45回「源流」、61年第46回「照壁」等を発表し、77年第62回「妙義」は内閣総理大臣賞を受賞した。78年から88年まで愛知県立芸術大学日本画科主任教授を務める。88年日本美術院理事に選任。1990(平成2)年郷土の天童市美術館で「今野忠一とその周辺展」を開催、以後同館で回顧展をたびたび催し、没後すぐの2006年にも追悼展を行っている。92年から96年まで『中央公論』の表紙絵を担当。92年東北芸術工科大学芸術学部美術科主任教授となる。同年には『今野忠一画集』(ぎょうせい)が刊行。2001年日本美術院常務理事となる。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(368頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「今野忠一」『日本美術年鑑』平成19年版(368頁)
例)「今野忠一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28361.html(閲覧日 2024-04-16)

以下のデータベースにも「今野忠一」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top