岩壁冨士夫

没年月日:2007/04/19
分野:, (日)
読み:いわかべふじお

 日本画家で日本美術院同人の岩壁冨士夫は4月19日午後0時20分、肝不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。1925(大正14)年12月4日、神奈川県茅ケ崎市に生まれる。本名富士夫。1947(昭和22)年東京美術学校日本画科を卒業後は、小中学校で教鞭をとりながら院展に出品するが、落選を繰り返す。55年頃小谷津任牛に師事し、任牛門下の飛鳥会に入って研鑽を積む。56年第41回院展に「三人」が初入選、以後連続して同展に入選し、59年第44回院展「旅人」で日本美術院院友に推挙。この間飛鳥会が奥村土牛の研究会と合流し八幡会となり、土牛の指導も受ける。60年から翌年にかけ沖縄へ写生旅行を行い、以後66年まで沖縄を主題にのびやかな作風を展開する。69年にヨーロッパを巡遊、とくにポルトガルの風景との邂逅は以後の画業に決定的なものとなり、同地をテーマとしながら太い筆線と確かなデッサン力による力強い画風を確立する。75年第60回院展で「夕陽はサンタマリアに」が日本美術院賞を受賞、特待となる。77年第62回院展「モンテ・ゴールドの家族」、78年第63回「マール」、79年第64回「丘のべ」、80年第65回「望洋」、81年第66回「ビラマアール」、82年第67回「海風」と、6年連続で奨励賞を受賞する。83年第68回「マリアの家族」が再び日本美術院賞を受賞、同年同人に推挙された。84年から1989(平成元)年まで武蔵野美術大学日本画科の講師をつとめるなど、後進の育成にも力を尽くした。92年第77回院展出品作「母子」が内閣総理大臣賞を受賞。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(380頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2019年06月06日 (更新履歴)
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