本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





米陀寛

没年月日:2005/08/28

読み:よねだかん  日本画家の米陀寛は8月28日午前7時4分、多発性脳こうそくのため宇都宮市の病院で死去した。享年88。1917(大正6)年栃木県宇都宮市に生まれる。1936(昭和11)年下野中学(現、作新学院高等学校)を卒業し、神奈川県横須賀市の海軍航空技術廠科学部に入所。同年中村岳陵に入門するが、37年日中戦争の勃発に伴い現役入隊し、41年までの四年間にわたり中国大陸を転戦する。除隊した翌年の43年第6回新文展に「好日」が初入選。44年戦況の悪化により再応召を受け、飛行機整備兵として入隊。終戦後は宇都宮に戻り、同地で画家としての本格的な道を歩み始める。しばらく日展や院展、創造美術展春季展に出品、入選するも、50年代より日展への出品を重ね、67年第10回新日展で「牛」が特選、69年改組第1回日展で「北辺」が特選・白寿賞を受賞、82年日展会員となる。この間、67年「老人と軍鶏」で日春展奨励賞を受ける。その他文化庁現代美術選抜展、山種美術館賞展等に出品。個展は78年銀座松屋、81年銀座・北辰画廊、上野東武(創作陶芸個展)、88年二荒山神社宝物殿などで開催。戦前の一時期を除き、一貫して宇都宮を足場に活動を続け、“牛の米陀”と呼ばれるほどに実在感溢れる牛馬を多く描いた。いっぽう59年川治温泉・柏屋ホテル大浴場陶壁「牡鹿」を制作以来、全国各地の学校、病院、会館、図書館、ホテル等、益子焼による陶壁画を手がけた。その他81年日光二荒山神社男体山山頂鎮座1200年祭記念の大絵馬、83年宇都宮二荒山神社斎館襖絵を制作、また日光東照宮の絵馬の原画を十数年来描くなど、幅広い活動を展開した。81年栃木県文化功労賞受賞。84年『米陀寛画集』(下野新聞社)刊行。1999(平成11)年には宇都宮美術館で回顧展が開催されている。 

関口正男

没年月日:2005/08/28

読み:せきぐちまさお  日本画家で日本美術院評議員の関口正男は8月28日午前7時10分、肺炎のため埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年92。1912(大正元)年9月6日、東京に生まれる。1927(昭和2)年、東京府立第三中学校(現、都立両国高等学校)を卒業。33年頃、再興日本美術院同人の荒井寛方に師事、寛方門下の研究会浩然社で研鑽を積む。43年第30回院展に「小姐」が初入選。45年師寛方が急死し、その後は堅山南風に師事。戦後初めて開かれた46年第31回院展から入選を続け、47年院友となる。仏画の第一人者荒井寛方から学んだ確かな技巧を土台とし、さらに南風の指導により明快な作風を特色とした。60年代半ばより「飛鳥幻想」(64年第49回展)、「幻想火の国」(65年第50回展)等、目を古代へと向ける。66年第51回展出品作「塔」が奨励賞を受け、同年特待となる。さらに72年第57回展出品作「浄土涌現」で奨励賞、74年には法隆寺夢殿を描いた第59回展出品作「斑鳩の浄土」で日本美術院賞を受賞する。75年第60回展出品作「四天曼陀羅」以降も奨励賞受賞を重ね、83年同人に推挙された。1990(平成2)年、第75回展出品作「熊野」で文部大臣賞、95年第80回展出品作「吉祥天」で内閣総理大臣賞を受賞。96年日本美術院評議員となる。98年勲四等瑞宝章を受章。2000年にミュージアム氏家で「荒井寛方仏画の系譜―関口正男展」が開催されている。 

上野泰郎

没年月日:2005/08/11

読み:うえのやすお  日本画家で創画会会員、多摩美術大学名誉教授の上野泰郎は8月11日午後4時58分、肺炎のため東京目黒区の病院で死去した。享年79。1926(大正15)年1月6日、東京都豊島区に染色家の父斌郎、松岡映丘門下の日本画家である母の間に生まれる。1943(昭和18)年東京美術学校日本画科に入学、山本丘人の指導を受ける。48年同校日本画科を卒業。同年結成された創造美術の第1回展に初入選し、以後同展に出品、50年第2回春季展で春季賞、第3回展で佳作賞、51年第3回春季展で研究賞を受賞する。51年創造美術が新制作協会日本画部となって以後は新制作展に出品し、52年第16回展、54年第18回展、57年第21回展で新作家賞、59年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展出品の「善意の人々」が神奈川県立近代美術館買上げ、65年第8回日本国際美術展出品の「漂民」が文部省買上げとなる。68年ヨーロッパ、その後も世界各地を巡遊、66年日本美術家連盟委員、69年多摩美術大学教授となる。74年新制作協会より離脱し、旧日本画部会員による創画会結成に参加。81年日本橋高島屋で個展開催。85年信濃デッサン館館主窪島誠一郎の肝煎りで、池田幹雄・大森運夫・小嶋悠司・滝沢具幸・毛利武彦・渡辺学と地の会を結成。1996(平成8)年多摩美術大学を定年退職。同年日本美術家連盟理事長に就任(~2000年)、在任中、完全学校週五日制の導入にあたり美術教育の重要性を訴えるなどの活動を行った。98年東京・千代田の聖イグナチオ教会新聖堂のステンドグラスを制作。イコンの影響を受け、敬虔なクリスチャンとして宗教的な視点から人間の“いのち”の意味を問う作品を、筆ではなく指で絵の具を塗りこめる独特の手法で描き出した。2001年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。 

水谷愛子

没年月日:2005/03/22

読み:みずたにあいこ  日本画家で日本美術院同人の水谷愛子は3月22日午後10時49分、くも膜下出血のため横浜市港南区の病院で死去した。享年80。1924(大正13)年8月15日広島市に生まれる。1941(昭和16)年安田高等女学校(現、安田女子高等学校)を卒業し、上京して女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、44年に卒業して故郷の広島に戻り、戦後の46年より母校安田高等女学校の図画講師として奉職する。49年同郷の日本画家山中雪人と結婚し、横浜市に新居を構える。同49年大智勝観の紹介で中島清之に、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事することとなる。市内の中学で美術を教えながら創作を行い、55年第40回院展に漁師を描いた「濤聲」が初入選。その後も院展に出品を続け、87年第72回展で「母と子」、1989(平成元)年第74回展で「裕太と亮ちゃん」、90年第75回展で「亮と兄ちゃん」が日本美術院賞・大観賞、91年「理季ちゃん」で五度目の院展奨励賞を受賞。また春の院展でも春季展賞、奨励賞を受賞。2000年より日本美術院同人となる。民家をテーマにした作品群を経て、日常親愛の眼差しを向けている身近な老人や幼児を主題とし、確かなデッサン力に裏付けられた大胆な線描と温もりある色塊との生命力溢れる構成で表現した。03年に夫山中雪人が他界、翌04年に夫の遺作36点と自作31点および大下図3点を呉市立美術館に寄贈する。没後間もない05年秋には同館で「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催された。 

蔦谷喜一

没年月日:2005/02/24

読み:つたやきいち  「きいちのぬりえ」で一世を風靡した、ぬり絵作家の蔦谷喜一は、2月24日午前8時33分、老衰のため埼玉県春日部市内の病院で死去した。享年91。1914(大正3)年2月18日、東京市京橋区新佃に紙問屋の次男として生まれる。14歳の時に京橋商業へ入学するが、授業内容に興味が持てず中退。帝展で山川秀峰の「素踊」に魅せられて挿絵画家を志し、1931(昭和6)年川端画学校に入学する。3年程で卒業した後は、クロッキー研究所に通う傍ら、長兄に勧められて菓子屋の経営を一年程経験した。39年には、大木実詩集『場末の子』(砂子屋書房)の表紙絵を担当。40年から「フジヲ」の名前でぬりえを描き始めるが、太平洋戦争の勃発とその激化により制作の困難な状況となる。その戦争の中で44年にまさと結婚、半年後の招集とともに海軍省に配属され、終戦直後には駐留米兵相手に肖像画を描き生計を立てた。47年より「きいち」の名前でぬりえを再開、石川松声堂と山海堂の二社から発売されて爆発的なブームを巻き起こした。49年には『メリーちゃん』『はなこさん』(朝日出版社)を発行。しかし60年代のTVの普及でアニメブームが訪れるとぬりえの売れ行きは急激に悪化し、美人画や日本画、掛軸なども手掛けるようになる。その後、蔦谷のファンであったグラフィックデザイナー長谷川義太郎の働きかけにより再び脚光を浴び、78年に資生堂ザ・ギンザホールでの個展をはじめ、各地で展覧会が開かれ大盛況となった。また広告や商品にも多くの作品が起用され、『わたしのきいち』(小学館)など著書も多数出版された。この第二次きいちブーム自体は平成元年頃に落ち着くが、現在でも文化屋雑貨店には蔦谷が原画を手掛けた雑貨が並び、広く親しまれている。晩年は「童女百態シリーズ」に取り組み続けていた。代表作は他に、美人画『行灯』、仏画『きいち観音』等がある。

西村龍介

没年月日:2005/02/21

読み:にしむらりゅうすけ  点描によってヨーロッパの古城を描いた作品で知られる洋画家の西村龍介は21日午後6時38分、急性心筋梗塞のため長野県軽井沢市の病院で死去した。享年85。1920(大正9)年2月8日、山口県小野田市に生まれる。本名一男。小野田尋常小学校を経て、1935(昭和10)年山口市立大殿尋常高等小学校を卒業する。この間の34年、両親と死別。36年、上京し、38年4月、日本美術学校日本画科に入学。太田聴雨、川崎小虎、矢沢弦月らに学び、またデッサンを洋画家の林武に学ぶ。41年3月、同校を卒業と同時に出征。45年、特攻隊員として沖縄戦へと向かう途中に終戦を迎え、郷里山口市に復員する。市内の古刹瑠璃光寺の一室を画室兼居所として日本画を制作し、46年山口市八木百貨店で初めての個展を開催して日本画18点を展示する。この頃、三好正直らと山口市展、山口県展を創設する。49年、京都市立美術専門学校研究科に入学。50年同校を中途退学し、2月に上京。企業の博覧会の背景画などを描いて生計を立てつつ画家を志し、制作の準備に時間がかかる日本画から油彩画へ転向して龍介と名乗る。54年第39回二科展に「河岸」で初入選。56年第41回二科展に「月のある風景」「鳥と植物」を出品し、特待受賞。57年に二科会会友となる。59年サロン・ド・コンパレゾン展に招待出品。同年第44回二科展に「故園」「花」を出品して二科金賞を受賞。翌年二科会会員となる。63年第48回二科展に「風景(A)」「風景(B)」を出品し、同会会員努力賞を受賞。64年2月に渡欧しフランス、スペイン、イタリア、ベルギーを旅行して7月に帰国。この旅でその後の主要モティーフとなる古城、聖堂、ヴェネツィア風景などと出会う。67年サロン・ドートンヌに「風景」を招待出品。68年第53回二科展に「古城」「館」を出品して二科会青児賞を受賞。69年第54回二科展に「聖堂」「遥かなる聖堂」を出品して二度目の会員努力賞を受賞する。70年再渡欧。71年第56回二科展に「古城幻影」「城」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。71年より82年まで毎年渡欧。83年1月「森と城と水の詩情の世界 西村龍介展」が銀座・松屋で開催され、初期から近作までが出品される。88年銀座のフジヰ画廊で西村龍介個展「水の抒情詩」を開催。89年昭和63年度(第39回)、前年の個展に対し、「日本画と洋画の技法を巧みに融合した日本的詩情豊かな独自の油彩表現を円熟の域に高め」たとして芸術選奨文部大臣賞を受賞。その後も二科展に出品を続け、97年東京八重洲の大丸ミュージアムで「喜寿記念・西村龍介展」を開催。2000年二科会を退会。同年、ハウステンボス美術館で「ヨーロッパ水辺の城 西村龍介展」を開催する。60年代の渡欧で得た古城の静かなたたずまいを、端正な構図、淡い色調の点描で描き、静謐な画風を示した。画集には『西村龍介画集』(講談社 1979年)がある。 

須田寿

没年月日:2005/01/24

読み:すだひさし  洋画家の須田寿は1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98。1906(明治39年)5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。1913(大正2)年精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。19年成蹊中学校に入学し、24年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、不合格となり川端画学校に入学する。1926(昭和元)年、東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。27年、友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。28年東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。30年第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。31年、親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。33年第14回帝展に「三人」、34年第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。35年松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。36年文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、35年に石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨に賛同して第2回展に「秋日」を出品。この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた画風に変化し、37年の文展に落選する。39年第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。40年、阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は46年春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。48年5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。49年日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。50年、東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、54年の同会解散まで出品を続ける。52年第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。54年9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、牛が主要なモティーフとなる。63年、北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。65年3月武蔵野美術大学造形学部教授となる。71年再渡欧。72年5月に3度目の渡欧。73年3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を開催。76年、須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。77年11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。78年武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。79年より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動サロンほかで個展を開催する。82年「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。85年第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。1993(平成5)年4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。2001年中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写にとらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。 

川面稜一

没年月日:2005/01/09

読み:かわもりょういち  日本画家であり、建造物彩色の国選定保存技術保持者の川面稜一氏は、1月9日、脳梗塞のため死去した。享年91。1914(大正3)年、大阪市曽根崎に生まれる。1934(昭和9)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を卒業。40年、絵画専門学校時代の恩師である入江波光より、文部省紀元2600年事業・法隆寺金堂解体修理に伴う壁画模写事業に、助手の一人として参加を要請される。戦時下の応召のため一旦現場を離れるが、47年に復帰。この事業では、安田靱彦を筆頭とする東京班と入江波光を筆頭とする京都班とに分かれ、東京班は壁画の印刷の上に胡粉をひいて厚彩色仕上げとしたのに対し、京都班は壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに壁画の引き写しを行い、薄彩色仕上げとした。50年、文化財保護委員会美術工芸課の委嘱を受け、56年の京都・平等院鳳凰堂中堂扉絵をはじめとする五ヶ寺の所蔵する美術作品の模写事業を立案し、60年には京都・醍醐寺五重塔初重壁画、62年京都・法界寺阿弥陀堂壁画、63年奈良・室生寺金堂壁画及び金堂諸像の板光背、66年京都・海住山寺五重塔内陣扉絵など、次々と重要な美術作品の現状模写を行った。平等院鳳凰堂中堂の扉絵模写を手掛けた際に翼楼の柱の朱塗を依頼されたのが、「建造物彩色」というそれまでにはなかった新しいジャンルの確立、そして氏がその第一人者となる契機となった。柱をはじめとする建築部材の現存する彩色を、綿密に調査した上でそれを尊重しつつ修理・復元彩色を施す「建造物彩色」は、60年代頃になってようやく定着を見せ始める。その皮切りとなった事業が、68年の京都・六波羅蜜寺本堂の向拝の復原彩色事業であった。その後、京都・北野天満宮本殿中門、西本願寺唐門、二条城唐門などをはじめ数多くの建造物の復原彩色を手掛け、72年には、二条城二の丸御殿襖絵の模写事業が開始された。三十年を経た現在もなお継続中のこの事業では、経年変化を見せる建築と新しく模写を行った襖絵とが調和するように、制作当初と考えられる彩色を復元しつつ、それに一定の古色を付す「古色復元模写」の手法が初めて取り入れられた。84年、有限会社川面美術研究所を設立。その後も、京都・清水寺三重塔、富貴寺大堂内部壁画の彩色復元など、携わった事業は数多く、建造物彩色の草分けとしてその業績は特筆に値する。84年、京都府文化財保護基金より文化功労賞を受賞。86年、内閣総理大臣より木杯授与。1997(平成9)年、建造物彩色選定保存技術保持者に認定。2000年、日本建築学会より建築学会文化賞を受賞。また、養父野村芳光が祇園都をどりの舞台美術を担当していた縁により、それを継承し長年にわたって背景画制作を行った。92年、舞台美術協会より伊藤熹朔賞受賞。その他、美術作品のレプリカ製作にも携わった。

吉井淳二

没年月日:2004/11/23

読み:よしいじゅんじ  洋画家で長く二科会理事長を務めた吉井淳二は、11月23日午後2時23分、肺炎のため鹿児島市内の病院で死去した。享年100。1904(明治37)年3月6日、鹿児島県曾於郡末吉町に生まれる。県立志布志中学の二年時に画家になることを決意し、三年時には油絵の道具一式を与えられる。1922(大正11)年、中学の卒業式を待たず、同級生で生涯の友となった海老原喜之助と上京、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学ぶ。24年東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ三年時には第3回白日会展で白日賞を受賞したほか、第13回二科展には「静物」「花と女」が初入選する。24年第5回展から入選を続けた中央美術展では、1928(昭和3)年第9回展で中央美術賞を受けている。同年には橋本八百二、堀田清治と三人展を開催したほか、翌29年東京美術学校を卒業すると、内田巌、新海覚雄らと鉦人社を結成し第1回展を開いた。同年有島生馬を訪ね、以後指導を受ける。同11月フランスに渡り、海老原と再会する。パリを拠点にイギリス、オランダ、イタリアなどに旅をする。32年帰国し、第19回二科展に滞欧作を特別出品する。初入選以降、二科会には、滞欧中の第17、18回展をのぞいて2004(平成16)年まで連続して出品した。同会では35年会友、40年会員になる。45年10月の二科会再興の呼びかけに応え再建に参加、翌年9月の31回展に「菅笠の娘」「菜園にて」を出品。61年二科会に理事制が設けられ、理事のひとりとなる。65年、前年の二科展出品作「水汲」などに対して日本芸術院賞を、二科展では68年東郷青児賞、69年内閣総理大臣賞を受ける。78年4月の二科会会長・東郷青児の死去後、翌79年同会を社団法人化した後に北川民次を継いで理事長に就任、98年まで努めた。二科会のほかには、33年に鉦人社を前身とする新美術家協会の5回展にも出品。40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品。また、百貨店や画廊で個展を開催したほか、太陽展、日動展などにも出品。90年には鹿児島市立美術館でも展覧会を開催した。一方、46年には海老原とともに南日本新聞社主催で南日本美術展を興し、審査員となり後進の育成にも努めている。この間、45年杉並区南荻窪から郷里に疎開、その後杉並の家が焼けたため作品の多くを失う。51年、鹿児島から荻窪へ再び住まいを移している。65年ヨーロッパへ作品制作の旅行をしたほか、75年の日伯美術展を機にブラジルを訪れ、以後たびたび南米に足を運ぶ。頭巾をかぶり頭上に荷をのせた労働する女性をよく題材にし、その取材対象は内外の市場から水汲みの光景まで多岐にわたった。それらを、写実を基にしつつも簡略化した線と明るい色彩で描いた。58年南日本文化賞、76年日本芸術院会員、77年勲三等瑞宝章、85年文化功労者、89年文化勲章を受けている。92年、鹿児島県加世田市に開いた特別養護老人ホームに隣接する吉井淳二美術館を開館。最晩年は自らも加世田に暮らした。

佐藤太清

没年月日:2004/11/06

読み:さとうたいせい  日本画家の佐藤太清は11月6日午後7時50分、多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年90。1913(大正2)年11月10日、京都府福知山市に生まれる。本名實。早くに両親が病没し、近所の梶原家で育てられる。1931(昭和6)年東京の親戚を頼って上京。川端画学校や太平洋美術学校に通った後、33年児玉希望に内弟子として入門、雅号を「太清」とする。希望の「花鳥をやれ」という指導に従って研鑽を重ね、入門後十年を経た43年第6回新文展に「かすみ網」が初入選。45年板橋区大谷口に転居し、以後没するまで同地にて制作を行う。46年第2回より日展に出品し、47年第3回日展で「清韻」が特選となった。48年第4回日展に「幽韻」を出品し、52年第8回日展で「睡蓮」が再び特選を受賞。ルドンを愛好し、叙情的な自然景の表現を指向する。この間師希望の国風会と伊東深水の青衿会が発展的解消をとげた50年の日月社結成に際しては委員をつとめ、52年の同会第3回展で「雨の日」が受賞、61年の解散まで毎回出品した。55年第11回日展「冬池」など抽象風の作品も発表した後、58年第1回新日展「立葵」、59年第2回「寂」、64年第7回「花」、65年第8回「潮騒」など、装飾的な花鳥画を制作。66年第9回新日展で「風騒」が文部大臣賞となり、翌年同作品により日本芸術院賞を受賞した。同年上野不忍池弁天堂格天井および杉戸絵を制作。80年第12回改組日展に「旅の朝」を発表して以降、81年第13回「旅の夕暮」、83年第15回「最果の旅」など“旅シリーズ”の作品を発表する。生涯を通じ、とくに花鳥画と風景画を融合させた内面性の強い作風は“花鳥風景”として高く評価された。60年日展会員、65年評議員、71年理事、75年監事、80年常務理事、83年事務局長、85年理事長に就任、また80年に日本芸術院会員となった。84年銀座松屋ほかで「佐藤太清展」が開催。88年文化功労者となる。1992(平成4)年文化勲章受章。93年には故郷福知山市の名誉市民に選ばれた。2004年の逝去にあたっては板橋区文化・国際交流財団より区民文化栄誉賞が贈られた。板橋区立美術館では1994年に文化勲章受章記念展、2006年に遺作展を開催している。

佐藤多持

没年月日:2004/10/21

読み:さとうたもつ  日本画家の佐藤多持は10月21日午前6時40分、心不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年85。1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。

長谷川青澄

没年月日:2004/07/23

読み:はせがわせいちょう  日本画家の長谷川青澄は7月23日午後11時15分、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年9月25日、長野県下水内郡飯山町(現、飯山市)に生まれる。本名義治。飯山中学(現、飯山北高等学校)在学中に日本画家菊池契月の兄、細野順耳に日本画の手ほどきを受ける。1933(昭和8)年一家上京のため飯山中学を中退、翌年吉村忠夫に入門し大和絵を学ぶ。44年郷里に疎開し、戦後長野県展に出品し47年には信毎賞、48年には県展賞を受賞。51年に大阪へ転住し、翌年には美人画家中村貞以に師事、画塾春泥会で研鑽を積む。53年第38回院展に「庭」が初入選、以後毎年院展に入選を続けた。59年第44回院展で「羊飼」が奨励賞次点となり、60年第45回「小鳥の店」が奨励賞、62年第47回「寂」が日本美術院次賞を受賞。60年代末から日本の古典芸能に造詣を深めて能や狂言、舞踊などを好んでテーマとするようになり、69年第54回「京舞花の旅」、73年第58回「朝顔話」、75年第60回「日想観(弱法師)」、77年第62回「狂言」、78年第63回「狂言」、79年第64回「京を舞う」、81年第66回「皎」、82年第67回「京を舞う」が、いずれも奨励賞を受賞し、82年日本美術院同人に推挙された。同年には師中村貞以の逝去により春泥会を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾含翠として継承、師より受けついだ大阪での日本美術院の伝統を守り続けた。1989(平成元)年日本美術院評議員となる。90年第75回院展には石山寺に籠り、源氏物語を執筆する紫式部を描いた「月」で内閣総理大臣賞を受賞。92年郷里の飯山市公民館において作品展、同年から翌年にかけて日本橋と大阪の三越で回顧展を開催。94年には第79回院展に「足柄の山姥」を出品し、文部大臣賞を受賞。99年には東大阪市民美術センターで「長谷川青澄展―その純なる魂の軌跡」が開催されている。

松田正平

没年月日:2004/05/15

読み:まつだしょうへい  飄逸な画風で知られた洋画家の松田正平は、5月15日午後4時35分、腎機能不全のため宇部市の病院で死去した。享年91。1913(大正2)年1月16日、久保田金平の第三子次男として島根県鹿足郡青原村(現・日原町)に生まれる。17年ころ宇部村恩田の松田家に養子として引き取られるが、望郷のあまり生家へ帰り、19年青原村立青原尋常小学校に入学する。20年養父の迎えにより宇部へ移り、21年山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)の松田家の養子として入籍する。宇部市立神原尋常小学校を経て25年山口県立宇部中学校(現 山口県立宇部高等学校)に入学。1927(昭和2)年、中学3年生在学中に同級生を介して油彩画を知る。30年、中学校の教員免許を取得することを条件として美術学校への進学を許され、2月に上京。川端画学校に学び、3月に東京美術学校を受験するが失敗。引き続き川端画学校に学ぶ。31年春、山口県出身の美術学校志望者が多く住んでいた小石川の日独館に転居し、古木守、香月泰男らと交遊。32年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事する。35年帝展第二部会に「婦人像」で初入選。36年新文展鑑査展に「休憩」で入選する。37年東京美術学校を卒業し、フランス留学のため、知人の協力を仰ぎ、同年10月渡欧して、アカデミー・コラロッシに通う。コローに傾倒し、コローの「真珠の女」を模写したほか、コローが描いた場所を訪れ、また、レンブラントの作品を見るためにアムステルダムを訪れる。39年スイス、ロンドン、ニューヨーク、パナマ、ロサンゼルスを経由して同年12月に帰国。40年第15回国画会展に出品するが落選する。一方、郷里宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催。41年第16回国画会展に「ストーブ」「地図」を出品して入選。42年、宇部に帰郷し、4月から山口師範学校の美術教授となる。同年第17回国画会展に「集団アトリエ」「枯霞草」「或るゑかき」を出品し、国画奨学賞を受賞。43年山口師範学校を辞職して上京し、パリ留学のころから交遊のあった吉川精子と結婚する。同年第18回国画会展に「窓」「家」を出品し、同会会友に推される。45年戦況が厳しくなる中、宇部へ帰郷し、東見初炭坑で抗夫として働く。同年7月の宇部空襲により家が全焼し、パリ時代までの作品を失う。46年復興した第20回国画会展に出品し、以後も同会に出品を続ける。51年第25回同展に「内海風景」「祝島風景」を出品し、同会会員となる。同年よりフォルム画廊で第一回目の個展を開き、以後、ほぼ毎年同画廊で個展を開催。52年上京し、国画会展、国際具象派展、フォルム画廊での個展のほか、宇部市の明幸堂画廊での個展に作品を発表。63年夏、千葉県市原市鶴舞に転居。66年国画会脱退を決意し、この年の同会展には出品しなかったが、原精一、木内廣らの慰留により会員としてとどまる。76年現代画廊主洲之内徹との交流が始まり、78年フォルム画廊と現代画廊で個展を同時に開催する。以後、定期的な個展では油彩画はフォルム画廊で、素描は現代画廊で発表することが定例化する。82年6月、パリを再訪。83年『松田正平画集』がフォルム画廊から刊行され、東京の銀座・松屋で「松田正平画週出版記念展」を開催。同年三度目のパリ訪問。84年新潮文芸振興会主催の第16回日本芸術大賞を受賞。現代画廊で受賞記念展が開催される。87年山口県立美術館で「松田正平展」を開催。1991(平成3)年山口県立美術館で開催された「戦後洋画と福島繁太郎―昭和美術の一側面」展に代表作13点が出品される。95年舞鶴から郷里宇部市に帰り、制作を続ける。97年よりほぼ毎年菊川画廊で個展を開催。2004年1月、宇部市他の主催による「松田正平展」が宇部市文化会館で開催された。アカデミックな画風からコロー、セザンヌなどの学習を経て、対象を単純化した形体でとらえる素朴で飄逸な画風を確立した。1950年代から日本画壇において抽象絵画の受容が盛んになる中でも、具象絵画の可能性を高く評価し、日本人の描く油彩画を追求し続けた。「現代の仙人」と評される人柄を慕う人々も多く、晩年は後援会が組織され、歿後、同会の主催により菊川画廊で追悼展として「松田正平素描展」が開催された。作品集に『松田正平画集』(フォルム画廊、1983、2003年)、『きまぐれ帖』(阿曾美舎、2003年)、『松田正平素描集』(松田正平後援会発行、2006年)があり、年譜は歿後に刊行された『松田正平素描集』に詳しい。

奈良岡正夫

没年月日:2004/05/05

読み:ならおかまさお  日展参与、示現会会長の洋画家奈良岡正夫は5月5日午前4時、肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。享年100。堅実な描写力と対象への親密なまなざしによって独自の画風を確立した奈良岡は、1903(明治36)年6月15日、中津軽郡豊田村に生まれた。本名政雄。父は村役場職員と農業を兼業していた。1915(大正4)年中津軽郡外崎尋常小学校を卒業。18年中津軽郡玉成高等小学校を卒業。この頃からねぷた絵の制作に熱中するが、長男として生家の農業を継ぐことを期待されており、19年ころ画家を志して家出する。しかし、一年で連れ戻されて農業に従事。そのかたわら、22年棟方志功らが結成した青光社に参加し、絵画制作を続ける。25年画家を志して上京。本郷絵画研究所に入るが、そこでの指導と環境に満足できず、初日で退学。その後弁護士の書生、青果市場内の製氷問屋などで働き、生計を支えながら、独学で絵を学ぶ。1940(昭和15)年3月第36回太平洋画会展に「豊秋」で入選。これを皮切りに、特定の団体にこだわらず、数多くの団体展に出品して入選を続けるようになる。40年第12回第一美術協会展に「田賀風景」、第14回構造社展に「漁村」を出品。翌年第18回白日会展に「早春ノ山」、第9回旺玄会展に「湖畔晴日」「湖畔の春」「早春の山路」、第13回第一美術協会展に「新緑の里」、また、第3回現代美術協会展に「閑日」、第15回新構造社展に「二人の老人」で入選する。42年第19回白日会展に「提灯屋さん」、第38回太平洋画会展に「水に住む」、第29回光風会展に「けしの花」、第12回独立美術協会展に「訊問」「水に住む」、第10回東光会展に「勤労奉仕」、第14回第一美術協会展に「閑日」、第29回二科展に「征途」、第2回創元会展に「驢馬と子供」、第16回新構造社展に「網代風景」が入選。また、同年第6回大日本海洋美術展に「漁夫」、第2回大日本航空美術展に「飛行機ノお話」「防空壕」、第1回大東亜戦争美術展に「北方を護る人々」「弾丸を磨く」で入選する。43年第20回白日会展に「子供隣組」「巌峯進軍」を出品して佳作賞を受賞したほか、第39回太平洋画会展に「兎と子供」「古物商」「童心」「地引」で入賞し、褒賞受賞。また、第7回大日本海洋美術展に「漁夫」「地曳」を出品して大臣賞受賞。同年決戦美術展に「アッツ島上陸」で入選する。また、第3回大日本航空美術展に「救護(一)」「救護(二)」を出品し、「救護(一)」によって大日本航空美術協会賞を受賞。第2回大東亜美術戦争美術展に「突撃」を出品する。この年、陸軍省報道部派遣命令により、中支に派遣される。44年1月ソヴィエト満州国境に3ヶ月間、北支に3ヶ月間派遣される。同年、第40回太平洋画会展に「工場」を出品して同会会員となる。また、陸軍美術展に「兵隊と良民」「昭和18秋太岳作戦(勝兵団戦闘司令部)」、第8回大日本海洋美術展に「漁期に入る」を出品。45年陸軍作戦記録画展に出品。戦地から帰った際に牛や山羊ののどかな姿に打たれ、以後、これらを描き続ける。戦後、46年第1回日展に「牛宿」で入選。47年太平洋画会から分離独立して示現会が結成されるのに際し、創立会員として参加し、以後、日展とともに同会に出品を続ける。54年第10回日展に「山羊」を出品し特選を受賞。56年第12回日展に「山羊」を出品して再び特選を受賞、62年日展会員となる。64年から70年まで隔年で、東京日本橋三越で個展を開催所で個展を開催。69年6月渡欧。70年6月青森市松木屋で、同年11月弘前市青森銀行記念館で画業50年展を開催。この頃から、郷里の夏祭りねぷたを題材とした作品を多く制作するようになる。79年日展参与となり同年青森市民展示館で「画業60年展」、1991(平成3)年東京の銀座松屋で「米寿記念奈良岡正夫展」、青森市松木屋で「画業70年米寿記念展」を開催。94年示現会会長となり、同年11月青森市松木屋で「松木屋創立45周年記念特別企画 示現会会長就任記念奈良岡正夫個展」を開催。97年、洋画家中村彝を記念し、名利を求めず画業に精進する60歳以上の画家を顕彰する中村彝賞の第5回受賞者となる。99年茨城県近代美術館で「中村彝賞記念 変幻自在流 大沢昌助・じょっぱりの画人 奈良岡正夫展」が開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。2000年画業80年展を青森市で開催し、01年白寿記念展を三越本店にて開催した。「描く対象に対する愛情がなければ絵にはできない」と語り、子供をいつくしむ山羊や幼い頃から親しんだ郷里のねぷた祭を好んで描いた。生涯、納得のできる絵画を目指し、対象の再現的描写を基本とするが、タブローを描くにあたっては構図を知的に組み立てるなど、絵画の自立性を踏まえた制作をつづけた。

加山又造

没年月日:2004/04/06

読み:かやままたぞう  日本画家の加山又造は4月6日午後10時25分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年9月24日、京都市上京区相国寺東門前町に、西陣織の衣装図案家の父加山勝也、母千恵の長男として生まれる。祖父は京狩野派の画師。44年京都市立美術工芸学校絵画科を修了後、東京美術学校日本画科に入学。45年学徒動員で学業を中断するが、翌年再開し、49年同校を卒業、山本丘人に師事する。丘人らが結成した創造美術の第2回展に「風神雷神」を出品するも落選。50年早々より創造美術の研究会に出席、その年の春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選し、研究会賞を受賞する。51年創造美術が新制作派協会に合流、新制作協会日本画部となって以後、同年第15回新制作展で『ライフ』誌でみたラスコー洞窟の壁画に触発されて制作した「原始時代」が新作家賞を受賞、同会会友となる。次いで53年第17回展「月と犀」等四点、54年第18回展「悲しき鹿」「迷える鹿」、55年第19回展「駈ける」が連続して新作家賞を受賞、56年同会会員となる。この時期、動物をモティーフにシュルレアリスムや未来派等、ヨーロッパの造形手法を果敢に取り入れた作風を展開、戦後日本画の革新的傾向を代表するものとして大きな注目を浴びた。58年第2回グッゲンハイム賞国際美術展に「飛翔」を出品、川端実、山口長男らとともに団体賞を受賞した。57年にはその後親交を結んだ横山操を知り、58年ごろから縣治朗に切金の技術を学ぶ。59年には村越画廊の主催により横山操、石本正と轟会を結成。この頃より61年第25回新制作展「火の島」等、大画面を中心とした装飾的な画風へ移行。65年には大阪・金剛寺所蔵の「日月山水図屏風」に想を得た第29回新制作展「夏冬山水」および翌年の第30回展「春秋波濤」、さらに67年第9回日本国際美術展「雪月花」、70年第34回新制作展「千羽鶴」など、大和絵や琳派の技法を鋭い現代的感性のもとに展開した作品を発表、73年日本芸術大賞を受賞、74年創画会発足とともに会員となった。78年東京国立近代美術館の吹き抜けを飾る壁画として「雪・月・花」を八年越しで完成。“現代の琳派”と称され、幅広い人気を集める一方で、70年代には「黒い薔薇の裸婦」「白い薔薇の裸婦」等、繊細な線描による裸婦像で女性美を追求。また70年代末からは水墨表現に本格的に取り組み、身延山久遠寺本堂天井画「墨龍」(84年)などを発表。技術的には染色手法からエアガン、バイブレーター噴霧器まであらゆる技法を駆使しつつ、北宋山水に私淑し90年前後より倣作を行った。その他にも陶板壁画や緞帳、ジャンボ機や客船の内装デザイン、BMW社から依頼されたアートカーのデザインなど、工芸的な仕事に幅広く挑戦している。66~73年、77~88年に多摩美術大学教授、88~95年に東京芸術大学教授をつとめ、80年、前年の第6回創画会出品作「月光波濤」により芸術選奨文部大臣賞、82年第1回美術文化振興協会賞を受賞。1995(平成7)年東京芸術大学名誉教授、97年文化功労者となる。同年天龍寺法堂の天井画「雲龍」が完成。98年には東京国立近代美術館で回顧展が開催された。2003年文化勲章受章。

山崎隆

没年月日:2004/03/31

読み:やまざきたかし  日本画家の山崎隆は3月31日午前10時18分、肺がんのため京都市東山区の病院で死去した。享年88。 1916(大正5)年1月2日、京都市に生まれる。1933(昭和8)年京都市立絵画専門学校入学、梥本一洋に師事。在学中に田口壮や西垣壽一らと新日本画研究会結成に参加。36年京都市立絵画専門学校を卒業し、同校研究科に入学。37年日華事変に応召するが、翌年中国北部で負傷し召集解除。39年には新日本画研究会から派生した歴程美術協会の第1回試作展に新会友として、バウハウスの影響が色濃い幾何学的構成の「象」や「コルサージュ」を出品。翌年同協会の会員となり、42年の第8回展まで出品を続け、その間「扇面ちらし」(40年第3回展)等日本の伝統的な形式を取り入れながら“構成”を主眼とした室内装飾を度々試みている。41年京都市立絵画専門学校研究科を卒業。42年に太平洋戦争に応召し、戦後46年に復員。京都市立絵画専門学校の後輩三上誠と歴程美術協会の再建を期し48年三上、星野真吾、不動茂弥、八木一夫らとともにパンリアルを、翌年日本画家だけでパンリアル美術協会を結成した。同協会では樹幹、亀甲、岩山などのモティーフを通して東洋の神秘思想を掬う作品を発表、また歴程時代に修得した、ホルマリンを用いてより自由に日本画材を扱う手法をパンリアルの仲間に伝えるなど、戦前における前衛的日本画との橋渡し的役割も果たした。57年京都美術懇話会に入会、翌年パンリアル美術協会を離れ、以後無所属で活動を続けた。戦中戦後の前衛的な画業については、88年の山口県立美術館「日本画・昭和の熱き鼓動」展、1994(平成6)年のO美術館「日本画の抽象―その日本的特質」展、99年の京都国立近代美術館「日本の前衛―Art into Life 1900-1940」展等の企画により改めて脚光を浴びることとなった。

中野弘彦

没年月日:2004/03/04

読み:なかのひろひこ  日本画家で成安造形大学名誉教授の中野弘彦は3月4日午前2時20分、肺炎のため京都市伏見区の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年4月3日、山口県に生まれる。45年京都市立美術工芸学校を卒業。52年第16回新制作展に「風景」が初入選。その後、絵を描くことをやめ、57年立命館大学文学部哲学科哲学専攻を卒業し、59年京都大学文学部哲学科美学美術史学専攻で国内留学修了。67年には中断していた絵画制作を本格的に再開し、70年新制作春季展賞、70・73年京展市長賞、74・76~78・80年創画会春季展賞、75年フランス美術賞展佳作、76年スペイン美術賞展優秀賞と受賞を重ねる。78年には第1回東京セントラル美術館日本画大賞展で「西行」が優秀賞、京都府主催の京都美術展で大賞、続いて79年、鴨長明に自分の心象世界をオーバーラップさせた「方丈記」により第5回山種美術館賞展優秀賞を受ける。82年京都・朝日会館画廊、83年東京画廊及びギャラリー上田で個展開催。1989(平成元)年何必館・京都現代美術館での個展「藤原定家と鴨長明の無常」以降は同館にて96年「山頭火と芭蕉」、2003年「無常 存在の根源を観る」を開催。泥絵具系を基軸に、ボールペンやサインペン、鉛筆などを使用しながら樹や植物、家、そして空気を澄明な色彩の中に再構成し、日本の精神文化、とりわけ無常を視覚化するという形而上学的な絵画世界を築いた。90年第3回京都美術文化賞を受賞、翌年その受賞記念展を京都府文化博物館で開催。93年から97年まで成安造形芸術大学教授に就任。93年京都府文化賞功労賞を、98年京都市文化功労者賞を受賞。93・95・97年には資生堂が主催する椿会展に招待出品。98年には京都市美術館で回顧展「中野弘彦―無常をめぐる」が開催された。また1984~86年に雑誌『新潮』の表紙絵を担当、86年に『宮沢賢治童話の世界』を出版している。

仲村進

没年月日:2004/02/20

読み:なかむらすすむ  日本画家の仲村進は2月20日午後6時51分、肺炎のため長野県飯田市の病院で死去した。享年74。  1929(昭和4)年3月4日、長野県飯田市松尾に農家の二男として生まれる。43年14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り、原始林に囲まれて牛や馬と一体になって土地を耕すという、のちの絵画表現の原体験となる生活を送る。外地で終戦を迎え、46年に帰国。帰郷後、郷里の南画家片桐白登の絵画教室に通い、52年より長野県美術展に入選、出品するようになり、53年第6回展に「市場の見える風景」で信州美術会賞を受賞。54年第18回新制作展に「夕の賛歌」が初入選、以後8回入選、春季展賞受賞。その間夜警の仕事をしながら、60年より隣村出身の日本画家亀割隆の紹介で、日展作家である高山辰雄の研究会にその都度上京して参加するようになり、66年には第9回新日展に「陶工」が初入選、以来日展に出品する。73年改組第5回展で「雪の日」、79年第11回展で「農夫と馬」が特選、84年第16回展で「大地」が会員賞受賞。71年から74年まで高山辰雄門下による日本画七人展を開催、77年にはほぼ同メンバーによりグループ湧展を立ち上げる。この間78年銀座・資生堂ギャラリーにおける初個展が好評を博し、81年「西に向う牛群」により第6回山種美術館賞大賞を受賞。しかしその評価に安住することなく、受賞直後には板に直接線刻を入れ着彩する方法を試み、85年の個展では風景をモティーフに変革を見せる。1994(平成6)年には「残照の地」で第26回日展内閣総理大臣賞を受賞。生涯郷里で農業に従事しながら制作を行う姿勢を貫き、94年個展「故里山河」では里山への愛惜を込めた屏風等を、99年個展「大地・牛哀歌」では風景から再び牛のモティーフへと立ち戻るものの、赤と黒を基調に生命感溢れる連作を発表した。逝去した2004年には遺族より作品35点が飯田市美術博物館へ寄贈、06年には同館にて回顧展が開催されている。

杉本健吉

没年月日:2004/02/10

読み:すぎもとけんきち  洋画家の杉本健吉は、2月10日午前5時52分、肺炎のために名古屋第二赤十字病院で死去した。享年98。1905(明治38)年9月20日、名古屋市に生まれる。1919(大正8)年津島尋常小学校を卒業後、愛知県立工業学校図案科に入学。23年同校を卒業し、25年に兵役検査を受けるまで織物商で図案を描きながら制作を行う。25年、敬慕する岸田劉生を京都に訪ね師事した。第1回展に落選した春陽会に、26年第4回展で「花」「静物」が初入選。翌1927(昭和2)年には第1回大調和会にも出品。31年に初出品した後国画会展に出品を続け、38年同人になる。名古屋市内の広告スタジオ勤めを経て29年に図案家として独立、観光関係のポスター制作も行った。また岸田の没後、35年には椿貞雄の紹介で梅原龍三郎を訪ね私淑している。40年頃から訪れるようになった奈良では、寺院や仏像、風物などのモチーフの他に、幅広い人間関係を得る。49年には上司雲海師の知遇を機縁に、東大寺観音院の古い土蔵をアトリエとして使うようになり、ここで會津八一や入江泰吉らと出会う。またそれらの交流の中から、吉川英治の連載小説『新・平家物語』の挿絵を担当した。7年にわたった『週刊朝日』誌上でのこの連載は、挿絵画家としての杉本を著名にした。その後も58年には吉川の連載小説『私本太平記』、『新・水滸伝』の挿絵を描く。戦前の修業時代には鉛筆を片時も離さなかったという杉本は、素描を大切にし、ジャンルや画材、描法にとらわれず、水彩や水墨、油彩などそれぞれの特徴を生かして感興を表現した。それらは時におおらかな、時に繊細な筆遣いによくあらわれている。62年以降はインド、中近東、南ヨーロッパを皮切りに、中国、韓国、スペインなど各地を訪れ、多くのスケッチを残している。そのほか、83年には大阪四天王寺太子絵堂障壁画を完成させている。国画会は第二次大戦による休止を挟んで69年の43回まで連続して出品、71年に同会を退会、無所属となる。この間、42年第5回新文展では特選を受賞。46年の第1回日展に出品、第2回日展では特選を受けている。昭和20年代から画廊や百貨店での個展も多数開催し、1994(平成6)年には愛知県美術館で「杉本健吉展 画業70年のあゆみ」と題された大規模な展覧会も開かれた。87年には愛知県南知多に杉本美術館が、94年には新館も開設された。出版物は秋艸道人(會津八一)歌、杉本画で54年『春日野』(文芸春秋社)があるほか、画集は60年『墨絵奈良』(角川出版)、67年『幻想奈良』(求龍堂)、81年『杉本健吉素描集』(朝日新聞社)など多数。48年に第1回中日文化賞を受賞している。

風間完

没年月日:2003/12/27

読み:かざまかん  洋画家で、新聞等の連載小説の挿絵で知られた風間完は、12月27日、がん性腹膜炎のため東京都港区の病院で死去した。享年84。1919(大正8)年1月19日、現在の東京都中央区新富に生まれる。1939(昭和14)年、東京高等工芸学校を卒業。2年間の兵役の後、画家を志し、43年の第8回新制作派協会展に初入選する。以後、猪熊弦一郎、内田巌、荻須高徳等に師事する。49年、第13回新制作派協会展に「堀」、「低地」、「舗道」3点を出品、新作家賞を受賞。はじめ雑誌編集者だった兄の縁で、山本周五郎等の小説の挿絵を描き、53年には、邦枝完二の新聞連載小説「恋あやめ」の挿絵を手がけた。翌年、第18回新制作派協会展に出品後、同協会会員となる。57年から2年間パリに留学、グラン・ショーミエール研究所に学んだ。64年、講談社挿絵賞を受賞。67年に再渡仏、フリード・ランデル工房にて銅版画を制作。69年、週刊誌『週刊現代』に連載された五木寛之の小説「青春の門」の挿絵を担当して注目される。翌年には『毎日新聞』に連載の司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」、他に『週刊文春』に64年から71年まで連載された松本清張の「昭和史発掘」、74年から82年まで『週刊朝日』に連載された池波正太郎の「真田太平記」、81年から翌年まで『日本経済新聞』に連載された瀬戸内晴美(寂聴)の「京まんだら」等など数多くの小説の挿絵を描いた。2002(平成14)年には、長年にわたる文学作品の挿絵制作に対して第50回菊池寛賞を受賞した。著書も多く、『画家の引き出し』(青娥書房、77年)、『エンピツ画のすすめ』(朝日新聞社、87年)、『旅のスケッチ帖』(角川書店、95年)、画集には『青春の門』(講談社、75年)、『風間完自選画集』(朝日新聞社、85年)等がある。鉛筆やパステルを使用した叙情的な風景画や情感豊かな女性像によって人気を得ていた。没後の2004年には、池波正太郎真田太平記館(長野県上田市)において追悼展「風間完が描く『真田太平記』の女たち」が開催された。

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