桜井浜江

没年月日:2007/02/12
分野:, (洋)
読み:さくらいはまえ

 洋画家の桜井浜江は、2月12日午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月15日、山形県山形市宮町に生まれる。桜井家は周辺有数の素封家で15代続く地主。山形県立山形高等女学校(現、山形県立山形西高等学校)在学中、松本巍七郎による図画の授業で絵画に興味を持つ。1924(大正13)年に同校を卒業、26年父省三の決めた縁談を拒否して上京。女子美術学校へ入学手続きを行うが両親の承認を得られず断念。展覧会や上野図書館に通いながら、川端画学校洋画部や岡田三郎助の研究所に出入りするが雰囲気が合わず、1928(昭和3)年代々木山谷に開設された1930年協会洋画研究所に入り、里見勝蔵らの指導を受けた。30年里見らが独立美術協会を結成すると、翌年行われた第1回展に参加、入選を果たす。独立展へ出品を続ける一方、同会に属する女性画家11人らとともに34年女艸会を結成、38年の第6回展まで続けられた。この間、32年に帝大英文科出身の秋沢三郎と結婚、その文学仲間である井伏鱒二や太宰治、檀一雄などの来訪で住まいは多くの文士が集う場となっていた。39年に離婚した後も再会した太宰が仲間を連れて度々訪れ、彼女をモデルに「饗応夫人」を書いている。46年、女艸会創立会員である三岸節子らとともに日本橋の北荘画廊で現代女流画家展を開催、この時の出品者らを発起人として翌47年女流画家協会を結成。49年、北荘画廊にて初の個展を開催。戦前戦中に描いた初期作品にはフォーヴ的なものや、それとシャガール的幻想性が融合された「途上」などの他、「二人」「雪国の少年達」のようにクールでモダンなものと変遷をみせる。46年頃から描かれた「壺」の連作は作為性を殆ど留めず、ナイフのタッチが際立った作風で、荒々しいまでの桜井的厚塗り手法はここでほぼ完成される。やがて「花」、ルオーを思わせる「人物」などのシリーズを手がけ、この時期の作品の中では「象」と「花」が47年の第2回新興日本美術展に出品され読売賞を、「臥像」は51年の第19回独立展(創立20周年記念展)でプール・ブー(奨励賞)を受け準会員となった記念すべき作品である。54年独立美術協会会員となる。戦後日本の洋画界に押寄せた抽象絵画流行の波に些かも流されず、連作「樹」に取り組み始める。大胆に切り取られた構図、その大画面には幹がダイナミックに描かれ、情熱を塗り込めたような赤の色調とともにみるものを圧倒する生命力を放つ。66年第20回女流画家協会展で花椿賞受賞。60年代半ばに差し掛かる頃から山形県鶴岡市の三瀬海岸や、千葉県銚子市にある犬吠崎や屏風岩を取材した連作が開始され、色使いは多彩となりより明るい画面となる。78年頃から大樹をテーマとした100号2枚組の大作を数点制作。晩年まで大画面の作品に取り組み続けるが、90年代から再び、色・構図ともにシンプルな傾向となり、特に赤を好むようになる。やはり山や海などの自然に対する畏敬のまなざしが強く感じられる作品が中心となるが、代表作である1999(平成11)年の「雨あがる、ぶどう棚」は色彩豊かで、それまでになくドライで細やかなストロークとなっている。2002年に体調を崩し入院、それまで制作していた「富嶽」が未完のまま絶筆となった。作品集に『桜井浜江画集』(芸林社、1990年)がある。主な回顧展に「桜井浜江画業展」(1979年、山形美術館)、「桜井浜江―画業65年の軌跡」(1995年、青梅市立美術館)。没後の2008年には「生誕100年記念 桜井浜江展」が山形美術館と一宮市三岸節子記念美術館で開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(379頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「桜井浜江」『日本美術年鑑』平成20年版(379頁)
例)「桜井浜江 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28387.html(閲覧日 2024-04-20)

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