深見隆

没年月日:2007/07/29
分野:, (洋)
読み:ふかみたかし

 洋画家の深見隆は7月29日、心筋梗塞のため神奈川県川崎市の病院で死去した。享年80。1926(大正15)年10月22日、長崎県壱岐郡に生まれる。1952(昭和27)年、第7回行動美術協会展(以後、行動展と記す)に、半抽象的な表現による「造船所」が初入選。以後、同展に出品を続ける。54年2月、第1回四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を養清堂画廊で開催。55年1月、行動四人展(他に田中稔之、朝比奈隆、前川桂子)を上記画廊にて開催、同年、10回行動展に「人間の風景(A)」、「人間の風景(C)」を出品、これにより行動美術新人賞を受賞、会友に推挙される。56年1月、第7回朝日新聞社選抜秀作美術展(会場、日本橋三越)に出品、同年2月、朝比奈隆と前川桂子とともに3人展を村松画廊で開催。また同年の第11回行動展に「孤独の部屋」外2点を出品、これにより行動美術賞を受賞。57年2月、田中稔之、朝比奈隆、前川桂子とともに村松画廊にて4人展を開催。59年、行動美術協会の会員となる。60年、「風化」により第4回安井記念賞を受賞。同作品(東京国立近代美術館蔵)は、多層的でニュアンスに富んだマチエールにおおわれた画面の中央に鋭い亀裂が走り、同時代の心象風景を思わせる表現であった。受賞の際に語られた作者自身の言葉の一節をつぎに引用しておきたい。「私は、長崎の壱岐の小島に生れましたので、子供の頃、海というものが、私達の生活とは切り離せない、むしろ、生活の殆どといってもいい程の親しみをもっていました。荒浪にたたかれ、蝕まれた海岸で、貝を拾ったり、白砂の上に打ち上げられた、魚介の残骸を無心に眺めたりした頃の事を、今も忘れることが出来ません。制作の途中で、ふっと、思い浮かべ、何かしら和やかな郷愁を憶えます。此の度の『風化』も、これと共通な、風雨にさらされ、傷めつけられながらも、いかにも忍耐強く、しかし決して烈しくなく、力まず、てらわず、それでいて厳しさを秘めた、壁や、岩石の中に、豊かな、つきることのない、詩情を感じたので、私には到底充分表現するだけの力はありませんが、いくらかでも自然の秘密に近づければ、と思って描きました。」(「受賞にあたり」、『現代の眼』74号、1961年1月)ここで語られた自然に対する取り組みは、その後も変ることがなかったが、70年代から画面に円環が象徴的に描かれるようになった。そうした作品のシリーズである「条紋」について、当時作者は、「きびしい自然環境に長い間ひっそりと耐えている姿に、限りない豊かな詩情を感じます。只製作する場合、情感におぼれると構成の厳しさが失われがちになるので、自分の中で再構築して描くように心掛けてはいますが。情感と構成がお互いに密度を深め、響き合う作品をと願っているのです」(「コメント「条紋(A)<私の制作意図>」『美術グラフ』(27巻9号、1978年10月)と語っている。この円環のモチーフは、以後一貫して画面上で追求され、「石紋」のシリーズに展開していった。82年11月、ギャラリー・ジェイコで「深見隆自選展」を開催。2007(平成19)年9月、第62回行動展への「石紋(環)」が最後の出品となり、没後の翌年9月の第63回展には、遺作として「石紋」が出品された。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(382-383頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「深見隆」『日本美術年鑑』平成20年版(382-383頁)
例)「深見隆 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28394.html(閲覧日 2024-04-20)
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