本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





上村松篁

没年月日:2001/03/11

読み:うえむらしょうこう  花鳥画の第一人者として活躍した日本画家で文化勲章受章者の上村松篁は3月11日午前0時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年11月4日、京都市中京区四条御幸町西入ルに、美人画で知られた女流日本画家、上村松園の長男として生まれる。本名信太郎。画家の母のもとで幼少より画に親しむ。動物好きで花や虫、鳥を好んで描き、その後も花鳥画への道を歩むことになるが、終生貫き通す格調の高さは母譲りのものであった。1915(大正4)年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、都路華香、西村五雲らに学び、特待生となる。21年卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、国画創作協会の会員で同校の助教授だった入江波光よりリアリズムの洗礼を受ける。また入学と同時に西山翠嶂の画塾に入った。21年第3回帝展に「閑庭迎秋」が初入選、以後帝展、および青甲社と名乗るようになった翠嶂画塾の塾展である青甲社展に出品し、24年第5回帝展に克明なリアリズムの描写による「椿の図」を出品する。24年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科に進み、1928(昭和3)年第9回帝展で、古典的な画題をアレンジした「蓮池群鴦図」が特選を受賞した。30年研究科を修了し、京都市立美術工芸学校講師、36年には京都市立絵画専門学校助教授となる。この間33年帝展無鑑査となり、43年第6回新文展で委員をつとめ、また36年池田遥邨、徳岡神泉、山口華楊らと水明会を結成した。この時期、アルタミラの洞窟壁画や古代エジプトの浮彫など、美術史上の古典をふまえた動物画や人物画を試みている。戦後47年第3回日展に再び出品、審査員も務めるが、翌48年日本画の革新を目指して東京の山本丘人、吉岡堅二、京都の向井久万、奥村厚一らとともに日展を離れて創造美術を結成、世界性に立脚する日本画の創造を標榜する同団体において、抒情性よりも構成的な美を志向する花鳥画を生み出していく。49年京都市立美術専門学校教授となり、翌年より京都市立美術大学助教授を兼任、53年同大学教授となった。創造美術は51年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、以後同会に出品。56年第20回展「草月八月」、57年第21回展「桃実」などを出品し、58年第22回展出品作「星五位」により翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。その後もインドや東南アジアでの熱帯花鳥写生で画嚢を肥やし、59年第23回「鷭」、60年第24回「熱帯睡蓮」、62年第26回「鳩の庭」、64年春季展「ハイビスカスとカーデナル」、65年第29回「鴛鴦」など、明るい色彩を用いた品格ある花鳥画を発表。66年第30回「樹下幽禽」により、翌67年日本芸術院賞を受賞した。68年京都市立美術大学を退官、同大名誉教授となる。同年皇居新宮殿に屏風「日本の花・日本の鳥」を描く。またこの年から翌年にかけて『サンデー毎日』に連載された井上靖の小説「額田女王」の挿絵を担当、70年近鉄奈良駅の歴史教室壁画「万葉の春」では大画面の歴史人物画に取り組んでいる。72年京都市文化功労者、73年京都府美術工芸功労者となる。74年新制作協会日本画部は同協会を離脱し創画会を結成、以後同会に出品する。81年日本芸術院会員、83年文化功労者となり、84年文化勲章を受章、同年には京都市名誉市民の称号も受けている。没後の2002(平成14)年には京都市美術館にて回顧展が開催された。作品集に『上村松篁写生集(花篇・鳥篇)』(中央公論美術出版 1973年)、素描集『上村松篁―わが身辺の鳥たち』(日本放送出版協会 1979年)、『上村松篁画集』(講談社 1981年)、現代日本画全集『上村松篁』(集英社 1982年)、『上村松篁画集』(求龍堂 1990年)、著書に『鳥語抄』(講談社 1985年)、『春花秋鳥』(日本経済新聞社 1986年)がある。長男の淳之も日本画家。

山岸純

没年月日:2000/12/17

読み:やまぎしじゅん  日本画家で日展常務理事の山岸純は12月17日午後11時48分、脳溢血のため京都市上京区の病院で死去した。享年70。1930(昭和5)年9月14日、京都市に生まれる。53年京都市立美術大学日本画科を卒業し、55年同校専攻科を修了、徳岡神泉に師事した。56年第8回京展「池」、57年第9回京展「村」がともに京都市長賞、58年第10回京展「河」は記念賞を受賞する。また55年第11回日展に「室戸」が初入選し、以後新日展で61年第4回「樹」、65年第8回「石段」がいずれも特選・白寿賞を受賞、66年第9回「晨」は菊華賞を受けた。68年以降たびたび審査員をつとめ、翌69年日展会員、74年評議員となる。75年第7回改組日展で「風聲」が文部大臣賞を受賞。77年朝日会館で個展を開催、また昭和世代日本画展(79年)、日本秀作美術展(80年)等のほか、遊星展をはじめとする各種のグループ展に出品、穏やかで静謐な風景作品を発表する。そのいっぽうで68年より京都市立芸術大学教授の講師をつとめ、助教授を経て75年教授となり、後進の指導に力を尽くした。1990(平成2)年に京都府文化賞功労賞に表彰され、92年に第23回日展出品作「樹歌」で第48回日本芸術院賞を受賞。93年日展理事、96年京都市文化功労者となり、同年京都市立芸術大学を定年退職して同校の名誉教授となる。翌年には名古屋芸術大学教授に就任。99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

石川響

没年月日:2000/12/05

読み:いしかわきょう  日本画家で日展評議員を務めた石川響は12月5日午後3時31分、くも膜下出血のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年12月3日、千葉県長生郡長柄町に生まれる。本名宣俶(のりよし)。狩野芳崖筆「悲母観音図」(東京芸術大学美術館蔵)に感動して画家を志したという。1942(昭和17)年、東京美術学校図画師範科を卒業し、岩手県立黒沢尻中学校にて教鞭を執りながら日本画を描き、47年「悠遠」にて第3回日展に入選。50年には千葉県立長生高等学校を退職して画業に専念し、54年からは結城素明の紹介で加藤栄三に師事。66年「昼の月」にて第9回新日展特選・白寿賞を受賞し、67年の中央公論新人展、71年の第1回山種美術館賞展に推薦出品した。73年「原野」にて再び第5回改組日展特選を受賞。76年からはたびたび日展審査員を務め、77年から日展会員、1990(平成2)年から日展評議員を務めた。98年の第30回改組日展では「夕山河」で内閣総理大臣賞を受賞、2000年には千葉県芸術文化功労賞および勲四等瑞宝章が授与された。この間、安房小湊誕生寺に88年、94年、96年の三度にわたって仏伝壁画・天井画を奉納する一方、数度にわたって、インド・東南アジア・韓国・中国等へ仏教遺跡・宗教文化の源流を訪ねる旅行をし、90年に日本橋高島屋にて個展「生生の旅」を開催、95年には「素晴らしき地球の旅-人間仏陀の生涯-」(NHK衛生第2放送)にインド各地をスケッチする旅人として出演、また『ニルバーナ・ロードの風景-釈尊最後の旅-』(中村元編著、東京書籍 88年)や『インド四季暦春・夏そして雨季-』・『インド四季暦-秋・冬そして寒季-』(ともに阿部慈園共著、東京書籍 92・93年)、『インド花巡礼-ブッダの道をたどって-』(中村元・三友量順共著、春秋社 96年)、『心のともしびを求めて-仏教文化へのいざない-』(阿部慈園共著、春秋社 98年)といった画文集を出版した。90年には東方研究会・インド大使館より東方学術賞を授与されている。

西村計雄

没年月日:2000/12/04

読み:にしむらけいゆう  洋画家西村計雄は、12月4日老衰のため東京都品川区内の病院で死去した。享年91。1909(明治42)年6月29日、北海道岩内郡小沢村に生まれる。1929(昭和4)年、東京美術学校西洋画科に入学、在学中は藤島武二に師事した。36年の文展に「ギター」が初入選。新文展には、39年の第3回展から43年の第6回展まで連続して入選し、とくに第6回展に出品した「童子」は特選となった。戦後も、日展、創元会展に出品をつづけていたが、51年に渡仏。53年には、ピカソの画商カーンワイラーのすすめで、パリの画廊ベルネームジュンヌで第一回の個展開催。その後、パリを中心に、ロンドン、西ベルリン、ウィーンで個展を開催。淡い、洗練された色彩と躍動感あふれる抽象表現によって、高い評価を受けていた。79年、沖縄県南部、摩文仁ヶ丘の国定公園内に建設された沖縄平和記念堂内を飾る連作「戦争と平和」の第一作を完成させ、それまでの取材をふくめ八年間をかけて、沖縄とパリを往復しながら、連作20点を86年に完成させた。これが、画家の代表作となった。1999(平成11)には、郷里に共和町立西村計雄記念美術館が開館した。また、没後の2002年4月からは、東京都大田区北千束の自宅を「西村計雄のアトリエ」として一般公開をはじめた。

歌川豊國

没年月日:2000/11/13

読み:うたがわとよくに  日本画家の歌川豊國は11月13日午後、大阪府東大阪市の自宅で死亡しているのを知人によって発見された。享年97、急性心疾患とみられる。1903(明治36)年2月3日、東京都麻布区笄町で浮世絵師二代歌川国鶴の次男として生まれ、国春と名付けられる。母向山ゆた(号玉峯)も四条派の画家。幼いころより父から浮世絵・美人画の手ほどきを受け、親に従って東京から大阪、堺、京都と転居を重ねる。尋常高等小学校時代を過ごした京都では、二条柳馬場に住み、中井汲泉からも絵を学んだという。1920(大正9)年に父が没すると叔父の歌川国松に引き取られて大阪に移るが、やがて叔父の弟子に連れられて東京に出、そこで写真背景画を描くようになる。23年の関東大震災を期に大阪に転居し、写真背景画で独立自営をはじめる。終戦直前直後は物資不足もあって画業を中断し、写真機材製造輸出会社を経営したりした。1967(昭和42)年ころに画業復帰を決意し、72年ころから石切神社に勤務しながら日本画家中村貞以のもとで修行を積み、父や叔父の遺志を継いで六代豊国を名乗るようになる(76年、戸籍上でも「国春」から「豊国」へと改名し、91年には「豊國」と改めた)。「最後の浮世絵師」と呼ばれて東京日本橋三越をはじめ数多くの百貨店で個展を開催、76年文化功労部門で大阪市より市民表彰を受けた。画業に専念させるという父親の意向で尋常高等小学校しか卒業しなかったが、晩年になって自身の経験と浮世絵の歴史を書きのこすため一念発起、1996(平成8)年に93歳で大阪府立桃谷高等学校定時制夜間部に入学、99年には近畿大学法学部法律学科二部に合格し、「現役最高齢の大学生」として話題になった。没後、次男の博三が七代豊國を継いだ。

平賀敬

没年月日:2000/11/13

読み:ひらがけい  洋画家の平賀敬は、11月13日午前6時54分、食道ガンのために神奈川県小田原市の病院で死去した。享年64。1936(昭和11)年、東京に生まれ、57年に立教大学経済学部を卒業。64年、シェル賞で第三席を受賞、同年の第3回国際青年美術家展で大賞(パリ留学賞)の受賞を機に渡欧。74年の帰国までに、ヨーロッパ各地で個展を開催するとともに、66年には「フィギュラシオン・ナラティーヴ」展に参加、69年には第10回サンパウロ・ビエンナーレの日本部門にも選抜出品した。帰国後も、個展での新作発表をつづける一方、82年の「現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館)、翌年の「現代美術の動向 1960年代-多様化への出発」(東京都美術館)など、現代美術の史的位置付けをこころみる企画展にも出品していた。渡欧中から、あたかも「戯作者」のエスプリをもったかのような目で、エロチックでユーモラスな男女の群像を描きつづけた。亡くなる直前の2000(平成12)年9月には、平塚市美術館で本格的な回顧展が開催された。

渡辺学

没年月日:2000/11/11

読み:わたなべがく  日本画家で創画会会員の渡辺学は11月11日午前0時、急性虚血性心疾患のため千葉県銚子市の自宅で死去した。享年84。1916(大正5)年1月26日銚子に生まれる。本名冨雄。1936(昭和11)年東京美術学校日本画科に入学、結城素明、川崎小虎らに学び、41年卒業する。49年第2回創造美術展に「枝庭」が初入選、同会が51年新制作派協会に合流して新制作協会日本画部となったのち、57年第21回新制作展「網」「廃船」、59年第23回展「海苔とる浜」がともに新作家賞を受賞、60年第24回展に「加工場の午後」等を出品し新制作協会会員となる。また日本国際美術展(61年より67年まで)、現代日本美術展(62年より68年まで)にも連続出品、62年第5回現代日本美術展に「魚・人」で優秀賞を受賞する。65年マヤ遺跡研究のためメキシコに滞在。68年松屋で「朝倉摂・渡辺学二人展」を開催。71年新鋭選抜展で優秀賞受賞、同年東京造形大学講師となる。74年新制作協会日本画部が同会を離脱し結成した創画会にも出品、最後まで生地の銚子に腰を据え、そこに生きる漁師やその家族を題材に骨太な作風を貫いた。85年には創画会が次第に初期の目標を見失っていくことの危機感から結成された地の会に参加。87年に横浜高島屋で個展を行い、没後の2001(平成13)年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。

林功

没年月日:2000/11/04

読み:はやしいさお  日本画家で愛知県立芸術大学美術学部助教授の林功は11月4日、中国西安市郊外で交通事故のため死去した。西安国立歴史博物館の招待を受け、章懐太子墓の復元壁画研究の最中であった。享年54。1946(昭和21)年2月22日千葉県茂原市町保に生まれる。千葉県立長生高等学校在学中に、美術教師だった洋画家山本文彦に感化されて絵の勉強を始め、千葉県美術展で県美術会賞、市長賞を受賞。その後東京芸術大学日本画科に進み、69年に卒業、その年の院展に初入選する。東京芸術大学大学院保存修復技術研究室で吉田善彦の指導を受け71年に修了、同年日本美術院院友となる。72年に新人画家の登竜門であるシェル美術賞展で「朝・落葉の音」が一等賞を、81年第6回山種美術館賞展で「汎」が優秀賞を受賞。戦後世代の日本画家による横の会にも84年結成時から93(平成5)年解散まで参加、画壇の枠を越えた連携活動は注目を集めた。この間、87年から2年をかけて法隆寺聖霊院厨子絵「蓮池図」を制作。90年に愛知県立芸術大学美術学部講師となり、94年より同学部助教授を務める。96年には横の会のメンバーだった伊藤彬・中島千波・中野嘉之とグループ「目」を結成、屏風等の大作を試みる。意欲的な創作活動の一方で76年より文化庁の文化財修復模写事業に参加して以来、科学的調査研究をも踏まえた古画模写の第一人者として活躍。78年神護寺蔵伝源頼朝像、89年同寺蔵伝平重盛像、91年法隆寺金堂壁画飛天図、99年源氏物語絵巻等、多くの国宝、重要文化財の模写事業を手がけ、原画と同技法・同素材にこだわる姿勢は、修復の現場にも大きな影響を与えた。模写によって培われた技法や精神は創作活動のほか『日本画の描き方』(講談社 84年)、『名画の技法 水墨画』(日本経済新聞 89年)といった著書執筆にも反映されている。画集には『林功画集』(求龍堂 92年)、『林功 人と作品 追悼画集』(2001年)があり、回顧展としては没後の02年に茂原市立美術館・郷土資料館で「日本画家 林功展」が開催されている。

関主税

没年月日:2000/11/01

読み:せきちから  日本画家で日展理事長の関主税は11月1日午前5時14分、肺がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年81。1919(大正8)年1月4日、千葉県長生郡に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科を卒業後、応召。45年復員し、48年結城素明、のち素明の紹介で中村岳陵に師事した。48年第33回院展に「植生の風景」が初入選するが、翌年第34回展に「南總の夕べ」を出品後、師岳陵に従い院展を脱退し日展に移籍。同年の第5回日展に「道廟の朝」が入選したのち、54年同第10回「粟生野」、翌55年第11回「訪春」がともに特選となった。次いで58年新日展委員、68年同評議員となり、68年第11回新日展「山路」は内閣総理大臣賞を受賞する。潤んだ大気に包まれた詩情豊かな風景画に秀作を生み、その後も71年第3回改組日展「鳥」、73年第5回「蒼」、77年第9回「潤声」、80年第12回「星辰」、81年第13回「信濃残雪」等を発表。82年には毎日新聞社よりリトグラフ集『信濃春秋』を刊行する。85年第17回日展「野」により、翌86年日本芸術院賞を受賞した。1992(平成4)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章を受章。99年より日展理事長を務める。日展を主な活躍の場とする一方で、54年加山又造、濱田台兒、松尾敏男らと不同社を結成、56年まで銀座松坂屋で展覧会を開催した。

真鍋博

没年月日:2000/10/31

読み:まなべひろし  イラストレーターの真鍋博は、10月31日午後4時40分がん性リンパ管症のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年、愛媛県宇摩郡別子山村に生まれる。57年、多摩美術大学大学院美術研究科を修了、在学中の55年には、池田満寿夫等と「実在者」を結成。60年、週刊誌『朝日ジャーナル』に連載された「第七地下壕」で、第一回講談社さしえ賞を受賞。翌年、久里洋二、柳原良平とともに「アニメーション三人の会」を結成、草月アートセンターで上映会を開催。以後、イラストレーターとして、SF小説の挿絵、装丁など、多方面で活動をつづけた。ことに、60年代から70年代にわたる高度成長期の時代のなかで、精緻な描写と繊細な感覚をあわせもつ近未来的なイメージは、ひろく受け入れ、親しまれた。しかも、その作品でも、発言でも、そこには鋭い文明批評的な視点を欠くことがなく、近年は、エコロジーに感心を寄せていた。80年代からは、郷里別子山村、および新浜市内の公共施設に数々の壁画やモニュメントを制作し、新居浜では「真鍋博 アートピアロード」と称されている。1996(平成8)年、池田20世紀美術館で個展を開催、また没後の2001年には、郷里の愛媛県美術館で「真鍋博回顧展」(会期:7月27日~9月9日)が開催され、ポスター、本等の印刷物から、アニメーション、原画等が展示され、その多彩な活動が回顧された。

三芳悌吉

没年月日:2000/09/10

読み:みよしていきち  行動美術協会会員の洋画家三芳悌吉は9月10日午後6時58分呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年90。1910(明治43)年6月23日、東京向島に生まれる。幼少時に新潟県新潟市に一家で転居。1927(昭和2)年、新潟医科大学解剖学教室で顕微鏡図を描く職に就くかたわら、絵画を独習。翌年、上京し、東京帝国大学医学部の森於兔教室に就職し、また太平洋画会研究所に学んだ。34年の第21回二科展に「裏町の子」が初入選。以後、戦前期は同会に出品をかさね、43年の第30回展に「防空服の婦人」が入選後、会友となった。戦後は、46年の行動美術協会創立にともない、その春季第一回展に出品協力者として出品、同会会員に迎えられた。以後、同展に一貫して出品をつづけた。1990(平成2)年には、新潟県美術博物館で「三芳悌吉の世界」展が開催され、その芸術が回顧された。画風は、街頭の情景などの風景画を中心に、堅実な描写ながら、その色彩の暖かさは人を惹きつけるものがある。一方では、はやくから多数の絵本の制作しており、その功績により、83年には日本児童文化功労賞を受賞、86年には『ある池のものがたり』(福音館書店)によって日本絵本賞を受賞。そのほか、晩年に出版した『砂丘物語』Ⅰ・Ⅱ(福音館書店 96年)は、幼年期をおくった大正期の新潟市をこどもの視点でえがいたものとして、多くの人に読みつがれている。

清川泰次

没年月日:2000/08/06

読み:きよかわたいじ  洋画家清川泰次は、8月6日午後10時、虚血性心疾患のため世田谷区成城の自宅で死去した。享年81。1919(大正8)年5月6日、静岡県浜松市に生まれる。1944(昭和19)年、慶応義塾大学を卒業。戦後、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各地を訪れた。58年以後は無所属となり、独自に発表活動をつづけ、抽象絵画の世界をきづいていった。また59年には、『絵と言葉』(美術出版社)を刊行。さらに73年には、『清川泰次画集-白の世界』(ブロネード)を刊行、以後も画集を刊行している。83年には安田火災東郷青児美術館大賞受賞。国内外の美術館に作品が収蔵されているほかに、慶応義塾大学構内や、天竜市玖延禅寺(共同納骨堂)などにもある。1995(平成7)年5月、静岡県榛原郡御前崎町に自作約400点を寄贈し、これをもとに清川泰次芸術館が開館した。99年に、『芸術とは何か』(美術出版社)を刊行した。没後、本人の遺志により、自宅兼アトリエと、自作を世田谷区に寄贈し、将来的に公開施設になる予定である。白を基調にした、簡潔な構成の抽象絵画を旺盛に描きつづけ、その発展として立体作品も制作した。

小倉遊亀

没年月日:2000/07/23

読み:おぐらゆき  日本画家で院展同人の小倉遊亀は7月23日午後10時11分、急性呼吸不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年105。1895(明治28)年3月1日、滋賀県大津市丸屋町(現 大津市中央1丁目)に、溝上巳之助、朝枝の長女として生まれる。本名同じ。奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)国語漢文部に学びながら、図画の科目を履修。そこで横山常五郎に絵を学び、また歴史研究者の水木要太郎により古美術への関心を啓発される。1917(大正6)年同校を総代で卒業。その後京都市立第三高等小学校、19年名古屋市の椙山高等女学校、20年横浜のミッションスクール、捜真女学校(36年まで)等で教鞭をとりながら絵を独学する。20年大磯に住む安田靫彦に入門し、22年日本美術院第8回試作展に「静物」が入選。25年第12回院展に出品するも落選した「童女入浴」を、26年靫彦のすすめで小堀鞆音社中の革丙会第1回展に出品、小林古径、速水御舟らの注目を受ける。26年第13回院展に「胡瓜」が初入選。この頃一時、“游亀”の号を用いている。作風としては、細密描写による写実的な姿勢がうかがえるものが多い。1928(昭和3)年第15回院展に草花を写生する少女たちを描いた「首花」を出品、院友となった。次いで29年第16回「故郷の人達」等を経て、32年女性として初の日本美術院同人となり、第19回展に「苺」を出品。一方、35年より熱海長畑山の修養道場、報恩会主宰の小林法運のもとへ通い始め、38年法運没後、その衣鉢を継いだ武田法得に師事する。また38年山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、神奈川県大船町の鉄樹庵に住んだ。44年鉄樹没後は京都大徳寺管長・太田晦厳に師事したが、禅の修養は作画にも大きな影響を与えた。47年には報恩会理事、50年同監事となっている。この間35年より39年まで東京府女子師範学校で教え、36年第1回改組帝展「静思」、38年第25回院展「浴女 その一」、39年第26回「浴女 その二」、42年第29回「夏の客」等を発表。日常生活のなかの女性を題材に、知的で爽快な印象を与える画面を生み出す。戦後は47年第32回院展に故郷近江の民話を題材とした「磨針峠」を出品したのち、51年第36回「娘」、52年第37回「美しき朝」と、現代的女性を明るい色彩と自由で力強いフォルムの中に描き出した。54年前年の第38回院展出品作「O夫人坐像」により第4回上村松園賞を受賞、55年には前年の第39回院展「裸婦」により芸能選奨美術部門文部大臣賞を受賞。次いで56年第41回院展「小女」により翌年第8回毎日美術賞、61年第46回院展「母子」により62年日本芸術院賞を受賞した。裸婦のシリーズとともに子供や孫といった家族を描いた作品は多くの人々に親しまれたが、他にも67年第52回「菩薩」、73年第68回「天武天皇」などの仏像・神像や、静物画・風景画にも取り組んでいる。58年日本美術院評議員、78年同理事、また76年日本芸術院会員、78年文化功労者となり、75年神奈川文化賞、79年滋賀県文化賞、80年文化勲章を受ける。1990(平成2)年日本美術院理事長に就任、96年より名誉理事長となる。92年頃より糖尿病のためしばらく絵を描くのを控え、書を試みるが、97年から年に数点のペースで再び作画活動を開始、100歳を越えてもなお制作にたずさわる姿は話題となった。回顧展は滋賀県立近代美術館をはじめとする美術館・デパートで度々開かれ、海外でも99年にパリの三越エトワールを会場に行われた。没後も2002年に「小倉遊亀展」が東京国立近代美術館・滋賀県立近代美術館で開催されている。著書に『画室の中から』(中央公論美術出版 79年)、『画室のうちそと』(読売新聞社 84年)がある。

岩下三四

没年月日:2000/07/01

読み:いわしたみつし  洋画家で日展参与および東光会副会長を務めた岩下三四は7月1日午前2時40分、肺癌のため鹿児島市の自宅で死去した。享年93。明治40(1907)年3月26日、鹿児島県大島郡喜界村に生まれる。1926(大正5)年、鹿児島第一師範学校を卒業して喜界村立湾尋常高等小学校教諭となり、翌年鹿児島市立鹿児島尋常高等小学校に赴任する。1930(昭和5)年、元同校教諭で当時東京美術学校に在学していた黒松秀志の写生姿に感銘を受け、油絵道具一式を買いそろえて制作を開始。同年、岩木三光を名乗って第8回南国美術展に出品した「海の引力」が初入選。翌年退職して上京し、東京都北豊島郡第四峡田尋常小学校に赴任。32年から熊岡美彦の熊岡洋画研究所で学び、33年の第1回東光会展に入選。同年「静物」が第14回帝展に入選。34年の第2回東光会展ではK氏奨励賞を、35年の第3回東光会展で田中奨励賞を、36年の第4回東光会展で「海と裸婦」が東光賞を受賞し、37年に東光会会員となった。40年、第四峡田尋常小学校を退職して熊岡洋画研究所講師となる。47年、鹿児島に居を構え、鹿児島師範学校(後の鹿児島大学)講師として後進の育成に努める(51年から教育学部助教授、65年から教授)。52年、「画室にて」で第8回日展特選・朝倉賞を受賞。68年から日展会員。80年から東光会理事と日展評議員、82年から日展参与、1989(平成1)年から東光会副理事長を務めた(後に副会長)。この間、55年に鹿児島美術協会を結成に参加して審査員を務めるなど、郷土の美術振興に寄与するところが大きかった。71年に鹿児島大学を退官してからは志賀学園鹿児島女子短期大学教授を務め、73年には南日本文化賞を受賞、78年鹿児島県から県民表彰を受ける。82年、勲四等旭日小綬賞を受賞。98年、長島美術館(鹿児島市)にて「岩下三四展-卆寿をこえて-」が開催され、同年『岩下三四画集』(同刊行会)が出版された。桜島、霧島や琉球踊りといった南国の風物などを、鮮やかな色彩と力強いタッチで描いた。次男国郎は洋画家で東光会会員、鹿児島国際大学教授。

徳力富吉郎

没年月日:2000/07/01

読み:とくりきとみきちろう  版画家で西本願寺絵所12代目の徳力富吉郎は7月1日午後7時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年3月22日、京都市の西本願寺絵所を代々務める徳力家に生まれる。父が森寛斎の門弟であった関係で、幼少時より父の兄弟子にあたる山元春挙に絵の手ほどきを受ける。1920(大正9)年より京都市立絵画専門学校に日本画を学び、入江波光の指導を受けた。在学中の22年、第4回帝展に「花鳥」が入選。翌年の卒業後は土田麦僊の山南塾に入る。その一方、鹿子木孟郎の下鴨画塾にも通いデッサンを学んでいる。1927(昭和2)年第6回国画創作協会展に洋画的写実を取り入れた「人形」「人形とレモン」が初入選し、後者で樗牛賞を受賞。第7回展には日本画的な装飾性を生かした「初冬」「茄子」が入選し、国画奨学金を受ける。28年に国画創作協会が解散すると新樹社の創立に参加。また平塚運一の版画講習会に参加したのをきっかけに京都の麻田辨自、浅野竹二、東京の棟方志功、下山木鉢郎らとグループ「版」を結成し、同人誌『版』を創刊する。新樹社でも日本画とともに版画を出品。29年の第10回帝展に版画「月の出」が入選し、30年から33年まで春陽会にも版画を出品する。31年には麻田辨自、浅野竹二らと版画の大衆化を目指す版画誌『大衆版画』を発刊、二号で終刊となるが、その姿勢は以後も貫かれることになる。戦後は46年に版画製作所を興し、徒弟を養成して産業的版画の量産を始める。51年、京都版画協会を結成。版画工房を主宰。72年に薬師寺吉祥天像の複製版画、また85年に西本願寺西山別院の襖絵を制作している。80年には京都市文化功労者、1992(平成4)年に京都府文化賞特別功労賞を、96年日本浮世絵協会より浮世絵奨励賞を受賞。91年には版画普及のため京都版画館を設立。主著・画集に『版画随筆』(三彩社 67年)、『日本の版画』(河原書店 68年)、『徳力富吉郎画集』(安部出版 84年)、『花竹庵の窓から』(京都新聞社 88年)、『もくはん 徳力富吉郎自選版画集』(求龍堂 93年)がある。

三尾公三

没年月日:2000/06/29

読み:みおこうぞう  洋画家三尾公三は6月29日午前7時40分大腸がんのため京都府伏見区の国立京都病院で死去した。享年76。1923(大正12)年12月3日愛知県名古屋市中区板橋町1-29に生まれる。1942(昭和17)年南山中学校を経て京都市立絵画専門学校日本画予科(現 京都市立芸術大学美術学部)に入学。山口華楊、宇田荻邨、中村大三郎、池田遥邨、上村松篁らに学ぶ。47年同校を卒業し油彩画に転ず。51年鬼頭鍋三郎を知り、光風会、日展に出品する。52年第38回光風展に「珈琲店」を出品して京都新聞社賞受賞。53年第39回光風展に「埴輪」「牛骨と土器」を出品して光風賞を受賞し翌年同会会友、59年同会会員となる。64年に退会し、新たな表現を求めてセメントを素材とする制作を試みる。同年セメントを素材とする個展を京都府ギャラリーおよび画廊紅(京都)で開催。また、同年第6回現代日本美術展コンクール部門に画面を横長の大きな色面で大胆に構成した油彩画「象Ⅰ」で入選する。66年焼き付け写真やフィルムのような画面の質感に興味を抱き、エアーブラシによる着色技法を習得するため京都工業試験所夜間部に約1年通う。これによって、木製パネルなどの滑らか表面にアクリル絵具を吹き付け、絵画でありながら写真のような質感を持つ作品を制作するようになる。67年、画廊紅(京都)で開催した個展により評論家木村重信の評価を得、第11回安井賞候補新人展に推薦される。68年第3回ジャパンアートフェスティバルに「虚構の華」を出品して文部大臣賞を受賞する。69年第9回現代日本美術展に「FICTION SPACE—B」を出品。第10回サンパウロ・ビエンナーレ(コミッショナー・小倉忠夫)に「WALL OF FICTION」など4点を出品する。75年第3回インドトリエンナーレ(コミッショナー・富山秀男)に「ON THE BEACH」ほかを出品してゴールドメダルを受賞する。79年第2回東郷青児美術館大賞受賞。81年創刊の写真週刊誌「FOCUS」(新潮社刊)の表紙絵を第1号から手がけ、女性の顔や身体の画像を傾斜させた上、遠近法に基づいて描きいれた幻想的作品で知られるようになる。この頃から大規模な個展が開催されるようになり、84年「幻想空間を描く—三尾公三展」を東京新宿の小田急百貨店、大阪梅田の大丸百貨店で開催。1989(平成1)年には東京日本橋高島屋で「夢幻の風景を描く-三尾公三展」、90年には京都市美術館で「京都の美術 昨日・きょう・明日-三尾公三・坪井明日香展」、93年には国立国際美術館で「女のいる幻想空間-三尾公三展」が開催された。こうした画業により、91年第32回毎日芸術賞、97年第47回芸術選奨文部大臣賞、98年京都府文化賞特別功労賞を受賞する。没後の2001年「美のフォーカス 三尾公三展」が京都市美術館で開催された。画集に『三尾公三画集』(講談社 81年)、『裸婦・三尾公三』(学研 84年)などがある。また、71年より母校の京都市立芸術大学助教授となり、75年同教授となった。83年に同校教授を退いた後も、死去するまで同校客員教授をつとめた。

小野具定

没年月日:2000/05/17

読み:おのぐてい  日本画家で創画会会員の小野具定は5月17日、心不全のため千葉県柏市の病院で死去した。享年87。1914(大正3)年2月16日山口県熊毛郡田布施村に生まれる。本名具定(ともさだ)。旧制中学時代には個人指導により油絵を学ぶ。1931(昭和6)年上京し、川端画学校で初め洋画を学んだのち、33年日本画に転向する。34年東京美術学校日本画科に入学、39年卒業した。この間、38年大日美術院第2回展に「小春」が入選している。卒業後は白木屋百貨店の美術部に勤めるが、徴兵検査を機に退社。40年東京青山の近衛歩兵第4連隊に入隊し、3年間そこへ勤務したのち除隊となって、43年海外報道班員としてラバウル航空隊司令部に配属、南方基地をまわって報道用スケッチを描いた。帰国後の44年、海軍報道部の要請により作戦記録画「第二ブーゲンビル島沖航空戦」を描き、第8回海洋美術展に出品。終戦後は東京や野田、柏で美術の教師を勤めながら創作活動を続ける。47年児玉希望に入門し、同年第3回日展に「木枯の頃」が入選、49年第5回日展に「蚊帳」が再入選。しかしその後は3年続けて落選する。54年新制作協会展に「沼」が入選するが、これを機に希望門下を離れ、以降は新制作協会展に出品するようになる。59年教員を辞め、画業に専念する。61年第25回新制作展より64年第28回展まで4年連続新作家賞を受賞、65年同協会会員となった。67年第31回新制作展「北辺Ⅰ」は文部省買上げとなる。74年創画会結成以後は会員として同会に出品、79年第6回展「海と霧」、80年第7回展「冬ざれ」、83年第10回展「涸れた海」等を発表する。また日本国際美術展、現代日本美術展にも出品している。房総半島沿岸の廃船や廃屋といったモティーフにはじまり、東北、北海道、山陰と北辺の漁村を題材に、白と黒のコントラストを基調とした原風景的イメージの世界を展開。晩年には「記憶の風景」シリーズを手がけ、1999(平成11)年にはそのうちの一つである「2・26の午後」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。95年に練馬区立美術館・下関市立美術館で「刻まれた記憶 小野具定展」、没した翌年の2001年には柏市民ギャラリーで「辺境を描く 小野具定展」が開かれた。

古沢岩美

没年月日:2000/04/15

読み:ふるさわいわみ  洋画家古沢岩美は、4月15日午後10時28分、肺気しゅのため東京都板橋区の板橋医師会病院で死去した。享年88。古沢は、1912(明治45)年2月5日、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡るが、28年に上京して、岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品した。34年、岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。38年3月、第8回独立美術協会展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」、「地表の生理」を出品、一躍注目されるようになった。同年4月、寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立した。しかし、同年10月に第1回展を東京で開催した後、解散。同会のメンバーの一部とともに、39年5月には美術文化協会結成に参加し、翌年第1回展から出品をつづけた。また、同年、東京朝日新聞が創立50周年記念に挿画コンクールをおこない、これに応募して当選した。に43年応召、久留米の部隊に配属され、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員した。47年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。戦後の作品として、48年の第1回モダン・アートクラブ展に出品の「憑曲」、52年の第1回日本国際美術展に出品の「餓鬼」、56年の第2回現代日本美術展に出品の「斃卒」など、戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。55年に美術文化協会を退会。66年、『千夜一夜物語』(大場正史訳、河出書房、全8巻)、翌年、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出書房、全6巻)の挿絵をそれぞれ描いた。75年5月、山梨県西八代郡上九一色村に古沢岩美美術館が開館。82年、板橋区立美術館において「古沢岩美展」が開催され、初期から近作まで約130点によって回顧された。同展図録に、古沢自身が、「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」という言葉を寄せている。これは、戦後から一貫した古沢芸術のテーマと姿勢をものがたるものといえる。1994(平成6)年には、郷里である佐賀県鳥栖市から、市民栄誉賞を受けた。

麻生三郎

没年月日:2000/04/05

読み:あそうさぶろう  洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の麻生三郎は、4月5日午後10時急性肺炎のため、神奈川県川崎市多摩区生田の自宅で死去した。享年87。1913(大正2)年3月23日、東京府京橋区本湊町に生まれる。1930(昭和5)年、明治学院中学部を卒業、太平洋美術学校選科に入学。同学校で、佐藤俊介(後の松本竣介)を知る。36年にエコール・ド・東京の結成に、寺田政明、吉井忠、柿手春三とともに参加。38年2月から9月まで、ヨーロッパ各地を旅行。西洋古典絵画の深さにふれたというヨーロッパ体験は、その後の表現に影響を与えた。39年、第9回独立美術協会展に出品後、美術文化協会の結成に参加。翌年の同協会第1回展に滞欧作品を出品。43年に、イタリアでの見聞をまとめた『イタリア紀行』(越後屋書房)が刊行された。同年、井上長三郎、靉光、鶴岡政男、糸園和三郎、寺田政明、大野五郎、松本竣介といった同世代の画家たち8人があつまり、麻生の言葉によれば、「自分たちの生存と意志表示の集まりとして」(「松本竣介回想」より)新人画会を結成した。44年まで、わずか3回の展覧会を開催しただけであったが、戦時下の困難な状況、つまり「あたりまえのことができない時代」(同前)のなかでの画家たちの自主的な活動として、その意義は大きいといえる。45年4月、長崎町のアトリエを空襲によって、作品とともに焼失する。47年、新人画会の他の同人たちとともに自由美術家協会に入会する。戦中から、戦後にかけては、ひたむきに子ども、妻をモデルに、身近の人間に目をむけ、また、そうした人間のいる風景にも、実在する重さを見出して、描きつづけた。それは、麻生のつぎのような言葉からも、充分につたわってくる。「人と家、土、空、川と、つまりはどこにもある人の住んでくらしている街、ちいさい路地の一角、石のすきまから出ている雑草のかたまりでもいいのだ。そのままある自然のかたちで満足して仕事をつづけた。べつにかわった風景をさがしあるいたことはないし、そのような必要もない。」(「川のある家」、79年)そうした中から、「赤い空」などのシリーズが生まれた。50年、文芸評論家佐々木基一(1914〜93)を知り、これを契機に荒正人、埴谷雄高とも交友するようになる。52年、武蔵野美術学校(現 武蔵野美術大学)で後進の指導にあたるようになる。また同年、野間宏の小説「真空地帯」の装丁を手がけた。62年、「森芳雄・麻生三郎展」を神奈川県立近代美術館で開催。63年には、第13回芸術選奨文部大臣賞を受賞。64年、自由美術家協会を退会、以後無所属として活動をつづける。79年には「麻生三郎展 1934-1979」を東京都美術館で開催。81年に武蔵野美術大学を退職。83年、『麻生三郎作品集 ASO 1983』(南天子画廊)を刊行。86年、著述集『絵そして人、時』(中央公論美術出版)を刊行。1994(平成6)年10月から翌年3月まで、初期から近作にいたる約130点によって構成された回顧展「麻生三郎展」が、神奈川県立近代美術館、茨城県近代美術館、三重県立美術館を巡回した。  麻生自身のことばによれば、「凝視と解体の力が同じくらい迫ってくるというそのことがレアリズムだとわたしは考える。」(「靉光と昭和十年代の画家たち」、67年)というように、晩年にいたるまでの作品は、黒、灰色におおわれた画面に、震えるような、神経質な線描によって描かれた人間がわずかに判別できるという独特の表現であった。これは、見つめることで思索を深め、見つめつづけた時間の集積が、画面に表れていたといえる。人間と人間のいる風景を凝視し、ヒューマニスムの精神にうらづけられたレアリストとしての姿勢を、その初期から晩年までつらぬきとおした画家であった。 

馬場彬

没年月日:2000/03/19

読み:ばばあきら  画家の馬場彬は3月19日午後10時、いん頭がんのため秋田市楢山本町の自宅で死去した。享年67。1932(昭和7)年6月22日、東京都新宿区上落合に生まれる。55年東京芸術大学美術学部洋画科を卒業。美術団体に属すことなく、55年に開設されたサトウ画廊の相談役を開設時からつとめ、56年の初個展から同画廊で多くの個展を開催して作品を世に問うた。60年第12回読売アンデパンダン展に「作品(肖像の主題による)」を出品。同年神奈川県立近代美術館で開催された第4回シェル美術賞展に油彩画の「作品No.1」「作品No.2」「作品No.3」「作品No.4」を出品し3席となり、62年第5回同展(東京日本橋白木屋)では1席となる。同年集団αを結成しその第1回展を開催する。集団αは翌年に第2、3回展を開催した後、解散となる。67年第9回日本国際美術展に「館」を出品。74年サンパウロで行われた「コスモス«セリグラフによるイメージの実験»展」、77年モスクワ国際美術展に出品するなど、国際展にも参加した。80年横浜市民ギャラリーでそれまでの画業を跡づける「馬場彬展」を開催。81年東京国立近代美術館で開催された「1960年代-現代美術の転換期」展、および同年東京都美術館で開催された「精神の幾何学」展に出品。その後、すい臓ガンにより手術を受け、余命の限られていることを知らされるが、84年に心機一転して当時の西ドイツに渡り、86年までケルンに滞在する。帰国の年、東京のMギャラリーで個展を開催して滞欧作を発表。88年には池田20世紀美術館で「馬場彬の世界展」が開催され、80年の「馬場彬展」以降の作品を中心とする大規模な展観がなされた。年譜は同展図録に詳しい。初期から、平板な色面の幾何学的形体をモティーフに色と形が画面に作り出す調和、均衡、動きを模索し、吉仲太造、深沢幸雄らとともに戦後の抽象絵画の主要な作家のひとりとして活躍した。画集に版画集『PINK & GRAT』(75年)、版画集『GRAY OF GRAY』(81年)などがある。

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