本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





守屋多々志

没年月日:2003/12/22

読み:もりやただし  日本画家の守屋多々志は12月22日午後0時45分、心不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年91。1912(大正元)年8月10日、岐阜県大垣市の味噌たまり醸造元の家に生まれる。本名正。生後百日目に米屋を営む分家の養子となり、謡曲に堪能な養父と文学好きな養母に育てられる。初め油彩画を描いていたが、雑誌で「平治物語絵巻」の甲冑武者の群像を見て開眼、1930(昭和5)年に旧制大垣中学校(現、大垣北高等学校)を卒業後、上京し歴史画の大家であった前田青邨に書生として入門、写生と並行して「源氏物語絵巻」「餓鬼草紙」「豊明絵草紙」等の絵巻物を模写して研鑽を積む。さらに東京美術学校日本画科へ入学し、36年の卒業制作「白雨」は川端玉章賞を受けた。翌年現役兵として応召し満州、ハルピンに駐屯、41年には海軍軍令部で小説家の吉川英治とともに海軍史編纂に従事、同年海軍記念館に壁画「蒙古襲来」を制作した。また同年の第28回院展に「継信忠信」が初入選。戦後、49年第34回院展出品の「ふるさとの家一~四」が奨励賞を受ける。50年には『週刊朝日』の連載小説、吉川英治「新平家物語」の挿絵原画を担当、また黒沢明監督の映画「羅生門」の衣装をデザインする。54年総理府留学生となりイタリアに2年間滞在、この間ローマやポンペイで壁画を模写し、レッジョ・ディ・カラブリア市やローマでスケッチ展を開催する。60年鎌倉円覚寺金堂天井画「白龍」を制作し、67年には法隆寺金堂壁画の再現模写事業に参加、第10号壁「薬師浄土」を担当する。また72年には文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱、76年には飛鳥保存財団の依頼による高松塚壁画展示の模写作成に総監督として携わった。この間、院展で70年第55回「砂に還る(楼蘭に想う)」、71年第56回「牡丹燈記」、73年第58回「水灔」がともに奨励賞となり、74年同人に推挙される。さらに77年第62回「駒競べ」が文部大臣賞、78年第63回「平家厳島納経」により翌年芸術選奨文部大臣賞、85年第70回院展「愛縛清浄」は内閣総理大臣賞を受賞。東西交流をテーマとした79年第64回「キオストロの少年使節」、1990(平成2)年第75回「アメリカ留学(津田梅子)」、92年第77回「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」等、確かな考証に現代的な解釈を加えた歴史画を次々に発表した。その間、79年高野山金剛峯寺別殿襖絵82面を完成させ、81年ローマ法王ヨハネ・パウロ二世に東京大司教区から献上された「ジェロニモ天草四郎」を制作。85年には本能寺の依頼による「法華宗開祖日降聖人絵巻」を制作する。83年には百人一首の画像研究に打ち込み、「百人一首歌人像」(学研)を制作。84年から86年にかけて『日本経済新聞』の連載小説、黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」の、また85年には『朝日新聞』の連載小説、城山三郎「秀吉と武吉」の挿絵原画を担当。86年神奈川新聞社より第35回神奈川文化賞を授与。88年財団法人仏教伝道協会より第23回仏教伝道文化賞を受賞。89年には御下命により紀宮殿下御成年の御扇子を揮毫。91年東京ステーションギャラリーで開催された「守屋多々志展―源氏物語と歴史を彩った女性たち」に源氏物語をテーマとした新作の扇面画130点を出品。92年には神社本庁の依頼による「平成御大礼絵巻」を完成させる。2001年文化勲章受章。同年大垣市守屋多々志美術館が開館。また66年愛知芸術大学講師、74年同教授(78年まで)となり美術学部長、教育資料館長を歴任した。回顧展は94年に岐阜県美術館で、96年に茨城県近代美術館で開催されている。美術史家の守屋謙二は実兄。

菊地養之助

没年月日:2003/12/15

読み:きくちようのすけ  日本画家で創画会会員の菊地養之助は12月15日午後11時45分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。享年95。 1908(明治41)年1月17日、福島県大沼郡本郷村に生まれる。高等小学校卒業後に上京し、1924(大正13)年より川端画学校で画を、1935(昭和10)年クロッキー研究所でデッサンを学ぶ。47年共産党系前衛作家の主導による前衛美術会結成に参加。48年第2回日本アンデパンダン展に出品。この時期、社会的テーマに惹かれ農民、労働者、庶民といった人間群像を描く。50年第3回創造美術展に「工場裏風景」を出品。翌年同会は新制作派協会と合流、その第15回展に「墨東裏町」「階段の人」を出品。以後、同展日本画部に毎回出品する。56年新制作春季展で春季賞を受賞。以後、62年、63年に同賞を受賞。59年原水爆禁止世界大会記念美術展に出品。62年第26回新制作展日本画部で「鳩のいる家族」「母と子」が新作家賞を受賞。63年、66年にも同賞を受賞する。62年より68年頃まで人間風刺をこめた仮面シリーズに取り組む。その間、64年五人展(東京、スルガ台画廊)に出品。67年新制作協会日本画部の会員となる。74年に新制作協会より日本画部が退会し、創画会が結成された後は同会に会員として毎回出品。89年みずさわ画廊にて回顧小個展を開催した。

西村功

没年月日:2003/12/01

読み:にしむらいさお  洋画家の西村功は、12月1日午前3時5分肺炎のため神戸市東灘区の病院で死去した。享年80。1923(大正12)年10月26日、大阪市南森町に生まれる。3歳の時に病気で聴覚を失い、大阪府立聾口話学校に進む。中之島洋画研究所に学んだ後、帝国美術学校を1948(昭和23)年に卒業。50年第4回二紀展に「女学生」が初入選、佳作賞を受賞し、51年に同人、56年には委員に推挙される。50年代はじめに赤帽を題材にしたことを契機に、駅や駅員、時計、乗客、プラットホームなどを描いた。モチーフを大きくとらえた画面は、複雑に塗り重ねられる一方で時に縦横に引掻く線も用いられ、喧噪の中の一瞬を静謐に描き出している。70年に初渡欧の後たびたび渡欧し、パリの街景やメトロ、行き交う人びとにも題材を広げた。65年に「ベンチの人びと」で第9回安井賞を受賞。86年第40回二紀展には「シテ駅界隈」を出品、総理大臣賞を受賞している。82年神戸市文化賞、88年兵庫県文化賞受賞。82年『西村功画集―駅・人生・パリ』(神戸新聞出版センター)、1991(平成3)年『西村功画集1950~1976』(海文堂ギャラリー)、2001年『西村功初期デッサン集』(ギャラリー島田)がそれぞれ出版されている。また、06年4月には西宮市大谷記念美術館で回顧展が開催される予定である。

渡邉武夫

没年月日:2003/09/11

読み:わたなべたけお  日本芸術院会員の洋画家渡邉武夫は9月11日午後9時50分、呼吸不全のため東京都青梅市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年7月2日東京市本所区亀沢町(現東京都墨田区)に生まれる。幼少時に浦和に転居し、1929(昭和4)年埼玉県立浦和中学校(旧制)に入学する。同校在学中、美術教師であった福宿光雄に影響を受け、十代半ばで画家を志す。33年黒田清輝に師事した洋画家小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に入り、デッサンを学ぶ。34年浦和中学校を卒業し、東京美術学校油画科予科に入学。翌年同校油画科本科に進学し、南薫造教室に学ぶ。また、同年から寺内萬治郎に師事する。東京美術学校在学中の38年第25回光風会展に「長老坐像」「停車場の一隅」「グハルの午後」を出品してF氏賞を受賞。同年第2回新文展に「騎馬像のある部屋」を初出品し入選する。39年第26回光風会展に「本屋の一隅」「男」を出品して船岡賞受賞。同年東京美術学校油画科を卒業する。40年第27回光風会展に「男たち」「神父さんと子供たち」を出品して光風賞を受賞し、同会会友となる。41年第28回光風会展に「S先生の像」を出品して光風特賞を受賞。また、第4回新文展に椅子に座して読書する老紳士をやや俯瞰してとらえ、写実的な画技を示した「老図書館長Tさんの像」を出品して特選受賞。43年第8回新文展に「診察室の宮崎先生」を出品して、二年連続して特選を受賞する。44年光風会会員となる。また、同年寺内萬治郎門下生による「武蔵野会」を結成する。戦後も官展および光風会展に出品を続ける。55年、初めて渡欧し、パリのグラン・ショーミエールで学ぶほか、ヨーロッパ各地を旅行。この留学中、グラン・ショーミエールでの学友に啓発され、それまで人物を主に描いていた作風が風景画中心に変化する。翌年帰国し、58年に留学の成果を東京銀座松屋における「渡邉武夫滞欧作品展」で発表。61年社団法人日展会員、66年日展評議員となる。71年再度渡欧しヨーロッパ各国を巡遊。73年秋、パリ近郊および南フランスに取材旅行。翌年第6回日展に「カアニュ好日」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。武蔵野の風景にも取材するが、近代化による景観の変化が少ないフランス風景に次第に傾斜を強めていき、しばしば渡欧して制作するようになる。77年初夏にパリ近郊を、79年1月および5月に南仏を、82年5月および84年7月にはブルターニュを訪れる。85年、日展出品作「シャンパァニュの丘」により第41回日本芸術院賞を受賞。また、同年、社団法人日展理事となる。88年日本芸術院会員、89年社団法人日展常務理事、1990(平成2)年光風会常任理事となる。91年「画業60年渡邉武夫展」(東京銀座、松屋)を開催。97年光風会理事長に就任した。また、美術教育にも従事し、47年から51年まで東京美術学校師範科講師、51年から埼玉大学教育学部美術学科講師、66年から73年まで女子美術大学洋画科講師を勤めた。初期には人物画を、最初の渡仏以降は風景画を中心に描いたが、一貫して堅実な写実に基づき、人々の生活に思いを到らせる画風を示した。没後の2005年埼玉県立近代美術館で「渡邉武夫の世界―武蔵野の風・南仏の光」展が開催された。

山中雪人

没年月日:2003/06/05

読み:やまなかゆきと  日本画家で日本美術院同人の山中雪人は6月5日午前0時30分、肺がんのため横浜市の病院で死去した。享年83。1920(大正9)年2月12日広島市台屋町(現、京橋町)の浄土真宗寺院の家に生まれる。1937(昭和12)年広島崇徳中学校卒業後、川端画学校に学び、38年東京美術学校日本画科に入学、結城素明、川崎小虎らに指導を受ける。41年には結城素明の主宰する大日美術院第4回展覧会に「花屋」が、翌年の第5回展に「T先生」が入選。42年美術学校を繰り上げ卒業、同年より46年にかけて軍籍にあり、44年中国の漢口(現、湖北省武漢市)の部隊に配属。46年6月に復員し、47年より広島実践女学校の教師として奉職するが、48年上京し横浜市立蒔田中学校に勤務。49年には終戦直後に広島市で開かれたデッサンの勉強会で知り合った日本画家水谷愛子と結婚。この年大智勝観の紹介により中島清之に師事、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事する。56年第41回院展に「海光」が初入選。70年にインドネシアのボロブドゥールで大きな感銘を受けて以後、アジア各地の仏跡を遍歴し、画想の源とする。80年愛知県立芸大非常勤講師となり、法隆寺壁画模写を指導。83年第68回院展に「佛」(奨励賞)、84年第69回院展に「雲岡石佛」(日本美術院賞・大観賞)、85年第70回院展に「佛陀伝想」(同)、86年第71回「雲岡佛」(同)、87年第72回院展に「釋迦三尊」を出品、この間の85年に第4回前田青邨賞を受けている。84年から三年連続院賞受賞という業績によって86年11月4日、日本美術院同人に推挙される。1992(平成4)年第77回院展に「釈迦と弟子」を出品、文部大臣賞を受賞。翌年には新しく開校した広島市立大学芸術学部日本画科主任教授として就任(2000年まで)。97年第82回院展出品の「架檐(十字架を担うキリスト)」で内閣総理大臣賞を受賞。98年第55回中国文化賞(中国新聞社)を、99年第48回横浜文化賞を受賞。鉄線描風のシャープな線描と淡麗なマティエールによって、釈迦やキリストをテーマに尊厳と気品に満ちた宗教画を描き続けた。没後の2005(平成17)年には呉市立美術館にて「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催されている。

奥田元宋

没年月日:2003/02/15

読み:おくだげんそう  日本画家で日本芸術院会員の奥田元宋は2月15日午前0時10分、心不全のため東京都練馬区富士見台の自宅で死去した。享年90。1912(明治45)年6月7日、広島県双三郡八幡村(現、吉舎町大字辻)に奥田義美、ウラの三男として生まれる。本名厳三。小学校の図画教師、山田幾郎の影響で中学時代に油彩画を始める。同郷の洋画家南薫造に憧れ、広島に来た斎藤与里の講習会などに参加して学ぶ。1931(昭和6)年日彰館中学校を卒業後上京し、遠縁にあたる同郷出身の日本画家、児玉希望の内弟子となる。しかし33年に自らの画技に対する懐疑から師邸を出、文学や映画に傾倒、シナリオライターをめざすが、35年師の許しを得て再び希望に師事し、画業に励む。36年新文展鑑査展に「三人の女性」が初入選、翌年より児玉塾展に発表。この頃師より成珠の雅号を与えられるが、中国宋元絵画への憧れと本名に因んで自ら元宋と名乗るようになる。38年第2回新文展で谷崎潤一郎の『春琴抄』に想を得た「盲女と花」が特選を受賞、また42年頃より同郷出身の洋画家靉光と親交を結ぶ。44年郷里に疎開し53年まで留まり、美しい自然の中でそれまでの人物画から一転して風景画に新境地を開く。この間、49年第5回日展で「待月」が特選を受賞。翌50年官学派への対抗意識のもと児玉塾、伊東深水の青衿会といった私塾関係の作家を糾合した日月社の結成に参加し、61年の解散まで連年出品した。50年代後半にはボナールに傾倒するも、そこに富岡鉄斎に通じる東洋的な気韻生動の趣を見出し、実景を基としながらも一種の心象風景を追求するようになる。58年新日展発足とともに会員となり、62年第5回日展で「磐梯」が文部大臣賞を受賞、さらに翌年同作品により日本芸術院賞を受賞し、73年日本芸術院会員となった。この間62年日展評議員、69年日展改組に際し理事、74年常務理事に就任、77年より79年まで理事長をつとめる。一方、67年頃より歌人生方たつゑに師事して短歌、74年頃より太刀掛呂山と益田愛隣に漢詩を学び、81年宮中の歌会始の召人に選ばれている。75年第7回日展出品の「秋嶽紅樹」を原点として“元宋の赤”と称される鮮烈な赤を主調に描いた風景画を制作するようになり、76年第8回日展の「秋嶽晩照」、77年同第9回展の「秋巒真如」など幽趣をただよわせる作風を展開。81年真言宗大聖院本堂天井画「龍」を制作。同年文化功労者として顕彰され、84年文化勲章を受章。1996(平成8)年京都銀閣寺の庫裏・大玄関、および弄清亭の障壁画を完成。2000年3月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、翌年刊行の『奥田元宋自伝 山燃ゆる』(日本経済新聞社)に再録される。回顧展は97年に広島県立美術館で開催、また2002年から03年にかけて練馬区立美術館、松坂屋美術館、茨城県近代美術館、富山県立近代美術館を巡回して催されている。

荘司福

没年月日:2002/10/19

読み:しょうじふく  日本画家で日本美術院評議員の荘司福は10月19日、老衰のため死去した。享年92。 1910(明治43)年3月26日、長野県松本市に生まれる。父が地裁裁判官であったため幼年期から少女期にかけて各地を転々とする。1932(昭和7)年女子美術専門学校(現女子美術大学)師範科日本画部を卒業。翌年結婚を機に仙台で新家庭を営むが40年に夫を結核で失う。翌41年第6回東北美術展(現河北美術展)にわが子をモデルとした「子供たち」が入選、以後も同展に出品を続け、戦後の46年第10回展出品「秋立つ」で河北美術賞を受賞する。また同年の第31回院展に「星祭り」が初入選し、院同人・郷倉千靱の画塾である草樹社の一員となる。以後連年院展に出品し、52年第37回「ひととき」、54年第39回「牧場」、61年第46回「群」がいずれも奨励賞を受賞、構成的な群像表現を展開し、62年特待となる。62年第47回「人形つかい」、翌63年第48回「若い群」がともに日本美術院賞となり、64年美術院同人に推挙された。その間63年には「河北美術展および日本美術院を通じ東北画壇の興隆に尽く」した功績により、第12回河北文化賞を受賞。この時期、東北の風土に根ざした「祈」(64年)、「東北聚集図」(66年)を発表するが、67年に東京へ移住して以降はたびたび中国、インド、ネパール、カンボジア、アフガニスタンへ旅行し、仏跡を巡訪、さらにアフリカへも足を伸ばす。67年の「眼(如意輪)」等、主に仏眼を象徴的に用いた作風から、74年第59回院展で内閣総理大臣賞を受賞した「風化の柵」等朽ちゆく物象のモティーフを経て、自然物、自然景を対象とした根源的な世界の表現へと移行、84年第69回「原生」は文部大臣賞を受賞した。81年より美術院評議員をつとめる。82年仙台市内の藤崎百貨店で回顧展を開催。86年「刻」で第36回芸術選奨文部大臣賞を受賞。1989(平成元)年毎日新聞社より『荘司福画集』が刊行。96年に作品26点を神奈川県立近代美術館に寄贈し、これを記念して同館にて回顧展が開催。同年神奈川県より神奈川文化賞(芸術部門)を受賞。翌年には宮城県美術館で特別展「荘司福―東北の風土から内省の深みへ」が開かれている。長女は日本画家の小野恬。

大野俶嵩

没年月日:2002/09/05

読み:おおのひでたか  日本画家で京都市立芸術大学名誉教授の大野俶嵩は9月5日、多臓器不全のため死去した。享年80。 1922(大正11)年1月20日、京都市に生まれる。本名秀隆。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校日本画科を、43年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。美工在学中より須田国太郎の指導を受け、美工卒業制作の「椎の森」や絵専卒業制作の「黒土」にその影響が色濃く認められる。戦後、47年の第3回京展に「城南の春」を初出品し、京都市長賞・新聞社賞を受賞。また47年第3回日展に「海」が初入選するが、48年星野眞吾の推薦により革新的な日本画運動であるパンリアルに参加。翌49年に「パンリアル宣言」を発表しパンリアル美術協会を公に結成、第1回展を開催し、58年に退会するまでの間、「霊性の立像」(53年第10回展)、「消えた虹」(54年第11回展)等を出品、日本画がもつ膠彩表現の可能性を追求した。協会退会後も国内外にわたって個展を行なうとともに、58年、61年のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、59年の中南米巡回日本現代絵画展といった国際展に出品する。58年からは麻袋を画面に貼り付けた「ドンゴロス」の連作を開始、異質のメディアを日本画に持ち込んで既存の概念を問い返す制作を行い、60年には「創生」がグッゲンハイム美術館買い上げとなるなど、アメリカをはじめ海外での評価を得る。61年に俶嵩と改号。71年頃からは主に花をモティーフに極めて精緻な南宋院体画風へと大きく転回、「鶏頭(おとずれ)」(72年)、「華厳」(89年)など静謐のうちにも生気、さらには仏性をたたえた世界を展開する。70年京都市立芸術大学助教授、73年教授に就任。83年京都市文化功労者として表彰。87年京都市立芸術大学を退官、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年には京都府文化賞功労賞を受賞、同年O美術館で「大野俶嵩展―「物質」から華へ」が開催されている。

原光子

没年月日:2002/06/08

読み:はらみつこ  洋画家原光子は6月8日午前1時25分、乳がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年70。旧姓小瀬(こせ)。 1931(昭和6)年7月10日東京都八王子市に生まれる。都立南多摩高校を経て54年に女子美術大学芸術学部洋画科を卒業すると、同大学洋画科助手となる。同年は第22回独立展に「赤いローソク」が初入選したほか、初めての個展を開催した。翌年、第9回女流画家協会展に「ダム」を出品し、以後主に両会に作品を発表するなかで、女流画家協会では58年に会員となり、プールヴー賞、努力賞、甲斐仁代賞などを受賞し、73年からは委員に推挙され2001(平成13)年まで連続出品した。一方独立美術協会でも、2001年までほぼ毎年入選および出品を続け、72年第40回展では独立賞を受賞、翌73年会員に推挙されている。この間、59年に原静雄と結婚。女子美術大学芸術学部では、60年専任講師、75年からは助教授、84年教授に就任し後進の指導にあたった。97年からは名誉教授。 65年、第1回女子美術大学海外研修旅行としてイギリス、フランス、イタリアなどにでかけたのを皮切りに、ロシア、シルクロード、アンコールワットまで取材旅行は多岐にわたる。彫刻や噴水が配された風景は鮮やかな色面で構成され、その作品タイトルからもうかがえるように作品に水の動きを描き、流れる風を表現した。 84年第23回国際形象展に「午後2時・微風」ほかを招待出品。95年には「原光子―風の方向―」展(たましん歴史・美術館)を開催、96年には第11回小山敬三美術賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催した。技法書として『油絵の描き方 風景画』(講談社 1985年)を出版し、「福沢一郎」展カタログ(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 1998年)では、独立美術協会や女子美術大学の教職員として兄事した福沢一郎に文章を寄せている。88年、紺綬褒章受章。

今井俊満

没年月日:2002/03/03

読み:いまいとしみつ  画家の今井俊満は、3月3日午後4時15分、膀胱がんのため東京都中央区の国立がんセンター中央病院で死去した。享年73。 1928(昭和3)年5月6日、京都府京都市西京区に生まれる。幼少時に大阪市船場安土町に移り住み、大阪市立船場尋常小学校卒業後、41年に上京して武蔵高等学校尋常科に入学。48年、同高校を卒業、在学中から絵画に関心を持ち、同年10月には第12回新制作派協会展に「道」が入選した。51年の第15回新制作展に「真夜中の結婚」が入選、新作家賞を受ける。翌年、単身でフランスに私費留学。留学中、サム・フランシスを知り、55年にはその紹介で美術評論家ミッシェル・タピエを知る。この頃から、抽象表現主義であるアンフォルメル運動のジョルジュ・マチュー、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエ、セザール、ポール・ジェンキンス、アンリ・ミショー等の画家たちと交友するようになり、自らも運動に加わった。56年、「世界・今日の美術展」(朝日新聞社主催、会場:東京日本橋、高島屋)に、岡本太郎から要請され、ミッシェル・タピエのコレクションから、フォートリエ、デュビュッフェ、マチュー、カレル・アペル、サム・フランシス、フォンタナ等の作品出品の斡旋をした。この展覧会が、国内におけるアンフォルメル絵画の最初の本格的な紹介となり、反響を呼んだ。57年2月、パリのスタドラー画廊で最初の個展を開催。同年8月、一時帰国、この時、マチュー、タピエ、サム・フランシスも相次いで来日し、共にアンフォルメル運動のデモンストレーションを行った。その後、60年代から70年代には、日仏間を行き来しながら、数々の展覧会に出品するなど、活発な活動をつづけ、国際的な美術家として評価された。また、70年の大阪万国博覧会では、企業パビリオンの美術監督を務めるなど、建築装飾やファッション、音楽などにも関心をひろげていった。75年に画集『今井俊満』(求龍堂)を刊行。制作面では、83年頃より、金銀を華やかに用いて、「琳派」をはじめとする伝統絵画を引用した装飾性あふれる「花鳥風月」のシリーズが始まった。当時、今井自身は、その変貌をつぎのように語っている。「私が花鳥風月で行った伝統再生の作業は古典主義とは全く異なる。なぜなら日本の伝統的芸術遺産の特定の形態に回帰したのではないからである。私が回帰したのは伝統芸術の奥底を流れる、定かならぬ全体、そこに私は戻ったのだと思う」(「アンフォルメル花鳥風月」、『へるめす』21号、1989年)。85年に画集『今井俊満 花鳥風月』(美術出版社)を刊行。1989(平成元)年4月には、初期作品から近作まで201点によって構成された「今井俊満―東方の光」展が国立国際美術館で開催され、その後目黒区美術館、いわき市立美術館を巡回した。91年5月には、アンフォルメル時代の作品から近作まで41点によって構成された「今井俊満展」を富山県立近代美術館で開催。90年代には、一転して髑髏などをモチーフに戦争の災禍を告発するような表現主義的な表現に展開。さらに自ら癌であることを認知した最晩年には、女子高校生などをモチーフに東京の風俗をシニカルに戯画風に描いた作品を発表し、最後まで大胆に変貌し続け、創作への意欲をみなぎらせていた。

小松崎茂

没年月日:2001/12/07

読み:こまつざきしげる  SF画のパイオニアとして人気を集めた小松崎茂は12月7日午後9時26分、心不全のため死去した。享年86。1915(大正4)年2月14日、東京府北豊島郡南千住町(現東京都荒川区南千住町)に生まれる。高等小学校卒業後、池上秀畝門下の日本画家堀田秀叢に師事、花鳥画を学ぶが、やがて挿絵を志すようになり、秀叢の弟弟子で挿絵画家として人気のあった小林秀恒に学ぶこととなる。1938(昭和13)年『小樽新聞』連載の講談の挿絵でデヴュー。39年から少年科学雑誌『機械化』に描き続けた未来の兵器は、小松崎自身が創案した新兵器をヴィジュアル化したものだった。戦時下の43年には第2回陸軍美術展に「ただ一撃」、国民総力決戦美術展に「敵コンソリー爆撃機墜ツ」、第3回航空美術展に「ニュージョージヤ島の死闘」などの戦争画を出品。戦後は絵物語「地球SOS」(『冒険活劇文庫』1948~51年)や「大平原児」(『おもしろブック』1950~52年)により人気を集め、山川惣治と並ぶ少年雑誌界の寵児となる。絵物語のブームが去った後も細密で迫力のあるSFの世界や戦艦・戦闘機を雑誌やプラモデルの箱絵に描き続け、特撮映画のデザインにも参加、またテレビ全盛時代に入ると「サンダーバード」などのキャラクター画も数多く手がけた。77年には、20代の頃描きためた銀座や浅草のスケッチを載せた『懐かしの銀座・浅草』(文:平野威馬雄 毎日新聞社)が刊行。1990(平成2)年画業をまとめた『小松崎茂の世界 ロマンとの遭遇』(国書刊行会)で日本美術出版最優秀賞受賞。

吉田善彦

没年月日:2001/11/29

読み:よしだよしひこ  日本画家で日本美術院理事の吉田善彦は11月29日午前10時17分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。1912(大正元)年10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に老舗の呉服屋の次男として生まれる。本名誠二郎。現在の世田谷区岡本に育ち、小学校在学中に南画家中田雲暉に絵の手ほどきを受ける。1929(昭和4)年いとこの吉田幸三郎の義弟でその後援も受けていた速水御舟に師事、その感化は生涯にわたる影響を及ぼし、とりわけ東洋古典の重要性を認識するに至る。33年の御舟急逝後、吉田幸三郎の計らいで御舟の旧画室を使用して描いた「もくれんの花」が37年第24回院展に初入選、以後院展に出品を続け、また同年より小林古径の指導を受けることになる。40年より法隆寺金堂壁画模写事業に加わり、橋本明治の助手として第九号大壁と第十一号小壁を担当、春秋は奈良で模写に従事する。翌41年高橋周桑ら御舟遺門の同志九名と圜丘会を結成、また同年日本美術院院友に推挙される。44年応召し、46年台湾より復員、再び法隆寺金堂壁画の模写に従事するが、49年法隆寺金堂の火災により壁画は焼失。54年奈良より東京世田谷にもどり、安田靫彦門下生による火曜会に参加する。57年第42回院展「臼杵石仏」、61年第46回「高原」、63年第48回「袋田滝」がいずれも奨励賞、62年第47回「滝」が日本美術院次賞を受賞、64年同人に推挙される。法隆寺での模写事業を通じて第二の故郷ともいうべき大和地方をはじめ、四季折々の日本の風景を描き続けるが、その技法は一度彩色で描いた上に金箔でヴェールを被せ、その上にもう一度色を置き再度描き起こすという独自のもので、吉田様式と呼ばれた。73年第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞、81年第66回「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞を受賞。82年には同作および前年開催した「吉田善彦展」(日本橋高島屋)により第23回毎日芸術賞、また第63回院展出品作「春雪妙技」(78年)により日本芸術院恩賜賞を受賞した。この間、67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、安田靫彦班で第六号大壁を担当。また64年東京芸術大学講師、68年助教授、69年教授(80年まで)に就任。70年には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加し、トルコ・カッパドキアへ赴く。73年には主にイタリア(ローマ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ)の壁画研究に出かけ、75年には日本美術家代表団の一員として、中国(北京、大同、西安、無錫、上海)を訪れる。78年より日本美術院評議員、87年より同院理事。86年には東京芸術大学名誉教授となる。なお82年に朝日新聞社より『吉田善彦画集』が出版され、また1990(平成2)年に山種美術館、94年にメナード美術館、98年に世田谷美術館で回顧展が開催された。

寺島龍一

没年月日:2001/10/26

読み:てらしまりゅういち  洋画家寺島龍一は、10月26日午後7時17分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。享年83。本名は寺嶋龍一。1918(大正7)年4月27日東京築地に生まれる。千葉県九十九里で幼少期を過ごし、栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、川端画学校に学ぶ。1938(昭和13)年東京美術学校に入学、小林萬吾教室に学び、ついで寺内萬治郎に師事した。人物画をよくする。在学中、41年第4回新文展に「父の像」が入選したほか、翌年の第29回光風会展に「部屋にて」が入選。46年第1回日展に入選、57年に「N氏像」が第13回日展特選、同年光風会でも会員となり、以後は日展と光風会を活躍の場とする。60年から一年半滞欧し、シエナ派の絵画から線描表現や幻想性を、またジャコメッティの作品から人体と空間の表現方法を学んでいる。帰国後は舞妓をはじめとする女性像をよく描き、その一方で、前景に女性を配してスペインやイタリアの風景と組み合わせた構図を作り上げた。76年以降14回渡欧、特にアンダルシア地方の風景を好んだ。油彩画のほかに児童書や事典に挿絵を描き、69年には産経児童出版文化賞を受賞。77年東京新聞連載小説「愛しい女」(三浦哲郎作)の挿絵を担当する。78年筑波大学教授となるが、翌年辞している。80年と83年に日動サロンで個展を開催。1991(平成3)年紺綬褒章受章、92年「アンダルシアの宴」で日展内閣総理大臣賞を、96年度には「アンダルシア賛」で日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。98年日本芸術院会員。99年日展顧問、2000年光風会理事長となる。著書に『人物画の新しい工夫』(アトリエ社 1969年)があり、『寺島龍一画集』(ビジョン企画出版社 2000年)が刊行されている。 

秋野不矩

没年月日:2001/10/11

読み:あきのふく  インドの大地と人物を描き続けた日本画家で文化勲章受章者の秋野不矩は10月11日午前11時27分、心不全のため京都府美山町の自宅で死去した。享年93。1908(明治41)年7月25日、静岡県磐田郡二俣町(現天竜市二俣町)の神主の家に生まれる。本名ふく。静岡県女子師範学校卒業後小学校の教師をしていたが、1927(昭和2)年19歳で画家を志し、父親の知人の紹介により帝展の日本画家で、千葉県大網町に住む石井林響に入門、住み込みの弟子となる。29年林響が脳溢血症で倒れると京都に移り、西山翠嶂の画塾青甲社に入る。30年第11回帝展に「野を帰る」が初入選、その翌年は落選するも32年から34年にかけて連続入選を果たす。32年には塾の先輩である沢宏靭と結婚、その後もうけた六人の子供を育てる傍ら身辺のモティーフを題材に制作を続け、そこで育まれたヒューマニズムは生涯貫かれることになる。36年新文展鑑査展で天竜川岸の白砂に寝そべる女と子供を描いた「砂上」が選奨、38年第2回新文展では紅の着物をまとう五人の女性を円形に構成した「紅裳」が特選を受賞し、無鑑査となるなど官展で着実に地歩を築いていく。40年には大毎東日奉祝(大阪毎日・東京日日新聞主催)日本画展覧会で夫をモデルにした「陽」が特選一席となり、43年京都市展では「兄弟」が京都市展賞を受賞。戦後48年には日展を離脱、日本画の革新を目指して創造美術の結成に参加。51年同第3回展に自分の子供をモデルとした「少年群像」を出品、同作により第1回上村松園賞を受賞する。51年創造美術は新制作派協会と合併、新制作協会日本画部となり、同会会員として同展に出品する。一方、49年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)助教授となる。62年ビスババーラティ大学(現タゴール国際大学)の客員教授として一年間インドに滞在。これを契機にそれまでの人物画からインドの自然風物、宗教に主題を求めた浄福感あふれる作品へと移行する。その後も度々インドに渡り、中近東へも足を伸ばした。74年京都市立芸術大学を退官し、同大学名誉教授となる。また同年新制作協会より独立結成された創画会の会員となる。この時期二度にわたり火災によりアトリエを失うが、80年に京都市内から同府北部の山間にある美山町に画室を移し、制作を続ける。78年京都市文化功労者、81年京都府美術工芸功労者、83年天竜市名誉市民となり、85年「秋野不矩自選展」(京都ほか)を開催、86年には毎日芸術賞を受賞した。88年第1回京都美術文化賞を受賞。1991(平成3)年に文化功労者となる。92年には画文集『バウルの歌』(筑摩書房)を出版。93年第25回日本芸術大賞受賞。98年には生地である天竜市二俣町に天竜市立秋野不矩美術館が開館。99年には文化勲章を受章。2000年のアフリカ行きが最後の海外旅行、翌年の第28回創画会出品作「アフリカの民家」が最後の出品となったが、個展準備のためインドへの取材旅行を計画していた矢先の逝去であり、最晩年に至るまでその創作意欲は衰えることがなかった。没後の03年には兵庫県立美術館ほかで大規模な回顧展「秋野不矩展―創造の軌跡」が開催されている。

真野満

没年月日:2001/07/01

読み:まのみつる  日本画家で日本美術院評議員の真野満は7月1日、老衰のため死去した。享年99。1901(明治34)年9月27日、東京浅草に生まれる。父は河鍋暁斎門下の日本画家真野暁亭で、兄松司も日本画家の道を歩んでいる。15、6歳の頃一時、尾竹竹坡に絵の手ほどきを受ける。1918(大正7)年太田聴雨、小林三季の結成した青樹会に参加し、第1回青樹社展に「凝視」を出品。その後22年第一作家同盟に青樹社の一員として参加し、第一回展に歴史画を出品したが、この同盟は数年にして解散となる。その後父の勧めで京都市立絵画専門学校に進み1927(昭和2)年卒業。再び上京して37年安田靫彦に師事、翌38年第25回院展に「貴人愛猫」が初入選した。41年第28回院展「七おとめ」が日本美術院賞第三賞を受賞、また40年より法隆寺金堂壁画の模写に文部省嘱託として従事し、中村岳陵の班で五号壁を担当した。戦後、『源氏物語』や『伊勢物語』などの平安文学に材をとり、52年第37回院展「小墾田宮」、54年第39回「伊勢物語」、55年第40回「泉(伊勢物語)」が奨励賞を受賞。57年第42回「羽衣」が再び日本美術院賞となり、同年日本美術院同人に推挙された。71年第56回院展「伊勢物語」が文部大臣賞、80年第65回「後白河院と遊女乙前」は内閣総理大臣賞を受賞する。一貫して神話や文学、歴史画にモティーフを求め、師靫彦の伝統を継ぐ流麗にして明快な筆線の美しさを基調とした作品を発表。78年より日本美術院評議員をつとめる。1991(平成3)年には「大和絵六十年の歩み 真野満展」が日本橋三越で開催された。

川端実

没年月日:2001/06/29

読み:かわばたみのる  洋画家川端実は、6月29日、東京都渋谷区の病院で老衰のため死去した。享年90。1911(明治44)年5月22日、東京市小石川区春日町に日本画家川端茂章の長男として生まれる。川端玉章は、祖父にあたる。1929(昭和4)年4月、東京美術学校油画科に入学、藤島武二に師事した。34年に同学校を卒業、36年には文展監査展に「海辺」が入選して、選奨となり、39年には光風会員となった。同年8月、渡欧の途につく。パリに入るが、第二次世界大戦の勃発により、退去命令をうけ、ニューヨークに渡る。しかし、ヨーロッパが急変する様子がないことを知り、再びフランスに戻った。その後、戦渦の拡大によりイタリアに移ったが、イタリアも参戦したことから、41年9月に帰国した。戦後の50年、多摩美術大学教授となり、52年には、光風会を辞して、新制作協会会員となった。また、51年には、第1回サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に選出され、「キリコをつくる人」を出品した。53年には、長谷川三郎、吉原治良、山口長男等とともに、日本アブストラクト・アート・クラブを結成した。50年代から、具象的な表現をはなれ、ダイナミックで、構成的な抽象表現を模索しはじめていた。58年9月、渡米してニューヨークに居を移し、翌月にひらかれた第2回グッゲンハイム国際展に「リズム 茶」を出品して、個人表彰名誉賞を受賞した。また、同年、新制作協会からはなれた。61年、第31回ベェネツィア・ビエンナーレに「強烈な赤」等を出品した。戦後、欧米の美術界を席巻した抽象表現主義の影響をうけた作品となっていったが、60年代末頃より、明快な色彩とシンプルな幾何学的なフォルムによる抽象絵画に展開していった。その後、国内外での個展のほか、種々な国際展に出品した。75年には、神奈川県立近代美術館において、50年から近作にいたる作品80点、デッサン59点によって構成された回顧展が開催された。92年には、京都国立近代美術館、大原美術館において、作品59点とドローイング22点によって構成された近作を中心とする「川端実展」が開催された。70年代から80年代には、明快な色面の構成ながら、筆によるストロークの跡を画面に残しているため、暖かい抒情性をただよわせる作品を残したが、しだいに即興的でダイナミックな線による表現に展開していった。戦後の抽象絵画のなかで、いちはやく国際的な評価をうける作品を残した。

松本英一郎

没年月日:2001/06/17

読み:まつもとえいいちろう  洋画家で、多摩美術大学教授の松本英一郎は、6月17日午前9時51分、心筋症のため山梨県富士吉田市の病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年7月8日、福岡県久留米市に生まれる。57年、東京芸術大学美術学部油画科を卒業、ひきつづき専攻科にすすみ林武に師事し、59年に同科を卒業した。57年の第25回独立展に初入選し、60年の第28回展では独立賞を受賞し、同年、同協会会員となった。同展には、2001年の第69回展まで、毎回出品をつづけた。69年、多摩美術大学グラッフィックデザイン科の講師となり、72年には同大学助教授となった。83年には、同大学教授となり、1993(平成5)年には油画科に所属が変更した。在職中は、寡黙ながら包容力のある指導で、学生からの人望もあつかったことで知られた。60年代末には、日常のなかの不安や不条理を、人間のシルエットの形の反復によって表現した「平均的肥満体」のシリーズを制作し、70年代から80年代にかけては、「不思議なことだが、私には襞のある形状の方がより自然に思えるのである。生あるものはやがて老い、そして収縮していく。収縮しながら襞を作る。」という言葉どおり、「退屈な風景」のシリーズによって、漠としてひろがる風景のなかに自然の摂理や人間の内面を投影した表現をつづけた。つづく90年代には、「さくら・うし」のシリーズによって、桜の花のはなやかさに幻惑された体験をもとに、さらに幻想的な独自の世界を展開していった。この間、各地の美術館の企画展、コンクール展に出品したが、90年には青梅市立美術館で「松本英一郎展」が、93年には池田20世紀美術館で「松本英一郎の世界」展が開催された。没後の2003年6月に多摩美術大学美術館において「松本英一郎展 Works1968-2001」が開催され、その芸術があらためて回顧された。

糸園和三郎

没年月日:2001/06/15

読み:いとぞのわさぶろう  洋画家糸園和三郎は、6月15日午後6時5分、肺炎のため東京都杉並区の病院で死去した。享年89。1911(明治44)年8月4日大分県中津町(現・中津市)の呉服商の家に生まれる。中津南部尋常小学校5年生の時に骨髄炎にかかり手術を受ける。一年遅れて小学校を卒業した後は、病気のために進学を断念。1927(昭和2)年上京し次兄と共に大井町に住む。この年、父に絵を描くことを勧められ、川端画学校に通い始めた。1930年協会展に出品されていた前田寛治の作品に感動し、29年には前田の主宰した写実研究所に学ぶ。同年第4回1930年協会展に「人物」が、続いて30年には第8回春陽会展に「赤い百合」「上井草」が初入選する。31年第1回独立美術協会展に初入選。独立美術研究所にも通い、同年には研究所の塚原清一、高松甚二郎、山本正と四軌会を結成、展覧会を開く。32年ころ下落合に移り、伊藤久三郎と同じアパートに住む。34年四軌会に斎藤長三が加わり、飾畫と改称。飾畫展には飯田操朗、米倉寿仁、土屋幸夫、阿部芳文(展也)らが参加した。このころからシュルレアリスムの傾向を示す作品を描き始める。38年、飾畫展は創紀美術協会に合流するため発展的に解散、続いて39年福沢一郎を中心に美術文化協会が結成されると、創紀美術協会もこれに参加した。41年、第2回展を前にした福沢及び瀧口修造の検挙は同会への威嚇となったが、糸園は2回、4回、5回の美術文化協会展に出品した。43年、井上長三郎、靉光、鶴岡政男、寺田政明、大野五郎、松本竣介、麻生三郎と8人で新人画会を結成。これは戦時下であっても自主的な表現活動をするための場であった。45年、笹塚の家が東京大空襲にあい、郷里にあった数点をのぞいて作品を焼失する。46年日本美術会創立に参加、47年美術文化協会を退会して新人画会のメンバーと自由美術家協会に参加した。一方で、46年頃から郷里中津で絵画塾を開いた。53年第2回日本国際美術展に「叫ぶ子」を、同年第17回自由美術家協会展に「鳥をとらえる女」、57年第4回日本国際美術展に「鳥の壁」(佳作賞受賞)を出品、生きるものの姿を緊密な構図で描出した。57年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。64年自由美術家協会を退会、以後無所属となる。68年第8回現代日本美術展に、人間と、アメリカ国旗やベトナムの地図を配した「黒い水」「黄いろい水」を出品、「黄いろい水」でK氏賞を受賞。70年前田寛治門下による「濤の会」、自由美術家協会の友人との「樹」を持ち、展覧会を開いた。77年、飾画を復活させている。56年から単身上京、三鷹に住む。57年から81年まで日本大学芸術学部で後進を指導した。76年、糸園に師事した卒業生たちが「土日会」を結成、以後糸園は同展に賛助出品をする。 この間、59年脳動脈瘤が見つかるが、手術によって制作ができなくなる危険性から手術は受けず、中津で一年半の療養生活を送ったほか、85年には右目を患っている。心に浮かんだ映像を長い時間をかけて醸成させ、キャンバスの上に写し換えるという糸園の作品は、画面から余計な対象物が排除されて静謐でありながら、詩情と人間のぬくもりを感じさせるものである。油彩画のほか、ガラス絵の制作もした。76年と83年に『糸園和三郎画集』が求龍堂から刊行。70年代以降は、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌展」(東京国立近代美術館 1972年)をはじめ、「日本のシュールレアリスム1925―1945展」(名古屋市美術館 1990年)、「昭和の絵画第3部 戦後美術―その再生と展開展」(宮城県美術館 1991年)など、洋画の変遷を展望しようとする企画展に作品が出品された。78年北九州市立美術館と大分県立芸術会館で糸園和三郎展が、1995(平成7)年、大分県立芸術会館で「糸園和三郎とその時代展」が開催された。2003年には画家や美術評論家をはじめ、友人、教え子、親族らによって『糸園和三郎追悼文集』が刊行されている。 

伊藤清永

没年月日:2001/06/05

読み:いとうきよなが  洋画家伊藤清永は、6月5日午後6時35分、急性心不全のため長野県軽井沢町の病院で死去した。享年90。伊藤は、1911(明治44)年2月24日兵庫県出石郡の禅寺、吉祥寺の三男として生まれる。中学の図画教師に岡田三郎助を紹介され、本郷洋画研究所に学んだ後、1929(昭和4)年東京美術学校西洋画科に入学。在学中の31年第8回槐樹社展に「祐天寺風景」が初入選し、33年には第10回白日会(白日賞受賞)と第14回帝展に入選、その後も白日会と日展を舞台に活躍した。二度の応召から復員し生家の寺で住職代理をしていたが、制作を一からやり直すつもりで裸婦の制作に取り組み始める。46年第1回展から日展に出品、47年「I夫人像」が、48年「室内」が、第3回、4回の日展で連続して特選となる。56年からは同審査員。53年画室で伊藤絵画研究所を開設、57年には愛知学院大学教授となって後進の指導に当たった。62年、51歳で初めて渡欧、パリとオランダに滞在して制作する。帰国後は、色彩豊かな柔らかい描線を交差させて、女性の肌の美しさをあらわした裸婦や、バラを描いた。戦前は着衣の群像を多く描いたほか、大画面への意欲も強く壁画も描いていて、年を隔てて84年には愛知学院大学講堂に「釈尊伝四部作大壁画」を完成させている。76年「曙光」が第8回日展で内閣総理大臣賞を受賞したほか、同作が翌年には日本芸術院恩賜賞を受賞した。84年日本芸術院会員、86年白日会会長となる。1991(平成3)年に文化功労者、96年には文化勲章を受章した。71年の『伊藤清永作品集』をはじめ、89年と91年にも画集が刊行され、2001年には日本橋高島屋を皮切りに全国5会場で卒寿記念の個展が開催された。89年、郷里の出石に町立伊藤美術館が開館。

塩出英雄

没年月日:2001/03/20

読み:しおでひでお  日本画家で日本美術院常務理事の塩出英雄は3月20日午後2時29分、脳しゅようのため東京都杉並区の病院で死去した。享年88。1912(明治45)年4月6日、広島県福山市の菓子舗に生まれる。中学時代には福山の古刹明王院で龍池密雄僧正より真言宗の教義について教えを受け、深く感化される。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年帝国美術学校日本画科に入学、主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事。37年第24回院展に「静坐」が初入選し、以後入選を重ね39年院友となった。戦後49年第34回院展で「賀寿」が奨励賞、翌50年第35回「泉庭」が日本美術院賞・大観賞を受賞。その後も51年第36回「茗讌」、60年第45回「清韻」が奨励賞となり、61年第46回「渡殿」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同人に推挙される。この間59年には同じく院展の小谷津任牛らと藜会を結成。69年第54回院展に出品した「春山」が内閣総理大臣賞を受賞。日本画顔料の純粋な発色を生かした平明清澄な風景画の世界を繰り広げた。70年日本美術院評議員、73年理事となる。制作に傾注する一方で、36年帝国美術学校卒業と同時に同校助手となり、41年講師、51年武蔵野美術学校助教授を経て、43年武蔵野美術大学教授、84年同校名誉教授となり、69年より80年まで愛知県立芸術大学講師を務めるなど、長年にわたり後進の指導育成にも尽力。また宗教や哲学に造詣が深く、短歌や能、茶道もたしなみ、59年に歌集『山草集』(古今書院)、1989(平成元)年喜寿記念歌集『清明集』を出版、86年には宮中歌会始の儀に参列した。91年には日本橋三越他で、99年には練馬区立美術館・ふくやま美術館で回顧展が開催されている。

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