鈴木満
洋画家の鈴木満は、6月8日午後4時25分、原発性肝ガンのため、東京・築地の国立がんセンター病院で死去した。享年62歳。鈴木満は、大正2年(1913)3月5日、静岡県田方郡に父留吉、母もとの三男として生まれた。船原小学校(のち中狩野小学校)高等科から準教員養成所に入所。準教員養成所時代の図画教師大城鎮雄に画才を認められ、画家を志す。昭和3年、準教員養成所を卒業して上京、太平洋画会研究所に入所、同研究所は翌昭和4年太平洋美術学校となっている。昭和6年、第27回太平洋画会展に「婦人像」が初入選、翌7年28回展「果実を持てる」、8年29回展にも入選、この年太平洋美術学校本科を卒業した。また、この昭和8年第14回帝展に「首飾りの女」が入選となった。昭和9年30回太平洋画会展で奨励賞をうけ、翌10年31回展では「女」「猫と娘」を出品して中村彝賞を受賞し、太平洋画会会友に推挙された。昭和11年には32回太平洋画会展に「春」「恵美ちゃん」「寓話によるコンポジション」文部省美術監査展に「姉妹」が入選した。昭和12年、肺結核を病み、1年間療養生活をしいられる。昭和13年ころ、向井潤吉の第2アトリエを借りて制作をはじめ、昭和16年37回太平洋会展に「画室にて」を出品して受賞し、会員にあげられた。同年4回文展に「妹の肖像」、17年5回文展「青年士官」が入選となった。昭和18年39回太平洋画会展に「暮れゆく冨士」「習作」、陸軍美術展に「坑底に戦ふ」、6回文展に「武人古老」入選、後者は特選となった。昭和19年40回太平洋画会展「第一線」を出品、陸軍美術展に「学徒出陣」を出品、情報局長賞をうける。また文部省主催戦時特別美術展に「神芒」を招待出品。昭和20年敗戦のあと9月に喀血し、郷里の伊豆に帰って療養生活に入る。昭和22年10月、示現会結成に病気療養中ながら創立会員として参加した。(昭和31年に退会)。昭和23年5月、再度上京し、青木純子と結婚、町田市に居住した。静養のかたわら玉川学園出版部発行の図書の挿図などを描いた。昭和26~29年に日展に出品、第7回展「裸婦」、第8回展「路傍」、第9回展「玉葱と女」、第10回展「或る日のA先生」がそれぞれ入選となった。昭和30年には町田市中央劇場の緞帳の原画を制作したが、31年結核が再発し再び療養生活に入り、かたわら自由なデッサンなどをとりはじめる。昭和35年に約1年間入院生活をおくったが、その間の化学療法のために肝炎を併発した。昭和43年3月、2ヶ月間の予定で妻、義妹とヨーロッパ旅行に出発したが、同行者の帰国後もパリに滞在し、パリを根拠地にしてイタリア、スペインなどを旅行し、昭和44年秋に帰国した。帰国後は制作に没頭し、昭和46年3月、向井潤吉の推めで第1回個展を東京日本橋の高島屋で開催、また日動画廊第1回三月会展に「吟遊詩人と城」出品。昭和47年4月第1回八珠会展(織田広喜、中村直人、宮崎進など。日本橋高島屋)に「雪後の母子」「月の出の人々」出品。昭和48年第2回八珠会展「雪後」出品。兜屋画廊で月と母子を主題にした作品により個展開催。昭和49年3月陽炎展(佐野繁次郎、中村直人、野間仁根など。上野松坂屋)に「青い樫と少女」「雪後の母子」「雪後風景」出品。第3回八珠会展「満月と母子」「水辺の女」出品。6月日本橋高島屋で“雪明りの人々”を主題した作品で個展開催。3月から10月までサンケイ新聞の連載小説遠藤周作『彼の生き方』の挿絵を担当する。昭和50年4月上野松坂屋で中村直人との二人展開催、その直前に入院。6月8日、国立癌センターで死去した。)
出 典:『日本美術年鑑』昭和51年版(302頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「鈴木満」『日本美術年鑑』昭和51年版(302頁)
例)「鈴木満 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9715.html(閲覧日 2024-12-13)
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