本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





中谷千代子

没年月日:1981/12/26

絵本作家中谷千代子は、12月26日午後9時49分、心不全のため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年51。1930(昭和5)年1月16日東京高樹町に生まれ、47年東京美術学校に入学して梅原龍三郎等に学ぶ。52年同校油彩科を卒業し、その後グループ展(MY NAK)・国展等に油絵を出品したが、57年頃より絵本の仕事に興味を持ち、研究を始めた。60年初めての絵本「ジオジオのかんむり」を出版し、62年に出版した「かばくん」は翌年サンケイ児童出版文化賞大賞を受賞する。63年より1年間フランスに滞在し、ボナールやアンリ・ルソーの絵に感銘を受けるとともに、フランスの絵本編集者ポール・フォーシェ、スイスのベッティナ・ヒューリマンらと出会ったことが、絵本作家としての道を進む大きな自信となった。65年の「まいごのちろ」「かばくんのふね」は第14回小学館絵画賞を受賞し、66年に出版した「スガンさんのやぎ」は翌年アメリカでも出版され、シカゴトリビューン・ワシントンポスト紙主催の児童図書フェスティバルで最優秀作品に選ばれるなど、動物を主人公とした作品は海外でも知られた。その後も、「まちのねずみといなかのねずみ」(69年、第1回講談社出版文化賞)、「かえってきたきつね」(74年、第21回サンケイ児童出版文化賞大賞)、「かめさんのさんぽ」(79年、第26回サンケイ児童出版文化賞推薦図書)など意欲的な作品を発表し、この間取材のため、73年フランス、76年にはパリ、ベニスを旅行している。81年には各種の童画新人賞の審査員をつとめたが、「しろきちとゆき」が最後の作品となった。

川端弥之助

没年月日:1981/12/09

春陽会会員、元京都市立美術大学教授の洋画家川端弥之助は、12月9日肺炎のため京都市左京区の自宅で死去した。享年88。1893(明治26)年12月5日京都市に生まれ、京都府立第一中学校を経て1918(大正7)年慶応義塾大学法律科を卒業する。20年第7回二科展に「桃」が初入選、22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシに入学、シャルル・ゲランに師事し、24年サロン・ドートンヌに入選する。翌25年帰国し同年の第3回春陽会展に「エフエル塔」等滞欧作3点を出品、以後同展に出品を続け32年第10回展に「御陵道」等3点を出品し春陽会賞を受賞、35年春陽会会友となり、37年同会員に推挙される。また、40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「琉球ヤンバル船」を出品する。49年京都市立美術専門学校教授に就任、翌年新制大学令により京都市立美術大学となり助教授、56年教授となり、63年定年退官するまで後進の指導にあたった。71年嵯峨美術短期大学教授に就任、79年まで在職する。この間、72年に第1回京都府美術工芸功労賞を、翌73年京都市文化功労賞をそれぞれ受賞した。春陽会展への出品作に、「陽春」(13回)「店頭」(15回)「天主堂」(29回)「疎水」(35回)「坂道」(40回)「白い家」(43回)「木曾御岳」(46回)などがある。

中野蒼穹

没年月日:1981/12/06

日展会員の日本画家中野蒼穹(本名二郎)は、12月6日午後1時15分、心筋コウソクのため浦和市の自宅で死去した。享年56。1926(大正15)年3月16日福島県原町市に生まれ、45(昭和20)年日本美術学校を卒業し、中村岳陵に師事する。50年の第6回日展に「小駅風景」が初入選し、以後毎回入選、56年第12回日展で「たそがれ」が特選・白寿賞を受賞し、翌年無鑑査となる。60年第3回新日展で「山野根風景」が再び特選・白寿賞を受賞し、翌年から委嘱出品、64年の第7回新日展では「残雪」で菊華賞を受賞するなど、風景画を得意としていた。70年の第2回改組日展では審査員をつとめ、翌年会員に推挙された。81年11月に福島県展功労賞等を受賞した直後の急逝であったが、その業績に対し、82年3月に紺綬褒章が授章された。主な作品としては、上記の日展各賞受賞作のほか、「翠映」(70年第2回改組日展)「山響」(81年第13回改組日展・絶筆)など。

樋口富麻呂

没年月日:1981/11/07

日本画家の樋口富麻呂は、11月7日午前零時25分、老衰のため京都市左京区の自宅で死去した。享年83。1898(明治31)年3月1日大阪市に生まれ、本名は秀夫。1910年頃より北野恒富に師事し、17歳の時の15(大正4)年第9回文展に「つやさん」が初入選する。その後帝展に19年の第1回から第3回まで入選し、23年(第10回院展「麻雀戯」)からは院展に出品、6回入選している。26年頃遊学のため大阪から京都に出た後、京都市立絵画専門学校に入学し、同時に西山翆嶂に師事、青甲社同人となる。35(昭和10)年に京都市立絵画専門学校選科を卒業し、中村貞以、西山英雄らと親交を結んだ。33年からは再び帝展、新文展、及び戦後は日展に出品し、54年の第10回日展から依嘱出品となっている。58年に師西山翆嶂が没し青甲社が解散した後、団体には所属せず日展のみに出品していたが、69年から院展に移り、小松均にも学んだ。庶民的な風俗を好んで描く一方、仏教美術にも関心を抱き、31年に仏跡を訪れて4ヶ月間インドを旅行(この折カルカッタ美術学校で個展開催)、56年にはインドネシアのバリ島に写生旅行している。晩年は人物や仏教に題材を求めた作品を多く手がけ、62年に高島屋で個展「みほとけ展」、79年には大西良慶・清水寺貫主をテーマに描いた個展「百寿説法展」(高島屋)などを開いている。主な作品は、「つやさん」(15年第9回帝展)「涼庭嬉戯」(26年第13回院展)「往く船」(40年紀元2600年奉祝展)「かぐや姫誕生」(55年第11回日展)「バリ島の祈り」(70年第55回院展)など。

山本直治

没年月日:1981/10/04

二紀会評議員の洋画家山本直治は、10月4日肝臓ガンのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年77。本姓秦井。1904(明治37)年8月30日大阪市に生まれる。24(大正13)年から大阪の信濃橋研究所に入り、小出楢重、鍋井克之に指導を受ける。26年、第13回二科展に「春の雪」「造花等の静物」が初入選、以後同展へ出品を続け35(昭和10)年二科会会友となった。戦後は二紀会に所属、48年二紀会同人、68年同会員に推挙され、73年第27回二紀展に出品した「潮岬」「良夜」で鍋井賞を受賞した。76年二紀会委員、翌年同評議員に挙げられた。この間の二紀会への出品作に「夜の操車場」(7回)「夜の色」(10回)「工場街」(15回)「古き家の窓より」(23回)「夜のプロムナード」(30回)「豊饒」(35回)等がある。

米田三男之介

没年月日:1981/09/05

現代美術家協会常任理事の洋画家米田三男之介は9月5日心不全のため千葉県夷隅郡の大原病院で死去した。享年68。大正2(1913)年2月26日愛媛県上浮穴郡に生まれ、昭和4年日本美術学校洋画科に入学し大久保作次郎に学び、同8年卒業する。同10年第12回白日会展に出品、この年京都で日本画を学び、関西美術院にも出入する。戦前からシュール・レアリスムの流れをくむ作風を示し、戦後は会員として二科展に出品し、同25年九室会にも所属する。同26年、51年協会に参加、同30年には美術文化協会会員となり、以後同展に出品し常任理事をつとめる。同40年、現代美術家協会会員(のち常任理事)となり、死去の年まで同展に制作発表を行う。二科展に「たそがれ」(33回)、「老樹」(34回)、「火炎樹」(35回)、美術文化協会展に「噴花」(15回)「ジュラ紀」(17回)、「月とピエロ」(19回)、「年輪」(23回)、現代美術家協会展に「誘蛾燈」(23回)、「孤独のくじゃく」(25回)、「太陽と森」(33回)、「波」(36回)などの出品作がある。

志村一男

没年月日:1981/08/21

春陽会、写実画壇会員の洋画家志村一男は、8月21日午前4時10分心臓衰弱のため、東京武蔵野市の西窪病院で死去した。享年73。1908(明治41)年1月1日長野県諏訪郡に生まれ、27(昭和2)年帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学した。その後父の死去のため帰郷したが、31年の第9回春陽展に「春光の丘」、第1回独立展に「丘の風景」「富士見駅附近」がそれぞれ初入選し、春陽会研究所で学ぶようになる。この頃1930年協会展や第4回文展(41年)などにも出品しているが、34年の第12回春陽展以後は主に春陽会に出品した。40年、絵に専念する意をかため上京、53年春陽会会員に推挙された。58年には渡欧し、パリのグランド・ショミエールに学び、ヨーロッパ各地を廻っている。72年、写実画壇の結成に発起人の一人として参加し、没年まで出品した。主な作品は「厨房の静物」(48年)「手水鉢」、「河原(夕月)」(73年)など。

渡辺貞一

没年月日:1981/07/29

国画会会員の洋画家渡辺貞一は、7月29日胃ガンのため東京都練馬区の自宅で死去した。享年64。1917(大正6)年3月30日青森県に生まれ、33年青森師範図画専科に入学したが、35年上京し37年まで川端画学校で学ぶ。41年第16回国画会展に「温室」が初入選し、戦後も同展に出品し、52年国画会会友に推され、翌年国画会若手グループで「三季会」を結成、56年第30回展出品作「日蝕」で会友優作賞を受けた。57年第1回朝日美術団体選抜新人展に「森の話」を出品、翌年国画会会員に推挙された。62年には第36回国画会展出品作「囚われの船」が朝日ジャーナルの表紙に用いられる。64年から翌年にかけてヨーロッパを巡遊する。国展出品とともに、56年12月の村松画廊を最初に、しばしば個展を開催して制作発表を行い、主なものに66年の西武ギャラリー、72年の日仏画廊、79年の現代画廊などがある。没後、82年に青森市民美術展示館で「渡辺貞一遺作展」が開催された。国展への主な出品作に、「冬の教会」(23回)「裸婦」(26回)「屋上の幻想」(28回)「極光2」(43回)「川原の風景」(47回)「羅針儀の風景」(49回)などがある。

津田季穂

没年月日:1981/07/23

カトリック聖母献身宣教会修道士、洋画家の津田季穂は、7月23日肺炎のため神戸市立中央市民病院で死去した。享年81。旧姓神吉。隻眼隻脚の絵を描く修道士として知られた津田は、1899(明治32)年11月23日栃木県日光の内科病院長神吉翕次郎の五男として生まれた。1914(大正3)年、事故で右眼を失い、同年叔母の津田姓を継ぐ。19年第6回院展に「山村」が初入選、以後同展に出品したが22年日本美術院洋画部解散にともない団体展から離れた。24年上海に渡航、26年に帰国後漁師になろうとして和歌山県田辺に住む。40年に稲垣足穂の『山風蠱』の装釘にあたり、以後稲垣、石川淳、辻潤らと交友した。43年7月18日洗礼を受け、受洗後は徳島県鳴門市に住む。45年結核性骨髄炎に罹り右足を切断する。48年には鳴門の画会グループによる「ベニウズ」会に参加、以後毎年出品するとともに、67年福岡フォルム画廊での個展を最初に、大阪日動画廊(71年)、日動サロン(72年)、大阪高宮画廊(73-80年)、ギャルリー・ワタリ(76年)などで個展を開催した。この間、70年、77年、78年の3回欧米等に旅行する。80年には高宮画廊から画集が刊行された。遺作に、「雑木林」「教会の見える風景」「十字架の道行」「自画像」「夜明け前」等がある。

金子保

没年月日:1981/07/22

新世紀美術協会委員、日本山岳画協会名誉会員の洋画家金子保は、7月22日老衰のため神奈川県秦野市の鶴巻温泉病院で死去した。享年90。1891(明治24)年7月6日新潟県三島郡に生まれ、麻布中学を経て東京外国語学校スペイン語科専修科へ進んだが中退し、1915(大正4)年東京美術学校西洋画科を卒業、17年同研究科を修了した。はじめ白馬会研究所に学び白馬会展、及び第1回光風展へも出品したが、19年太平洋画会会員となり、同年第1回帝展に「北国の冬」が入選、以後7回まで連続、及び第10回展にも入選、出品作に「猪苗代湖の冬」(3回)などがある。39(昭和14)年の第3回新文展には「海」を無鑑査出品した。この間、太平洋美術学校で教えた他、31年から武蔵高等学校教授もつとめた。戦後は旺玄会に所属し委員となったが、55年大久保作次郎らの新世紀美術協会結成に参加し、同協会委員となる。旺玄会の出品作に「片瀬海岸」(2回)「江の島の春」(5回)など、新世紀への出品作に「出漁前」(1回)「トラピスト」(6回)「海近し」(16回)などがある。

円山応祥

没年月日:1981/07/21

日本画家円山応祥は、7月21日午後7時15分、老衰のため京都市右京区の双ヶ丘病院で死去した。享年77。1904(明治37)年11月2日、円山応挙の五代末裔応陽の子として京都に生まれる。本名は国井謙太郎。円山派は、応挙以後多くの画家を輩出したが、宗家は、応瑞、応震、応立と続いたところで絶家、このため応震の妹が国井家に嫁して生んだ国井応文が円山五世となり、応陽、応祥と続いていた。応祥は円山派七世を号している。応祥は父応陽に画を学び、京都市立絵画専門学校を中退、父の没後、一時山元春挙に師事した。田鶴会に所属していたものの個展のほかにあまり発表の機会は多くなかったが、円山派絵画の鑑定者としても知られた。

田中道久

没年月日:1981/07/19

国画会会員の洋画家田中道久は、7月19日肝硬変のため東京都清瀬市の結核研究所病院で死去した。享年66。本名武久。1915(大正14)年1月3日新潟県南蒲原郡に生まれ、県立村松中学を経て東京美術学校油画科に入学、小林万吾に師事し39(昭和14)年卒業した。在学中の38年第13回国画会展に「温室」が初入選、以後40年から3年間の兵役期間を除き同展に出品する。43年には松竹映画会社に入り海軍省企画南方宣伝教育映画製作にも従事した。戦後10年間新潟県加茂市に居住、この間、47年第22回国展に「日論」「加茂川」「けし」を出品し国画会賞を受け翌年国画会会友となり、53年国画会会員に推挙される。58年から10年間国画会事務局を担当する。65年にはオランダ、スペイン他にスケッチ旅行を行い、翌年銀座資生堂画廊で個展を開催した。国展出品作に「背面裸婦」(14回)「蓮」(15回)「ほうづき」(18回)「雪の暁」(19回)「つるうめもどき」(21回)「踊子」(38回)「カラコンス」(49回)「メクネスの城塞(モロッコ)」(50回)「ステンドグラス」(51回)「ナザレの漁夫」(53回)等がある

矢部友衛

没年月日:1981/07/18

戦前の前衛絵画に大きな影響を与えた洋画家矢部友衛は、7月18日老衰のため東京都田無市の第一病院で死去した。享年89。1892(明治25)年3月9日、新潟県岩船郡に生まれ、1918(大正7)年東京美術学校日本画科を卒業する。卒業の年アメリカへ渡航、翌19年パリへ渡り、はじめアカデミー・ランソンでモーリス・ドニに学ぶが、その後キュビスムをはじめ当時の新傾向の絵画に影響を受けて22年に帰国。同年の第9回二科展に立体派の画風による裸婦「習作 其一」「習作 其二」を発表するとともに、神原泰、中川紀元、古賀春江ら二科の前衛作家13名によるグループ「アクション」結成に加わった。24年に「アクション」分裂後「三科造型美術協会」創立に参加、翌年同協会解散後は浅野孟府、岡本唐貴らと「造型」(28年、未来派ロマンチシズムを駆遂し、ネオ・リアリズムを旗印とする「造型美術家協会」に再編)を創立した。26年から翌年にかけてモスクワを訪れ、プロレタリア美術を研究するとともに、「新ロシア美術展」(朝日新聞社主催で27年5-6月に東京、大阪で開催)開催に尽力した。29年にはナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟創立(PPのちJAP)に参加し委員長に就任する。40年に再渡米しニューヨークで個展を開催、この時東西文化の全面的交流による綜合リアリズム運動を提唱する。44年神奈川県湯河原に疎開、ここで「農民百態」シリーズ(生前50態余を制作)を計画する。戦後の46年、岡本唐貴との共著『民主主義と綜合リアリズム』を出しその運動を提唱、同年旧JAPのメンバーと「現実会」を結成した。48年には日本共産党に入党、68年には郷里村上に画室を設け「農民百態」の連作をつづけた。80年に米寿記念『画集 矢部友衛』を刊行する。作品は、滞欧中の「裸婦」(1920)をはじめ、三科出品の「私の名はネオ・ロマンチストです」、プロレタリア美術大展覧会出品の「職場帰り」(1928)、「労働葬」(1929)、「音」(1930)、「凱歌」(1931)などがある。

岡田正二

没年月日:1981/07/08

新制作協会会員、日本水彩画会会員の洋画家、水彩画家岡田正二は、7月8日骨肉しゅのため千葉県我孫子市の自宅で死去した。享年68。1913(大正2)年2月8日東京都京橋区に生まれ、保善商業学校を卒業後、34(昭和9)年蒼原会研究所を経て中西利雄に師事し水彩画を学ぶ。38年新制作協会第2回展に水彩画「滞船」が初入選、日本水彩画会展にも初入選し以後両展に出品を続ける。61年新制作第25回展に「海辺の石」「海辺の岩」各百号の大作を出品、新制作協会絵画部会員となり、その後も大作を出品し注目される。また、63年日本水彩画会賞を受賞し日本水彩画会会員となる。54年国立近代美術館で開催された「日米水彩画展」には自選作品5点を出品、63年には第1回の個展(中央公論画廊)を開催した。64、66年の現代日本美術展に入選し、67年には水彩画「七月の間(海辺)」が国立近代美術館に収蔵された。作品は他に「小屋の見える窓」「夜の都会」「ロードスの月」「遺跡」など。

山田光春

没年月日:1981/06/29

主体美術協会創立会員の洋画家山田光春は、6月29日午後9時25分、肺ガンのため名古屋市中央区の国立名古屋病院で死去した。享年69。1912(明治45)年3月21日愛知県西加茂郡に生まれ、34(昭和9)年東京美術学校を卒業、宮崎県に中学校教師として赴任し、宮崎美術協会創立に参加したのを契機に、瑛九を識る。その後愛知県に戻り、37年の第1回自由美術家協会展に「門」(ガラス絵)等6点を出品して協会賞を受賞、会友に推挙された。以後同展に毎回出品し、40年第4回美術創作家協会展(自由美術改称)出品作「一人」「二人」により、会員に推挙される。またガラス絵に対する関心も深く、48年日本硝子協会の創立に参加、以後毎年出品している。52年には創造美育協会を創立、また64年に自由美術協会を退会して主体美術協会の創立に参加した。美術教育に於ける尽力が大きく、東海地方の多くの美術文化活動に携わったほか、愛知県立女子大学、大垣女子短期大学などで教鞭をとった。著作に「瑛九の会」の機関誌での連載をまとめた『瑛九』(青龍洞76年)、『藤井達吉の生涯』(風媒社)、『よい絵よくない絵』(黎明書房)などがある。没後勲三等瑞宝章を受章

新道繁

没年月日:1981/06/10

日本芸術院会員、光風会理事長、日展常務理事の洋画家新道繁は、6月10日心筋コウソクのため東京都板橋区の都養育院付属病院で死去した。享年74。昭和30年代以来、「松」一筋に描き続ける画家として知られた新道は、1907(明治40)年3月25日福井県板井郡に生まれ、1924(大正13)年東京府工芸学校を卒業した。在学中から水彩画に親しみ、25年の第6回帝展に水彩画「早春」が初入選しデビューした。翌年の第7回帝展に油彩画「麗園」が連続入選し洋画家の道へ進み、帝・文展へ出品を続け、41年文展無鑑査となった。この間の新文展出品作に「白衣」(2回)「少女」(3回)「西湖雪」(5回)があり、40年の紀元二千六百年奉祝記念展には「白服の女」を出品した。また光風会展へも出品し34年に光風会員に推される。41年から翌年にかけて中支・北支を旅行する。戦後も日展、光風会展を中心に制作発表を行い、58年、社団法人日展発足とともに評議員となり、同年の第1回展出品作「スペインの水売り」で文部大臣賞を受賞、ついで60年には第3回日展出品作「松」で日本芸術院賞を受けた。この頃から松をテーマにとりくみ、「松の作者」として注目され始めた。この間48年には光風会の同志鬼頭鍋三郎、田村一男、森田元子らと青季会を結成し、展覧会を開催した。日展常務理事、光風会理事長も歴任した。日展出品作1946年 第1回 「花の村」1947   3 「紅葉」(招待)1949   5 「室内」(依嘱)1951   7 「唐の微笑」1952   8 「古風な椅子」1953   9 「ふくろ」1954  10 「冬の日」1957  13 「南仏の家」1958 社団法人日展第1回「スペインのみづうり」(評議員)1959        2 「スペインの旅」1960        3 「松」1961        4 「松」1962        5 「修学院林泉」1963        6 「伊豆の松山」1966        9 「松島」1967       10 「松」1968       11 「松」1969 改組第1回日展 「松」(理事)1970    2 「松」1971    3 「松」1972    4 「松」1973    5 「松」 (評議員)1974    6 「松」1975    7 「松」 (理事)1976    8 「松」1977    9 「松」1979   11 「松」1981   13 「松」

坂井範一

没年月日:1981/05/27

新制作協会会員の洋画家坂井範一は、5月27日気管支炎のため岐阜県の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年2月14日岐阜県加茂郡に生まれ、1922(大正11)年岐阜県師範学校卒業後、翌年東京美術学校図画師範科へ進み26年卒業する。卒業と同時に岐阜県女子師範学校に奉職、同年の第7回帝展に「憩へる女」が初入選。1931(昭和6)年再上京し東京美術学校研究科に入り藤島武二に師事、35年の第二部会に「青い静物」が入選、翌36年新制作派協会第1回展に「浴後」「裸婦」を出品し新作家賞、37年の第2回展には「海辺」等で新制作派協会賞、39年第4回展でも新作家賞をそれぞれ受賞し、40年新制作派協会会員に推挙された。また、同40年の紀元二千六百年奉祝展には「船の制作場」を出品する。45年に岐阜市に疎開し、戦後は同地に定住、49年岐阜大学学芸学部芸術科の教授に就任す。新制作協会展に作品を発表する側ら地域の美術教育に積極的に関与し、52年には岐阜県造形教育連盟を組織し初代委員長に就任した。この間、51年にイサム・ノグチが岐阜を訪れ、坂井家を拠点に堤燈のデザインを行ったのに影響され、現代デザインにも関心を示すようになる。62年、岐阜大学を定年退官後も、愛知女子短期大学、東海女子短期大学に教えた。また、71年に岐阜日日賞を受け、81年には紺綬褒章を受章する。新制作への出品は他に、「洲の暁」(6回)、「渓流」(24回)、「船A」(29回)、「古い物語A」(34回)などがある。

井上三綱

没年月日:1981/05/19

元国画会会員の洋画家井上三綱は、5月19日老衰のため神奈川県小田原市の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年1月15日、福岡県八女郡に生まれ、1916(大正5)年福岡県小倉師範学校に入学、在学中に画家を志し卒業後上京、本郷絵画研究所に学んだのち、23年から同郷の先輩坂本繁二郎に師事する。1926(大正15)年第7回帝展に「牛」が初入選、以後7回帝展・新文展に出品、30年には牧雅雄について彫刻も学び、日本美術院展に彫刻作品を2度(第15、16回)出品した。43年、造形芸術社から『万葉画集』を刊行、45年には「古事記屏風」を制作、翌年から箱根早雲寺に参禅した。50年にイサム・ノグチの訪問を受け、またエリーゼ・グリリー女史を知り制作上の自信を得、同年の第24回展から国画会展に出品、翌年の25回展に「たいくつした牛」「水辺の馬」を出品し国画会会員に推挙された。55年、ニューヨーク、ブルックリン展に前年作の「裸婦群像」「浴後」を出品、57年にはサンパウロ・ビエンナーレ展に「しゃがみかけた牛」(50年作)「驚」(51年作)を出品、またニューヨーク近代美術館における国際水彩展にも出品した。この間、53年の第2回日本国際美術展に「農」他1点、翌54年の第1回日本現代美術展に「第一の日」「牛小屋」を出品、国際展は59年の第5回、現代展は60年の第4回展までそれぞれ出品した。59年、美術出版社から『画集 井上三綱』を刊行する。61年、国画会を退会し、以後無所属となる。74年には、セントラル美術館で屏風絵による個展を開催した。国展への出品作に「海辺の牛」(26回)、「まるまげの女」(30回)、「はたおり」(31回)、「働く女」(34回)などがある。

里見勝蔵

没年月日:1981/05/13

国画会会員の洋画家里見勝蔵は、5月13日心筋こうそくのため鎌倉市の自宅で死去した。享年85。大正から昭和にかけてフォーヴィスムを紹介し、当時の画壇に大きな影響を及ぼした里見は、1895(明治28)年6月9日、京都市四条に生まれた。生地は現在の大丸百貨店敷地内にあたり、かつて近隣に松村呉春、円山応挙も住み、当時は安井曽太郎、梅原龍三郎の家とも四、五丁程度離れた場所であった。京都府立第二中時代は音楽家を志したこともあるが、後に音楽評論家となった野村光一等と東京美術学校日本画科出身の鈴川信一(のち東京美術学校教授)に図画を学び、1913(大正2)年卒業後関西美術院に入り鹿子木孟郎の指導を受けた。翌14年東京美術学校西洋画科に入学、長原孝太郎に素描を、小林万吾、藤島武二、黒田清輝に油絵を学び、19年に同校を卒業する。渡欧前の池袋時時代では、美校三年生の頃知った安井曽太郎を最も尊敬し、セザンヌにも傾倒、また在学中の17年には鍋井克之の勧めで第4回二科展に「職工」を出品し初入選、同年の第4回院展にも「下濱風景」が入選する。21年にフランスへ留学、マチス、ドラン、ブラック、ブラマンクらフォーヴィズム隆盛期のパリ画壇にあって、ブラマンクに師事しその薫陶を受けた。渡仏中、前田寛治、小島善太郎らと交友、佐伯祐三をプラマンクに紹介したことでも知られ、また、24年には「巴里の展覧会-ルオーの展覧会を観る-」を「中央美術」(105号)に投稿、これがわが国における最も早いルオー紹介となった。25年に帰国後京都に居住、同年の第12回二科展に滞欧作「マリーヌの記念」など7点を出品し樗牛賞を、27年の第14回展には「裸女の化粧」など6点を出品し二科賞をそれぞれ受賞、28年二科会会友、30年同会員に推挙される。一方、26年に渡仏中交友のあった前田、小島、木下孝則、佐伯祐三と5名で里見の命名による一九三〇年協会を設立、同年5月に日本橋区北槙町の日米信託ビル階上に第1回展を開催し、滞欧作40点を出品した。同展は所期の目的である1930年の第5回展まで続けられて解散し、里見は二科会会員も辞し同年11月児島善三郎、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、翌31年の第1回展に「女(独立記念)」など8点を出品、以後第7回展まで出品を続けた。この間、29年に上京し井荻にアトリエを新築し移住する。54年、独立美術協会を退会し、以後美術団体に所属せず井荻で制作を続けたが、戦後の54年国画会に会員として加わり、同年4月に再渡仏、ブラマンクをはじめガシェ、ザッキンらに再会し、58年に帰国した。翌59年第33回国画会展に滞欧作「ルイユの家」など8点を出品、以後81年の第55回展まで毎年出品する。62年には井荻から鎌倉山に移転、67年に「里見勝蔵近作展」を東京日本橋三越で開催、68年には「里見勝蔵第一回自選展」(10月22日-27日)を同三越で開催した。晩年まで一貫してフォーヴの画風を展開、強烈な色彩と奔放な筆触による独自な画境を拓いた。著書に『ブラマンク』『異端者の奇蹟』『赤と緑』『画魂』など。主要出品目録1917年 4回二科展 「職工」(初入選)1918年 5回二科展 「静物」1919年 6回二科展 「静物」1921年 8回二科展 「肖像」1925年 12回二科展 「マリーヌの記念」「渓谷の春」「静物B」「雪景」「静物C」「プロヴァンス風景」「肖像」(樗牛賞)1926年 13回二科展 「友人の肖像」「静物」「静物」1927年 14回二科展 「軍人の肖像」「横はる女」「静物」「裸女の化粧」「南方の男」「裸女」(二科賞)1928年 15回二科展 「娘の化粧」「「シャボテンと石膏像」「女(一)」「静物」「女(二)」1929年 16回二科展 「女」「静物」「女」「肖像」「肖像」1930年 17回二科展 「女」「女」「女二人」「静物」「女と花」1931年 1回独立展 「マネキンの静物」「静物」「肖像」「男の首」「女(独立記念)」「家族」「静物」「女の顔」1932年 2回独立展 「静物」「画室にて」「女児」「女」1933年 3回独立展 「女」「女」「姉妹」「あじさゐ」「黄衣女」1934年 4回独立展 「少女像」「静物」「女」「水蓮と緋鯉」「少女像」1935年 5回独立展 「題未定」(三点、博覧会目録による)1936年 6回独立展 「肖像」「富士・桜」「荒磯」「女」1937年 7回独立展 「女」「チューリップ」「仏像」「少女」「富士」1959年 33回国展 「ルイユの家」「パンの静物」「赤毛の女」「イビザの岩石」「花束」「老友像」「曠野」「雪山」1960年 34回国展 「グラナダの郊外」「少女像」「マリーヌの早春」1961年 35回国展 「峡谷」「高原」1962年 36回国展 「イビザの田野」「橄欖」1963年 37回国展 「IBIZAの海岸」「イル・ド・フランス」1964年 38回国展 「ヴァルモンドア」1965年 39回国展 「道」「花」1966年 40回国展 「ラ・トゥルイエール」1967年 41回国展 「ペール・ギランの家」1968年 42回国展 「オーベルの農家」1969年 43回国展 「ノルマンディ風景」1970年 44回国展 「農家」1971年 45回国展 「ベアトリス」1972年 46回国展 「女の顔」1973年 47回国展 「アコ」1974年 48回国展 「イビザの山野」1975年 49回国展 「千」1976年 50回国展 「婦人像」1979年 53回国展 「顔」1980年 54回国展 「顔」1981年 55回国展 「風景」

奥田正治郎

没年月日:1981/05/05

日展会友の日本画家奥田正治郎(雅号・正治良)は、5月5日午前4時15分、心筋コウソクのため、京都府宇治市の曽根病院で死去した。享年79。1901(明治34)年8月15日三重県宇治山田市に生まれ、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学、1930(昭和5)年に同校研究科を修了した。また、都路華香、西村五雲らに師事し、38年に五雲が没した後は、山口華揚が引継いだ晨鳥社に所属した。26年の第7回帝展に「花園養蜂」が初入選し、以後帝展・日展に24回入選している。このほか京都市展にも出品した。代表作は、日展出品作の「蒼」「青柿」など

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