本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





濱達也

没年月日:1989/10/11

日展会員の彫金家濱達也は10月11日午後2時59分、心不全のため長野県諏訪市の諏訪赤十字病院で死去した。享年76。大正2(1913)年3月21日、長野県諏訪市に生まれる。昭和2(1927)年長野県立諏訪中学校を卒業して上京。清水南山、帖佐美行、鹿島一谷に彫金の指導を受け武井直也に彫刻を、石井柏亭に絵画を学ぶ。同15年紀元2600年奉祝展に「瑞祥手筥」で初入選。以後、官展、光風会展に出品して、同23年第4回日展に「のうぜんかつら壷」を出品して特選受賞、同33年第43回光風会展出品作「花器」でK氏賞、35年第45回同展では「鉄花器」で工芸特賞を受賞し同年同会会員となる。同42年日展会員となった。花、鳥、魚を好んでモチーフとし、象嵌技法を用いて素材の色を生かした色彩豊かな作風を示す。筥や壷など普遍的な形の日用器物に新味あるデザインの文様をあらわし、伝統技術と現代生活との接点を追求した。 日展出品歴2600年奉祝展(昭和15年)「瑞祥手筥」、第5回新文展(同17年)「銅こがね蔓草匣」、第1回日展(21年)「鑞銀合子」、2回「黒百合の箱」、3回「月見草の壷」、4回「のうぜんかつら壷」、5回「金工芍薬の筥」、6回(25年)「彫金象嵌波の壷」、7回「真鑄、銀、赤銅、銅象嵌金彩細口之壷」、8回「秋草之壷」、9回「蝋銀象眼花瓶」、10回「彫金盛花器」、11回(30年)「彫金花瓶」、12、13回不出品、第1回新日展(33年)「金彩銀線文花器」、2回「ホールの装飾」、3回「ロビーの為の作品」、4回不出品、5回「作品C」、6回「作品F」、7回「作品F」、8回(40年)「作品H」、9回「作品K」、10回「囁」、11回「晩夏」、第1回改組日展(44年)「望む」、2回「魚紋」、3回「魚」、4回「白夜」、5回「北の唄」、6回「淡水の幻」、7回(50年)「鵜」、8回「白鳥」、9回「日々」、10回「蘭奢待」、11回「晩秋」、12回「時を知らせる盛器」、13回「盛器(鷺草)」、14回「コンポート(わさび)」、15回「層」、16回「南の鐘乳洞」、17回(60年)「層追想」、18回「層無想」、19回「レインボー」、20回「水動く」、21回「層」

後藤清吉郎

没年月日:1989/07/09

静岡県無形文化財の和紙工芸家後藤清吉郎は7月9日午後6時24分、老衰のため静岡県富士宮市の自宅で死去した。享年91。明治31(1898)年5月4日、大分県大分市に生まれる。京都の関西美術院に学ぶ。生活に結びついた工芸に志し、衰退していた和紙工芸に注目。その源となる技法をアジア諸国に求め、昭和2(1927)年より3年間インド各地を巡遊するなどして研究する。同17年第17回国画会展に「ばななの花」で初入選、同年第5回新文展に「みなみの海二曲屏風」で初入選する。官展にはそののち、翌18年第6回新文展に「染色かものむれ二曲屏風」、21年第2回日展に「葛布和染わかたけ」を出品。国展には連年出品を続け同22年に会友推挙、25年に会員に推され、たびたび同展審査員をつとめた。型染、印伝金唐革などの技法を和紙工芸に応用し、画面全体にモチーフをちりばめる装飾的な作風の調度などを制作。同53年10月、静岡県無形文化財に指定された。著書に『紙譜帖』『和紙印伝』『日本の紙』『紙と漆』『紙の旅』『紙漉村』などがある。

松枝玉記

没年月日:1989/06/17

久留米絣技術保持者会会長で重要無形文化財久留米絣の藍染部門の第一枚者であった松枝玉記は、6月17日午後8時5分、肺炎のため福岡県八女郡の脳神経外科馬場病院で死去した。享年84。明治38(1905)年3月22日、福岡県三潴郡に生まれる。祖父松枝光次が明治15年に織屋を始めるなど、代々久留米絣の染めと織に従事してきた家に生まれ。幼い頃からその制作を見聞し、初歩的な手ほどきを受けた。旧制八女中学校を卒業後、大正11(1922)年本格的に久留米絣の道に入り、昭和2年頃に修業期を終える。父の後を継いで藍染を専門とし、同32年久留米絣が国の重要無形文化財に指定されるに際し、藍染の技術保持者に認定された。同34年久留米絣の重要無形文化財保持者代表森山富吉の死去に併い、同年4月その後を襲い、同51年制度改訂により久留米絣が技術保持者の代表指定から団体(久留米絣技術保持者会)指定に移るまで、久留米絣藍染部門の重要無形文化財保持者であった。日本伝統工芸展のほか、日本伝統染織展、福岡県展等に出品。同45年日本工芸会正会員となった。同56年3月東京・西武百貨店で個展を開催し、同年『藍生-松枝玉記作品集』を刊行。同59年4月東京・銀座和光で個展を開いた。伝統的藍染、手織の技術を用い、古典的絣文様を保存する一方、情感をこめた絵模様のデザインに今日的感性を生かして、昭和初年から衰退し始めた久留米絣の保存、復興に妻一と共に努めた。 日本伝統工芸展出品歴第10回展(昭和38年)「構成」「着尺」、11回不出品、12回「蓮花重文」、13回「筑後路」、14回不出品、15回(同43年)「鳰の住む沼」、16回「天翔る」、17回「家」、18回「初夢」、19回「夢の花」、20回(同48年)「南十字星」、21回「菱と輪」、22回「秋燈」、23回「糸の系譜」、24回「献穀」、25回(同53年)「ふるさとの丘」、26回「水に潜る亀」、27回「機の音」、28回「湖畔の橋」、29回「島」、以後不出品

里中英人

没年月日:1989/05/30

文教大学教授の陶芸家里中英人は5月30日午後4時35分、交通事故による全身打撲のため茨城県猿島の友愛記念病院で死去した。享年56。昭和7(1932)年6月15日、名古屋市に生まれる。同30年東京教育大学芸術学科を卒業し、翌年同大学芸術学専攻科を修了する。双方とも専攻は工芸・建築学。同31年より宮之原謙に師事し、同36年には東陶会に「陶彫」を出品して板谷波山会長賞、同年の第13回三軌会展では「陶壁」で受賞、翌37年第14回三軌展に「陶壁」を出品して努力賞、ブランシェ賞受賞、38年、44年にも東陶会で受賞。45年より八木一夫に師事して走泥社に参加する。同46年第1回日本陶芸展前衛部門に「シリーズ・公害アレルギー」を出品して優秀作品賞・外務大臣賞を受賞、社会派の前衛陶芸家としての地歩を築いた。翌47年第30回イタリア・ファエンツァ国際陶芸展でラベンナ州知事賞受賞、48年より翌年まで文化庁芸術家在外研究員として欧米に学ぶ。帰国後も走泥社への出品を続けたが八木一夫の死を機に同54年退会。同年国際陶芸アカデミー会員に推挙され、以後国内での展観に加えて同55年フランス・ヴァロリス国際陶芸ビエンナーレ及びイタリア・ファエンツァ国際陶芸展、58年国際陶芸アカデミー学会会員展など国際展にも出品する。同48年の「赤ちゃんの帽子」、50年「シリーズ:ワイングラスの悪夢」、51年「傷痕」、52年「シリーズ:猛想族」、54年「表層シリーズ:天中殺-十大恒星・十二命星」、56年「シリーズ:八木一夫の俳句(私的解釈の軌跡から)」、「陶壁・予兆空間」、57年「陶板・シリーズ韻」、60年「黒の風景」、62年「シリーズ蝕:黒の風景」、63年「陶板、予兆空間」、64年「予兆空間」「僕の世紀末」と一貫して社会への提言を秘めた作品を発表。熱や重力によって変形を加えられた形を石膏型に取り、陶土に形をうつして焼成するなど素材や技法の面でも前衛的な試みを行なった。朝日陶芸展審査員をしばしばつとめ、陶芸を伝統工芸の枠から解き放ち、クレイワークという分野を確立する原動力となった作家のひとりである。事故当時準備中であった個展は作家の計画案をもとに6月2日よりギャラリー森で行なわれ、国会議事堂を主題とした遺作「ザ・日本」が展示された。

喜多川平朗

没年月日:1988/11/28

古代絹織物“羅”の復元や宮中の儀式などに使う有職織物の第一人者で人間国宝の喜多川平朗は、老衰による呼吸不全のため、11月28日午後6時27分京都市左京区の自宅で死去した。享年90。明治31(1898)年7月15日京都市に生まれ、本名同じ。応仁の乱後、京都西陣に集まった織屋の中でも由緒ある機家俵屋に生まれ、17代目を継いだ。同家は江戸末期には有職織物も手がけており、また父喜多川平八も西陣の名匠であった。初め画家を志望し、大正10年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。卒業後兵役につき、同12年除隊後家業を継ぐことを決意、父平八のもとで修業を始める。同時に染織史や染織技術史の研究を志す。当事、有職織物製織の俵屋と装束調達の高田が有名だったが、その高田義男も大正末年頃より古代染織の研究を志し東京のほか京都にも織工場を新設したため、昭和初年より自らも自営、高田と協力して研究を始める。昭和3年昭和天皇即位大典儀式用の装飾、装束織物を製織し、翌4年第58回伊勢神宮式年遷宮の御神宝織物、6年新築された国会議事堂衆議院、貴族院の玉座や装飾織物などを製織。宮中や神宮、神社への調達用の織物も数多く手がける。また昭和初年より10年代にかけて帝室博物館が行なった古代染織品の復元模造事業でも、調査製作監督高田義男とともに製織主任としてこれに携わる。主な復元模造作品は次のものである。 正倉院裂数10点、国宝・鎌倉鶴岡八幡宮女衣五領、国宝・熊野速玉大社神服類38点、国宝・熱田神宮一ノ御前及び四ノ御前神服類各一具・装束類7点、重文・伝護良親王鎧直垂一領、毛利家伝来鎧直垂、重文・高台寺蔵太閣所用陣羽織一領、東寺舎利会装束二領、手向山八幡宮伝来新靺鞨の袍一領、重文・高野山天野社伝来水干一領、重文・宇良神社蔵肩裾縫箔一領等。 第2次大戦激化による応召、復員ののち数年間は不遇の時期が続いたが、28年第58回伊勢神宮式年遷宮の御神宝装束織物を制作。31年には、中国古代の織物で奈良~平安期に織られ室町以降衰微した「羅」(網目状の透けたからみ織りの薄地の絹織物)の再現による人間国宝に認定、さらに35年には「有職織物」によっても人間国宝に認定され、2つの技術保持者となった。42年西陣織工業組合による西陣五百年記念式典に際して文化功労者賞を受賞。43年キワニス文化賞を受賞し、45年京都市文化功労者となる。49年には文化庁により記録映画「有職織物・喜多川平朗の業」が撮影された。また日本伝統工芸会会員でもあった。

香取正彦

没年月日:1988/11/19

平和を祈願する一連の梵鐘づくりで知られる鋳金家で、重要無形文化財保持者(人間国宝)の香取正彦は、11月19日午後1時10分、じん不全のため東京都新宿区の国立医療センターで死去した。享年89。明治32(1899)年1月15日、鋳金家香取秀真の長男として東京小石川区に生まれた香取は、大正5(1916)年より9年まで太平洋画会研究所で洋画を学ぶが、同9年東京美術学校鋳造科に入学して鋳金に専念し、14年同校を卒業。昭和3(1928)年第9回帝展に「魚文鋳銅花瓶」で初入選。同5年第11回帝展に「鋳銅花器」を出品して特選、翌6年第12回帝展では「蝉文銀錯花瓶」で再度特選を受賞し、また同年の第18回商工省工芸展に「銀錯直曲文花瓶」を出品して商工大臣賞二等賞を受賞する。同7年第13回帝展に「金銀錯六方水盤」を出品して3年連続特選となり、同年の第19回商工省工芸展でも一等賞を受賞。戦後も日展に出品し、27年第8回日展出品作「攀竜壷」で翌28年日本芸術院賞を受賞。一方、戦時下に多くの鐘が金属供出のため破壊されたことに衝撃を受け、25年より父秀真と共に平和を祈願する梵鐘づくりを始め、33年米国サンディエゴ市に贈る「友好の鐘」、38年比叡山延暦寺阿弥陀堂の梵鐘、39年池上本門寺の梵鐘、42年広島原爆記念日使用の「広島平和の鐘」など150鐘を越す鐘を制作。また、34年ビルマ国へ贈る仏像を制作してビルマへ渡ったのをはじめ、35年栄西禅師像、43年鎌倉瑞泉寺本尊金銅釈迦牟尼仏など仏像、仏具の制作にもあたり、奈良薬師寺薬師三尊、鎌倉大仏などの修理も手がけた。52年重要無形文化財保持者に認定され、63年には芸術院会員に選ばれる。中国を含む広い古典に学び、伝統にもとづいた端正な形体の中に、モダンなデザイン感覚を生かした清新な作風を示した。

清水幸太郎

没年月日:1988/11/15

長板中形の重要無形文化財保持者(人間国宝)の染色家清水幸太郎は、11月15日午後7時40分、心不全のため葛飾区の自宅で死去した。享年91。明治30(1897)年1月28日、長板中形の型付師であった清水吉五郎を父に、東京本所に生まれる。同43年本所堅川尋常高等小学校を卒業後、父のもとで家業の修得にあたり、昭和11(1936)年、父の死去によりその号であった松吉を襲名する。同27年東京長板本染中形協会主催の競技会に出品し、金賞および銀賞を受賞。同29年第1回日本伝統工芸展に出品し、以後第15回までほぼ毎年出品を続ける。長板中形は、型付けに長板を用い、布地の表裏両面に染色するもので、表裏の文様を合わせる修練が必要なうえ、小紋と比較して二倍手間がかかり、かつ木綿という素材の性格から普段着として普及し高価なものとはならなかったため、職人の数が減少した。その中にあって伝統技法を守り、昭和30年重要無形文化財保持者に認定された。長板中形京追掛網代小松文浴衣、長板中形京追掛朱竹文浴衣などが東京国立近代美術館に所蔵されている。

佐藤潤四郎

没年月日:1988/10/23

日本クラフトデザイン協会初代理事長、ガラス工芸研究会初代会長をつとめたガラス工芸家佐藤潤四郎は、10月23日午後6時1分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学附属病院で死去した。享年81。明治40(1907)年9月26日、福島県郡山市に生まれる。昭和2(1927)年福島県立安積中学校卒業。太平洋美術学校を経て東京美術学校工芸科鍛金部に入り、同9年卒業して東京市立小石川高等小学校の図面手工科教員となる。この頃金工界の新鋭であった北原千鹿に誘われ工人社の同人となる。11年各務クリスタル製作所に入社。13年第2回新文展に「硝子花瓶」で初入選し、以後、第3、4回展にも出品。戦後も日展に出品し、22年第3回日展に「クリスタル花器」を出品して特選、27年日展審査員となる。幾何学文様によるモダンなデザインで注目され、また鉄のフレームの中に透明ガラスを吹き込む独自の技法でガラス工芸界に新境地を開いた。29年、アメリカ・コーニング社主催東洋デザインコンテストに「埴輪(人物)」を出品して一等賞受賞。31年日本デザイナークラフトマン協会(現・日本クラフトデザイン協会)の創立に参加し、その初代理事長となる。47年、各務クリスタル製作所を退職し、翌48年茨城県笠間市に「ひつじ窯」を開窯して陶器の製作を始める。50年、ガラス工芸研究会の発足に際し、初代委員長となる。51年、『ガラスの旅』を出版。翌52年、同書の刊行、および永年の業績により財団法人工芸財団より国井喜太郎賞受賞、また、53年には窯業協会より功労賞を受賞する。透明ガラスを主体に、洗練された詩情ある作風を示した。著書に『ガラス-窯と火と風-』(昭和54年)、『比伊止呂造法』(59年)などがある。

吉岡常雄

没年月日:1988/08/25

大阪芸術大学名誉教授の染色家吉岡常雄は、8月25日午後7時55分、心不全のため京都市伏見区の蘇生会総合病院で死去した。享年72。大正5(1916)年京都で三代続いた染屋に生まれ、日本画家吉岡堅二は兄にあたる。昭和11年桐生高等工業学校(現群馬大学)染織別科を卒業。戦後31年頃より染色作家を志し、走泥社の作家とともに染料を研究、前衛的作品を制作する。33年モダンアート協会会友となるが、35年頃正倉院展で古代染織品に感銘を受け、以後古代染織と天然染料の研究へと向かう。41年帝王紫(貝紫)への関心の高まりを受けて奄美大島を訪ね、節子の浜で貝紫に使用するアクキ貝科の棲息を確認。翌42年同地でアクキ貝科の「ヒロクチイガレイシ」を採集し、貝紫の染色実験に成功する。43年帝王紫の研究のため渡欧し、ナポリ湾で貝を採集、帝王紫の復元に成功する。またレバノンのシドンで帝王紫の染織に使った貝の貝塚を発見する。44年メキシコ・オアハカ州ドン・ルイス村を訪ね、46年同村を再訪、また同州タナパラで今なお海岸で行なわれている貝紫染を見る。47年にはドン・ルイス村でも岩場での染色を確認、同村へは50年、57年、58年にも訪れている。この間、42年大阪芸術大学講師(染色材料学)、44年同教授に就任。また50年正倉院爽纈を復元し、以後55年京都祇園祭南観音山の見送りに使われていた貞享元年(1684)銘の古渡インド更紗、59年京都国友家伝来徳川家康拝領辻ケ花小袖、62年阿武山古墳副葬品大織冠をそれぞれ復元する。一方、50年東大寺、薬師寺などの古儀式の染織を奉納して以降、55年東大寺大仏殿昭和大修理落慶法要に際し大幡(兄堅二と共同制作)・伎楽面・伎楽装束一式、60年法隆寺昭和大修理完成落慶法要に際し幡・八部衆装束、62年、1400年ぶりに再現された奈良飛鳥寺盂蘭盆会法要に際し幡および復元法衣、63年奈良県吉野郡多武峰談山神社に冠・装束を、それぞれ奉納した。著書として、48年『伝統の色』、57年『工程写真によるやさしい植物染料入門』、58年長年の研究成果をまとめた『帝王紫探訪』『日本の色・植物染料のはなし』などを刊行。63年『別冊太陽』創刊60号記念では、「源氏物語」「延喜式」の記述に基づき当時の染料、技法による源氏物語の色を再現した。63年京都・龍谷大学で西域仏教文化研究会が発足した際は、メンバーの一人として大谷探険隊将来裂の染織技法と色彩の究明に着手していた。54年東京銀座ミキモトホールで「日本の色」展を開催。また没後平成元年6月奈良県立美術館で回顧展が開催された。

林景正

没年月日:1988/06/06

美濃古陶器の再現につとめ、「黄瀬戸の景正」と称された陶芸家林景正は、6月6日急性肺炎のため岐阜県土岐市の自宅で死去した。享年97。明治24年(1891)1月24日岐阜県土岐郡に生まれ、同38年泉中央高等小学校を卒業する。昭和初年、美濃古窯出土の陶片に感動し、桃山期を代表する華麗な黄瀬戸の再現に情熱を傾けるに至った。以後、北大路魯山人らとの交友のなかで刺激を受けながら、40年間に及ぶ研究の末、その再現に成功した。荒川豊蔵らとともに今日の美濃焼隆盛の原動力となったとともに、とりわけ黄瀬戸の名人として名をなした。昭和33年、黄瀬戸の技術保持者として、弟景秋とともに岐阜県重要無形文化財保持者に認定された。同40年土岐市文化功労章を、同48年には岐阜県功労者表彰をそれぞれ受けた。

秋山逸生

没年月日:1988/05/22

木象嵌の重要無形文化財保持者(人間国宝)秋山逸生は、5月22日午前11時44分、狭心症のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年86。明治34(1901)年9月27日東京に生まれる。本名清。大正8(1919)年、芝山象嵌の島田逸山に入門し、以後、兄の秋山聴古に木画を、金工の桂光春に彫金を学ぶ。昭和17年第5回新文展に「銀線文象嵌箱」で初入選。以後同展、戦後は日展に出品。また、同41年第13回日本伝統工芸展に「蝶貝象嵌箱」で初入選する。同56年同28回展に「輪華文縞黒檀印箱」を出品してNHK会長賞を受賞。62年重要無形文化財「木象嵌」保持者に認定される。木象嵌の分野では初めての認定となった。奈良時代の木画の技法を取り入れ、貝、象牙などの他に金銀赤銅を用い、モダンで明快な作風を示して木象嵌に新風を吹きこんだ。

宮下善寿

没年月日:1988/05/09

日展参与の陶芸家宮下善寿は、5月9日午後8時、肺ガンのため、京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年86。明治34(1901)年6月13日、京都市東山区に生まれる。本名善寿。大正5(1916)年、京都市立陶磁器伝習所でろくろ成形技術を学ぶ。兵役を経て昭和元(1926)年、京城市の高麗焼研究所に入り、朝鮮古窯に興味を抱く。翌2年帰国。4年より日本陶芸協会に参加して、その主宰者河村蜻山に師事。同12年第1回新文展に「瑠璃釉釣花器」で初入選後、同展、日展へと出品を続け、24年第5回日展に「陶器紅映瓷花壷」を出品して特選受賞、30年第11回日展でも「秋慶文盛器」により特選を受け、翌年第12回日展に無鑑査出品、33年第1回新日展では審査員をつとめる。34年、日展会員となる。卓抜なろくろによる成形技術をいかし、均整のとれたふくらみのある形体、独特の紫味を帯びた青釉を特色とする作品を多く製作する。50年には第9回改組日展に「白翠瓷飾瓶」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。51年、京都府美術工芸功労者、56年京都市文化功労者に選ばれた。

宇野三吾

没年月日:1988/01/28

元日本工芸会理事の陶芸家宇野三吾は、1月28日午後7時10分、心不全のため京都市左京区の比叡病院で死去した。享年85。明治35(1902)年8月10日、陶工宇野仁松の四男として京都市東山区に生まれる。京都市立美術工芸学校を経て京都市立陶磁器試験所特別科に入り、大正9(1920)年同科を卒業する。昭和4(1929)年第10回帝展に「金魚彫文辰砂壷」で初入選し翌年第11回帝展にも「麦文紅釉花瓶」で入選するが、以後は個展を中心に作品を発表する。昭和18年国画会展に出品したほか戦後の一時期二科会展に出品している。22年四耕会を創設。24年滋賀県に上代緑釉の窯跡を発見し、水野清一、藤岡了一らと共にその研究に従事。30年より日本工芸会会員となり同年第2回日本伝統工芸展に「黄釉壷」を出品、以後同展に出品を続け、33年同会理事となる。50年京都府美術工芸功労者、55年京都市文化功労者として顕彰された。古陶磁とその釉薬の研究を続け、ペルシャ陶器の青に着想を得た独自の青色陶磁器を作りあげた。前衛的な試みも行ない、古典に根ざした代的造形で知られる。著者に「日本のやきもの・京都」(昭和48年)がある。

内藤四郎

没年月日:1988/01/12

重要無形文化財保持者(人間国宝)の彫金家内藤四郎は、1月12日午後6時30分、心不全のため浦和市の自宅で死去した。享年80。明治40(1907)年3月14日東京に生まれる。東京府立工芸学校で金属工芸を学んだのち、東京美術学校金工科に入学。清水亀蔵、海野清に師事して、昭和6(1931)年同校を卒業する。この間、昭和4年第10回帝展に「銀製草花文打出小箱」で初入選。同9年東京美術学校研究科を修了する。同11年文展鑑査展に「柳波文平脱小箱」を出品して特選となる。また、同年より国画会展工芸部にも出品し、同14年同会同人に推薦される。のち同会を退き新匠会に参加して会員となる。26年新匠会を退会して翌27年生活工芸集団を設立。36年より日本工芸会会員として日本伝統工芸展に出品する。一方、後進の育成にもつとめ、昭和16年より国立工芸技術講習所に勤務、24年より東京美術学校助教授となり、35年より49年まで東京芸術大学で教授としてデザイン基礎理論を講じた。蹴彫、平脱を得意とし、線条文様をいかした小箱を多く制作し、53年重要無形文化財保持者に認定された。

森卯一

没年月日:1987/11/21

国選定・本藍染技術保持者、滋賀県無形文化財保持者の森卯一は、11月21日急性肺炎のため滋賀県守山市の県立成人病センター付属病院で死去した。享年84。明治36(1903)年8月25日滋賀県野洲郡に生まれる。号紺九。15歳の時から、明治3年創業の生家の染色業に従事し藍染に携わった。和紙の染色を得意とし、昭和34年桂離宮松琴亭ふすまと壁紙の市松藍染紙を制作したのをはじめ、同43年には皇居新宮殿の連翠の間、無双窓明障子の市松模様紙の藍染を担当した。この間、同33年滋賀県文化財に認定され、同54年には国選定の技術保持者(本藍染)となった。

勝公彦

没年月日:1987/10/09

「幻の紙」とされていた芭蕉紙を復活させた紙製造家の勝公彦は10月9日午前零時5分、肺炎のため、沖縄の琉球大学医学部付属病院で死去した。享年40。昭和22(1947)年1月3日、神奈川県足柄下郡に生まれる。同44年日本大学芸術学部美術学科を卒業し、同47年より手漉和紙の人間国宝安部栄四郎に師事する。同51年、八重島、西表島の青雁皮紙を調査し、翌52年琉球紙の復興を志して沖縄に移住する。同53年「幻の紙」とされていた芭蕉紙の抄造に成功。56年より個展を開くほか、芭蕉紙、琉球紙製造の指導にあたり、その復興に尽くした。著書に安部栄四郎著・勝公彦抄造『沖縄の芭蕉紙』(同54年)がある。

浅見隆三

没年月日:1987/07/23

日展参事の陶芸家浅見隆三は、7月23日胃がんのため京都市の国立京都病院で死去した。享年82。中国宋時代の青白磁を基調に現代的感覚を盛った独自の作風を生んだ浅見は、明治37(1904)年9月26日三代浅見五良助の次男として京都市東山に生まれた。本名柳三。大正12年京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主に祖父の二代五良助に手ほどきを受け、昭和4年第10回帝展に「三葉紋花瓶」で初入選する。同10年第1回京都市美術展に「彫彩紋花瓶」を出品。戦後は同20年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、翌年の第1回展から日展へ出品、第2回日展に「象嵌 干柿の図皿」で特選、同26年第7回日展にも染付「鶏頭ノ図花瓶」で特選を受け翌年無鑑査となる。同28年第2回現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)に「けしぼうず花瓶」で朝日新聞社賞を受賞。同30年日展会員となる。また、同36年から45年まで京都工芸繊維大学講師をつとめた。同37年、プラハ国際陶芸展に「条」で受賞し、同年日本現代工芸美術家協会設立に会員として参加し、のち常務理事、同46年参与となる。同39年日展評議員に挙げられ、第7回日展出品作「菁」で文部大臣賞を受賞した。同41年、京都工芸美術家訪中視察団団長として中国を訪れる。翌42年、前年の第9回日展出品作「暢」で日本芸術院賞を受けた。その後も日展、現代工芸展、日本陶芸展などで制作発表を行い、同54年日展参事となる。京都府美術工芸功労者、京都市文化功労者表彰を受けたのをはじめ、同56年紺綬褒章を受章する。

大須賀喬

没年月日:1987/07/14

日展参事の彫金家大須賀喬は、7月14日午前0時30分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年85。明治34(1901)年8月24日香川県高松市に生まれる。大正8年香川県立高松工芸学校金工科を卒業後、東京美術学校金工科に入学し、14年卒業する。昭和2年北原千鹿を中心に、信田洋、田村泰二、村越道守、山脇洋二らと工人社を創立、同人となる。昭和4年第10回帝展に「壁面花挿」が初入選し、8年第14回帝展で「彫金花瓶」が特選を受賞する。11年改組帝展に「仙人掌香盆」を出品、推奨となり、新文展にも、17年第5回「象嵌文壷」、18年第6回「蝶文香盆」(文部省買上)などを出品した。17年以降、新文展、戦後は日展でたびたび審査員をつとめ、日展には29年第10回「蝶文手筥」、33年第1回新日展「金彩透彫飾皿」、42年同第10回「鉄布目象嵌大皿」、53年第10回改組日展「金彩虫の壷」、55年同第12回「双蝶文色紙筥」、58年第15回「四神文鉄壷」、60年第17回「昆蟲文額」、61年第18回「昆蟲文飾皿」などを出品する。33年の日展出品作により、翌34年日本芸術院賞を受賞、33年日展評議員、44年同理事、55年参事となった、この間、30年日本金工制作協会を創立、同人となり、33年同会を解散、日本金工作家協会を設立し、会長をつとめた(49年まで)。このほか、現代工芸美術家協会評議員などもつとめた。昆虫をあしらった作品を好んで制作し、62年第19回日展「甲蟲文小筥」が絶作となった。

磯矢陽

没年月日:1987/05/30

東京芸術大学名誉教授の漆芸家磯矢陽は、5月30日胃がんのため東京都青梅市の市立総合病院で死去した。享年83。号阿伎良。明治37(1904)年2月1日東京市小石川区に生まれる。大正15年東京美術学校漆工科を卒業。戦前は帝展、新文展、日本工芸作家協会展、日本漆文化展等に出品、また、昭和8年東京美術学校講師となり、のち助教授として教鞭に立った。戦後は生活工芸集団に所属し同展に出品、また、日本デザイナークラフトマン協会、三艸会、日本漆工協会などに所属する。昭和46年東京芸術大学教授を停年退官し名誉教授となる。退官後は、生活に根ざした漆工芸を唱え、朱文筵工房を主宰した。

皆川月華

没年月日:1987/05/11

日本現代染織造形協会会長、日展参事の染色家皆川月華は、5月11日午前1時、脳血栓のため京都市左京区の自宅で死去した。享年94。明治25(1892)年6月4日京都市に生まれ、本名秀一。明治44年安田翠仙に友禅の染色図案を学ぶ。また大正6年都路華香に日本画を学び、関西美術院で洋画を学んだ。昭和2年美術工芸部が新設された第8回帝展に「富貴霊獣文」が初入選、7年第13回帝展で「山海図」が特選を受賞する。以後、天然染料や古代染色の研究に取り組む一方、友禅に絵画的手法をとり入れた「染彩」の技法を確立、染色工芸界のパイオニアとして活躍する。新文展、戦後日展に出品し、35年第3回新日展に出品した「涛」により、翌36年日本芸術院賞を受賞した。また37年より現代工芸美術展、光風会展などにも出品する。この間、京都府嘱託の海外美術工芸調査のため、31年アメリカ各地を巡遊している。46年以後、日展参与、参事などを歴任し、59年には日本現代染織造形協会会長に就任。このほか日本現代工芸美術家協会、光風会の顧問、日本きもの染織工芸会理事長などもつとめた。47年京都市文化功労者、48年京都府美術工芸功労者、58年京都府文化特別功労者となる。また祇園祭の山鉾の銅掛や前掛、後掛などを長年制作し、菊水鉾、月鉾などのほか数多くの山鉾を飾る品々を制作した。54年米寿記念「皆川月華・新彩染彩展」、57年卒寿記念染彩「皆川月華展」、60年「染彩七十年・皆川月華展」を開催。また作品集に『染彩皆川月華作品集』(光琳社)、『皆川月華染彩天井画集』『染芸皆川月華』(京都書院)などがある。

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