本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





八木敏

没年月日:1987/05/05

京都市立芸術大学教授で、高木敏子の名で染織作家として知られた八木敏は、5月5日肺がんのため京都市上京区の吉岡病院で死去した。享年63。わが国前衛陶芸の推進者として著名な故八木一夫の夫人であり、染織作家として活躍した八木敏は、大正13年1月21日京都市に生まれた。はやくから父に織技法を学ぶとともに、洋画家太田喜二郎、刺繍作家岸本景春にもついた。昭和15年紀元二千六百年奉祝美術展に「秋綴織壁掛」が初入選、その後文展に出品した。戦後の同27年、八木一夫と結婚、また同年から京都市立美術学校(のち京都市立芸術大学)で教えた。同33年改組第1回日展に意欲的な立体作品「綴織室内装飾」を出品し注目された。同50年には日展を離れ、国際展や個展で制作発表を行った。作品は他に「貌」(同51年)などがある。

森野嘉光

没年月日:1987/05/02

陶芸家で日展参事の森野嘉光は、5月2日老衰のため京都市上京区の京都府立医科大学付属病院で死去した。享年88。明治32(1899)年4月15日、京都市東山区入に生まれる。本名嘉一郎。大正10年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業、同年の第3回帝展に卒業制作「比叡の山麓」が初入選する。同15年第7回帝展にも日本画で入選したが、この間、李朝陶磁にひかれ、清水焼の陶工であった父峰楽につき青磁、辰砂の研究を始め作陶に転じた。昭和2年第8回帝展に工芸部が新設され、「青流草花文花瓶」を出品し、入選する。同4年東京、日本橋・三越で個展を開催、この頃から塩釉の美しさに注目し独自の研究を始め、また、板谷波山を知った。同16年第4回新文展に「塩釉枇杷図花瓶」で特選を受賞した。戦後は、同24年清水六兵衛、河合栄之助らと京都陶芸家クラブを結成、日展へ出品し、同27年の第8回展以来しばしば審査員をつとめた。同33年社団法人日展発足にともない評議員となる。翌34年頃から緑釉窯変の研究に意欲的にとりくみ、同37年には現代工芸美術家協会設立に参加し、第1回現代工芸美術展に「緑釉窯変耳付花瓶」を発表した。翌38年、前年度日展出品作「塩釉三足花瓶」で日本芸術院賞を受賞する。同46年日展理事となり、現代工芸美術家協会参与となったが、美術家協会は同54年退会した。この間、同42年に京都市文化功労者、翌年京都府美術工芸功労者にあげられた。同55年、日本新工芸家連盟代表委員、日展参事となる。作品集に『森野嘉光作陶集』(同60年、求龍堂)他がある。

田村耕一

没年月日:1987/01/03

東京芸術大学名誉教授、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の陶芸家田村耕一は、1月3日胆のうがんのため栃木県の栃木県南総合病院で死去した。享年68。陶器に鉄絵で文様を描く分野からは初の人間国宝に認定された田村は、大正7年6月21日栃木県佐野市で生まれた。昭和16年東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の同20年京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。同23年栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、同25年には浜田庄司の勧めで栃木県窯業指導所技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。同31年と33年に現代日本陶芸展で朝日賞を受賞、同32年には日本陶磁協会賞を、さらに同35年と翌年には日本伝統工芸展で奨励賞を連続受賞し、同37年日本工芸会正会員となった。この間、陶器に酸化鉄を付けて文様表現する鉄絵の技法を開発し、銅彩で色彩を加えた創造性に富む作風を展開した。また、同42年トルコ・イスタンブール国際展で金賞を受賞するなど国際的な評価も得、同59年にはミュンヘンで個展を開催した。同42年東京芸術大学助教授、同51年教授に就任し母校での後進の指導にもあたり、同60年停年退官し同校名誉教授となった。同61年国指定重要無形文化財(鉄絵)保持者に認定される。日本工芸会副理事長、佐野市名誉市民でもあった。

吉田光甫

没年月日:1986/12/29

日本工芸会正会員の染色作家(手描友禅)吉田光甫は、12月29日心筋こうそくのため滋賀県志賀町の自宅で死去した。享年70。本名弘。大正5年7月23日京都市に生まれる。昭和5年関谷雨溪の門に入り友禅を学び、同11年独立した。戦後の同39年、日本伝統工芸展に初入選し、以後同展に出品、同43年日本工芸会正会員となった。同46年には、第8回日本工芸会染織展で優秀賞を受賞する。

松田権六

没年月日:1986/06/15

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化勲章受章者、東京芸術大学名誉教授の漆芸家松田権六は、6月15日心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年90。“うるしの鬼”とも称された漆芸の第一人者松田権六は、明治29(1896)年4月20日石川県金沢市に生まれ、既に7歳の時から仏壇職人の兄孝作について蒔絵漆芸を習い始めた。大正3年石川県立工業学校(漆工科描金部)を卒業し上京、同校教師藤岡金吾の紹介で六角紫水を訪ね、同年東京美術学校漆工科に入学、秋から紫水宅に美校卒業の年まで寄宿した。同8年美校を卒業し、志願兵として1年間入隊する。翌年除隊後、東洋文庫で朝鮮楽浪出土の漆芸品の修理に携わった。同14年、紫水と大村西崖の勧めで並木製作所(パイロット万年筆の前身)に入社し、万年筆やパイプなどに蒔絵を施し世界に広めた。同15年、高村豊周、山崎覚太郎らと工芸グループ无型を結成、また、日本工芸美術会結成に参加した。昭和2年、並木製作所を退き東京美術学校助教授に就任、この頃、美術校長正木直彦の紹介で益田孝(鈍翁)を知る。同5年第11回帝展に「多宝塔」を無鑑査出品、同8年には欧州各国へ出張しイギリスではダンヒル商会にパイプの漆加工を指導した。同11年日本漆芸院を結成、また、板谷波山、六角紫水らと皐月会を結成する。一方、同6年帝国議会議事堂御便殿漆工事に携ったのをはじめ、同14年には法隆寺夢殿内に新調された救世観音の厨子の漆塗装監督をつとめたりした。同18年東京美術学校教授。同20年戦災に遇い自宅を全焼する。戦後は第2回日展から審査員をつとめ、第11回展まで出品したが、日展におけるいわゆる創作工芸になじまずその後日展から離れた。この間、同22年日本芸術院会員となる。同30年重要無形文化財(蒔絵)保持者に認定され、、社団法人日本工芸会創立に際し理事に就任。以後主に日本伝統工芸展に制作発表を行い、同37年日本工芸会理事長に就任した。翌38年東京芸術大学を停年退官し、名誉教授となり、同年文化功労者に選ばれた。同39年『うるしの話』(岩波新書)を刊行、同書で翌年第19回毎日出版文化賞を受賞する。一方、同25年日光二社一寺文化財保存委員会委員となったのをはじめ、国宝中尊寺金堂や正倉院等の保存修理などを指導した。同49年日本漆工会結成に際し顧問に就任、同51年には文化勲章を受章する。日本と中国の古典技法研究に根ざしながら、漆工芸技術の近代化につとめ豊かで格調高い作品を数多く発表した。代表作に「鶴蒔絵硯箱」(昭和25年、第6回日展)、「有職文蒔絵螺鈿飾箱」(同35年)などがある。同53年東京国立近代美術館で「松田権六展」が開催される。金沢市、輪島市名誉市民でもあった。没後、6月19日東京都文京区本駒込3-19-17の吉祥寺において、日本工芸会葬(葬儀委員長細川護貞)で葬儀がとり行われた。

河本五郎

没年月日:1986/03/23

日展評議員の陶芸家河本五郎は、3月23日午前7時35分、心不全のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年67。大正8(1919)年3月15日愛知県瀬戸市に製陶業を営む柴田重五郎の二男として生まれる。昭和11年愛知県立窯業学校を卒業し、国立陶磁器試験所意匠部伝習生となった。昭和25年染付陶芸家河本礫亭の家を継ぎ河本姓を襲う。また加藤嶺男らと陶芸グループ「灼人」を結成した。28年第9回日展に「草紋花器」が初入選し、同年の朝日現代陶芸展で「灰釉花器」が最高賞を受賞。この頃より磁器から陶器制作へと移る。続いて、33年ブリュッセル万国博覧会でグランプリ、34年カリフォルニア国際博覧会でデザイン賞金賞、35年朝日日本現代陶芸展で最高賞・日本陶磁協会賞、37年第5回新日展で「黒い鳥の器」が特選・北斗賞、40年西ドイツ国際手工芸展特別展で「灰釉壷、三点ユニット」が金賞を受賞するなど、国際的に活躍した。瀬戸の伝統に現代的造形と感性を盛り込み、瀬戸の現代陶芸の代表的作家として活動した。

大樋長左衛門

没年月日:1986/01/18

大樋焼9代目窯元で日本工芸会会員の大樋長左衛門は、1月18日午前3時44分、心不全のため石川県河北郡の金沢医科大学付属病院で死去した。享年84。明治34年3月20日石川県金沢市に、大樋焼窯元の家に生まれる。雅号芳土奄、陶土斎。昭和2年父長左衛門(宗春)より業を継ぎ、9代目長左衛門を襲名する。中国、朝鮮半島の窯跡を訪ねて古陶を研究し、釉薬の改良などにつとめる。日本伝統工芸展に出品し、日本工芸会会員として活躍、抹茶碗の名人として知られた。長男の大樋年朗も日展理事の陶芸家。

加藤唐九郎

没年月日:1985/12/24

現代陶芸の第一人者で数々の話題を残した加藤唐九郎は、12月24日午前10時5分、心筋梗塞のため名古屋市の自宅で死去した。享年87。10月末より心臓病のため名古屋大学医学部附属病院に入院、退院後自宅で静養していた。明治30(1897)年7月19日(戸籍では31年1月17日)愛知県東春日井郡の半農半陶の窯屋に生まれ、初名加納庄九郎。幼い頃よりロクロや土で遊び、44年中根塾に入門、中根聞天に私淑する。大正3年父の窯を譲り受け、製陶業を開始した。また20歳の時加藤きぬと結婚し、加藤唐九郎と名を改める。当時陶業界は第一次世界大戦後の好景気で大量生産時代に入ったため、経営に失敗、一時実業家や文学を志したこともあったが、一方で瀬戸や美濃地方の古窯を発掘調査。志野、織部、黄瀬戸などの桃山古陶に出会い、自らもその復元研究に努める。昭和4年瀬戸市祖母懐町に窯を築き本格的に志野、織部に挑戦。また同年瀬戸古窯調査保存会を設立し理事長に就任する一方、美濃古窯の窯下窯で「文祿二年銘」の黄瀬戸陶片を発見する。5年志野茶碗「氷柱」で注目され、6年第12回帝展に「魚文花瓶」が初入選。8年桃山期美濃陶芸に対する新見解の原点となった著書『黄瀬戸』(宝雲舎)の中で、いわゆる瀬戸焼が瀬戸より美濃で古く焼かれたことを主張、瀬戸市民の反発を買い“焚書騒動”に発展する。これを機に瀬戸を離れ、10年小幡翠松園に窯を移した。以後、安土桃山期の古窯発掘を通じて織部焼が真の日本焼であると考え、その復活に努力する。17年頃初の個展「志野・織部新作展」を開催し、18年には西加茂郡猿投村(現豊田市猿投町)に越戸窯(古志戸窯)を再興。戦後23年芸術陶磁器認定委員会、25年日本陶磁器協会を設立する。26年パリ・チェルヌスキ博物館で開催された日本陶芸展に「織部向付」6点を出品し、これを機縁にピカソと作品を交換、話題となった。27年織部の技法で第1回無形文化財記録保持者に選定される。31年文化芸術使節団一員としてアジア・ヨーロッパを歴訪、33年ソ連国立東洋博物館で日本工芸美術展を開催するなど、海外文化交流にも尽力した。しかし35年、鎌倉時代の古陶として重要文化財に指定されていた「瀬戸飴釉永仁銘瓶子」が偽作ではないかとの疑問が瀬戸の古陶器研究家などから出され、自作の模倣作であることを表明、重文指定が取り消された「永仁の壷」事件が起こる。これを機に日本陶磁協会、日本工芸会理事など一切の公職から離れ、以後制作に専念する。39年「一無斎加藤唐九郎個展」(九栄百貨店)、「東京オリンピック記念陶芸展」(伊勢丹)、59年「志野・黄瀬戸・織部-桃山と加茂唐九郎展」を開催し、40年毎日芸術賞を受賞。志野、織部のほか、黄瀬戸、高麗、唐津、伊賀、信楽と幅広いジャンルに精通し、豪放な作風で現代日本の代表的陶芸家として活躍した。一ム歳、陶玄、野陶などの号を用い、代表作に前記「志野茶碗・銘氷柱」(昭和5年)のほか、「鼠志野茶碗・銘鬼ケ島」(44年)「志野茶碗・銘紫匂」(54年)「黄瀬戸輪花鉢」(58年)など。また昭和5年以降建築と陶芸の融合を目指した陶壁を制作し、主なものに加山又造との共同制作になる富士宮市大石寺大宮殿陶壁、愛知県労働者研究センター陶壁「野竜共に吠く」、愛知県公館玄関「八ツ橋」などがある。陶磁研究者としても造詣が深く、16年『陶磁大辞典』(全6巻、宝雲舎)をはじめ、『やきもの随筆』、54年『紫匂ひ』(立原正秋と共著)、56年『私の履歴書』等の著書、36年『加藤唐九郎作品集』、52年『陶藝唐九郎』等の作品集、47年『原色陶器大辞典』編纂などがある。その作品は、54年に落成した翠松園陶芸記念館に多く所蔵される。

各務鑛三

没年月日:1985/12/03

硝子工芸家で日展参与の各務鑛三は、12月3日肺炎のため神奈川県藤沢市の藤沢脳神経外科病院で死去した。享年89。ガラス工芸を工芸美術の一分野へ高めるのに先駆的役割を果した各務は、明治29(1896)年3月3日岐阜県土岐郡に生まれた。愛知県立陶器学校から東京高等工業学校図案科選科に進み大正5年に卒業、その後5年間同校窯業科に勤務した。同9年満鉄窯業試験所に入社し窯業研究に従事、昭和2年には満鉄からドイツ留学を命じられ国立シュツットガルト美術工芸学校へ入り、校長のアイフ教授に師事してグラビール、カットなどガラス彫刻を1年半の間学んだ。同4年に帰国。翌5年工房を新設し独立、同7年13回帝展に初入選し、同9年には東京市蒲田区西六郷1-7に各務クリスタル製作所を設立、同年の15回帝展では特選を受けた。東京府工芸品展、商工省主催輸出工芸展等の審査員をつとめた他、同13年、16年の新文展でも審査員となった。岩田藤七の色ガラス、各務のクリスタルガラスで、岩田と共に硝子工芸の先駆的役割を果し、硝子工芸を工芸美術の今野にまで高めた。戦後は日展に出品、審査員をつとめ日展評議員、日展参与を歴任した。同28年芸術選奨文部大臣賞を受賞、同33年のブリュッセル万国博覧会ではグランプリを受けた。同35年日本芸術院賞を受賞する。

高田義男

没年月日:1985/11/10

装束製作家、有職装束研究家の高田義男は、11月10日午前2時45分、心不全のため、東京都新宿区の駒ケ嶺病院で死去した。享年88。明治30(1897)年6月2日、東京市麹町区で生まれた。父は茂、母はテル。代々京都で禁中、公家、神社の装束の調製に当ってきた家で、父の茂は22代、明治維新東京遷都で東京に移り住むことになった。23代の義男は、明治41年、11歳の小学生ながら松岡映丘の門下生となって大和絵を学びつつ、明治44年に東京市立番町小学校を、大正6年に大倉商業学校を卒業した。家業に専念、先代に引続き宮中の装束の製作(山科流)に従事、昭和元年(1926)の大正天皇大葬、同3年の天皇即位の装束、同4年の伊勢神宮神宝装束などの調進に当ったほか、帝室博物館の委嘱によって「正倉院染織品」「鶴岡八幡宮」「熊野速玉大社」「熱田神宮」などの神宝、神服類の復元模造を行い、戦後は「歴世服装美術研究会」「日本甲冑武具研究会」などを興して、服飾風俗の研究指導を行うなど、日本の染織・服飾界に盡した。略年譜大正8年 株式会社高田装束店設立代表取締役就任 その頃、上代裂の調査・研究にも傾注、復元模造を試みて学ぶ。上代の綾・錦・更に文羅の復元模造にも昭和初年には成功している。大正15・昭和元年(1926年)昭和2年 大正天皇大葬御用装束調進昭和3年 天皇即位大礼装束調進、黄櫨染復活、紅染復活。昭和4年 伊勢神宮御神宝大礼装束調進。昭和5年より帝室博物館の委嘱により正倉院宝物染織品調査と復元模造。秩父、高松、三笠各親王成年式装束調進。同各宮殿下婚儀儀服調進。皇族宮殿下御着袴、成年式装束調進。昭和7年より鶴ケ岡八幡宮御神宝装束をはじめとする国宝・重要文化財染織品調査と復元模造熊野速玉大社御神宝装束熱田神宮御神宝装束御嶽神社伝来大鎧大塔宮護良親王鎧直垂毛利家伝来鎧直垂宇良神社伝来縫箔小袖手向山神社新靺鞨袍天野社舞樂装束高台寺豊公所用綴織陣羽織調査復元等昭和33年 シルク博物館(横浜市中区山下町1シルクセンタービル2階)展示の中世・近世初期等服装を復元製作。昭和47年 紫綬褒章受章主要著書昭和2年 和染鑑 編著昭和10年 大楠公六百年祭写眞帖 関保之助と共編昭和18年 かさね色目 編著昭和39年 日本の服装上 鈴木敬三と共著 吉川弘文館発行昭和44年 服飾史図絵 共編著 駸々堂発行長男の高田敏男は株式会社高田の後継者で社長。現在は24代。弟の高田倭男が研究面の後継者で研究所長。

熊倉順吉

没年月日:1985/11/10

前衛陶芸家集団走泥社の同人熊倉順吉は、11月10日午前0時半、心不全のため大津市の堅田病院で死去した。享年65。大正9年8月8日京都市東山区に生まれ、昭和13年京都市立第一工業学校建築科を卒業。次いで17年京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)図案科を卒業する。兵役の後、20年復員。翌年京都松斉陶苑に入門し、福田力三郎に師事。また同苑で制作中だった富本憲吉にも師事する。23年富本を中心とする新匠工芸会展に出品し、24年第5回日展に「陶器色絵薊紋壷」が初入選、翌年も入選するが、以後日展には出品していない。26年東京銀座のフォルム画廊で初の個展を開催、同年新匠会会員となる。27年第1回現代陶芸展、29年同第3回展で受賞し、30年には第1回日本陶磁協会賞を受賞。同30年新匠会を退会した後、翌年モダンアート協会会員(33年退会)となり、更に32年八木一夫らの前衛的な陶芸家集団走泥社に参加。同人となり、以後同展に出品する。33年ベルギー、ブリュッセル万国博覧会でグランプリ、37年チェコスロバキア、プラハ国際陶芸展で「凝固する炎」が銀賞を受賞、43年日本での万国博覧会で迎賓館ラウンジの陶壁画レリーフを制作する。東京・壱番館画廊(41、43、46年)、伊勢丹(47、52、55、56年)ほか、東京、京都などでたびたび個展を開催。この間、34年滋賀県立信楽窯業試験場嘱託となり信楽陶のデザイン指導にあたり(55年まで)、45年より京都工芸繊維大学工芸学部意匠工芸学科非常勤講師、47年より多治見市立陶磁器意匠研究所特別講師、59年より京都市立芸術大学美術学部非常勤講師をつとめた。人間のエロスを表現主義的な手法で追求する陶影をよくし、主な作品に「暦日」(42年)「風人」(42年)「座」(47年)「みつからぬ愛」「Jazz」(51年)「誘惑者」「夏の雲」「楽想」などがある。

中村勇二郎

没年月日:1985/10/20

伊勢型紙彫刻師の人間国宝中村勇二郎は、10月20日午後0時10分老衰のため、三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年83。明治35(1902)年9月20日三重県に生まれる。父兼松は、型紙業を営む中村家の3代目、小学校6年頃より父の手伝いを始め、高等科卒業後、大正4年頃から他の弟子とともに父に伊勢型紙の道具彫り技術を本格的に学ぶ。伊勢型紙の起源は明確でないが、中世末には既に国内の紺屋でかなりの型紙が使用され、江戸期には型売株仲間が紀州藩の庇護を受けて隆盛した。維新後、暫時不振の状態が続いたが、紙業組合や工業徒弟学校の創立、糸入れにかわる紗張り法などの技法が創案され、再び活況を呈するようになる。型紙の文様には小紋と中形があり、また彫りの技法には突彫、錐彫、道具彫、縞彫などがある、道具彫は刃物自体の形がひとつの小さな文様単位となっているもので、小紋用に最も用いられる彫法である。昭和27年伊勢型紙は、文化財保護委員会より「江戸小紋伊勢型紙」技術保存の指定を受け、30年中村勇二郎は他の5名とともに、重要無形文化財伊勢型紙技術保持者として認定された。この間、同28年伊勢型紙彫刻組合組合長となっている。38年伊勢型紙伝承者養成事業の道具彫り講師となり、39年より60年まで人間国宝新作展に出品した。58年三重県の県民功労者として表彰を受け、59年大阪市北浜の三越アートギャラリーで個展を開催。精緻で優美な型紙を制作し、主な作品に「古代菊の図」(55年、)「瑞雲祥鶴の図」「四君子の図」「壮龍の図」などがある。

中村翠恒

没年月日:1985/09/08

日展参与で九谷焼の陶芸家中村翠恒は、9月8日午後6時20分、老衰のため金沢市の石川県立中央病院で死去した。享年82。明治36(1903)年4月3日石川県加賀市に生まれ、本名恒。大正13年石川県立工業学校を卒業。板谷波山、河村蜻山に師事する。昭和3年第9回帝展に、「彩釉彫牡丹文壷」が初入選し、以後帝展、新文展に入選。戦前は多く「秋塘」(3代)の名で出品している。戦後22年第3回日展で「魚譜手附花器」が特選となり、28年第9回日展「海濱の譜花瓶」が特選・朝倉賞を受賞する。翌29年無鑑査、30年依嘱出品し、32年審査員をつとめたのち、33年日展会員となる。その後もたびたび審査員をつとめ、45年第2回改組日展で「融心」が文部大臣賞を受賞、43年日展評議員、55年参与となった。魚や鳥を多くモチーフに用い、代表作に上記のほか48年第5回日展「光花」などがある。帝展・新文展・日展出品歴昭和3年第9回帝展「彩釉彫牡丹文壷」、6年同第12回「筒形八角花瓶」、8年第14回「染付六角三生果文花瓶」、14年第3回新文展「双魚文磁花瓶」、15年紀元2600年奉祝展「菱形豊實文花瓶」、16年第4回新文展「蝶文様花瓶」、18年第6回「魚紋花瓶」、21年第2回日展「成熟水注」、22年同第3回「魚譜手附花器」(特選)、24年第5回「磁器鷺三態釣花瓶」、25年第6回「陶器おしどり花器」、26年第7回「不老文壷」、27年第8回「水蓮壷」、28年第9回「海濱の譜花瓶」(特選・朝倉賞)、29年第10回「陶磁罌粟花瓶」(無鑑査)、30年第11回「梟花瓶」(依嘱)、31年第12回「群鶏文花瓶」、32年第13回「鶏冠飾壷」(審査員)、33年第1回新日展「躍動文壷」(会員)、34年第2回「ヒルと夜(壷)」、35年第3回「金彩流泑花器」、36年第4回「潮変壷」、37年第5回花器「研粧」、38年第6回「花影壷」(審査員)、39年第7回「化石」、40年第8回「条刻」、41年第9回「回想花器」、42年第10回「和」(審査員)、43年第11回「伸」(評議員)、44年第1回改組日展「融和壷」、45年第2回「融心」(文部大臣賞)、46年第3回「融韻」、47年第4回「韻律」、48年第5回「光花」、49年第6回「連」、50年第7回「融緑壷」、51年第8回「彩容」、52年第9回「色絵双魚壷」、53年第10回「飛翔壷」、54年第11回「不老長寿」、55年第12回「鹿文壷」(参与)、56年第13回「不老長寿」、57年第14回「『叢中の双鹿』壷」、58年第15回「魚文壷」、59年第16回「湖畔」

荒川豊蔵

没年月日:1985/08/11

志野焼の人間国宝で文化勲章受章者荒川豊蔵は、8月11日午後2時10分、急性肺炎のため岐阜県多治見市の安藤病院で死去した。享年91。明治27(1894)年3月17日岐阜県土岐郡に生まれる。小学校卒業後、多治見や神戸の貿易商店に勤めるが、向学の志強く、42年京都市丸太町三本木の塾に入り、諸学を学ぶ。大正2年神戸で陶磁器の販売や行商に従事、4年名古屋の愛岐商会に入社する。この頃上絵付の仕事から宮永東山を知り、12年には京都伏見の宮永東山窯の工場長となる。この頃より陶芸の道に入り、13年東山窯に寄宿した北大路魯山人を知る。また毎月開催された古陶器研究会に出席し、15年叔父清右衛門の案内で岐阜県可児郡久々利村大平の古窯跡を発掘、帰途青織部の陶片を拾う。昭和2年魯山人が北鎌倉に築窯していた星ケ岡窯に招かれ、同地に移住。翌3年には魯山人らと朝鮮半島南部の古窯跡を調査する。5年志野・織部が瀬戸で焼かれたという従来の定説に疑問を抱き、魯山人と美濃の大平、大萱の古窯跡を調査、大萱の牟田洞窯跡で志野筍絵茶碗と同じ模様の陶片や鼠志野の鉢の破片を発掘する。続いて大萱、大平、久尻一帯の古窯跡を発掘調査し、志野や織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの桃山茶陶が美濃で焼かれたことを確信。陶芸史上でも重要な発見となるとともに、以後古陶の復元に情然を傾ける。昭和7年大萱の牟田洞窯近くに陶房を作り始め、翌年魯山人の星ケ岡窯を正式にやめて大萱に桃山時代そのままの古式の窯を築く。16年大阪梅田の阪急百貨店で初の個展「荒川豊蔵作陶並びに絵画展覧会」を開催。戦後21年多治見市虎溪山裏に薪焚き連房式登り窯の水月窯を開き、また同年設立された日本農村工芸振興会の陶磁器部門指導員、翌22年同部門を受けて新発足した日本陶磁振興会の指導員となる。また文化財保護委員会が27年志野工芸技術、28年瀬戸黒をそれぞれ無形文化財に認定、30年新たに設定された重要無形文化財技術指定制度の第一次指定により、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒の技術保持者として人間国宝に指定される。一方、29年第1回日本伝統工芸展に「紅志野茶碗」「瀬戸黒茶碗」「志野菊香合」を出品以後同展に出品を続け、30年日本工芸会の結成に参加、加藤唐九郎と共に同会の長老として活躍する。36年皇居吹上御苑用に「志野タイル」2000余板を焼き、38年チェコ、プラハで開催された第3回国際現代陶芸展で「志野花入」が金賞を受賞。個展も数多く、39年「大萱築窯三十年記念展」(東京日本橋三越)、55年美濃大萱古窯発見50年記念「緑に随う・荒川豊蔵展」(名古屋丸栄)等を開催している。47年頃より「斗出庵」の号を多く用いた。温厚実直な人柄そのままに、重厚で温雅な作風をよくし、淡雪のような白さは、「志野の荒川」の名をとった。代表作に、志野茶碗「随緑」(36年)、同「耶登能烏梅」(51年)、瀬戸黒金彩木葉文茶碗(40年)などがある。46年文化勲章を受章し、同年文化功労者、47年多治見市名誉市民となった。また著書に『日本のやきもの・美濃』(小川富士夫と共著。38年)、長年の研究をまとめた『志野』(42年)、『緑に随う』(52年)、作品集に『荒川豊蔵自選作品集』(51年)などがある。59年自宅近くに荒川豊蔵資料館を開き、古陶器片や自作品2300点を収蔵、一般公開した。

熊谷好博子

没年月日:1985/05/24

染色工芸家、日本工芸会正会員の熊谷好博子は、5月24日午后5時15分、肝不全のため、東京豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年67。大正6(1917)年11月11日生まれ。若い頃は日本画を川端龍子について学び、好博子は龍子から受けた雅号。後、江戸友禅に日本画の素養を向けて、独自の力量・作風を成した。昭和52年、大腸がんの手術をしたのを契機に、作品をパネルに仕立てることを行い、昭和56年「友禅による障壁画展」を開いた。昭和56年に紺綬褒章、昭和57年に紫綬褒章、昭和60年に勲四等瑞宝章を受章した。作品のうち、美術館蔵品となっているもの。「雪野」、「韻」 東京国立近代美術館「山」、「砂丘」 京都国立近代美術館「神田祭図」、「隅立角通(本藍紋文)」、「江戸解花筏文」 東京都「山湖」、「変わり亀甲文」 ボストン美術館「魚鱗文」、「市松しぼり文」 ハーバード大学付属フォッグ美術館

近藤悠三

没年月日:1985/02/25

染付技法の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、京都市立芸術大学名誉教授の陶芸家近藤悠三は、2月25日胃がんのため京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去した。享年83。染付技法を深めることに専心した現代陶芸界の巨匠近藤悠三は、明治35(1902)年2月8日京都市に近藤正平、千鶴の三男として生まれた。本名雄三。家は代々清水寺の寺侍で祖父正慎は勤皇の志士であった。大正3年京都市立陶磁試験場付属ロクロ科に入所し、同6年に卒業、同試験場助手となり、この時期技手をつとめていた河井寛次郎、浜田庄司を知り、浜田に窯業化学等について学んだ。同10年富本憲吉が帰国し大和安堵村に築窯したのを機に試験場を辞し富本の助手となって師事し五年間大和に過す。同13年京都へ戻り関西美術院洋画研究所へ通いデッサン、洋画を学ぶとともに、京都清水新道石段下の自宅で作陶を始める。昭和3年9回帝展に「呉須薊文かきとり花瓶」が初入選、以後15回展まで連続入選し、新文展へも出品、同14年3回文展に「柘榴土焼花瓶」で特選を受けた。同18年には奈良で赤膚焼を研究制作するが、戦後は呉須による染付に専念し、この伝統的技法の研究を深めながら、民芸調の素朴な力強さを加え、ロクロ成形とともに豪快雄暉で伸びやかな独自の染付けの世界を拓いていった。日展には第5、6回展に出品し6回展では審査員もつとめたが、その後は出品せず、同26年富本憲吉の主宰する新匠会会員となり、同30年社団法人日本工芸会発足に際しては富本憲吉、稲垣稔次郎とともに入会、以後日本伝統工芸展鑑査員をつとめ、常任理事、陶芸部部長、近畿支部幹事長を歴任する。また、同28年京都市立美術大学の陶磁器科助教授となり、後進を指導し、同33年教授に就任した。同44年には京都市立美術大学が京都市立芸術大学と拡大改称され、同年初代学長に就任し、同46年までつとめ退官、同学名誉教授の称号を受けた。この間、日本伝統工芸展に制作発表した他、同32年ミラノ・トリエンナーレ展に「染付花瓶」を出品し銀賞を受け、同38年にはアメリカで開催された現代世界陶芸展に日本から選抜された5名の中に入るなど世界的に名を知られるに至り、オークランド美術館、オックスフォード大学等に作品が収蔵された。一方、同38年には新匠会を退会する。同45年紫綬褒章を受章、同48年京都市文化功労者章受章、同52年には染付技法の重要無形文化財保持者に認定された。同57年、京都市名誉市民の称号を受ける。同58年、東京他で人間国宝「近藤悠三展」が開催され、同59年から60年にかけて京都、東京他で「現代陶芸の精華-近藤悠三とその一門展」が開催された。著書に『呉須三昧』(同47年)があるように、その制作態度は「呉須三昧、焼物三昧の人生」と評されていた。作品は他に、「岩染付壷」(同35年)、有田の岩尾対山窯で制作した直径126糎にも及ぶ「梅染付大皿」(同50年)などがある。また、没後遺作27点が京都市に寄贈された。

中里無庵

没年月日:1985/01/05

唐津焼の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の中里無庵(12代中里太郎右衛門)は、1月5日急性肺炎のため佐賀県唐津市の済生会唐津病院で死去した。享年89。明治から大正にかけて疲弊した唐津焼の中興の祖とも目された中里は、明治28(1895)年4月11日唐津市に、旧唐津藩御用窯の窯の伝統を持つ「御茶盌窯」窯元11代中里太郎右衛門(天祐)の次男として生まれた。幼名重雄。大正3年佐賀県立有田工業学校を卒業後、父天祐について学び、同13年父の死去を受けて昭和2年12代中里太郎右衛門を襲名する。同4年から佐賀・長崎両県下の古唐津窯跡発掘調査に着手し、唐津焼特有の「タタキの技法」を研究、古唐津焼の復興に努めるとともに、自らの作陶にも研究の成果を生かし、同6年「刷毛目鉢」を商工省主催18回工芸美術展に発表した。この間、大正11年に材木商無呂津忠七の養嗣子となっていたが、昭和27年には無呂津重雄から中里太郎右衛門に改名した。同30年文部省文化財保護委員会から唐津焼の無形文化財に選択される。翌31年3回日本伝統工芸展に初入選、翌年の4回展出品作「叩き壷」あたりから、独自の「タタキ技法」を軸にした作風を築いていった。以後、伝統工芸展に連続出品し、「叩き青唐津水指」(5回、文化財保護委員会買上)、「叩き黄唐津壷」(13回、文化庁買上)などを発表した。また、同40年には韓国各地を訪問し、同年、岸岳飯洞甕下窯を参考にし御茶盌窯の一隅に割竹式登窯を築窯した。同41年紫綬褒章を受章する。同44年京都紫野大徳寺本山で得度し、法名洞翁宗白、号無庵を受け、同年長男忠夫に13代中里太郎右衛門を襲名させた。同48年韓国ソウル市国立近代美術館で父子展を開催したのをはじめ、同54年には西ドイツ、スイス、オランダ巡回の「唐津展」に出品するなどしばしば海外でも作品を発表した。同51年国の重要無形文化財保持者として認定された。同55年、読売新聞社主催で「人間国宝中里無庵展」を開催、同59年には、東京大阪他で「御茶盌窯開窯二五〇年」を記念して父子展を開催する。

安部栄四郎

没年月日:1984/12/18

雁皮を用いた出雲民芸紙の創作者で人間国宝の安部栄四郎は、12月18日午前11時54分、クモ膜下出血のため島根県松江市の松江市立病院で死去した。享年82。明治35(1902)年1月14日島根県八束郡に製紙業家の二男として生まれる。9歳より手漉き和紙作りを手伝い始め、出雲国製紙伝習所で修業を積む。雁皮紙は雁皮の繊維を原料とし、その特質を生かした緊密でなめらかな紙質のもので、変色や虫害に強く永久保存などの記録用紙として適しており、和紙の王様とも言われる。昭和6年松江市を訪れた民芸運動の提唱者柳宗悦に出会い推賞されたことが契機となり、雁皮紙による出雲民芸紙の創作を始める。民芸運動を通してバーナード・リーチ、浜田庄司、河井寛次郎、棟方志功らとも親交を深めた。9年紙漉きとしては初めて東京の資生堂で個展を開催する。35年より3年間宮内庁の依頼により正倉院宝物紙を調査、同年島根県無形文化財の認定を受ける。42年日本民芸館賞を受賞、翌43年「雁皮紙製作技術保持者」として国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された。49年パリ、51年ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスで個展を開催し、和紙の文化を海外に紹介、また55年北京で行なわれた展覧会では「中国は紙漉きの先輩」と展示品348点すべてを中国側に寄贈した。58年10月自宅横に、70余年にわたり漉き上げた和紙のほか棟方志功の襖絵、河井寛次郎の陶器など約1500点を収蔵・展示する「安部栄四郎記念館」を開館、また紙漉きの技術を伝えるため60年秋の完成予定に向けて伝承所建設の計画も進行中だった。著書に『和紙三昧』『紙すき五十年』などがある。

楠部彌弌

没年月日:1984/12/18

陶芸界の重鎮として活躍した文化勲章受章者、日本芸術院会員の楠部彌弌は、12月18日午後7時、慢性ジン不全のため京都市中京区の大沢病院で死去した。享年87。明治30(1897)年9月10日京都市東山区に、楠部貿易陶器工場を経営する父千之助の四男として生まれる。本名彌一。父はかつて幸野楳嶺に日本画を学び僊山と号した。明治45年京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所、同期生に八木一艸がいた。大正4年卒業、家業を継がせたい父の意志に反し、東山の粟田山にアトリエを構え創作陶芸を始める。7年粟田口の古窯元跡の工房に移り本格的に陶芸を始めると共に河井寛次郎、黒田辰秋、川上拙以、池田遥邨、向井潤吉らと交流を深める。国画創作協会の活動にも刺激され、9年八木一艸、河村己多良(喜多郎)ら5人と「赤土」を結成、陶芸を生活工芸から芸術へ高めるべく運動を始める。第1回展を大阪で開催し4回まで続けるが、12年同会は自然消滅。13年パリ万博に「百仏飾壷」を出品し受賞、一方木喰の展覧会準備を通じて柳宗悦を知り、「劃華兎文小皿」(13年)「鉄絵牡丹花瓶」(14年)など民芸運動の影響を示す作品を作る。しかしまもなくこの運動からも離れ、昭和2年八木一艸らと新たに「耀々会」を結成、また同年工芸部が新設された第8回帝展に「葡萄文花瓶」が入選する。8年第14回帝展で「青華甜瓜文繍文菱花式龍耳花瓶」が特選を受賞しこの年彌一を彌弌と改名。翌年帝展無鑑査となり、この頃朝鮮の古陶磁や仁清などの研究に没頭する。12年パリ万博で「色絵飾壷」が受賞、この年の第1回新文展に後年楠部芸術を特色づける「彩埏」の技法を用いた「黄磁堆埏群鹿花瓶」を出品する。彩埏は釉薬を磁土に混ぜ何度も塗り重ねることで独特の深い色あいを生むものである。戦後一時日展改革要求が容れられず京都工芸作家団体連合展を組織(23年)、日展をボイコットしたことがあったが、26年第7回日展「白磁四方花瓶」が芸術選奨文部大臣賞を受賞した。28年京都の若手陶芸家達を中心に青陶会を結成し指導にあたると共に伊東陶山らと搏埴会を結成する。同年の第9回日展出品作「慶夏花瓶」により翌29年日本芸術院賞を受賞、37年日本芸術院会員となる。また中国古来の彩色法を研究しながら早蕨釉、蒼釉(碧玉釉)などの発色法を考案し、「早蕨釉花瓶」(37年第1回現代工芸美術家協会展)「萼花瓶」(44年第1回改組日展)などを発表する。27年日展参事となって以後33年評議員、37年理事、44年常務理事、48年顧問、また54年日本新工芸家連盟を結成した。44年京都市文化功労者、47年毎日芸術賞、文化功労者、50年京都市名誉市民、53年文化勲章を受章。晩年は彩埏に一層の洗練を加え、52年パリ装飾美術館で「日本の美・彩埏の至芸楠部彌弌展」が開催された。『楠部彌弌作品集』(43年中央公論美術出版)『楠部彌弌展』(46年毎日新聞社)『楠部彌弌展』(52年講談社)『楠部彌弌』(56年集英社)などがある。なお、詳しい年譜は「楠部彌弌遺作展」(京都市美術館、同61年)等を参照。

堀柳女

没年月日:1984/12/09

「柳女人形」で知られる人間国宝の人形作家堀柳女は、12月9日午前7時40分肺炎のため東京都目黒区の厚生中央病院で死去した。享年87。明治30(1897)年8月25日東京都港区に生まれ、本名山田松枝。幼くして父を失ない、後運送業を営む堀家の養女となる。養父の事業の失敗、淡路島での女学校入学後まもなくの養父の死、大阪での家業復興と波乱に富む少女時代を送る。22歳の頃より荒井紫雨に日本画を学び、次いで少女雑誌に絵を応募したことから竹久夢二を知り、書生としてそのアトリエに出入りする。ここで夢二を中心に集まるグループの芸術思潮に影響を受け、しんこ細工に想を発した人形作りを始めた。これを土台に本格的な技法を取り入れ、仲間10数人と結成した「どんたく社」の昭和5年第1回人形展(銀座資生堂)に「袖」「幌馬車」を出品、8年銀座三越で第1回個展を開く。翌9年鹿児島寿蔵、野口光彦らと甲戌会を結成し、11年工芸部門に初めて人形が加えられた改組第1回帝展に「文殻」が入選した。13年第6回甲戌会「宇治の川舟」「鳥追舟」や同年第2回文展「怒る濤和む波」などで人形作家としての評価を確立、12年より18年まで人形塾を経営する。戦後22年、エキゾチックな雰囲気を漂わせる「後宮」を発表、24年第5回日展「静思」が特選を受賞し、翌年日展初の女性審査員となる。更に27年第8回日展「彩雲」は北斗賞を受賞、30年衣裳人形の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、また29年以降日本伝統工芸展に出品、審査員をつとめた。この頃より作風は円熟期に入り、異国的情緒の「木花開耶姫」(28年第9回日展)「瀞」(32年)「古鏡」(38年第10回日本伝統工芸展)、大胆なフォルムを見せる「鉦鼓」(37年第9回日本伝統工芸展)「黄泉比良坂」(39年第6回全日本女流人形展)「太陽に遊ぶ」(55年傘寿記念作品展)、ほのぼのとした愛らしさの「竹取物語」(38年)「縁日」(42年第1回棟会展)「うつらうつら」(43年)などの作品を発表する。また蝸牛会、細螺会を主宰し、42年紫綬褒章、48年勲四等瑞宝章を受章、58年ナンシー米大統領夫人来日に際し迎賓館で創作人形作りを披露した。著書に『人形に心あり』『堀柳女人形』(44年講談社)がある。

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