本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





小林尚珉

没年月日:1994/12/27

日展会員の彫金、鍛金作家小林尚珉は12月27日午前6時20分肺炎のため京都府宇治市の病院で死去した。享年82。明治45(1912)年6月25日青森市に生まれる。本名国雄。昭和15年2600年奉祝展に初入選。以後、新文展第4回、第5回に入選。日展には第2回目から出品を続ける。同27年祇園祭の菊水鉾の再興に際し鉾の金具を制作。同29年第10回日展に「浴光鉄打出置物」を出品して北斗賞を受賞する。同38年青森市、弘前市で個展。同39年第7回日展に「創生」を出品して菊華賞受賞。同42年日本現代工芸美術展会員、翌43年日展会員となる。同52年青森市で「小林尚珉父子四人展」を開催。同54年日本新工芸家連盟が創立されるとその創立会員となったほか、平成元年京都創工展創立会員、同3年日工会創立会員となった。昭和60年京都府文化功労者に選ばれている。同54年青森市制施行80周年記念「アルミ打出し―白鳥」(青森市民美術館蔵)、平成2年滋賀県湖東町立老人福祉センターロビーに「双鶴―アルミニウム打ち出し壁画」など大規模な作品も制作した。

古田行三

没年月日:1994/12/22

国指定重要無形文化財「本美濃紙」の保持団体「本美濃紙保存会」会長をつとめた古田行三は12月22日午前6時55分脳こうそくのため岐車県美濃市蕨生1914-1の自宅で死去した。享年72。大正12(1923)年3月10日岐阜県美濃市蕨生1914-1に父恒二、母なつの長男として生まれる。昭和11(1936)年下牧高等小学校卒業。同年4月製紙試験場で古田健ーに実技研修を受け、同年5月より自宅で父母の指導のもとに紙漉きを学ぶ。同15年紙業界不況のなかで漉き手として自立するが、同18年徴兵され、同20年12月復員するまで家業を離れる。紙漉き業界は戦時下の原料統制、戦後の混乱のなかで低迷し、同30年代の高度成長期には後継者不足に悩んだ。こうしたことから、同35年那須楮を原料としている紙漉き業者が協議して生産協同組合を結成、同43年同組合を「本美濃紙保存会」と改称し、その初代会長となる。同会は翌44年文部省により重要無形文化財保持団体の認定を受ける。同50年代後半から文化財保存等の観点から美濃紙が再評価され、海外での紙漉きの実演、指導等が行われるようになり、一方、原料を海外に求める等、生産技術の革新も試みられるようになった。原料問屋が紙の市場を支配し、紙漉き人は問屋から楮を借りて生産するという旧体質を改善し、洋紙の大量生産によって衰退の一途を辿りつつあった美濃紙の紙漉ぎ技術を守り伝えることに尽力した。

関谷四郎

没年月日:1994/12/03

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家関谷四郎は12月3日午前3時10分、肺炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年87。明治40(1907)年2月11日、秋田市外旭川字家ノ前(現、秋田市保戸野新町)に生まれる。5才の時、父を失い幼時の大病によって足が不自由になったことから、座業を生業とするべく秋田市内の森金銀細工工店で秋田の伝統工芸、銀線細工を学ぶ。昭和2(1927)年、秋田県主宰の鍛金講習会のため来県していた河内宗明に出会い、同年弟子入りする。同6年より日本鍛金協会展に出品を重ねる。同13年独立して東京の本郷団子坂に工房を設立。同17年第5回新文展に「銀流し花瓶」で初入選。以後同展、日展に出品する。同37年より日本伝統工芸展に出品し、同38年伝統工芸新作展で奨励賞、同40年日本伝統工芸展で優秀賞、同年の伝統工芸新作展で優秀賞、教育委員会賞、同43年日本伝統工芸展で総裁賞を受賞。同44年以降日本伝統工芸展に招待出品を続け、たびたび審査員を努める。同48年新作工芸展20周年記念展で特別賞、同51年同展で稲垣賞受賞、同52年国指定重要無形文化財保持者に認定された。彫金による表面加工を行わず鍛金のみで豊かな質感をもたせる工夫として、異種の細い板金をろうで溶接する接着技法を創出しその織りなす洗練された、幾何学文様と、表面の質感を特色とする斬新な作風を示した。金工作家グループ東京関友会を同56年、秋田関友会を同60年に設立、後進の育成にも尽力した。同62年秋田魁新報社主催により傘寿記念展を開催。平成6年8月28日から10月2日まで秋田市立赤れんが郷土館で「米寿記念人間国宝関谷四郎展」を開催した。

原直樹

没年月日:1994/09/21

日展参与の鋳金工芸家原直樹は、9月21日嚥下性肺炎のため新潟県柏崎市大久保の自宅で死去した。享年87。明治39(1906)年10月26日新潟県刈羽郡大洲村大久保34番(現柏崎市大久保)に生まれ、高等小学校卒業の年の大正10年5月から香取秀真に師事、また川端画学校デッサン科に学び、昭和3年東京美術学校塑造科に入学、同8年卒業した。美術学校在学中の同5年帝展第四部(工芸)に初入選、同6―8年の聞は第三部(塑像)に「心」「凝視」「讃光」が連続入選し、同9年からは第四部に出品を続けた。同18年の新文展に「鋳銅木盤」で特選を受ける。戦後は日展に所属し、同32年日展会員に同44年新日展の評議員に挙げられた。同53年3月脳血栓に襲われ以後制作不可能となり、前年作の鋳銅花器「古谿愁」が最後の日展出品作となった。この問、新潟大学教育学部美術科の講師もつとめた。作品は他に、黄銅「狐」(昭和24年)、「蝋型錫飾箱」(同26年)などがある。長男正樹は東京芸術大学教授。

小野光敬

没年月日:1994/06/29

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀剣研磨師小野光敬は6月29日午前1時18分、肝不全のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年80。大正2(1913)年7月30日、岩手県盛岡市に生まれる。本名清之助(せいのすけ)。刀剣研磨の道に志し、昭和4(1929)年、研師加藤勇之助に入門。同13年には上京して本阿弥光遜(こうそん)に師事し、万剣制作に関する基礎的知識を得ると共に、相州伝を中心に各伝の鍛法をいかす正統な技法を学んだ上、本阿弥流の「家研ぎ」の技法を修得、同18年独立し、以後、専ら優品の研磨に従事した。戦後、同22年4月より、同42年まで東京国立博物館学芸部工芸課刀剣室に勤務。この問、同27年に正倉院蔵万三振の研磨、同年四天王寺蔵国宝「丙子椒林剣」「七星剣」の研磨、同32年より42年まで第一次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわる。同42年には国宝「沃懸地獅子文毛抜形太刀」の研磨を行い、翌43年より52年まで第二次正倉院蔵刀剣類研磨にたずさわった。この間同45年日本万研磨技術保存会副幹事長となり、同50年に重要無形文化財「刀剣研磨」の保持者に認定された。同57年日本刀研磨技術保存会幹事長に就任。上古刀をはじめ社寺仏閣所蔵の刀剣研磨を中心に活躍し、地鉄の研究をもとに自然の地肌や刀剣を研ぎ起す「差し込み研ぎ」技法を復活させることに貢献した。また、各種講習会により伝統的な技術を後進に伝綬することにもつとめ、万剣研磨技術の伝承、発展に尽力した。

瀬戸浩

没年月日:1994/05/11

読み:せとひろし  益子焼の陶芸家瀬戸浩は5月11日午前9時10分肺がんによる呼吸不全のため栃木県河内郡南河内町の病院で死去した。享年53。昭和16(1941)年2月26日徳島市に生まれ、幼少期を鳥取市で過ごす。昭和39年京都市立美術学校工芸科陶磁器専攻科を卒業。富本憲吉、近藤悠三、藤本能道、清水九兵衛に師事し、在学中の同38年日本伝統工芸展に「白い壷」で初入選。新匠展にも入選する。同40年栃木県益子に築窯。同46年日本陶芸展に「灰釉刷毛目鉢」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同47年アメリカインディアナ大学、南コロラド州立大学講師として招聴され、渡米。翌48年ニューヨーク、コロラド、インディアナ州立美術館で個展を開催する。同49年、東京の南青山グリーンギャラリーで個展「原色による試み」を開催。同51年には同ギャラリーで個展「建築空間の為に」を開催し、従来の陶芸にとどまらず、新局面への模索を続けた。同53年国際交流基金によりフィリピン、タイ、インドネシアへ派遣され、また同年オーストラリア「アートヴィクトリア’78」に招聘されるなど、国際的にも活躍。同58年北関東美術展に「ストライブの板皿」を出品して優秀賞受賞。同年第7回日本陶芸展に「黒紬銀条文板皿」を出品して外務大臣賞を受賞する。同60年朝日陶芸展に招待出品。同58、60、61年には三越本屈にて「ストライプ」と題して個展を開催している。同55年東北新幹線宇都宮駅陶壁画「栃の木讃歌」等、公共の場の壁画も制作した。

山本陶秀

没年月日:1994/04/22

備前焼き作家で轆轤の達人と称された国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の山本陶秀は、4月22日午後零時35分肺炎のため岡山市の岡山赤十字病院で死去した。享年87。明治39(1906)年4月24日、岡山県和気郡伊部町伊部(現・備前市伊部)に農業を営む父源次郎、母君の次男として生まれる。本名政雄。大正8(1919)年伊部尋常高等小学校を卒業し、同10年当時伊部の窯元として最大手だった黄薇堂の見習いとなって陶芸の道に入る。同12年伊部の窯元桃渓堂へ移り花器、花入れ細工物等を制作する本格的な作陶を始める。昭和8(1933)年、伊部に開窯して独立、同13年楠部禰弌に入門する。同14年第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品して優良賞受賞。同16年にも同展で受賞する。同18年当時軍需省の管轄にあった国立京都窯業試験場の図案部長水町和三郎の発案により備前焼緋襷を応用した南方むけ食器を生産することとなり、その制作者に選ばれ、軍需省嘱託として備前焼きの皿などの食器制作にあたった。同23年国の技術保存認定を受ける。同26年北大路魯山人、イサム・ノグチらが伊部を訪れた際、交遊し作陶の面でも多くを学ぶ。同29年岡山県重要無形文化財作家に指定される。同30年第2回日本伝統工芸展に「備前旅枕花入」で初入選。以後同展に出品を続ける。同34年ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品してグランプリ金賞を受賞。また、同年日本伝統工芸会の正会員となる。同39年はじめて欧州旅行に発ち、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスを訪れて美術品、史迹、古窯跡とともに現代の欧州陶芸を視察し、備前焼の価値を再確認する。同42年韓国へ赴きソウルを中心に歴史ある窯元を視察。翌43年には台湾、香港、マレーシア、シンガポール等東南アジアの視察旅行に赴く。同44年地元作家、窯元、陶商の団体である備前焼陶友会副会長に就任。同45年日本工芸会理事となる。同47年岡山県文化賞受賞。同51年「陶歴55年記念備前山本陶秀茶入展」を東京日本橋三越で開催し、同展を訪れた谷川徹三に評価されて翌52年毎日芸術賞受賞。同58年「山本陶秀喜寿記念展」を東京日本橋三越、大阪心斎橋大丸、小倉井筒屋で開催。同61年「山本陶秀傘寿記念展」を岡山天満屋、岐阜近鉄百貨居、大阪京阪百貨店、東京東急百貨店、小倉井筒屋で開催。同62年国指定重要無形文化財保持者「備前焼」に認定される。その後も平成元(1989)年東京日本橋三越で「人間国宝山本陶秀展」、同2年広島福屋で「作陶70年人間国宝山本陶秀展」、同3年名古屋松坂屋および東京日本橋三越で「人間国宝 備前山本陶秀展」を開催するなど多くの個展により作品を発表した。桃山期の「間合い」を重んじた備前焼に学び、華麗な作風を示した金重陶陽、大胆豪放な趣で知られた藤原啓という備前焼の人間国宝の作風に対し、陶秀は熟練を極めた轆轤技術によって均整のとれた端正、清楚な作品を制作した。画集に『備前山本陶秀作品集』(毎日新聞社 昭和49年)、『人間国宝 備前山本陶秀』(山陽新聞社 平成4年)等がある。

平野利太郎

没年月日:1994/03/04

日展会員の染織工芸家平野利太郎は3月4日午後11時43分急性呼吸不全のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年89。明治37(1904)年4月18日東京都四谷区永住町に生まれる。曾祖父以来代々刺繍を家業とする家に生まれ、父松太郎に師事して伝統的な日本刺繍を学ぶ。また、岡倉秋水に日本画を学ぶ。昭和4(1929)年第10回帝展に「宝相華(三折衝立)」で初入選。同8年第14回帝展に「七面鳥刺繍手箱」で入選して以後、新文展、日展に出品を続ける。同11年秋の文展に「みのり刺繍壁掛」を出品して選奨受賞。同16年新文展無鑑査。戦後も日展に出品し同21年第1回日展に「海山の幸刺繍二曲屏風」を出品して特選となる。同26年日展依嘱。同33年日展会員となる。同28年よりたびたび日展審査員をつとめた。江戸時代から続く伝統的な日本刺繍を現代に生かし、屏風、衝立等を多く出品。日本工芸会、工彩会等にも出品し、昭和30年から実践女子大学講師もつとめた。

面屋庄三

没年月日:1994/02/14

読み:めんやしょうぞう  京人形師で本名岡本庄三の名で新制作協会会員の彫刻家としても活躍した面屋庄三は2月14日午後10時30分、急性心不全のため京都市中京区押小路通富小路角橘町の自宅で死去した。享年83。明治43(1910)年4月20日京都市下京区に生まれる。昭和4(1929)年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業。人形を先代の12世面屋庄次郎に、彫刻を藤川勇造に学ぶ。伝統的京人形を制作し、昭和28年に三ツ折人形で国の無形文化財保持者に認定された。同33年よりあまがつ会人形展を毎年開催。同38年からは荘人会人形展も開催し、京人形の普及に努めた。同45年に13世面屋を襲名。また、彫刻家として新制作協会展に出品し、昭和26年第15回展に「女像」を出品して新作家賞、翌27年には「習作婦」「首」を出品して同賞を受賞し翌28年同会会員となった。彫刻は婦人像を中心に人体を主要なモティーフとし、表面のマティエール等に人形との共通点が見いだせる。京都市文化功労者、国際芸術文化賞などを受賞。『京人形あれこれ』などの著書もある。三ツ折人形のほか、御所雛、相込人形等も得意とした。京都五條大橋西詰の「牛若弁慶像」を制作したことでも知られる。

岩田久利

没年月日:1994/01/08

日展理事のガラス工芸家岩田久利は1月8日午前9時44分呼吸不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。昭和元(1925)年12月18日、ガラス工芸家岩田藤七の長男として東京に生まれる。東京美術学校工芸部図案科に学び、在学中の同24年第5回日展に「硝子ぶどうの鉢」で初入選し以後も日展に出品を続ける。同26年東京美術学校を卒業。制作のかたわら、東京工業大学でガラスの組成を研究する。同30年第11回日展に「藻」を出品して特選、同31年第12回同展には「萌生」を出品して二年連続特選となった。同30年より光風会にも出品。同33年日展会員となり、同年からたびたび日展審査員をもつとめる。同47年日本ガラス工芸会を設立し、同年より同52年までその初代会長をつとめる。同51年第8回改組日展に「孔雀文大皿」を出品して文部大臣賞を受賞。同57年毎日芸術賞を受賞し、同58年「聖華」で日本芸術院賞を受賞した。父の創立になる岩田工芸硝子を継ぎ、社長をつとめつつ制作を続け、斬新で優美な作風を示した。宙吹きガラスを得意とし、国際的にも高い評価を得た。

石井昭房

没年月日:1993/10/26

鎌倉中期の備前一文字助真の流れをひく「重花丁字乱れの刀文」で知られた刀匠、石井昭房は10月26日午後7時、心不全のため千葉県鴨川市の病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月3日、千葉県館山市に生まれる。本名昌次。千葉県安房郡館野の山本尋常小学校を卒業。昭和10(1935)年1月より栗原昭秀、笠間繁継に師事。笠間には同10年10月まで師事したが、後には専ら栗原のもとで備前一文字の作刀法を学ぶ。同14年5月独立。同30年第1回作刀技術発表会に入選。同31年第2回同展で努力賞、同32、33年の同展では特選となった。日本美術刀剣保存協会に所属し、千葉県指定無形文化財となった。山城の技術も研究したが、備前一文字の作刀法を最も得意とし、代表作に昭和15年制作の丁字の刀、同年作の安房神社蔵の丁字の太刀、同39年制作の長狭高校蔵の大丁字の太刀などがある。

山崎昭二郎

没年月日:1993/05/28

読み:やまさきしょうじろう  文化庁選定保存技術「建造物彩色」保持者の山崎昭二郎は5月28日午後8時40分、消化管不全のため兵庫県赤穂市の赤穂中央病院で死去した。享年66。昭和2(1927)年3月5日、兵庫県赤穂市に生まれる。同25年東京美術学校工芸科図案部を卒業、同29年より同31年まで、小場恒吉を主任とする宇治平等院鳳凰堂の彩色文様の復元に従事。同31年以後は主任として社寺建築の文様復元を行ない、34年には京都市醍醐寺五重塔彩色文様の復元を行なったほか、同35年広島県明王院五重塔、同36年京都府海住山寺五重塔、同38年奈良県興福寺北円堂、同39年岩手県中尊寺経蔵、大分県富貴寺大堂、奈良県薬師寺東塔、福島県白水阿弥陀堂、同41年和歌山県金剛三昧院多宝塔、同42年滋賀県西明寺三重塔、同43年宮城県大崎八幡神社本殿拝殿、同44年京都府浄瑠璃寺三重塔、同45年奈良県唐招提寺金堂、同48、49年京都府東福寺三門、同52年広島県厳島神社五重塔、同55年滋賀県日吉神社末社東照宮社殿、同56年京都府教王護国寺五重塔、同57年京都府知恩寺経蔵、同59年滋賀県石山寺多宝塔、同60年同県宝厳寺観音堂、同61年奈良県霊山寺三重塔、同62年山梨県清白寺仏殿、同63年滋賀県園城寺毘沙門堂、同64年京都府蓮華王院本堂、平成2年和歌山県浄明寺三重塔、同3年京都府岩船寺三重塔、同4年奈良県興福寺三重塔の彩色文様復元図を作製した。これらは建築彩色文様の一部を復元したものであるが、この他に同50年正倉院御物「粉地彩絵八角几」模造に復元彩色を施す等の仕事もした。同54年国指定建造物彩色選定保存技術認定保持者に認定された。彩色文様復元図の多くは文化庁や東京国立博物館の所蔵になり、これらを展示した「日本建築の装飾彩色」展が平成2年3月、国立歴史民俗博物館で行なわれた。

小松芳光

没年月日:1993/01/06

金沢美術工芸大学名誉教授、石川県無形文化財蒔絵技術保持者の漆芸家小松芳光は、1月6日午前8時5分、老衰のため金沢市の同市立病院で死去した。享年89。明治36(1903)年8月8日、石川県金沢市に生まれる。本名森作。大正13(1924)年東京美術学校聴講生となり、聴講後、植松包美に師事。昭和2(1927)年第8回帝展に「花圃文様漆器手箱」で初入選。同5年第11回帝展に「秋酣蒔絵手箱」、同6年第12回帝展に「からむしの棚」、同7年第13回帝展に「漆器春花秋葉文庫」、同9年第15回帝展に「王魚蒔絵硯箱」で入選する。新文展にも出品し、同11年新文展鑑査展に「水辺衝立」で入選。同13年第2回新文展に「漆器湖畔小景小屏風」を出品して特選となる。同17年7、8月、古美術研究のため朝鮮半島へ渡る。戦後は日展に出品し、同21年春第1回日展では「籬の秋手箱」で特選受賞。以後も同展に出品を続け、同25、30、34、43年日展審査員、同33年日展評議員、同55年日展参与となった。同30年北国文化賞受賞。同43年第11回改組日展に「サボテン漆パネル」を出品して文部大臣賞を受賞する。また、同23年より金沢美術工芸大学教授として後進の指導にあたり、同44年同学を定年退官して名誉教授となった。同45年渡米し個展を開催。同46年より金沢市立中村記念美術館館長をつとめる。また同年、以前から審査員をつとめていた日本現代工芸美術家協会の理事となった。同52年、石川県無形文化財蒔絵技術保持者に認定される。工芸に求められる「用」の面よりも、漆の造形的特性を重視し、衝立、パネル、屏風などを作品形式として好み、絵画的装飾性の高い作品を多く制作した。帝展・新文展・帝展出品歴帝展第8回(昭和2年)「花圃文様漆器手箱」、同第11回(同5年)「秋酣蒔絵手箱」、同第12(同6年)「からむしの棚」、同第13回(同7年)「漆器春花秋葉文庫」、同15回(同9年)「王魚蒔絵硯箱」、文展鑑査展(同11年)「水辺衝立」、新文展2回(同13年)「漆器湖畔小景小屏風」(特選)、紀元2600年奉祝展(同15年)「漁書棚」、新文展5回(同17年)「溜り船机」、同6回(同18年)「豊熟硯筥」、戦時特別展(同19年)「漁村晴日小屏風」、日展第1回(同21年春)「籬の秋手箱」(特選)、同2回(同年秋)「春庭草」、同3回(同22年)「水門小屏風」、同5回(同24年)「乾漆春華飾筥」、同6回「漆器山路手筥」、同7回「早春華映衝立」、同8回「芦の華飾筥」、同9回「樹間晴日漆器衝立」、同10回(同29年)「『石影』」漆二曲屏風」、同11回「湖畔漆パネル」、同12回「河畔来福屏風」同13回「河霧二曲屏風」、改組日展第1回(同33年)「噴水二曲屏風」、同2回「漆器パネル 塔」、同3回「階段と花 漆パネル」、同4回「河の面漆棚」、同5回(同37年)(水と石の構成 漆二曲屏風」、同6回「悠久漆二曲屏風」、同7回「漆手箱貝殻層を憶う」、同8回不出品、同9回「パネル蒼い石垣」、同10回(同42年)「樹間漆二曲屏風」、同11回「サボテン漆パネル」(文部大臣賞)、社団法人日展第1回(同44年)「漆パネル 池」、同2回不出品、同3回「水鳥の巣」、同4回「階段の譜二曲屏風」、同5回(同48年)「水門漆二曲屏風」、同6回「湿原の花漆二曲屏風」、同7回「躍進漆パネル」、同8回「磯飾筥」、同9回「孔雀紋漆飾箱」、同10回(同53年)「呉竹漆盛器」、同11回「野葡萄手附盤」、同12回「空蝉と美男蔓 宝石箪司」、同13回「ひさご漆飾筥」、同14回不出品、同15回(同58年)「夕月軸盆」、同16回「此君漆飾箱」、同17回不出品、同18回「遊魚漆箱飾盆」、同19回、20回不出品、同21回(平成元年)「閑庭」、同22回「古今松韻盛器」、同3、4年不出品

北村大通

没年月日:1992/12/16

漆工芸家で国選定文化財保存技術保持者の北村大通は、12月16日心不全のため奈良県天理市の奈良東病院で死去した。享年82。漆工芸制作とともに、正倉院宝物の漆工品をはじめとする数々の文化財の修理で知られる北村大通は、明治43(1910)年3月19日奈良市に生まれた。本名久造。漆塗りで著名な吉岡家の家系にあり、幼児から父に技法の手ほどきを受け、奈良県立郡山中学校を経て東京美術学校漆工科に進み、昭和8年卒業した。その後、一時漆工から離れたが、兵役を機に漆工家に専念するに至った。同18年第6回新文展に「火焔獅子蒔絵箱」が初入選し、戦後も初期日展および日本伝統工芸展に制作発表を行った。同23年京都市立美術専門学校助教授に就任、翌年教授となったが同年中に依願退職した。同28年、奈良国立文化財研究所研究員を依嘱され、同年から同31年に至る第一次正倉院漆工品調査(第二次調査、同45-49年)に参加した。同32年、奈良県教育委員会の依嘱により、当麻曼荼羅厨子の修理施工に携わり、同38年には10年計画による正倉院漆工品の修理を開始し、同48年までの間、総点数233点の修理を行った。その後、数多くの文化財の修理並びに復元模型の制作に従事した。その主な修理品に、昭和38年四天王寺蔵重文「漆皮箱」、同41年手向山神社蔵重文「黒漆四枚居木鞍」、同44年春日大社蔵重文「亀甲蒔絵手箱」、同45-46年春日大社蔵国宝「黒漆平文根古志形鏡台」、同54年醍醐寺蔵重文「沃懸地螺鈿説相箱」、同57-58年東大寺蔵重文「朱塗布薩盥」、同60年東大寺蔵国宝「花鳥彩絵油色箱」などがあり、復元模型制作に正倉院宝物の「漆挟軾」「玉帯箱」、当麻寺の「曼荼羅厨子軒先板」、春日大社の「蒔絵筝」などがある。同50年、永年の功績に対して紫綬褒章が授与され、翌52年には国選定文化財保存技術者に認定された。また、同54年日本漆工協会により漆工功労者表彰を受けた。

寺本美茂

没年月日:1992/11/13

日展評議員の彫金家寺本美茂は、11月13日午後9時38分、食道がんのため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年76。大正5(1916)年4月17日、京都市下京区に生まれる。本名勘次。昭和8(1933)年京都市立第二工業学校金工科を卒業し、磯崎美亜に入門。同15年紀元2600年奉祝展に「鉄布目象嵌飾筥」で初入選。同17年第5回新文展に「黄銅渡鳥文鉢」、翌年第6回新文展に「黄銅象嵌文壷」を出品する。戦後は同23年第4回日展に「銀線華文酒壷」を出品して以降日展を中心に活躍。同31年第12回日展に「切象嵌葉文花瓶」を出品して北斗賞、同34年第15回日展に「シャボテン文花器」を出品して特選北斗賞、同38年第19回日展に「シグナル青」を出品して菊華賞を受賞。光風会にも出品し、同31年同会会友、同37年同会会員となった。同41年日展会員となる。同43年、日本現代工芸チェコスロバキア展に際し派遣員として渡欧する。同53年日展評議員に就任。同54年日本新工芸家連盟の創立に加わり、同57年同会理事となる。この間の同54年第65回光風会展には「空の詩」を出品して辻永記念賞を受けた。同63年日本新工芸展に「白穂」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。独特の張りと丸みのある器に花鳥を象嵌であらわした洗練された作風を示した。

辻光典

没年月日:1992/09/17

漆工芸家で日展参事の辻光典は、9月17日東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年76。大正4(1915)年11月11日旧満州(中国東北部)ハルピン市で生まれる。青山学院を経て、昭和14年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。在学中の同13年、春台美術展に「文庫」で、光風会展に「花器」でそれぞれ初入選した。翌年、実在工芸展に出品、また工芸団体経緯工芸を組織し新工芸運動に入った。同15年、東京都工芸展に「蛾の踊り」で知事賞を受賞、同18年には光風会会員となる。戦後は、同23年工芸団体型々工芸を、同25年には洋和会を主宰し建築物と結びついた壁面装飾に漆工家としての新しい方向を求めようとした。また、日展では同27年に「太陽連作の一、風神雷神」で特選・朝倉賞を、同31年にも「太陽連作の五、エリオス」で特選を受けた。同33年、新日展評議員となり、同年から「雲連作」を発表する。同35年、日展工芸部門作家による団体円心を帖佐美行らと結成、翌年には円心を母体にした現代工芸美術家協会の結成に参加した。同36年、第4回新日展に「雲連作の四、蜃気楼」で文部大臣賞を受賞、同39年には前年の日展出品作「装飾画、雲連作の六、『クノサス』」で日本芸術院賞を受賞した。さらに、翌年からは「人間の連作」シリーズを手がけ、伝統的漆技法を自在に駆使しつつ独自の着想による象徴的な表現を深め、漆芸界に新しい方向を提示した。作品は他に、「人間の連作30、羽化する時」などがある。

太田熊雄

没年月日:1992/06/24

民陶小石原焼の第一人者として知られる陶工太田熊雄は、6月24日午前8時41分、肝臓障害のため福岡県東区の九州大学病院で死去した。享年80。明治45(1912)年6月12日、福岡県朝倉郡に生まれる。昭和元(1926)年、小石原尋常小学校を卒業。同年より父や兄に小石原焼を習う。一時人形師を志したが難聴のため断念。以後本格的に小石原焼にとりくみ、同13年分家独立した。同16年第1回日本民芸協会九州沖縄民窯展に「壷」を出品して日本民芸協会賞受賞。同21年第1回九州民芸展では「茶壷」で最優秀夕刊フクニチ賞一等賞、「どびん」で九州民芸協会賞一等賞を受賞。同26年、柳宗悦が九州の民芸振興に訪れた際に知遇を得、自らの道に指針を得た。さらに同29年陶芸家バーナード・リーチに出会い、洋風の器物製作などに一知見を得た。同32年日本・ソ連外交関係復活記念現代日本工芸美術展入選作「壷」がソ連政府買上となる。同34年ベルギー万国博覧会に「かめ」「虚無僧蓋壷」「一斗入雲助」を出品し、グランプリ賞ならび日本貿易振興会理事長賞を受け、「民芸」を世界に紹介する契機をつくった。また同年、それまで小石原皿山の慣習であった窯元組織に従って共同窯をまわって制作していたのをやめて個人窯を開き、小石原焼の旧習に新風を送りこんだ。同36年第2回日本民芸展で日本工芸館賞受賞。同38年の同展では「虚無僧蓋壷」で日本民芸館大賞を受賞。その後も日本民芸展、西部工芸展等に出品して受賞を続ける。同55年伝統工芸士に認定され、同年より伝統工芸士会会長をつとめた。同63年には国際芸術文化功労賞を受賞。生活の中に生きる民芸の本質を実用性に認め、実用性が長い歴史の中で練り上げてきた単純で大らかな形の器に釉薬をたらす素朴な味わいのある作風を示した。同43年より福岡県工芸部会参与、翌44年より45年まで日本民芸館展審査員、同59年には福岡県陶芸作家協会顧問をつとめ、九州の伝統工芸、民芸の振興に寄与するとともに、同39年より41年まで小石原区長をつとめるなど、郷里の発展につくした。昭和47年に『根性の窯』が刊行されているほか、没後に長男孝宏、孫光廣の作品と共に遺作の展観された「三代の炎展」(太田熊雄窯主催、平成5年6月)の際、『太田熊雄窯三代の炎展』(太田熊雄製陶所発行)が刊行されている。

藤本能道

没年月日:1992/05/16

人間国宝の陶芸家で東京芸術大学学長もつとめた藤本能道は5月16日午後4時39分、呼吸不全のため東京都葛飾区の慈恵医大青戸病院で死去した。享年73。大正8(1919)年1月10日、東京大久保に大蔵省書記官藤本有隣の次男として生まれる。同12年、関東大震災により生家の郷里高知市へ移り住み、小学4年まで高知市ですごす。昭和3(1928)年上京。麹町尋常小学校を経て同6年東京府立第一中学校に入り、東京美術学校図案部に入学し同16年同部を卒業。同年4月文部省工芸技術講習所第一部に入学し、翌年より同講習所講師であった加藤土師萌に陶芸を学ぶ。同17年第29回光風会展に図案「貝殻の構成」「抽象構成」で初入選。同年の東京府工芸展には陶器を出品している。同18年同講習所を卒業し、ひき続き同所嘱託となった。同19年6月から同講習所教授となった富本憲吉に師事して同年8月より助手をつとめた。同年第31回光風会展に「赤絵花瓶」「黒釉木ノ葉皿」「黒釉上絵花瓶」を招待出品して光風工芸賞受賞。同20年勤務先の講習所が岐阜県高山へ疎開したため教授であった富本に同行した。同21年第20回国画会展に油絵「海樹」で初入選。また、同年の同展に「五染附色絵小壷(かれい)」「色絵小壷(梅)」等全7点を出品するが、同年富本憲吉が国画会展を退会するに伴い同会工芸部が解散したため、同展への出品はこれのみとなった。また、同年第1回日展に「色絵花瓶」を出品する。同年5月、富本が文部省工芸技術講習所を退くと、これに従って講習所助手を辞任。翌月から京都松風研究所に勤務し、同所顧問富本憲吉から再び指導を受けた。同22年より富本を中心に設立された新匠工芸会に参加。翌23年同会会友、同24年同会員となった。同25年鹿児島県及び市商工課嘱託となって県内窯業指導に当たる。同31年京都市立美術大学専任講師となり、また同年日本陶磁協会賞を受けた。同32年新匠工芸会を退いて走泥社に参加。同年モダンアート協会展に初出品し、同33年に同協会会員となった。この頃から実用を離れたオブジェ等前衛的な試みに取り組んでいる。同37年京都市立美術大学を退いて東京芸術大学助教授となる。同38年、伝統を重視する作風に転換してモダンアート協会、走泥社を退会。その後日本伝統工芸展を中心に作品を発表したほか、同45年フランスのバロリス国際陶芸展、同51年国際交流基金主催、ニュージーランド、オーストラリア巡回「現代日本陶芸展」、同58年米国のジャパニーズセラミックストゥディ展等、国際的にも活躍した。伝統的な色絵に絵画的写実を導入し、「釉描加彩磁器」の新技法、新たな作風を開拓して、昭和61年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。同60年から4年間、工芸家では初めて東京芸術大学の学長をつとめるなど、工芸界に指針を示すとともに教育にも尽力した。著者に『やきもの絵付十二ケ月』(同59年 溪水社)、『藤本能道作品集』(同60年 講談社)等がある。

前田正範

没年月日:1992/04/29

日本新工芸家連盟評議員、光風会会員の陶芸家前田正範は、4月29日午後2時35分、多臓器不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年63。昭和3(1928)年7月3日京都市に生まれる。本名正範。京都第二商業学校を卒業して、同28年京都陶芸家クラブに参加。6代清水六兵衛に師事する。同30年第11回日展に五雲の号で「青緑釉華器」を出品して初入選。翌年第12回展にも五雲の号で「緑釉花器」を出品。同年関西綜合美術展で受賞。同32年より正範の号を用いる。同年現代日本陶芸展朝日新聞社賞、京都工芸美術展知事賞を受け、京展でも受賞した。この頃は表面に多くの装飾をほどこした縄文土器風の作風を示したが、昭和30年代後半に入ると、左右非対称の形態等にプリミティブな要素は残しながら、より幾何学的で単純な製形を行なうようになった。同46年京展無鑑査となり、以後出品を依嘱される。同53年「明日をひらく日本の現代工芸展」に「條映」を出品して受賞。同年日本新工芸家連盟の設立に参加する。同54年同展に「蒼」を出品して同会会員に推されるとともに、同年第11回社団法人日展「砂丘にて」を出品して特選受賞。同60年第71回光風会展に「映」を出品して光風工芸賞を受け会員に推挙される。また、同年第18回日本新工芸展に「映」を出品して全日空賞受賞。同61年第18回社団法人日展に「朝陽」を出品して特選となり、同年日本新工芸家連盟評議員となった。同62年第9回日本新工芸展に「創」を出品して会員佳作賞、翌年同展に「揺」を出品して会員賞、平成4(1992)年第13回同展に「白映」を出品して会員賞を受けた。晩年は円筒、円錐型を変形させ左右非対称の単純な形態の表面を微妙に波打たせ、斬新な作風を示した。

熊谷紅陽

没年月日:1992/03/14

読み:くまがえこうよう  遠州七窯のひとつ赤池町・上野焼窯元第15代で、茶陶作家として知られた熊谷紅陽は、3月14日午前9時20分、急性肺炎のため北九州市小倉南区の病院で死去した。享年80。明治45(1912)年2月13日、福岡県田川郡赤池町上野に、上野焼第14代窯元熊谷龍峰を父として生まれる。本名保正。昭和4(1929)年佐賀県立有田工業学校を主席で卒業し、以後父のもとで家業に従事。同18年軍の命により北満で製陶を始める。同20年10月、朝鮮半島より帰国して再び家業につく。同28年全国陶磁コンクールで受賞。同39年日本伝統工芸展に入選し、以後平成3年まで毎年同展に出品した。また日本陶芸展にも出品し、昭和60、62年、平成1、3年には同展無鑑査となった。茶陶、特に茶入れの作家として知られ、唐ものの第一人者とされた。古典的成形、簡素な釉の文様により、緊張感と古雅な趣をあわせもつ作風を示した。

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