本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





片山行雄

没年月日:1988/09/18

元京都教育大学教授で嵯峨美術短期大学の学長をつとめた工芸史家片山行雄は、9月18日午後零時15分、すい臓がんのため京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年79。明治41(1908)年10月12日、三重県三重郡に生まれる。旧姓訓覇。昭和2(1927)年京都市立美術工芸学校を卒業。8年東京美術学校図案科を卒業し、同年森永製果広告課に入社する。14年京都市立美術工芸学校教員となる。22年より京都市立美術専門学校で教鞭をとり同校教授となるが、24年より京都市工芸指導所に勤務する。38年同指導所を退職。翌39年浪速短期大学教授、42年京都教育大学教授となる。47年京都教育大学を停年退官し、同年より嵯峨美術短期大学教授となり、60年より同学学長をつとめた。工芸学、工芸史およびデザイン史を専門とし、長く美術教育に尽力した。京都市円山公園水飲所デザイン等、制作にも従事している。

福井勇

没年月日:1988/09/14

行動美術協会会員、京都精華大学名誉教授の洋画家福井勇は、9月14日午前6時35分、うっ血性心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月17日、京都府何鹿郡に生まれる。昭和3(1928)年京都府師範学校本科を卒業して京都市立下鳥羽小学校教員となり、以後30年間京都府内の小、中学校教員をつとめる一方で制作活動を行なう。昭和8年関西美術院研究科を修了し、同年第20回二科展に「初夏の水辺」で初入選。以後同展に出品を続け、18年同会解散を前に会友に推挙される。また、同6年より全関西展に、同10年より京都市展に出品し、たびたび受賞する。戦後は行動美術協会の結成に参加。21年第1回同展に「傘亭」他を出品し、また、同年より改めて開設された京都市展に出品し始める。京都市展、大阪市関西総合展、京都洋画総合展などで審査員をつとめ、44年より関西美術院理事となり、院の経営、指導に当たる。また、43年より京都精華短期大学で教鞭をとった。外景と室内の静物とを並置し、実景から離れて構図、色彩を造形的に整えた静物画を多く描いた。日常目にするものに詩情を見出した作品が多い。 行動展主要出品歴第5回(昭和25年)「麦秋ひなげし」「静物(庭)」「静物(室内)」、第10回(30年)「嵐峡の紅葉」「保津峡の黄昏」、第15回(35年)「松の庭」「魚板の壁」、第20回(40年)「黒い樹と果実」「紅い魚板と花」、第25回(45年)「野川の朝霧」「夏の庭」、第30回(50年)「黒い画像と静物」「白い壁の静物」、第35回(55年)「洋灯と西瓜のある庭」「残雪山麓の見える静物」、第40回(60年)「魚板の庭」

高藤鎮夫

没年月日:1988/09/10

日展会員の彫刻家高藤鎮夫は、急性出血性胃カイヨウのため、9月10日午前3時55分名古屋市千種区の市立東市民病院で死去した。享年78。明治43(1910)年7月1日愛知県名古屋市生まれ、本名同じ。昭和6年加藤顕清に師事し、昭和15年紀元2600年奉祝展に「女立像」が初入選する。以後新文展に連年出品し、戦後も日展に第1回より出品。29年第10回日展「抵抗」、33年第1回新日展「脱衣」がともに特選となり、34年同第2回に「無風」を無鑑査出品する。翌36年より3年間委嘱出品したのち、38年同第6回で審査員をつとめ、39年日展会員となる。47年第4回改組日展でも審査員をつとめ、63年同第20回に遺作「なぎさ」が出陳された。日展を中心に、日本彫塑会、MC彫塑家集団などでも活動した。主要作品には、このほか40年「健」、42年「光と線」などがある。 新文展・日展出品略歴昭和15年紀元2600年奉祝展 女立像昭和16年第4回新文展 女立像第二昭和17年第5回新文展 女立像第三昭和18年第6回新文展 振起昭和21年第1回日展 腰掛けた女昭和21年第2回日展 希望昭和22年第3回日展 豊秋昭和23年第4回日展 若い女昭和24年第5回日展 若い女(C)昭和25年第6回日展 若い女(D)昭和27年第8回日展 新晴昭和28年第9回日展 萠昭和29年第10回日展 抵抗(特選)昭和31年第12回日展 伸展昭和33年第1回新日展 脱衣(特選)昭和34年第2回新日展 無風(無鑑査)昭和35年第3回新日展 青春讃(委嘱)昭和36年第4回新日展 ある日若く(委嘱)昭和37年第5回新日展 珠(委嘱)昭和38年第6回新日展 陽(審査員)昭和39年第7回新日展 伊勢湾(会員)昭和40年第8回新日展 のぞみ昭和41年第9回新日展 光昭和42年第10回新日展 道程昭和43年第11回新日展 憩う昭和44年第1回改組日展 花ある道昭和45年第2回改組日展 念昭和46年第3回改組日展 心昭和47年第4回改組日展 黙(審査員)昭和48年第5回改組日展 常昭和49年第6回改組日展 顔昭和50年第7回改組日展 はたち昭和51年第8回改組日展 大地昭和52年第9回改組日展 座(77-N)昭和53年第10回改組日展 展昭和54年第11回改組日展 立女昭和55年第12回改組日展 捧ぐ昭和56年第13回改組日展 気構え昭和57年第14回改組日展 粧意昭和58年第15回改組日展 仰ぐ昭和59年第16回改組日展 遥か昭和60年第17回改組日展 若者昭和61年第18回改組日展 立てひざの女昭和62年第19回改組日展 佇む昭和63年第20回改組日展 なぎさ(遺作)

菅沼金六

没年月日:1988/09/09

一水会常任委員、日本水彩画会会員の洋画家菅沼金六は、9月9日午後6時45分、急性心不全のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年84。明治37(1904)年7月1日、東京に生まれ、東京高等工業学校附属徒弟学校電気科を経て日本大学社会科に学び、電気技術者としてディスプレイ用照明を手がけ、ディスプレイ・デザイン、グラフィック・デザインのスタジオを経営。昭和8年シカゴ万国博覧会に際し日本からの出品物展示場の設計、施工を依嘱されて渡米し、同会閉会後もシカゴにとどまって、同地にあるアメリカン・アカデミー・オブ・アートに学び、同11年卒業する。帰国後、15年より一水会に出品し、21年会員に推される。24年より日本水彩展に出品して会員となり、28年第9回日展に「バレースタヂオにて」で初入選。以後同展に出品を続け、32年第13回日展に「白鳥の踊り子」を出品して岡田賞を受賞する。35年一水会委員となる。昭和30年代にはバレリーナを主なモチーフとし、その後も室内の女性像を明るい色彩で描くのを得意とした。

水田硯山

没年月日:1988/09/07

日本南画院顧問の日本画家水田硯山は、9月7日午前7時15分、心不全のため京都市左京区の自宅で死去した。享年85。明治35(1902)年12月14日大阪市に生まれ、本名美朗。南画家水田竹圃は兄にあたる。大正6年竹圃に入塾し南画を学び、また藤沢南岳に漢籍を学ぶ。翌7年京都に移ったのち、10年第1回日本南画院展に「雲去来」が入選。11年「山村暁霧」を出品し、日本南画院同人に推挙された。12年中国に旅行し、同地に取材した「紅葉山館」「寒江渡舟」を同展に出品する。また帝展でも、11年第4回帝展に「秋二題」が初入選し特選を受賞。13年第5回帝展に「一路湿翠」「春江暁潮」を出品したのち、14年同第6回帝展「雲散」「水肥」、昭和2年第8回「朝」が再びともに特選となる。翌3年第9回帝展「幽谷」以後、帝展無鑑査となり、帝展に5年第11回「霜林」、7年第13回「桐江新翠」、8年第14回「秋壑雲封」、9年第15回「飛鳳瀑」などを出品。また新文展、日本南画院展にも出品を続けた。南画に後期印象派の画風を加味した山水を得意とした。16年大東南宗院委員となり、戦後日展に依嘱出品する。33年菁々社を創立する一方、35年日本南画院の再興に参加。同展で、同35年「樹」が日本南画院賞、36年「秋」が文部大臣賞を受賞し、35年同院理事、38年監事となった。50年頃より視力が衰え、近年は制作から遠ざかっていた。

宗像逸郎

没年月日:1988/08/30

国画会会員の洋画家宗像逸郎は、8月30日午後4時10分、急性心不全のため兵庫県宝塚市の雲雀丘クリニックで死去した。享年85。明治35(1902)年11月6日、広島県三原市に生まれる。林重義に師事し、昭和7(1932)年第2回独立展に「国道曇り日風景」で初入選し、以後15年第10回展まで同展に出品を続ける。同15年紀元2600年祝奉展に「六甲山」を出品。18年第6回新文展に「紅蓮」を出品して特選となる。また、同17年第17回国画会展に「亀甲模様」「鶏頭」を初出品してより同展に出品を続け、18年第18回展に「蓮(紅蓮)」「蓮(白蓮)」を出品して国画奨学賞、およびF夫人賞を受賞。同年同会会友となり、34年同会会員となる。対象に即した忠実な写実的描写を守り続け、古雅な趣のあるモチーフを好んで選び、静物画を多く描いた。 国画会展出品略歴第20回展(昭和21年)「筑紫野の秋」「渓谷の見える風景」、25回(26年)不出品、30回(31年)「種子と春蘭」、35回(36年)「野仏」「窓」、40回(41年)「はにわ盾」、46年(45回)「冬日(方丈の石仏)」、50回(51年)ガンダーラ仏頭と椿」

吉岡常雄

没年月日:1988/08/25

大阪芸術大学名誉教授の染色家吉岡常雄は、8月25日午後7時55分、心不全のため京都市伏見区の蘇生会総合病院で死去した。享年72。大正5(1916)年京都で三代続いた染屋に生まれ、日本画家吉岡堅二は兄にあたる。昭和11年桐生高等工業学校(現群馬大学)染織別科を卒業。戦後31年頃より染色作家を志し、走泥社の作家とともに染料を研究、前衛的作品を制作する。33年モダンアート協会会友となるが、35年頃正倉院展で古代染織品に感銘を受け、以後古代染織と天然染料の研究へと向かう。41年帝王紫(貝紫)への関心の高まりを受けて奄美大島を訪ね、節子の浜で貝紫に使用するアクキ貝科の棲息を確認。翌42年同地でアクキ貝科の「ヒロクチイガレイシ」を採集し、貝紫の染色実験に成功する。43年帝王紫の研究のため渡欧し、ナポリ湾で貝を採集、帝王紫の復元に成功する。またレバノンのシドンで帝王紫の染織に使った貝の貝塚を発見する。44年メキシコ・オアハカ州ドン・ルイス村を訪ね、46年同村を再訪、また同州タナパラで今なお海岸で行なわれている貝紫染を見る。47年にはドン・ルイス村でも岩場での染色を確認、同村へは50年、57年、58年にも訪れている。この間、42年大阪芸術大学講師(染色材料学)、44年同教授に就任。また50年正倉院爽纈を復元し、以後55年京都祇園祭南観音山の見送りに使われていた貞享元年(1684)銘の古渡インド更紗、59年京都国友家伝来徳川家康拝領辻ケ花小袖、62年阿武山古墳副葬品大織冠をそれぞれ復元する。一方、50年東大寺、薬師寺などの古儀式の染織を奉納して以降、55年東大寺大仏殿昭和大修理落慶法要に際し大幡(兄堅二と共同制作)・伎楽面・伎楽装束一式、60年法隆寺昭和大修理完成落慶法要に際し幡・八部衆装束、62年、1400年ぶりに再現された奈良飛鳥寺盂蘭盆会法要に際し幡および復元法衣、63年奈良県吉野郡多武峰談山神社に冠・装束を、それぞれ奉納した。著書として、48年『伝統の色』、57年『工程写真によるやさしい植物染料入門』、58年長年の研究成果をまとめた『帝王紫探訪』『日本の色・植物染料のはなし』などを刊行。63年『別冊太陽』創刊60号記念では、「源氏物語」「延喜式」の記述に基づき当時の染料、技法による源氏物語の色を再現した。63年京都・龍谷大学で西域仏教文化研究会が発足した際は、メンバーの一人として大谷探険隊将来裂の染織技法と色彩の究明に着手していた。54年東京銀座ミキモトホールで「日本の色」展を開催。また没後平成元年6月奈良県立美術館で回顧展が開催された。

金子博信

没年月日:1988/08/17

一水会常任委員の洋画家金子博信は、8月17日肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年90。明治31(1898)年6月5日福岡県久留米市に生まれ、県立中学明善校を経て大正13年東京美術学校西洋画科を卒業する。昭和3年第17回二科展に初出品。以後同展へ出品を続けたが、同11年一水会創立後は同会に所属し、同16年「下町の小学校」「屋上より見た市街」を出品し一水会賞を受賞、のち同会会員、常任委員として活躍した。また、新文展無鑑査展へも出品した。戦後も一水会に制作発表を行う。代表作に「高架電車」(第19回二科展)、「屋上の子供」(第4回一水会展)等がある。

森大造

没年月日:1988/08/05

彫刻家集団創型会創立同人の彫刻家森大造は、8月5日心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治33年(1900)4月15日滋賀県阪田郡に生まれる。昭和2年東京美術学校彫刻科を卒業。同6年第12回帝展に木彫「うらら」で初入選し、以後戦前の官展出品作に「工場の午后」(木彫、第15回帝展特選)、「若き建男」(昭和11年文展招待展)、「海束之正気」(セメント、第4回新文展)などがある。また、新文展発足とともに無鑑査となった。戦後は同25年第6回日展に「不動明王」を出品したが、翌年同志とともに創型会を創立し第1回展に「竜形地蔵」を発表、以後同展に制作発表を行うとともに、同29年には仏教美術協会を組織した。木彫を主とし、後半期は仏教的題材を多く手がけた。

木下繁

没年月日:1988/08/04

日本芸術院会員の彫刻家木下繁は、8月4日午前11時50分、肝不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年80。明治41(1908)年4月25日、和歌山県布田郡に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科に入学し建畠大夢に師事し、のち清水多嘉示に師事する。在学中の5年第11回帝展に「女の顔」で初入選。8年東美校を卒業し研究科に進学、10年に研究科を修了する。14年第3回新文展に「れいめい」を出品して特選、22年第3回日展出品作「裸婦」、26年第7回日展出品作「裸婦」でも特選を受賞し、以後たびたび日展審査員をつとめる。44年第1回改組日展に「裸婦」を出品して文部大臣賞、48年第5回日展に「裸婦」を出品して48年度日本芸術院賞を受賞し、52年日本芸術院会員となる。塑像を得意とし、裸婦を好んで制作する。39年より46年まで白色セメント野外彫刻展に出品する。47年より武蔵野美術大学教授をつとめ、56年同名誉教授となった。また、53年より日展常務理事、日本彫刻会常務理事を務めた。 帝展・新文展・日展出品歴昭和5年第11回帝展「女の顔」、6年(12回)「髪」、7年(13回)「A Purple Maiden」、8年(14回)「光に立ちて」、9年(15回)「水のほとり」、11年(文部省展覧会)「生」、12年(第1回新文展)「空のふかみ」、13年(2回)「さわやか」(特選)、14年(3回)「れいめい」(特選)、16年(4回)不出品、17年(5回)「習作」、18年(6回)不出品、21年(第1、2回日展)不出品、22年(3回)「裸婦」(特選)、23年(4回)「裸婦」、24年(5回)「裸婦」、25年(6回)「裸婦」、26年(7回)「裸婦」(特選)、27年(8回)「裸婦」、28年(9回)「裸婦」、29年(10回)「裸婦」、30年(11回)「腰かける女」、31年(12回)「裸婦」、32年(13回)「裸婦」、33年(第1回社団法人日展)「裸婦」、34年(2回)「裸婦」、35年(3回)「裸婦」、36年(4回)「裸婦」、37年(5回)「裸婦」、38年(6回)「裸婦」、39年(7回)「裸婦」、40年(8回)「裸婦」、41年(9回)「裸婦」、42年(10回)「裸婦」、43年(11回)「裸婦」、44年(第1回改組日展)「裸婦」、(文部大臣賞)、45年(2回)「裸婦」、46年(3回)「裸婦」、47年(4回)「裸婦」、48年(5回)「裸婦」、49年(6回)「裸婦」、50年(7回)「裸婦」、51年(8回)「裸婦」、52年(9回)「裸婦」、53年(10回)「裸婦」、54年(11回)「裸婦」、55年(12回)「裸婦」、56年(13回)「裸婦」、57年(14回)「裸婦」、58年(15回)「THE PREVAILING WESTER LIES」、59年(16回)「東風」、60年(17回)「腰かけた女」、61年(18回)「おんな」、62年(19回)「おんな2」

城所祥

没年月日:1988/07/22

日本版画協会会員の版画家城所祥は、7月22日午前7時31分、急性心不全のため東京都八王子市の多摩相互病院で死去した。享年53。昭和9(1934)年12月2日、東京都八王子市に生まれる。八王子市立第五中学校、東京都立川高校を経て早稲田大学に入学し、同32年同大学第一商学部を卒業する。34年養精堂画廊で個展を開いて木版画家としてデビューし、36年日本版画協会会員となる。39年東京国際版画ビエンナーレに出品し、以後40年スイス木版画展、パリ青年ビエンナーレ、42年サンパウロ国際版画ビエンナーレなど国際展にも多く出品。42年鑿の会を結成し、木口木版画集「のみ」の制作に参加する。また、同年文化庁在外研究員として渡欧し、パリ、ジュネーヴに滞在する。美術教育にもたずさわり、43年より52年まで武蔵野美術大学講師、47年より63年まで武蔵野美術学園講師、53年より63年まで金沢市立美術工芸大学講師をつとめたほか、日本美術家連盟版画工房の嘱託もつとめた。果物や花を主要なモチーフとする室内静物画を多く制作し、黒をアクセントとする明快な色面によって画面を構成する。代表作に、三好豊一郎の詩による詩画集『黙示』(昭和42年)、版画集『鳥』(46年)、東京八王子市喜福寺襖絵(46年)などがある。

矢橋六郎

没年月日:1988/07/04

モダンアート協会創立会員の洋画家矢橋六郎は、7月4日午前6時20分、脳出血のため岐阜県大垣市の大垣市民病院で死去した。享年82。明治38(1905)年11月16日、岐阜県不破郡に生まれる。県立岐阜中学校を経て大正15(1926)年東京美術学校西洋画科に入学し、昭和5(1930)年に同校を卒業。梅原龍三郎に師事し、梅原らの創立になる国画会に参加。滞欧中も同展に出品を続け7年に同会会友となる。8年、帰国。同年国画会を退会する。11年、山口薫、村井正誠らと自由美術家協会を創立。14年生家の家業である矢橋大理石商店に勤務することとなるが画業もつづけ、25年村井らと共にモダンアート協会を創立する。モザイク作家としても知られ、「海」(37年、大名古屋ビル)、「彩雲流れ」(40年、新東京ビル)、「日月と東海の四季」(名古屋駅新幹線口)、「松と海」(新大阪駅貴賓室)などを制作している。晩年にはステンドグラスも制作。美術教育にも尽くし、武蔵野美術大学、東京芸術大学で教鞭を取ったほか、44年には岐阜県教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与した。41年中日文化賞を受賞、53年東京セントラル美術館で「矢橋六郎画業50年展」が開催された。 モダンアート展出品略歴第5回展(昭和30年)「無花果」「田植の頃」「桃果」「麦刈」「メヌエット」、10回(35年)「田園の冬」「ベニスの橋」、15回(40年)「田園冬日」、20回(45年)「春」、25回(50年)「サンジオルジオベニス」、30回(55年)「ポルトガルの夏」、35回(60年)「砂丘」、38回(63年)「ローマのテラス」

山本孝

没年月日:1988/06/09

東京画廊を設立し日本の現代美術の展開に寄与した山本孝は6月9日午後6時35分、肺しゅようのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年68。大正9(1920)年3月12日、新潟県村上市に生まれる。昭和4(1929)年上京。東京市池袋第二小学校高等科を卒業し、8年、骨董商平山堂商店につとめる。戦後、同20年再び平山堂商店に入り、23年独立して数寄屋橋画廊を設立。25年に同画廊を解散し翌26年東京画廊を設立する。33年斎藤義重展を開催し、その後前衛的な現代作家の作品を次々と紹介。桂ゆき、白髪一雄、高松次郎、前田常作、豊福知徳、川端実、李禹煥などの個展を開き、また、フンデルト・ワッサー、イブ・クラインなど海外の作家の紹介にもつとめた。33年日本洋画商協同組合の創立に参加し、53年より60年までその理事長を務める。数寄屋橋画廊時代の同僚、志水楠男らとともに現代美術を対象とする画廊の創成期をになった。

林景正

没年月日:1988/06/06

美濃古陶器の再現につとめ、「黄瀬戸の景正」と称された陶芸家林景正は、6月6日急性肺炎のため岐阜県土岐市の自宅で死去した。享年97。明治24年(1891)1月24日岐阜県土岐郡に生まれ、同38年泉中央高等小学校を卒業する。昭和初年、美濃古窯出土の陶片に感動し、桃山期を代表する華麗な黄瀬戸の再現に情熱を傾けるに至った。以後、北大路魯山人らとの交友のなかで刺激を受けながら、40年間に及ぶ研究の末、その再現に成功した。荒川豊蔵らとともに今日の美濃焼隆盛の原動力となったとともに、とりわけ黄瀬戸の名人として名をなした。昭和33年、黄瀬戸の技術保持者として、弟景秋とともに岐阜県重要無形文化財保持者に認定された。同40年土岐市文化功労章を、同48年には岐阜県功労者表彰をそれぞれ受けた。

田川寛一

没年月日:1988/06/04

行動美術協会会員の洋画家田川寛一は、6月4日午前9時51分、心不全のため大阪市住吉区の阪和病院で死去した。享年87。明治33(1900)年11月25日、大阪市に生まれる。高等小学校を卒業して大正6(1917)年赤松麟作の画塾に入門する。昭和2(1927)年第14回二科展に「縞の洋服」で初入選し、戦前は同会に出品を続ける。また、全関西洋画協会展にも出品し、同7年同会会員となる。戦後は、行動美術協会に参加し、21年第1回展より出品して会員に推挙される。昭和初年より戦前は赤松洋画研究所講師、同34年からは大阪市立美術研究所講師をつとめ、関西洋画の興振につとめた。明快な色面で構成した風景、人物画を多く制作している。 行動展主要出品歴第5回(昭和25年)「秋の夜のものがたり」「鳥影」、第10回(30年)「親舟子舟」「奥多摩の衰愁」「渦潮」、第15回(35年)「千早」「吉野」、第20回(40年)「大阪城遠望」「VICTOR」、第25回(45年)「コクリコ」「長者原」、第30回(50年)「踊り子のComposition」、第35回(55年)「半寿のときに」、第40回(60年)「遠雷」

小貫政之助

没年月日:1988/06/03

元自由美術家協会会員の洋画家小貫政之助は、6月3日、すい蔵がんのため東京都立川市の立川病院で死去した。享年63。大正14(1925)年1月10日、東京都京橋区に生まれる。昭和12(1937)年月島小学校を卒業して月島絵画塾に入り、同16年、太平洋美術学校に入学。19年同校を卒業する。27年西田勝、木内岬、木内廣と絵画彫刻四人展をサヱグサ画廊で開催。同年第16回自由美術展に「女人」を初出品する。28年、瀧口修造の推薦によりタケミヤ画廊で個展を開く。31年自由美術家協会会員に推挙され42年に同会を退くまで出品を続ける。以後、フォルム画廊での個展を中心に作品を発表し、47年フジテレビギャラリーで個展開催、53年、銅版画集『小世界』をフジテレビギャラリーより出版する。没後の64年、池田二十世紀美術館で「小貫政之助の世界展」が開催された。

秋山逸生

没年月日:1988/05/22

木象嵌の重要無形文化財保持者(人間国宝)秋山逸生は、5月22日午前11時44分、狭心症のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年86。明治34(1901)年9月27日東京に生まれる。本名清。大正8(1919)年、芝山象嵌の島田逸山に入門し、以後、兄の秋山聴古に木画を、金工の桂光春に彫金を学ぶ。昭和17年第5回新文展に「銀線文象嵌箱」で初入選。以後同展、戦後は日展に出品。また、同41年第13回日本伝統工芸展に「蝶貝象嵌箱」で初入選する。同56年同28回展に「輪華文縞黒檀印箱」を出品してNHK会長賞を受賞。62年重要無形文化財「木象嵌」保持者に認定される。木象嵌の分野では初めての認定となった。奈良時代の木画の技法を取り入れ、貝、象牙などの他に金銀赤銅を用い、モダンで明快な作風を示して木象嵌に新風を吹きこんだ。

羽石光志

没年月日:1988/05/11

日本美術院理事の日本画家羽石光志は、5月11日午前10時半、肺がんのため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年85。明治36(1903)年1月1日栃木県芳賀郡に生まれ、本名弘志。大正5年小堀鞆音に師事したのち、同8年川端画学校に入学する。12年卒業し、昭和6年鞆音没後、15年より安田靫彦に師事する。この間、昭和8年第14回帝展に「正岡子規」が初入選、15年紀元2600年奉祝展にも「畑時能」を出品した。靫彦に師してからは、16年第28回院展に「阿部比羅夫」を初出品、以後院展に出品する。翌17年第29回院展「忠度」、21年同第31回「閑日」、22年第32回「片岡山」、23年第33回「古今集撰集の人々」が、いずれも日本美術院賞を受賞。さらに、24年第34回院展「垣野王」、27年第37回「古墳」、29年第39回「黄河」が奨励賞、28年第38回「難波の堀江」が佳作賞を受賞したのち、30年第40回「土師部」が再び日本美術院賞を受賞。31年第41回「正倉院」は日本美術院次賞となり、同年同人に推挙された。この間、昭和19年奥村土牛、村田泥牛とともに東京美術学校講師となり、26年まで後進の指導にあたる。戦後は、新聞、雑誌の挿絵も描き、また時代衣裳の考証のため歴世服飾研究会を組織、世話人をつとめた。43年第53回院展で「いかるがの宮(聖徳太子)」が内閣総理大臣賞を受賞、45年以降日本美術院評議員、理事を歴任する。一方、39年より41年にかけて文化庁の依嘱により「伴大納言絵詞」を模写し、43年の法隆寺金堂壁画再現模写事業でも第2号、第6号壁を模写。46年より翌年にかけては、日光陽明門天井画「双龍図」の復元にあたった。安田靫彦の画風を継ぎながら、歴史や時代、衣裳考証に基づく歴史画を描いた。43年より53年まで名古屋造形短大顧問教授もつとめている。

宮下善寿

没年月日:1988/05/09

日展参与の陶芸家宮下善寿は、5月9日午後8時、肺ガンのため、京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年86。明治34(1901)年6月13日、京都市東山区に生まれる。本名善寿。大正5(1916)年、京都市立陶磁器伝習所でろくろ成形技術を学ぶ。兵役を経て昭和元(1926)年、京城市の高麗焼研究所に入り、朝鮮古窯に興味を抱く。翌2年帰国。4年より日本陶芸協会に参加して、その主宰者河村蜻山に師事。同12年第1回新文展に「瑠璃釉釣花器」で初入選後、同展、日展へと出品を続け、24年第5回日展に「陶器紅映瓷花壷」を出品して特選受賞、30年第11回日展でも「秋慶文盛器」により特選を受け、翌年第12回日展に無鑑査出品、33年第1回新日展では審査員をつとめる。34年、日展会員となる。卓抜なろくろによる成形技術をいかし、均整のとれたふくらみのある形体、独特の紫味を帯びた青釉を特色とする作品を多く製作する。50年には第9回改組日展に「白翠瓷飾瓶」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。51年、京都府美術工芸功労者、56年京都市文化功労者に選ばれた。

小川緑

没年月日:1988/05/06

春陽会会員の洋画家小川緑は、5月6日午後4時15分、肺炎のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年81。明治39(1906)年12月29日、北海道小樽市に生まれる。本名義勝。太平洋美術学校卒業後、本郷絵画研究所、前田寛治自由画室に学び、太平洋画会展、中央美術展などに出品する。昭和4(1929)年より6年まで外遊。14年第17回春陽会展に「教会の窓」で初入選し、以後同展に出品を続ける。23年第25回同展で春陽会賞を受賞し会友に推挙され、28年同会会員となる。長崎市の風景やキリシタン遺跡を好んで描き、「聖なる丘」「天主堂」(昭和34年第36回春陽会展)、「殉教者行く道(西坂の丘)」(39年第41回同展)、「異人館」(43年第45回同展)ほかの作例があり、長崎国際文化協会理事、長崎市「中島川を守る会」会長もつとめた。34年長崎県文化功労者として顕彰される。晩年の作品に「寺中仏煙」(50年第52回春陽会展)「追想PAKISTAN」(49年第51回同展)などがある。

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