本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





宇野三吾

没年月日:1988/01/28

元日本工芸会理事の陶芸家宇野三吾は、1月28日午後7時10分、心不全のため京都市左京区の比叡病院で死去した。享年85。明治35(1902)年8月10日、陶工宇野仁松の四男として京都市東山区に生まれる。京都市立美術工芸学校を経て京都市立陶磁器試験所特別科に入り、大正9(1920)年同科を卒業する。昭和4(1929)年第10回帝展に「金魚彫文辰砂壷」で初入選し翌年第11回帝展にも「麦文紅釉花瓶」で入選するが、以後は個展を中心に作品を発表する。昭和18年国画会展に出品したほか戦後の一時期二科会展に出品している。22年四耕会を創設。24年滋賀県に上代緑釉の窯跡を発見し、水野清一、藤岡了一らと共にその研究に従事。30年より日本工芸会会員となり同年第2回日本伝統工芸展に「黄釉壷」を出品、以後同展に出品を続け、33年同会理事となる。50年京都府美術工芸功労者、55年京都市文化功労者として顕彰された。古陶磁とその釉薬の研究を続け、ペルシャ陶器の青に着想を得た独自の青色陶磁器を作りあげた。前衛的な試みも行ない、古典に根ざした代的造形で知られる。著者に「日本のやきもの・京都」(昭和48年)がある。

新井喜惣次

没年月日:1988/01/28

スポーツに取材した人物像で知られる彫刻家新井喜惣次は、4月7日午後2時18分、じん不全のため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年95。明治26(1893)年3月12日、栃木県足利市に生まれる。大正5(1916)年東京府豊島師範学校を卒業し、昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科選科に入学。のち本科に転科し、8年同校本科を卒業。11年同研究科を修了する。朝倉文夫に師事し、朝倉塾展に出品を続けるほか、昭和9年第15回帝展に「槍投」で初入選。12年第8回国際美術教育会議に日本側委員として出席するために渡仏する。ひき続きパリで彫刻を研究し、欧米を巡遊して13年に帰国する。戦前は構造社展にも出品。戦後は21年の第1回展から日展に出品し、24年第5回展出品作「鉄鎚投」、36年第4回新日展出品作「タックル」など躍動する肉体の一瞬をとらえたブロンズ像を多く制作する。24年より東京学芸大学助教授となり、26年同教授となって31年停年退官するまで長く後進の指導に当たる。その後も昭和学院短期大学教授、東京成徳短期大学教授を歴任し、54年東京成徳短大名誉教授となった。雅号として孤巌の号を用いた。

福田青藤

没年月日:1988/01/28

日本南画院副理事長の日本画家福田青藤は、1月28日午後3時30分、心不全のため大阪府池田市の市立池田病院で死去した。享年91。明治29(1896)年9月29日大阪市福原区に生まれ、本名忠雄。大阪市立西野田尋常高等小学校高等科を卒業後、永松春洋に師事する。大阪美術学校に学び、同校を卒業。春洋門下の矢野橋村に師事し、南画を学ぶ。昭和5年第11回帝展に「秋山夕照」が初入選し、8年第14回帝展に「水濱暮色」が再び入選。11年の文展鑑査展にも「幽翠」を出品し、洋風を加味した繊細な南画作品を制作した。13年第1回日本新興南画院展「幽禽還山」、17年第1回大東南宗院展「秋晨」など、南画をめぐる新たな創作運動にも参加。また南京、揚州、抗州、盧山など2ケ月にわたって中国を遊歴し、風景を探勝した。戦後、35年に再興された日本南画院に参加し、同展で文部大臣賞、桂月賞、南画院賞などを受賞、常務理事、副理事長などを歴任した。また大阪美術協会にも参加し、会長、顧問をつとめている。

山東洋

没年月日:1988/01/15

新制作協会会員の洋画家山東洋は、1月15日午前3時2分、脳出血のため東京都中野区の中野江古田病院で死去した。享年66。大正10(1921)年8月12日、和歌山市に生まれる。昭和21(1946)年中央大学法学部を卒業。戦後間もなく猪熊弦一郎に師事し、その主宰になる田園調布純粋美術研究所に学ぶ。21年第10回新制作展に「花と少女」で初入選し、以後同展に出品を続ける。26年第15回展に「海辺の詩」「裸婦二人」「対話」を出品して新作家賞受賞。27年第16回展に「海辺」「鳥篭」を出品して同じく新作家賞、29年第18回展に「鳥」「海辺の家族」を出品して三度同賞を受賞する。30年第19回展に「午後の海」「鳥と女」を出品して新制作賞受賞、翌31年同会会員となる。43年より2年間、欧米を巡遊。大胆にデフォルメした女性像を明快な原色を用いた抽象的背景の中に配し、「神々の祝福」「女神達の賛歌」など神的なイメージを追求した。53年東京セントラル美術館で個展を開いたほか、安井賞展にも2度出品している。

内藤四郎

没年月日:1988/01/12

重要無形文化財保持者(人間国宝)の彫金家内藤四郎は、1月12日午後6時30分、心不全のため浦和市の自宅で死去した。享年80。明治40(1907)年3月14日東京に生まれる。東京府立工芸学校で金属工芸を学んだのち、東京美術学校金工科に入学。清水亀蔵、海野清に師事して、昭和6(1931)年同校を卒業する。この間、昭和4年第10回帝展に「銀製草花文打出小箱」で初入選。同9年東京美術学校研究科を修了する。同11年文展鑑査展に「柳波文平脱小箱」を出品して特選となる。また、同年より国画会展工芸部にも出品し、同14年同会同人に推薦される。のち同会を退き新匠会に参加して会員となる。26年新匠会を退会して翌27年生活工芸集団を設立。36年より日本工芸会会員として日本伝統工芸展に出品する。一方、後進の育成にもつとめ、昭和16年より国立工芸技術講習所に勤務、24年より東京美術学校助教授となり、35年より49年まで東京芸術大学で教授としてデザイン基礎理論を講じた。蹴彫、平脱を得意とし、線条文様をいかした小箱を多く制作し、53年重要無形文化財保持者に認定された。

吉澤忠

没年月日:1988/01/12

美術史家で、元東京芸術大学教授、国華編輯委員、文化財保護審議会専門委員の吉澤忠は1月12日、心不全のため横浜市西区東ケ丘の自宅において死去。享年78。明治42(1909)年6月15日、東京の医師の家に生れた。幼児の頃隣家に住していた板谷波山に可愛がられ、後年『板谷波山伝』等波山に関する著作があるのもそうした縁による。浦和高等学校から東京帝国大学文学部美術史学科に入学、同大学院へ進み、昭和8年同研究室副手となる。大学では瀧精一の下で中国美術を専攻。昭和10年文部省重要美術品等鑑査事務嘱託、昭和16年東方文化学院研究員嘱託を経て昭和21年文部省重要美術品等調査嘱託となった後、東京国立博物館嘱託から同23年文部技官として同館に勤務。しかし、同館の民主化運動の推進者としての活動が起因となり翌24年に依頼免官となった。この時同じく退職した藤田経世等と文化史懇談会を創設した。この会の成果のひとつとして、『日本美術史叢書』(東京大学出版会)があげられるが、自身は『渡辺崋山』を執筆している。 昭和27年より多摩美術大学講師として教鞭をとる一方、昭和33年9月より国華編輯委員として古美術研究誌「国華」の編輯に参加。爾来没するまで、南画を中心として30余の論文を発表し、170点余の作品を紹介している。昭和38年には東京芸術大学講師となり、同52年の退官まで同大で教鞭をとる(同40年助教授、同42年教授)。同61年には同大名誉教授に推された。 その研究領域は昭和17年「国華」に発表した「南画と文人画」以後、主として日本の南画にしぼられ、南画を体系的に把握し、日本南画研究の骨格をつくった業績は高く評価される。その研究の大要は『日本南画論攷』によって窺うことができるが、自己の仕事をふりかえりみて述べたその後書きでもわかるように、一貫して画も思想であるという観点に立ち、画家の生き方と画との関連を追求するものであった。 またその関心はいわゆる古美術にとどまらず、近現代の美術に及んで『横山大観』等を著し靉光を語り、昭和24年制定された文化財保護法をはじめとする文化財行政にも強い関心をもち「明治・大正時代と現代との古美術評価の変化」等の論文を著わすとともに、日本の現代美術の舌峰鋭い批判者でもあった。こうした研究上の課題や関心は、すでに昭和29年に刊行された『古美術と現代』において鮮明に語られており、上記の仕事が一貫して美術と人間と社会をめぐる問題意識のもとに展開されたものであることが理解される。同時に本書で示されている美術史家・作家の姿勢、伝統と創造、美術行政などについてのするどい指摘はいまなお古びていない。 病躯をおして「国華」百年の論文に目を通し、選択し編んだ『国華論攷精選』が、最後の仕事となった。 主な著作・論文等南画と文人画 国華 622、624~626 昭和17年9月、昭和18年1月美術界の封建性 日本評論 21-12 昭和21年12月参議院文化財保護法批判 日本歴史 19 昭和24年9月田能村竹田の敗北 国華 696~699 昭和25年3月、昭和25年6月浦上玉堂筆東雲篩雪図 国華 706 昭和26年1月崋山-特にその描線について- 美術史 9 昭和28年6月古美術と現代 昭和29年8月崋山の周囲と大鹽事件 上、下 国華 765、766 昭和30年11月、12月渡辺崋山 日本美術史叢書 昭和31年11月大雅 日本の名画 昭和32年3月池大雅画譜 第1-5輯(編集、図版解説) 昭和32年2月、昭和34年5月横山大観-日本近代画のたたかい- 美術出版社 昭和33年9月関西の南画と江戸の南画 萌春 61 昭和33年11月大雅二十代の作品-年記のある作品を中心に- 美術研究 201 昭和34年3月池大雅における様式転換-二十代・三十代の作品を中心に- 国華 811 昭和34年10月渡辺崋山筆 一掃百態図について 国華 812 昭和34年11月彭城百川筆陶原家の襖絵について 国華 619 昭和35年12月浦上玉堂筆煙霞帖について 国華 830 昭和36年5月大雅伝説の信憑性 国華 836 昭和36年11月横山大観 日本近代絵画全集 15 昭和37年8月菱田春草 日本近代絵画全集 16 昭和38年6月崋山の田原塾居とヒポクラテス像 国華 873 昭和39年10月彭城百川筆秋山風雨図 国華 882 昭和40年9月板谷波山伝 昭和42年大雅・蕪村と十便十宜画冊 十便十宜画冊(解説) 昭和45年5月日本美術史(編集分担執筆) 昭和45年横山大観の人と芸術 重要文化財「生々流転」(複製)解説 昭和46年11月明治・大正時代と現代との古美術品評価の変化 国華 949 昭和47年8月池大雅 ブック・オブ・ブックス日本の美術 26 昭和48年3月立原杏所筆葡萄図 国華 967 昭和49年4月放蕩無頼の絵画-日本南画の主流として- 文学 42-10 昭和49年10月如意道人蒐集画帖について 国華 975 昭和49年11月玉堂・木米・米山人 水墨美術大系 13 昭和50年3月総論、南画の先駆者 水墨美術大系 別巻1 昭和51年3月久隅守景筆夕顔棚納涼図再論 国華 1004 昭和52年9月池大雅筆遍照光院襖絵-特にその制作年代を中心にして- 国華 1007 昭和52年12月浦上玉堂画譜 第1-3輯(編集、図版解説) 昭和52年12月、昭和54年日本南画論攷 昭和52年8月岡田米山人の人と作品 文人画粋編 15 昭和53年3月山水図屏風序説 日本屏風絵集成 2 昭和53年3月序説-近代日本画の展開 日本屏風絵集成 17 昭和54年2月与謝蕪村筆夜色楼台図について 国華 1026 昭和54年8月南画屏風論-大雅・蕪村を中心に 日本屏風絵集成 3 昭和54年11月与謝蕪村 日本美術絵画全集 19 昭和55年4月与謝蕪村筆紅白梅図屏風について 国華 1044 昭和56年8月与謝蕪村の若描きについて-弘経寺墨梅図襖絵にふれながら- 国華 1054 昭和57年8月浦上玉堂筆 圏中書画組合について 国華 1066 昭和58年9月円山応挙筆四季遊楽図巻下絵について 国華 1081 昭和60年3月岡田米山人筆 福寿草図 国華 1091 昭和61年2月久隅守景筆四季山水図屏風について 国華 1095 昭和61年7月同じ図のある池大雅筆蘭亭曲水屏風について 国華 1096 昭和61年8月青木木米筆薦寿南星図扇面を中心にして 国華 1107 昭和62年9月日本の南画 挿花清賞 昭和63年2月

福田新生

没年月日:1988/01/09

一水会委員、日展参与の洋画家福田新生は、1月9日午後4時45分、自然気胸のため東京都八王子市の陵北病院で死去した。享年82。明治38(1905)年3月3日、福岡県小倉市に生まれる。大正11(1922)年福岡県豊津中学校を卒業。13年第11回光風会展に初出品し、14年第12回同展に「洗足の丘」「白き温室の見える風景」を出品して光風賞受賞、15年同展に「静物」「帽子のある静物」を出品して再び光風賞を受け、翌昭和2(1927)年にも同賞を受賞する。この間の大正15年川端画学校修了。同年第7回帝展に「静物」で初入選。また、同年より槐樹社に出品する。昭和4年槐樹社の解散により旺玄社の会員となるが9年に退会。15年より一水会展に出品を始め同年の第3回展に「日向葵」「喇嘛廟」を出品して岡田賞受賞。21年同会会員となり、25年第12回展に「哀しい平和」「巷の女たち」を出品して会員佳作賞、27年にも「鉄骨作業」「白い建物」で同賞を受け同年一水会委員に推される。また、23年には第4回日展に「戦おわる」を出品して特選となる。30年渡欧し翌年帰国。日展審査員をたびたびつとめ、35年日展会員となる。45年第2回改組日展に「土蔵の前で」を出品して内閣総理大臣賞受賞。55年日展参与となる。農漁村で労働する人々を好んで描き、生活の力強さを画面に表した。著書も多く、『北満のカザック』『拓け行く満州』『人民の日本美術史』『美術と思想の話』『レーピン伝』『抽象美術の解体』『画家の日記』『土に生きる画家たち』などを著している。 帝展、新文展、日展出品歴大正15(1926)年第7回帝展「静物」、昭和2(1927)年(8回)「支那壷のある静物」、3年(9回)「酒場」、4年(10回)不出品、5年(11回)「渓流」、6~13年不出品、14年第3回新文展「カザックの娘」、16年(4回)「北満の農夫たち」、17年不出品、18年(6回)「牧草刈り」、21年第1回日展不出品、同年(2回)「男体山を望む」、22年不出品、23年(4回)「戦おわる」(特選)、24年(5回)「小春日」、25年(6回)「復興させ給え」、26年(7回)「冬濤ひびく」、27年(8回)「新宿零時」、28年(9回)「職場の娘」、29年(10回)「鵜飼図」、30~32年不出品、33年第1回社団法人日展「北九州風景、小倉」、34年(2回)「英彦山」、35年(3回)「コロンボの少年たち」、36年(4回)「足摺岬の朝焼」、37年(5回)「ヴェトナムの農夫」、38年(6回)「種いも撰り」、39年(7回)「白鷺の藪」、40年(8回)「祈り」、41年(9回)「釜ケ崎のタロー君」、42年(10回)「メコン・デルタ」、43年(11回)「帆曳船の若者(霞ケ浦)」、44年第1回改組日展「山の老人」、45年(2回)「土蔵の前で」、46年(3回)「なまはげ」、47年(4回)「炉ばたの人」、48年(5回)「朝市の女」、49年(6回)「しょいこ(背負い子)」、50年(7回)「老いたる海女」、51年(8回)「馬橇が往く」、52年(9回)「運ぶ女たち」、53年(10回)「漁村にて」、54年(11回)「春耕」、55年(12回)「稲架かけの農婦」、56年(13回)「豚を飼う農婦」、57年(14回)「英彦山・南岳」、58~62年不出品

梶原緋佐子

没年月日:1988/01/03

美人画で知られる日本画家梶原緋佐子は、1月3日午後8時10分、老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年91。明治29(1896)年12月22日京都祇園の造り酒屋に生まれ、本名久。大正3年京都府立第二高等女学校卒業後、竹内栖鳳門下で同校で教えていた千種掃雲の勧めにより画家を志望し、菊池契月に入門。木谷千種、和気春光らとともに、契月塾の三閨秀と称される。同7年第1回国画創作協会展に「暮れゆく停留所」を出品し、選外佳作となる。次いで、9年第2回帝展に「古着市」が初入選し、以後10年第3回帝展「旅の楽屋」、13年同第5回「お水取りの夜」、14年第6回「娘義太夫」、15年第7回「矢場」など、下層に生きる女性風俗を題材に社会性の強い作品を描く。昭和に入り、5年第11回帝展「山の湯」、6年第12回「いでゆの雨」、8年第14回「機織」など、師契月の画風を受けた明澄な作風へと移行。戦後、22年第3回日展で「晩涼」が特選、27年同第8回「涼」が白寿賞を受賞する。30年頃より舞妓や芸妓を多く題材に、上村松園亡きあとの京都画壇の美人画の伝統を守り続けた。また昭和5年大阪府女子専門学校の日本画講師となり、8年韓国、10年中国、43年欧州を旅行。43年日展評議員となり、49年より同参与をつとめた。また51年京都市文化功労者となり、54年には画業60年記念「梶原緋佐子展」が開催された。早くより吉井勇に師事して和歌も学び、歌集『逢坂越え』(大正13年)なども出版している。

内藤隶

没年月日:1988/01/03

官展を中心に活躍した洋画家内藤隶は、1月3日午後2時27分、老衰のため千葉県大原町の自宅で死去した。享年87。明治33(1900)年4月21日、東京都江東区に生まれる。本名能福。東京府立第三中学校を中退して本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事。大正15(1926)年第7回帝展に「花畑」で初入選し、9回帝展には「初秋の丘と庭」、10回展には「初秋」を出品。新文展にも第1回展から「木蔭の池」で入選し官展に出品を続ける。庭に取材した作品が多く、色彩豊かで穏やかな作風を示す。春台美術展に参加して同会会員、委員となり、また千葉県美術会創設委員となって郷里の美術振興に尽くし千葉県展名誉会員となる。晩年は無所属となって画壇を退いた。

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