本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





森村宜永

没年月日:1988/05/04

日本画院顧問の日本画家森村宜永は、5月4日午後4時37分、直腸がんのため名古屋市中村区の鵜飼病院で死去した。享年81。明治39(1906)年6月10日名古屋市に生まれ、本名行雄。東京美術学校在学中より、画才を見込まれて名古屋の画家森村宜稲の娘婿となり、稲門と号す。昭和4年東京美術学校を卒業し、松岡映丘に師事する。同4年第10回帝展に「砂丘」が初入選し、以後5年同第11回「爽空」、6年第12回「志摩の磯わ」、7年第13回「採鮑」、8年第14回「沼」、9年第15回「雨」と連年入選。海辺や水辺の風景に多く取材した大和絵作品を発表する。11年文展鑑査展に「駿牛」、12年第1回新文展に「新樹」を出品。13年義父宜稲が死去したのち、「實と花」を出品した14年第3回新文展以降、宜永の名で出品している。また昭和10年映丘が盟主となって結成した国画院は、13年映丘が死去したのち展覧会活動を休止、国画院研究会として存続したが、同会にも会員として参加している。戦後、能を多く題材とした作品を制作。日展には24年より出品し、同年第5回「秀吉の能」、25年第6回「海のそよ風」、26年第7回「雲影」、27年第8回「熊野」、28年第9回「隅田川」、29年第10回「寂光院」、30年第11回「楊貴妃」、31年第12回「鏡の間」、32年第1回新日展「花」、33年同第2回「鶴」などを出品している。一方、28年日本美術協会展でやはり能を題材とした「黒塚」により日本美術協会総裁賞を受賞。また日本画院にも出品し、29年新同人に推挙された。のち同院顧問もつとめていた。

高橋常雄

没年月日:1988/05/03

日本美術院同人の日本画家高橋常雄は、5月3日午後5時20分、肝蔵がんのため神奈川県南足柄市の大内病院で死去した。享年60。昭和2(1927)年10月27日群馬県前橋市に生まれる。戦後21年、岡部神水の勧めで日本画を始め、25年初め望月春江、次いで同年福王寺法林に師事する。28年第9回日展に津根於の名で「春丘」が初入選、続いて29年同第10回「山」、31年第12回「煙突」などが入選する。33年武蔵野美術学校日本画科に編入学し、奥村土牛、塩出英雄らに学ぶ。34年卒業とともに院展に出品し、35年第45回院展に「嬬恋の山」が初入選した。以後連年入選を重ね、37年院友となる。46年第56回院展「和雅の音」、48年同第58回「修羅」がともに奨励賞を受賞。49年、51年のネパール、ヒマラヤ旅行後は同地に取材した作品を多く発表し、50年第60回院展「聖地巡拝記」、55年同第65回「聖地追想」がいずれも日本美術院賞を受賞した。この間、52年第62回院展「クリシュナ神話より」、54年同第64回「ラト・マチェンドラ祭の灯」、さらに57年第67回「無為」、59年第69回「追想」も、奨励賞を受賞。60年同人に推挙された。このほか、山種美術館賞展にも50年第3回展、58年第7回展「浄境」と出品している。仏教文化の淵源を辿り、、堅固な構図の重厚な作風を展開した。

澤田政廣

没年月日:1988/05/01

木彫界の長老澤田政廣は、5月1日午後11時41分、急性肺炎のため東京都目黒区の本田病院で死去した。享年93。明治27(1894)年8月22日、静岡県熱海市に生まれる。本名寅吉。生家は製材業を営む。大正2(1913)年静岡県立韮山中学を中退し画家を志すが両親に反対され、翌年、遠縁にあたる木彫家山本瑞雲をたよって上京、その内弟子となる。同7年太平洋画会研究所に入り彫刻を学ぶ。10年第3回帝展に「人魚」を出品して初入選、翌年第4回展には「沃土」を出品。13年第5回帝展に「銀河の夢」を出品して特選を受賞する。同年東京美術学校彫刻別科に入学し朝倉文夫に師事。15年同校を卒業する。昭和2(1927)年第8回帝展に「白日の夢」を出品して特選受賞。翌3年「七姫」で、同4年「白鳳」で帝展3回連続特選となる。6年、日本木彫会が結成され、同会会員となる。帝展改組後も新文展、続いて日展に出品し、27年前年の第7回日展出品作「五木之精」で芸能選奨文部大臣賞、翌28年には第8回日展出品作「三華」で日本芸術院賞を受賞。33年日展評議員、37年日展理事となる。また、同年日本芸術院会員となる。48年文化功労者として顕彰され、54年文化勲章を受章する。ブロンズ彫刻隆盛の時期に、木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作する。巨大な一木からノミ跡を残して彫り出す技法を多く用い、大らかで浪漫的な作風を示した。58年新潟県糸魚川市に谷村美術館(澤田政廣作品展示館)が設立され、62年熱海市に同市立澤田政廣記念館が開設された。 略年譜明治27(1894) 8月22日、静岡県熱海町に父澤田小兵衛(製材業)、母とくの三男として生まれる。大正2(1913) 静岡県立韮山中学校中退。画家を志したが両親の反対にあい断念。上京して遠縁に当る木彫家山本瑞雲宅に内弟子として入る。大正7(1918) 太平洋画会研究所に入る。神田台所町に次兄と共に住む。大正10(1921) 第3回帝展「人魚」初入選。大正11(1922) 第4回帝展「沃土」出品。大正12(1923) 11月、矢下とみと結婚。大正13(1924) 第5回帝展「銀河の夢」特選。東京美術学校彫刻別科入学。大正14(1925) 第6回帝展「太陽に向って」出品。大正15(1926) 第7回帝展「影」出品。東京美術学校彫刻別科卒業。昭和2(1927) 第8回帝展「白日の夢」出品。昭和3(1928) 第9回帝展「七姫」特選。帝展無鑑査に推挙される。昭和4(1929) 第10回帝展「白鳳」特選。昭和5(1930) 第11回帝展「伊呂古の宮」出品。昭和6(1931) 第12回帝展「白夜飛星」出品。同審査員をつとめる。日本木彫会の結成に参加し同会会員となる。昭和7(1932) 第13回帝展「華炎」出品。日本木彫会「吉祥天」出品。昭和8(1933) 第14回帝展「春の女神」出品。昭和9(1934) 第15回帝展「白光」出品。同審査員をつとめる。昭和10(1935) 帝国美術院改組に際し、参与に推挙される。昭和11(1936) 文部省展覧会「光明仏身」「善魔魚身」出品。昭和12(1937) 第1回新文展「火星鳥身」出品。同審査員をつとめる。昭和13(1938) 第2回新文展「護持結身」出品。昭和14(1939) 第3回新文展「聖観世音菩薩」出品。日本木彫会「春風」出品。昭和15(1940) 5月、三木宗策らと共に正統木彫家協会を創立し第1回展に「紅衣笛人」出品。昭和16(1941) 第4回新文展「神通」出品。昭和18(1943) 第6回新文展「救世太子」出品。昭和19(1944) 第7回新文展「天彦」出品。昭和21(1946) 第1回日展「うづめの命」、第2回日展「赤童子」出品。両展とも審査員をつとめる。昭和22(1947) 第3回日展「降魔」出品。昭和23(1948) 第4回日展「男習作」出品。昭和24(1949) 第5回日展「釈迦誕生」出品。昭和25(1950) 第6回日展「十一面観音」出品。同審査員をつとめ、日展参事となる。昭和26(1951) 第7回日展「五木の精」文部大臣賞。昭和27(1952) 第8回日展「三華」出品。昭和28(1953) 前年の日展出品作「三華」で日本芸術院賞受賞。第9回日展「愛子母」出品。昭和29(1954) 第10回日展「母神」出品。昭和30(1955) 第11回日展「大聖不動明王」出品。昭和31(1956) 第12回日展「黄泉のしこめ」出品。号を晴廣から政廣へと改める。昭和32(1957) 第13回日展「国立」出品。日本橋高島屋で個展。昭和33(1958) 第1回社団法人日展「レダ」出品。同評議員となる。昭和34(1959) 第2回社団法人日展「曼珠沙華」、日本国際美術展「海に立つおとたちばな姫」出品。日本橋高島屋で個展。昭和35(1960) 第3回社団法人日展「蒼穹」出品。昭和36(1961) 第4回社団法人日展「魚を持つ女」出品。明治書房より『澤田政廣作品集』刊行。昭和37(1962) 日本芸術院会員、日展理事となる。第5回社団法人日展「炎神を生むイザナミノ命」出品。昭和38(1963) 第6回社団法人日展「隠者」出品。昭和39(1964) 第7回社団法人日展「このはなさくや姫」出品。昭和40(1965) 第8回社団法人日展「稜風」出品。日展常務理事となる。昭和41(1966) 第9回社団法人日展「救世に立ちあがる釈迦」出品。昭和42(1967) 第10回社団法人日展「蝶と遊ぶ」出品。明治書房より『彫刻家のアトリエから–澤田政廣リトグラフ集』刊行。昭和43(1968) 高野山金堂金剛王菩薩完成。第11回社団法人日展「白夢におそわれる稲田姫」出品。昭和44(1969) 第1回改組日展「人魚」出品。明治書房より『みほとけを刻んで』刊行。昭和45(1970) 第2回改組日展「長島選手」出品。名古屋松坂屋にて個展。昭和46(1971) 第3回改組日展「笛」出品。日展顧問となる。3月台湾旅行。三越にて個展。昭和49(1974) 第6回改組日展「出家」出品。昭和50(1975) 第7回改組日展「不動明王」出品。昭和51(1976) 第8回改組日展「レダ」出品。昭和52(1977) 第9回改組日展「天人」出品。昭和53(1978) 第10回改組日展「釈迦誕生」出品。昭和54(1979) 第11回改組日展「彌勒菩薩」出品。昭和55(1980) 第12回改組日展「弥勒菩薩」出品。昭和56(1981) 第13回改組日展「十一面観音」出品。昭和57(1982) 第14回改組日展「金剛王菩薩」出品。昭和58(1983) 第15回改組日展「蓮華」出品。昭和59(1984) 第16回改組日展「母子像」出品。昭和60(1985) 第17回改組日展「釈迦三尊仏」出品。昭和61(1986) 第18回改組日展「観世音菩薩」出品。昭和62(1987) 第19回改組日展「大聖不動明王」出品。

村松寛

没年月日:1988/04/28

美術評論家、大阪芸術大学名誉教授の村松寛は、4月28日午前11時50分、胃ガンのため大阪府寝屋川市の青樹会病院で死去した。享年75。明治45(1912)年6月24日京都市中京区に生まれる。昭和11年京都大学文学部史学科(国史)を卒業し、同年滋賀県立八幡商業学校教諭となる。15年朝日新聞大阪本社に入社。20年同社学芸部勤務となり、美術担当記者として美術評論を手がける。37年同企画部となったのちも美術評論を続け、42年6月同社を停年退職。同年10月大阪芸術大学美術学科教授となり、のち同大学名誉教授となる。一方、47年より梅田近代美術館館長、のち大阪府立現代美術センター所長となり、美術館活動にも携わった。著書に昭和35年『美術館散歩』(河原書房)、42年『京の工房』(同)などがある。

和気史郎

没年月日:1988/04/27

独立美術協会会員の洋画家和気史郎は、4月27日午前9時、肺気腫のため大阪市阿倍野区で死去した。享年62。大正14(1925)年8月29日、栃木県塩谷郡に生まれる。昭和12(1937)年栃木県塩谷町玉生尋常高等小学校を卒業。21年宇都宮師範学校本科を卒業する。27年東京芸術大学油画科を卒業。安井曽太郎に師事する。30年第23回独立展に「女」で初入選。以後同展に出品を続け、31年第24回展に「夜の誘惑」「夜の対話」を出品してプール・ブー(奨励)賞、翌年第25回展に「分裂」「抵抗」を出品して独立賞、33年第26回展に「紫野」「翁」を出品して広び独立賞を受け、翌34年同会会員となる。能面や能舞台など能にちなむ主題を多く選び、写実にもとづきながら妖気漂う夢想的世界を描き出した。57年大阪府立現美センターで回顧展が開かれている。

辻利平

没年月日:1988/04/15

日展会員、東光会名誉会員の洋画家辻利平は、4月15日肺炎のため長崎県松浦市の押淵病院で死去した。享年87。明治33年(1900)長崎県松浦市に生まれる。昭和3年東京美術学校図画師範科を卒業、同年から大阪に居住し大谷学園に勤める側ら、斎藤与里に師事した。同8年第1回東光会展に出品し奨励賞を受賞、また、第14回帝展に初入選した。同15年東光会会員となり、第8回東光会展に「黒いショール」を発表する。戦後も東光会展、日展に出品、日展出品作に「玄関」(同23年)、「花咲く庭」(同36年)などがあり、同41年第9回日展出品作「窓ぎわ」で菊華賞を受賞した。同44年改組第1回日展審査員をつとめ、翌年日展会員となった、この間、夙川学院短期大学教授として美術科で教え、同47年同短大名誉教授となる。同50年松浦市名誉市民。同56年『辻利平画集』を刊行、回顧50年記念展を開催した。長崎新聞文化章(同56年)、特別教育功労賞(同57年)、長崎県民表彰(同58年)などを受ける。

関野凖一郎

没年月日:1988/04/13

日本版画協会理事、国画会会員の版画家関野凖一郎は4月13日午前5時45分、肺ガンのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年73。大正3(1914)年10月23日青森市に生まれる。青森県立青森中学校在学中に、学友の根市良三の版画に感銘して版画を始める。昭和8(1933)年青森中学を卒業、今純三に銅版画と石版画を学ぶ。11年文展(第二部)にエッチング「河畔」で初入選。13年日本版画協会会員となる。14年に上京し鈴木絵画研究所で油絵を学ぶ一方、恩地孝四郎にも師事。15年日本エッチング協会を設立する。国画会展にも出品し22年同会会員となる。戦後は、32年アジア・アフリカ国際美術展など国際展に多く出品して注目され、33年ロックフェラー財団の招聘により渡米し、一年間アメリカ各地で版画の講義を行なう。35年アメリカ・ノースウエスト国際版画展に「フィレンチェの屋根」を出品してシアトル美術館賞受賞。36年リュブリアナ国際版画展では「花・墓・車」三部作で特別賞を受ける。38年フォード財団の招きで再び渡米しロスアンゼルスのタマリンド石版研究所で石版画を制作する。43年日本美術家連盟常務理事となる。50年、版画集「東海道五十三次」で芸術選奨文部大臣賞受賞。創作版画の創成期にあたって、戦後日本の版画が国際的に評価されるとその代表的作家の一人として活躍した。肖像、裸婦、風景を主な題材とし、木版、銅版、石版など多様な技法を用いた。多作であり、私家本も多く制作したが、一方著作もよくし『版画を築いた人々』『わが版画師たち』『文人画像』『木版画の楽しみ』など、日本近代版画史、版画技法についての著書を刊行している。

永田一脩

没年月日:1988/04/09

プロレタリア美術運動に参加し釣り史研究家としても知られた洋画家の永田一脩は、4月9日午前5時35分、肺線維病のため横浜市の神奈川県立長浜病院で死去した。享年84。明治36(1903)年11月11日、福岡県門司市に生まれる。大正12年東京美術学校西洋画科に入学。同期生であった大月源二らと共に前衛美術運動に参加し、未来派美術協会展などに出品。昭和2(1927)年東京美術学校を卒業し、同年11月に結成された前衛芸術家連盟(前芸)に参加する。3年3月全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成に参加。同年11月の第1回プロレタリア美術大展覧会に出品された「プラウダを持つ蔵原惟人像」は現存する数少ないプロレタリア美術の作例のひとつである。5年一斉検挙にあう。16年東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。戦後は日本美術会会員となり日本アンデパンダン展などに出品する。33年毎日新聞社を停年退職。48年に初めて個展を開催。著書に『プロレタリア絵画論』『ドオミエ/クールベ/ゴッホ』のほか、釣り史研究による『江戸時代からの釣り』などがある。42年に創立された東京勤労者つりの会の会長を長くつとめた。

竹中英太郎

没年月日:1988/04/08

昭和初期、江戸川乱歩らの小説挿絵を描き挿絵界の寵児となった挿絵画家竹中英太郎は、4月8日午前11時54分、虚血性心不全のため東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年81。明治39(1906)年、12月18日、福岡県博多に生まれる。6人の兄姉を持つ末子。2歳で父と死別し困窮のうちに幼年期を送る。のち熊本県菊地郡大津に住む義兄のもとに母子ともにひきとられ、熊本北警察署の給仕となり、熊本中学の夜学に通う。林房雄ら第五高等学校社研のメンバー、徳永直らと交遊を始め、共産主義にひかれるようになり、熊本水平社の創立に参加、無産者同盟を結成して活動に熱中する。そのため警察署を解雇され、のち、検挙されて熊本を去り北九州で坑夫となる。生活難から雑誌『苦楽』に挿絵見本を持ちこみ、大正13(1924)年同誌に大下宇陀児作「盲地獄」の挿絵を発表。陰湿で妖しい独自の画風で注目され、昭和3(1928)年8月『新青年』に江戸川乱歩が発表した「陰獣」の挿絵を手がけて流行作家となる。『新青年』誌を中心に江戸川乱歩、横溝正史らの作品の挿絵を発表。夢野久作、佐々木白羊、下村千秋、三上於莵吉らの挿絵も担当したが、思想的疑問から昭和10年『平凡社名作挿絵全集』に『大江春泥画集』を制作したのを最後に筆を折り、大陸へ渡る。同14年秋、ハルピンで憲兵隊に逮捕され強制送還されて帰国するが挿絵界には復帰せず、15年東京都品川区に町工場を開く。16年第二次世界大戦に伴う企業整備のため工場を閉じることとなり、翌17年山梨日々新聞社記者となって勤労動員署を担当。戦後も同社に奉職し山梨日々新聞論説委員長、山梨県地方労働委員会会長をつとめた。正式な絵画教育は受けておらず、画歴については不明な点が多い。デフォルメされた人体を特色とし、不具、畸型を好んで描き、退廃的で魅惑的な雰囲気を持つ画風を示した。江戸川乱歩との主な作品に昭和3年『新青年』「陰獣」、同4年『朝日』「孤島の鬼」、『新青年』「押絵と旅する男」「悪夢(芋虫)」、同5年『新青年』「江川蘭子」、同6年博文館刊『江川蘭子』装幀・口絵、『探偵趣味』「地獄風景」、『朝日』「盲獣」があり、横溝正史との仕事には、昭和5年『新青年』「芙蓉屋敷の秘密」、同10年同誌「鬼火」、甲賀三郎との仕事には昭和3年『新青年』「瑠璃玉」「緑色の犯罪」、同5年平凡社刊『幽霊犯人』装幀、同6年『週間朝日』「悪魔の勝利」などがある。

高木清

没年月日:1988/04/06

作家菊池寛の小説挿絵で知られる挿絵画家高木清は、4月6日午後10時58分、肺炎のため東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年77。明治43(1910)年8月23日、愛知県一宮市に生まれる。小学校を卒業した後、看板などを描きながら独学し、のち伊東深水に師事。昭和9(1934)年ころ小説家菊池寛に認められ、菊池の雑誌小説の挿絵を手がけるようになる。女性像を得意とし優美な画風で人気を得、菊池寛のほか丹羽文雄、横溝正史、高木彬光の挿絵も担当した。 昭和10年 菊池寛「愛欲二代」(講談倶楽部)、林芙美子「女の部屋」(小樽新聞)昭和11年 菊池寛「紅白の絆」(富士)昭和12年 菊池寛「現代の英雄」(キング)昭和13年 菊池寛「黒白」(講談倶楽部)、「美しき鷹」(大阪毎日新聞、東京毎日新聞)、佐藤紅緑「花咲く丘」(少女倶楽部)昭和14年 佐藤紅緑「美しき港」(少女倶楽部)、丹羽文雄「銀座化粧」(サンデー毎日)、尾崎士郎「空に残れる」(小樽新聞)昭和16年 丹羽文雄「この響き」(報知新聞)昭和25年 横溝正史「八ツ墓村」(宝石)昭和26年 横溝正史「悪魔がきたりて笛を吹く」(宝石)、田村泰次郎「女学生群」(りべらる)昭和27年 高木彬光「我が一高時代の犯罪」(宝石)昭和28年 島田一男「事件記者」(宝石)昭和31年 佐賀潜「第三の殺人」(東京タイムズ)昭和33年 青柳淳郎「皇太子」(東京タイムズ)昭和45年 富島健雄「女の部屋」(大阪スポーツ)昭和51年 丹羽文雄「魂の試されるとき」(読売新聞)

和田新

没年月日:1988/04/05

日本美術家連盟相談役で美術家の国際交流に貢献した和田新は、4月5日午前4時10分、肺炎のため東京都三鷹市の杏林病院で死去した。享年88。明治32(1899)年5月7日大阪市浪華女学校内の主幹住宅に、牧師の青山彦太郎の長男として生まれる。45年単身上京し、母の兄和田英作宅に寓居、明治学院普通部を経て東京美術学校西洋画科に入学し、大正13(1924)年同科を卒業する。昭和2年1月より現在の東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所設立準備事業にたずさわる。4年、東京美術学校助教授となり西洋美術史を講ずる。同年より翌年にかけ文部省の派遣により西アジア美術史研究のため欧州、イラン、イラク等を巡遊する。5年帝国美術院附属美術研究所嘱託となる。10年5月東京美術学校教授となるが同8月依願退官。この年青山家より和田家へ転籍する。12年帝国美術院附属美術研究所所員となり、17年退官。22年日本博物館協会幹事となる。26年日本美術家連盟事務局長となり46年まで長きにわたり美術家の国際交流に尽くし、46年以後も同連盟相談役をつとめる。また、46年よりほぼ毎年油絵個展を開催した。著書に『イーラーン芸術遺跡』(昭和20年、美術書院)などがある。

佐々木信三郎

没年月日:1988/03/24

古代織物研究家で正倉院古裂調査研究員をつとめた佐々木信三郎は、3月24日午後3時59分、老衰のため京都市右京区の双ケ丘病院で死去した。享年89。明治31(1898)年5月10日京都市上京区に生まれる。東山中学校を卒業して第三高等学校理科甲類に学び、昭和4(1929)年京都大学文学部史学科を卒業。考古学を専攻する。西陣織物同業組合西陣史編纂室に入り、7年上代からの流れを追った労作『西陣史』を刊行する。15年より川島織物研究所研究員となり、50年まで同所で古代裂の研究に従事した。また、28年宮内庁嘱託古裂調査員となり29年より45年まで正倉院古裂調査研究員として正倉院御物の研究に従事するほか、華頂短期大学家政学科で日本服飾史を講じた。著書に『西陣史』のほか『日本上代織技の研究』(昭和26年)、『上代綾に見る斜子技法』(33年)、『神護寺経帙錦綾私見』(同年)、『羅技私考』(35年)、『正倉院の羅』(46年)、『上代錦綾特異技法攷』(48年)などがある。51年京都新聞社文化賞を受賞している。

佐藤雅彦

没年月日:1988/03/23

京都市立芸術大学学長、北海道立近代美術館館長をつとめた美術史家佐藤雅彦は、3月23日午後7時40分、脳出血のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年62。大正14(1925)年10月10日、東京都品川区に生まれる。昭和25(1950)年慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業。翌26年大阪市立美術館に入り東洋美術史を研究する。47年より京都市立芸術大学美術学部教授となり、55年より58年まで同大学学長をつとめる。北海道立近代美術館館長でもあった。西アジアの伝統工芸、中国、日本の陶磁史を専門とし、著書に『中国の土偶』『中国陶磁史』『やきもの入門』『中国やきもの案内』『京焼』『乾山』『白磁』『中国の陶磁』、共著に『漢代の美術』『六朝の美術』『隋唐の美術』などがある。

安達健二

没年月日:1988/03/12

元文化庁長官、前東京国立近代美術館館長、文化庁顧問の安達健二は、3月12日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年69。文化行政全般に多大の功績のあった安達は、大正7(1918)年12月22日愛知県春日井市に生まれ、昭和20年東京大学法学部政治学科を卒業、同年文部省に入省した。終戦直後の同省で教育基本法、文化財保護法などの制定を手がけた。同28年文化財保護委員会無形文化課長となり、国指定重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」制度をつくった。以後、初等中等教育局教科書課長、大臣官房人事課長、社会教育局審議官、文化局審議官、文化局長等を歴任し、同43年文化庁次長となり、同47年今日出海に継ぐ第二代文化庁長官に就任、同50年9月まで在任した。同51年1月東京国立近代美術館館長となり、61年3月退官、4月文化庁顧問となった。東京国立近代美術館館長在任10年の間、極めて精力的に同館の運営にあたった。同52年旧近衛師団司令部庁舎跡利用に関し、室内の改装を施し東京国立近代美術館工芸館として開館したのをはじめ、本館の収蔵庫増築を行い、同61年には東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館の竣工をみた。さらに、京橋の同館フィルムセンター建て替え計画も軌道にのせた。一方、同館は開館以来日本近代美術作品の収集を基本としていたが、今世紀の海外作品を含む国際的コレクションとする収蔵方針を打ちたて、ピカソ、ベーコン等の作品を在任中収蔵した。これに関連し海外展の開催にあたっても自ら尽力し、シャガール展(同51年)、マチス展(同56年)、ピカソ展(同58年)、退官後の展観となったゴーギャン展(同62年)等、国内で行われたこれらの作家の展覧会としては最も充実した内容に富む企画展に関与した。また、同52年にはアメリカから日本人画家による戦争画の一括返還を受け、これらを美術作品として部分的に公開する途を開いた。この間、大英勲章(同51年)、フランス芸術文化勲章(同52年)、イタリア共和国勲章(同53年)、世田谷区制55周年特別文化功労章(同62年)等を受章する。没後勲一等瑞宝章受章。著述に『教育基本法の解説』『中等教育の基本問題』『文化庁事始』『悠々閑々 画家の素懐』(日本画家編)などがある。

岩田正巳

没年月日:1988/03/09

日本芸術院会員の日本画家岩田正巳は、3月9日午前5時30分、脳出血のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年94。明治26(1893)年8月11日新潟県三條市の眼科医岩田屯、えつの長男として生まれる。本名同じ。父も愛山と号し日本画を描いた。三条中学校在学中、美術教員秋保親美の影響を受け、44年同校卒業後、翌45年川端画学校で寺崎広業の指導により夜間日本画を学ぶ。大正2年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、松岡映丘らに学び、仏画模写に励む。7年卒業後、同校研究科に進み、映丘に師事、10年同科を修了した。同10年映丘、川路柳虹を顧問に、映丘門下の狩野光雄、遠藤教三、穴山勝堂とともに新興大和絵会を結成、同年の第1回展に「写真」を出品する。以後同会を舞台に大和絵の新しい表現を研究、昭和6年の同会解散まで毎回出品した。この間、大正15年には、映丘一門による夏目漱石作「草枕」の絵巻制作に参加している。一方、大正13年第5回帝展に「手向の花」が初入選し、15年同第7回「十六夜日記」、昭和3年第9回「比叡の峯」など、古典や歴史に取材した作品を発表。昭和5年第11回帝展「高野草創」、9年同第15回「大和路の西行」がともに特選となる。その後、新文展にも出品する一方、昭和10年映丘を盟主として結成された国画院の結成に参加、同人となり、12年の第1回展に「聖僧日蓮」を出品した。13年映丘の死去に伴い、国画院は研究会として存続することとなった。が、一方旧同人を中心に翌14年日本画院を結成、会員となり29年まで同会に出品した。この間、11年映丘、服部有恒、吉村忠夫とともに帝室博物館壁画「藤原時代風俗画」を制作している。戦後は日展を中心に活動し、仏教などにも取材し西域に思いを馳せた作品を制作。35年第3回新日展出品作「石仏」により、翌年日本芸術院賞を受賞、37年にはインドに取材旅行している。27年日展参事となって以後、33年同評議員、47年監事、48年参与、54年顧問を歴任した。また戦後間もない24年頃より2年間東劇、27年頃より2年間歌舞伎座の舞台装置や衣裳の時代考証などもつとめた。52年日本芸術院会員となる。 年譜明治26年 8月11日、三条市の眼科医の家に長男として生まれる。明治33年 三条裏館尋常小学校に入学。明治37年 三条裏館尋常小学校を卒業。三条尋常小学校高等科に入学。明治39年 三条尋常小学校高等科を卒業。三条中学校に入学。明治44年 三条中学校を卒業。明治45年 夜間、川端画学校で日本画を学び、寺崎廣業に指導をうける。大正2年 東京美術学校日本画科に入学する。大正3年 第三教室(大和絵)を選び、主任教授小堀鞆音、助教授松岡映丘の指導をうける。この年頃から多くの仏画を模写する。大正5年 「木蘭往戎図」を描く。大正7年 東京美術学校日本画科を卒業する。双幅の「魏の節乳母」を卒業制作する。東京美術学校日本画研究科に入学し、松岡映丘に師事。松岡映丘の指導のもと、東京美術学校倶楽部で月並研究会が開かれる。大正8年 月並研究会の会場が、松岡映丘宅(常夏荘)に移される。大正10年 映丘塾常夏荘同人の狩野光雅らと、四人で新興大和絵会を結成。東京美術学校日本画研究科を終了。第1回新興大和絵会展に「写真」を出品。大正11年 第2回新興大和絵会展「初夏のさえずり」。大正12年 第3回新興大和絵会展「霧たつころ」。石田ミヨと結婚。関東大震災を機に常夏会は一旦解散。大正13年 第5回帝展に「手向の花」が初入選。大正14年 第5回新興大和絵会展「武蔵野の秋」。大正15年 第6回新興大和絵会展「早春浜辺」。映丘一門で夏目漱石作「草枕」の絵巻を制作し、参加。第7回帝展「十六夜日記」。昭和2年 第7回新興大和絵会展「比叡の峯」「金色夜叉」。第8回帝展「春日垂跡」。昭和3年 第8回新興大和絵会展「かげる比叡」「備後の海」「狭井川のほとり」。第9回帝展「比叡の峯」。昭和5年 第10回新興大和絵会展「尾津の一ッ松」、同展はこの回をもって終了。第11回帝展で「高野草創」が特選受賞。昭和6年 新興大和絵会解散。第12回帝展に「神功皇后」を無鑑査出品。昭和7年 第13回帝展「役小角」。昭和8年 第14回帝展「高野維盛」。昭和9年 第15回帝展に「大和路の西行」で特選となる。昭和10年 松岡映丘を盟主とする国画院の結成に参加し、同人となる。昭和11年 松岡映丘らと帝室博物館壁画の「藤原時代風俗画」(4点)のうち1点を制作。新文展招待展に「浜名を渡る源九郎義経」を出品。昭和12年 国画院第1回展に「聖僧日蓮」を出品。第1回新文展に「富士の聖僧日蓮」を無鑑査出品。昭和13年 第2回新文展に「山に住む公時」を無鑑査出品。昭和14年 川崎小虎らと日本画院を創設し、会員となる。第3回新文展に「木下藤吉郎」を無鑑査出品。昭和15年 第2回日本画院展「忠犬獅子」。この年頃から講談社の雑誌を中心に挿絵を描く。昭和16年 第3回日本画院展「忠盛」。昭和17年 第4回日本画院展「降盛出陣」。第5回新文展に「月に躍る」を無鑑査出品。昭和18年 第5回日本画院展「日蓮」。第6回新文展に「上杉謙信」を招待出品。昭和19年 戦時特別文展「吉田松陰」。新潟県加茂市に疎開。昭和22年 第3回日展に「愛犬」を招待出品。昭和23年 第8回日本画院展「初夏」。第4回日展「第一歩」。東京へ帰る。昭和24年 第5回日展の審査員をつとめ「少女」を出品。この年頃から2年間、東劇の舞台装置、衣装などの考証にあたる。昭和25年 第6回日展に「花さす人」を依嘱出品。昭和26年 第11回日本画院展「あみもの」。第7回日展の審査員をつとめ「鳩」を出品。昭和27年 第12回日本画院展「猫」。第8回日展の運営会参事をつとめ「秋好中宮」を出品。この年頃から2年間位、歌舞伎座の舞台装置、衣装などの考証にあたる。昭和28年 第13回日本画院展「牡丹と光琳」。第9回日展「鏡」。昭和29年 第14回日本画院展「幸若」。第10回日展の審査員をつとめ「夢の姫君」を出品。昭和30年 第11回日展「いかづち」。昭和31年 第12回日展「禽舎」。昭和32年 第13回日展の審査員をつとめ「青夜」を出品。昭和33年 社団法人第1回日展の評議員をつとめ「秋苑石仏」を出品。昭和34年 第2回日展「南風舞曲」。昭和35年 第3回日展の審査員をつとめ「石仏」を出品。昭和36年 日展出品作「石仏」により第17回日本芸術院賞を受ける。第4回日展「仁王」。昭和37年 第5回日展「俑4」。インドに取材旅行。昭和38年 第6回日展の審査員をつとめ「黒い服の李さん」を出品。昭和39年 第7回日展「紅床」。昭和40年 第8回日展「熄む」。昭和41年 第9回日展「李さんと七面鳥」。昭和42年 第10回日展「架」。昭和43年 第11回日展「春昼」。昭和44年 改組第1回日展「緑扇」。昭和45年 第2回日展「浴(印度・ベナレス水浴)」。昭和46年 第3回日展「女神」。勲四等旭日小綬章を受ける。昭和47年 第4回日展の監事をつとめ「神祀」を出品する。昭和48年 第5回日展の参与をつとめ「漢拓(漢画像石拓本)」を出品。昭和49年 第6回日展「群飛」。昭和50年 第7回日展「印度新月」。昭和51年 第8回日展「花と漢拓」。昭和52年 日本芸術院会員に推せんされる。第9回日展「宵」。BSN新潟美術館主催で岩田正巳展が開催される。昭和54年 第11回日展の顧問をつとめ「鴬-一将愛鳥鴬の美聲をよろこぶ」を出品。勲三等瑞宝章を受ける。昭和55年 第12回日展「晨」。昭和57年 第14回日展「夢」。昭和58年 第15回日展「供養の女達」。新潟県美術博物館主催で岩田正巳と三輪晁勢展が開催される。(株)美術出版協会から画集刊行記念としてオリジナル石版画「爽」が刊行される。(『岩田正巳画集』美術出版協会より抜粋)

郭仁植

没年月日:1988/03/03

“モノ派”の先駆的役割を果たした現代作家郭仁植は、3月3日午後8時15分、肺ガンのため東京都板橋区の誠志会病院で死去した。享年68。大正8(1919)年4月18日大韓民国慶尚北道に生まれる。19才の時来日し、昭和16年第11回独立美術協会展に「未完成」が初入選する。戦後26年第36回二科展に「ドリーム」が入選して以後毎回入選、また美術文化協会展にも32年第17回「連作・反逆」などを出品する。同32年新エコール・ド・トーキョー創立に参加するが、34年退会。以後無所属で個展や内外の国際展を活動の場とする。この間、31年第7回読売アンデパンダン展に「進む」「現代」「新しい生」を出品。海外の美術の動向に鋭敏な反応を示していたが、35年頃よりガラスや真鍮、鉄板などを切断したり縫合した独自の作品を探究。素材自体に語らせようとする試みは1970年前後の“モノ派”の先駆的な作品として注目される。40年の第8回日本国際美術展に韓国から招待出品として「作品65-301」「作品65-401」「作品65-402」を出品。44年より和紙を使った作品を制作、和紙にノミをあて円を使った「物と言葉」などを制作する。1970年代末頃からは和紙に彩墨の色斑を施した作品を制作し、「work86-うM」「work86-SK」などを発表、東洋的自然観を現代美術に表現する試みを続けた。44年サンパウロ・ビエンナーレ、51年シドニー・ビエンナーレの代表となり、52年「韓国現代美術の断面」に出品。また版画やガラス、木の立体作品も制作している。59年ギャラリー上田で回顧展が開催された。作品集に58年『郭仁植の世界』などがある。

久富貢

没年月日:1988/02/23

美術評論家、東京学芸大学名誉教授の久富貢は、2月23日午前8時45分、心筋梗塞のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年79。明治41(1908)年8月28日福岡県山門郡に生まれる。広島高等学校卒業後、京都帝国大学に入学し、昭和7年同大文学部美学美術史学科を卒業する。同年東京帝国大学文学部大学院に入学したが、10年中退、日本大学講師となる。12年国際文化振興会に勤務し、21年4月同編纂課長となった。22年中央労働学園専門学校講師、23年3月法政大学講師を経て、25年4月東京学芸大学講師、26年同大教授となり、教鞭をとった。同26年「日本来朝前のフェノロサ(1)(2)」(『国華』712、713)、続いて27年「フェノロサについて」(美学2(4))、29年「アーネスト・フェノロサ-その思想と美術上の活動」(東京学芸大学研究報告第6集別冊(1))を発表。32年にはそれらをまとめ、優れた最初のフェノロサ研究書『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』(理想社)を刊行した。その後も、39年「Lawrence W.Chisolm,“Fenollosa;the Far East and American Culture”について」(東京学芸大学研究報告16(1))、42年「チゾムの『フェノロサ』を中心として」(本の手帖61)、同年「フェノロサとその周辺」(日米フォーラム13(8))などを発表する。34年より36年まで東京学芸大学附属図書館館長を兼任し、39年には文部省在外研究員として欧米に出張している。47年3月東京学芸大学を停年退官、同年6月名誉教授となった。翌48年4月共立薬科大学教授となり、49年跡見女子大学教授(共立薬科大学教授を引続き兼任)となる。この間、38年10月『小川芋銭・富田渓仙』(講談社『日本近代絵画全集』第19巻)、49年1月『前田青邨』(集英社『現代日本美術全集』第15巻)、『安田靫彦』(中央公論社『日本の名画』第14巻)などを刊行。さらに55年『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』に加筆訂正した『アーネスト・F・フェノロサ』(中央公論美術出版社)、56年ジョン・ラファージの日本旅行記を翻訳した『画家東遊録』(中央公論美術出版社、桑原住雄と共著)を出版するなど、フェノロサをはじめ近代日本美術研究に多大の貢献を残した。研究業績については、フェノロサ学会機関誌『Lotus』第9号を参照されたい。

梅津次郎

没年月日:1988/02/21

日本の絵巻物研究の基礎を築く優れた多くの業績を残した、元文化財保護審議会専門委員、元京都国立博物館学芸課長、文学博士、梅津次郎は、2月21日午後10時32分、呼吸不全のため京都市東山区の洛東病院で死去した。享年81。 明治39(1906)年10月19日、三重県宇治山田市に生れた。昭和7(1932)年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同10年5月から21年3月まで帝国美術院付属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)嘱託として日本古代中世絵画史研究に従事し、21年4月からは、当時は恩賜京都博物館と称した京都国立博物館に勤務し、同43年3月、学芸課長として定年退官した。退官後は、同年4月から大谷大学講師、奈良国立文化財研究所調査員を兼ねる一方、同年8月から62年3月まで文化財保護審議会専門委員をつとめた。 生涯を通じて追求した主題は絵巻物研究であった。「実証的な基礎に立たない発言は殆ど無意味である。啓示もそこから生れる。」という姿勢に貫かれた研究からは絵巻の絵と詞に関する異本との詳細な校合が行なわれ、多くの作品が日本絵画史の上に新たに意義づけられていった。研究活動の後半は、絵巻物を説話画の一形態と認識する視点から研究を続けたが、実証的研究を標榜した研究成果は鋭い感性と鑑識に支えられていた。絵巻物研究の水準のみか日本絵画史研究の水準を引上げた目覚しい研究業績の中から定期刊行物所載の論考を中心に発表順に次に記す。新名所絵歌合攷(美術研究29、昭和9年5月)男衾三郎絵詞(美術研究38、10年3月)天狗草紙考察(美術研究50、11年2月)池田家蔵弘法大師伝絵と高祖大師秘密縁起(美術研究78、13年6月)地蔵院本高野大師行状図画-六巻本と元応本との関係(美術研究83、13年11月)東寺本弘法大師絵伝の成立(美術研究84、13年12月)能恵法師絵詞について(美術研究104、15年8月)光明真言功徳絵詞(美術研究112、16年4月)伊保庄本並に津田本天神縁起絵巻に関して(美術研究114、16年6月)魔仏一如絵詞考(美術研究123、17年3月)天神縁起絵巻-津田本と光信本-(美術研究126、17年9月)帝室博物館蔵地蔵縁起絵巻考(美術研究131、18年4月)隨身庭騎絵巻雑記(美術研究136、19年5月)法然寺蔵地蔵縁起絵巻について(美術研究143、22年9月)是害坊絵巻の変遷、上・下(国華、675、676、23年6月、7月)義湘・元曉絵の成立(美術研究149、23年8月)池大雅筆楡枋園図(国華685、24年4月)秋夜長物語(国華687、24年6月)熊野影向図(国華701、25年8月)石清水八幡宮曼荼羅・八幡若宮像(国華704、25年11月)新出の法然上人伝法絵について(国華705、25年12月)善妙神像讃(大和文華1、26年3月)滝口縁起絵(国華718、27年1月)石山寺縁起絵考(美術史6、27年7月)八幡縁起絵巻(国華740、28年11月)後土御門天皇宸賛の墨画庚申図に就て(国華743、29年2月)フリア画廊の地蔵験記絵と探幽縮図(大和文華13、29年3月)大和絵(平凡社「世界美術全集」15、29年8月)高野大師行状絵の零巻について(国華752、29年11月)鎌倉時代大和絵肖像画の系譜-俗人像と僧侶像-(仏教芸術23、29年12月)五趣生死輪図に就いて-絵解の絵画史的考察その一-(美術史15・16、30年4月)「子とろ子とろ」の古図-法然寺蔵地蔵験記絵巻補記(ミュージアム50、30年5月)志度寺絵縁起に就いて(国華760、30年7月)変の変文-絵解の絵画史的考察その二-(国華760、30年7月)有馬温泉寺絵縁起に就いて(大和文華17、30年9月)謝蕪村筆桃源行図(国華771、31年6月)正嘉本天縁神起絵巻について-その出現並びに弘安本との関係-(国華779、32年2月)平安時代の美術(京都国立博物館特別展目録)(32年10月)徳川美術館の掃墨絵について(大和文華25、33年3月)鳥の物語絵巻断簡(国華793、33年4月)初期融通念仏縁起絵について(仏教芸術37、33年12月)東大寺本善財童子絵巻私考(大和文華29、34年4月)天理本源氏物語絵巻について(ビブリア14、34年6月)伝光信筆平家物語絵巻(美術史35、35年2月)日本の説話画(京都国立博物館特別展目録)(35年5月)華厳入法界品善財参問変相経(大和文化研究31、35年11月)矢田地蔵縁起絵の諸相(美術史39、36年1月)硯破絵巻その他-「小絵」の問題-(国華828、36年3月)瓜子姫絵巻の断簡(ミュージアム125、36年8月)版本の絵巻物-融通念仏縁起と高野大師行状図画-(講談社「日本版画美術全集」1、36年9月)粉河寺縁起絵と吉備大臣入唐絵(角川書店「日本絵巻物全集」5、38年8月)絵巻物残欠愛惜の譜(日本美術工芸316~334、40年1月~41年7月)吉備大臣をめぐる覚え書-若狭所伝の三つの絵巻-(美術研究235、40年3月)弘法大師行状絵巻の系譜(日本美術工芸319、40年4月)藤原兼経像(国華884、40年11月)上野家の法華経冊子について(大和文華44、41年1月)常謹撰「地蔵菩薩応験記」(大和文化研究101、41年9月)長谷雄双紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)十二類合戦絵巻(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)福富草紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)絵と絵詞(文学42-3、49年3月)山王霊験記絵巻雑記(国華984、50年9月)なお、これらの論考の大半は、『絵巻物叢考』(43年6月、中央公論美術出版)、『絵巻残欠の譜』(45年1月、角川書店)、『絵巻物叢誌』(47年2月、法蔵館)に収められている。

村田豊

没年月日:1988/02/10

空気膜構造建築の第一人者として知られる建築家村田豊は2月10日午後6時58分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年70。大正6(1917)年11月16日新潟市に生まれる。昭和16(1941)年東京美術学校建築科を卒業し、同年坂倉準三建築研究所に入る。32年坂倉建築研究所を退き、フランス政府招聘技術留学生としてパリに留学、ウージェーヌ・ボードワン、ル・コルビュジェに師事。34年に帰国し、同年村田豊建築事務所を開設する。42年万博本部ビル、45年万博フジグループ・パビリオン及び電力館水上劇場を管圧式空気構造で設計、建設し、45年「管圧式空気構造建築技術の開発」により科学技術庁長官賞を受賞する。46年国際空間構造学会議議長をつとめ、国際会議での講演などでも活躍する。56年神戸ポートピア呼芙蓉グループ・パビリオン、62年国際蘭博覧会の為のパビリオンなど、多くのパビリオン建築のほか、公共のスポーツ・娯楽施設を主に制作した。

中村琢二

没年月日:1988/01/31

日本芸術院会員、一水会運営委員の洋画家中村琢二は1月31日午前8時4分、急性心筋こうそくのため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去した。享年90。明治30(1897)年4月1日、新潟県佐渡相川町に生まれる。洋画家中村研一の実弟。福岡県立中学修猷館在学中、兄の影響で油絵を始める。大正5(1916)年第五高等学校理科に入学。健康上の理由により同校を中退し第六高等学校英法科に入学する。同13年東京大学経済学部を卒業。フランス留学から帰った兄に画家になることを勧められ昭和5(1930)年第17回二科展に「材木座風景」で初入選。同年より安井曽太郎に師事する。12年一水会が創立されると同会に参加し、13年第2回同展に「母と子」ほかを出品して岩倉具方賞を、14年第3回展に「ボレロの女」ほかを出品して一水会賞を受賞し、17年同会会員となる。また、16年第4回新文展に「女集まる」を出品して特選となる。28年第15回一水会展出品作「扇を持つ女」で芸能選奨受賞。37年第5回日展出品作「画室の女」で文部大臣賞を受賞。同作品および同年第24回一水会展出品作「男の像」により38年日本芸術院賞を受け、56年日本芸術院会員となる。風景、人物を主な題材とし、明快な構図、軽妙な筆触を示す。著書に『一日で描く風景画』(共著、58年)、作品集に『中村琢二画集』(59年)がある。

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