池田満寿夫

没年月日:1997/03/08
分野:, (美)
読み:いけだますお

 版画家で、小説執筆、映画監督など多分野にわたり多彩な活動をつづけた池田満寿夫は、急性心不全のため死去した。享年63。昭和9(1934)年旧満州国奉天市に生まれ、昭和20年に郷里の長野県長野市に帰り、この地で成長。昭和27年、18歳で上京、東京芸術大学を受験するが、不合格となった。昭和30年、既成の美術団体を否定したグループ「実在者」の結成に参加、この年、同グループの靉嘔の紹介により瑛九を知った。翌年、瑛九主宰のデモクラート美術家協会会員となり、また瑛九の助言により色彩銅版画をはじめた。昭和32年、美術評論家で、コレクターであった久保貞次郎を知り、彼から援助をうけるようになり、この年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に「太陽と女」が初入選した。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に「女の肖像」、「女 動物たち」、「女」3点を出品、ドライポイントとアクアチントを併用した銅版技法で、繊細だが、奔放な線描による作品がドイツの美術評論家ヴィル・グローマンの推薦をえて、文部大臣賞を受賞、一躍注目されるようになった。同37年の第3回展では東京都知事賞を受賞、ニューヨーク近代美術館版画部長で、同展の国際審査員ヴィリアム・S・リーバーマンにみとめられた。同39年の第4回展では、「夏」、「私は何も食べたくない」、「化粧する女」の3点によって国立近代美術館賞を受賞。この連続の受賞によって、国内外で広くみとめられるようになり、翌年にはニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催した。同41年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門において、28点の出品作品により大賞を受賞した。翌年、第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また、制作の場も、ヨーロッパ各地やニューヨークなどにうつし、精力的に制作をつづけた。この70年代の作品では、雑誌写真などグラッフィックなイメージを画面にとりこみながら、エロチィックなイメージが追求されていた。そして「スフィンクス」、「ヴィーナス」など、銅版画の技法をこらした緻密な表現によるシリーズが生まれた。しかし、帰国後の同51年にはリトグラフ「マンゴ」などにみられるように、一転して奔放でスピード感のある線描があらわれ、さらに琳派への関心から日本回帰を感じさせる平面作品を制作するようになった。また、同52年には小説「エーゲ海に捧ぐ」によって、第77回芥川賞を受賞、翌年には、原作、脚本、監督を担当して、映画「エーゲ海に捧ぐ」を制作した。同58年頃から、作陶をはじめ、翌年からはブロンズ制作もこころみるようになった。同61年には、国立国会図書館新館1階にタペストリー・コラージュ「天の岩戸」を設置。このように創作活動は多岐にわたるようになり、版画制作でも、平成元(1898)年には、コンピューター・グラッフィックによる版画を発表、つねに旺盛な創作活動をつづけた。戦後からの現代版画において、国内外にひろく知られた代表的な作家のひとりであり、その晩年は、マルチ・タレントとしてテレビなどマスコミにも登場し、また作風もピカソを意識していたといわれるように変化しつづけた。没後の同9年4月には、長野県松代町に池田満寿夫美術館が開館、「追悼 池田満寿夫展 初期から絶作まで」が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成11年版(417頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「池田満寿夫」『日本美術年鑑』平成11年版(417頁)
例)「池田満寿夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10572.html(閲覧日 2024-10-10)

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