本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





桜井浜江

没年月日:2007/02/12

読み:さくらいはまえ  洋画家の桜井浜江は、2月12日午前2時50分、急性心不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月15日、山形県山形市宮町に生まれる。桜井家は周辺有数の素封家で15代続く地主。山形県立山形高等女学校(現、山形県立山形西高等学校)在学中、松本巍七郎による図画の授業で絵画に興味を持つ。1924(大正13)年に同校を卒業、26年父省三の決めた縁談を拒否して上京。女子美術学校へ入学手続きを行うが両親の承認を得られず断念。展覧会や上野図書館に通いながら、川端画学校洋画部や岡田三郎助の研究所に出入りするが雰囲気が合わず、1928(昭和3)年代々木山谷に開設された1930年協会洋画研究所に入り、里見勝蔵らの指導を受けた。30年里見らが独立美術協会を結成すると、翌年行われた第1回展に参加、入選を果たす。独立展へ出品を続ける一方、同会に属する女性画家11人らとともに34年女艸会を結成、38年の第6回展まで続けられた。この間、32年に帝大英文科出身の秋沢三郎と結婚、その文学仲間である井伏鱒二や太宰治、檀一雄などの来訪で住まいは多くの文士が集う場となっていた。39年に離婚した後も再会した太宰が仲間を連れて度々訪れ、彼女をモデルに「饗応夫人」を書いている。46年、女艸会創立会員である三岸節子らとともに日本橋の北荘画廊で現代女流画家展を開催、この時の出品者らを発起人として翌47年女流画家協会を結成。49年、北荘画廊にて初の個展を開催。戦前戦中に描いた初期作品にはフォーヴ的なものや、それとシャガール的幻想性が融合された「途上」などの他、「二人」「雪国の少年達」のようにクールでモダンなものと変遷をみせる。46年頃から描かれた「壺」の連作は作為性を殆ど留めず、ナイフのタッチが際立った作風で、荒々しいまでの桜井的厚塗り手法はここでほぼ完成される。やがて「花」、ルオーを思わせる「人物」などのシリーズを手がけ、この時期の作品の中では「象」と「花」が47年の第2回新興日本美術展に出品され読売賞を、「臥像」は51年の第19回独立展(創立20周年記念展)でプール・ブー(奨励賞)を受け準会員となった記念すべき作品である。54年独立美術協会会員となる。戦後日本の洋画界に押寄せた抽象絵画流行の波に些かも流されず、連作「樹」に取り組み始める。大胆に切り取られた構図、その大画面には幹がダイナミックに描かれ、情熱を塗り込めたような赤の色調とともにみるものを圧倒する生命力を放つ。66年第20回女流画家協会展で花椿賞受賞。60年代半ばに差し掛かる頃から山形県鶴岡市の三瀬海岸や、千葉県銚子市にある犬吠崎や屏風岩を取材した連作が開始され、色使いは多彩となりより明るい画面となる。78年頃から大樹をテーマとした100号2枚組の大作を数点制作。晩年まで大画面の作品に取り組み続けるが、90年代から再び、色・構図ともにシンプルな傾向となり、特に赤を好むようになる。やはり山や海などの自然に対する畏敬のまなざしが強く感じられる作品が中心となるが、代表作である1999(平成11)年の「雨あがる、ぶどう棚」は色彩豊かで、それまでになくドライで細やかなストロークとなっている。2002年に体調を崩し入院、それまで制作していた「富嶽」が未完のまま絶筆となった。作品集に『桜井浜江画集』(芸林社、1990年)がある。主な回顧展に「桜井浜江画業展」(1979年、山形美術館)、「桜井浜江―画業65年の軌跡」(1995年、青梅市立美術館)。没後の2008年には「生誕100年記念 桜井浜江展」が山形美術館と一宮市三岸節子記念美術館で開催された。

太田博太郎

没年月日:2007/01/19

読み:おおたひろたろう  建築史家で日本学士院会員、東京大学名誉教授の太田博太郎は1月19日午前11時20分、老衰のため東京都狛江市内の病院で死去した。享年94。1912(大正元)年11月5日、東京に生まれる。1932(昭和7)年旧制武蔵高等学校を卒業後、東京帝国大学工学部建築学科に入学。35年卒業後、法隆寺国宝保存工事事務所助手等を経て、43年東京帝国大学助教授、60年東京大学教授。73年同定年退官、同大学名誉教授。同年より74年まで武蔵野美術大学教授。74年より78年まで九州芸術工科大学学長。78年より1990(平成2)年まで武蔵学園長。92年より97年まで財団法人文化財建造物保存技術協会理事長。伊東忠太と関野貞に始まった日本建築史学を継承、大きく発展させ、戦後における研究の基礎を築いた。その研究の柱は古代・中世の寺院建築史と日本住宅史であるが、そこにとどまらない幅広い分野で活躍した。大学卒業後の数年間、法隆寺をはじめとする文化財建造物の修理工事に現場で携わるが、そこで浅野清から学んだ実証的手法と文献資料の徹底した渉猟をもとに43年、初の著作である『法隆寺建築』を上梓する。47年には日本建築史の代表的概説書として今日も広く読まれる『日本建築史序説』(彰国社)、翌48年には『図説日本住宅史』(同)を著すなど、研究者として一気に頭角を現す。54年、「日本住宅史の研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞、57年には「中世の建築」にて工学博士号を取得している。その研究手法は機能主義的建築史学と言われるが、『書院造』(東京大学出版会、1966年)に見られるように、構造や機能の面から中世仏堂の発生や書院造の成立過程を説明し、その後の人々の日本建築史の理解に多大な影響を与えた。一方で、『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店、1979年)など、研究の基礎となる基本的資料の整理においても大きな実績を残しており、このような基礎資料を重視する姿勢は数多くの全集本の編集に携わったことにも表れている。その代表的成果として、『建築学大系』(彰国社、1954-64年)、『奈良六大寺大観』(岩波書店、1968―73年)、『日本建築史基礎資料集成』(中央公論美術出版、1971年-)、『大和古寺大観』(岩波書店、1976-78年)などがあり、63年には「建築学大系の刊行」で日本建築学会賞(業績)を受賞している。このような研究者の立場とともに、東大任官後も文部技官を併任した時期に十数件の文化財建造物修理工事を監督した実務者の顔を持ち、これが建造物の調査手法の体系化へとつながった。また、文化財の保存をめぐって自ら活発な働きかけを行い、近鉄車庫の建設計画を契機とする平城宮跡の保存問題では最終的に計画の中止と国費による全域買い上げを実現させた。さらには、妻籠宿保存への協力がその後の全国的な町並み保存運動や伝建制度創設につながるなど、多くの場面で先導的な役割を果たした。日本建築学会副会長、文化財保護審議会委員などを歴任し、学会と文化財行政の双方における重鎮であった。金堂や西塔をはじめとする薬師寺伽藍の復元もまた、後世に残る業績として挙げることができる。76年、「妻籠宿の保存」で毎日芸術賞特別賞受賞。84年、勲二等旭日重光章。89年、「日本建築史の広い分野にわたる顕著な研究業績」で日本建築学会大賞。97年、学士院会員。上記以外の主な著作に、『床の間』(岩波書店、1978年)、『歴史的風土の保存』(彰国社、1981年)、『建築史の先達たち』(彰国社、1983年)など。また代表的な論文は、『日本建築の特質』、『日本住宅史の研究』、『社寺建築の研究』(岩波書店、1983-86年)に収録されている。

阿部良雄

没年月日:2007/01/17

読み:あべよしお  ボードレール研究の第一人者で東京大学名誉教授の阿部良雄は、1月17日11時30分、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年74。1932(昭和7)年5月23日、英文学者で小説家であった阿部知二の長男として東京都に生まれる。55年3月東京大学フランス文学科を卒業。同大学院を修了後、58年よりフランス政府給費留学生として3年間パリ高等師範学校(エコール・ノルマール・シュペリユール)に留学。62年、日本フランス語フランス文学会学会誌第1号に仏語論文 “Un Enterrement a Ornan” et l’habit noir baudelairien ― sur le rapport de Baudelaire et de Courbet(「オルナンの埋葬」とボードレールの黒い燕尾服―ボードレールとクールベの関係について)を発表、クールベの«オルナンの埋葬»を取り巻く同時代の批評及びボードレールがクールベに与えた影響関係の是非を検証した。同論文は、その後展開していくボードレールの美術批評研究の出発点となる。63年中央大学文学部専任講師となり、翌年同助教授となる。66年再びフランスに渡り、フランス国立科学研究所の研究員として2年間勤務、68年よりフランス国立東洋語学校講師となる。この間、碩学ジョルジュ・ブランに師事、ボードレール研究を深化させていく。4年間のフランス滞在を終えて70年に帰国、東京大学教養学部助教授となり、76年に同教授となる。コレージュ・ド・フランス客員教授、オックスフォード招聘研究員。1993(平成5)年の退官後は上智大学教授となり、98年より帝京平成大学教授をつとめた。97年から2001年まで日本フランス語フランス文学会会長。研究に対する姿勢は緻密かつ決して妥協を許さないものであった。難解と評されることもあったその文体は、時に行間から生じることのある曖昧さを徹底的に排除する態度から生まれたものである。「構造主義ないし意味論的アプローチが全盛をきわめているように見えるフランスの文学・芸術研究の領域で、本当に面白い発見はやはり徹底的に歴史学的かつ社会学的な探索から生まれてくる」(『群衆の中の芸術家』、中央公論社、1975年、あとがき)とし、一貫して歴史家としての視座にたち、ボードレールが打ち立てた「モデルニテ」概念の究明にあたった。実証的な論考は、ボードレールを軸とした19世紀フランス絵画から19世紀美術に及び、クールベ、マネ、ドラクロワ、ルドン、シャルダンなどに関する論文がある。1983年よりボードレールの個人完訳に挑み、10年をかけて『ボードレール全集』全6巻(筑摩書房)を刊行。原文に忠実かつ正確な翻訳、使用する日本語の適正さ、詳細に加えられた注釈などから、ボードレール文献の決定版となっている。同著は日仏翻訳文学賞を受賞。『シャルル・ボードレール:現代性の成立』(河出書房新社、1995年)によって東京大学人文社会系研究科博士号を取得。第8回和辻哲郎文学賞(学術部門)を受賞。同著の刊行直後にパーキンソン病をわずらい、10年あまりの闘病生活を余儀なくされた。逝去後、ボードレール研究会が追悼シンポジウム「阿部良雄先生とボードレール」(2007年5月19日、明治大学)を開催した他、『水声通信』(18号、2007年6月)が特集号「阿部良雄の仕事」を刊行し、同輩や教え子などが寄せた追悼文及びシンポジウムの発表内容を掲載している。妻は与謝野晶子の孫、文子。主要著書は、上記のものに加え、先の仏語論文の日本語版「«オルナンの埋葬»とボードレールの」を含む62年~79年までの論文・エッセーを収録した『絵画が偉大であった時代』(小沢書店、1980年)、美術と群衆、あるいは美術批評と画家との関わりを論じた『群衆の中の芸術家―ボードレールと19世紀フランス絵画』(中央公論社、1975年)他、以下の通りである。 単著: 『若いヨーロッパ:パリ留学記』(河出書房新社、1962年) 『西欧との対話:思考の原点を求めて』(河出書房新社、1972年) 『悪魔と反復:ボードレール試解』(牧神社、1975年) 『イメージの魅惑』(小沢書店、1990年) 『モデルニテの軌跡:近代美術史再構築のために』(岩波書店、1993年) など  共編著: 渡辺一夫、阿部良雄編『新しいフランス』(河出書房新社、1964年) 草野心平・阿部良雄・高階秀爾著『カンヴァス世界の名画4 クールベと写実主義』(中央公論社、1972年) 高階秀爾監修、阿部良雄編集・解説『現代世界美術全集 25人の画家5 クールベ』(講談社、1981年) 阿部良雄、与謝野文子編『バルテュス』(白水社、1986年) など  翻訳書:  ベネディクト・ニコルソン著、阿部良雄訳『クールベ画家のアトリエ』(みすず書房、1978年) 共訳『アンドレ・ブルトン集成』3、4(人文書院、1970年) ダニエル・マルシェッソー編著、阿部良雄監修・訳『マリー・ローランサン全版画』(求龍堂、1981年) カミーユ・ブールニケル他著、阿部良雄他訳『世界伝記双書 ヴァン・ゴッホ』(小学館、1983年) イヴ・ボヌフォワ著、阿部良雄、兼子正勝訳『現前とイマージュ』(朝日出版社、1985年) など

吉原英雄

没年月日:2007/01/13

読み:よしはらひでお  現代日本を代表する版画家吉原英雄は、1月13日膵臓がんのため死去した。享年76。1931(昭和6)年1月3日、広島県因島市に生まれる。17歳のときから近所の画家のもとに出入りし、クレパス画や水彩画、専門書に触れるうち美術の世界に引き込まれ、とりわけパスキンの水彩に惹かれるようになる。浪速大学(現、大阪府立大学)合格後間もなく喀血し入院、病状が快方に向かうと、二科会会員の彫刻家上田暁に弟子入りし、上田も講師を務める大阪市立美術研究所に通うようになる。52年からは、同じく講師であった遠縁の吉原治良のアトリエに通い、本格的に絵を描き始める。芸大・美大への進学志望から転向して、公募展を目指した吉原の初出品は54年の第2回ゲンビ展であった。ゲンビの中心的存在でもあった吉原治良主導の具体美術協会結成に関わるが55年に脱退、瑛九を代表とするデモクラート美術家協会に移る。「イワンの馬鹿」や「断章」、「都会の重心」「空の標識」といったシュルレアリスティックな油彩画を出品する一方、泉茂の影響でリトグラフを始める。57年、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフ「ひまわり」を出品し池田満寿夫とともに入選、泉茂も招待作家として参加したが、これを機にデモクラートは解散する。国際展に入選すること自体が珍しかった当時にあって、58年には第1回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレに「潜水」が入選。この頃から抽象への移行が現れ始め、その決定的作品となる「黒い流れ」は、機械的に描かれた短い線による表現で、続けて複数の円形を並置する構図や版画の紙を破る技法等を試した後、同一画面上で二つの相似した形を並べる方法を取り始める。65年からリトグラフと銅版の併用を始め、鳥の嘴と女性の肉体、原色のストライプを組み合わせた作品を多数制作した後、68年の第6回東京国際版画ビエンナーレに招待出品し同手法による「シーソーI」で文部大臣賞を受賞。米モード誌の写真から引用したスカートの女性モチーフを反復させた構図と鮮やかなブルーが印象的な本作品は、吉原の代表作であると同時に、日本におけるポップアートの記念碑的作品ともいえる。70年、第20回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。その後リトグラフのみによる「ミラー・オブ・ザ・ミラー」シリーズ、70年代後半には銅版による「剥奪されたもの」シリーズ等を展開。78年に京都市立芸術大学教授に就任、若手を育てる一方で、自身は「ガラステーブル」「二つの地平」などのシリーズを手がける。以降晩年にかけて展開された「モノクロームの人々」「樹の聲・人の聲」「二つの地平―残像」などのシリーズではモノクロームの作品が主となる。1994(平成6)年紫綬褒章受章、翌年京都市文化功労者の顕彰を受ける。96年京都市立芸術大学名誉教授に就任。2002年勲三等瑞宝章を受勲。03年大阪市文化功労者の顕彰を受ける。01年町田市立国際版画美術館にて「吉原英雄の世界―色彩の誘惑・形のエロス―」が、05年ふくやま美術館において「吉原英雄:ポップなアート」展が開催された。

嘉門安雄

没年月日:2007/01/05

読み:かもんやすお  西洋美術史研究、美術評論家で、東京都現代美術館名誉館長であった嘉門安雄は、1月5日、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年93。1913(大正2)年、石川県に生まれる。1937(昭和12)年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。西洋美術史研究者の児島喜久雄教授の助手を務めた。戦後の1947年に東京国立博物館に採用され、同館の表慶館で開催されたマチス展、ブラック展、ルオー展等を担当した。59年開館の国立西洋美術館に転じ事業課長となり、また56年からブリヂストン美術館の運営委員となり、76年12月から1995(平成7)年5月まで同美術館長を長年務め、同美術館のコレクションの収集、各種の展覧会開催の中心として活動した。その間に、東京都現代美術館の設立準備のための諮問委員会委員となり、94年から2000年まで同美術館長を務め、同年4月から同美術館名誉館長となった。また、全国美術館会議の会長、ジャポニスム学会長等も歴任した。戦後の美術復興、そして近年までの美術館人としての活動、美術書刊行による著述活動、美術ジャーナリズムにおける評論活動等、その活動は多岐にわたっていた。しかも、その学術的な関心の領域は、西洋美術史全般、日本の近代美術にまで及んでいるが、なかでもレンブラントを中心にルネッサンス期からバロック、ロココ様式の16、17世紀に広がり、さらに印象派、ファン・ゴッホまで実に広範であった。また戦後から1990年代までの長きにわたるその著述活動を示すために掲出した、下記にあげる著述等の主要業績の一覧は、嘉門安雄個人にとどまらず、一面で戦中期から近年までの日本における「西洋美術研究」史、及び美術評論等の出版の歴史を示すものとなっている。 主要著述・翻訳等一覧:(書名の前に断り書きがないものは故人による単著である。その他は、翻訳、解説、監修等を付し、刊行年順に列記した)。 『西洋美術文庫 第34巻リューベンス』(アトリヱ社、1940年)    『ナチス叢書 ナチスの美術機構』(アルス、1941年)    石井柏亭、嘉門安雄解説『マネ』(鶴亀屋、1942年)    『レムブラント』(侑秀書房、1947年)    翻訳『ブルクハルト著作集 第1巻 チチエローネ.古代篇』(筑摩書房、1948年)    『西洋の名画』(筑摩書房、1950年)    奥平英雄、大久保泰共編著『絵の歴史』(美術出版社、1952-53年)    編著『絵画の見方』(河出書房、1955年)    『図説文庫 第20巻 世界美術物語』(偕成社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第8巻 レンブラント』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第12巻 レオナルド』(大日本雄弁会講談社、1955年)    編集解説『講談社版アート・ブックス 第21巻 リューベンス』(大日本雄弁会講談社、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第6巻』(執筆担当「硲伊之助」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第8巻』(執筆担当「荻須高徳」、角川書店、1955年)    座右宝刊行会編『現代日本美術全集 第9巻』(執筆担当「東山魁夷」、角川書店、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第9巻 北方ルネッサンス』(みすず書房、1956年)    解説『原色版美術ライブラリー 第10巻 北方バロック』(みすず書房、1956年)    責任編集『西洋美術史要説』(吉川弘文館、1958年)    『角川新書 北欧の美神』(角川書店、1959年)    河北倫明等著『近代の洋画人』(執筆担当「満谷国四郎」、中央公論美術出版、1959年)    編著『大原美術館作品選』(大原美術館、1960年)    監修『西洋美術史』(美術出版社、1961年、改訂増補72年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『ポール・ゴーガン』(美術出版社、1961年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第5巻 岸田劉生』(講談社、1962年)    編著『講談社版日本近代絵画全集 第6巻 安井曽太郎』(講談社、1962年)    編著『世界美術大系 第19巻 オランダ・フランドル美術』(講談社、1962年)    『少年少女図説シリーズ 第15巻 世界美術物語』(偕成社、1962年)    編著『世界美術全集 第33巻 西洋(9)近世Ⅰ』(角川書店、1963年)    嘉門安雄、河北倫明、町田甲一編『世界の美術』第1~8巻、別巻(講談社、1963-65年)    富永惣一、今泉篤男、嘉門安雄編『世界の名画』第1~12巻(学習研究社、1964-66年)    『日経新書 美術を見る眼』(日本経済新聞社、1964年)    編著『カラーコンパクト ルーヴル美術館』(集英社、1965年)    編著『世界の美術館 第24巻 パリ国立近代美術館』(講談社、1966年)    編著『世界美術全集 第1巻 ダ・ヴィンチ,ラファエロ/嘉門安雄執筆』(河出書房新社、1967年)    『旺文社文庫 ゴッホ:炎の人、太陽の画家』(旺文社、1967年)    『レンブラント』(中央公論美術出版、1968年)    『ヴィーナスの汗:外国美術展の舞台裏』(文芸春秋社、1968年)    編著『世界の美術館 第17巻 ロンドン国立絵画館』(講談社、1969年)    解説『ファブリ世界名画集 第13巻 ペーター・パウル・ルーベンス』(平凡社、1969年)    日本語版監修C.V.ウェッジウッド著『Time life books.巨匠の世界 ルーベンス:1577-1640』(タイムライフインターナショナル、1969年)    日本語版監修ロバート・ウオレス著『Time life books. 巨匠の世界 レンブラント:1606-1669』(タイムライフインターナショナル、1969年)    責任編集『大系世界の美術 第18巻 近代美術1 ロマンティスムの時代』(学習研究社、1971年)    富永惣一先生古稀記念会〔編〕『富永惣一先生古稀記念論文集』(掲載論文「レオナルドの『最後の晩餐』とレンブラント―レンブラント芸術成立に対する一考察」、天心社刊行会、1972年)    解説『現代世界美術全集 第16巻 モディリアーニ・ユトリロ』(集英社、1971年、普及版72年)    河北倫明、嘉門安雄解説『現代日本美術全集 第7巻 青木繁・藤島武二』(解説担当「藤島武二」、集英社、1972年、普及版73年)    責任編集『大系世界の美術 第15巻 ルネサンス美術3 北方ルネサンス』(学習研究社、1973年)    解説『ファブリ世界名画集 第81巻 ムリリョ』(平凡社、1973年)    編著『新潮美術文庫 9 レンブラント』(新潮社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第10巻 レンブラント』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第19巻 ゴッホ1』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第20巻 ゴッホ2』(集英社、1974年)    日本語版編集『リッツォーリ版世界美術全集 第23巻 ピカソ』(集英社、1974年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第14巻 ヴァン・ゴッホ』(研秀出版、1975年)    解説『世界美術全集 第12巻 ルーベンス』(集英社、1975年、普及版78年)    編集解説『双書版画と素描 第12巻 レンブラントの素描』(岩崎美術社、1975年、改訂版86年)    編著『ファブリ研秀世界美術全集 第16巻 モロー、ルドン、ムンク、アンソール、キルヒナー』(研秀出版、1976年)    解説『世界美術全集 第7巻 ラファエルロ』(集英社、1976年、普及版78年)    監修『西洋の美術:Deluxe gallery』第1~4巻(旺文社、1976-77年)    嘉門安雄、河北倫明監修『巨匠の名画』第1~9巻(学習研究社、1976-77年)    解説、林忠彦写真『日本の画家108人』(美術出版社、1978年)    編著『安井曽太郎』(日本経済新聞社、1979年)    『A&Aブックス 巨匠の横顔:モネからピカソ』(日本経済新聞社、1981年)    解説、岡村崔撮影『ミケランジェロヴァティカン宮殿壁画』(講談社、1981年)    『ゴッホの生涯』(美術公論社、1982年)    『北方の画家:大地の祈り』(美術公論社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 新約篇』(学習研究社、1982年)    監訳ヒド・フックストラ編著『画集レンブラント聖書 旧約篇』(学習研究社、1984年)    『朝日選書:304 ゴッホとロートレック』(朝日新聞社、1986年)    嘉門安雄、島田紀夫共訳R.J.M.フィルポット著『River books ファン・ゴッホ』(西村書店、1989年)    翻訳ロバート・ゴールドウォーター著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ゴーガン』(美術出版社、1990年、新装版1994年)    監修(門田邦子訳)セルジュ・ブランリ著『美の再発見シリーズ モナ・リザの微笑』(求龍堂、1996年。同シリーズは、1998年まで13冊刊行され、いずれも監修にあたっている)。    『人物文庫 ゴッホの生涯』(学陽書房、1997年) 

關千代

没年月日:2006/12/16

読み:せきちよ  近代日本画の女性研究者として草分け的存在であった關千代は、2005(平成17)年暮れに大腿骨を骨折して東京都板橋区の病院に入院し、同区の板橋ナーシング・ホームに移って療養中であったが、12月16日、同ホームで死去した。享年85。1921(大正10)年9月25日、東京浅草で生まれ、1940(昭和15)年3月東京府立第一高等女学校を卒業。在学中から絵画を趣味として描いた。知人の紹介により、43年12月帝国美術院附属美術研究所に入所し、隈元謙次郎のもとで研究補助にあたる。45年4月初めから、同所所蔵図書・資料が山形県酒田市に疎開するに伴い、その梱包・輸送作業にあたり、図書・資料とともに酒田市に滞在。同年9月に東京にもどる。57年、美術研究所が東京国立博物館と合併するのに伴い、文部技官となる。このころから女性日本画家について調査を始め、58年3月『美術研究』に「上村松園とその作品」(195号、1958年)を発表。63年『日本近代絵画全集 17 竹内栖鳳・上村松園』(講談社)、72年「近代の美術12 上村松園」(至文堂)を執筆する。その後、女性画家のみならず近代日本画全体についても調査研究を広げ、64年「黒猫会・仮面会等覚書―明治末年における京都画壇の一動向―」(『美術研究』232号 1964年)を発表。また、1888(明治21)年に完成され1945年に戦災により焼失した明治宮殿の杉戸絵35組が宮内庁や東京国立博物館に保管されているのが発見され、東京国立文化財研究所が保存修復・調査研究を行うに際し、美術史学的調査にたずさわり、その成果を70年「皇居杉戸絵について」(『美術研究』264号、1970年)として発表、後にその集大成となる『皇居杉戸絵』(京都書院、1982年)を刊行する。近代日本画の祖とされる狩野芳崖についても調査を続け、「芳崖の写生帳 上―「奈良官遊地取」について―」(『美術研究』286号、1973年)、「研究資料 狩野芳崖の書状―十一月六日(安政四年)付―」(『美術研究』311号、1979年)、「研究資料 芳崖の写生帳 下」(『美術研究』316号、1981年)を発表したほか、『現代日本美人画全集6 中村貞以』(集英社、1978年)、『近代の美術60 近代の肖像画』(至文堂、1980年)、『日本画素描大観5 前田青邨』(講談社、1984年)の編集、執筆を行った。83年3月、東京国立文化財研究所を停年退官し、同所名誉研究員となる。在職中は、近代日本画の調査研究だけでなく、同所が編集・発行する『日本美術年鑑』の編集に尽力。また、同所の所蔵する黒田清輝の作品・資料の調査研究にもたずさわった。退職後も近代日本画史の研究を続け、学生時代から交遊のあった月岡栄貴が死去するとその画業を跡づける『月岡栄貴画集』(月岡房子、1999年)の編集・論文執筆にあたり、2002年には日本画団体烏合会についての解説「烏合会」(『近代日本アートカタログコレクション28 烏合会』 ゆまに書房)を執筆した。女性日本画家、とりわけ上村松園の研究では第一人者として知られ、宮尾登美子著『序の舞』執筆にあたって、豊富な資料と知見によって協力。また、学生時代から絵画を趣味として描き、在職中から描きためたパステル画によって2004年東京銀座の画廊で個展を開催した。

大島清次

没年月日:2006/11/23

読み:おおしませいじ  栃木県立美術館、世田谷美術館の館長を歴任した、美術評論家、美術史研究者であった大島清次は、11月23日、肺炎のため栃木県下野市の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年11月13日、栃木県宇都宮市に生まれる。1951(昭和26)年に早稲田大学文学部を卒業。その後、栃木県立高等学校教諭、法政大学文学部講師となり、栃木県立美術館の副館長、館長となった。86年に世田谷美術館の館長となり、2003(平成15)年3月31日まで同館長を務めた。その間、多数の西洋近代美術を中心にした翻訳、著述、評論活動があり、80年に刊行した『ジャポニスム:印象派と浮世絵の周辺』(美術公論社)は、今日までのジャポニスム研究にあって先駆的で本格的な研究業績であった。また、美術評論家連盟の常任委員を務め、82年には全国の公立美術館35館と読売新聞社、日本テレビ放送網が参加した美術館連絡協議会設立に尽力した(現在、同連絡協議会には124館が加盟している)。美術館長時代には、国内美術館の問題点を現場から指摘し、その改善策を積極的に提言した。美術館人としての一連の発言は、後に『美術館とは何か』(青英舎、1995年)にまとめられた。さらに美術館問題に端を発したこうした提言は、同書の続編として刊行された『「私」の問題:人間的とは何か』(青英舎、2001年)でもつづけられており、文化史、文明史的な視点から人間、美術、自然、経済活動にわたるまで、ひろく論じられ思索が深められていったことがわかる。上記の著作以外に主な翻訳、著作書は、刊行年順にあげると下記の通りである。 翻訳ジャン・ヴェルクテール著『古代エジプト』(白水社、1960年)翻訳フランソワ・フォスカ著『美術名著選書 文学者と美術批評:ディドロからヴァレリーへ』(美術出版社、1962年)翻訳ピエール・フランカステル著『絵画と社会』(岩崎美術社、1968年)解題『双書・美術の泉 ロートレックのデッサン』(岩崎美術社、1970年)『ドガ』(岩崎美術社、1970年)編集『日本の名画12 青木繁』(中央公論社、1975年)共著『世界の名画3 アングルとドラクロワ:新古典派とロマン派』(中央公論社、1972年)編著『世界の素描19 ミレー』(講談社、1978年)翻訳サミュエル・ビング編『芸術の日本:1888~1891』(美術公論社、1981年)編集・解説『25人の画家:現代世界美術全集6 マネ』(講談社、1981年)翻訳アンドレー・ケイガン著『モダン・マスターズ・シリーズ マルク・シャガール』(美術出版社、1990年)翻訳ロベール・レー著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ドーミエ』(美術出版社、1991年)翻訳フレデリク・ハート著『BSSギャラリー 世界の巨匠 ミケランジェロ』(美術出版社、1992年)

福部信敏

没年月日:2006/11/01

読み:ふくべのぶとし  ギリシア美術史研究者で、跡見学園女子大学(1972―2000年)、東京芸術大学(2000―2006年)にて教鞭をとった福部信敏は、11月1日自宅で死去した。享年68。1938(昭和13)年7月26日横浜に生まれる。63年東京教育大学卒業、同大専攻科入学、その後65年早稲田大学大学院入学、72年早稲田大学大学院博士課程を修了し、跡見学園女子大学講師となる。80年、跡見学園女子大学教授、1990(平成2)―92年、同大副学長をつとめる。2000年、跡見学園女子大学を退職、同年、東京芸術大学教授に就任し、06年3月、東京芸術大学を退職した。東京教育大学時代、ギリシア美術史家の澤柳大五郎と出会い、澤柳の指導のもと、パルテノン研究に着手し、その後生涯を通じてギリシア美術研究を深めた。学部卒業論文は、パルテノン神殿のフリーズ彫刻に関するもので、修士論文はクラシック期最大の画家ポリュグノートスの壁画についての論考である。福部の研究業績は、西洋美術の源流にある古代ギリシアのクラシック期の美術を、パルテノン神殿の様式や図像と照らし合わせて検証したことにあり、さらにクラシック期の時間の表現や、死生観の表現へ研究は展開した。これらの研究は机上の理論として構築されたのではなく、海外調査が重要な役割をはたした。79―80年にかけてのアテネ留学、81年の「ギリシア中世教会堂壁画調査」(早稲田大学の科研調査)、および95年と96年における「パルテノン神殿の造営目的に関する美術史的学術調査」(東京学芸大学の科研調査)がその一部である。これらの研究成果は、「パルテノン神殿フリーズと本尊台座浮き彫りとの関係」『澤柳先生古稀記念美術史論集 アガルマ』(同朋舎、1982年)や、『ギリシア美術紀行』(時事通信社、1987年)や、『パルテノン神殿・フリーズ図像様式一覧』(東京学芸大学 科研報告書第Ⅱ分冊、1999年)や「パルテノン南メトープ、S21の祭神像について―への一提言」(『Aspects of Problems in Western Art History』 vol.6 [東京芸術大学西洋美術史研究室紀要]第2分冊(2005年)などに発表された。また福部の略年譜と著作目録は上述の[東京芸術大学西洋美術史研究室紀要] 第1分冊(2005年) (福部信敏先生退任記念論文集)および、『アルゴナウタイ―福部信敏先生に捧げる論文集』(アルゴ会編、早稲田メディアミックス刊、2006年)に収録されている。ギリシアの古詩へも造詣が深く、またギリシア美術研究会「アルゴ会」をたちあげ、後進の指導・育成にも尽力した。

高田修

没年月日:2006/10/27

読み:たかたおさむ  仏教美術研究者の高田修は10月27日、脳出血のため山梨県甲府市内の病院で死去した。享年99。1907(明治40)年9月8日、奈良市油留木町28番地で出生、同年出身地である三重県名賀郡依那古村大字沖(現、上野市沖)906番地に帰った。三重県立上野中学校、浦和高等学校文科丙類を経て、1928(昭和3)年4月東京帝国大学文学部印度哲学科に入学、31年3月同大学を卒業した。卒業論文は「印度古代期佛教美術の研究」であった。この年以降、数年間、インド美術について逸見梅栄博士の指導を受け、33年4月から35年12月まで東京帝国大学文学部印度哲学研究室の副手を務めた。36年から43年に至る間、社団法人日本鉱業会会誌の編集事務を行う傍ら、『南傳大藏經』中の「本生経」や「譬喩経」の邦訳や、『國譯一切經』中の「大慈恩寺三藏法師傳・大唐西域求法高僧傳」の訳注を分担し、『佛教の傳説と美術』(三省堂、1941年)や『印度・南海の佛教美術』(創芸社、1943年)を著した。この後、陸軍司政官としてジャワに赴任し、ボロブドゥール、ブランバナンなどの遺跡を見学した。終戦はジャワで迎えた。戦後、連合軍総司令部(GHQ)民間情報教育局の美術顧問となり、近畿地方に所在する文化財の保存状況を調査した。52年12月東京国立文化財研究所に就職、美術部第一研究室に配属となった。58年から翌年3月まで、印度仏蹟踏査隊員としてインドやガンダーラの仏教遺蹟、アンコールの遺蹟を調査した。59年に、『居庸關』(村田治郎編、京都大学工学部、1957年)の共同研究により第49回日本学士院賞を受賞し、翌60年5月には、京都・醍醐寺五重塔の壁画の共同研究をまとめた『醍醐寺五重塔の壁画』(高田修編、吉川弘文館、1959年3月)によって第50回日本学士院恩賜賞を受賞した。62年に美術部長となった。68年に、「『仏像の起源』(岩波書店、1967年)にいたる仏教美術史の研究」によって、朝日賞を受けた。69年4月から71年3月まで東北大学文学部教授、73年4月から78年3月まで成城大学文芸学部教授を務めた。78年10月、東京国立文化財研究所の名誉研究員となった。日本の仏教美術の調査・研究に加えて、インド、スリランカ、インドネシアをはじめとする東南アジア諸国、パキスタン、アフガニスタン、イラン、韓国、中国、欧州各国などを訪れ、そこに所在する遺蹟を調査し、またその地域にある博物館や美術館の所蔵品の調査と撮影を積極的に行い、実見に基づいた緻密な論考を多数著した。著書としては、上記の他に、『佛教美術史論考』(中央公論美術出版、1969年)、『国宝両界曼荼羅図 教王護国寺』(『日本の仏画』第Ⅱ期第10巻、学習研究社、1978年6月)、『仏像の誕生』(岩波書店、1987年)などがある。また、40年以上にわたって研究に取り組んだインドのアジャンタ石窟群に関しては、その成果が『アジャンタ壁画』(日本放送出版協会、2000年)としてまとめられた。その他の著作については、下記の2書を参照していただきたい。 東北大学記念資料室編『高田修教授著作目録』(東北大学記念資料室、1971年)高田修博士八十の賀を祝う会編『高田修博士年譜著作目録』(1987年)

片桐賴継

没年月日:2006/10/15

読み:かたぎりよりつぐ  レオナルド・ダ・ヴィンチの研究者として活躍していた美術史家片桐賴継は10月15日午前4時10分、肺がんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年49。前年7月から一年あまり闘病をつづけていた。勤務先の実践女子大学では没年の4月から教授に昇任したが、新しい職名では一度も授業をすることができなかった。片桐は1957(昭和32)年4月15日、岐阜市に生まれた。岐阜県立岐阜北高校を経て78年武蔵野美術短期大学美術科油絵専攻を卒業したが、創作ではなく美術史の研究を志すようになった。翌年学習院大学文学部哲学科1年に再入学、さらに同大学院博士前期課程、後期課程に進んで美術史を学んだ。1989(平成元)年博士後期課程の単位を取得して退学。在学中86年から一年間はローマ大学文学哲学部美術史学科に留学しコラッド・マルテーゼ教授に師事した。武蔵野美術大学、学習院大学、学習院女子短期大学(現、学習院女子大学)、杉野女子大学(現、杉野服飾大学)、実践女子大学、文化学院、お茶の水美術専門学校などの非常勤講師を勤めた後、97年実践女子大学文学部美学美術史学科専任講師となり、2000年助教授、06年教授に就任した。実践女子大学在職中も成城大学短期大学部、学習院大学、日本大学短期大学部、創形美術学校などに出講したほか、04年から一年間はトスカーナ州ヴィンチのアレッサンドロ・ヴェッツォージ教授が館長を務める、レオナルド・ダ・ヴィンチ想像博物館での在外研修のためイタリアに滞在した。片桐は一貫してレオナルド・ダ・ヴィンチを中心の課題とし、しかも初期には「三博士礼拝」、後に「最後の晩餐」という画家にとっても代表的な作品を対象に選んだ。未開拓の分野や作家に挑んでいった同世代の研究者たちの中で、このことはむしろ異彩を放つものだったが、イタリア・ルネサンス研究の王道を行きながら、一見語り尽くされたかのように見える作品に新たな光を当てようとする企図は十分な成果をあげ、イタリアの学会でも評価された。ことに「最後の晩餐」の修復完成前後にはNHKと協同して復元画像を制作、ほかにもさまざまな場面で自作の立体画像を提示するなど、美術史研究の蓄積の上に実作の経験やコンピュータの技術を生かした独自の境地を切り開いた。「最後の晩餐」については『レオナルド・ダ・ヴィンチ復活「最後の晩餐」』(小学館、1999年)、『よみがえる最後の晩餐』(アメリア・アレナスと共著、日本放送出版協会、2000年)の2著があり、最後の著書『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』(角川書店、2003年)が主著として遺されることになった。本書では天才神話にまみれたレオナルドの存在を今日の立場から冷徹に見直し、内外の最新の研究成果を過不足なく取り入れた新しいレオナルド像を明快に示している。このほか、多くのイタリア関係の翻訳、解説、またカタログ編集など展覧会への協力があり、現代美術を含む多方面の作品への深い理解と共感を示すエッセイも執筆した。長年にわたってイタリアへの学生の美術研修旅行を企画、引率、さらに各大学・学校の授業や研究指導でもなごやかで親切な教育者として慕われ、数多くの学生を美術の世界に誘ったことも長く記憶されるはずである。『実践女子大学美学美術史学』第22号(2008年)は「片桐賴継教授追悼記念号」として発行され、年譜、業績一覧、セバスティアーノ・デル・ピオンボとレオナルドの関係に関する未発表論文などを掲載している。また友人による追悼集『片桐賴継@Tokyoを語る本』(同編纂委員会刊、2007年)も刊行された。

松澤宥

没年月日:2006/10/15

読み:まつざわゆたか  独自のコンセプトによる作品とパフォーマンスで知られた美術家の松澤宥は、肺炎のため、長野県諏訪市の病院で死去した。享年84。1922(大正11)年2月2日、長野県諏訪郡下諏訪町に生まれる。1946(昭和21)年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業、49年から諏訪実業高校定時制下諏訪分校で数学の教諭となる(82年まで勤務する)。52年、第4回読売アンデパンダン展、第12回美術文化協会展に出品。54年、美術文化協会を脱退。55年、ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招聘され、翌年から57年までコロンビア大学にて現代美術、宗教哲学を研究した。64年には、「オブジェを消せ」という啓示をうけたとされ、66年には「人類よ消滅しよう行こう行こう」という言葉を生みだし、垂れ幕にして会場に展示するなどのパフォーマンスをつづけた。そうした活動は、瀧口修造、中原佑介、針生一郎等の美術評論家たちの注目するところとなり、70年の第10回日本国際美術展「人間と物質」展に参加した。71年には、樹上小屋「泉水入瞑想台」を完成させるなど、従来の発表活動からも離れた独自の創作活動をつづけた。76年のヴェネツィア・ビエンナーレ、77年のサンパウロ・ビエンナーレにも参加。88年には『量子芸術宣言 芸術のパラダイム・シフト』を刊行。その後、各地の美術館における個展として、1994(平成6)年、山口県立美術館で「ミメントゥ・モーライ 死を念え」展、97年に斉藤記念川口現代美術館(埼玉県川口市)で「スピリチュアリズムへ・松澤宥1954―1997」展、2004年に広島市現代美術館にて同館収蔵作品展として「松澤宥作品&松澤宥キュレーション作品展 消滅と未来と」が開催された。また、82年7月、富山県立近代美術館での「第1回現代芸術祭 瀧口修造と戦後美術」展をはじめとして、戦後美術から現代美術までを「回顧」する各地の美術館の企画展にも、たびたび取り上げられその先駆性と特異な位置が検証されている。同時に、近年では、02年の東京都現代美術館における「傾く小屋 美術家たちの証言 since9.11」展、04年の豊田市美術館における「生命の美術―IN BED」展など、現代美術を通して現代の状況をとらえようとするグループショーにも積極的に参加していた。自宅でもある下諏訪の「プサイ(ギリシャ語のψ)の部屋」と名付けられたアトリエは、過去に制作された情念的なオブジェ等で埋まり、そのなかで松澤は半世紀近くにわたり東洋的な宗教観、宇宙観、現代数学、宇宙物理学等を組み入れながら思考を深め、そこから導き出された思想、観念そのものを芸術として表現しようとした。その点から日本における「コンセプチュアル・アート」の先駆的な存在とされているが、現代美術にあってそうした位置づけにとどまらない、「芸術の終焉」を見つめようとした思想性をもった希有な芸術家であった。

三浦小平二

没年月日:2006/10/03

読み:みうらこへいじ  陶芸家で青磁の重要無形文化財保持者(人間国宝)の三浦小平二は10月3日午前1時56分に急性心筋梗塞のため死去した。享年73。1933(昭和8)年、現在の新潟県佐渡市相川に生まれる。父は佐渡無名異焼の三浦小平。1951年東京芸術大学美術学部彫刻科に入学し平櫛田中に指導を受ける。高田直彦らと陶磁器研究会(陶研)をつくり、加藤土師萌に師事し、芸大最初の窯を築く。また、父の薦めで京都の製陶会社や岐阜県陶磁器試験場にて陶技を根本から学ぶ。その後、母校に戻り、副手、非常勤講師を務めながら制作の目標を灰釉陶器から鈞窯、青磁へと定めた。76年、第23回日本伝統工芸展に出品した「青磁大鉢」において文部大臣賞を受賞。これは、作者の生地・佐渡の朱泥土の素地を轆轤成形で薄く挽き上げ、明るい青白色の青磁釉がたっぷりとかかった作品である。この作品は72年台北の故宮博物院における宋代青磁の調査から佐渡の朱泥土を使用することを思い立ち実現したという。その後、1992(平成4)年、郷里に「三浦小平二小さな美術館」を設立、93年に日本陶磁協会賞金賞、94年にはMOA岡田茂吉賞工芸部門大賞、95年には第42回日本伝統工芸展に出品した「青磁飾壺『寺院』」が日本工芸会保持者賞、96年紫綬褒章を受章。三浦の作風はアジア・アフリカの風物をモチーフとしたものが見られ、これらは本人が「創作の原点」と語った海外への旅の影響といわれている。東アフリカ牧畜民のマサイ族との出会いやアフガニスタン砂漠の中の湖バンディ・アミールの神秘的な青色の感動が作域を広げたと考えられる。97年、青磁で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2000年東京芸術大学名誉教授、文星芸術大学陶芸科主任教授に就任。05年文星芸術大学陶芸科客員教授にと後進の指導に心血を注いだ。06年、「[作陶50年]人間国宝三浦小平二展」を日本橋三越、新潟三越で開催した同年、逝去。没後、遺族が作品30点を佐渡市へ寄贈したことを機に、08年「[特別展]人間国宝三浦小平二の世界―青磁以前の作品、青磁の世界、画家・三浦小平二―」展が佐渡博物館、両津郷土博物館、相川郷土博物館にて開催された。

塩多慶四郎

没年月日:2006/09/24

読み:しおたけいしろう  漆芸家で髹漆の重要無形文化財保持者(人間国宝)の塩多慶四郎は9月24日午後8時7分に肺炎のため死去した。享年80。1926(大正15)年1月17日、輪島市河井町の輪島塗塗師角野勝次郎の四男として生を受ける。3歳のときに母の実家である塩多家の養子に入る。塩多家も三代続く輪島塗塗師であった。1941(昭和16)年、尋常高等小学校を卒業し、養父塩多政のもとで輪島塗の修行を始める。その後、45年、滋賀県大津海軍航空隊にて終戦を迎える。同年、輪島へ復員し家業の塗師を手伝う。48年、大日本紡績大垣化学紡績工場試験室に勤務し、化学塗料の研究に従事する。その後、26歳のときに輪島へ帰郷。塩多漆器店四代目を継ぎ、本格的に輪島塗に携わり始める。64年、勝田静璋について蒔絵を学び始め、同年、第6回石川の伝統工芸展(日本工芸会石川支部の展覧会)に入選。翌年、「乾漆菓子鉢」にて第12回日本伝統工芸展に入選を果たす。また、同年、文化庁・日本工芸会共催による技術伝承者養成事業に参加した塩多は生涯の師と仰ぐ松田権六と出会う。松田の「塗りと形が良ければ加飾などいらない」との示唆に触発され、漆塗りの持つ本当の美しさを追求することになったという。その後、71年、第27回現代美術展において「乾漆古代朱盤」が技術賞を受賞したのを皮切りに受賞を重ねる。第15回石川の伝統工芸展にて「乾漆堆黒りんか盤」が日本工芸会会長賞、第23回日本伝統工芸展にて「乾漆線文盤」が日本工芸会会長賞を受賞する。78年輪島塗が重要無形文化財に指定され、輪島塗技術保存会が発足。同会会員に認定される。その後も精力的に活動を続け、第24回日本伝統工芸展にて朝日新聞社賞、第3回石川県工芸作家選抜美術展にて石川県知事賞を受賞。その後日本伝統工芸展にて監査員を務め、工芸界の発展に尽力した。86年には北國文化賞、翌年には紫綬褒章、1991(平成3)年石川テレビ賞を受賞。95年、「髹漆」にて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。同年にはMOA岡田茂吉賞大賞を受賞、日本工芸会参与、石川県立輪島漆芸技術研究所主任講師に就任し、後進の指導に心血を注いだ。同年「乾漆蓋物 悠悠」の制作の直後に病に倒れる。96年、初の回顧展「人間国宝 塩多慶四郎の世界」を石川県輪島漆芸美術館で開催。再起を果たせぬまま逝去。

金山明

没年月日:2006/09/02

読み:かなやまあきら  元具体美術協会会員で、現代美術家の金山明は9月2日、肺がんのため、三重県川越町の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年、兵庫県尼崎市に生まれる。1947(昭和22)年に多摩美術大学を中退、大阪市立美術研究所に学ぶ。ここで52年に、同研究所で学んでいた村上三郎、白髪一雄等とともに0会結成、また後に妻となる田中敦子(1932―2005)を知る。54年、0会展を大阪そごう百貨店で開催。55年、第7回読売アンデパンダン展(会場、東京都美術館)、「真夏の太陽にいどむモダンアート展(芦屋市美術協会主催、会場、芦屋川畔、同展の40数名の出品者中、前年結成の具体美術協会のメンバーが23名参加していたことから同協会の第1回野外展とされている)。同年10月、第1回具体美術展を東京で開催(会場、小原会館)、金山は、作品として白い巨大なアドバルーンと赤い電光を天井からつり下げ部屋全体を赤く照らす「たま」を室内に展示した。具体美術協会の展覧会では、従来の絵画、彫刻の概念を超えるために、素材や身体性を過剰なまでに強調した作品、あるいはパフォーマンスが注目されたが、金山の作品は、それとは逆に展示される「空間」そのものを意識させたという点で、むしろ具体のメンバーたちに強い影響をあたえた。当時のメンバーのひとりである嶋本昭三は、この金山の出品作について、つぎのように述べていることからも了解される。「一つの作品は巨大なアドバルーン状のもので部屋の天井から床までとどくようなものが会場の真中にどすんと居座っているのです。形そのもののもつ異様な感じもさることながら、会場全体に、もうこれ以上大きくはなれない、というような精一杯はち切った感じは正に奇観です。(中略)作品のこのような提示方法は美術の一つの在り方として、画期的なものであると思うのです。」(「金山明氏の『たま』」、『具体』4号、56年7月より)このように金山は、身体による表現性を抑制し、作品が置かれた空間、環境を鑑賞者に意識させる作品を発表し続け、1965年の第15回具体美術展まで毎回出品をつづけた。68年から翌年にかけて、アメリカ、カナダを巡回した「エア・アート」展に出品。80年代以降は、81年の「現代美術の動向Ⅰ 1950年代 その暗黒と光芒」展(東京都美術館)、85年の「絵画の嵐・1950年代―アンフォルメル・具体・コブラ」展(国立国際美術館)、86年の「前衛芸術の日本1910―1970」展(パリ、ポンピドーセンター)、1990(平成2)年の「具体―未完の前衛集団」展(渋谷区立松涛美術館)等、日本の戦後美術、あるいは具体美術協会の活動の再評価と検証を試みる各地の企画展に、その作品が出品された。93年には、「エア・アート」展以来の新作として「金山明 第1回個展 1950/1992」を名古屋市の「ギャラリーたかぎ」で開催した。この個展には、クラシック音楽をアナライジング・レコーダーによって記録された振動を視覚化し、作品として出品した。ここでも、人為的な関与を最小限にとどめ、ミニマルなかたちで音楽の視覚化としての「絵画」を制作した。具体美術協会の創立メンバーながら、その創作活動は、コンセプチュアルアートの先駆けをおもわせる、一貫して概念的で知的な思索と行為から生まれ、その点からも寡黙だがユニークな芸術家であった。没後の2007年1月、豊田市美術館にて「金山明」展が開催され、その芸術が初めて回顧された。

藤本四八

没年月日:2006/08/19

読み:ふじもとしはち  写真家の藤本四八は、8月19日、脳出血のため北海道小樽市の病院で死去した。享年95。1911(明治44)年7月25日、長野県下伊那郡松尾村(現・飯田市松尾)に生まれる。長兄は『アトリエ』、『美術手帖』などをてがけた美術編集者で後に三彩社を興した藤本韶三。飯田町立飯田商業学校(現・長野県飯田長姫高等学校)を中退し1927(昭和2)年に上京、画家を目指すが断念し、31年、長兄の勧めで商業写真スタジオ金鈴社に入り写真技術を習得した。日本デザイン社を経て、37年名取洋之助の主宰する日本工房に入り『NIPPON』や『COMMERCE JAPAN』などの対外宣伝グラフ誌の撮影に携わる。38年土門拳らと青年報道写真研究会を結成。39年陸軍報道班員として従軍、中国大陸にて取材。40年帰国、日本工房が改組した国際報道工芸(43年国際報道へ社名変更、45年の終戦時に解散)の写真部長となる。47年、『週刊サンニュース』にスタッフ写真家として参加、49年に同誌が休刊、以後フリーランスとなる。報道写真家としての仕事の一方、1941年に唐招提寺を撮影したことをきっかけに古寺建築、仏教美術などの撮影にとりくみはじめた。44年には初の個展「仏像写真展」(松島画廊、東京銀座)を開催。45年に『唐招提寺―建築と彫刻』、『薬師寺―建築と彫刻』(ともに北川桃雄との共著、日本美術出版)を刊行。以後、51年から52年にかけて刊行された『日本の彫刻』(美術出版社、全6巻のうち第3巻白鳳時代、第6巻鎌倉時代を担当、52年に第6回毎日出版文化賞受賞)、『桂』(柳亮との共著、美術出版社、1961年)、『装飾古墳』(小林行雄との共著、平凡社、1964年、1965年に第15回日本写真協会賞年度賞、第19回毎日出版文化賞、アサヒカメラ年鑑賞を受賞)、『日本の塔』(平凡社、1972年)など、仏教美術を中心に、日本の伝統文化をめぐる多くの仕事をてがけた。『装飾古墳』が、適切な保存体制もとられぬまま放置され消滅しつつある九州北部の古墳壁画の現状に危機感を覚え、記録撮影を企図したものであるように、一連の仕事には報道写真家として現実に向かい合う姿勢が基本にあった。失われゆく町屋を取材した『京の町屋』(駸々堂、1971年)や、伝統的な信仰が現代に伝えられている姿を追った『高野山』(三彩社、1973年)、『三熊野』(学習研究社、1978年)、『白山―信仰と芸能』(朝日新聞社、1980年)などには、主題を幅広い視点から見てゆく報道写真家としての視点が反映され、優れた仕事として評価された。美術写真や美術家の肖像も多く手がけ、『美術手帖』、のちに『三彩』に連載された美術家の肖像のシリーズは、『画室訪問』(藤本韶三との共著、三彩社、1969年)、『画室訪問第二輯』(同、1972年)にまとめられた。1975年紫綬褒章、83年勲四等瑞宝章を受章、1996(平成8)年第46回日本写真協会賞功労賞を受賞した。また88年から95年まで日本写真家協会会長を務めた。95年に故郷飯田市の飯田市美術博物館に全作品のフィルムを寄贈。97年飯田市藤本四八写真文化賞が制定され、没後の2008年に飯田市美術博物館で「藤本四八回顧展 美を追いかけた写真家の生涯」が開催された。

鳥居敏文

没年月日:2006/08/15

読み:とりいとしふみ  独立美術協会会員の洋画家鳥居敏文は8月15日午後2時10分、多臓器不全のため東京の病院で死去した。享年98。1908(明治41)年2月26日、新潟県村上市に生まれる。旧制村上中学校に学び、後に新制作協会で活躍する竹谷富士雄と親交が深く、ふたりとも美術部に在籍。中学校在学中に、同郷の矢部友衛に啓発されてマルクスを学ぶ必要を感じ、東京外国語学校(現、東京外語大学)独語科に入学。1931(昭和6)年に同校を卒業する。プロレタリア美術家同盟に参加し、太平洋美術研究所に学び画家を目指していた竹谷に誘われて、32年、シベリア鉄道でドイツに渡り、のちソヴィエト、ギリシャ、スペイン、イギリス、オランダを旅行する。33年、パリに定住し、アカデミー・グランショーミエールでデッサンを学び、シャルル・ブランに師事。また、パリ滞在中の画家林武のアトリエに通ってその制作に学ぶ。35年に帰国し、37年第7回独立展に「ロバに乗る少年」を出品。以後、一貫して独立展に出品する。39年第9回同展に「山の仲間」「子供たち」を出品して独立美術協会賞を受賞。40年第10回同展に「森の家族」「休息」を出品し、独立美術協会会友に推される。42年中国東北部(当時の満州)に写生旅行。43年第13回独立展に「家族の旅」「路傍」を出品して岡田賞受賞。同年国民総力決戦美術展に「鉱山に働く」を出品して朝日新聞社賞を受賞。同年の文展に「鉱山の娘達」を無鑑査出品する。44年文部省戦時特別美術展に「必中」を出品。46年独立美術協会会員となる。同年、日本美術会結成に参加。47年、日本アンデパンダン展を開催。また、美術団体連合展に出品する。52年美術家懇話会結成に参加し平和美術展を開催する。53年、美術懇話会は美術家平和会議と改称する。60年、米国サクラメント市クロッカー美術館で開催された「独立6人展」に出品。63年第31回独立展に「草の上」「野外静物」を出品して独立G賞を受賞。64年、林武門下生によるグループ「欅会」を結成し、79年まで毎年展覧会を開催する。67年、具象画家による「新具象研究会」を結成し、73年まで季刊誌「画家」を刊行する。70年、73年に南欧旅行。79年日本美術家連盟代表として韓国美術家協会を親善訪問。80年郡山市東苑現代美術館で自選展を開催。81年ソ連文化省招待によるソヴィエト写生旅行に参加する。82年独立美術協会会員10人による「叢人会」を結成する。83年、パリに旅行。87年新潟市美術館で「鳥居敏文展」が開催される。1989(平成元)年東京セントラル美術館で「鳥居敏文自選展」を開催。同年および90年にパリ旅行。91年『鳥居敏文画集』を刊行。96年居住する練馬区の区立美術館で「ねりまの美術 楢原健三、鳥居敏文」展が開催された。1930年代に池袋周辺につくられた芸術家村、いわゆる池袋モンパルナスの一員であり、36年11月15日から30日まで池袋にあった香蘭荘、コティ、紫薫荘、セルパンで開催された池袋美術家倶楽部第1回展覧会に小熊秀雄、寺田政明、桑原実、佐藤英男らとともに出品している。原色を多用する初期の独立展の作風の中で、穏やかな色調で労働者や市井の人々を描いて注目された。生涯、具象画に徹し、戦後は着衣の若者群像を室内や風景の中に配して、平和や自由への希求を表現した。ピカソの「ゲルニカ」、ドラクロアの「民衆をひきいる自由の女神」など著名な作品を画中に取り入れる手法でも知られる。9月17日午後3時から東京都千代田区飯田橋のホテルグランドパレスで「偲ぶ会」が開かれた。

田中稔之

没年月日:2006/08/07

読み:たなかとしゆき  行動美術協会会員の画家、田中稔之は8月7日午後1時14分がんのために死去した。享年78。1928(昭和3)年4月13日、山口県防府市牟礼岸津に生まれる。35年防府市牟礼尋常小学校に入学し、一水会の画家津田正毅(三木)に担任され、絵に興味を持ち始める。41年、同校を卒業し、山口県立防府中学校に入学。43年、山口県光海軍工砲工部機具工場に学徒動員。46年に中学に復帰し、同年卒業して山口青年師範学校農学部に入学。この頃から画家を志す。49年師範学校を卒業し、同年、徳山第二中学校(現、湖南中学)教諭となり、2年間、理科、図工、職業(農業)を教える。同年、徳山市美術展で特選を受けたことを契機として、安野光雅との交遊が始まる。通信教育などをもとに独学で絵を学び、日展に出品するが落選。50年夏、上京して東京美術研究所でデッサンを学ぶ。同年、東京芸術大学を受験するが不合格となり、日本大学芸術学部3年生編入に合格するが、支援の望みがなく断念。51年に再度上京し、大田区赤松小学校図工専科教諭となる。また、向井潤吉に師事し、行動美術研究所でデッサンを学ぶ。52年第38回光風会展に「水」で入選。52年第7回行動展に「内海の小港」で初入選。以後、同展に出品を続ける。53年、読売アンデパンダン展に出品。54年、第9回行動展に「或る日の波止場」を出品して奨励賞受賞、55年同会会友となる。57年、新宿風月堂で「井上武吉・田中稔之―絵画と彫刻展」を開催。58年第13回行動展に「動」「落石」を出品し、行動美術賞を受賞。翌年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展に「作品A」「作品B」を出品。61年、大田区赤松小学校を退職し、画業に専念。62年、第5回現代日本美術展に「赤の地平A」を出品。同年、渡欧のため下関大丸、宇部市役所、防府丸久などで展覧会を開き、資金を得て、63年に渡欧。パリを拠点にイギリス、ノルウェー、オランダなどを巡遊する。同年、ウィリアム・ヘイター教室で版画、絵画を学ぶ。64年、当時パリで活躍中であった菅井汲のアシスタントとなりアトリエに通う。また、同年スペイン、イタリア、スイスに旅行。65年5月に帰国。アンフォルメルの抽象表現主義的作風から幾何学的抽象へと作風が変化し始める。73年ころから、後年田中の主要モチーフとなる円が画面に登場するようになる。75年、多摩美術大学非常勤講師となる。また同年坂崎乙郎の企画により、新宿紀伊国屋画廊で坂本善三、白野文敏と三人展を開催。これを契機として坂本善三との交遊が始まる。77年、モンゴル、シベリアに旅行し、大地と空のみの壮大な自然に触れ、地平に沈む太陽に感銘を受ける。79年、西チベット、ラダックへ旅行、80年新疆ウイグル自治区を訪れ、大地と空のみの空間体験を重ねる。これらの体験により、画面を構成する幾何学的円が具象性を持つものとなる。85年多摩美術大学教授となる。86年、「円の光景‘85―31(天円地方)」により第9回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞。87年第3回東郷青児美術館大賞作家展に大賞受賞作他15点を出品。また、同年、神奈川県民ホールギャラリーで個展を開く。1989(平成元)年、山口県芸術文化功労賞受賞。97年、パリでSAGA展を開催する。99年多摩美術大学退職記念展を同大附属美術館で開催。2001年坂本善三美術館で個展「田中稔之―響きあう世界 大地・海・天空」を開催し、初期から新作まで67点を展示した。最初期には具象的風景画を描いたが、まもなく色彩と有機的なかたちで画面を構成する抽象画へと移行し、70年代後期から円を主なモチーフとした明快な色面による幾何学的抽象絵画を描いた。画集に『Red Horizon』(石版画集)(MMG、1976年)、『田中稔之』(東美デザイン、1981年)、『朱の舞』(版画集)(スズカワ画廊、1990年)がある。また、下関市民会館壁画「海峡の陽」(1980年)、防府市議会ロビーモザイク「瀬戸内の陽」(1982年)、徳島市総合スポーツセンター壁画「静と動」(1992年)など公共建築のための壁画も多く制作している。幼い頃から海に親しみ、釣りを趣味とし、2003年、海との関わりをテーマに写真と絵画を組み合わせたコラージュとエッセイで構成した『海との青い交信』を刊行した。

清水九兵衞

没年月日:2006/07/21

読み:きよみずきゅうべえ  金属素材の抽象彫刻で知られ、清水焼の七代目として作陶でも活躍した清水九兵衞は7月21日午後1時21分、腎がんのため京都市内の病院で死去した。享年84。1922(大正11)年5月15日、愛知県大久手町(現、名古屋市)に塚本竹十郎の三男として生まれ、広(ひろし)と命名される。東田小学校を卒業し、1935(昭和10)年、愛知県立第一中学校に入学。40年名古屋高等工業学校建築科に入学し、42年9月に同科を切り上げ卒業して同年10月に臨徴兵として名古屋で入隊。43年習志野騎兵学校に派遣され、44年に加古川の戦車連隊に転属となり、同年暮れ沖縄に渡る。46年に復員して上京。工芸講習所の研修生となるが、漆工芸が中心であったため興味を失い、彫刻家を志して49年東京芸術大学工芸科鋳金部に入学する。同学在学中、江戸時代から続く京都の清水焼六代目清水六兵衞の長女と結婚し、養嗣子となる。53年、東京芸術大学鋳金部を卒業して作陶に携わり、清水洋の名で陶芸作品を発表。56年、彫刻家加藤顕清のアトリエに内弟子として入る。58年東京芸術大学専攻科に入学し、彫刻家千野茂に師事する。63年京都市立美術大学工芸科助教授となり陶磁器作成の指導にあたる。66年8月、五東衞の名で三浦景生との二人展を東京の養清堂画廊で開催し、抽象彫刻を発表。67年に彫刻に専念することを決意する。68年東京の南画廊で個展を開催、この時から九兵衞と名乗る。同年京都市立芸術大学教授となる。69年4月に渡欧しローマを拠点として各地を巡遊。イタリアの彫刻が建築や生活空間になじみ、親和していることに強い興味を抱く。また、イタリアの古い町の屋根の連なりに愛着を覚え、帰国後、京都の黒瓦の屋根の連なりに直線構造でありながら曲線を感じさせるものを認め、制作の指針を得る。71年3月、京都市立芸術大学を退職。同年12月東京の南画廊で個展を開催し、アルミを素材とする抽象彫刻5点を含む制作を展示。73年第1回彫刻の森美術館大賞展に71年制作の「作品A」を出品。74年7月、南画廊の個展で、それまでの立体造形への関心を明確化し、その後も長くテーマとなる「affinity」(親和)を作品名とする抽象彫刻を発表する。このころ盛んになる野外彫刻展に積極的に参加し、74年9月第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に、展示場所の地面の隆起に沿ってゆるやかに隆起する帯状のアルミによる作品「AFFINITY―D」を出品して神戸市教育委員会賞受賞。75年、第2回彫刻の森美術館大賞展に「affinity A」を出品。同年の第6回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「AFFINITY―K」を出品し、毎日新聞社賞・東京国立近代美術館賞を受賞。また、同年第6回中原悌二郎賞優秀賞を受賞する。76年第17回毎日芸術賞受賞。同年、第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「AFFINITY―L」を出品して神戸市公園協会賞受賞。77年第9回日本芸術大賞。また同年、第3回彫刻の森美術館大賞展に「AFFINITYの継続」を出品して大賞、第7回現代日本彫刻展(宇部市野外彫刻美術館)に「樹と四つの立方体」を出品して群馬県立近代美術館賞受賞。78年、第6回長野市野外彫刻賞を受賞し、同年の第6回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にカーブするアルミ板を組み合わせ、石の台座に固定した作品「BELT」を出品して神奈川県立近代美術館賞を受賞。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「BELT―Ⅱ」を出品して優秀賞を受賞。同年第8回現代日本彫刻展に「WIG―A」を出品して、宇部興産株式会社賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「緋甲PROTECTOR―Ⅰ」を出品して大賞受賞。82年、東京のフジテレビギャラリーで個展を開催、また京都府立芸術会館でも「清水九兵衞展」を開催する。84年、大正海上火災東京本社ビルに、ひょうたん型の池のくびれの部分から立ち上がるパイプ状のオブジェと、同じくくびれの部分から垂直に立ち上がった後、水面に向かって傾斜し、水面すれすれで再度隆起するオブジェを組み合わせたアルミによる作品「朱龍」を設置し、翌年この作品によって吉田五十八賞(建築関連美術の部)を受賞。同年、和歌山県立近代美術館で開催された「彫刻の4人―清水九兵衞・山口牧生・森口宏一・福岡道雄展」に出品。86年および87年、ロスアンジェルス・アートフェアー(ICAF/LA)で個展を開催。87年9月、フジテレビギャラリーで個展を開催。1991(平成3)年4月、京都造形芸術大学彫刻科教授となり、95年に同客員教授、2002年に同特任教授となった。97年からは金沢美術工芸大学教授もつとめた。この間、91年芦屋市立美術博物館で「空間と彫刻―清水九兵衞展」、92年三重県立美術館で「清水九兵衞展」、95年国立国際美術館で「清水九兵衞―アフィニティー/親和の神話」展が開催された。98年、中原悌二郎賞を受賞。陶芸から彫刻への興味の移行が土の質感と素材としての個性の強さになじまなかったことにあると清水は回想しているが、ここにあらわれる質感への繊細な感性と、空間や環境に親和する立体造形への希求は、清水の制作に一貫して認められる。近代彫刻が、素材や表面の質感よりも量塊性やムーヴマンなどを要件とし、周囲の空間に対して強い力と緊張感をもたらすのに対し、コンクリートやガラスを多用した無機的高層建築の立ち並ぶ現代の都市空間において、素材、質感、かたちを含めて、周囲と調和し、親和する立体造形性という新たな試みを行った。

篠原一男

没年月日:2006/07/15

読み:しのはらかずお  建築家の篠原一男は7月15日午後1時13分、神奈川県川崎市の病院で死去した。享年81。篠原一男は、1925(大正14)年4月2日静岡県に生まれた。1947(昭和22)年東京物理学校を卒業後、東北大学数学科を経て東京工業大学建築学科入学。53年卒業後、同大図学助手。62年東京工業大学助教授。67年「日本建築の空間構成の研究」にて工学博士。70年東京工業大学教授。84年イェール大学客員教授、86年東京工業大学定年退官、同名誉教授、ウィーン工科大学客員教授。同年篠原アトリエ設立。1995(平成7)年より99年まで神奈川大学大学院特任教授。建築を学んだ東工大では若き清家清に師事し、卒業後まもなくから日本の伝統建築の空間性を近代的表現に転化した住宅作品の設計を手がけた。同時に、早い時期から「住宅は芸術である」などの言説を通じても注目を集め、建築は社会的要請に応えるべきものであるとの当時の建築界の支配的風潮に真っ向から挑んだ。54年の久我山の家に始まる住宅作品は、62年から傘の家、66年白の家といった日本建築の伝統を明瞭に感じさせる作風から、70年未完の家、71年直方体の森、73年東玉川の住宅等を経て、76年上原通りの住宅に代表される幾何学形態をもつ抽象空間へと突き進み、84年ハウス・イン・ヨコハマに見られる前衛的表現に至る。一貫して架構システムを建築表現の中心に据えるとともに、はじめ数学者を志した経歴もあり、作品からは幾何学への強い志向が感じられる。住宅以外の作品としては82年日本浮世絵博物館、87年東京工業大学百年記念館、90年熊本北警察署等があるが、いずれも幾何学的形態操作と大胆な構造による外観が強い印象を与える。60年代以来、「プログレッシヴ・アナーキィ」や「ランダム・ノイズ」といった概念を打ち出しながら日本の都市を語るとともに、自らの作品群を「非統一的構造体」と命名したが、東京工業大学百年記念館はその集大成と言える。自ら言う「即物的な結合」から生み出された造形は、そのあまりのインパクトの強さから賛否両論を呼んだが、80年代を代表する建築の一つとなった。また、東工大篠原研究室からは多くの現代建築家が輩出しており、「シノハラ・スクール」として知られる。88年アメリカ建築家協会名誉会員(HFAIA)。72年「「未完の家」以後の一連の住宅」にて日本建築学会賞(作品賞)。89年「東京工業大学百年記念館」にて芸術選奨文部大臣賞。90年紫綬褒章。97年毎日芸術賞特別賞。2000年勲三等旭日中綬章。05年日本建築学会大賞。著書に、『住宅建築』(紀伊国屋書店、1964年)、『住宅論』(鹿島出版会、1970年)、『超大数集合都市へ』(A.D.A Edita Tokyo、2001年)、『篠原一男経由 東京発東京論』(鹿島出版会、2001年)など。

井田照一

没年月日:2006/06/05

読み:いだしょういち  造形作家の井田照一は6月5日午後7時10分、がんのため京都市上京区の病院で死去した。享年64。  1941(昭和16)年9月13日、京都市に生まれる。京都市立美術大学西洋画科に入学し、同学卒業後、西洋画科専攻科に進学し、65年に修了する。絵画の持つ情緒性から脱することができ、多数の鑑賞者を得ることができることから石版画という技法に注目し、独自のかたちと明快な色彩によるリトグラフを制作。65年、京都の画廊紅で個展を開催。67年、第2回フランス政府留学生選抜毎日美術コンクール展で2位となり、翌年大賞を受賞し、フランス政府留学生として69年にパリへ留学。パリ滞在中の70年ころ、カール・アンドレらと知り合いコンセプチュアル・アートに触れ、マルセル・デュシャンのしごとを知る。ジョン・ケージとも交友し「時間と空間の同時性の中に自分の感性を取り込むこと」を造形のなかで試みるようになる。71年、シルクスクリーンによる「Surface is the Between」(表面は間である)の制作を開始。またこの頃、版画作品で展覧会場全体を埋め尽くすインスタレーションを試みる。76年には「Surface is the Between」シリーズの一環としてアトリエの床をフロッタージュし、水平の床に作家が垂直の力を加えた痕跡を作品化した「Surface is the Between―Between Vertical and Horizon “Paper Between Floor and Floor No.2”」を制作。同年、第10回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞受賞。79年紙による制作「Lotus Sutra」シリーズを開始。79年大阪府立現代美術センターで回顧展を開催。85年、原美術館で回顧展を開催。86年、交友のあるロバート・ラウシェンバーグとともに日米文化国際交流名誉賞を受賞する。87年には郷里京都市美術館で回顧展を開催。1989(平成元)年サントリー美術館賞受賞。89年米国オレゴン州のポートランド美術館で個展、90年には同国オハイオ州シンシナティー美術館で個展を開催する。水平と垂直の出会いに深い興味を抱き続けた井田は、版面に垂直に落とされた腐食液が水平に広がって版を浸蝕するスピットバイト技法を好んだ。腐食の際に発生するガスが一因してがんを発症し、90年に食道がんの手術を行なう。闘病しつつも、京都のアトリエにとどまらず、国内のみならず海外にまで制作の現場を移す「移動するアトリエ」と自らが称した制作態度を貫いた。95年山口源大賞受賞。2001年、『Garden Project Since 1968 in Various Works 井田照一作品集』(阿部出版)を刊行。04年1月、豊田市美術館で「井田照一 版画の思考」展が開催され、初期から近作まで120点の作品によって作家の歩みを回顧する展観となった。人を含む諸物の存在は、他者との接触や出会いによって生ずる表面(Surface)であるとし、版画のほか、布、ガラス、陶器、鉄など多様な素材を用いて、表と裏、地と図が両義性を持つことを、色やかたちといった造形要素により見るものに訴えた。

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