本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





宮迫千鶴

没年月日:2008/06/19

読み:みやさこちづる  画家で評論家、エッセイストの宮迫千鶴は6月19日、腹部リンパ腫のため埼玉県川越市の病院で死去した。享年60。1947(昭和22)年10月16日広島県呉市に生まれる。カトリックの女子校で中等・高等教育を受けた後、70年広島県立女子大学文学部卒業。上京して出版社やファッション誌の会社などで働きながら、独学で絵画制作を開始する。山下清の貼り絵に出会ったことで、大学時代に受けたアカデミックな制作指導のトラウマから解放され、既成概念に囚われぬ独自の表現を育む。75年荻窪のシミズ画廊にて初個展。モチーフを機械に置き換え再構築したかのような構図で、多色使いながらも落ち着いた色調の作品が多い。この頃、生涯のパートナーとなる画家の谷川晃一と出会い、二人展やグループ展も開くようになる。文筆業では78年に初の美術エッセイ集『海・オブジェ・反機能』(深夜叢書社)を刊行。80年代からは美術や写真評論の他、当時盛んであった女性論、家族論などの執筆に追われ、『イエロー感覚』(冬樹社、1980年)、『女性原理と写真』(国文社、1984年)、『ハイブリッドな子供たち』(河出書房新社、1987年)、『ママハハ物語』(思潮社、1987年)、『サボテン家族論』(河出書房新社、1989年)、『母という経験』(平凡社、1991年)など著作多数。とりわけ多忙を極めたこの時期はコラージュによるポップで都会的な作品が目立つが、88年伊豆高原に転居した後は、その自然や暮らしを色彩豊かに描いた明るい作品が主となる。ライプチヒで開催される「世界でもっとも美しい本展」にて92年、画文集『緑の午後』(東京書籍、1991年)が銀賞受賞。93年より伊豆高原アートフェスティバルを企画・開催。店舗や宿泊施設のほか出品者の自宅や別荘を会場とし、地元住民を中心に参加者主体で運営する草の根型の芸術祭を提唱。自然の暮らしの中でアートを楽しむことを目指した、非営利の新しい芸術イベントとして評判となる(2007年の第15回まで毎年参加)。豊かな自然やその中での暮らしをテーマにしたものの他、この伊豆時代に関心を寄せたスピリチュアリティに関するエッセイも多い。主な著書に『美しい庭のように老いる』(筑摩書房、2001年)、『月光を浴びながら暮らすこと』(毎日新聞社、2002年)、『絵のある生活 コラージュ・ブック』(NHK出版、2002年)、詩画集『月夜のレストラン』(ネット武蔵野、2003年)、『田舎の猫とおいしい時間』(清流出版、2004年)、『はるかな碧い海』(春秋社、2004年)など。99年には『海と森の言葉』(岩波書店、1996年)のエッセイが一部、三省堂、明治書院の高校現代国語の教科書に採用されている。展示活動は初個展以来ほぼ毎年行われたが、主な展覧会には「●田島征三●谷川晃一●宮迫千鶴三人展」(練馬区立美術館、2005年)、「夏のアートフェスティバル2005 森のアトリエ 谷川晃一&宮迫千鶴展」(国際芸術センター青森、2005年)などがある。また没後の09年には遺稿集『楽園の歳月』(清流出版)が刊行された。

柳沢信

没年月日:2008/06/02

読み:やなぎさわしん  写真家の柳沢信は6月2日、喉頭癌のため鎌倉市内の病院で死去した。享年71。1936(昭和11)年8月23日東京市向島区(現、東京都墨田区)に生まれる。本来の読みは「まこと」。疎開先の埼玉県を経て、戦後神奈川県に転居、55年神奈川県立湘南高等学校を卒業、57年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)技術科卒業。同年桑沢デザイン研究所に入学するが数ヶ月で中退し、以後フリーランスの写真家として活動する。58年ミノルタのPR誌『ロッコール』に初めての作品「題名のない青春」を発表、59年に立木義浩、笠貫節との三人展「ADLIB 3」(富士フォトサロン、東京)を開催。60年には「現代写真展1959」(国立近代美術館)に出品。61年結核が見つかり約一年半の療養生活を送る。復帰後はファッションや広告などの仕事を手がけるかたわら写真雑誌に作品を発表し、『カメラ毎日』に発表した「二つの町の対話」(1966年12月号)「竜飛」(1967年3月号)により67年第11回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。74年には「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加。79年に初の個展「都市の軌跡1965-70」(オリンパスギャラリー、東京)を開催、同年初の写真集『都市の軌跡』(朝日ソノラマ)刊行。以降、個展として「北陸紀行」(ミノルタフォトスペース、東京、1980年)、「柳沢信写真展」(CAMERA WORKS EXHIBITION、東京、1981年)、「写真・イタリア・柳沢信」(コニカプラザ、東京、1994年)、「写真に帰る」(クリエイションギャラリーG8およびガーディアン・ガーデン、東京、2001年)、「柳沢信写真展」(ときの忘れもの、東京、2008年)がある。また写真集として『北陸紀行』(現代日本写真全集 日本の心 第11巻、集英社、1981年)、『写真・柳沢信 1964―1986』(書肆山田、1990年)、『写真・イタリア』(モールユニットNo.3、モール、1994年)がある。他に「写真に帰る」展に際して写真雑誌に発表した作品を網羅的に収録した小冊子が刊行された。都会的な主題をめぐる初期から、次第に高度成長のなかで変化をとげつつあった地方にも関心を広げ、60年代から70年代にかけて写真雑誌に発表した日本各地をめぐる連作(68年『カメラ毎日』に連載の「新日本紀行」、72年『アサヒカメラ』に連載の「片隅の光景」など)において、旅の途上で出会った風景を独特の距離感と映像感覚でとらえる作風を確立。写真界の動向に左右されず、確かな写真技術に裏打ちされつつも、決して技巧に走らない作品は、独自の位置を占めるものとして評価された。93年には初の本格的な海外での撮影をかねたイタリアへの長期旅行に出るが、その途上、体調を崩して帰国。喉頭、食道に癌が見つかり手術を受け、療養生活の中で新たな撮影は中断されていた。死去後の2009年「写真・柳沢信」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。

岡田節子

没年月日:2008/05/28

読み:おかだせつこ  洋画家で女子美術大学名誉教授の岡田節子は5月28日、敗血症のため死去した。享年90。1917(大正6)年8月31日、宮城県志田郡古川町(現、大崎市)に生まれる。内務省官吏(後に代議士)であった父の転勤について、子ども時代には札幌、金沢、東京、津、宮崎、京都、岐阜など転校を重ねる。1934(昭和9)年東京府立第五高等女学校4学年を修了・退学し、女子美術専門学校(現、女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。翌35年同校高等科西洋画部に転部。37年に卒業すると岡田三郎助が自宅で開いていた研究所に入るが39年に閉鎖、この年の4月朱葉会第21回展に出品して朱葉会賞を受賞。またこの頃就職も考え、主婦之友者編集記者に応募し採用までこぎつけながら家族に反対され断念したこともあった。42年、紹介された梅原龍三郎の助言で久保守に師事、その年の内に国画会第17回展で「ミモザ」が初入選、まもなく開所した国画会研究所に入る。47年女流画家協会の発足に創立会員として参加、第1回展に「兎」「森」「夕べ」を出品しT氏賞を受賞。48年南青山にアトリエを構え桜井悦との共同生活を開始。50年に東京YWCA教養部講師を務め、52年に女子美術大学助教授となる。この間、フランス留学を前提にアテネ・フランセで1年ほど学び、53年からは留学費用のために雪印乳業株式会社に広告原画を2年ほど提供。54年私費留学生試験に合格し桜井悦と翌年渡仏。ヨーロッパ各地に足を運びながらパリで制作を行うが、病を得た桜井に伴い一年半ほどで帰国、大学勤務に復帰する。渡仏前には、やさしいタッチと色調を活かした素朴な画風で子供や動物を描くことが多かったが、パリではその素朴さを残しながらやや水彩風のタッチで、街並みを主な画題とした。一方で、戦後華々しくデビューしたビュッフェやサロン・ド・メを中心とする青年画家たちが活躍していたパリの半具象にも魅了される。57年に銀座の求龍堂画廊にて開催された初の個展で滞欧作を発表、同年第11回女流画家協会展に半具象の影響色濃い「蝶」「巣」を出品、その内「蝶」が毎日新聞社賞受賞。一転してドライな筆致となった両作品では、樹木の幹と枝で大まかに区切った構図と、その一角に描き込まれた小さく儚げな生きものが好対照をなし、ともすれば無機質になりかねない画面の中に灯されたような生命力が見事にクローズアップされている。65年アメリカ、メキシコへの研修旅行中、ニューヨークで抽象絵画に衝撃を受ける。71年女子美術大学教授となる。歪ませた円形を組み合わせた画面構成などをしばらく試みていたが、抽象は自分には不向きと思い至り、72年再び具象に戻る決意をする。代表作「楽園」(78年)や、それに連なるものとして、80年代に資生堂ギャラリーで3度の展観がなされた“森シリーズ”が有名だが、“交響譜”“メルヘン”“鳥獣戯画”などのシリーズを次々と展開。「いずれも自然と人間を含めた生きもの達の交流がテーマ」で、モチーフは飽くまで現実世界に求めながら、「想像や空想をおりまぜた、独白に近い作品」との言葉にあるように、寓話やメルヘンの世界を表出した心象画が岡田のスタイルとなる。細やかなストロークによる塗り重ねが全体に朦朧とした均質感を醸すことで、それ自体具体性を極力排除されているモチーフ全てがそれを取り巻く空気と渾然一体となり、現実とは決して交わらぬ独立した幻想世界を築いている。また晩年にはエッチングやリトグラフなどの版画作品もしばしば制作した他、人物の顔面に注目し、アルチンボルドを彷彿とさせる動物パズル的な作品も試みている。83年女子美術大学を退職、同大学名誉教授の称号を受ける。1989(平成元)年、46年間ともに暮らし制作を続けてきた桜井悦が死去。93年『岡田節子画集』を美術出版社より刊行、出版記念自選展を東京セントラル美術館にて開催。2000年には美術出版社より『メルヘン鳥獣戯画』が出版された記念として日本橋高島屋画廊で個展が開催された。女流画家協会展への出品は、パリ留学中の第9回・第10回を除き亡くなる08年の第62回まで欠かすことがなかった。

佐谷和彦

没年月日:2008/05/23

読み:さたにかずひこ  佐谷画廊代表であった佐谷和彦は、食道癌のため、5月23日に死去した。享年80。1928(昭和3)年、京都府舞鶴市に生まれ、第四高等学校を卒業後、京都大学経済学部に進学。53年、農林中央金庫に入社。73年に退社、株式会社南画廊(東京、日本橋)の経営者志水楠男に勧誘されて、同画廊に入社した。77年に同画廊を退社し、翌78年佐谷画廊を東京、京橋に創設した。82年に銀座4丁目に移転。2000(平成12)年に東京荻窪の自宅に移転。佐谷画廊としての活動は、日本人作家としては、池田龍雄、中川幸夫、阿部展也、山口勝弘、駒井哲郎、荒川修作、桑山忠明、松沢宥、清水九兵衛、福島秀子、山田正亮、若林奮、赤瀬川原平、戸谷成雄、辰野登恵子、小林正人等、また海外作家としては、パウル・クレー、エルンスト、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ジャコメッティ、クリスト等の展覧会を開催した。とくに詩人瀧口修造と交流のあった作家をとりあげた「オマージュ 瀧口修造」展は、28回開催され、佐谷のこの詩人への敬愛の念がこめられていた。また佐谷の回想によれば、二十年にわたって銀行での勤務の経験があったからこそ、画廊経営、また社会と美術について、冷静な判断と深い認識が培われたと語っている。とくに美術作品を扱う画廊、画商の社会的、文化的な存在意義については、つぎのように明確な考えをもっていた。「美術品という特別な、文化に関わる商品を取り扱っているという認識を持つ必要がある。ところがここがむずかしいところで、文化には商売として成立しがたい要素がある。美術品の絶対的価値と市場流通価値の乖離が、このことを示している。だからといって儲かる作品であれば何でも扱う、というのでは単なるブローカーになってしまう。画廊、画商の主張が見えてこなければ、存在理由はない、と私は思う。もうひとつ言えば、美術品は質の問題に尽きる。質に対する意識がないと、輝いたしごとはできない。文化程度が高い社会とは、質の高い芸術が人びとの周辺に存在する社会のことである。つまり良質の美術品に感応し、感動し、それを理解し、楽しむ境地に達した人間が多く存在することが望ましい。画廊、画商はそのような社会に関わっていることに誇りを持てるような存在でありたい。」(『アート・マネージメント 画廊経営実感論』、平凡社、1996年)さらに画廊が現代美術を扱うことについても、その意義をつぎのように記していた。「現代美術を取り扱う画廊のもっとも重要なしごとは、新しいすぐれた作家を社会に送りだすことである。すぐれた作家は同時代の証言者であり、時代精神を表現している。このような作家を紹介することが、画廊の社会的義務である。」このように単なる画廊経営者にとどまらずに、美術、とりわけ国内外の現代美術に対する理解者、支援者としての活動は、特筆されるべきであろう。造詣が深いからこそ、同画廊で開かれた展覧会のカタログの「あとがき」として、作家論等を数多く寄稿している。また、アート・マネージメントや文化行政に対する発言も多く、これらは、上記の引用著述以外に、下記の著作にまとめられている。 『知命記 ある美術愛好家の記録』(佐谷画廊、1978年) 『私の画廊―現代美術とともに―』(佐谷画廊出版部、1982年) 『画廊のしごと』(美術出版社、1988年) 『原点への距離―美術と社会のはざまで』(沖積舎、2002年) 『佐谷画廊の三〇年』(みすず書房、2007年) 

青木龍山

没年月日:2008/04/23

読み:あおきりゅうざん  陶芸家で文化勲章受章者の青木龍山は4月23日午後11時10分、肝不全により死去した。享年81。1926(大正15)年8月18日佐賀県西松浦郡有田町外尾山の青木兄弟商会(陶磁器製造販売会社)を経営していた父重雄、母千代の長男として生まれる。1933(昭和8)年、外尾尋常小学校入学、13歳で卒業、父から将来焼き物で身をたてようと思うなら佐賀県立有田工業学校(現、佐賀県立有田工業高校)に進学した方がいいとの助言を受け、同学に入学。4年間、図案科にて日本画、デザイン、陶画を学ぶ。当時、1学年上級に第14代今泉今右衛門がおり、交流を深めたという。43年、卒業と同時に東京美術学校を受験した際に、身体検査で胸部疾患と診断され不合格となる。徴兵検査も不合格となり兵役を免れる。胸部疾患も健康的な生活を送るうちに治癒し、47年、東京多摩美術大学(現、多摩美術大学)日本画科に入学。51年卒業すると同時に、神奈川県の法政大学第二高等学校および法政大学女子高等学校の美術教師となり勤務する。2年後、祖父の興した青木兄弟商会に入る。父の経営する同商会は戦後の混乱から経営状態が厳しく、新しい時代に適応した経営感覚と技術の導入が必要と考えた父に呼び戻された。この際、勢いよく、大きく躍動する龍にあやかりたいとの願いを込めて龍山を名乗る。会社では絵付けを担当し、ベストセラー商品にも携わる。この頃より有田焼の香蘭社の9代深川栄左衛門の女婿であった水野和三郎に師事。同時期、佐賀県は窯業の振興のため後継者育成事業として轆轤の実技指導を行う。龍山もこの事業で、磁器大物成型の轆轤で記録措置を講ずべき無形文化財に選択された初代奥川忠右衛門に轆轤技術を学ぶ。帰郷した同年、有田陶磁器コンクールで1等受賞。翌年には同展で知事賞を受賞する。そして秋に第10回日展に染付「花紋」大皿を初出品し入選。55年、田中綾子と結婚し、夫婦での作陶生活が始まる。56年、青木兄弟商会は有田陶業と改名するも倒産し、会社の窯が使えなくなる。以降、63年に伯父の資金協力を得て自宅に念願の窯を持つまで仮窯生活を送る。その後は、フリーの陶磁器デザイナーとして生計を立てながら日展入選を目指し、個人作家として生きる道を決意する。当初は染付、染錦の作品での出品が多いがその後制作の重心を天目へと定めていく。日展へは毎年出品し、入選、特選候補となるが特選とならずに創作活動に悩む。71年、第3回日展において「豊」が特選。翌年より日展に出品する作品は天目による「豊」シリーズが多くなる。73年、第12回日本現代工芸美術展で「豊延」が、会員賞および文部大臣賞受賞。81年、社団法人日本現代工芸美術家協会理事に就任。81年、社団法人日展会員。88年、第27回日本現代工芸美術展で天目「韻律」が、文部大臣賞受賞。同年、社団法人日展評議員に就任。翌年、横浜高島屋にて「青木龍山・清高父子展」を開催。1991(平成3)年、第22回日展出品作「胡沙の舞」にて日本芸術院賞受賞、日展理事に就任する。東京高島屋において、第30回記念日本現代工芸美術秀作展及び選抜展に出品。フランクフルト工芸美術館(ドイツ)における海外選抜展に父子ともに出品が決定する。佐賀県政功労者文化部門にて知事表彰、佐賀新聞社芸術部門の佐賀新聞文化賞を受賞。93年には博多大丸において個展を開催、日本芸術院会員に就任。第52回西日本文化賞受賞。社団法人日本現代工芸美術家協会副会長、及び社団法人日展常務理事に就任する。博多大丸にて日本芸術院会員就任記念「青木龍山回顧展」を開催。同年、日展審査員を委嘱、翌年には日本橋三越特選画廊にて個展を開催。95年、『日本芸術院会員 青木龍山 ひたすらに』を佐賀新聞社より刊行。97年、三越にて「青木龍山作陶展」開催。99年、文化功労者となる。2000年、佐賀大学文化教育学部美術工芸科客員教授に就任。大英博物館で開催された佐賀県陶芸展に天目「春の宴」と油滴天目「茶盌」を出品。同年、『陶心一如青木龍山聞書』(荒巻喬、西日本新聞社)を刊行。05年、佐賀で初めて文化勲章を受章する。

辻清明

没年月日:2008/04/15

読み:つじせいめい  陶芸家の辻清明は4月15日肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年81。1927(昭和2)年1月4日東京府荏原郡(現、東京都世田谷区)に生まれる。少年の頃より陶芸に興味を持ち、11歳のときより轆轤を学ぶ。41年、14歳の時には姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。また、この頃から富本憲吉や板谷波山のもとで学ぶ。43年、高島屋でやきものの文房具類を常設展示。徴用で立川の日立航空機の工場で働く。48年、富本憲吉を中心とする新匠美術工芸会展に出品。同年、札幌の北海道拓殖銀行ロビー、丸井デパートで個展を開催。49年、新たにガス窯を築き低火度色釉を施した作品の試作に成功。51年、同志と「新工人」会を設立し、以後約十年にわたって活動する。52年、第一回新工人展を開催。同年、光風会展に出品し、2年連続で光風会展出品工芸賞受賞。53年、1月和田協子(協)と結婚。漆工芸家であった協子も新工人のメンバーであった。55年多摩市連光寺の高台に辻陶器工房を設立し、3室の登窯を築窯。信楽土で自然釉の掛かった作品を作り始める。同年、現代生活工芸協会賞を受賞。56年、朝日新聞社主催現代生活工芸展審査員、62年妻の協子とともに、辻清明・辻協新作陶芸展を日本橋三越で開催し、以降たびたび二人展を行う。翌年から画廊現代陶芸代表作家展等に出品する(75年まで)。63年、五島美術館にて個展を開催、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」を納める。64年、日本陶磁協会賞を受賞、現代国際陶芸展招待出品。65年日本陶磁協会賞受賞作家展に出品する。以降2006年まで毎年出品する。同年にはアメリカ・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」を納める。67年、米国ペンシルバニア州立大学美術館に「信楽窯変花生」が所蔵される。68年には京都国立近代美術館および東京国立近代美術館主催「現代陶芸の新世代」展に招待出品。69年、三越日本橋店にて「辻清明陶芸二十五周年展」を開催する。翌年、京都国立近代美術館に「信楽壺」が所蔵される。70年、東京国立近代美術館に「球と方形の対話」が買上、京都国立近代美術館主催「現代の陶芸展―ヨーロッパと日本―」展に招待出品。翌年より2005年まで毎日新聞社主催「日本陶芸展」に招待出品、第1回、第2回海外巡回展に選抜される。73年西ドイツのヘニッシ画廊にて個展を開催、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶盌」を納める。その年より75年まで「現代選抜陶芸展」に出品、74年には迎賓館が作品を買上、「ファエンツァ国際陶芸展」に招待出品。76年、「作陶三十五周年記念 辻清明」展を日本橋壺中居にて開催。78年、小田急百貨店画廊にて個展を開催。翌年、日本経済新聞社主催「信楽展」に実行委員として関わり、自身も出品。80年、日本経済新聞社主催「現代陶芸百選展」出品。「炎で語る日本のこころ―辻清明作陶展」を新宿・小田急百貨店にて開催。82年、西武美術館主催の作陶四十五周年記念「炎の陶匠 辻清明」展を開催する。83年日本陶磁協会賞金賞を受賞。86年、作陶五十年記念『辻清明作品集』(講談社)を刊行。87年、多摩の工房が周囲の開発により仕事への支障が懸念されたため長野県穂高町に工房と登り窯を完成させる。しかし、2年後に工房と母屋が蒐集した工芸品・書籍と共に焼失。1990(平成2)年、藤原啓記念賞を受賞する。91年、「辻清明の眼 ガラス二千年展」(清春白樺美術館)では江戸切子などのガラスコレクションを展観、同年自身で制作したガラス器展を銀座の吉井画廊で開催。93年、NHK教育テレビの趣味百科「やきものをたのしむ」に夫婦で出演。96年、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社)を刊行。2003年ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の「日本―写真と陶芸―伝統と現代」展に招待出品。06年、東京都名誉都民となる。翌年、「美の陶匠 辻清明傘寿展」を大阪梅田阪急にて開催。精力的な活動は没後の10年刊行の『独歩 辻清明の宇宙』(清流出版株式会社)に詳しい。女性で初めて日本陶磁協会賞を受賞した妻、協子も08年、7月8日肝臓がんのため死去。享年77。

古川吉重

没年月日:2008/04/10

読み:ふるかわよししげ  抽象画家の古川吉重は4月10日、入浴中に倒れ、死去した。享年86。1921(大正10)年12月19日、福岡県福岡市大工町87番地に生まれる。国文学者で書画をよくした佐賀藩士古川松根は曽祖父にあたる。1928(昭和3)年、福岡市簀子小学校に入学するが病弱のため同年退学し、29年に再入学して35年に卒業。同年、中学修猷館(現、修猷館高校)に入学する。同校在学中の36年より杉江春男に師事してデッサン、油彩画を学ぶ。39年中学4年を修了し、東京美術学校(現、東京芸術大学)油画科に入学。田辺至にデッサンを学び、夜は鈴木千久馬研究所に通う。40年東京美術学校の南薫造教室に入る。同教室の同期生に藤間清があり、後に先輩の野見山暁治が病気のため同期となる。43年9月、東京美術学校を繰上げ卒業。44年郷里に帰り当仁小学校教師となって図工を受け持つが、同年5月応召し海軍気象兵となる。45年終戦とともに復員し、当仁小学校に復職。翌46年香椎高等女学校に転任して美術を担当。同年新興美術展(日本橋三越)に入選。1947年第15回独立美術協会展に「風景(C)」「樹と建物」で初入選。以後、同展に出品を続ける。49年第17回独立展に「人物」「女」「裸婦」を出品し、独立美術賞受賞。55年サエグサ画廊で初個展を開催する。このころはキュビスムに学んだ画風を示した。56年福岡大丸デパートでの個展に25点を出品。57年第9回読売アンデパンダン展に「廻転」を出品し、以後同展に出品を続ける。一方、独立美術協会には不満を抱き、58年に同会を退会。同年、吉田穂高などによるグループ「野火」、および、岡本太郎、難波田龍起らによる総合的現代美術グループ「アートクラブ」に参加する。62年第5回現代日本美術展コンクール部門に「昼―5」で入選。63年第2回丸善石油奨励賞選抜展に入選。同年7月それまで勤務していた代々木小学校を退職し、同年9月にニューヨークで開催される世界美術家会議のオブザーバーとして渡米する。当初はヨーロッパへ向かう予定であったが、ニューヨークにとどまり、64年第15回ニューイングランド展に入選する。以後、68年まで同展に出品。73年9月、ニューヨークの新築ビルであるグレイスの社内食堂に壁画を描く。74年11月ソーホーのロータス画廊で個展を開催し、71年頃から始めたカンヴァスによるコラージュ作品等を発表する。76年13年ぶりに帰国し、フマ画廊で個展を開催。翌年、欧州巡遊の旅をし、ニューヨークに帰る。81年8月東京のギャラリー山口で個展を、1989(平成元)年1月、コンデッソ・ローラー画廊(ソーホー)で個展を開催。同展は15年ぶりのニューヨークでの個展となった。92年3月福岡市美術館で「古川吉重展」が開催され、6月には国立国際美術館で「近作展11 古川吉重」が開催された。初期には具象画を描いたが、1950年代に幾何学的抽象表現へ移行、1968年には画面に同じ大きさの小円を規則的に並列し、明度差のない色面で構成するミニマル・アート的な表現を行った。71年からはカンヴァス・コラージュを行い、徐々にゴムなどの素材と合わせて異なる材質感による構成を試みるが、78年から油彩による表現にもどり、モノクロームの幾何学的抽象から、80年代には色彩を取り入れた構成に向かった。

白髪一雄

没年月日:2008/04/08

読み:しらがかずお  足で絵を描くフット・ペインティングと呼ばれる独自の技法を確立し、戦後美術を代表する一人として国際的に活躍した白髪一雄は4月8日午前7時25分、敗血症のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年8月12日、兵庫県尼崎市の呉服商の長男として生まれる。幼少の頃から書画や骨董に親しみ、旧制中学時代に画家を志すようになる。東京美術学校(現、東京芸術大学)への進学を夢見るが、家業を継がせたい家族の猛反対と、太平洋戦争が勃発し食料や物資の不足が深刻になり始めていたこともあり、自宅から通学可能な京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)へ1942(昭和17)年に入学。当時同校には図案科と日本画科しかなく、入学したのは日本画科であった。しかし日本画へは興味を示さず、48年同校卒業後は洋画に転向、大阪に新設された市立美術研究所に通い、次に新制作派協会(51年に新制作協会に改称)の会員だった芦屋在住の洋画家、伊藤継郎のもとで更なる研鑽を重ねる。新制作派協会の関西展や東京本展で、童話的な主題による具象画を発表。その後、52年に大阪で発足した現代美術懇談会(ゲンビ)に参加するなど前衛美術に傾倒し、同年新制作協会の村上三郎、金山明、田中敦子らと「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」として0会を結成。ペインティングナイフや指を多用した作品を経て、54年の0会の展覧会で、初めて足で制作した作品を発表する。55年、0会は芦屋在住の吉原治良が若い美術家たちと結成した前衛美術グループ、具体美術協会から合流の誘いを受け、参加。以後、同協会を活動の舞台とし、なかでも55年7月に芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」で赤い丸太に斧で切り込んだ「赤い丸太」を、同年10月に東京、小原会館で開催された第1回具体美術展では庭に置いた約1トンの泥の中で格闘する「泥にいどむ」を、そして57年5月と7月に大阪、産経会館と東京、産経ホールで開かれた「舞台を使用する具体美術」には「超現代三番叟」を発表、激しいアクションを物体に定着させた立体作品やパフォーマンスを試みた。その一方で足による制作も続けたが、57年フランス人美術評論家のミシェル・タピエが来日、タピエの提唱するアンフォルメルを体現する絵画として位置づけられ、国際的にも高く評価される契機となる。この時期、愛読していた『水滸伝』の豪傑のあだ名を作品に付した「水滸伝」シリーズを開始。59年イタリア、プレミオ・リソーネ国際展で買上げ賞を受賞。62年パリのスタドラー画廊、トリノのノティティエ画廊で個展を開いて以降フランス、イタリア、ドイツなど海外でも個展を開催。65年第8回日本国際美術展に「丹赤」を出品して優秀賞を受ける。「丹赤」では素足ではなくスキー板を履いて制作し、以後板や棒を用いて画面に襞や扇状の半円を作り出し、画面に流動感を与えるようになる。70年には比叡山に上って天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請い、翌年得度し、「素道」の法名を授けられる。72年具体美術協会解散後も個展を中心に活動するが、密教との出会いを機に、その作風は宗教性を深めた。2001(平成13)年に兵庫県立近代美術館で回顧展を開催。没後の09年から10年にかけて「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館・尼崎市総合文化センター・横須賀美術館・碧南市藤井達吉現代美術館を巡回して開催、画業の全貌が回顧された。

金子裕之

没年月日:2008/03/17

読み:かねこひろゆき  考古学者で奈良文化財研究所(奈文研)名誉研究員・奈良女子大学特任教授であった金子裕之は3月17日、癌のため奈良市内の病院で死去した。享年63。1945(昭和20)年2月16日に富山県高岡市に生まれる。70年國學院大學大学院文学研究科を修了、同年神奈川県高座郡座間町立座間中学校の教員となり、2年間を過ごす。72年4月に奈良国立文化財研究所文部技官として採用され、その後一貫して奈良の地を拠点として考古学研究に従事した。86年以降、奈文研平城宮跡発掘調査部考古第一調査室長をはじめとして飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センターで室長を歴任し、1999(平成11)年から2005年まで奈良女子大学大学院人間文化研究科教授を併任した。1999年に奈文研埋蔵文化財センター研究指導部長、2001年に独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部長、03年に飛鳥藤原宮跡発掘調査部長となり、05年4月退職。以後奈良女子大学特任教授として教育・研究に貢献した。金子の研究の対象には、学生時代からの関心でありつづけた縄文文化、奈良に赴任してからのフィールドとなった飛鳥や平城京の調査研究を契機とした我が国古代の都城制、それに出身大学の学的伝統でもある神祇への関心に発する古代祭祀という三つの大きな柱があった。金子はそのいずれについても、日常業務の多忙さの中にありながらも、重厚な成果を積み重ねていった。個別の論文は枚挙にいとまがないので、著書のいくつかに限って言及しておこう。『日本の美術 まじないの世界Ⅰ』(至文堂、1996年)は金子の畢生の研究テーマであった祭祀についての総説ともいうべき好著で、縄文時代から古代にわたる壮大な歴史の流れの中に脈々と生き続ける「まじない」、「まつり」のありようを、考古資料を駆使して生き生きと叙述した。同年に刊行された金子著の『歴史発掘12 木簡は語る』(講談社)でも浩瀚な知識に裏付けられつつ、自身の独自の研究成果を基軸にして、わかりやすい表現で古代人の精神生活のありようが解き明かされている。こうした闊達な文章表現は金子の真骨頂とするところで、本来堅苦しくなりがちな学術成果を、解きほぐすような筆致で語りかける文章術は類まれなものであった。金子の、はからざる晩年の関心は庭園遺跡の史的位置づけに重点がおかれたように思える。平城宮の内外での発掘調査でみつかった幾多の庭園跡をどのように位置づけるべきか。金子は、庭園は皇権さらには都城に関わる祭祀と結合すると考え、関連する国内外の研究者を糾合して庭園の史的論理の追究に努力を傾注した。その成果の一端は2002年に刊行した編著『古代庭園の思想―神仙世界への憧憬―』(角川選書)に結実しているが、まだ道半ばというところであった。金子の研究姿勢は、総じて峻烈であった。徹底的に事実に拘泥し、妥協を許さず、一言一句をゆるがせにしなかった。時として挑戦的で、しかし、いくつもの研究会を組織したことや多くの編著書が物語るように、調和、調整そして総合を重んじる人でもあった。発掘や整理作業に従事する人々に寄せる優しい気配りは、その峻厳な風貌からは窺いがたいものの、近くに過ごす者達の等しく知るところであった。

細野正信

没年月日:2008/03/11

読み:ほそのまさのぶ  美術史家、美術評論家の細野正信は3月11日午前8時58分、胆管がんのため千葉県船橋市の病院で死去した。享年81。1926(大正15)年9月11日、群馬県前橋市に生まれる。1947(昭和22)年群馬師範学校を卒業後、前橋市立第一中学校教諭を務め、翌年早稲田大学高等師範部へ入学。49年に同大学第一文学部に編入学、57年に同大学院文学研究科美術史学専攻修士課程を修了し文部省へ入省、翌年には同芸術課の日本芸術院事務局に勤務する。63年東京国立博物館へ出向。72年に同館美術課絵画室主任研究官、85年に同課建築室長となる。87年同館を定年退官し、山種美術館学芸部長となる。1997(平成9)年には高崎タワー美術館館長。2000年に同館館長を辞し、03年までヤマタネ美術顧問を務める。また1963年から71年まで女子美術大学、71年から88年まで早稲田大学で講師を務めた。2000年には船橋市教育文化功労者として表彰された。1960年代前半より『美術手帖』『萠春』誌上に展評や美術評論を執筆し、東京国立博物館在任中は、青木木米・中山高陽等の近世文人画家や司馬江漢についての論考を『MUSEUM』をはじめとする諸雑誌に発表。70年代には美術全集の刊行が相次ぐ中で、とくに狩野芳崖や横山大観といった近代日本画に関する巻の執筆・編集を担当し、美術雑誌や展覧会図録でも旺盛な執筆活動を展開、また日本美術院を主とする同時代の日本画家についての評論も行う。75年からは『日展史』全41巻、89年からは『日本美術院百年史』全15巻編纂の監修を務め、日本近代美術史に大きく与る団体の基礎資料集成を築いた功績は大きい。その著述においても近代日本画の通史のスタンダードをつくりあげ、専門家はもとより多くの美術愛好家の手引となった。主要な編著書は下記の通りである。 編集『日本の美術36 洋風版画』(至文堂、1969年) 『現代日本美術全集2 横山大観』(集英社、1971年) 『カラーブックス 竹久夢二』(保育社、1972年) 編集『近代の美術9 下村観山』(至文堂、1972年) 編集『近代の美術17 フェノロサと芳崖』(至文堂、1973年) 『カラーブックス 日本の画家 近代日本画』(保育社、1973年) 編著『日本の名画17 菱田春草』(講談社、1973年) 『読売選書 司馬江漢 江戸洋風画の悲劇的先駆者』(読売新聞社、1974年) 監修『日展史』全41巻(社団法人日展、1975~2002年) 編集『日本の名画1 狩野芳崖』(中央公論社、1976年) 『現代日本美人画全集5 伊東深水』(集英社、1977年) 富岡益太郎・吉沢忠と編著『日本の名画8 富岡鉄斎・横山大観・菱田春草』(講談社、1977年) 『皇居造営下絵 杉戸絵と襖下絵』(京都書院、1977年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術52 江戸狩野と芳崖』(小学館、1978年) 『現代日本の美術4 東京画壇』(小学館、1978年) 編集『日本美術全集25 近代絵画の黎明:文晁・崋山と洋風画』(学習研究社、1979年) 監修『日本の花鳥画』全6巻(京都書院、1980~81年) 『明治花鳥画下絵集成 宮内庁内匠寮旧蔵』(京都書院、1981年) 『短冊絵300撰 内田コレクション』(芸艸堂、1981年) 浜田台児と監修『伊東深水全集』全6巻(集英社、1981~82年) 『現代日本絵巻全集16~18 東海道五十三次合作絵巻』(小学館、1982~83年) 『現代日本画全集1 堅山南風』(集英社、1983年) 編集『日本の美術232 江漢と田善』(至文堂、1985年) 『竹久夢二と抒情画家たち』(講談社、1987年) NHK取材班と共著『流転・横山大観「海山十題」』(日本放送出版協会、1987年) 『日本の美術262 江戸の狩野派』(至文堂、1988年) 監修『近代の美人画 目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1988年) 『日本美術院百年史』全15巻(財団法人日本美術院、1989~99年) 監修『近代の日本画 花鳥風月:目黒雅叙園コレクション』(京都書院、1990年) 責任編集『昭和の文化遺産1 日本画1』(ぎょうせい、1990年) 編集『巨匠の日本画2 横山大観 遥かなる霊峰』(学習研究社、1993年) 『日本画入門 よくわかる見方・楽しみ方』(ぎょうせい、1994年) 『日本絵画の表情1 雪舟から幕末まで』(山種総合研究所、1996年) 編著『名画の秘密 日本画を楽しむ』(ぎょうせい、1998年) 監修『日本絵画の楽しみ方完全ガイド 絵画を楽しむための「20のポイント」と日本の巨匠72人の名作』(池田書店、2007年) 

米倉守

没年月日:2008/02/25

読み:よねくらまもる  美術評論家で、多摩美術大学教授、松本市美術館長であった米倉守は、下咽頭癌のため、東京都三鷹市の病院で死去した。享年70。1938(昭和13)年、三重県津市に生まれる。関西学院大学を経て、関西大学文学部を卒業。卒業後、朝日新聞社に入社、同社大阪本社学芸部、ついで東京本社学芸部で美術を担当した。その後、編集委員となった。1994(平成6)年に多摩美術大学教授となり、同大学造形表現学部長を務めた。また2002年に開館した長野県の松本市美術館の館長を歴任した。新聞記者時代から、展覧会等の批評記事を数多く執筆した米倉であるが、そこには一貫して「現場」(画廊での個展、創作のアトリエ等)に対するこだわりがあった。そして書かれた美術批評は、また一貫して「一般読者」に向けられていた。その点は、米倉の批評の姿勢であり、新聞社を退いた後に書かれた、つぎのような一節からも了解される。「私は画家に呼びかける文体をとったとしても、作家自身に直接向かって書いたことは一度としてない。どうとられようと対象は一般の人たちである。もし何らかの影響が作家側にあるとすれば、一般人、一般読者に投影して、そのはるか反映が作家の制作に影を落とすやもしれない場合に限るだろう。評論家と作家の間に大きな位置を占めている一般読者という存在こそすべてである。評論家の願望を描き、作家、作品を一般大衆に語る自由はあるからだ。(中略)美は壊れやすく滅びやすく、はかない。そして事実滅びてゆくけれど、それを語り描くことが評論だと思っている。」(「靴を隔てて痒きを掻く」、『美術随想 夢なら正夢―美の賑はひに誘ふ一〇〇章』、求龍堂、2006年)米倉は、美術を「現場」から見つめつづけ、「一般読者」に向かって「批評」として発信をつづけたジャーナリストであった。上記引用した著書以外の主要な著書は、下記のとおりである。 『中村彝 運命の図像』(日動出版部、1983年) 『個の創意―現代美術の現場から』(形象社、1983年) 『評伝有元利夫 早すぎた夕映』(講談社、1986年) 『ふたりであること 評伝カミーユ・クローデル』(講談社、1991年) 『美の棲家1 東洋編』(彩樹社、1991年) 『美の棲家2 西洋編』(彩樹社、1991年) 『流産した視覚 美の現在・現代の美術』(芸術新聞社、1997年) 『両洋の眼・21世紀の絵画』(瀧悌三共著、美術年鑑社、1999年) 『非時葉控 脇村義太郎 全人翁の美のものさし』(形文社、2002年) 

中山公男

没年月日:2008/02/21

読み:なかやまきみお  西洋美術史家で美術評論家の中山公男は、2月21日肺気腫のため死去した。享年81。1927(昭和2)年1月3日、大阪船場の裕福な商家に五人兄弟の三男として生まれる。中学時代より書店や古本屋をめぐり、哲学、美術、文学、歴史書などの収集と読書を日課とする。44年4月、新潟高等学校に入学。47年4月、東京帝国大学文学部哲学科美学美術史学科入学、矢崎美盛に師事。高校時代からの友人丸谷才一のほか、篠田一士、永川玲二など外国文学関係者や画家の松本竣介、麻生三郎らと交友を深める。50年同学科卒業。卒業論文は、フランシス・グリューベルを中心としたフランスの戦後派美術をテーマに選ぶ。53年、同大学大学院特別研究生修了、修士論文では、初期中世の写本芸術をテーマとした。同年、女子美術大学専任講師、54年より多摩美術大学講師、日本大学芸術学部助教授として、西洋美術史、美学概論、芸術論、芸術学、彫刻史、フランス語の講義を行うほか、文化学院でも教鞭を執る。この頃、丸谷才一、篠田一士とともに『ユリイカ』のコラムを毎月号担当、「第一回ルーヴル展」(1954年)のカタログ編集委員会、続いて「朝日秀作美術展」の事務局及び選考委員会に従事、昭和30年代半ばまで携わる。59年5月、国立西洋美術館の開館にともない文部技官主任研究員として勤務、「ミロのビーナス特別公開」「ギュスターヴ・モロー展」「ルオー遺作展」などに関わる。63年から在外研究員として3ヶ月間欧州に滞在。68年万国博覧会参事を務め、同年7月国立西洋美術館を退官。83年多摩美術大学教授、87年~90年筑波大学教授、1991(平成3)年~97年明治学院大学教授を歴任する。また、86年から2005年まで群馬県立近代美術館長を務め、この間、美術館連絡協議会理事長(1995年~2001年)、全国美術館会議会長(1997年~2001年)として、美術館の不備、学芸員の処遇の改善などを訴え、美術館行政の抜本的な改革を目指した。このほか、地中海学会の設立に関わり、副会長を務めた。西洋美術にとどまらず、美術全般に幅広い知識をもち、専門家から一般の美術愛好家に向けて数々の評論、解説、エッセーを残した。変貌をテーマとした画家論『レオナルドの沈黙―美の変貌』(小沢書店、1976年)、昭和20年代から40年間にわたる論考を納めた『美しき禍い』(小沢書店、1988年)、また自伝的エッセーとして『私たちは、私たちの世代の歌を持てなかった―ある美術史家の自伝的回想』(生活の友社、2004年)などが知られるが、なかでも代表作は、日本人としていかに西洋と向き合うかという問いを発した『西洋の誘惑』(初版、新潮社、1968年・改訂版、印象社、2004年)である。自ら「被誘惑者」として語る西洋と自己、あるいは西洋と日本の対峙というテーマは、中山の思索において根幹をなす。太平洋戦争によって、読書を通じて憧憬した西洋に、理念でとらえているにもかかわらず現実には近づけない状況に直面し、西洋の受容について熟考することとなる。「思考や想像力が、ひとつの理念を生みだそうとするとき、些細な経験は無にひとしい。体験は、理念追求の力を訂正することはあっても、それを凌駕することはできない」。美術史にとって感覚的な体験が絶対であることを認めながらも、理念は体験に勝るという結論に至った中山は、理念に到達するためには、体験の背後にある「思惟体系なり審美体系なりの違い」を把握することが必要であると説く。被誘惑者にとって西洋は幻影であり、両者には容易には到達し得ない膨大な距離がある。西洋と上辺だけの対峙をする「似非モラリスト、疑似エステート」に対し、時に痛烈な批判を浴びせながら、真の西洋受容とは、その幻影を認め、その誘惑を知ることと論じた。1960年代に展開されたこの主張は、半世紀を経た今なお色あせることなく、21世紀の我々に、今度こそ幻影を「奪取」するよう促している。このほか、『モローの竪琴―世紀末の美術』(小沢書店、1980年)、『ユトリロの壁―絵画随想26篇』(実業之日本社、1984年)、『画家たちのプロムナード―近代絵画への誘い』(悠思社、1991年)、翻訳書に、ルネ・ユイグ著、中山公男・高階秀爾訳『見えるものとの対話1~3』(美術出版社、1962~63年)、アンリ・ドベルビル著、中山公男訳『印象主義の戦い』(毎日新聞社、1970年)、クラルス・ガルヴィッツ著、中山公男訳『桂冠の詩人ピカソ―1945年以降の絵画作品』(集英社、1972年)、フランシス・ポンジュ他著、中山公男訳『ピカソ―破壊と創造の巨人』(美術出版社、1976年)などがある。また新聞、美術雑誌、展覧会カタログ、美術全集等に多数の執筆を残した。詳しくは、『芸術学研究』7号(1997年)に明治学院大学文学部芸術学科編「中山公男教授 著作目録」が掲載されている。蔵書は吉野石膏財団に寄贈され、現在、約3000点あまりが中山文庫として公開されている。

森口華弘

没年月日:2008/02/20

読み:もりぐちかこう  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)である森口華弘(本名平七郎)は2月20日午後4時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1909(明治42)年12月10日、滋賀県野洲郡守山町に父周次郎、母とめの三男として生まれる。本名は平七郎。1921(大正10)年3月、守山尋常小学校(現、守山市立吉身小学校)を卒業。24年、母の従兄坂田徳三郎の紹介で友禅師・三代中川華邨に師事し、その一方、華邨の紹介で疋田芳沼に就いて日本画を学ぶ。1934(昭和9)年、師の華邨の作風をひろめるという意味を込めて坂田徳三郎により名付けられた雅号「華弘」を用いる。2年後、1月8日に林智恵と結婚、中川家を出て一家を構え、39年1月には独立して工房をもつ。これに前後して華弘の代表的な技法である「蒔糊(まきのり)」の着想が生まれる。「蒔糊」の技術は、東京国立博物館で目にした江戸時代の撒糊技法が施された小袖と漆蒔絵の梨子地から、江戸時代より伝わる撒糊技法と漆芸の蒔絵技法と組み合わせることを着想したという。41年には丸川工芸染色株式会社に取締役・技術部長として勤務。しかし、戦争下、贅沢品禁止令、企業整備令の施行や社員の軍事工場への徴用の中、友禅の仕事は続けられなくなる。戦後、友禅の仕事を徐々に再開し、49年には市田株式会社主催の柳選会に参画、52年には京都工人社に加わり伝統工芸の保護・育成にも携わる。55年、第2回日本伝統工芸展に蒔糊を施した友禅着物「おしどり」「早春」「松」を出品し、全作入選。そのうち「早春」は朝日新聞社賞を受賞。56年、第3回日本伝統工芸展で友禅着物「薫」が文化財保護委員会委員長賞を受賞し、日本工芸会正会員となる。翌年から同展鑑査員に就任。58年には第1回個展を東京日本橋三越にて開催(以後毎年開催)。翌年、全国絹製品競技大会で通産大臣賞を受賞。60年、京都新聞文化賞を受賞。この頃から社団法人日本工芸会理事として活躍。62年には常任理事となる。翌年、「現代日本伝統工芸展」(オランダ・西ドイツ)に出品。67年、57歳の若さで国の重要無形文化財保持者に認定される。同年、「近代日本の絵画と工芸」展(京都国立近代美術館)に出品。70年には社団法人日本工芸会副理事長就任。翌年、紫綬褒章を受章、その後73年には第20回日本伝統工芸展に友禅着物(梅華文様)を出品、20周年記念特別賞を受賞。同年、「現代日本の伝統工芸展」(中国展観記念)に出品。翌年、京都市文化功労賞受賞後、「京都近代工芸秀作展」「現代日本の伝統工芸展」(ポルトガル・オーストリア・イタリア・スペイン)等に出品。76年『友禅―森口華弘撰集』(求龍堂)を刊行、「森口華弘五十年」(東京・京都 日本経済新聞社主催)を開催。80年、勲四等旭日小綬章を受章。同年、「染と織―現代の動向」展、翌年、「現代工芸の精華―京都作家秀作」展に出品。82年には「友禅・人間国宝 森口華弘展」(石川県立美術館)が開催。「人間国宝展米国展」(ボストン・シカゴ・ロサンゼルス)にも出品。翌年からも多くの作品を展覧会に出品し、「伝統工芸30年の歩み」展(東京国立近代美術館)、「現代日本の工芸―その歩みと展開」展(福井県立美術館)、「京都国立近代美術館所蔵 近代京都の日本画と工芸」展(群馬県立近代美術館)等に出品。特に85年「現代染織の美―森口華弘・宗廣力三・志村ふくみ展」(東京国立近代美術館 日本経済新聞社主催)、翌86年「人間国宝・友禅の技 森口華弘展」(滋賀県立近代美術館)と森口の歴史を振り返るような内容の展覧会も開催される。87年、京都府文化特別功労賞を受賞。その後も、「近代の潮流・京都の日本画と工芸」展(京都市美術館)、「人間国宝・友禅 森口華弘」展(守山市民ホール)、「染織の美―いろとかたち―」展(新潟市美術館)等に出品。1994(平成6)年には「伝統と創生 友禅の美 森口華弘・邦彦展」(大阪・京都大丸、読売新聞社主催)において父子の作品を一堂に展観する。翌年、滋賀県守山市の名誉市民第一号の称号を受ける。98年にはポーラ文化賞を受賞。翌年からも「京友禅―きのう・きょう・あした」展(目黒区美術館)、「開館30周年記念展Ⅰ工芸館30年のあゆみ」(東京国立近代美術館工芸館)等に出品。2007年、息子森口邦彦が友禅の重要無形文化財保持者に認定され、父子ともに友禅の重要無形保持者となる。没後の09年4月、「森口華弘・邦彦展―父子、友禅人間国宝」が滋賀県立近代美術館、東京日本橋三越にて開催される。

野々村一男

没年月日:2008/02/11

読み:ののむらかずお  日本芸術院会員の彫刻家、野々村一男は2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅で死去した。享年101。1906(明治39)年11月15日、愛知県名古屋市西区江中町に生まれる。生家は建築業を営んでおり、家業を継ぐよう期待されたが、反対を押して上京。東京美術学校(現、東京芸術大学)彫刻科塑造部に入学し、在学中の1929(昭和4)年第10回帝展に「座女」で初入選。36年3月、同校を卒業する。36年、「彫刻芸術の既成概念を廃して価値要素を学究的に考察する」ことをめざして、早川巍一郎、加藤顕清、大須賀力らとともに日本彫刻家協会を結成。同年の文展鑑査展に「現實への飛躍」を出品。1937年7月、応召して中国大陸に渡り、38年6月に除隊。38年第2回新文展に「渡河戦」を出品して特選となる。52年第8回日展に「人間告訴」を出品し特選・朝倉賞受賞。58年第1回新日展に会員として「躍進」を出品、61年日展評議員となる。80年第12回改組日展にブロンズによる男性裸体立像「物との、はざま」を出品し、翌年同作品により日本芸術院賞受賞。81年日展理事、82年日展参事となる。88年、長年の業績により日本芸術院会員となった。1989(平成元)年喉頭がんのため声帯を失うが、制作の面では新局面を拓く。従来、重力に逆らうことなく立つ、あるいは座るポーズを基本とする男性、女性の裸体像によって抽象的概念を表現していたが、右ひざを曲げて体を地面に並行に仰向けに倒した人体をとらえた2003年の第35回改組日展出品作「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、飛翔する人体をとらえた04年の第36回改組日展出品作「ふりそそぐ宇宙線の音を聞き我が生存の心ふくらむ」や、浮遊する人体をとらえた第37回改組日展出品作「空中遊泳」などのように、日常性から離れた状況の人体像によって生命や自然観などをあらわす作品へと移行した。02年日本橋三越で「野々村一男彫刻展」を開催し、1933年から2002年までの70年にわたる制作の過程が跡づけられた。裸体全身像をモティーフとする塑像を得意とし、一貫して官展に出品して、彫塑におけるアカデミックな表現を模索し続けた。晩年はレリーフ作品が多くなる一方、茶器などの作陶も行ったほか、1966年の開学以来、愛知県立芸術大学で教鞭を取り、後進の指導に当たった。官展出品歴:第10回帝展(1929年)「座女」、第11回帝展不出品、第12回帝展「仰ぐ者」、第13回帝展「少女坐像」、第14回帝展「思凡」、第15回帝展「生」、昭和11年文展鑑査展「現實への飛躍」、第1回新文展(1937年)「或る感情」、第2回新文展「渡河戦」(特選)、第3回新文展「青年達」、紀元2600年奉祝展(1940年)「破殻」、第4回新文展(1941年)「感」(無鑑査)、第5回新文展不出品、第6回新文展「攻防」(招待)、第1、2回日展不出品、第3回日展(1947年)「男」(招待)、第4回日展「生存者」、第5回日展「青女」、第6回日展「立女(未完)」、第7回日展「始動」、第8回日展「人間告訴」(特選・朝倉賞)、第9回日展「青年」(無鑑査)、第10回日展「島嶼」(審査員)、第11回日展「野牛」、第12回日展「女帝ト野牛(試作)」、第13回日展「感」、第1回新日展(1958年)「躍進」(会員)、第2回新日展「示行」、第3回新日展「創伸」、第4回新日展不出品、第5回新日展「青」(評議員)、第6回新日展「植物学者伊藤圭介」、第7回新日展「手を持つ男」、第8回新日展「組織なき個」、第9回新日展「火」、第10回新日展「汎」、第11回新日展(1968年)「感」、第1回改組日展(1969年)「直情」(評議員)、以後、毎年出品、第5回改組日展(1973年)「守の宇宙」、第10回改組日展(1978年)「汎」、第15回改組日展(1983年)「山の風」(参事)、第20回改組日展(1988年)不出品、第25回改組日展(1993年)「我が地球生命萌ゆ」(顧問)、第30回改組日展(1998年)「宇宙での生存の意識」、第35回改組日展(2003年)「サハラサバク上空にて(日没も過ぎて地平線がなく成る寸前の感)」、第39回改組日展(2007年)「陸と空」(レリーフ)

羽田登喜男

没年月日:2008/02/10

読み:はたときお  友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の羽田登喜男は2月10日午後10時22分、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年97。1911(明治44)年1月14日、石川県金沢市に造園師・羽田栄太郎の三男として生まれる。1925(大正14)年、隣家の南野耕月に加賀友禅を学ぶ。1931(昭和6)年、京都にて同郷の曲子光峰に京友禅を学ぶ。以降、羽田は生涯にわたり京都で制作を行う。金沢では加賀友禅の下絵、糊置き、色挿し等一連の作業の基礎を習得し、京都では京友禅のみならず、美術工芸品の鑑賞など文化に触れることの重要性を学んだという。一般的に京友禅は工程が分業されているが、羽田はすべての工程を自身で行う制作態度をとった。43年には政府認定の京都友禅技術保存資格者となり、戦中も作品を制作。55年、第2回日本伝統工芸展において訪問着「孔雀」が初入選。翌年出品した友禅訪問着「雉子」「鴛鴦」で初めての連作が試みられる。その後も春秋をテーマに連作を残す。57年には社団法人日本工芸会正会員となり、62年には理事に就任。71年、日本伝統工芸展審査員に就任。76年には第23回日本伝統工芸展で「白夜」が東京都教育委員会賞を受賞。同年、藍綬褒章を受章。78年、京都府美術工芸功労者表彰を受ける。79年に紺綬褒章、82年に勲四等瑞宝章を受章。同年、祇園祭蟷螂山の前掛「瑞祥鶴浴之図」を制作。84年にも祇園祭蟷螂山の胴掛2面「瑞光孔雀之図」と「瑞苑浮遊之図」を制作する。86年、京都府より英国王室ダイアナ皇太子妃に贈られた振袖「瑞祥鶴浴文様」を制作。88年、友禅の重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。同年、社団法人日本工芸会参与。90年、京都府文化功労賞特別賞受賞、京都市文化功労者表彰を受ける。翌年、祇園祭蟷螂山見送り「瑞苑飛翔之図」を制作。92年より翌年にかけて「友禅 人間国宝 羽田登喜男」展を石川県立美術館と京都市美術館にて開催。初期の作品から最近作までの約70数点が展観された。96年、フランスのリヨン染織美術館にて「羽田家のキモノ」展が開催。99年には祇園祭蟷螂山水引「吉祥橘蟷螂図」を制作、献納。2004年、祇園祭蟷螂山後掛「瑞兆遊泳之図」を献納し全懸装品を制作完納する。これらの制作には後継者である息子羽田登も携わり、その技術伝承に努める。07年10月10日、高齢のため制作活動を終了。羽田は、「着物は身につけて初めて完成するもので、主役である女性をいかに美しくひきたたせるかが大切」と常々語り、着装を意識した制作を心がけたという。著作に『羽田登喜男作品集』(八宝堂、1966年)、『春秋雅趣』(フジアート出版、1981年)、『春秋雅趣 二』(フジアート出版、1989年)、『遊於芸』(フジアート出版、1992年)などがある。

大津鎮雄

没年月日:2008/01/31

読み:おおつしずお  日展参与の洋画家大津鎮雄は1月31日午前1時30分、大動脈弁狭窄症のため東京都武蔵野市の病院で死去した。享年87。1920(大正9)年10月25日、東京市本郷区千駄木に生まれる。父が大阪商船に勤務し転勤が多かったため、幼少期は沖縄、神戸などに住み、1929(昭和4)年に吉祥寺に居を定める。この頃、父とともに東京府美術館で開催される美術団体展に赴き、洋画に興味を抱く。33年武蔵野町立第三尋常小学校を卒業し、日本美術学校(現、日本美術専門学校)初等科に入学、小島善太郎に師事して油彩画を描き始める。37年第1回一水会展に「遠望」で初入選。39年日本美術学校本科洋画科を卒業する。41年赤坂歩兵隊に入隊し、同年から43年まで一水会には従軍のため不出品。44、45年は戦争により一水会展が開催されなかった。46年3月中国から復員。同年より安井曽太郎に師事する。48年より東京日比谷のアニーパイル劇場で舞台美術のデザインを担当。49年第5回日展に「松と洋館」で初入選。以後、日展に出品を続ける。50年第12回一水会展に「夏の午後」「赤煉瓦」を出品し、一水会賞受賞。翌年、一水会会員となる。51年第7回日展に「寒木邸」を出品し日展岡田賞受賞。57年第19回一水会展に「欅」を出品し会員優賞受賞。61年から翌年まで約半年間渡欧し、以後、ヨーロッパ風景を主要なモティーフとするようになる。65年第8回社団法人日展に「裏庭」を出品して菊華賞受賞。68年日展会員および一水会委員となる。86年日展評議員となる。1991(平成3)年第23回日展に「山添いの家」を出品して文部大臣賞受賞。99年10月、「大津鎮雄油絵展 風景画の輝き―南仏の田園から」(武蔵野市文化会館アルテ展示室)が開催され、1950年代から近作までが展示される。2000年第15回小山敬三美術賞を受賞し、同年、これを記念して「小山敬三美術賞受賞記念大津鎮雄展」が日本橋高島屋で開催され、初期から近作まで約40点が展示される。01年日展参与となる。04年「画業70年記念大津鎮雄展―陽光まばゆい南フランスの自然を見つめて」(サトエ記念21世紀美術館)が開催され、没後の09年2月には同美術館で「大津鎮雄展―美しい風景を求めて・旅情を描いた画家の生涯」展が開催された。年譜は同展図録に詳しい。人物や静物を描くのに適性を持つと評した師安井曽太郎のことばに拘わらず、大津は初期から風景、しかも洋風の都市風景を好んで描き、61年のヨーロッパ旅行以後は、西欧風景を主要なモティーフとした。日展、一水会展に出品を続け、晩年は次第に西欧の地方都市を好んで描き、穏健な写実的画風を示した。

片岡球子

没年月日:2008/01/16

読み:かたおかたまこ  日本画家で日本芸術院会員、日本美術院同人の片岡球子は1月16日午後9時55分、急性心不全のため神奈川県内の病院で死去した。享年103。1905(明治38)年1月5日、北海道札幌市に、醸造家の長女として生まれる。1923(大正12)年北海道庁立札幌高等女学校(現、北海道札幌北高等学校)補習科師範部を卒業後、女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学。実家では進学は嫁入り支度程度に考えており、すでに結婚相手も決められていたが、26年同校日本画科高等科を卒業すると婚約を破棄して東京に残り、画家になることを決意、自活のため、横浜市立大岡尋常高等小学校(現、市立大岡小学校)教諭となる。女子美術学校在学中より松岡映丘門下の吉村忠夫に師事し、また洋画家富田温一郎にデッサンを学んだが、帝展に落選を続け、勤務先の小学校の近くに住む中島清之の勧めで院展に出品。1930(昭和5)年第17回院展に「枇杷」が初入選し日本美術院の研究会員、39年第26回院展出品の「緑蔭」で院友に推挙される。42年院展の研究会で課題「雄渾」に対して御嶽山の行者を描いた作品が小林古径に注目され、激励を受ける。46年第31回院展で「夏」が日本美術院賞を受賞。同年中島清之を介して安田靫彦に入門。続いて48年第33回院展「室内」、50年第35回「剃髪」で日本美術院賞、51年第36回「行楽」で奨励賞、52年第37回「美術部にて」で日本美術院賞・大観賞を受賞し、同人に推挙された。この間51年には量感表現を勉強するため約一年間、彫刻家で東京芸術大学教授の山本豊市に彫刻デッサンの指導を受ける。55年には大岡小学校を退職するが、小学校教師としての歳月はその作風における初々しい素朴さを培うこととなった。同年女子美術大学日本画科の専任講師となり、以後助教授を経て65年に教授となる。54年第39回院展に「歌舞伎南蛮寺門前所見」を出品するが、歌舞伎、能、雅楽など伝統芸術の集約された世界との出会いが転機となり、院展の典雅な感覚から遠い作風ながら、このテーマを掘り下げることによって現代日本画の新生面を切り拓く。61年、前年の第45回院展出品作で能の石橋に取材した「渇仰」と個展により、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また61年の第46回院展でも「幻想」が文部大臣賞を受け、日本美術院評議員となる。いっぽう60年代には日本各地の火山を取材旅行してエネルギッシュな作品を制作、65年第8回日本国際美術展で「火山(浅間山)」が神奈川県立近代美術館賞を受賞。その後は富士山をテーマに晩年に至るまで取り組み続ける。60年代半ばには美術評論家の針生一郎を中心とする日本画研究会に参加。66年愛知県立芸術大学開校とともに日本画科主任教授となり、その剛柔併せもつ人柄は学生たちの信頼を集め、多くの俊英を育てた。また大学を移ったのを機に、66年の第51回院展に足利将軍の三部作を出品してライフワークの「面構シリーズ」を開始し、武将や浮世絵師といった歴史上の人物をテーマに、彫刻や肖像画、文献等を研究して時代考証に独自の解釈を加え、生気みなぎる力強い人物画の連作を発表する。69年女流の美術家による総合美術展「潮」を結成、83年の最終第15回展まで毎回出品。72年パリで「富嶽三十六景」による個展を開催。74年第59回院展出品作「面構(鳥文斎栄之)」により、翌75年日本芸術院賞恩賜賞を受賞。78年神奈川県文化賞を受賞。79年自作を神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館へ寄贈。81年より日本美術院理事をつとめる。82年日本芸術院会員となる。83年以降は裸婦の連作にも取り組み、春の院展に出品する。86年には永年の日本画による人物探究の業績が評価され、文化功労者に叙せられる。1989(平成元)年文化勲章を受章。また同年中日文化賞を受ける。92年パリの三越エトワールで回顧展を開き、2005年には百歳を記念し、神奈川県立近代美術館葉山・名古屋市美術館・茨城県近代美術館で本格的な回顧展が開催された。

桑原住雄

没年月日:2007/12/15

読み:くわばらすみお  武蔵野美術大学名誉教授で、美術史研究、美術評論家であった桑原住雄は、病のため長らく療養中であったが、12月15日、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年、広島県広島市に生まれ、幼少時に家族とともに台湾に渡り、旧制台北高等学校を卒業、東京帝国大学文学部に進む。戦中期に応召したが、戦後に復学し美術史を専攻、さらに同大学大学院を修了。東京新聞社、朝日新聞社に勤務。その間の1963(昭和38)年に、アメリカ国務省の人物交流計画と称されたプログラムにより招聘され、ニューヨークをはじめ、アメリカ各地を訪れた。当時は、抽象表現主義の隆盛から、ポップアートが誕生する時代で、アメリカの現代美術に直にふれ、また、19世紀以来のアメリカ美術の歴史のなかにリアリズムの底流があることに強い関心を抱き、以後、アメリカ美術も研究テーマのひとつとなった。77年4月に筑波大学芸術学系に転じて教授として82年3月まで後進の指導にあたった。ついで82年4月から1995(平成7)年3月まで、武蔵野美術大学教授として務め、退任後同大学名誉教授となった。生前の研究、評論活動は、19世紀から現代までのアメリカ美術の歴史、及び古今の日本美術史に及び、旺盛な評論活動を行った。とりわけアメリカ美術については、1886(明治19)年に来日したアメリカ人画家ジョン・ラファージ(1835―1910)の残した滞日記録『画家東遊録』の翻訳(久富貢との共訳)と、同書に付した論文「ラファージと日本美術」に示されたように、それまで日本において紹介されることのなかったアメリカにおけるジャポニスム研究、及び日米の美術交流史研究が特筆される。また、日本美術については、前田青邨、東山魁夷、髙山辰雄、岩橋英遠、荻須高徳、宮本三郎から現代作家まで、多数にわたる作家論、評論を残した。主要な業績は、下記にあげる単行書、翻訳書にあるとおりであるが、なかでも古希を記念して刊行された『桑原住雄美術論集 日本篇、アメリカ篇』(沖積舎、1995・96年)には、生前の研究、評論の成果が集約されている。 編著書: 『東京美術散歩』(角川書店、1964年) 『日本の自画像』(南北社、1966年、改訂版沖積舎、1993年) 『日本画の内景』(三彩社、1974、76年) 中山公男、中森義宗共著『モナ・リザ』(朝日ソノラマ、1974年) 『現代日本の美術5 東山魁夷』(集英社、1974年) 『現代日本の美術7 東山魁夷』(集英社、1976年、普及版) 『アメリカ絵画の系譜』(美術出版社、1977年) 『日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1977年) 『カンヴァス日本の名画15 前田青邨』(中央公論社、1979年) 『東山魁夷の世界』(講談社、1981年) 『東山魁夷ビブリオテカ』(美術出版社、1982年) 『現代日本画全集 第9巻 岩橋英遠』(集英社、1982年) 『日本の近代絵画 伝統と創造(NHK市民大学)』(日本放送出版協会、1985年) 田中穣共編『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン16 東郷青児/宮本三郎』(編著担当「宮本三郎」、集英社、1986年) 『東山魁夷』(講談社、1995年) 『桑原住雄美術論集 日本篇』(沖積舎、1995年) 『桑原住雄美術論集 アメリカ篇』(沖積舎、1996年) 『広場の芸術』(日貿出版社、1998年) 桑原住雄詩、香月泰男画『夢マンダラ』(日貿出版社、2002年)  翻訳書: 翻訳バーバラ・ローズ著『二十世紀アメリカ美術』(美術出版社、1970年) 翻訳ハロルド・ローゼンバーグ著『荒野は壷にのみこまれた 大衆状況のなかの美術』(美術出版社、1972年) 翻訳(桑原未知世共訳)エイブラハム・A・デイビッドソン著『アメリカ美術の歴史』(PARCO出版、1976年) 翻訳(下山肇共訳)マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』(新潮社、1977年) 翻訳(久富貢共訳)ジョン・ラファージ著『画家東遊録』(中央公論美術出版、1981年) 翻訳バーナード・ブリソン・シャーン著『ベンシャーン画集』(リブロポート、1981年) 翻訳監修『ワイエス画集3』(リブロポート、1987年) 翻訳監修『ワイエス画集4』(リブロポート、1988年) 翻訳(斎藤泰嘉共訳)ハーリー・F・ゴーグ著『モダン・マスターズ・シリーズ ウィレム・デ・クーニング』(美術出版社、1989年) 

島岡達三

没年月日:2007/12/11

読み:しまおかたつぞう  益子焼の陶芸家で、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)の島岡達三は12月11日午後11時5分、急性腎不全で死去した。享年88。1919(大正8)年10月27日、東京市芝区愛宕町の三代続く組紐師米吉と妻かうの長男として生まれる。父の勧めで1936(昭和11)年東京府立高等学校高等科理科に学び、39年東京工業大学窯業学科に入学、陶磁器を専攻する。東工大の前身、東京高等工業学校には、教官に板谷波山、卒業生に濱田庄司、河井寛次郎らがいた。入学後、益子に濱田を訪ね卒業後の入門を許される。その際に濱田は島岡に対し「大学にいる間から轆轤の勉強をしなさい」と助言をしている。その言葉通り、大学一年の夏期休暇は岐阜県駄知の製陶所で轆轤技法習得、二年目は夏期休暇の前半を益子の小田部製陶所で修行、後半を濱田の勧めで大阪を拠点に西日本の民窯を巡る。三年目には沖縄の壷屋で学ぶ予定となっていたが、太平洋戦争の影響で断念せざるを得なかった。41年大学を繰り上げ卒業し、翌年軍隊へ入営、その翌年にはビルマへ出征。45年ビルマで終戦を迎え、タイのナコンナヨークの捕虜収容所に入る。翌年に復員すると両親を伴い益子の濱田へ弟子入りを果たす。年に6~8回は登り窯を焚く濱田のもとで、昼間は土作りに始まる下仕事に取り組む。50年、濱田の世話で益子の栃木県窯業指導所の試験室へ技師として入所。この指導所時代、粘土や釉薬を徹底的に研究することができたという。また、この時代に濱田に学校教材として販売する複製品の原型作りの仕事が舞い込む。島岡は濱田について古代土器を学ぶために各地の博物館や大学へ赴く。特に東京大学理学部では縄文土器の第一人者である山内清男講師から縄文加工法を学ぶ。この時の経験が島岡の縄文象嵌の着想に大いに役立つ。53年指導所を退職し、独立すると濱田邸の隣に窯を築く。翌年、東京いずみ工芸展で初個展。濱田と同じ土を使い、同じように窯詰めをすると自ずと濱田と同じような作品が生まれる。島岡は名もない職人的な仕事をしようと考えていたが、濱田は個人作家として自分のものを作るように諭した。濱田のこの指摘と朝鮮李朝の古典的な彫三島の技法が縄文象嵌の着想となった。縄文象嵌は縄文土器に見るような縄目部分に泥將を埋め装飾する技法である。島岡は組紐師である父親に紐を組んでもらい素地に転がし加飾した。60年から縄文象嵌技法を本格的に行い、この技法に地元の素材を使った柿釉や黒釉などの六種の釉薬と、独自に工夫した釉薬を組み合わせ多彩な表現を展開していく。その後、個展を東京丸ビルの中央公論社画廊、大阪阪急百貨店、広島福屋等で開催。62年には日本民藝館新作展にて日本民藝館賞受賞。64年にはカナダ・アメリカで個展並びに作陶指導を行う。その後も海外での活躍が続き、68年にはロングビーチ州立大学、サン・ディエゴ州立大学夏期講座に招かれ渡米、72年にはオーストラリア政府の招聘で渡豪、視察指導をする。74年にはボストンでの個展、トロントでの講義のため、アメリカ・カナダへ歴訪。その後も精力的な活動を続け、多くの展覧会へ出品し活躍を続ける。80年、栃木県文化功労章を受章。1994(平成6)年には日本陶磁協会賞金賞を受賞。若くから陶芸指導や講演などの後継者育成や陶芸普及に尽力し、96年にはNHK教育テレビ趣味百科「陶芸に親しむ」に講師として出演、同年、重要無形文化財保持者(民芸陶器・縄文象嵌)に認定される。その後、97年には益子町陶芸メッセにて「重要無形文化財保持者認定記念島岡達三展」、98年には銀座松屋にて「傘寿記念―陶業55年の歩み島岡達三展」を開催する。99年には文化庁企画制作の工芸技術記録映画「民芸陶器(縄文象嵌)―島岡達三の技―」が完成。同年、勲四等旭日小綬章を受章、2002年栃木名誉県民の称号を授与される。翌年、第40回記念島岡達三陶業展を松屋銀座にて開催。執筆作品に『カラーブックス日本の陶磁7 益子』(保育社、1974年)、NHK趣味入門『陶芸』(日本放送出版協会、1998年)がある。

桑原甲子雄

没年月日:2007/12/10

読み:くわばらきねお  写真家、編集者、写真評論家の桑原甲子雄は12月10日、老衰のため死去した。享年94。1913(大正2)年12月9日、東京市下谷区に生まれる。1931(昭和6)年第二東京市立中学校(現、東京都立上野高校)卒業。家業の質店の仕事に従事するかたわら、隣家に住む幼友達でそれぞれ写真評論家、写真家となる濱谷雅夫(のち田中)・浩兄弟の影響で写真趣味にとりくみはじめた。34年にライカC型を入手してからは熱心にカメラ雑誌への作品投稿をするようになり、『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』など各誌で入選を重ね、37年には『カメラアート』2月号が「桑原甲子雄推薦号」として特集を組むなど、昭和戦前期を代表するアマチュア写真家のひとりとなる。戦時下、40年には南満洲鉄道主催「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に加わり満洲にて撮影、44年には太平洋通信社に入社、対外宣伝用の写真撮影に携わる。終戦後の47年写真家集団銀龍社の結成に参加。48年アルスに入社し『カメラ』9月号より編集長を務める(54年3月号まで)。以後、『サンケイカメラ』(54年創刊、59年発行元が産業経済新聞社から東京中日新聞社に移り『カメラ芸術』に誌名変更、64年に廃刊)、『季刊写真映像』(69年創刊、71年10号で休刊、写真評論社)、『写真批評』(73年創刊、74年7号で休刊、東京綜合写真専門学校)で編集長を歴任。『カメラ』では50年に土門拳を月例写真の選者に起用、その選評と土門の実作により展開されたリアリズム写真運動は、戦後の写真表現の再出発にあたって画期となった。また『カメラ芸術』編集長時代には、荒木経惟をいちはやく評価するなど、編集者としてつねに先進的な姿勢を示した。65年に東京中日新聞社を退いて以降、再び写真撮影に本格的にとりくみはじめる。68年日本写真家協会が主催した「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(西武百貨店、池袋)において戦前の写真が再評価され、73年個展「東京1930-40―失われた都市」(銀座ニコンサロン)開催。74年写真集『東京昭和十一年』、『満州昭和十五年』(ともに晶文社)を刊行。76年の個展「東京幻視」(フォトギャラリー・プリズム)では戦前の作品とともに新作を発表、以降90年代半ばまで、作品発表と評論活動を並行して行う。1993(平成5)年には荒木経惟との二人展「ラブ・ユー・トーキョー」(世田谷美術館)、95-96年には「桑原甲子雄写真展 東京・昭和モダン」(東京ステーションギャラリー)、2001年には「桑原甲子雄写真展 ライカと東京」(東京都写真美術館)が開催された。二・二六事件の翌日、戒厳令下の皇居周辺を隠し撮りした写真がよく知られるが、戦前および60年代半ば以降に撮影された作品はともに東京を中心とした街中でのスナップショットによるものがその大半を占める。下町を中心とした市井の風俗や生活を、過度に表現的になることなく撮影した戦前の作品は、当時としては異色であり、70年代以降の再評価の時期には、貴重な時代の記録であることとともにその現代性が注目された。75年『東京昭和十一年』に対して第25回日本写真協会賞年度賞、91年第41回日本写真協会賞功労賞を受賞。写真集として前記の二作の他、『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也との共著、晶文社、1975年、岩波現代文庫版、2000年)、『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年)、『ソノラマ写真選書15 東京長日』(朝日ソノラマ、1978年)、『東京1934~1993』(新潮社、1995年)、『日本の写真家19 桑原甲子雄』(岩波書店、1998年)、『桑原甲子雄 ライカと東京』(朝日ソノラマ、2001年)、『東京下町1930』(河出書房新社、2006年)、評論集に『私の写真史』(晶文社、1976年)がある。

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