本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





中村敬治

没年月日:2005/03/24

読み:なかむらけいじ  美術批評家の中村敬治は、東京都北区の病院で、3月24日胃癌のため死去した。遺志により、同26日、家族のみで密葬。享年68。1936(昭和11)年5月10日、山口市に生まれる。55年同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻に入学。59年同大学を卒業後、同大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程に入学、62年同課程修了。同大学文学部助手を経て、66年より86年まで専任講師を務めた。その間、72年アメリカ国務省の招聘によりアメリカの現代美術を視察、76年~78年フランス政府給費研修員としてパリに留学、82年ドイツ学術交流会(DAAD)によりドイツで滞在研修。同志社大学の助手、専任講師時代から、恒常的に同時代の美術動向に触れながら、新聞や雑誌に現代美術や実験映画の批評を執筆するかたわら、京都市内の画廊で現代美術の企画展を開くなどの活動を開始、フランスから帰国後の78年以降は、読売新聞夕刊に継続的に展評を執筆した(86年まで)ほか、『美術手帖』を中心に現代美術の批評やアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ等の作家論を執筆、精力的に評論活動を展開した。86年4月に、大阪の万博公園にあった国立国際美術館(2004年に、大阪・中之島に移転)に主任研究官(一時期、学芸課長)として転出してからは、「近作展2-野村仁」(87年7月)、「近作展7-今村源/松井知惠」(89年11月)、「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(90年10月)、「パナマレンコ展」(92年8月)、「彫刻の遠心力-この十年の展開」(92年10月)等を担当したほか、パリ留学時代から親交の深かった工藤哲巳の仕事を振り返る「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(94年10月)を開いた後、95年3月に同館を退職。同年4月に、新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センターに転出、97年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス」展(97年11月)、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」(98年1月)、「『バベルの図書館』-文字/書物/メディア」展(98年9月)、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」展(2000年5月)等を企画した。01年3月に同センターを退職後は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続けた。01年の8月から03年3月まで『新美術新聞』に連載した「新美術時評」では、意表をつく見出しと奥の深い諧謔に溢れた批評で読者を楽しませた。大学教員から美術館を去るまでの関西での30年、そして「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」(「メディア・アートのあやうさ」『読売新聞』2001年4月11日夕刊)ことを百も承知で勤めたメディア・アートの現場(ICC)を拠点とした東京での10年。その間、国内外の美術の現場を飽くことなく(というより飽き果てるまで)渉猟し、独自の嗅覚で特異な資質の美術家たちを発掘すると同時に、洞察に富んだ鋭い批評を残した。実験映画やヴィデオ・アートについては、その草創期から詳しく、関連の上映会に足しげく通って丁寧な分析を行った。最晩年は、関東圏の若手の画家たちと自由闊達な勉強会をしばしば開いて互いを刺激しあい、亡くなる直前には「横浜のデュシャン-展示について」(『新美術新聞』2005年3月1日)と題した展評を病床で執筆、最後までその厳しい筆鋒は衰えなかった。著書として、『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、のち水声社に改名、1988年8月)、『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』(水声社、1997年8月)、『現代美術巷談』(水声社、2004年7月)がある。これら三冊に、70年代半ば以降の著述のほとんどが網羅されている。

片山攝三

没年月日:2005/03/23

読み:かたやませつぞう  写真家の片山攝三は、3月23日肺炎のため死去した。享年91。1914(大正3)年3月22日、シベリアに生まれ、福岡県久留米市に育つ。1932(昭和7)年福岡県立中学明善校を卒業、同年東京の写真師疋田晴久のもとで写真技術を修得し、35年福岡市内で営業写真の仕事を始めた。そのかたわら、「日本写真大サロン」等の公募展に肖像写真を出品、入賞を重ねる。終戦後、福岡・観世音寺の仏像を撮影、これをきっかけとして昭和20年代に数次にわたり九州大学美学美術史研究室の仏像調査に参加、観世音寺や大分・臼杵の石仏などを撮影した。その成果はいずれも同大教授谷口鉄雄との共著『日本の石仏』(朝日新聞社、1958年)、『観世音寺』(中央公論美術出版、1964年)などにまとめられた。57年には石橋美術館で「カメラの眼 日本の石仏」展を開催、また昭和40年代にカラーフィルムで撮影した作品による『国宝 富貴寺』(大佛次郎、平田寛との共著、淡交社、1972年)が刊行されるなど、九州を中心に多くの仏像写真をてがけた。昭和30年代後半には美術家、文芸家の肖像を集中的に撮影した。35mmカメラを用い、主にその場にある光源だけを使用して撮影されたそれらの肖像は、多くがモデルの自宅や仕事場などで撮影されたこともあり、たくみな明暗の扱いとともに、自然にふるまう被写体の個性を過不足なく伝える仕事として高く評価された。一連の作品は個展「現代美術家の肖像写真展」(日本橋三越、1964年)などにおいて発表され、以後もライフワークとして継続、1994(平成6)年には『芸術家の肖像』(中央公論美術出版)にまとめられた。また福岡出身の彫刻家冨永朝堂、豊福知徳らの作品写真にも優れた仕事を残した。67年には九州産業大学教授に就任、92年まで同大学および大学院で教鞭を執った。78年には第28回日本写真協会賞功労賞、86年には第11回福岡市文化賞を受賞している。その業績を回顧する展覧会として、89年には「片山攝三写真展 モノクロームの軌跡 50年」(福岡県立美術館)が、96年には「芸術家の肖像 片山攝三写真展」(三鷹市美術ギャラリー)が開催された。 

丹下健三

没年月日:2005/03/22

読み:たんげけんぞう  建築家の丹下健三は3月22日午前2時、心不全のため東京都港区の自宅で死去した。享年91。ケンゾウ・タンゲとして日本のみならず世界でもトップクラスの建築家・都市計画家として知られた丹下健三は、1913(大正2)年大阪府堺市に生まれた。父親の転勤に伴って生後まもなく中国に移り、漢口を経て上海へ、20年上海日本人尋常小学校2年生の時に父親の出身地愛媛県今治市へ戻り、26年旧制今治中学入学、30年旧制広島高等学校理科甲類に進学。この旧制広島高校時代に芸術雑誌でみたフランス人建築家の巨匠ル・コルビジェの作品に感動したことが建築家を志すきっかけとなった。1935(昭和10)年東京帝国大学工学部建築学科入学、38年卒業、前川国男建築事務所に入る。41年東京帝国大学大学院入学、46年大学院修了、同年東京帝国大学工学部建築学科助教授。59年工学博士。大学院在学中の42年に大東亜建設記念営造計画コンペ、翌43年に在盤谷日本文化会館計画コンペで続けて一等入選。さらに49年広島市主催の広島平和記念公園コンペでも一等入選(55年完成)。51年ロンドンで開催された第8回CIAM(国際近代建築会議)に招待されて広島の計画を発表、日本を代表する建築家として海外でも知られるようになった。52年東京都庁舎コンペ一等入選(57年完成)、57年倉吉市庁舎、58年香川県庁舎、60年倉敷市庁舎。柱と梁、庇と縁の直線の構成から生まれる美、伊勢神宮や桂離宮などに代表される日本の伝統建築の美しさと力強さをモダニズムに融合させた斬新なデザインを次々と発表し、モダニズムを主導した欧米の建築界でも高い評価を受けてその一翼を担い、戦後日本の建築家の国際社会での地位確保に貢献した。関心は個別の建築デザインに止まらず、都市計画にも及んだ。61年1月「東京計画1960」発表。都市を有機体と考え、東京湾を横断する都市軸上に線上に発展する開いた都市を構想した。機能的アプローチから構造的アプローチへの転換であったと語る。61年丹下健三・都市建築設計研究所開設。64年東京大学工学部都市工学科新設、教授就任。64年東京オリンピック開催、代表作となる代々木の国立屋内総合競技場が完成した。吊り構造という新しい構造形式を採用し、構造力学者坪井善勝の協力を得て生み出された画期的で象徴的な造形の建築は世界の注目を集めた。この頃のテーマは「空間と象徴」であり、同様な造形美を誇る東京カテドラル聖マリア大聖堂、香川県立体育館が同じ年に完成している。67年山梨文化会館では、東京計画1960で試みた構造的アプローチを単体の建築で実現させて、有機的に成長する建築を提案した。70年日本万国博覧会会場マスタープランを手がけて、名実ともに日本の戦後復興と高度経済成長時代を支えた建築家となった。海外では、66年ユーゴスラビア・スコピエ都市再建震計画競技設計一等入選、その後、世界各地で数多くの建築・都市計画を手がける。主なものに、ネパール・ルンビニ釈尊生誕地聖域計画(69年~)、伊ボローニャ・フィエラ地区センター計画(71年~)、アルジェリア・オラン総合大学計画(71年~)、クウェート国際空港(79年)、伊ナポリ新都心計画(80年~)、ナイジェリア新首都都心計画(81年~)、シリア・ダマスカス国民宮殿(81年)、サウジアラビア王国国家宮殿・国王宮殿、同キングファイサル財団本部(82年)、シンガポール、マレーシアでの一連の作品などがある。また最近の作品としては、1991(平成3)年東京都新庁舎、96年フジテレビ本社ビル、05年癌研究会有明病院などが知られ、最後まで建築界に刺戟を与え続けた。74年東京大学定年退官、名誉教授。79年文化功労者。80年文化勲章。94年勲一等瑞宝章。海外では、76年西独プール・ル・メリット勲章、77年フランス国家功労勲章コマンドール、78年メキシコアギラ・アステカ勲章、79年イタリア国家有功勲章コメンダトーレ、83年フランス芸術アカデミー会員、ペルー太陽勲章グラン・オフィシェル、84年イタリア国家有功勲章グラン・オフィシェル、フランス文化芸術勲章コマンドール、89年イタリアサボイア文化勲章、96年フランスレジオン・ドヌール勲章コマンドールなど。また世界中の大学から多くの名誉博士号を受けた。62年ドイツ・シュツットガルト工科大学名誉工学博士、64年イタリア・ミラノ工科大学名誉建築学博士、70年イギリス・シェフィールド大学名誉文学博士、71年アメリカ・ハーバード大学名誉芸術博士、78年アルゼンチン・ベェノスアイレス大学名誉教授、97年中国・清華大学名誉教授、など。 

水谷愛子

没年月日:2005/03/22

読み:みずたにあいこ  日本画家で日本美術院同人の水谷愛子は3月22日午後10時49分、くも膜下出血のため横浜市港南区の病院で死去した。享年80。1924(大正13)年8月15日広島市に生まれる。1941(昭和16)年安田高等女学校(現、安田女子高等学校)を卒業し、上京して女子美術専門学校(現、女子美術大学)に入学、44年に卒業して故郷の広島に戻り、戦後の46年より母校安田高等女学校の図画講師として奉職する。49年同郷の日本画家山中雪人と結婚し、横浜市に新居を構える。同49年大智勝観の紹介で中島清之に、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事することとなる。市内の中学で美術を教えながら創作を行い、55年第40回院展に漁師を描いた「濤聲」が初入選。その後も院展に出品を続け、87年第72回展で「母と子」、1989(平成元)年第74回展で「裕太と亮ちゃん」、90年第75回展で「亮と兄ちゃん」が日本美術院賞・大観賞、91年「理季ちゃん」で五度目の院展奨励賞を受賞。また春の院展でも春季展賞、奨励賞を受賞。2000年より日本美術院同人となる。民家をテーマにした作品群を経て、日常親愛の眼差しを向けている身近な老人や幼児を主題とし、確かなデッサン力に裏付けられた大胆な線描と温もりある色塊との生命力溢れる構成で表現した。03年に夫山中雪人が他界、翌04年に夫の遺作36点と自作31点および大下図3点を呉市立美術館に寄贈する。没後間もない05年秋には同館で「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催された。 

蔦谷喜一

没年月日:2005/02/24

読み:つたやきいち  「きいちのぬりえ」で一世を風靡した、ぬり絵作家の蔦谷喜一は、2月24日午前8時33分、老衰のため埼玉県春日部市内の病院で死去した。享年91。1914(大正3)年2月18日、東京市京橋区新佃に紙問屋の次男として生まれる。14歳の時に京橋商業へ入学するが、授業内容に興味が持てず中退。帝展で山川秀峰の「素踊」に魅せられて挿絵画家を志し、1931(昭和6)年川端画学校に入学する。3年程で卒業した後は、クロッキー研究所に通う傍ら、長兄に勧められて菓子屋の経営を一年程経験した。39年には、大木実詩集『場末の子』(砂子屋書房)の表紙絵を担当。40年から「フジヲ」の名前でぬりえを描き始めるが、太平洋戦争の勃発とその激化により制作の困難な状況となる。その戦争の中で44年にまさと結婚、半年後の招集とともに海軍省に配属され、終戦直後には駐留米兵相手に肖像画を描き生計を立てた。47年より「きいち」の名前でぬりえを再開、石川松声堂と山海堂の二社から発売されて爆発的なブームを巻き起こした。49年には『メリーちゃん』『はなこさん』(朝日出版社)を発行。しかし60年代のTVの普及でアニメブームが訪れるとぬりえの売れ行きは急激に悪化し、美人画や日本画、掛軸なども手掛けるようになる。その後、蔦谷のファンであったグラフィックデザイナー長谷川義太郎の働きかけにより再び脚光を浴び、78年に資生堂ザ・ギンザホールでの個展をはじめ、各地で展覧会が開かれ大盛況となった。また広告や商品にも多くの作品が起用され、『わたしのきいち』(小学館)など著書も多数出版された。この第二次きいちブーム自体は平成元年頃に落ち着くが、現在でも文化屋雑貨店には蔦谷が原画を手掛けた雑貨が並び、広く親しまれている。晩年は「童女百態シリーズ」に取り組み続けていた。代表作は他に、美人画『行灯』、仏画『きいち観音』等がある。

西村龍介

没年月日:2005/02/21

読み:にしむらりゅうすけ  点描によってヨーロッパの古城を描いた作品で知られる洋画家の西村龍介は21日午後6時38分、急性心筋梗塞のため長野県軽井沢市の病院で死去した。享年85。1920(大正9)年2月8日、山口県小野田市に生まれる。本名一男。小野田尋常小学校を経て、1935(昭和10)年山口市立大殿尋常高等小学校を卒業する。この間の34年、両親と死別。36年、上京し、38年4月、日本美術学校日本画科に入学。太田聴雨、川崎小虎、矢沢弦月らに学び、またデッサンを洋画家の林武に学ぶ。41年3月、同校を卒業と同時に出征。45年、特攻隊員として沖縄戦へと向かう途中に終戦を迎え、郷里山口市に復員する。市内の古刹瑠璃光寺の一室を画室兼居所として日本画を制作し、46年山口市八木百貨店で初めての個展を開催して日本画18点を展示する。この頃、三好正直らと山口市展、山口県展を創設する。49年、京都市立美術専門学校研究科に入学。50年同校を中途退学し、2月に上京。企業の博覧会の背景画などを描いて生計を立てつつ画家を志し、制作の準備に時間がかかる日本画から油彩画へ転向して龍介と名乗る。54年第39回二科展に「河岸」で初入選。56年第41回二科展に「月のある風景」「鳥と植物」を出品し、特待受賞。57年に二科会会友となる。59年サロン・ド・コンパレゾン展に招待出品。同年第44回二科展に「故園」「花」を出品して二科金賞を受賞。翌年二科会会員となる。63年第48回二科展に「風景(A)」「風景(B)」を出品し、同会会員努力賞を受賞。64年2月に渡欧しフランス、スペイン、イタリア、ベルギーを旅行して7月に帰国。この旅でその後の主要モティーフとなる古城、聖堂、ヴェネツィア風景などと出会う。67年サロン・ドートンヌに「風景」を招待出品。68年第53回二科展に「古城」「館」を出品して二科会青児賞を受賞。69年第54回二科展に「聖堂」「遥かなる聖堂」を出品して二度目の会員努力賞を受賞する。70年再渡欧。71年第56回二科展に「古城幻影」「城」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。71年より82年まで毎年渡欧。83年1月「森と城と水の詩情の世界 西村龍介展」が銀座・松屋で開催され、初期から近作までが出品される。88年銀座のフジヰ画廊で西村龍介個展「水の抒情詩」を開催。89年昭和63年度(第39回)、前年の個展に対し、「日本画と洋画の技法を巧みに融合した日本的詩情豊かな独自の油彩表現を円熟の域に高め」たとして芸術選奨文部大臣賞を受賞。その後も二科展に出品を続け、97年東京八重洲の大丸ミュージアムで「喜寿記念・西村龍介展」を開催。2000年二科会を退会。同年、ハウステンボス美術館で「ヨーロッパ水辺の城 西村龍介展」を開催する。60年代の渡欧で得た古城の静かなたたずまいを、端正な構図、淡い色調の点描で描き、静謐な画風を示した。画集には『西村龍介画集』(講談社 1979年)がある。 

淀井敏夫

没年月日:2005/02/14

読み:よどいとしお  心棒に石膏を直接つける技法で細く伸びるフォルムを構成し、独自の作風を示した彫刻家淀井敏夫は2月14日、肺炎のため東京と新宿区の病院で死去した。享年93歳。1911(明治44)年2月15日、兵庫県朝来郡山口村佐中に生まれる。後、両親とともに大坂へ転居。高津小学校を経て、1928(昭和3)年大阪市工芸学校を卒業。同校で吉川政治に木彫を学ぶ。同年、上京して東京美術学校彫刻科に入学。北村西望に塑像を、関野聖雲に木彫を学ぶ。同校在学中の31年第12回帝展に「男立像」で初入選。33年東京美術学校を卒業。35年第10回国画会展に「仕事着の青年」を出品する。36年大阪市立工芸学校教諭となり、同年の第23回二科展に「若き手工業者」を出品。37年には同展に「少年」を出品する。40年、大阪市立工芸学校教諭を辞して上京。同年大阪市主催奉祝二千六百年記念展に「三船氏」「征くもの」を出品し、大阪市長賞を受賞する。41年第5回東邦彫塑院展に「少年像」、43年第6回新文展に「坐像」を出品。44年応召し翌年の終戦は堺市で迎える。48年第33回二科展に「仕事着の人」、49年第34回同展に「労人」を出品して同会準会員となる。以後も二科展で活躍し、51年同会会員となり、54年第39回展に「坐像」を出品して二科会会員努力賞を受賞。65年に渡欧し、翌年渡欧の成果をギャラリー・キューブでの個展で発表する。72年第一回平櫛田中賞を受賞し、東京の日本橋高島屋で受賞記念展が開催される。また、同年72年第57回二科展に「夏の海」「クレタの渚」「渚のエウローペ」を出品し青児賞を受賞。73年第58回二科展に「砂とロバと少年」「小さいキリン」を出品し、前者により内閣総理大臣賞を受賞する。76年第61回二科展にベンチ座る二人の人物を表した「ローマの公園(大)」および「流木と椅子で」を出品。77年「ローマの公園(大)」で日本芸術院賞を受賞、78年「ローマの公園(大)」で長野市野外彫刻賞を受賞。82年日本芸術院会員となる。85年兵庫県立近代美術館、姫路市立美術館で個展を開催。87年日本橋高島屋で「彫刻50年の歩み 淀井敏夫展」を開催する。1994(平成6)年文化功労者となる。99年あさご芸術の森美術館に淀井敏夫記念館が開館する。2001年文化勲章を受章。54年母校の東京藝術大学の講師として教鞭を取り、59年同助教授となり、65年に同教授、73年同美術学部長となって、78年に定年退官するまで、後進の指導に尽力し、定年とともに同名誉教授となった。初期には対象を再現的にとらえるアカデミックな塑像を制作したが、1950年代半ばから対象のフォルムをそぎ落とすデフォルメが行われるようになり、心棒に直接石膏をつける独自の技法を用い、複数の人体像を組み合わせて自然と人との関わりをあらわす作風となった。70年代に野外彫刻が盛んになるのに伴い、箱根彫刻の森美術館の「ローマの公園(大)」(76年)、宝塚市宝塚大橋の「渚」(78年)、釧路大規模運動公園の「飛翔」(87年)など大規模な野外彫刻も手がけた。的確な対象把握をもとに、量塊性を削いでいき、存在感や動きの中枢に迫るフォルムを創出し、抽象彫刻が出現して以降の具象彫刻の展開にひとつの指針を示した。 二科展出品歴 第23回(36年)「若き手工業者」、24回「少年」、33回(48年)「仕事着の人」、34回「労人」、35回(50年)「青年立像」、36回「画家の像」、37回「立像」、38回「坐像」、39回「坐像」(会員努力賞)、40回「★る」、41回「夏の雲」、42回「海辺・夏」、43回「人体・夏」、44回「波・群」、45回「波」、46回「渚」「キリン」、47回「破船」、48回「闘った鶏」「小さいキリン」、49回「野の鶏」、50回「アラブの夜の森」「座」、51回「聖マントヒヒ」、52回「童話も行くサッカラの道」「羊を追うトレドの山道」「浜辺の椅子」、53回「戯れる波と少年と犬」「貝殻」、54回「放つ」「法隆寺金堂炎上」、55回「海辺の女」、56回「 北の砂浜」、57回「夏の海」「クレタの渚」「渚のエウローペ」(青児賞)、58回「砂とロバと少年」(内閣総理大臣賞)「小さなキリン」、59回「ローマの公園」(石膏)、60回「牛と女と地中海」、61回「ローマの公園(大)」「流木と椅子で」、62回「夏の終わり(大)」、63回「渚(大)」、64回「渚のエウローペ(大)」、65回(80年)「海辺の母子」「K氏像」、66回「ルクソールにて」「海の鳥と少年」、67回「夏・流木と女(大)」、68回「放つ」、69回「エピダウロス・春(大)」、70回「幼いキリン・堅い土」、71回「漂泊・貝殻と雲と鳥」、72回「釧路湿原に捧ぐ」、73回「海」

吉岡健二郎

没年月日:2005/02/02

読み:よしおかけんじろう  美学者で静岡県立美術館館長、京都大学名誉教授の吉岡健二郎は、2月2日、心不全のため枚方市の自宅で死去した。享年78。1926(大正15)年5月3日東京(現在の品川区大崎)に生まれる。1944(昭和19)年、松本高等学校(旧制、理科甲類)入学、46年同校中途退学、47年京都大学文学部選科(旧制、哲学科)に入学、井島勉のもとで美学美術史を学び50年卒業、51年同本科(哲学科美学美術史専攻)を卒業、卒業論文はカント『判断力批判』の天才論に関するものであった。同年、同大学大学院(旧制)に進学し、55年4月まで在籍、同年5月から60年4月まで同大学文学部助手を勤めた。61年同志社大学文学部専任講師、62年同助教授、67年同教授となり、68年4月京都大学文学部助教授に就任、73年3月同教授(美学美術史学第一講座担任)に昇任、その間、72年5月に京都大学より文学博士学位を授与された。同大学では79年1月から80年1月まで評議員、80年1月から81年1月まで文学部長を勤め、1990(平成2)年3月に定年退官、同年4月、京都大学名誉教授の称号をおくられた。同年京都芸術短期大学教授、91年京都造形芸術大学教授(95年3月まで芸術学部長、92年6月から95年3月まで学長代行)、96年から98年まで同大学大学院芸術研究科長を勤め、また、94年1月からは静岡県立美術館館長の任にあった。2004年11月には、永年にわたって教育・研究・大学行政およびわが国の美術の発展に尽くした功績に対し瑞宝中綬章を授与された。吉岡の研究業績は、芸術学の確立者とされるK.フィードラーや、A.リーグル、D.フライらウィーン学派の美術史家の芸術思想などを足掛かりとしつつ、近代芸術学の成立事情・過程の検証と現代におけるその意義をめぐって、じつに幅広い分野にわたっており、比較的初期の成果は学位論文である著書『近代芸術学の成立と課題』(創文社、1975年)にまとめられている。「近代芸術学は人間とは何であるかという問に芸術の研究を通じて迫って行こうとする形で成立し、且つかかる問に答えることをその課題としている」(同書)といわれるように、その学風は一貫して、理論のための理論に陥ることなく、あくまでも具体的な美の現象、芸術の感動に即して芸術への学問的思索を深め、もって人間性の本質に迫ろうとするものであった。美や芸術をめぐる理論的反省と芸術作品の歴史的研究の一体性を重んじるこの姿勢は、吉岡が30年余にわたって指導に当たった京都大学文学部美学美術史学科の基調ともなった。共編著に『美学を学ぶ人のために』(世界思想社、1981年)、『La Scuola di Kyoto, Kyoto-ha(京都学派)』(Rubbettino Editore、1996年)、共著に『現代芸術 七つの提言』(やしま書房、1962年)、『芸術的世界の論理』(創文社、1972年)、『比較芸術学研究』第4巻(美術出版社、1980年)、『講座美学』第3巻(東京大学出版会、1984年)、訳著にダゴベルト・フライ『比較芸術学』(創文社、1961年)、ドニ・ユイスマン『美学』(共訳、白水社、1992年)、グザヴィエ・バラル・イ・アルテ『美術史入門』(共訳、白水社、1999年)、ヘルマン・ゼルゲル『建築美学』(中央公論美術出版、2003年)などがあり、その主要な論文は『美学』、『哲学研究』等に発表された。また吉岡の略年譜と著作目録は、『研究紀要』第11号(吉岡健二郎教授退官記念号、京都大学文学部美学美術史学研究室、1990年)、および『吉岡健二郎先生 略年譜・業績一覧(講演録)』(京都大学文学部美学美術史学研究室、2005年)に収録されている。 

須田寿

没年月日:2005/01/24

読み:すだひさし  洋画家の須田寿は1月24日午前、1時35分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年98。1906(明治39年)5月25日、東京日本橋本町に生まれる。本名門井(かどい)寿。1913(大正2)年精華小学校に入学。同校在学中に遠縁にあたる日本画家下村観山のアトリエに出入りする。19年成蹊中学校に入学し、24年同校を卒業。洋画家を志し、東京美術学校西洋画科を受験するが、不合格となり川端画学校に入学する。1926(昭和元)年、東京美術学校西洋画科に入学。長原孝太郎に師事。27年、友人の大貫松三とともに中国へ旅行し北京に二ヶ月半滞在。28年東京美術学校西洋画科和田英作教室に入る。30年第11回帝国美術院展に「裸婦」で初入選。31年、親戚の須田家の養子となる。同年第12回帝展に東京美術学校の卒業制作「髪」を出品して入選。33年第14回帝展に「三人」、34年第15回帝展に「庭園小景」を出品し、官展作家としての地歩を固める。35年松田改組に伴い設置された第二部会第1回展に「庭前」を出品。36年文展鑑査展「蔭に憩う」を出品する一方、35年に石川滋彦、井手宣通、川端実ら官展若手作家が新規な試みを行う団体として設立した立陣社の趣旨に賛同して第2回展に「秋日」を出品。この頃から人物群像を穏健な写実にもとづいて描く画風が、デフォルメ等斬新な試みを取り入れた画風に変化し、37年の文展に落選する。39年第3回新文展に「親爺と子ども」が入選し、再び官展への出品を続ける。40年、阿以田治修、大久保作次郎、佐竹徳らが創設した創元会に第一回目から出品。戦後は46年春第1回日展に「暖日」、秋の第2回展に「裸童」を出品するとともに第5回創元会展にも出品。48年5月日本橋三越で「須田寿油絵個展」を開催。49年日展のあり方に疑問を抱き、退会。また創元会からも退会し、牛島憲之、飯島一次、大貫松三、榎戸庄衛、円城寺昇、山下大五郎と立軌会を創立し、以後、同会を中心に活動を続ける。この頃、ピカソやブラックなどのキュビスムに学び、対象を簡略な形態に還元して把握する画風へ移行し、70年以上におよぶ画業のなかで、大きな節目となった。50年、東京美術学校昭和6年卒業生による六窓会を創立し、54年の同会解散まで出品を続ける。52年第1回日本国際美術展に「二人」「少女の像」「鶏を抱く少年」を出品。54年9月、初めて渡欧し、フランス、イタリア、スペイン等を巡って西洋の古代美術に打たれる。帰国後、渡欧中で印象に残った異国の生活の風景、特に人と家畜のいる光景を描くようになり、牛が主要なモティーフとなる。63年、北九州の装飾古墳を見学して感銘を受け、古墳をモティーフとして描く。65年3月武蔵野美術大学造形学部教授となる。71年再渡欧。72年5月に3度目の渡欧。73年3月ギリシャ方面を旅行し、ギリシャ古典文明を探求。7月東京セントラルサロンで須田寿個展を開催。76年、須田寿教授作品展(武蔵野美術大学美術資料図書館)を自選作品により開催。77年11月須田寿自選展を東京セントラル美術館で開催。78年武蔵野美術大学を退職し、同学名誉教授となる。79年より立軌会のほかに日本秀作美術展、世田谷美術展に出品を続けたほか、日本橋高島屋、日動サロンほかで個展を開催する。82年「須田寿画集」(日本経済新聞社)を刊行、同年第6回長谷川仁記念賞受賞。85年第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、同年、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。1993(平成5)年4月世田谷美術館で「須田寿展」が開催され、年譜、参考文献は同展図録に詳しい。2001年中村彝賞受賞。官展作家として活躍したアカデミックな画風から、立軌会創立後、再現描写にとらわれない内省的思索を絵画化する作品へと移行し、暗褐色、暗緑色を基調とする色数を限った色調と独自のマチエールを特色とする作品を制作し続けた。 

加藤卓男

没年月日:2005/01/11

読み:かとうたくお  陶芸家で重要無形文化財保持者(工芸技術「三彩」)の加藤卓男は、1月11日午前11時45分、肺炎のため岐阜県多治見市の病院で死去した。享年87。1917(大正6)年9月12日、江戸時代から続く美濃焼窯元五代目加藤幸兵衛の長男として、岐阜県土岐郡市之倉村(現、多治見市市之倉町)に生まれる。1935(昭和10)年岐阜県立多治見工業学校(現、多治見工業高等学校)を卒業後、京都の商工省陶磁器試験所に入所。37年同試験所終業後、帰郷し家業の福寿園丸幸製陶所(現、幸兵衛窯)に勤務。翌38年より従軍。転属先の広島市で残留放射能により被爆。その後10年ほど入退院を繰り返す生活を余儀なくされたが、54年第10回日展に「黒地緑彩草花文花瓶」を出品し初入選。61年陶磁器意匠と技術の交換のため、フィンランド工芸美術学校に留学。この間、休暇を利用してはじめて中東各地の陶器の産地を訪れ、そこで古代ペルシア陶器の美に触れる。帰国後は本格的にペルシア陶、なかでもラスター彩の研究を志すようになった。63年第6回新日展に出品した「花器 碧い山」が特選北斗賞を受賞、翌64年には第3回日本現代工芸美術展で「流」が現代工芸賞を受賞。65年第8回日展で「油滴花器 煌」が再び北斗賞を受賞。作家活動の一方で続けていたペルシア陶研究の成果は、昭和50年代に自身のラスター彩作品として結実。ラスター彩とともに同じペルシア系統の青釉にも取り組み、独創的なフォルムと鮮やかな青色が融合した作品を制作した。80年には宮内庁正倉院事務所より正倉院三彩の「三彩鼓胴」と「二彩鉢」の復元制作を委嘱され、約7年間におよぶ研究と試作を経て復元に成功する。この経験と技術を生かし、自身の創意による三彩の仕事にも取り組んだ。88年紫綬褒章受章。1995(平成7)年重要無形文化財「三彩」の保持者に認定された。ペルシア陶に魅せられ、研究のため訪れた中東の古窯址発掘現場で、織部に似た陶片を発見して以来、加藤は、ペルシアから日本へと広がる壮大なやきものの技術交流と発展史へと興味を広げた。しかし、古代のペルシア陶の技法を解明、再現することにとどまらず、作家として、古陶磁研究を自己の表現の手段として昇華させ、清新な現代の陶芸を創造した点で高く評価される。朝日陶芸展をはじめとして国際的なコンペティションでたびたび審査員を務め、陶芸界のリーダー的存在として果たした役割も大きい。トルコ、イスタンブールの国立トプカプ宮殿博物館(86年)をはじめ国内外で開催した個展多数。2002年4月1日から30日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載(『砂漠が誘う―ラスター彩遊記』日本経済新聞社、2002年加筆所収)、作品集に『ラスター彩陶 加藤卓男作品集』(小学館、1982年)がある。没後、岐阜県現代陶芸美術館で回顧展「加藤卓男の陶芸展―陶のシルクロード」(06年)が開催された。 

川面稜一

没年月日:2005/01/09

読み:かわもりょういち  日本画家であり、建造物彩色の国選定保存技術保持者の川面稜一氏は、1月9日、脳梗塞のため死去した。享年91。1914(大正3)年、大阪市曽根崎に生まれる。1934(昭和9)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)を卒業。40年、絵画専門学校時代の恩師である入江波光より、文部省紀元2600年事業・法隆寺金堂解体修理に伴う壁画模写事業に、助手の一人として参加を要請される。戦時下の応召のため一旦現場を離れるが、47年に復帰。この事業では、安田靱彦を筆頭とする東京班と入江波光を筆頭とする京都班とに分かれ、東京班は壁画の印刷の上に胡粉をひいて厚彩色仕上げとしたのに対し、京都班は壁画をコロタイプ印刷したものを下敷きに壁画の引き写しを行い、薄彩色仕上げとした。50年、文化財保護委員会美術工芸課の委嘱を受け、56年の京都・平等院鳳凰堂中堂扉絵をはじめとする五ヶ寺の所蔵する美術作品の模写事業を立案し、60年には京都・醍醐寺五重塔初重壁画、62年京都・法界寺阿弥陀堂壁画、63年奈良・室生寺金堂壁画及び金堂諸像の板光背、66年京都・海住山寺五重塔内陣扉絵など、次々と重要な美術作品の現状模写を行った。平等院鳳凰堂中堂の扉絵模写を手掛けた際に翼楼の柱の朱塗を依頼されたのが、「建造物彩色」というそれまでにはなかった新しいジャンルの確立、そして氏がその第一人者となる契機となった。柱をはじめとする建築部材の現存する彩色を、綿密に調査した上でそれを尊重しつつ修理・復元彩色を施す「建造物彩色」は、60年代頃になってようやく定着を見せ始める。その皮切りとなった事業が、68年の京都・六波羅蜜寺本堂の向拝の復原彩色事業であった。その後、京都・北野天満宮本殿中門、西本願寺唐門、二条城唐門などをはじめ数多くの建造物の復原彩色を手掛け、72年には、二条城二の丸御殿襖絵の模写事業が開始された。三十年を経た現在もなお継続中のこの事業では、経年変化を見せる建築と新しく模写を行った襖絵とが調和するように、制作当初と考えられる彩色を復元しつつ、それに一定の古色を付す「古色復元模写」の手法が初めて取り入れられた。84年、有限会社川面美術研究所を設立。その後も、京都・清水寺三重塔、富貴寺大堂内部壁画の彩色復元など、携わった事業は数多く、建造物彩色の草分けとしてその業績は特筆に値する。84年、京都府文化財保護基金より文化功労賞を受賞。86年、内閣総理大臣より木杯授与。1997(平成9)年、建造物彩色選定保存技術保持者に認定。2000年、日本建築学会より建築学会文化賞を受賞。また、養父野村芳光が祇園都をどりの舞台美術を担当していた縁により、それを継承し長年にわたって背景画制作を行った。92年、舞台美術協会より伊藤熹朔賞受賞。その他、美術作品のレプリカ製作にも携わった。

金城次郎

没年月日:2004/12/24

読み:きんじょうじろう  陶芸家で、「琉球陶器」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された金城次郎は、12月24日午後10時45分、心筋こうそくのために死去した。享年92。1911(明治44)年、沖縄県那覇市に生まれる(入籍は翌年)。25(大正14)年、那覇市壺屋の名工新垣榮徳に師事。この年、新垣を通じて生涯交流を続けた陶芸家浜田庄司と出会う。金城は戦前、沖縄の伝統的な工芸を評価した柳宗悦の民藝論の薫陶を受け制作に励んだという。1939(昭和14)年、雑誌『工藝』第99号以降、同誌でしばしば紹介される。45年召集され、読谷で飛行場建設、その後壺屋の東窯で軍需品の製作に従事する。恩納村で捕虜となり、石川の収容所に収容される。同年11月、陶器製造先遣隊の一員として壺屋に帰る。46年壺屋で米軍よりかまぼこ形兵舎を払い下げて工房を開く。窯は新垣榮徳の登り窯を共同使用した。51年、戦後窮乏した壺屋の陶工を救うべく、浜田庄司ら民芸関係者の尽力により開催された第1回琉球民藝展(於東京、日本民藝協会主催)に出品。54年第6回沖縄美術展覧会(沖展)工芸部門新設に伴い新垣栄三郎、小橋川永昌と出品。この年、新垣と第1回陶芸二人展開催。55年、第29回国画会公募展(国展)初入選。この頃、益子(栃木)、龍門司(鹿児島)の窯を訪問、その後丹波、九州などの窯を機会あるごとに視察。56年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」が新人賞、57年第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞、同年、国展推薦新会友となる。この年、ルーマニア国立民芸博物館に作品が永久保存される。64年第18回全国民芸大会が沖縄で開催され、浜田庄司、バーナード・リーチが壺屋を訪問。66年明治神宮例大祭奉祝第4回全国特産物奉献式に「長型花瓶」奉納。67年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞、日本民藝館展入選。69年リーチの再訪を受ける。同年、第43回国展会友優秀賞受賞。この年、壺屋の登窯から出る煙が公害問題として表面化、壷屋の陶工ら、窯の使用回数を減らす。71年第1回日本陶芸展入選。72年、煙害から読谷村字座喜味に移り、初めて自分の登窯を開く。同年、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定。73年、国画会会員となる。77年、現代の名工百人に選ばれる。78年末、脳血栓で倒れ、約4か月間静養後、手足に麻痺が残るが復帰。81年、勲六等瑞宝章受章。85年、「琉球陶器」の技法により、沖縄で初めて重要無形文化財保持者に認定された。2003(平成15)年、那覇市立壺屋焼物博物館にて「壺屋の金城次郎」展開催。卓越した轆轤の技術、線彫、指描などあらゆる壺屋の伝統的な技法を駆使し、壺屋に伝わる伝統的な器形、文様に基きながら、工夫を凝らしてバリエーション豊かな作品へと昇華させ、素朴で親しみやすい日常陶器を生涯作り続けた。躍動感溢れる魚文、海老文の線彫文様は特によく知られ、浜田庄司は、金城以外に魚や海老を笑わすことは出来ないと絶賛したという。作品集に、『金城次郎の世界』(沖縄タイムス社・読谷村、1985年)、『琉球陶器 金城次郎』(琉球新報社、1987年)、『人間国宝 金城次郎のわざ』(宮城篤正/源弘道監修、朝日新聞社、1988年)、『沖縄の陶工人間国宝金城次郎』(日本放送協会出版、1988年)、著書に『壺屋十年』(上村正美監修・構成、用美社、1988年)がある。

吉田文之

没年月日:2004/12/19

読み:よしだふみゆき  工芸家の吉田文之は12月19日午後9時50分、肺炎で死去した。享年89。 1915(大正4)年奈良県奈良市に生まれ、16歳より父・吉田立斎に師事して撥鏤や螺鈿など漆芸全般技術を修業した。1935(昭和10)年の入隊から11年間は中断を余儀なくされたが、復員後にふたたび制作に戻り、32歳で独立。以来、撥鏤の制作と研究に専念し、この技術を伝承する国内唯一の工芸家であった。64年日本伝統工芸展に出品、以来同展を中心に香合、小箱、帯留など数々の作品を発表した。撥鏤は成形した象牙を紅・紺・緑色などに染め、細かな陰刻を施す。手前から向こうへ撥ねるように彫るところから「撥ね彫り」とも呼ばれ、彫りの浅深に応じて線に抑揚が生じ、色にも濃淡がもたらされる。また、染料は象牙の上層に留まるため、刻んだ跡に素地の白が冴えて、彩色部分との対比も美しい技法である。彫られた箇所にさらに顔料で色を加えれば華やかさが増し、繧繝の効果も得られる。中国唐代に盛行し、日本へは奈良時代に伝わって正倉院宝物にも作例が見られるが、平安以降衰亡した。明治期、正倉院宝物の復元修理に父の立斎が従事して古代の技術復興を果たしたのである。吉田も修業時代に父の助手として復元修理に参加。自らも78年と83年に宮内庁の依頼により正倉院宝物で「東大寺献物帳」に記述があった紅牙撥鏤尺、紅牙撥鏤撥を復元した。吉田は染まりにくい象牙に熱による変質をできるだけ抑えながら美しい色を呈するために染色工程に工夫を重ね、ぼかしの効果や工具の考案など撥鏤技法をつねに探求し続けた。繊細さを活かしたブローチやペンダントなど現代的な装身具にも積極的に取り組んだが、伝統的な意匠のほか、宇宙や北極の景色など斬新な表現も試みていた。85年4月13日 重要無形文化財「撥鏤」の保持者に認定。

南桂子

没年月日:2004/12/01

読み:みなみけいこ  銅版画家の南桂子は、12月1 日午後6時58分、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年93。本名浜口桂子。1911(明治44)年2月12日、富山県射水郡に生まれる。1928(昭和3)年、富山県立高岡高等女学校を卒業。45年、34歳で東京に移り住み、佐多稲子の紹介で壺井栄に童話を学んだといわれる。49年、第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品(出品者名は竹内桂子)。同年油絵を師事した森芳雄のアトリエで浜口陽三と出会う。50年、第2回日本アンデパンダン展、第14回自由美術展に出品する。51年第5 回女流画家協会展に「風景」を出品。その後も同会には52年、53年、55年、56年(出品目録の記載は南佳子)に出品したほか、日本アンデパンダン展(51年、52年)や自由美術展(51年から53年)に、主に油彩画を出品した。52、53年は朱葉会(連立4回と5回)にも出品。53年には東京の丸善画廊で吉田ふじを・友田みね子・南桂子三人展を開催している。54年渡仏、パリでは浜口陽三とともに暮らし、フリードランデルの版画研究所でアクアチントを学ぶようになる。54年に第18回自由美術展に銅版画「占い師」「小鳥と少女」を出品。翌55年、自由美術家協会会員に推される。同年の日本アンデパンダン展にも銅版画を出品した。56年、フランス文部省がアンデパンダン展に出品した「風景」を買い上げる。58年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された。パリにいながら自由美術展には22回まで出品を続ける。50年代末から70年代にかけては東京やリュブリアナの国際版画ビエンナーレ、タケミヤ画廊での銅版画展、国内外で開催される日本の現代版画を扱う展覧会にも多数出品している。この時期、個展はニューヨークやサンパウロ、ハイデルベルグなど各地で開かれ、浜口との二人展を含めて国内でも多数の発表の機会を持った。また、日本版画協会展(59年27回、64年32回、65年33回、66年34回、82年50回)、現代日本美術展(60年4回、64年6回、66年7回、68年8回)、日本国際美術展(61年6回、63年7回、65年8回、67年9回)、国際形象展(69年8回から72年11回まで)などにもパリから出品している。61年から81年まで、パリの画廊と専属契約を交わす。81年にはサンフランシスコに移り、日本に帰国したのは1996(平成8)年だった。南は、硬質な線を用いて少女や樹木、鳥などのモチーフを繰り返し描き、陰影を伴わない静謐で幻想的な空間を作り出した。神奈川県立近代美術館で61年にフリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展が開かれたほか、90年には高岡市美術館で個展が開催された。浜口陽三との二人展は、高岡市美術館では95年に、また練馬区立美術館では2003(平成15)年に、01年には高岡市美術館で宮脇愛子との二人展が開催されている。また、98年には東京・日本橋蛎殻町に美術館「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南作品も常設展示される。05年4月には同館で追悼展、06年4月南桂子―bonheur―展が開かれている。70年に谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』の装画を手がける。作品集は、手のひらに収まる『限定版南桂子の世界 空・鳥・水…』(美術出版社、1973年)のほか、『南桂子全版画作品集』(中央公論美術出版、1997年)、『南桂子作品集 ボヌール』(リトルモア、2006年)がある。

吉井淳二

没年月日:2004/11/23

読み:よしいじゅんじ  洋画家で長く二科会理事長を務めた吉井淳二は、11月23日午後2時23分、肺炎のため鹿児島市内の病院で死去した。享年100。1904(明治37)年3月6日、鹿児島県曾於郡末吉町に生まれる。県立志布志中学の二年時に画家になることを決意し、三年時には油絵の道具一式を与えられる。1922(大正11)年、中学の卒業式を待たず、同級生で生涯の友となった海老原喜之助と上京、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学ぶ。24年東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ三年時には第3回白日会展で白日賞を受賞したほか、第13回二科展には「静物」「花と女」が初入選する。24年第5回展から入選を続けた中央美術展では、1928(昭和3)年第9回展で中央美術賞を受けている。同年には橋本八百二、堀田清治と三人展を開催したほか、翌29年東京美術学校を卒業すると、内田巌、新海覚雄らと鉦人社を結成し第1回展を開いた。同年有島生馬を訪ね、以後指導を受ける。同11月フランスに渡り、海老原と再会する。パリを拠点にイギリス、オランダ、イタリアなどに旅をする。32年帰国し、第19回二科展に滞欧作を特別出品する。初入選以降、二科会には、滞欧中の第17、18回展をのぞいて2004(平成16)年まで連続して出品した。同会では35年会友、40年会員になる。45年10月の二科会再興の呼びかけに応え再建に参加、翌年9月の31回展に「菅笠の娘」「菜園にて」を出品。61年二科会に理事制が設けられ、理事のひとりとなる。65年、前年の二科展出品作「水汲」などに対して日本芸術院賞を、二科展では68年東郷青児賞、69年内閣総理大臣賞を受ける。78年4月の二科会会長・東郷青児の死去後、翌79年同会を社団法人化した後に北川民次を継いで理事長に就任、98年まで努めた。二科会のほかには、33年に鉦人社を前身とする新美術家協会の5回展にも出品。40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品。また、百貨店や画廊で個展を開催したほか、太陽展、日動展などにも出品。90年には鹿児島市立美術館でも展覧会を開催した。一方、46年には海老原とともに南日本新聞社主催で南日本美術展を興し、審査員となり後進の育成にも努めている。この間、45年杉並区南荻窪から郷里に疎開、その後杉並の家が焼けたため作品の多くを失う。51年、鹿児島から荻窪へ再び住まいを移している。65年ヨーロッパへ作品制作の旅行をしたほか、75年の日伯美術展を機にブラジルを訪れ、以後たびたび南米に足を運ぶ。頭巾をかぶり頭上に荷をのせた労働する女性をよく題材にし、その取材対象は内外の市場から水汲みの光景まで多岐にわたった。それらを、写実を基にしつつも簡略化した線と明るい色彩で描いた。58年南日本文化賞、76年日本芸術院会員、77年勲三等瑞宝章、85年文化功労者、89年文化勲章を受けている。92年、鹿児島県加世田市に開いた特別養護老人ホームに隣接する吉井淳二美術館を開館。最晩年は自らも加世田に暮らした。

柳原義達

没年月日:2004/11/11

読み:やなぎはらよしたつ  新制作協会会員で文化功労者の彫刻家柳原義達は11月11日午前10時7分、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年94。 1910(明治43)年3月21日、神戸市栄町6丁目に生まれる。1928(昭和3)年3月兵庫県立神戸第三中学校(現、長田中学校)を卒業。在学中、神戸第一中学校の教師で日本画家村上華岳の弟子であった藤村良一(良知)に絵を学び、卒業後、京都に出て福田平八郎に師事するうち、『世界美術全集 33巻』(平凡社、1929年)に掲載されていたブールデル「アルヴェル将軍大騎馬像」の図版に感銘して、彫刻家を志す。31年上京して小林万吾の主宰する画塾同舟舎に学び、同年東京美術学校彫刻科に入学。朝倉文夫、北村西望、建畠大夢らが指導にあたっていたが、高村光太郎、清水多嘉示らに強い影響を受ける。同期生には峰孝、日本画の髙山辰雄、洋画の香月泰男らがおり、3期下の彫刻科に佐藤忠良、舟越保武がいた。東京美術学校在学中の、32年第13回帝展に「女の首」が入選。33年第8回国画会展に「女の首」で入選し国画奨学賞を受賞する。以後同展に出品を続ける。36年3月東京美術学校を卒業。37年スタイル画家小島操と結婚。同年第12回国画会展に「立女(女)」「坐像(女)」を出品して同会同人に推挙される。39年第14回国画会展に「R子の像」「山羊」を出品し国画会賞を受賞するが、同年、本郷新、吉田芳夫、佐藤忠良、舟越保武らとともに同会を脱退し、新制作派協会彫刻部の創立に参加、以後同会に出品を続ける。46年佐藤忠良とともにそれまでの作品を預けていた家が火災にあい、戦前までの作品を焼失。その喪失感と敗戦および敗戦直後の世相に感ずる屈辱感などを背景に、「レジスタンスという言葉の意味をより深く表現しようと思う私の姿であるかも知れない」(『孤独なる彫刻』、筑摩書房、1985年)と後に柳原が語る「犬の唄(シャンソン・ド・シャン)」を制作し、50年第14回新制作派協会展に出品。51年2月、戦後初めて欧州芸術の新動向を紹介するサロン・ド・メ東京展が開催され、その出品作に衝撃を受ける。同年板垣鷹穂、笠置季男らとともに小野田セメント後援の日比谷公園野外彫刻展に際して結成された「白色セメント造型美術会」に参加し、野外彫刻を作成する機会を得る。53年末、版画家浜口陽三と同じ船で渡仏し、グラン・ショーミエールでエマニュエル・オリコストに師事。それまでに学んだ日本近代のアカデミックな彫刻を捨て、「平面的な自分の目を立体的な量の目にすること」(柳原義達「反省の歴史」『美術ジャーナル』24、1961年9月)に努力する。この間、パリに滞在していた建畠覚造、向井良吉らと交遊。57年帰国。58年第1回高村光太郎賞を受賞。また第3回現代日本美術展に「座る(裸婦)」を出品して優秀賞を受賞。60年前後には、鉄くずを溶接した「蟻」や川崎市の向ケ丘遊園のモニュメント「フラワー・エンジェル」など、抽象彫刻も手がける。65年動物愛護協会から動物愛護のためのモニュメント制作を依頼され、烏や鳩をモティーフとした制作を始める。以後、これらのモティーフは柳原自身によって自画像と位置づけられ、自らの人生の足跡と重ねあわせた「道標」としてシリーズ化され、晩年まで繰り返し制作されることとなる。66年第7回現代日本美術展に「風と鴉」を出品。70年神戸須磨離宮公園第2回現代彫刻展に「道標・鴉」を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞。同年菊池一雄、佐藤忠良、高田博厚、舟越保武、本郷新らとともに六彫展を結成し、第一回展を現代彫刻センターで開催した。74年「道標・鳩」で第5回中原悌二郎賞を受賞。83年神奈川県立近代美術館ほかで「柳原義達展」を開催。84年イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オランダを旅行。70年代80年代には、現代日本彫刻展(宇部市)、神戸須磨離宮公園現代彫刻展、彫刻の森美術館大賞展、中原悌二郎賞などの審査委員をつとめる。1993(平成5)年東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で「柳原義達展」を開催。94年この展覧会によって第35回毎日芸術賞を受賞。95年宮城県美術館から全国8館を巡回する「道標-生のあかしを刻む 柳原義達展」を開催。99年三重県立美術館、神奈川県立近代美術館で「柳原義達デッサン展」を開催。2000年世田谷美術館で「卒寿記念 柳原義達展」が開催された。02年宇部市に柳原義達・向井良吉作品展示コーナーが設置され、03年、作家自身から主要作品と関連資料の寄贈を受けて、三重県立美術館に柳原義達記念館が開設された。柳原は、日本近代彫刻のアカデミズムから発し、1950年代60年代に造形の世界を襲った抽象の嵐の中にあっても、形態の抽象化の本質を見極めて具象に留まり、「自然の動的組みたてを探る」ことに文学や絵では表現できない彫刻特有の性質を見出して、生に対する深い思索を立体に表す試みを続けた。68年日本大学芸術学部美術学科講師、70年同主任教授とり、80年に退任するまで長く後進の指導にあたり、学生時代からの友人である佐藤忠良、舟越保武らとともに日本の具象彫刻界の精神的支柱として、指針を示し続けた。作品集に『柳原義達作品集』(現代彫刻センター、1981年)、『柳原義達作品集』(講談社、1987年)、『札幌芸術の森叢書 現代彫刻集 Ⅷ 柳原義達』(札幌芸術の森、1989年)、『柳原義達作品集』(三重県立美術館、2002年)、著書に『彫刻の技法』(美術出版社、1950年)、『ロダン』(ファブリ世界彫刻集5、平凡社、1971年)、『彫塑2 首と浮彫』(美術出版社、1975年)、美術論集『孤独なる彫刻』(筑摩書房、1985年)がある。

佐藤太清

没年月日:2004/11/06

読み:さとうたいせい  日本画家の佐藤太清は11月6日午後7時50分、多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年90。1913(大正2)年11月10日、京都府福知山市に生まれる。本名實。早くに両親が病没し、近所の梶原家で育てられる。1931(昭和6)年東京の親戚を頼って上京。川端画学校や太平洋美術学校に通った後、33年児玉希望に内弟子として入門、雅号を「太清」とする。希望の「花鳥をやれ」という指導に従って研鑽を重ね、入門後十年を経た43年第6回新文展に「かすみ網」が初入選。45年板橋区大谷口に転居し、以後没するまで同地にて制作を行う。46年第2回より日展に出品し、47年第3回日展で「清韻」が特選となった。48年第4回日展に「幽韻」を出品し、52年第8回日展で「睡蓮」が再び特選を受賞。ルドンを愛好し、叙情的な自然景の表現を指向する。この間師希望の国風会と伊東深水の青衿会が発展的解消をとげた50年の日月社結成に際しては委員をつとめ、52年の同会第3回展で「雨の日」が受賞、61年の解散まで毎回出品した。55年第11回日展「冬池」など抽象風の作品も発表した後、58年第1回新日展「立葵」、59年第2回「寂」、64年第7回「花」、65年第8回「潮騒」など、装飾的な花鳥画を制作。66年第9回新日展で「風騒」が文部大臣賞となり、翌年同作品により日本芸術院賞を受賞した。同年上野不忍池弁天堂格天井および杉戸絵を制作。80年第12回改組日展に「旅の朝」を発表して以降、81年第13回「旅の夕暮」、83年第15回「最果の旅」など“旅シリーズ”の作品を発表する。生涯を通じ、とくに花鳥画と風景画を融合させた内面性の強い作風は“花鳥風景”として高く評価された。60年日展会員、65年評議員、71年理事、75年監事、80年常務理事、83年事務局長、85年理事長に就任、また80年に日本芸術院会員となった。84年銀座松屋ほかで「佐藤太清展」が開催。88年文化功労者となる。1992(平成4)年文化勲章受章。93年には故郷福知山市の名誉市民に選ばれた。2004年の逝去にあたっては板橋区文化・国際交流財団より区民文化栄誉賞が贈られた。板橋区立美術館では1994年に文化勲章受章記念展、2006年に遺作展を開催している。

高橋介州

没年月日:2004/10/29

読み:たかはしかいしゅう  金工家で、日展参与の高橋介州は、10月29日午後0時13分、肺炎のため死去した。享年99。1905(明治38)年3月、石川県金沢市木ノ新保生まれ。本名、勇。1924(大正13)年金沢市の県外派遣実業実習生として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の聴講生となり海野清に師事、彫金技法を学ぶ。1929(昭和4)年、金沢市産業課の金属業界指導員となる。また同年、第10回帝展に初入選し、以後、帝展、新文展に入選を重ね、戦後は日展に出品を重ねる。48年には日展会員となる。そして、62年には日展評議員となり、80年には参与となる。作家活動の一方で、41年には石川県工芸指導所所長となり、62年からは石川県美術館館長をつとめた(71年3月まで)。そして、75年には加賀金工作家協会を結成し、会長として、若手作家の育成につとめた。76年勲四等瑞宝章受章。82年には加賀象嵌技術保持者として石川県無形文化財に認定された。動物や鳥などをモチーフとした香炉に、石川県の伝統的な彫金技法「加賀象嵌」の技術をいかして模様をあらわした装飾性豊かな作品を制作した。

佐藤多持

没年月日:2004/10/21

読み:さとうたもつ  日本画家の佐藤多持は10月21日午前6時40分、心不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年85。1919(大正8)年4月16日、東京府北多摩郡国分寺町の真言宗観音寺の次男として生まれる。本名保。戦後用いるようになった雅号の「多持」は、仏法加護の四天王のうち多聞天と持国天の頭文字をとったもの。1937(昭和12)年に東京美術学校日本画科に入学して結城素明に学ぶが、41年太平洋戦争のため繰上げ卒業となり、42年麻布三連帯に入隊。しかし演習中の怪我がもとで除隊、43年より昭和第一工業学校夜間部の教師となり、戦後は工業高校となった同校に85年まで勤めた。戦後一時期、山本丘人に師事するかたわら油絵も試み、47年第1回展より第10回展まで旺玄会に出品。また読売アンデパンダン展にも第1回展より日本画を出品。56年無所属となり、翌57年幸田侑三らと知求会を結成、1996(平成8)年同会の解散まで制作発表の場とする。ジャパン・アートフェスティバル展にも出品し、77年第3回国際平和美術展で特別賞を受賞した。戦後まもない頃に尾瀬へのスケッチ旅行で水芭蕉に出会って以来、一貫してこれをモティーフに描き続けたが、その作風は具象的なものから、半球形や垂直線、水平線のパターンによる構成を経て、60年代より大胆な墨線の円弧を用いた抽象的でリズム感のある“水芭蕉曼陀羅”シリーズへと移行していった。80年生家である観音寺庫裏客殿の襖絵38面を5年越しで完成。85年池田20世紀美術館で「水芭蕉曼陀羅・佐藤多持の世界展」、86年青梅市立美術館で「創造の展開―佐藤多持代表作展」、92年たましん歴史・美術館で「佐藤多持の世界 水芭蕉曼陀羅が生れるまで」展、99年には中国・上海中国画院美術館で「日本佐藤多持絵画展」が開催された。著書に『戦時下の絵日誌―ある美術教師の青春』(けやき出版、1985年)がある。

土谷武

没年月日:2004/10/12

読み:つちたにたけし  彫刻家で新制作協会会員の土谷武は、10月12日、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年78。1926(大正15)年10月11日、京都府京都市に生まれる。生家の土谷家は、清水七兵衛を先祖とし、「瑞光」の窯名で代々製陶業を営んでいた(3代瑞光は、28年生まれの実弟稔が継ぐ。)。1939(昭和14)年4月、京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。44年3月、同校補修科を修了した後、4月に東京美術学校彫刻科塑像部に入学。49年3月に同校卒業、同年世田谷区宮坂に友人たちと共同アトリエ「アトリエ・ド・ムードン」を建て制作する。この頃より、柳原義達と交流を深め、その親交は生涯にわたった。57年4月、日本大学芸術学部美術学科非常勤講師となる、また同年新制作協会会員となる。61年から63年までフランスに留学。68年に多摩美術大学美術学部彫刻科教授となる(73年まで)。75年4月、日本大学芸術学部芸術研究所教授となり、80年から同大学同学部教授となる(96年まで)。79年8月、第1回ヘンリー・ムーア大賞展(箱根、彫刻の森美術館)に招待出品し、優秀賞を受賞。83年10月、第17回サンパウロ・ビエンナーレに出品。大学における後進の指導と同時に、個展、新制作協会展、美術館における各種企画展等に積極的に出品をつづけた。1994(平成6)年3月、芸術選奨文部大臣賞受賞。95年1月、第36回毎日芸術賞受賞。96年11月、紫綬褒章を受章。97年12月、『土谷武作品集』(美術出版社)を刊行。98年9月に東京国立近代美術館において「土谷武展」を開催し、初期から最新作まで87点を出品し、本格的な回顧展となった(同展は、京都国立近代美術館、茨城県近代美術館を巡回)。初期からの具象的表現から、60年代以降には抽象表現に転向するが、その素材は、石、鋼材、木などを組み合わせた野外彫刻によって真価を発揮し、高く評価された。特に後年の作品に顕著に表現されたように、鉄という素材にこだわりながら、重さと軽さ、硬さとしなやかさ、塊と広がりに対する独自の造形感覚によって、現代日本彫刻における抽象彫刻の代表的な作家のひとりにあげられる。

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