高田修

没年月日:2006/10/27
分野:, (学)
読み:たかたおさむ

 仏教美術研究者の高田修は10月27日、脳出血のため山梨県甲府市内の病院で死去した。享年99。1907(明治40)年9月8日、奈良市油留木町28番地で出生、同年出身地である三重県名賀郡依那古村大字沖(現、上野市沖)906番地に帰った。三重県立上野中学校、浦和高等学校文科丙類を経て、1928(昭和3)年4月東京帝国大学文学部印度哲学科に入学、31年3月同大学を卒業した。卒業論文は「印度古代期佛教美術の研究」であった。この年以降、数年間、インド美術について逸見梅栄博士の指導を受け、33年4月から35年12月まで東京帝国大学文学部印度哲学研究室の副手を務めた。36年から43年に至る間、社団法人日本鉱業会会誌の編集事務を行う傍ら、『南傳大藏經』中の「本生経」や「譬喩経」の邦訳や、『國譯一切經』中の「大慈恩寺三藏法師傳・大唐西域求法高僧傳」の訳注を分担し、『佛教の傳説と美術』(三省堂、1941年)や『印度・南海の佛教美術』(創芸社、1943年)を著した。この後、陸軍司政官としてジャワに赴任し、ボロブドゥール、ブランバナンなどの遺跡を見学した。終戦はジャワで迎えた。戦後、連合軍総司令部(GHQ)民間情報教育局の美術顧問となり、近畿地方に所在する文化財の保存状況を調査した。52年12月東京国立文化財研究所に就職、美術部第一研究室に配属となった。58年から翌年3月まで、印度仏蹟踏査隊員としてインドやガンダーラの仏教遺蹟、アンコールの遺蹟を調査した。59年に、『居庸關』(村田治郎編、京都大学工学部、1957年)の共同研究により第49回日本学士院賞を受賞し、翌60年5月には、京都・醍醐寺五重塔の壁画の共同研究をまとめた『醍醐寺五重塔の壁画』(高田修編、吉川弘文館、1959年3月)によって第50回日本学士院恩賜賞を受賞した。62年に美術部長となった。68年に、「『仏像の起源』(岩波書店、1967年)にいたる仏教美術史の研究」によって、朝日賞を受けた。69年4月から71年3月まで東北大学文学部教授、73年4月から78年3月まで成城大学文芸学部教授を務めた。78年10月、東京国立文化財研究所の名誉研究員となった。日本の仏教美術の調査・研究に加えて、インド、スリランカ、インドネシアをはじめとする東南アジア諸国、パキスタン、アフガニスタン、イラン、韓国、中国、欧州各国などを訪れ、そこに所在する遺蹟を調査し、またその地域にある博物館や美術館の所蔵品の調査と撮影を積極的に行い、実見に基づいた緻密な論考を多数著した。著書としては、上記の他に、『佛教美術史論考』(中央公論美術出版、1969年)、『国宝両界曼荼羅図 教王護国寺』(『日本の仏画』第Ⅱ期第10巻、学習研究社、1978年6月)、『仏像の誕生』(岩波書店、1987年)などがある。また、40年以上にわたって研究に取り組んだインドのアジャンタ石窟群に関しては、その成果が『アジャンタ壁画』(日本放送出版協会、2000年)としてまとめられた。その他の著作については、下記の2書を参照していただきたい。

東北大学記念資料室編『高田修教授著作目録』(東北大学記念資料室、1971年)
高田修博士八十の賀を祝う会編『高田修博士年譜著作目録』(1987年)

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(379-380頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「高田修」『日本美術年鑑』平成19年版(379-380頁)
例)「高田修 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28379.html(閲覧日 2024-04-25)

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