本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





山辺知行

没年月日:2004/10/01

読み:やまのべともゆき  染織史研究者の山辺知行は、10月1日、肺炎のため死去した。享年97。1906(明治39)年10月27日東京市麹町区(現東京都千代田区)に旧華族の家に生まれる。1931(昭和6)年3月に京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業、35年8月に東京帝室博物館研究員に就任。徴兵から復員後、47年より東京国立博物館初代染織室長に就任し、従来、風俗史研究の中に取り込まれてきた服飾・染織を、初めて美術工芸あるいは服飾文化という観点から美術史の中に位置づけた。処女論文「辻が花染に対する一考察」(『美術史』第12号、1957年3月)では明治期以降、古美術市場で人気急騰した日本中世染模様である「辻が花染」を初めて学術的な立場から定義し、以後の文化財指定の基準ともなった。68年3月に同博物館を退任後は、共立女子大学教授に就任、73年3月に同大学教授を退任、同年4月に多摩美術大学教授に就任。77年3月に同大学教授を退任、同大学客員教授に就任する。78年4月に財団法人遠山記念館館長に就任、88年3月に多摩美術大学客員教授を退任し、同大学附属美術館館長に就任。1991(平成3)年には遠山記念館館長を退任し、同館の顧問に就任した。その他、美枝きもの資料館名誉館長、都留市博物館館長を歴任した。東京国立博物館に就任中から、伝統工芸に携わる職人と連携し、人形を含む同館所蔵の染織の修理や復元にも指導力を発揮した。また、東京国立博物館を退任後は、染織美術の蒐集に力を注ぎ、日本染織のみならず、近世日本の人形、アジア・ヨーロッパ・南アメリカ各国の染織にまでおよんだ膨大なコレクションは遠山記念館に寄贈された。その全容は『山辺知行コレクション』第1巻 インドの染織、第2~3巻 世界の染織、第4~5巻 日本の染織、第6巻 日本の人形、第7巻 別冊 補遺編(源流社、1984~1985年)に詳しい。国際的にも活躍し、ドイツやフランスで開催された国際学会での藍染めに関する口頭発表、インドで開催されたシンポジウムの講演記録などは『ひわのさえずり 山辺知行染織と私のエッセー』(源流社、2004年)に収録されている。その他、主著を以下にあげる。『染織』(大日本雄弁会講談社、1956年)、『日本の人形』(西沢笛畝と共著、河出書房、1954年)、‘Textiles’, Arts & Crafts of Japan, no.2, C.E.Tuttle, 1957. 『日本染織文様集』Ⅰ~Ⅲ・英文版(日本繊維意匠センター、1959~1960年)、『小袖』(北村哲郎・田畑喜八と共同編集、三一書房、1963年)、『能装束(徳川美術館所蔵品)』1・2巻(東京中日新聞社、1963年)、『能衣裳文様』上・下(中島泰之助と共同編集、芸艸堂、1963年)、『辻ヶ花』(京都書院、1964年)、『小袖 続』(北村哲郎と共著、三一書房、1966年)、『日本の美術7 染』(至文堂、1966年)、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(鈴木 尚・矢島恭介と共著、東京大学出版会、1967年)、『小袖文様』上下巻(北村哲郎と共著、三一書房、1968年)、『紬』(光風社書店、1968年)、『能装束文様集』(檜書店、1969年)、『上杉家伝来衣裳』日本伝統衣裳 第1巻(神谷栄子と共著、講談社、1969年)、『染織・漆工・金工』小学館原色日本の美術20(岡田譲・蔵田蔵と共著、小学館、1969年)、『日本服飾史』(駸々堂出版、1969年)、『縞』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1970年)、『能装束文様集 続』(檜書店、1972年)、『日本染織実物帖』(衣生活研究会、1972年)、『傳統工芸染織篇』全18冊(衣生活研究会、1973~1975年)、『絣』日本染織芸術叢書(芸艸堂、1974年)、『細川家伝来能装束』永青文庫美術叢書(監修、主婦の友社、1974年)、『ペルシャ錦』(染織と生活社、1975年)、『日本の染織』(毎日新聞社、1975年)、『人形―坂口真佐子コレクション―』(監修、講談社、1976年)、『日本の美術;127 紅型』(至文堂、1976年)、『人形集成』全11冊(西沢笛畝と共著、芸艸堂、1977年)、『キャリコ染織博物館 更紗』(染織と生活社、1978年)、『染織』(角山幸洋と共著、世界文化社、1978年)、『シルクロードの染織 スタイン・コレクション ニューデリー国立博物館所蔵』(紫紅社、1979年)、『瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品』(共著、瑞鳳殿再建期成会、1979年)、『日本の染織』第2巻 武家/舶載裂(小笠原小枝と共同責任編集、中央公論社、1980年)、『琉球王朝秘蔵紅型』(日本経済新聞社、1980年)、『日本の染織』第3巻 武家の染織(責任編集、中央公論社、1982年)、『日本の染織』第9巻 庶民の染織・第10巻 近代の染織(責任編集、中央公論社、1983年)、『染織』世界の美術:カルチュア版;19(共著、世界文化社、1983年)、『染織・服飾』文化財講座日本の美術;11工芸(文化庁監修、岡田譲と共著、第一法規出版、1983年)、『一竹辻が花 OPULENCE オピュレンス』(編集解説、講談社、1984年)、『印度ロイヤル錦 キャリコ染織博物館コレクション;2』(染織と生活社、1988年)、‘Ein blaues Wunder: Blaudruck in Europe und Japan’, Berlin: Akademie Verlag, 1993. ‘Kyoto modern textiles, 1868-1940’, Joint author; Kenzo Fujii, Kyoto Textile Wholesalers Association, 1996.英語に堪能で広範な関心を終生離さず、染織に携わる職人と親交を深めて制作側の立場からも染織工芸を語る独特の視点が、近世武家女性の夏の衣料である茶屋辻を藍の浸染で復元するという壮大な実験や、世界各国の染織蒐集という大きな成果を残す原動力となった。

藤田喬平

没年月日:2004/09/18

読み:ふじたきょうへい  ガラス工芸家で文化勲章受章者の藤田喬平は、9月18日午後10時13分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年83。1921(大正10)年4月28日東京府豊多摩群大久保町(現、東京都新宿区)に生まれる。1944(昭和19)年東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科彫金部卒業。46年第1回日展に、金属による立体的な造形作品「波」を出品し初入選。同年染織家の長浜重太郎が主宰する真赤土工芸会に参加し、以後10年間、同会にて作品を発表する。47年岩田工芸硝子に入社。49年同社を退社し、ガラス作家として独立。葛飾のガラス工場を時間単位で借りて、制作を行う。50年代には、同世代の工芸作家グループ展「潤工会新作工芸展」やガラス作家グループ展「PIVOT」に参加、その後多数の個展を開催し、主に百貨店を舞台にガラス作家としての地歩を固めた。64年個展で発表した「虹彩」が、同年「現代日本の工芸」展(国立近代美術館京都分館)に招待出品される。73年個展で飾筥「菖蒲」を発表、以後この「菖蒲」シリーズは晩年まで制作が続けられた。「虹彩」に代表される、流動するガラスが冷えて固まる一瞬を作品に留めた「流動ガラス」シリーズ、琳派の作品に触発され、伝統的な美意識を作品に表出させた「飾筥」シリーズによって、藤田はガラス作家としての個性を明確に打ち出していった。76年日本ガラス工芸協会会長に就任。77年以降は、ガラスの生産地として世界的に有名なヴェネツィア、ムラノ島の工房でも制作をするようになり、ヴェネツィアの伝統的な装飾ガラス技法「カンナ」を多用した作品や大型のオブジェを手がけた。1989(平成元)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章受章、96年宮城県宮城郡松島町に「藤田喬平美術館」が開館、97年紺綬褒章受章、同年文化功労者の顕彰を受けた。国内外の展覧会へ作品を出品し、日本を代表するガラス作家として活躍するとともに、再三に亘り日本ガラス工芸協会会長を務めるなど、多方面から日本におけるガラス・アートの活動を牽引した。2000年12月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、作品集に『藤田喬平作品集:手吹ガラス』(アート社出版、1980年)、『雅の夢:藤田喬平ガラス』(京都書院、1986年)、『藤田喬平美術館・作品集』(藤田喬平美術館、1996年)、『藤田喬平のガラス』(求龍堂、2000年)。

飯塚小玕斎

没年月日:2004/09/04

読み:いいづかしょうかんさい  人間国宝(重要無形文化財保持者)の飯塚小玕斎は、9月4日、肺炎のため死去した。享年85。1919(大正8)年5月6日、東京市本郷区(現・東京都文京区)に、飯塚琅玕斎の次男として生まれる。本名・成年。1942(昭和17)年東京美術学校油画科を卒業し入隊、出征する。46年疎開先の栃木市に復員し、栃木市立高等女学校で講師を約10年間勤める。その後帰京し、81年群馬県太田市に転居した。復員後に、近代竹工芸の確立に重要な役割を担い工芸界の重鎮であった父琅玕斎の厳しい指導を受けて修業し、飯塚家の伝統のわざはもとより琅玕斎の格調を重んじる制作を学んだ。1947年第3回日展初入選。翌年の第4回日展に成年子と号して出品し、50年亡き兄が号した小玕斎を受け継いだ。53年第9回日展で北斗賞を受賞し、翌年第10回展で特選、60年第3回新日展で菊華賞を受賞、伝統技法による花籃等の制作に加え壁面の制作に挑むなど気鋭の竹工芸家として活躍した。62年日展会員。74年第17回日本伝統工芸展へ出品して以降同展を中心に活動し、第17回展文部大臣賞、翌75年第18回展で朝日新聞社賞と受賞を重ねた。その後、鑑審査委員をたびたびつとめ、理事や木竹部会長を長く勤めた。81年紫綬褒章、89年勲4等旭日小綬章を受章。琅玕斎から継承した伝統のわざを現代的な感性で洗練させ、精緻精細な竹刺し編みや束ね編み等による芸術の格調を基調とする制作を主として独自の力強い荒い編組作品の創作なども繰り広げ、今日の伝統的な竹工芸の基盤を形成した。79年から82年にかけて正倉院宝物の竹工芸品の調査研究に努め、自らの創作の世界を広げた。82年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受け、以降日本伝統工芸展を中心に後進の指導に積極的に努め、その普及と発展に尽力した。

矢口國夫

没年月日:2004/08/20

読み:やぐちくにお  元東京都現代美術館学芸部長で、美術評論家の矢口國夫は、8月20日脳出血のため東京都小平市の病院で死去した。享年57。1947(昭和22)年7月11日に栃木県宇都宮市に生まれる。66年に栃木県立宇都宮高校を卒業し、同志社大学文学部に入学。71年に同大学を卒業し、同年西武百貨店に入社。翌年4月、栃木県教育委員会に転出し、同年11月開館の栃木県立美術館開設準備にあたった。同美術館開館後、「清水登之」展(1973年2月)、「青木繁福田たねのロマン」展(1974年8月)、「阿以田治修」展(1976年2月)、「川島理一郎」展(1976年9月)、「小杉放菴」展(1978年2月)等、近代日本美術を中心にした企画展を担当した。79年1月に国際国流基金に転任、同基金において日本の近現代美術を海外に紹介する展覧会等を企画担当し、またヴェネツィア・ビエンナーレも担当し、日本の現代美術紹介にも積極的に参画した。1992(平成4)年4月には、東京都現代美術館開設準備に学芸部長として転任、95年3月の同美術館開館後からは、「アンディ・ウォーホル展」、「ポンピドー・コレクション展」等の企画展を担当した。98年、同美術館在勤中、病に倒れ自宅療養中であった。美術史研究ばかりではなく、国内外の美術の動向にも視野を広げ、活動した美術館人であった。没後、『矢口國夫美術論集―美術の内と外』(「矢口國夫美術論集」刊行委員会編、美術出版社、2006年3月)が刊行され、同書によって生前の研究及び評論等がまとめられた。

松林猶香庵

没年月日:2004/08/14

読み:まつばやしゆうこうあん  陶芸作家で、朝日焼14世の松林猶香庵は、8月14日午後4時20分多臓器不全のため死去した。享年83。1921(大正10)年3月10日、京都府宇治市に生まれる。本名松林豊彦。1936(昭和11)年京都市立第二工業学校陶磁器科を卒業後、国立陶磁器試験所に学ぶ。39年同試験場を修了し、1年間助手を務める。試験所在籍中は、水町和三郎の指導のもとで、多くの名品に学ぶ。46年父の朝日焼13世光斎の死去に伴い、14世豊斎を継承。この頃、陶芸作家の楠部彌弌に師事し、公募展にも出品をする。47年第3回日展には「豊芽の図大鉢」を出品。しかし、松林は、通常他の窯では区別されない窯変による色彩・釉調の変化を「燔師」と「鹿背」と分けて呼ぶ、朝日焼の繊細な茶陶の中に自らの進む道を見出す。その後は朝日焼の伝統的な造形を基調としながら、独学で朝日焼の最たる特徴である御本手の「燔師」・「鹿背」と呼ぶ窯変や、梅華皮・三島などの技法をより深く追求する。52年10月大坂三越で初個展開催。以後、個展を中心に作品を発表する。55年頃から何度か国宝の茶碗「喜左右衛門井戸」を手にする機会を得る。その見事な梅華皮を念頭において梅華皮茶碗の焼成を繰り返し、65年頃自身の理想に近い梅華皮茶碗を作り出し、これによって自らの技への自信を深めていく。また作陶と並行して、窯変を決定づける窯の研究にも没頭し、52年の登窯の築窯をはじめとし、幾つもの窯を築き試行錯誤を繰り返す。75年には、不確定要素の多かった窯変の創出を意識下におくことを目的とした窯「玄窯」を完成させる。「玄窯」は、窖窯と登窯を繋げた他に例を見ない構造に加え、窯内雰囲気を観察・記録できる当時最新の装置を付けた窯である。「玄窯」完成後、松林はさらに窯変の研究を続け、朝日焼の窯変を「土と炎の出会いによる土の窯変」という独自の言葉で表現している。そして80年頃、「鹿背」に用いる土と古朝日の土をあわせることで、従来の朝日焼にはなかった窯変による「紅鹿背」と呼ぶ、ほのかな紅色の発色に成功し、これを用いた作品制作に邁進する。1994(平成6)年11月大徳寺管長福富雪底のもとで得度し、長男良周に15世豊斎を譲り、隠居名の「猶香庵」を名乗る。その後も精力的に制作を続け、各地で個展を開催し、作品を発表する。松林猶香庵の作風は、伝統を踏まえ抑制のきいた造形の上に、窯変による色彩・釉調の変化を加えることで、瀟洒かつ温雅な独自の世界を表出している。こうした松林の作品は、茶を喫するために作られた茶陶の世界において高い評価を得たものである。

坂高麗左衛門

没年月日:2004/07/26

読み:さかこうらいざえもん  陶芸作家で萩焼宗家坂窯の十二代坂高麗左衛門(本名、坂達雄)は、7月26日午前7時45分、脳挫傷のため山口県萩市内の病院で死去した。享年54。1949(昭和24)年8月11日、東京都新宿区に山中關とオヨの長男として生まれる。76年に東京芸術大学絵画科日本画専攻を卒業し、同大大学院美術研究科絵画専攻に進学。78年の課程修了後も、同大芸術資料館にて重文「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」の臨模研究や80年の国宝「観心寺木造如意輪観音坐像」復元事業に参加して彩色を担当するなど、日本中世絵画を対象に制作研究を継続した。82年、前年に没した十一代坂高麗左衛門(本名、信夫)の息女素子と婚姻を結び、また彼女の母幸子の養子となって萩藩御用窯の系譜をひく坂窯を後継した。83年の京都市工業試験場窯業科陶磁器研修生を修了後、84年から萩での作陶生活に入った。翌年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展から本格的な発表活動を開始。以降、日本画の制作研究で体得した運筆や賦彩の表現技法を造形思考の核に据え、萩伝統の陶技と絵画的意匠の総体的融合をめざした造形表現を追求し、作陶活動を展開した。個展活動は、86年の柿傅ギャラリー(東京)と玉屋(福岡)での初個展以来、88年5月29日の十二代襲名前に2回、襲名後は生前49回におよんだ。公募展への出品活動では、87年の第34回日本伝統工芸展で自ら開発した「陶彩」技法を用いた径41cmの「萩夏秋草八角陶筥」が初入選し、88年の日本工芸会山口支部伝統工芸新作展ではNHK山口放送局賞を受賞するなど、新進作家として早くから注目された。以後日本伝統工芸展において、89(平成元)年の第36回展に「萩茶碗」、92年の第39回展には「萩茶碗」が、そして94年の第41回展では「萩櫛目面取茶碗」がそれぞれ入選し、同年日本工芸会正会員となった。また、89年には田部美術館大賞茶の湯造形展にも入選している。90年から99年にかけては萩女子短期大学講師として陶芸指導にあたった。97年7月には「やきもの探訪-萩焼に日本画を」が NHKで放送(BS2)されている。2001年に山口県文化功労賞を受賞。作品は、坂窯伝統の井戸形茶碗をはじめ、萩焼の陶胎を用いながらも釉下に多彩な色料を施して器面を華やかに彩った茶碗・水指・香炉・花入・皿・筥・壺など多種の器形を制作し、ことに晩年の装飾は温雅な美質をそなえた抒情性のある絵画的表現を特長とした。

長谷川青澄

没年月日:2004/07/23

読み:はせがわせいちょう  日本画家の長谷川青澄は7月23日午後11時15分、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年9月25日、長野県下水内郡飯山町(現、飯山市)に生まれる。本名義治。飯山中学(現、飯山北高等学校)在学中に日本画家菊池契月の兄、細野順耳に日本画の手ほどきを受ける。1933(昭和8)年一家上京のため飯山中学を中退、翌年吉村忠夫に入門し大和絵を学ぶ。44年郷里に疎開し、戦後長野県展に出品し47年には信毎賞、48年には県展賞を受賞。51年に大阪へ転住し、翌年には美人画家中村貞以に師事、画塾春泥会で研鑽を積む。53年第38回院展に「庭」が初入選、以後毎年院展に入選を続けた。59年第44回院展で「羊飼」が奨励賞次点となり、60年第45回「小鳥の店」が奨励賞、62年第47回「寂」が日本美術院次賞を受賞。60年代末から日本の古典芸能に造詣を深めて能や狂言、舞踊などを好んでテーマとするようになり、69年第54回「京舞花の旅」、73年第58回「朝顔話」、75年第60回「日想観(弱法師)」、77年第62回「狂言」、78年第63回「狂言」、79年第64回「京を舞う」、81年第66回「皎」、82年第67回「京を舞う」が、いずれも奨励賞を受賞し、82年日本美術院同人に推挙された。同年には師中村貞以の逝去により春泥会を引き継ぎ、師の七回忌後は画塾含翠として継承、師より受けついだ大阪での日本美術院の伝統を守り続けた。1989(平成元)年日本美術院評議員となる。90年第75回院展には石山寺に籠り、源氏物語を執筆する紫式部を描いた「月」で内閣総理大臣賞を受賞。92年郷里の飯山市公民館において作品展、同年から翌年にかけて日本橋と大阪の三越で回顧展を開催。94年には第79回院展に「足柄の山姥」を出品し、文部大臣賞を受賞。99年には東大阪市民美術センターで「長谷川青澄展―その純なる魂の軌跡」が開催されている。

毛利武士郎

没年月日:2004/07/18

読み:もうりぶしろう  彫刻家の毛利武士郎は、7月18日、内臓疾患で死去した。享年81。1923(大正12)年1月14日、当時の東京市荒川区日暮里渡辺町に、彫刻家毛利教武の次男として生まれる。1940(昭和15)年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学。43年に同学校を卒業、翌年2月に応召、北満州の独立歩兵部隊、後に対戦車砲部隊に配属され、その後沖縄宮古島にて被弾負傷する。45年、終戦を同島の野戦病院で迎える。戦後は、51年2月の第3回読売アンデパンダン展に「小さな夜」を初出品。54年2月、第6回読売アンデパンダン展に「シーラカンス」、「抵抗」を出品。57年6月、サトウ画廊にて個展を開催し、針金と鉛板による抽象彫刻を出品する。59年9月、向井良吉、小野忠弘とともに第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年9月、第1回集団現代彫刻展に「鳩の巣NO.2」、「作品」を出品。61年7月、第1回宇部市野外彫刻展に「鳩の巣」を出品。この頃から、すでに抽象彫刻の作品は、高く評価されていたが、60年代半ばから新作の発表を絶った。その間、73年6月、東京国立近代美術館の「戦後日本美術の展開・抽象彫刻の多様化展」、81年の神奈川県立近代美術館の「日本近代彫刻の展開―開館30周年記念展第Ⅱ部」、同年9月の東京都美術館の「現代美術の動向Ⅰ―1950年代-その暗黒と光芒」など、戦後美術の回顧展にその作品が出品されていた。83年11月、富山県立近代美術館の「現代日本美術の展望―立体造形」展に、およそ20年ぶりにレリーフ状の新作「哭Mr.阿の誕生」を出品。作家の長期間にわたる沈黙の意味を問うものとして注目された。1992(平成4)年5月に東京から富山県黒部市にアトリエ兼住居を移転。99年5月には、富山県立近代美術館にて「毛利武士郎展」を開催、111点からなる本格的な回顧展となった。とりわけ、金属の鋳塊をコンピューターと連動した工作機械で精密に加工した新作は、この作家の独自の表現として話題となった。戦後の日本の抽象彫刻を代表する作家のひとりとして評価されているが、長い沈黙後の晩年である富山県に移住後の制作は、現代彫刻をめぐる技術と造形思考をめぐる独自の哲学に裏付けられた先鋭的な問題を深めた点で、発表時から美術界に少なからず衝撃をあたえ、今後も議論されるべき作品を残したことは高く評価される。

藤代松雄

没年月日:2004/06/12

読み:ふじしろまつお  刀剣研磨師で人間国宝の藤代松雄は6月12日、脳こうそくのため死去した。享年90。 1914(大正3)年4月21日、刀剣研磨師である藤代福太郎の三男として東京神田に生まれる。「早研ぎの名人」といわれた父に1927(昭和2)年より刀剣の研磨技術を習う。51年より『名刀図鑑』を刊行、写真技術を最高度に利用して茎の銘やこれまで再現不可能であった地の状態、刃中の働きなどを写し、戦後の刀剣愛好家の啓蒙に寄与した。55年日光二荒山神社所蔵の御神刀「山金造波文蛭巻大太刀(禰々切丸)」(重要文化財)を研磨。61年『日本刀工辞典』改訂版を刊行、同書は元来兄義雄の著作(37年刊)であり、これに共著という形で版を重ねることで新たな資料を加え、より完全な銘の辞典の完成を目指した。70年美術刀剣研磨技術保存会を結成、88年からは同会の幹事長を務める。1990(平成2)年 国宝 短刀 来国光(名物有楽来)、93年吉備津神社所蔵の大太刀 法光「吉備津丸」を研磨。96年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。98年勲四等旭日小綬章受章。

山川武

没年月日:2004/06/01

読み:やまかわたけし  東京芸術大学名誉教授で、美術史研究者の山川武は、6月1日、肺がんのため死去した。享年77。葬儀は近親者のみで行われ、同年7月3日に「山川武先生を偲ぶ会」(東京上野、精養軒)が行われた。1926(大正15)年11月22日、兵庫県神戸市に生まれる。1949(昭和24)年7月、東京芸術大学美術学部芸術学科に入学、53年3月に卒業、4月に同学部専攻科に入学するが翌年病気のために退学。59年1月に東京芸術大学美術学部助手となり、翌年9月から同大学同学部附属奈良研究室に事務主任事務取扱として赴任し、63年6月、同研究室講師となる。67年4月、同研究室勤務を解かれ、同大学美術学部芸術学科講師となる。69年4月、同大学美術学部助教授となる。78年4月、同大学同学部教授となる。1993(平成5)年9月、東京芸術大学芸術資料館において「退官記念山川武教授が選ぶ近世絵画」展を開催。翌年3月、同大学を退官。同年4月、女子美術大学教授に就任、同月、東京芸術大学名誉教授となる。97年7月、東京銀座にて「山川武写真展―行旅余情―」展開催。翌年、女子美術大学を退職。2002年10月、『山川武写真集』(私家版)を刊行する。本項末にあげる著述目録で了解されるように、山川の研究者としての対象は、近世日本絵画が有する独特の美しさと豊かさの探求であった。研究歴の初めにあげられる業績は、『国華』誌上で特集された長沢蘆雪に関する研究である。これは、従来の近世絵画史から見逃されていた画家と作品を位置づけるものとして、斯界から注目された研究であり、いわゆる「奇想」と目されることとなった画家群をも網羅するその後の絵画史研究に刺激を与え、特筆すべきものであった。その後、円山応挙、呉春等を中心とする近世写生画の研究、さらに光悦、宗達、光琳、抱一等の琳派研究へと展開していった。また、田能村竹田、与謝蕪村、浦上玉堂等の南画研究、宋紫石の長崎派、さらに西郷孤月、長井雲坪、狩野芳崖、高橋由一にいたる幕末明治期の画家研究に領域をひろげていった。ここで一貫していた研究姿勢は、作品に直に接することからの知見をもとに深められるものであり、同時にその折の豊かな感性に裏づけられた経験をもとに論考されていた点である。美術史研究の基本である誠実に「見る」ことを通していた点は、趣味でもあった写真にも生かされ、晩年に刊行した写真集に収められたアジア、欧米各地での調査研究旅行の折に撮られた写真の数々には、人間や自然への暖かい眼差しが感じられる。巨躯ながら、眼鏡に手を添えつつ訥々とした語りで近世絵画の「面白さ」を講義する時、その姿には温和ながら美術への熱い想いが常にこめられていたことを記憶する。 著述目録は、下記の通りである。(本目録は、「山川武先生を偲ぶ会」編によるものである。) 「山姥図」と長沢蘆雪(『仏教芸術』52号、1963年11月) 長沢蘆雪筆 雀図(『国華』860号、1963年11月) 長沢蘆雪とその南紀における作品(同前) 長沢蘆雪伝歴と年譜(同前) 西光寺の蘆雪画(『仏教芸術』60号、1966年4月) 大覚寺と渡辺始興(『障壁画全集 大覚寺』、美術出版社、1967年3月) 正木家 利休居士像(『国華』901号、1967年4月) 表千家 利休居士像(同前) 三玄院 大宝円鑑国師像(同前) 東大寺大仏の鋳造及び補修に関する技術的研究 その一(共同研究)(『東京芸術大学美術学部紀要』4号、1968年3月) 良正院の障壁画(『障壁画全集 知恩院』、美術出版社、1969年1月) 写生画(『原色日本の美術19 南画と写生画』、小学館、1969年2月) 円山応挙について―「写生画」の意味の検討―(『美学』79号、1969年12月) 長沢蘆雪襖絵(『奈良六大寺大観 第6巻 薬師寺 全』、岩波書店、1970年8月) 結城素明作 鶏図杉戸(『昭和45年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1971年9月) 長沢蘆雪筆 墨龍図(『国華』942号、1972年1月) 長沢蘆雪筆 汝陽逢麹車図(同前) 絵画 第5章 江戸時代(『奈良市史 美術編』、奈良市、1974年4月) 円山応挙についての二三の問題(『国華』945号、1972年4月) 呉春筆 群山露頂図(同前) 呉春筆 耕作図(同前) 長沢蘆雪筆 群猿図(同前) 呉春筆 渓間雨意・池辺雪景図(『国華』948号、1972年8月) 光琳―創造的装飾『みづゑ』812号、1972年10月) 長沢蘆雪筆 仁山智水図(『国華』953号、1972年12月) 屈曲初知用―光琳屏風展雑感(『芸術新潮』277号、1973年1月) 早春の画家―渡辺始興展(『みづゑ』818号、1973年5月) 『日本の名画 6 円山応挙』(講談社、1973年6月) 応挙と蘆雪(『水墨美術大系 第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』、講談社、1973年9月) 二つの「槇楓図」屏風(『日本美術』102号、1973年11月) 尾形光琳「槇楓図」(『昭和48年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1974年12月) 松屋耳鳥斎筆 花見の酔客図(『国華』976号、1975年1月) 森狙仙筆 猿図(同前) 森徹山筆 翁図(同前) 源琦筆 四十雀図(同前) 円山応挙筆「牡丹図」他12幅(『昭和49年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1975年12月) 呉春筆「寒木図」、「山水図」、呉春、岸駒合作「山水図」(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅱ』、東京芸術大学、1976年3月) 円山応挙筆 四季山水図(『国華』997号、1977年1月) 『日本美術絵画全集 第22巻 応挙/呉春』(集英社、1977年4月) 円山応挙筆 春秋鮎図(『国華』1002号、1977年7月) 長沢蘆雪筆 岩上小禽図、長沢蘆雪筆 狐鶴図(『国華』1003号、1977年8月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展―創立90周年記念―』(東京芸術大学、1977年9月) 円山四条派(『文化財講座 日本の美術3 絵画(桃山・江戸)』、第一法規出版、1977年11月) 円山応挙筆 蟹図屏風(『国華』1008号、1978年2月) 円山・四条派と花鳥・山水(『日本屏風絵集成 第8巻 花鳥画―花鳥・山水』、講談社、1978年5月) 円山応挙筆 螃蟹図(『国華』1017号、1978年11月) 浦上玉堂筆 青松丹壑図(『昭和52年度 東京芸術大学芸術資料館年報』、1979年3月) 近世市民芸術の黎明『日本美術全集 第21巻 琳派 光悦/宗達/光琳』(学習研究社、1979年8月) 本阿弥光悦(同前) 俵屋宗達(同前) 尾形光琳と乾山(同前) (作品解説)(『東京芸術大学蔵品図録 絵画Ⅰ』、東京芸術大学、1980年3月) 上方の町人芸術(『週刊朝日百科 世界の美術129 江戸時代後期の絵画Ⅱ 円山・四条派と若冲・蕭白』(朝日新聞社、1980年9月) 若冲と蕭白(同前) 蕪村の寒山拾得(『日本美術工芸』512号、1981年5月) 1980年の歴史学界―回顧と展望―日本近世〔絵画〕〔工芸〕(『史学雑誌』90編5号、1981年5月) 「江戸琳派」開眼―抱一・其一について―(『三彩』406号、1981年7月) 長沢蘆雪筆 瀧に鶴亀図屏風 同 赤壁図屏風(『国華』1047号、1981年12月) 呉春筆 白梅図屏風(『国華』1053号、1982年7月) 日本美術史上での南画の位置づけ(『田能村竹田展』、大分県立芸術会館、1982年10月) 彷徨の画家西郷孤月(『西郷孤月画集』、信濃毎日新聞社、1983年10月) (作品解説)(『英一蝶展』、板橋区立美術館、1984年2月) (作品解説)(『東京芸術大学所蔵名品展』、京都新聞社、1984年10月) 一旅絵師の生涯―雲坪小伝―(『長井雲坪』、信濃毎日新聞社、1985年4月) 光琳の生涯(『芸術公論』10号、1985年11月) 宋紫石とその時代(『宋紫石とその時代』、板橋区立美術館、1986年4月) 宋紫石の画業とその時代(『宋紫石画集』、宋紫石顕彰会、1986年9月) 第2章 絵画(『深大寺学術総合調査報告書 第1分冊・彫刻 絵画 工芸』、深大寺、1987年11月) (解題)(『東京芸術大学 創立百周年記念 貴重図書展』、東京芸術大学附属図書館、1987年11月) 化政期の江戸絵画(『東京芸術大学芸術資料館所蔵品による 化政期の江戸絵画』、東京芸術大学美術学部・芸術資料館、1988年11月) 狩野芳崖と、その「悲母観音」について(『特別展観 重要文化財 悲母観音 狩野芳崖筆』、東京芸術大学芸術資料館、1989年10月) 円山応挙筆 秋月雪峽図(『国華』1132号、1990年3月) 近世、伊那谷が生んだ二画人(『佐竹蓬平と鈴木芙蓉』、信濃毎日新聞社、1990年7月) 高橋由一の「鮭」を考える(『特別展観 重要文化財 鮭 高橋由一作』、東京芸術大学芸術資料館、1990年10月) 佐竹蓬平、その生涯と芸術(『佐竹蓬平展』、飯田市美術博物館 1990年10月) 長崎派(『古美術』100号、1991年10月) 円山・四条派における「写生画」の意味について(『美術京都』11号、1993年1月) 「退官記念 山川武教授の選ぶ近世絵画」展列品解説(『退官記念 山川武教授』、東京芸術大学美術学部、1994年1月)

松田正平

没年月日:2004/05/15

読み:まつだしょうへい  飄逸な画風で知られた洋画家の松田正平は、5月15日午後4時35分、腎機能不全のため宇部市の病院で死去した。享年91。1913(大正2)年1月16日、久保田金平の第三子次男として島根県鹿足郡青原村(現・日原町)に生まれる。17年ころ宇部村恩田の松田家に養子として引き取られるが、望郷のあまり生家へ帰り、19年青原村立青原尋常小学校に入学する。20年養父の迎えにより宇部へ移り、21年山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)の松田家の養子として入籍する。宇部市立神原尋常小学校を経て25年山口県立宇部中学校(現 山口県立宇部高等学校)に入学。1927(昭和2)年、中学3年生在学中に同級生を介して油彩画を知る。30年、中学校の教員免許を取得することを条件として美術学校への進学を許され、2月に上京。川端画学校に学び、3月に東京美術学校を受験するが失敗。引き続き川端画学校に学ぶ。31年春、山口県出身の美術学校志望者が多く住んでいた小石川の日独館に転居し、古木守、香月泰男らと交遊。32年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事する。35年帝展第二部会に「婦人像」で初入選。36年新文展鑑査展に「休憩」で入選する。37年東京美術学校を卒業し、フランス留学のため、知人の協力を仰ぎ、同年10月渡欧して、アカデミー・コラロッシに通う。コローに傾倒し、コローの「真珠の女」を模写したほか、コローが描いた場所を訪れ、また、レンブラントの作品を見るためにアムステルダムを訪れる。39年スイス、ロンドン、ニューヨーク、パナマ、ロサンゼルスを経由して同年12月に帰国。40年第15回国画会展に出品するが落選する。一方、郷里宇部市の緑屋百貨店で滞欧作展を開催。41年第16回国画会展に「ストーブ」「地図」を出品して入選。42年、宇部に帰郷し、4月から山口師範学校の美術教授となる。同年第17回国画会展に「集団アトリエ」「枯霞草」「或るゑかき」を出品し、国画奨学賞を受賞。43年山口師範学校を辞職して上京し、パリ留学のころから交遊のあった吉川精子と結婚する。同年第18回国画会展に「窓」「家」を出品し、同会会友に推される。45年戦況が厳しくなる中、宇部へ帰郷し、東見初炭坑で抗夫として働く。同年7月の宇部空襲により家が全焼し、パリ時代までの作品を失う。46年復興した第20回国画会展に出品し、以後も同会に出品を続ける。51年第25回同展に「内海風景」「祝島風景」を出品し、同会会員となる。同年よりフォルム画廊で第一回目の個展を開き、以後、ほぼ毎年同画廊で個展を開催。52年上京し、国画会展、国際具象派展、フォルム画廊での個展のほか、宇部市の明幸堂画廊での個展に作品を発表。63年夏、千葉県市原市鶴舞に転居。66年国画会脱退を決意し、この年の同会展には出品しなかったが、原精一、木内廣らの慰留により会員としてとどまる。76年現代画廊主洲之内徹との交流が始まり、78年フォルム画廊と現代画廊で個展を同時に開催する。以後、定期的な個展では油彩画はフォルム画廊で、素描は現代画廊で発表することが定例化する。82年6月、パリを再訪。83年『松田正平画集』がフォルム画廊から刊行され、東京の銀座・松屋で「松田正平画週出版記念展」を開催。同年三度目のパリ訪問。84年新潮文芸振興会主催の第16回日本芸術大賞を受賞。現代画廊で受賞記念展が開催される。87年山口県立美術館で「松田正平展」を開催。1991(平成3)年山口県立美術館で開催された「戦後洋画と福島繁太郎―昭和美術の一側面」展に代表作13点が出品される。95年舞鶴から郷里宇部市に帰り、制作を続ける。97年よりほぼ毎年菊川画廊で個展を開催。2004年1月、宇部市他の主催による「松田正平展」が宇部市文化会館で開催された。アカデミックな画風からコロー、セザンヌなどの学習を経て、対象を単純化した形体でとらえる素朴で飄逸な画風を確立した。1950年代から日本画壇において抽象絵画の受容が盛んになる中でも、具象絵画の可能性を高く評価し、日本人の描く油彩画を追求し続けた。「現代の仙人」と評される人柄を慕う人々も多く、晩年は後援会が組織され、歿後、同会の主催により菊川画廊で追悼展として「松田正平素描展」が開催された。作品集に『松田正平画集』(フォルム画廊、1983、2003年)、『きまぐれ帖』(阿曾美舎、2003年)、『松田正平素描集』(松田正平後援会発行、2006年)があり、年譜は歿後に刊行された『松田正平素描集』に詳しい。

三山進

没年月日:2004/05/11

読み:みやますすむ  美術史学者・推理小説家の三山進は5月11日、神奈川県逗子市内の病院にて病没した。享年74。 1929(昭和4)年6月22日、兵庫県神戸市に生まれる。49年3月に甲南高等学校卒業。52年3月に東京大学文学部美学美術史学科を卒業し、東京大学大学院人文科学研究科美学美術史学専攻に進学、同修士課程修了のち52年から65年まで鎌倉国宝館学芸員を務める。71年から1991(平成3)年まで跡見学園女子大学教授、同年から94年まで青山学院大学教授を歴任。この間に、川崎市、横浜市、横須賀市、大和市、平塚市等の文化財委員(彫刻)を兼任した。その人柄は温厚篤実で、学生をはじめ研究者の誰からも好かれた。また、こよなく酒を愛し、教壇あるいは講演の壇上にあがる前には、緊張を緩和させるために少量のウイスキーを口にしたことはよく知られている。美術史学会、美学会、密教図像学会会員。なお「久能恵二」のペンネームで推理小説作家でもあったことは斯界ではあまり知られていない。本人もそのことに触れることを好まなかったようである。推理小説作家としてのデビューは59年、30歳の時に『宝石』『週刊朝日』の共同募集に「玩具の果てに」を応募、二等に入選し『宝石』同年10月号に掲載されたことにはじまる。翌年には『暗い波紋』(東都書房、1960年12月)を発表。以後、「土の誘い」(『別冊週刊朝日』1961年7月号)、『手は汚れない』(東都書房、1961年10月)、『日没の航跡』(東都書房、1962年4月)、『偽りの風景』(角川書店、1962年11月)、「愛の歪み」(『推理ストーリー』1962年5月号)、「殺人案内」(『宝石』1964年1月号)、「崩れる女」(『推理ストーリー』1964年4月号)「死者の旅路」(『推理ストーリー』1968年3月号)を著す。このほか本名で鮎川哲也の『蝶を盗んだ女』(角川文庫、1979年)の解説を書いている。なお、「死者の旅路」以後、推理小説を書かなかった理由について、その著『鎌倉と運慶』の「おわりに」のなかで「止めてしまったのはあまり注文がこなく、嫌気がさしてきた、という単純な理由からでしかないが…」と自嘲を込めて述べているが、真意は本人も告白している通り、66年夏の推理作家協会の『会報』に寄せた文のなかで「円覚寺の国宝舎利殿が従来、考えられていたように、鎌倉時代の建物ではなく、室町時代、尼五山第一位太平寺から移されたものであることが証明されるにいたった話である。そして、この経過を親しく見聞しながら私は、推理小説を読む以上の面白さ、興奮を覚えたことであった」と結んだところに求められるであろう。このことは以後、著作の軸足が美術史研究に移行していることからもうかがえる。単著に『日本の神話』(宝文館、1959年)、『称名寺(美術文化シリーズ113)』(中央公論美術出版、1959年)、『鎌倉(美術文化シリーズ103)』(中央公論美術出版、1963年)、『極楽寺(美術文化シリーズ114)』(中央公論美術出版、1966年)、『鎌倉の彫刻』(東京中日新聞出版局、1966年)、『日本神話の口承』(鷺の宮書房、1968年)、『三千院(美術文化シリーズ)』(中央公論美術出版、1970年)、『鎌倉』(学生社、1971年)、『京の寺』(山と渓谷社、1971年)、『名品流転』(読売新聞社、1975年)、『太平寺滅亡』(有隣堂、1976年)、『鎌倉―山渓カラーデラックス―』(山と渓谷社、1978年)、『鎌倉―花と緑とみ仏と―』(佼成出版社、1979年)、『鎌倉古寺巡礼』(実業之日本社、1979年)、『鎌倉と運慶』(有隣堂、1979年)『鎌倉彫刻論考』(有隣堂、1981年)、『鎌倉の禅宗美術(鎌倉叢書第17巻)』(かまくら春秋社、1983年)、『鎌倉みほとけ紀行』(PHP研究所、1986年)、『仏教彫刻-仏像と肖像-(かわさき叢書)』(財団法人川崎市文化財団、1989年)。編著・共著に『鎌倉の肖像彫刻(渋江二郎編)』(鎌倉国宝館図録第8集、1961年)、『石のかまくら』(東京中日新聞出版局、1966年)『鎌倉の仏像(改訂版・貫達人編)』鎌倉国宝館図録第12集、1974年)、『鎌倉むさしのの佛たち』(佼成出版、1976年)『日本古寺美術全集17鎌倉と東国の古寺』(集英社、1981年)、『全集日本の古寺2鎌倉と東国の古寺』(集英社、1984年)、『横須賀市文化財総合調査報告書』第4・5集(横須賀市教育委員会、1984年)、『川崎市彫刻・絵画緊急調査報告書』(川崎市教育委員会、1986年)、『円空巡礼(とんぼの本)』(新潮社、1986年)、『図説日本の仏教4・鎌倉仏教』(新潮社、1988年)、『横浜の文化財-横浜市文化財綜合調査概報(1~15)-』(横浜市教育委員会、1977~2002年)、『鎌倉市史』近世通史編(鎌倉市、1990年)、『平塚の仏像(平塚市文化財研究叢書4)』(平塚市教育委員会、1991年)『川崎市史通史遍1』(川崎市、1993年)、『鎌倉郡の仏像』(横浜市教育委員会、1995年)、『鎌倉の文化財』第15~20集・鎌倉市指定編(鎌倉市教育委員会、1990~2000年)などがある。このほか鎌倉国宝館の学芸員時代に責任編集にあたった『鎌倉地方造像関係史料』全8巻(『鎌倉国宝館論集』11~18、1968~75年)は鎌倉地方の仏師研究には欠くことのできない資料といえる。主要論文のいくつかが『鎌倉彫刻論考』(上掲)に収録されるが、そのほかの代表的論文に「伽藍神像考―鎌倉地方の作品を中心に―」(『MUSEUM』200号、1967年)、「妙高庵観音菩薩坐像について」(『鎌倉』16号、1967年)、「頂相彫刻について―禅宗彫刻論の中―」(『同』17号、1968年)、「幕末の鎌倉仏師後藤真慶」(『同』20号、1971年)、「鎌倉禅刹文殊菩薩像試考」(『同』44号、1983年)、「大慶寺の寺史と彫刻」(『同』52号、1986年)、「禅刹観音菩薩彫像をめぐって―鎌倉の禅刹を中心に―」(『同』60・61号、1989年)、「英勝寺と鎌倉近世造仏界」(『同』70・71号、1993年)、「『仏師職慎申堅メ控』と京仏師林如水」(『同』78号、1995年)、「近世七条仏所の幕府御用をめぐって―新出の史料を中心に―」(『同』80号、1996年)、「十劫寺不動明王像と仏師泉円」(『金沢文庫研究』151号、1968年)、「『沙石集』から見た鎌倉地方仏師」(『同』163号、1969年)、「東国の宅磨派―十四・五世紀を中心に―」(『同』180号、1971年)、「中世塑造像に就ての一考察―大休正念の語録を中心に―」(『同』210号、1973年)、「浄智寺本尊像考」(『同』278号、1987年)、「宝冠釈迦如来像考―円覚寺仏殿本尊を中心に―」(『国華』927号、1970年)、「東国における運慶―浄楽寺諸像を中心に―」(『同』940号、1971年)、「神武寺の彫刻と絵画」(『三浦古文化』10号、1971年)、「禅刹仏殿本尊像小考」(『同』16号、1974年)、「金龍禅院の歴史と彫刻」(『同』37号、1985年)、「光明寺の諸像(薄井和男と共著)」(『同』39号、1986年)、「仏師快円考」(『史迹と美術』388輯、1968年)、「寿閑寺の近世日蓮宗彫刻」(『同』538輯、1983年)、「仏師弘円について」(『美学』71号、1967年)、「仏師弘円考」(『跡見学園女子大学紀要』1号、1968年)、「運慶と東国―下向非下向の問題」(『同』3号、1970年)、「«異相なる僧像»をめぐって―跋陀婆羅尊者彫像小考―」(『跡見学園女子大学美学美術史学科報』4号、1976年)、「仏師弘円考」補遺」(『同』17号、1989年)、「大和市の彫刻」(『大和市研究』1・2号、1975・76年)「正統院木造仏国国師坐像について(清水眞澄と共著)」(『仏教芸術』107号、1976年)などがある。

奈良岡正夫

没年月日:2004/05/05

読み:ならおかまさお  日展参与、示現会会長の洋画家奈良岡正夫は5月5日午前4時、肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。享年100。堅実な描写力と対象への親密なまなざしによって独自の画風を確立した奈良岡は、1903(明治36)年6月15日、中津軽郡豊田村に生まれた。本名政雄。父は村役場職員と農業を兼業していた。1915(大正4)年中津軽郡外崎尋常小学校を卒業。18年中津軽郡玉成高等小学校を卒業。この頃からねぷた絵の制作に熱中するが、長男として生家の農業を継ぐことを期待されており、19年ころ画家を志して家出する。しかし、一年で連れ戻されて農業に従事。そのかたわら、22年棟方志功らが結成した青光社に参加し、絵画制作を続ける。25年画家を志して上京。本郷絵画研究所に入るが、そこでの指導と環境に満足できず、初日で退学。その後弁護士の書生、青果市場内の製氷問屋などで働き、生計を支えながら、独学で絵を学ぶ。1940(昭和15)年3月第36回太平洋画会展に「豊秋」で入選。これを皮切りに、特定の団体にこだわらず、数多くの団体展に出品して入選を続けるようになる。40年第12回第一美術協会展に「田賀風景」、第14回構造社展に「漁村」を出品。翌年第18回白日会展に「早春ノ山」、第9回旺玄会展に「湖畔晴日」「湖畔の春」「早春の山路」、第13回第一美術協会展に「新緑の里」、また、第3回現代美術協会展に「閑日」、第15回新構造社展に「二人の老人」で入選する。42年第19回白日会展に「提灯屋さん」、第38回太平洋画会展に「水に住む」、第29回光風会展に「けしの花」、第12回独立美術協会展に「訊問」「水に住む」、第10回東光会展に「勤労奉仕」、第14回第一美術協会展に「閑日」、第29回二科展に「征途」、第2回創元会展に「驢馬と子供」、第16回新構造社展に「網代風景」が入選。また、同年第6回大日本海洋美術展に「漁夫」、第2回大日本航空美術展に「飛行機ノお話」「防空壕」、第1回大東亜戦争美術展に「北方を護る人々」「弾丸を磨く」で入選する。43年第20回白日会展に「子供隣組」「巌峯進軍」を出品して佳作賞を受賞したほか、第39回太平洋画会展に「兎と子供」「古物商」「童心」「地引」で入賞し、褒賞受賞。また、第7回大日本海洋美術展に「漁夫」「地曳」を出品して大臣賞受賞。同年決戦美術展に「アッツ島上陸」で入選する。また、第3回大日本航空美術展に「救護(一)」「救護(二)」を出品し、「救護(一)」によって大日本航空美術協会賞を受賞。第2回大東亜美術戦争美術展に「突撃」を出品する。この年、陸軍省報道部派遣命令により、中支に派遣される。44年1月ソヴィエト満州国境に3ヶ月間、北支に3ヶ月間派遣される。同年、第40回太平洋画会展に「工場」を出品して同会会員となる。また、陸軍美術展に「兵隊と良民」「昭和18秋太岳作戦(勝兵団戦闘司令部)」、第8回大日本海洋美術展に「漁期に入る」を出品。45年陸軍作戦記録画展に出品。戦地から帰った際に牛や山羊ののどかな姿に打たれ、以後、これらを描き続ける。戦後、46年第1回日展に「牛宿」で入選。47年太平洋画会から分離独立して示現会が結成されるのに際し、創立会員として参加し、以後、日展とともに同会に出品を続ける。54年第10回日展に「山羊」を出品し特選を受賞。56年第12回日展に「山羊」を出品して再び特選を受賞、62年日展会員となる。64年から70年まで隔年で、東京日本橋三越で個展を開催所で個展を開催。69年6月渡欧。70年6月青森市松木屋で、同年11月弘前市青森銀行記念館で画業50年展を開催。この頃から、郷里の夏祭りねぷたを題材とした作品を多く制作するようになる。79年日展参与となり同年青森市民展示館で「画業60年展」、1991(平成3)年東京の銀座松屋で「米寿記念奈良岡正夫展」、青森市松木屋で「画業70年米寿記念展」を開催。94年示現会会長となり、同年11月青森市松木屋で「松木屋創立45周年記念特別企画 示現会会長就任記念奈良岡正夫個展」を開催。97年、洋画家中村彝を記念し、名利を求めず画業に精進する60歳以上の画家を顕彰する中村彝賞の第5回受賞者となる。99年茨城県近代美術館で「中村彝賞記念 変幻自在流 大沢昌助・じょっぱりの画人 奈良岡正夫展」が開催された。年譜、文献目録は同展図録に詳しい。2000年画業80年展を青森市で開催し、01年白寿記念展を三越本店にて開催した。「描く対象に対する愛情がなければ絵にはできない」と語り、子供をいつくしむ山羊や幼い頃から親しんだ郷里のねぷた祭を好んで描いた。生涯、納得のできる絵画を目指し、対象の再現的描写を基本とするが、タブローを描くにあたっては構図を知的に組み立てるなど、絵画の自立性を踏まえた制作をつづけた。

加山又造

没年月日:2004/04/06

読み:かやままたぞう  日本画家の加山又造は4月6日午後10時25分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年9月24日、京都市上京区相国寺東門前町に、西陣織の衣装図案家の父加山勝也、母千恵の長男として生まれる。祖父は京狩野派の画師。44年京都市立美術工芸学校絵画科を修了後、東京美術学校日本画科に入学。45年学徒動員で学業を中断するが、翌年再開し、49年同校を卒業、山本丘人に師事する。丘人らが結成した創造美術の第2回展に「風神雷神」を出品するも落選。50年早々より創造美術の研究会に出席、その年の春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選し、研究会賞を受賞する。51年創造美術が新制作派協会に合流、新制作協会日本画部となって以後、同年第15回新制作展で『ライフ』誌でみたラスコー洞窟の壁画に触発されて制作した「原始時代」が新作家賞を受賞、同会会友となる。次いで53年第17回展「月と犀」等四点、54年第18回展「悲しき鹿」「迷える鹿」、55年第19回展「駈ける」が連続して新作家賞を受賞、56年同会会員となる。この時期、動物をモティーフにシュルレアリスムや未来派等、ヨーロッパの造形手法を果敢に取り入れた作風を展開、戦後日本画の革新的傾向を代表するものとして大きな注目を浴びた。58年第2回グッゲンハイム賞国際美術展に「飛翔」を出品、川端実、山口長男らとともに団体賞を受賞した。57年にはその後親交を結んだ横山操を知り、58年ごろから縣治朗に切金の技術を学ぶ。59年には村越画廊の主催により横山操、石本正と轟会を結成。この頃より61年第25回新制作展「火の島」等、大画面を中心とした装飾的な画風へ移行。65年には大阪・金剛寺所蔵の「日月山水図屏風」に想を得た第29回新制作展「夏冬山水」および翌年の第30回展「春秋波濤」、さらに67年第9回日本国際美術展「雪月花」、70年第34回新制作展「千羽鶴」など、大和絵や琳派の技法を鋭い現代的感性のもとに展開した作品を発表、73年日本芸術大賞を受賞、74年創画会発足とともに会員となった。78年東京国立近代美術館の吹き抜けを飾る壁画として「雪・月・花」を八年越しで完成。“現代の琳派”と称され、幅広い人気を集める一方で、70年代には「黒い薔薇の裸婦」「白い薔薇の裸婦」等、繊細な線描による裸婦像で女性美を追求。また70年代末からは水墨表現に本格的に取り組み、身延山久遠寺本堂天井画「墨龍」(84年)などを発表。技術的には染色手法からエアガン、バイブレーター噴霧器まであらゆる技法を駆使しつつ、北宋山水に私淑し90年前後より倣作を行った。その他にも陶板壁画や緞帳、ジャンボ機や客船の内装デザイン、BMW社から依頼されたアートカーのデザインなど、工芸的な仕事に幅広く挑戦している。66~73年、77~88年に多摩美術大学教授、88~95年に東京芸術大学教授をつとめ、80年、前年の第6回創画会出品作「月光波濤」により芸術選奨文部大臣賞、82年第1回美術文化振興協会賞を受賞。1995(平成7)年東京芸術大学名誉教授、97年文化功労者となる。同年天龍寺法堂の天井画「雲龍」が完成。98年には東京国立近代美術館で回顧展が開催された。2003年文化勲章受章。

山崎隆

没年月日:2004/03/31

読み:やまざきたかし  日本画家の山崎隆は3月31日午前10時18分、肺がんのため京都市東山区の病院で死去した。享年88。 1916(大正5)年1月2日、京都市に生まれる。1933(昭和8)年京都市立絵画専門学校入学、梥本一洋に師事。在学中に田口壮や西垣壽一らと新日本画研究会結成に参加。36年京都市立絵画専門学校を卒業し、同校研究科に入学。37年日華事変に応召するが、翌年中国北部で負傷し召集解除。39年には新日本画研究会から派生した歴程美術協会の第1回試作展に新会友として、バウハウスの影響が色濃い幾何学的構成の「象」や「コルサージュ」を出品。翌年同協会の会員となり、42年の第8回展まで出品を続け、その間「扇面ちらし」(40年第3回展)等日本の伝統的な形式を取り入れながら“構成”を主眼とした室内装飾を度々試みている。41年京都市立絵画専門学校研究科を卒業。42年に太平洋戦争に応召し、戦後46年に復員。京都市立絵画専門学校の後輩三上誠と歴程美術協会の再建を期し48年三上、星野真吾、不動茂弥、八木一夫らとともにパンリアルを、翌年日本画家だけでパンリアル美術協会を結成した。同協会では樹幹、亀甲、岩山などのモティーフを通して東洋の神秘思想を掬う作品を発表、また歴程時代に修得した、ホルマリンを用いてより自由に日本画材を扱う手法をパンリアルの仲間に伝えるなど、戦前における前衛的日本画との橋渡し的役割も果たした。57年京都美術懇話会に入会、翌年パンリアル美術協会を離れ、以後無所属で活動を続けた。戦中戦後の前衛的な画業については、88年の山口県立美術館「日本画・昭和の熱き鼓動」展、1994(平成6)年のO美術館「日本画の抽象―その日本的特質」展、99年の京都国立近代美術館「日本の前衛―Art into Life 1900-1940」展等の企画により改めて脚光を浴びることとなった。

田中幸人

没年月日:2004/03/26

読み:たなかゆきと  熊本市現代美術館長で、美術評論家の田中幸人は、3月26日すい臓癌のため死去した。享年66。 1937(昭和12)年、福岡県久留米市に生まれる。54年、佐賀県立伊万里高校から福岡県立修猷館高校に編入学。56年に同校卒業、翌年九州大学文学部に入学。61年に同大学文学部哲学科を卒業、同年毎日新聞社に入社。同社西部本社報道部に配属、大牟田通信部、西部本社報道部を経て65年に学芸課に転出した。以後、美術を中心に記者生活を送る。当時、菊畑茂久馬等の「九州派」といわれた福岡と中心とする現代美術の新しい動向に対して共感をもって精力的に取材を重ねて記事とした。81年には、同僚記者であった東靖普と連載記事をまとめて『漂民の文化誌』(葦書房)を刊行。この後、同社東京本部に転勤し、以後10年間美術担当編集委員として同新聞に美術批評を執筆した。東京での批評活動では、従来の公募団体展中心から画廊等で開催される中堅、若手の個展へと対象を一変させ、そこから書きつづけられた膨大な批評記事は、視野の広さと鋭い視点に裏付けられた同時代の良質のドキュメントとなっているといってよい。1991(平成3)年に同新聞社を退社、同年埼玉県立近代美術館長に就任、2000年まで勤める。同美術館時代には、積極的に現代美術の企画展に参画した。2000年、熊本市現代美術館設立のために招かれ、02年4月から初代同美術館長となり、その在任中の死去であった。没後、遺稿集として『感性の祖形―田中幸人美術評論集』(「田中幸人遺稿集」刊行委員会編、弦書房、2005年3月)が刊行された。装飾古墳壁画をはじめ民俗学、人類学にも造詣が深く、そうした幅広い視点と現場での取材に徹した現代美術批評として特色があり、また後年は美術館人としても、近年の美術館をめぐる厳しい状況に対して真摯で提言的な発言を最後までつづけていた。

中野弘彦

没年月日:2004/03/04

読み:なかのひろひこ  日本画家で成安造形大学名誉教授の中野弘彦は3月4日午前2時20分、肺炎のため京都市伏見区の病院で死去した。享年76。1927(昭和2)年4月3日、山口県に生まれる。45年京都市立美術工芸学校を卒業。52年第16回新制作展に「風景」が初入選。その後、絵を描くことをやめ、57年立命館大学文学部哲学科哲学専攻を卒業し、59年京都大学文学部哲学科美学美術史学専攻で国内留学修了。67年には中断していた絵画制作を本格的に再開し、70年新制作春季展賞、70・73年京展市長賞、74・76~78・80年創画会春季展賞、75年フランス美術賞展佳作、76年スペイン美術賞展優秀賞と受賞を重ねる。78年には第1回東京セントラル美術館日本画大賞展で「西行」が優秀賞、京都府主催の京都美術展で大賞、続いて79年、鴨長明に自分の心象世界をオーバーラップさせた「方丈記」により第5回山種美術館賞展優秀賞を受ける。82年京都・朝日会館画廊、83年東京画廊及びギャラリー上田で個展開催。1989(平成元)年何必館・京都現代美術館での個展「藤原定家と鴨長明の無常」以降は同館にて96年「山頭火と芭蕉」、2003年「無常 存在の根源を観る」を開催。泥絵具系を基軸に、ボールペンやサインペン、鉛筆などを使用しながら樹や植物、家、そして空気を澄明な色彩の中に再構成し、日本の精神文化、とりわけ無常を視覚化するという形而上学的な絵画世界を築いた。90年第3回京都美術文化賞を受賞、翌年その受賞記念展を京都府文化博物館で開催。93年から97年まで成安造形芸術大学教授に就任。93年京都府文化賞功労賞を、98年京都市文化功労者賞を受賞。93・95・97年には資生堂が主催する椿会展に招待出品。98年には京都市美術館で回顧展「中野弘彦―無常をめぐる」が開催された。また1984~86年に雑誌『新潮』の表紙絵を担当、86年に『宮沢賢治童話の世界』を出版している。

仲村進

没年月日:2004/02/20

読み:なかむらすすむ  日本画家の仲村進は2月20日午後6時51分、肺炎のため長野県飯田市の病院で死去した。享年74。  1929(昭和4)年3月4日、長野県飯田市松尾に農家の二男として生まれる。43年14歳の時、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り、原始林に囲まれて牛や馬と一体になって土地を耕すという、のちの絵画表現の原体験となる生活を送る。外地で終戦を迎え、46年に帰国。帰郷後、郷里の南画家片桐白登の絵画教室に通い、52年より長野県美術展に入選、出品するようになり、53年第6回展に「市場の見える風景」で信州美術会賞を受賞。54年第18回新制作展に「夕の賛歌」が初入選、以後8回入選、春季展賞受賞。その間夜警の仕事をしながら、60年より隣村出身の日本画家亀割隆の紹介で、日展作家である高山辰雄の研究会にその都度上京して参加するようになり、66年には第9回新日展に「陶工」が初入選、以来日展に出品する。73年改組第5回展で「雪の日」、79年第11回展で「農夫と馬」が特選、84年第16回展で「大地」が会員賞受賞。71年から74年まで高山辰雄門下による日本画七人展を開催、77年にはほぼ同メンバーによりグループ湧展を立ち上げる。この間78年銀座・資生堂ギャラリーにおける初個展が好評を博し、81年「西に向う牛群」により第6回山種美術館賞大賞を受賞。しかしその評価に安住することなく、受賞直後には板に直接線刻を入れ着彩する方法を試み、85年の個展では風景をモティーフに変革を見せる。1994(平成6)年には「残照の地」で第26回日展内閣総理大臣賞を受賞。生涯郷里で農業に従事しながら制作を行う姿勢を貫き、94年個展「故里山河」では里山への愛惜を込めた屏風等を、99年個展「大地・牛哀歌」では風景から再び牛のモティーフへと立ち戻るものの、赤と黒を基調に生命感溢れる連作を発表した。逝去した2004年には遺族より作品35点が飯田市美術博物館へ寄贈、06年には同館にて回顧展が開催されている。

清水卯一

没年月日:2004/02/18

読み:しみずういち  陶芸家で鉄釉陶器の重要無形文化財保持者の清水卯一は、2月18日午後11時、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現、大津市)八屋町の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月5日、京都市東山区五条橋に、京焼陶磁器卸問屋を営む父清水卯之助、母モトの長男として生まれる。11歳のときに父が病死し、1938(昭和13)年に家業を継ぐため立命館商業学校へ入学するが、作陶に興味を抱き、近隣の轆轤師宮本鉄太郎らを知る。40年には同校を2年修了とともに中退し、14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子となる。しかし戦時体制の強化に伴い、数ヶ月で五条坂から八瀬への通い弟子を中断し、自宅に轆轤場を設けて作陶を始める。翌年、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所し、日根野作三、水町和三郎らの指導を受ける。43年には京都市立工業試験場窯業部の助手となるが、終戦を機に辞職し、自宅を工房にして作陶を再開。47年、前衛的な陶芸家集団「四耕会」の結成に参加。また49年には、「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加する。51年には第7回日展に初入選し、以後、55年の第11回展まで出品。同年、第2回日本伝統工芸展に石黒の推薦を受けて出品し、以後、活動の場とし、57年には日本工芸会正会員となる。翌年の第5回展の奨励賞をはじめ、第7回展では日本工芸会総裁賞、第9回展では優秀賞朝日新聞社賞を受賞するなど、若手の実力派としてふさわしい創作性豊かな作品を発表し評価を得る。またこの間、55年には日本陶磁協会が新設した第1回日本陶磁協会賞を受賞。海外展においても、59年のブリュッセル万国博覧会でグランプリ受賞をはじめ、62年のプラハでの国際陶芸展で金賞、63年のワシントン国際陶磁器展で最高賞、67年イスタンブール国際陶芸展でグランプリを受賞するなど、めざましい活躍をみせる。この頃の作品は主に、鉄釉や柿釉、天目などの鉄釉系技法に基づくもので、轆轤挽きによる端正なフォルムと融合させて独自の世界をつくり上げた。70年には、滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ工房を移転し、念願であった登窯を築窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、さまざまな作品を制作する場とする。この移転が転機となり、自宅周辺で採集した陶磁器に適した土や釉薬を新たな素材として加え、さらに作域を広げる。73年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでのすぐれた制作の展開に対する評価によって20周年記念特別賞を受賞。その後も土と釉薬の研究に情熱を傾け、青瓷、鉄耀、蓬莱耀、蓬莱磁など、伝統的な技術と豊かな創造力による意欲的な作品を次々に発表し高い評価を受ける。85年には石黒宗麿に続いて二人目となる、「鉄釉技法」で重要無形文化財保持者に認定される。1989(平成元)年、ポーラ伝統文化振興財団が記録映画「伝統工芸の名匠シリーズ・清水卯一のわざ-土と炎と人と」を制作。92年には京都市文化功労者表彰を受ける。99年、1940年から1998年までの作品147点を滋賀県立近代美術館に寄贈。とくに認定後は、日ごろの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を説きながら、若手陶芸家の指導に蓬莱窯を開放するなどして、積極的に後進の育成にも尽力した。

杉本健吉

没年月日:2004/02/10

読み:すぎもとけんきち  洋画家の杉本健吉は、2月10日午前5時52分、肺炎のために名古屋第二赤十字病院で死去した。享年98。1905(明治38)年9月20日、名古屋市に生まれる。1919(大正8)年津島尋常小学校を卒業後、愛知県立工業学校図案科に入学。23年同校を卒業し、25年に兵役検査を受けるまで織物商で図案を描きながら制作を行う。25年、敬慕する岸田劉生を京都に訪ね師事した。第1回展に落選した春陽会に、26年第4回展で「花」「静物」が初入選。翌1927(昭和2)年には第1回大調和会にも出品。31年に初出品した後国画会展に出品を続け、38年同人になる。名古屋市内の広告スタジオ勤めを経て29年に図案家として独立、観光関係のポスター制作も行った。また岸田の没後、35年には椿貞雄の紹介で梅原龍三郎を訪ね私淑している。40年頃から訪れるようになった奈良では、寺院や仏像、風物などのモチーフの他に、幅広い人間関係を得る。49年には上司雲海師の知遇を機縁に、東大寺観音院の古い土蔵をアトリエとして使うようになり、ここで會津八一や入江泰吉らと出会う。またそれらの交流の中から、吉川英治の連載小説『新・平家物語』の挿絵を担当した。7年にわたった『週刊朝日』誌上でのこの連載は、挿絵画家としての杉本を著名にした。その後も58年には吉川の連載小説『私本太平記』、『新・水滸伝』の挿絵を描く。戦前の修業時代には鉛筆を片時も離さなかったという杉本は、素描を大切にし、ジャンルや画材、描法にとらわれず、水彩や水墨、油彩などそれぞれの特徴を生かして感興を表現した。それらは時におおらかな、時に繊細な筆遣いによくあらわれている。62年以降はインド、中近東、南ヨーロッパを皮切りに、中国、韓国、スペインなど各地を訪れ、多くのスケッチを残している。そのほか、83年には大阪四天王寺太子絵堂障壁画を完成させている。国画会は第二次大戦による休止を挟んで69年の43回まで連続して出品、71年に同会を退会、無所属となる。この間、42年第5回新文展では特選を受賞。46年の第1回日展に出品、第2回日展では特選を受けている。昭和20年代から画廊や百貨店での個展も多数開催し、1994(平成6)年には愛知県美術館で「杉本健吉展 画業70年のあゆみ」と題された大規模な展覧会も開かれた。87年には愛知県南知多に杉本美術館が、94年には新館も開設された。出版物は秋艸道人(會津八一)歌、杉本画で54年『春日野』(文芸春秋社)があるほか、画集は60年『墨絵奈良』(角川出版)、67年『幻想奈良』(求龍堂)、81年『杉本健吉素描集』(朝日新聞社)など多数。48年に第1回中日文化賞を受賞している。

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