金山明

没年月日:2006/09/02
分野:, (美)
読み:かなやまあきら

 元具体美術協会会員で、現代美術家の金山明は9月2日、肺がんのため、三重県川越町の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年、兵庫県尼崎市に生まれる。1947(昭和22)年に多摩美術大学を中退、大阪市立美術研究所に学ぶ。ここで52年に、同研究所で学んでいた村上三郎白髪一雄等とともに0会結成、また後に妻となる田中敦子(1932―2005)を知る。54年、0会展を大阪そごう百貨店で開催。55年、第7回読売アンデパンダン展(会場、東京都美術館)、「真夏の太陽にいどむモダンアート展(芦屋市美術協会主催、会場、芦屋川畔、同展の40数名の出品者中、前年結成の具体美術協会のメンバーが23名参加していたことから同協会の第1回野外展とされている)。同年10月、第1回具体美術展を東京で開催(会場、小原会館)、金山は、作品として白い巨大なアドバルーンと赤い電光を天井からつり下げ部屋全体を赤く照らす「たま」を室内に展示した。具体美術協会の展覧会では、従来の絵画、彫刻の概念を超えるために、素材や身体性を過剰なまでに強調した作品、あるいはパフォーマンスが注目されたが、金山の作品は、それとは逆に展示される「空間」そのものを意識させたという点で、むしろ具体のメンバーたちに強い影響をあたえた。当時のメンバーのひとりである嶋本昭三は、この金山の出品作について、つぎのように述べていることからも了解される。「一つの作品は巨大なアドバルーン状のもので部屋の天井から床までとどくようなものが会場の真中にどすんと居座っているのです。形そのもののもつ異様な感じもさることながら、会場全体に、もうこれ以上大きくはなれない、というような精一杯はち切った感じは正に奇観です。(中略)作品のこのような提示方法は美術の一つの在り方として、画期的なものであると思うのです。」(「金山明氏の『たま』」、『具体』4号、56年7月より)このように金山は、身体による表現性を抑制し、作品が置かれた空間、環境を鑑賞者に意識させる作品を発表し続け、1965年の第15回具体美術展まで毎回出品をつづけた。68年から翌年にかけて、アメリカ、カナダを巡回した「エア・アート」展に出品。80年代以降は、81年の「現代美術の動向Ⅰ 1950年代 その暗黒と光芒」展(東京都美術館)、85年の「絵画の嵐・1950年代―アンフォルメル・具体・コブラ」展(国立国際美術館)、86年の「前衛芸術の日本1910―1970」展(パリ、ポンピドーセンター)、1990(平成2)年の「具体―未完の前衛集団」展(渋谷区立松涛美術館)等、日本の戦後美術、あるいは具体美術協会の活動の再評価と検証を試みる各地の企画展に、その作品が出品された。93年には、「エア・アート」展以来の新作として「金山明 第1回個展 1950/1992」を名古屋市の「ギャラリーたかぎ」で開催した。この個展には、クラシック音楽をアナライジング・レコーダーによって記録された振動を視覚化し、作品として出品した。ここでも、人為的な関与を最小限にとどめ、ミニマルなかたちで音楽の視覚化としての「絵画」を制作した。具体美術協会の創立メンバーながら、その創作活動は、コンセプチュアルアートの先駆けをおもわせる、一貫して概念的で知的な思索と行為から生まれ、その点からも寡黙だがユニークな芸術家であった。没後の2007年1月、豊田市美術館にて「金山明」展が開催され、その芸術が初めて回顧された。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(376-377頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「金山明」『日本美術年鑑』平成19年版(376-377頁)
例)「金山明 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28374.html(閲覧日 2024-04-19)

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