本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





稲越功一

没年月日:2009/02/25

読み:いなこしこういち  写真家の稲越功一は2月25日、肺腺がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年68。1941(昭和16)年1月3日岐阜県高山市に生まれる。本名幸一。広告会社にグラフィックデザイナーとして勤務した後、70年有限会社イエローを設立し、フリーランスの写真家として活動を始める。71年、アメリカに取材した最初の写真集『Maybe, maybe』(求龍堂)を出版。繊細な感覚のストリートスナップで注目され、73年の『meet again』(写真評論社)ではテレビ画面のみを撮影するなど、社会性や政治性を捨象した新鮮な映像感覚の初期作品により評価を得た。雑誌等のエディトリアルな仕事も多くてがけ、とくに芸能人や歌舞伎役者を中心とする肖像写真には定評があった。シリーズ「男の肖像」(写真集は集英社刊、1981年)により80年第11回講談社出版文化賞写真賞を受賞。主要な写真集に『男の肖像』(集英社、1981年)、『女の肖像』(文藝春秋社、1984年)、『Ailleurs』(フランス コントルジュール社、1993年)、『使いみちのない風景』(朝日出版社、1994年、のち中公文庫、1998年)、『平成の女たち』(世界文化社、1996年)、『三大テノール日本公演公式写真集』(選択エージェンシー、1997年)、『アジア視線』(毎日新聞社、1999年)、『野に遊ぶ魯山人』(平凡社、2003年)、『まだ見ぬ中国』(NHK出版、2008年)など。文章の書き手としてもすぐれ、多くの写真集に自らつづったエッセイを収載した。『風の炎 稲越功一―印度朱光』(キヤノンクラブ、北欧社、1980年)や『記憶都市』(白水社、1987年、同年同題の個展を渋谷西武シードホールで開催)、『Out of Season INAKOSHI 1969―1992』(用美社、1993年)などにまとめられた叙情的な風景写真の仕事は、ライフワークとして続けられ、晩年は松尾芭蕉の足跡をたどる旅をモティーフとした「芭蕉景」と題するシリーズにとりくんでいたが、生前最後の個展となった「芭蕉景」(ライカ銀座店サロン、2009年)の会期中に死去。当初は自らも企画に加わっていた個展「Mind’s Eye 心の眼―稲越功一の写真」(東京都写真美術館、2009年)が死去の半年後に開催され、あわせて同題の写真集(求龍堂)が刊行された。

平木収

没年月日:2009/02/24

読み:ひらきおさむ  写真評論家、九州産業大学教授の平木収は2月24日、食道がんのため福岡市内の病院で死去した。享年59。1949(昭和24)年8月7日京都府与謝郡宮津町(現、宮津市)に生まれる。京都市伏見区で幼少期を過ごし68年京都府立桃山高等学校卒業。72年早稲田大学第二文学部に入学、77年卒業(美術史専修)。少年時代より写真に関心を持ち、大学在学中の76年3月に東京綜合写真専門学校研究科の学生であった谷口雅らと新宿百人町に自主ギャラリー「フォトギャラリー・プリズム」を開設、77年10月の活動終了までに二度の個展(「レオナルドにならいて」、1976年、「写真機は文房具かなあ」、1977年)を開催する。大学では写真の芸術性について研究し、二つの個展が写真論的な視点にもとづくものであったことにも表われているように、写真をめぐる理論や歴史研究にも早くから幅広い関心をもち、75年『カメラ毎日』誌(6月号)に初めての評論「フォルカー・カーメン著『芸術としての写真』エネルギッシュな収集、対比の妙」を寄稿、80年『日本カメラ』誌において写真展評の連載を始め、実作から評論・研究へと軸足を移す。以後、同誌や『アサヒカメラ』誌などに多くの写真展評、書評などを寄稿、写真評論家として活動する。その評論活動は写真展や写真集などを丹念に実見するフィールドワークに基づくものであり、78年の初の渡欧以降、晩年に至るまでパリ写真月間、アルル写真フェスティバルをはじめとする写真関連の催しの取材や写真研究のため、欧米やアジア諸国にたびたび渡航するなど、そのフィールドは広く海外にも及んだ。85年にツァイト・フォト・サロンにより期間限定で開館した「つくば写真美術館’85」で開かれた「パリ・ニューヨーク・東京」展(つくば写真美術館’85の会期終了後、宮城県美術館に巡回)では、キュレーター・グループの一員として展覧会の企画・運営に携わり、主として19世紀の写真を担当。87年には川崎市教育委員会市民ミュージアム準備室嘱託となり、川崎市市民ミュージアムの設立準備に従事、88年同ミュージアム開館に際し学芸第二室写真部門担当学芸員に就任、1994(平成6)年同学芸主任を辞するまで同ミュージアム写真部門で「写真家・濱谷浩展」(1989年)、「ルイス・ボルツ 法則」(1992年)など多くの写真展を担当する。退任後も、「ピュリツァー賞写真展二〇世紀の証言」(Bunkamuraザ・ミュージアム他、1998年)など多くの写真展を企画・監修した。81年には東京綜合写真専門学校の非常勤講師となり、以後、日本写真芸術専門学校、武蔵野美術大学、京都造形芸術大学、早稲田大学、同芸術学校、玉川大学、東京藝術大学、東北芸術工科大学などで非常勤講師を務め写真史などを講じる。02年早稲田大学芸術学校客員教授に就任(06年3月まで)。05年には九州産業大学芸術学部教授に就任し、死去の直前まで学生の指導にあたった。原点としての実作者としての活動に始まり、評論家、キュレーター、教育者など、平木の写真に関わる広範な活動は、彼自身の造語「フィログラフィー(画像学)」に見られるように、狭義の写真史・写真研究にとどまらない、より広範な文明史的文脈のなかに写真を位置づけ、また畏敬し、享受しようとする柔軟な態度に貫かれていた。写真への尽きせぬ関心をさまざまな方法で伝え続けたその多面的な仕事を通じて、指導を受けた学生だけでなく、写真家や写真研究者にも平木の薫陶を受けたものは多い。そうした功績に対し、99年に日本写真文化協会功労賞、死去の翌年第60回日本写真協会賞功労賞が授与された。単著に『映像文化論』(武蔵野美術大学出版局、2002年)、遺稿集『写真のこころ』(『写真のこころ』編集委員会〔佐藤洋一、竹内万里子、徳山喜雄〕編、平凡社、2010年)がある。また09年5月に東京・市谷で開かれた「お別れの会」に際して刊行された『平木収 1949―2009』に詳細な年譜、執筆文献リストが収載されている。

大山忠作

没年月日:2009/02/19

読み:おおやまちゅうさく  日本画家で文化勲章受章者の大山忠作は2月19日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。1922(大正11)年5月5日、福島県安達郡二本松町字下ノ町(現、二本松市根崎)の染物業を営む家に生まれる。小学校卒業後上京、名教中学を経て40年東京美術学校日本画科に入学する。44年学徒出陣のため繰上げ卒業となり航空部隊に配属、南方を転戦し46年台湾から復員した。同年の第31回院展に「三人」が入選、また第2回日展に美校の師小場恒吉を描いた「O先生」が初入選、以後落選を経験することなく日展に入選を続ける。47年高山辰雄らの一采社に参加、同年より山口蓬春に師事する。またこの年、法隆寺金堂壁画模写に橋本明治班の一員として参加し、第九号壁を担当。49年第5回日展に「群童」、50年同第6回に「室内」等人物画を出品し、52年第8回日展では「池畔に立つ」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。翌年の第9回日展に「浜の男」を無鑑査出品し、55年第11回日展で「海浜」が再び特選・白寿賞を受賞する。61年日展会員となる。67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事、第十一号壁の普賢菩薩を担当。68年第11回日展の「岡潔先生像」で文部大臣賞を受賞。川越喜多院の五百羅漢に取材し、72年の第4回改組日展に出品した「五百羅漢」により73年、日本芸術院賞を受ける。70年日展評議員、75年理事となる。78年より2年をかけて成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」28面を制作、84年には同襖絵「杉・松・竹」22面を完成させる。人物画をはじめとして、花鳥、風景等さまざまな主題を手がけながら、抑制の効いた色調と堅牢な古典的形態による画風を展開した。86年日本芸術院会員となる。87年福島県立美術館で「大山忠作展・画業40年の歩み」開催。1992(平成4)年日展理事長に就任。同年成田山新勝寺聖徳太子堂壁画6面を完成。99年文化功労者に選ばれる。2005年日展会長に就任。06年には文化勲章を受章。07年に二本松市へ自作169点を寄贈、没後の09年10月、二本松市市民交流センター内にそれらの作品を中心に収蔵展示する大山忠作美術館が開館した。画集に『大山忠作画集』(講談社、1982年)、『大山忠作画集』(朝日新聞社、1994年)がある。

今井寿恵

没年月日:2009/02/17

読み:いまいひさえ  写真家の今井寿恵は2月17日、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年77。1931(昭和6)年7月19日東京市に生まれる。52年文化学院美術科卒業(油絵専攻)。父が銀座松屋の営業写真室を運営しており、父の知人の勧めもあって、文化学院卒業後に写真制作を始め、56年に初個展「白昼夢」(松島ギャラリー)を開催。カラーフィルムを用いた幻想的な作風で注目され、ファッション雑誌などの仕事と並行して、「心象的風景」(富士フォトサロン、1957年)、「ロバと王様とわたし」(月光ギャラリー、1959年)、「オフェリアそのご」(小西六ギャラリー、1960年)などの個展を開催。フォトモンタージュなどの技法を用いたフォトポエムと評される作品は、50年代初頭に隆盛したリアリズム写真運動から、主観主義写真など、より写真家個人の視点や内面に立脚し、造形的な側面も重視する写真表現へと移行していく当時の日本の写真界において高く評価され、59年には第3回日本写真批評家協会賞新人賞(個展「ロバと王様とわたし」に対して)、60年にはカメラ芸術賞大賞をそれぞれ受賞した。62年には評論家福島辰夫が中心になって企画した「NON」展(銀座松屋)に参加。しかし同年に交通事故に遭い、一時失明状態になるなどの後遺症のため制作活動を数年間休止する。交流のあった寺山修司の誘いで競馬場を訪れたことなどをきっかけに馬に関心を持ち、70年にイギリスで当時全盛期を迎えていた競走馬ニジンスキーに出会ったことからサラブレッドという新たなモティーフを得て、写真家としての活動を本格的に再開、71年個展「馬に旅して」(ニコンサロン)を開催した。以後、サラブレッドや騎手など、世界各地で競走馬をめぐる撮影を重ね、新たな評価を確立した。77年に出版した写真集『通りすぎる時―馬の世界を詩う』(駸々堂)により78年第28回日本写真協会賞年度賞を受賞。また2004(平成16)年にはJRA(日本中央競馬会)創立50周年に際し、特別表彰を受けた。主な写真集に『テンポイント』(駸々堂、1978年)、『シンボリルドルフ』(角川書店、1985年)、『サラブレッド讃歌』(玄光社、1987年)、『夢を駆けるトウカイテイオー』(角川書店、1994年)、『武豊』(角川書店、1994年)などがある。

伊東傀

没年月日:2009/02/01

読み:いとうかい  東京藝術大学名誉教授の彫刻家伊東傀は2月1日、心不全のため死去した。享年90。1918(大正7)年10月4日、荏原郡品川宿字南品川2―20に海苔の養殖製造卸業を家業とする伊藤岩吉の次男として生まれる。本名伊藤茂之。1931(昭和6)年に城南尋常小学校を卒業するが胃腸を患い、3年間闘病生活を送る。1939年、私立高輪中学校を卒業して東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻科に入学する。同校構内に立つロダン「青銅時代」に感銘を受けたことが、その後の制作の指針となった。44年9月に東京美術学校彫刻科塑造部を繰り上げ卒業となる。同年応召するが体調を壊し、召集解除となって帰国する。同年、東京美術学校彫刻科研究科に入学。45年12月に高輪学園の図画教諭となり51年3月まで教鞭をとる。46年、柳原義達、菊池一雄の仕事に共感し、彼らの所属する新制作派協会の第10回展に「手」(ブロンズ)を出品して新作家賞を受賞し同会会友となる。47年東京美術学校彫刻研究科を修了。48年、第12回新制作派協会展に「首 M.I」を出品し、新制作派協会賞を受賞。50年、毎日新聞社主催連合展に新制作派協会からの推薦で「青年の首O」を出品。51年、第15回新制作派協会展に「トルソ」(石膏)を出品し、同会会員に推挙され、2004(平成16)年に退会するまで毎年同展へ出品を続けた。52年東京藝術大学美術学部講師となる。53年、日産自動車車体製造法に参画。55年、第3回国際美術展でペリクレ・ファツィーニ、マリノ・マリーニ、ヘンリー・ムーアなどの海外の現代作家による彫刻を見、文学性とは離れた量塊表現に触発されて、それまでのアカデミックな表現から、対象の形を幾何学的形態としてとらえなおして再構築する作風へと変化する。60年、東京都三鷹市文化会館に「トリ」を設置。62年、文部省の派遣によりフランスへ出張。65年、東京藝術大学彫刻科助教授となる。74年に現代彫刻センターで個展を開催し、出品作「銀座の女」で土方定一の評価を得る。78年、東京藝術大学教授となる。81年第9回長野市野外彫刻賞を受賞し、「マントの女」が長野市に設置される。86年、東京藝術大学を定年退官し名誉教授となる。沖縄県立芸術大学設立に早くから関わり、86年10月、同学教授、92年同学美術工芸学部長となる。97年同学退職。2003年沖縄県立芸術大学名誉教授となる。2004年、新制作協会を退会する。85年に東京藝術大学退官記念として同学陳列館で行われた展覧会の際、自らの足跡を初期、1960年代、70年から75年、75年以降の4期に分けて語っているように、初期にはロダンに学んだアカデミックな人体表現がなされ、60年代には海外の現代作家に触発された簡略化された具象表現となり、第三期には対象の写実を離れた量塊としての構成が見られ、それ以後は構成的な傾向が強まっていった。道化師、水着の女、鳥、ふくろうをモティーフとした作品が多い。主要なコレクションは笠間日動美術館、沖縄県立美術館などに収蔵されている。

鶴田武良

没年月日:2009/01/18

読み:つるたたけよし  中国絵画史の研究者である鶴田武良は1月18日、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。享年71。1937(昭和12)年3月2日、大阪市に生まれる。61年東北大学文学部東洋芸術史学科を卒業後、シェル石油株式会社に入社するが、64年に東北大学大学院文学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学。66年に修士課程を修了後、同研究科博士課程に進学。68年から72年まで大阪市立美術館に学芸員として勤務。72年に東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)に転職後は美術部資料室、情報資料部文献資料室、美術部第一研究室の研究員を経て、80年より修復技術部第二研究室長、83年より情報資料部写真資料室長を務める。88年に情報資料部長、1992(平成4)年に美術部長となり、98年定年により退職。中国絵画史を専門とし、大阪市立美術館勤務時代、橋本末吉コレクションとの出会いをきっかけに72年特別展「近代中国の画家」を開催、それまで研究対象として顧みられることの少なかった中国の近代美術に目を向けるようになる。東京国立文化財研究所に転職後は、近世~近代の来舶画人についての論考を『国華』や同研究所が発行する研究誌『美術研究』に連載。80年から翌年にかけて文部省在外研究員としてアメリカで調査を行った他、中国、台湾で地道な資料収集を重ね、『民国期美術学校畢業同学録・美術団体会員録集成』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要2・3・4号 1991年)、『中国近代美術大事年表』(和泉市久保惣記念美術館久保惣記念文化財団東洋美術研究所紀要7・8・9号 1997年)等の基礎資料集成に結実。論考もそれらの資料に裏付けられた手堅い手法によるもので、91年からは清末~解放後の美術を対象に「近百年来中国絵画史研究」と題した連載を7回にわたり『美術研究』に発表。北京や台北でも学会発表や講演を重ね、数多くの論考が中国語に翻訳されている。退職後は中国近現代美術研究資料センターを主宰。99年台湾・林宗毅博士文教基金会第1回文化賞を受賞。2007年には収集した書籍・スライド・写真・フィルム等を広東美術館に寄贈、「鶴田武良中国近現代美術史研究文庫」として伝えられることになる。主要な編著書は下記の通りである。 『近代中国絵画』(角川書店、1974年)『近代中国絵画』(1974年角川書店刊本の中国文訳本、台湾・雄獅美術図書公司、1977年)米沢嘉圃と共著『水墨画大系第11巻 八大山人・揚州八怪』(講談社、1975年)川上涇と共編『中国絵画』(朝日新聞社、1975年)長尾正和と共著『呉昌碩』(講談社、1976年)川上涇と共著『中国の名画』(世界文化社、1977年)宮川寅男他と共著『東洋の美術Ⅰ』(旺文社、1977年)『月影館審定近代中国絵画』(日貿出版社、1984年)『鉄斎筆録集成』第1巻(便利堂、1991年)『日本の美術326 宋紫石と南蘋派』(至文堂、1993年)『近代百年中国絵画』(和泉市久保惣記念美術館、2000年)『風景心境―台湾近代美術導読』(台湾・雄獅図書公司、2001年)『定静堂蒐集明清書画』(和泉市久保惣記念美術館、2001年)顏娟英他と共編『上海美術風雲―1872―1949 申報藝術資料條目索引』(台湾・中央研究院歴史語言研究所 2006年)

館勝生

没年月日:2009/01/16

読み:たちかつお  画家の館勝生は1月16日、がんのため大阪市で死去した。享年44。1964(昭和39)年2月1日、三重県桑名市に生まれる。87年大阪芸術大学芸術学部美術学科卒業。在学時にはデモクラート美術家協会の創立メンバーだった泉茂のゼミに入る。ニュー・ペインティングの影響を受けながら、大きなストロークによる有機的な形象の平面作品を個展やグループ展で発表、中原浩大、石原友明、松井智恵ら“関西ニューウェーヴ”の作家として注目を集める。1991(平成3)年、東京で初個展を開催(永井祥子ギャラリーSOKO)。94年VOCA展奨励賞を受賞。98年、原美術館で旧作を含めた個展「ハラドキュメンツ5 館勝生―絵画の芽」を開催。この時期を境にストロークを控え、余白の中に核となる痕跡をとどめた作を発表。2001年三重県立美術館県民ギャラリーで展覧会を開催。晩年はがんに侵されていることを知りつつも創作意欲は衰えず、亡くなる前月までアトリエで制作を続けていた。没後の09年8月、学生時代より個展やグループ展をほぼ毎年開催してきた大阪のギャラリー白で個展が開かれるとともに、画集『館勝生 Tachi Katsuo』が刊行された。 

福田繁雄

没年月日:2009/01/11

読み:ふくだしげお  日本グラフィックデザイナー協会会長で、グラフィックデザイナーとして国際的に活躍した福田繁雄は、1月11日午後10時30分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。享年76。1932(昭和7)年2月4日、東京生まれ。田中国民学校卒業後、台東区今戸高等小学校に入学するが、太平洋戦争の激化により44年母親の実家のある岩手県二戸市福岡町に疎開。戦後51年同地の県立福岡高等学校卒業後、帰京すると53年東京藝術大学美術学部図案科に入学。在学中より日本宣伝美術会展や日本童画会展をはじめ、幾つものコンクールで受賞を重ねる。またこの頃亀倉雄策に見出され、松屋デパートのポスターを手掛ける。56年に卒業後は味の素株式会社広告部制作室に入社するが、日宣美会員に推挙された58年退社。河野鷹思を中心とする株式会社デスカの設立に参加した後、59年フリーのデザイナーとなる。60年世界デザイン会議でイタリア人デザイナー、ブルーノ・ムナーリと出会うと、彼の「遊び」のデザインに影響を受け、61年ミラノにあるムナーリのアトリエを訪問。62年にはこの時の旅行を図形表現した『わたしと国々』を朝日出版から出版。以降、大学時代から行っていた絵本制作に本格的に取り組み、『Romeo and Juliet』、『こぶとり日本昔話』などを相次いで自費出版する。また同じ頃にエッシャーの絵画と出会い、後の視覚トリックによるデザインの出発点となる。65年「グラフィックデザイン展ペルソナ」に出品。新しい世代のデザイナーとして注目を集めると、66年第2回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ展奨励賞を皮切りに、以後国内外の公募展や企画展への出品が相次ぐ。また、69年日本万国博覧会サイン計画への参加や71年札幌冬季オリンピック参加メダル、ピクトグラム、公式ガイドブックの制作など国家的イヴェントへの参画も増えていく。一方、63年の長女誕生をきっかけに始まった玩具制作は、60年代後半からは彫刻へと展開し、67年ニューヨークIBMギャラリーでの個展「Toys and Things」や、73年第5回現代日本彫刻展(宇部市)入選というかたちで結実する。福田の立体作品の代名詞といえるのが「二つの形をもった一つの形」シリーズで、見る角度によってまったく異なる形がシルエットとなって現れるトリッキーな仕掛けは、同時代の難解な現代美術にはないユーモア精神に溢れたものであった。これらの立体作品は全国各地にパブリック・アートとしても設置され、福田の創作活動を従来のグラフィック・アートから大きく飛躍させた。ユニバーサル・デザインを標榜する福田の海外での活動は目覚ましく、その評価も日本のデザイナーの中でも突出している。1995(平成7)年ポーランド、ビラヌフ・ポスター美術館での個展に代表される展覧会の開催を始め、72年第4回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞、75年第21回オリンピック・モントリオール大会記念銀貨デザイン国際コンペ最高賞、95年ユネスコ国際ポスター展グランプリ、サヴィニャック賞(パリ)といった受賞歴の他、86年英国王室芸術協会(R.D.I.)会員、87年ニューヨークADC殿堂入り、91年ポーランド国立ポスター美術財団名誉会長などの要職にも就いている。国内でも81~86年に東京藝術大学デザイン科助教授を務めたのを始め、98年社団法人日本サインデザイン協会顧問、2000年日本グラフィックデザイナー協会会長などを歴任。その間、78年第12回SDA賞最優秀賞、80年第11回「講談社出版文化賞」ブックデザイン賞、87年日本宣伝賞第8回山名賞、93年ECOPLAGAT:環境と自然保護国際ポスターコンクール、グランプリ、97年通商産業大臣デザイン功労者表彰、2001年岩手県勢功労者表彰を受け、99年には岩手県二戸市に福田繁雄デザイン館をオープンさせた。76年文部省芸術選奨美術部門文部大臣賞新人賞、97年紫綬褒章。歿後2011~12年には、三重県立美術館を始め全国6美術館を巡回する大回顧展が開催されるなど、従来のグラフィックデザイナーの枠を超えた独創的な創作活動は、その遊び心と親しみやすさから広く人々を魅了し続けている。

田実栄子

没年月日:2009/01/03

読み:たじつえいこ  染織研究家の田実栄子は1月3日死去した。亨年81。1927(昭和2)年4月26日、朝鮮全羅北道裡里邑に生まれる。旧姓神谷(かみや)。40年4月、京城第一公立高等学校に入学し43年7月に同校を中退。44年4月に東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)文科に入学し、48年3月に同校を卒業、東京国立博物館附属美術研究所技術員となる。51年1月同第二研究部勤務となり、52年4月美術研究所が東京文化財研究所となるに際し美術部第二研究室勤務となって染織品の調査研究を行う。56年「鳴海有松地方の絞染」(『MUSEUM』61号)「明治期の型友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』69号)、57年「明治期の写友禅―千総の見本裂調査を主として」(『MUSEUM』72号)を発表。62年美術部資料室に配置換え、73年1月美術部第一研究室研究員となり、同年4月美術部主任研究官となる。染織研究家山辺知行に師事し、『美術研究』に多くの論稿を発表。上杉家、徳川家、片倉家、伊達家など大名家遺品の調査研究のほか、型染、小千谷縮、辻が花などについても調査研究を行う。その後、それらの作品調査の成果を、『上杉家伝来意匠』(講談社、1969年、山辺知行と共著)、『小袖』(「日本の美術」第67号、1971年)、『紀州東照宮の染織品』(芸艸堂、1980年)、『武家の染織』(共著、中央公論社、1982年)、『型染』(芸艸堂、1975年)などにまとめる。本務の一方、お茶の水女子大学家政学部や日本女子大学大学院、東京造形大学、東京藝術大学美術部で講師を併任する。1989(平成元)年3月、東京国立文化財研究所を停年退官して同所名誉研究員となる。同年4月より96年3月まで大妻女子大学家政学部教授として「博物館実習」「服飾史特論」「染織工芸特論」などを講じた。 

木村恒久

没年月日:2008/12/27

読み:きむらつねひさ  グラフィックデザイナーの木村恒久は12月27日、肺がんのため自宅で死去した。享年80。  1928(昭和3)年5月30日、大阪府に生まれる。45年大阪市立工芸学校(現、市立工芸高等学校)図案科を卒業、海軍の予科練に入隊してすぐ終戦となり、しばらくはヤミ市の片隅で看板の制作を手がけて家計を支える。その後、沢村徹に弟子入りしてデザインの現場を体験。毎日新聞商業デザインコンクールの52年第20回ポスターの部「ペニシリン昭和鼻薬」で技能賞、翌第21回第2部(ポスター)「エナルモンB帝国臓器」で日宣美会員賞、翌第22回第1部(新聞広告)「大和銀行/大和定期」で通産大臣賞を受賞。同コンクール入賞者の懇親会から52年に「Aクラブ」というデザイン研究会が発足、その中心メンバーだった永井一正、片山利弘、田中一光らと「若手四天王」と呼ばれ、精力的にデザイン制作、批評活動を行う。55年よりユアサ電池株式会社に招かれ嘱託となるが、60年に上京し、亀倉雄策らが設立したデザイナー集団の日本デザインセンターに参加。62年日本建築家協会主催「モデュール展」で原弘と共同制作を行い、ADC銅賞を受賞。64年に独立。66年、宇野亜喜良、永井一正、和田誠らグラッフィク・デザイナーが集まり前年に開催した展覧会「ペルソナ」で毎日産業デザイン賞を受賞。68年東京造形大学助教授となる。同年チェコ・グラフィック・ビエンナーレでチェコ建築家協会賞を受賞。70年頃から複数の写真を精巧に組み合わせて全く異なるイメージを生み出すフォト・モンタージュの手法で、現代社会を鋭く風刺した。77年『季刊ビックリハウスSUPER』で「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル」の連載を開始、その原画展を渋谷パルコで開催し、話題を呼ぶ。79年、作品集『キムラカメラ』を刊行。80年に毎日デザイン賞を受賞。1993(平成5)年に東京造形大学客員教授となる。96年ポンピドゥー・センターと東京都現代美術館の共催による「近代都市と芸術展」に招待出品。また99年にギンザ・グラフィック・ギャラリー第154回企画展「木村恒久展what?」、2000年には川崎市市民ミュージアムで「木村恒久原画展」が開催される。没する直前の08年11月にうらわ美術館で始まった「氾濫するイメージ―反芸術以後の印刷メディアと美術1960’―70’」展では、赤瀬川原平や横尾忠則ら印刷メディアを通して活動を展開した8名の作家の一人として、70年代のフォト・モンタージュ作品が展観された(八王子市夢美術館、足利市立美術館を巡回)。

大川栄二

没年月日:2008/12/05

読み:おおかわえいじ  財団法人大川美術館の理事長兼館長であった大川栄二は、12月5日、大動脈弁狭窄症のため死去した。享年84。1924(大正13)年3月31日に、群馬県桐生市に生まれる。桐生高等工業専門学校色染化学科を卒業。1948(昭和23)年4月、三井物産株式会社に入社。しかし、49年から52年まで、肺結核のために入院、療養につとめる。その間に、様々な画家が描いた週刊誌の表紙を収集するようになり、大川の回想によれば、これを貼ったスクラップブック作成が、美術コレクションの原点となったという。69年、株式会社ダイエーに入社。76年、マルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長に就任。81年、株式会社ダイエー取締役副社長、同年株式会社ダイエーオーエムシー(旧ダイエーファイナンス)代表取締役会長となる。上記のようなサラリーマンの生活を送りながら、美術コレクションをすでにはじめており、コレクターの面では、86年、愛媛県越智郡玉川町(現、今治市玉川町)に、同地出身の実業家徳生忠常が、作品と美術館建設費を町に寄贈して設立された玉川近代美術館の創設にあたっては、大川は作品の収集に協力をおしまなかった。同美術館の創設にあたり刊行された名品選カタログに、大川は寄稿しているが、そこからはコレクターである大川自身の美術館像と美術に対する情熱がつぎのように記され、生活に根ざした美術の価値を深く信じていたことがうかがえる。「よい作品を出来るだけ多く、又、何度もみることが大事です。他のよい美術館とて同じです。公立はいうに及ばず、私立といえど殆んどは財団法人となっている以上、社会的な文化財であり、庶民のものなのです。画廊の高い絵は買えなくとも美術館にある絵を自分のものとして親しく厳しく、たのしく鑑賞し、庶民の文化媒体として精々利用されたら、いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然をみる鑑賞力も人をみる判断力も豊かとなり、街並をみることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウィンドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生れ、素晴らしい地方文化が生き続けられるのです。」(「付ろく 絵画入門 絵のある生活と人生」より、『玉川近代美術館』、1986年)88年には、同美術館の名誉館長となった。さらに、1989(平成元)年4月、郷里である群馬県桐生市に同市の支援をうけて財団法人大川美術館が開館。同美術館の理事長兼館長に就任した。同美術館のコレクションは、大川が40年以上にわたって収集してきた近代日本洋画を中心に、欧米の近代、現代美術も加えて約6500点によって形成されている。特に、近代日本洋画については、大川が最初に関心をもった松本竣介、野田英夫の作品を核として、この二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を与えたと考えられる画家たちの作品が収集されており、美術史の固定化された視点から離れ、大川の鑑賞眼に基づく個人コレクションとしてユニークな内容となっている。翌90年、株式会社ダイエーを退社し、美術館の業務に専念するようになった。95年、群馬県総合表彰、2005年には群馬県文化功労賞を受けた。大川が美術について、あるいは美術館について語るとき、止まることを知らないほど情熱的であった。また、美術コレクターとして、多くの随筆を残しており、主要な著作は、次の通りである。 『美の経済学』(東洋経済新報社、1984年) 『美のジャーナル その投資と常識のウラ』(形象社、1989年) 『父と子のために 絵のみかた たのしみかた』(クレオ、1993年) 『美術館の窓から 僕はこころの洗濯屋』(芸術新聞社、1993年) 『二足の草鞋と本音人生』(上毛新聞社、2003年) 『新・美術館の窓から』(財界研究所、2004年) 

山岸信郎

没年月日:2008/11/04

読み:やまぎしのぶお  画廊主で評論家の山岸信郎(ペンネーム真木忍)は11月4日、東京女子医大病院で肺炎のため死去した。享年79。1929(昭和4)年5月9日、宮城県仙台市に生まれる。47年、仙台工業専門学校(仙台工専)から東北大学工学部へ転学。51年、東北大学を中退し、学習院大学文学部仏文科入学、59年卒業、後、同大人文科学研究科哲学専攻・修士博士前期課程に入学、64年まで在籍、富永惣一に学ぶ。62年、銀座の五番館画廊の運営に参加。『三彩』誌で68年1月号から69年7月号まで展評などを執筆する。新制作協会の事務局、日本橋の秋山画廊勤務をへて、69年2月、田村正勝、三浦武男とともに田村画廊を東京都中央区日本橋本町3-5に開設する。73年に画廊は日本橋本町4-15に移転するが、この間、後に「もの派」といわれる一群の作家たちの活気ある発表の場となる。75年日本橋本町4-9に真木画廊を開設する。77年田村画廊を閉廊し、神田西福田町2に新田村画廊(78年田村画廊と名称変更)を開設する。1990(平成2)年田村画廊を閉廊し、91年から真木画廊を真木・田村画廊として2001年まで運営した。日々の運営に関しては妻良枝の力も大きかった。山岸は拠点とした神田界隈の他の画廊、秋山画廊、ときわ画廊とともに70年代以降の貸画廊活動の一時代を築いた。さらに、79年から85年まで駒井画廊(日本橋室町3-1)の運営をし、また、郷里となっていた山形市に77年から画廊大理石を開廊し、移転しながら82年からギャラリールミエール、85年からはルミエール画廊の運営も行った。また、オフミュージアム的な展覧会の企画・運営に数多くあたり、90年代後半からの韓国との交流展をはじめ、草の根的な美術活動を行った点も忘れがたい。ミニコミ美術誌『あいだ』の追悼記事23本(155号から173号まで不定期に掲載)では、故人について数多くの作家、知人が文章をよせている。また、画廊に残された資料は、2010年国立新美術館アートライブラリーに収蔵された。

淸原啓一

没年月日:2008/10/11

読み:きよはらけいいち  日本芸術院会員で洋画家の淸原啓一は10月11日、肝細胞癌のため死去した。享年81。1927(昭和2)年6月27日、富山県砺波の農家に生まれる。45年に入学した富山師範学校で曾根末次郎に絵を学び、画家を志すようになる。学制改革のただ中にあった48年同校を卒業、曾根の計らいで新設間もない津沢中学校に勤め始める。当時同校が仮校舎としていた砺波高等女学校には同じく曾根に学んだ同郷の洋画家川辺外治がおり、そのアトリエでデッサンを学んだ。49年、第2回富山県観光美術展で棟方志功に推されてキレイ堂賞を受賞、以後上京までに度々棟方を訪ねる。50年に上京、明治大学政経学部3年に編入、卒業する52年に「椅子による女」で日展初入選を果たし、両親に反対されながらも東京に残り中学校教諭をしながら制作を続ける。この頃から、光風会等で活躍していた伊藤四郎の紹介で、“山羊の画家”とも呼ばれていた帝国芸術院会員の辻永に師事。その異名通り辻は身近にいた山羊をよく描いた画家であったが、淸原も自宅に鶏を飼いながらそれを画題とした。54年第10回日展で「鶏」が入選、以後鶏は生涯の画題となり“鶏の画家”として知られるようになる。力強く存在感のある黒のタッチがルオーを思わせるが、59年の第2回新日展で特賞となった「群鶏」では、マチエールを一変させ、全体に渋く抑えられた色調の中で、鶏冠の赤がアクセントとなり、またそのリズムが観る者の視線を誘い巧みに奥行きを出している。64年第50回記念光風会展で「鶏」が会員賞受賞。また井上和、梅津五郎、菅沼金六、高島常雄、寺島龍一、松木重雄ら日展洋画部会員とともに七人会展を開催、84年の第21回最終展まで出品する(後に浮田克躬、村田省蔵も参加)。さらに同年ヨーロッパ、エジプトなどを巡る約10ヶ月の旅に出る。68年、肝臓を患い約10ヶ月の療養生活を送る。69年第55回記念光風会展に「鶏」を出品、光風会審査員となる。73年光風会評議員。河口湖畔にアトリエを構えた74年、第60回記念光風会展に「小さな争い」を出品し第60回記念特別賞を受賞。ヨーロッパ旅行後いろどり鮮やかな色面構成を好んだ時期もあったが、この頃一旦落ち着きを見せる。また“鶏”や“群鶏”など限りなくシンプルであったタイトルが、この前年あたりから、鶏の動態や内面の動きを端的に説明するようになる。75年日展審査員推挙。78年、第64回光風会展にトリプティークを連想させる構図で描いた「鼎立」を出品し辻永記念賞を受賞。この翌年あたりから、赤や黄色などを大胆に塗り拡げた背景を好み、しばしば描くようになる。日展評議員となった86年の同展出品作「秋色遊鶏」は、琳派を思わせる装飾性と華やかな色使いが特徴で、その源流は75年頃に遡ってみとめられるが、ここにきて晩年の様式はほぼ定まったといえる。88年光風会理事。1991(平成3)年郷里の剱岳に泊まり込みで一週間の取材を敢行し連作に取り組む。94年日展内閣総理大臣賞、2002年光風会常務理事、日展理事。この年、前年の日展出品作「花園の遊鶏」で第58回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、同会員となる。本作品は印象派風の明るくやわらかな表現で溢れんばかりの生命力を詩情豊かに描いた、特に生彩を放つ代表作となる。03年日展常務理事。07年旭日中綬章受章。08年日展顧問。同年富山県立近代美術館で「淸原啓一回顧展 新花鳥画への道程」が開催される。この大回顧展のために、六曲一双の屏風仕立てで大作「紅葉遊鶏図」「新緑遊鶏図」を描き上げた。この年にはまた『淸原啓一画集』(求龍堂)が刊行される。主な個展としては他に、「清原啓一展―画業50年の歩み―」(富山県民会館美術館、1994年)、「清原啓一展―画業55年記念―」(高岡大和、1999年)、「清原啓一洋画展―日本芸術院会員就任記念―」(高岡大和、2004年)、「淸原啓一―遊鶏の賦―」(渋谷区立松涛美術館、2007年)などがある。

小川隆之

没年月日:2008/10/08

読み:おがわたかゆき  写真家の小川隆之は10月8日、肺気腫のため川崎市内の病院で死去した。享年72。1936(昭和11)年10月3日東京に生まれる。59年日本大学芸術学部写真学科卒業、文藝春秋社に入社、写真部に配属される。65年に同社を退社しフリーランスとなる。67年4月より68年3月までニューヨークに滞在して制作活動にとりくみ、帰国後『カメラ毎日』1968年9月号に滞米中の作品「New York Is」を巻頭32ページの特集により発表、同年にニコンサロン(東京、銀座)において同題の個展を開催。ベトナム戦争期のニューヨークの多様な現実をとらえた同シリーズにより68年、第12回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。以後、東京を拠点に報道、広告など広い分野で活躍し、コマーシャル・フィルムのカメラマンとしても多くの仕事を手がけた。代表的な仕事にオーソン・ウェルズをモデルに起用したニッカウヰスキーの広告シリーズがあり、写真およびテレビ・コマーシャル映像の撮影を担当した。82年にADC賞を受賞。また自らの作品制作にも継続的にとりくみ、主な個展に「オーソン・ウェルズ」(シードホール、東京、1987年)、「魂のメサ」(フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1999年)、「沈黙の肖像」(ギャラリーSOL、東京、2000年)などがある。90年代後半には、癌を患った経験から生まれた「Beyond the Mirror」と題する、レントゲン写真や自らの身体を題材とするフォトグラムによるセルフポートレートのシリーズを発表、新境地を開く。同シリーズは同題の個展(ヒューストン写真センター、アメリカ、1998年)で発表された他、東京都写真美術館で開催された「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」(1998年)にも出品された。

灰野昭郎

没年月日:2008/10/01

読み:はいのあきお  漆芸史研究者の灰野昭郎は、10月1日、心筋梗塞のため死去した。享年66。1942(昭和17)年、新潟県に生まれる。67年早稲田大学第一文学部美術専修卒業。69年より鎌倉国宝館学芸員として勤務、73年には同館図録第19集『鎌倉彫』を執筆し、特別展「鎌倉彫」を手がけた。同館在職時代の鎌倉彫の徹底した作品調査と、現代の工房で行われている技法の調査は、文献研究もふまえて『鎌倉彫』(京都書院、1977年)にまとめている。同書は現在でも、もっとも充実した写真図版と論考・資料を備えた鎌倉彫の研究図書となっている。76年より京都国立博物館に勤務し、資料管理研究室長、学芸課普及室長、工芸室長を歴任した。同館では「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」展(1978年)、「高台寺蒔絵と南蛮漆器」展(1987年)、「18世紀の日本美術」展(1990年)、「蒔絵 漆黒と黄金の日本美」展(1995年)をはじめ、漆工芸関係の研究・展覧会業務に従事した。1999(平成11)年より奈良大学文学部文化財学科教授を務めた。2004(平成16)年より昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科大学院生活機構学専攻担当教授となり、同大学光葉博物館館長を併任、2007年から逝去時まで同大学院特任教授を務めた。灰野は「私の漆」(『学叢』26、2004年5月)で述懐しているように、工芸研究者が少ない中で、着実に作品の調査を重ねながら、展覧会業務とともに、精力的に普及活動を行った。主な著作には次のものがある。『漆工―近世編(日本の美術231)』(1985年)、『婚礼道具(日本の美術277)』(1989年)、『近世の蒔絵―漆器はなぜジャパンと呼ばれたか』(中公新書、1994年)、『日本の意匠―蒔絵を愉しむ』(岩波新書、1995年12月)、『漆―その工芸に魅せられた人たち』(講談社、2001年)灰野の没後、その約5000冊の漆工芸を中心とする蔵書は、石川県輪島漆芸美術館に寄贈され、同館で灰野昭郎文庫として公開されている。

横田洋一

没年月日:2008/09/22

読み:よこたよういち  横浜浮世絵や明治初期洋画など、横浜を舞台として幕末から近代にかけて繰り広げられた様々な美術活動の調査研究を行った横田洋一は、9月22日、がんのため死去した。享年67。1941(昭和16)年6月6日、群馬県に生まれる。幼少期を中国天津で過ごし、44年10月に帰国。64年3月上智大学文学部新聞学科を卒業し、同年4月に早稲田大学第一文学部美術専修課程に入学。66年3月に同課程を修了する。同年4月、68年の開館に向けて準備段階であった神奈川県立博物館の学芸員となり、自然史、歴史を含む総合博物館である同館で美術分野を担当する。就任とともに同館が所蔵する6000点を越える浮世絵からなる丹波コレクションの調査および横浜ゆかりの美術に関する調査を開始し、69年から翌年にかけて『丹波コレクション目録』第1―3編を刊行。また、幕末に横浜を訪れた英国人画家チャールズ・ワーグマンや、五姓田芳柳・義松といった幕末明治期の洋画、真葛焼に代表される「はまもの」と呼ばれた輸出工芸品など、横浜の文明開化に関わる美術工芸品の調査を進め、勤務先の神奈川県立博物館(95年より神奈川県立歴史博物館)で、76年「横浜浮世絵と長崎版画」展、82年「浮世絵の歴史と横浜浮世絵」展、86年「横浜真葛焼と宮川香山」展、86年「明治の宮廷画家 五姓田義松」展、1990(平成2)年「没後100年記念 チャールズ・ワーグマン ロンドン発・横浜行き あるイギリス人画家の幕末・明治」展、97年「横浜浮世絵と空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀」展、2001年「王家の肖像―明治皇室アルバムの始まり」展などを開催した。これらの展覧会図録への論文、解説のほか、共著による単行図書、定期刊行物にも横浜浮世絵や文明開化期に横浜で活躍した画家、写真家などに関する著作を多く残した。これらは、日本における最初の近代美術館となった神奈川県立近代美術館が、土方定一の強い指導力のもとに西洋近代的な狭義の「美術」概念によって展覧会を開催し続けたのに対し、同県下の総合博物館という立場で地域における広義の美術を紹介する展示となっており、日本近代美術史の流れの中でも先駆的業績として評価される。特に、高橋由一と同時代に活躍しながら評価の遅れていた五姓田義松を再評価した功績は大きい。2002年3月、36年間在職した神奈川県立歴史博物館を定年退職。03年4月、関東学院大学比較文化学科特約教授となり08年まで教鞭を取った。1993年3月の中国旅行以降、中国の年画の調査、収集に興味を抱き、十数回にわたり中国を訪れた。年画のコレクションは那須野が原博物館に所蔵されている。2002年12月、04年2月にはインドを訪れている。逝去の翌年、横田洋一論文集『リアリズムの見果てぬ夢―浮世絵・洋画・写真』(横田洋一論文集刊行会編、学藝書院、2009年)が刊行されており、履歴、業績等は同書に詳しい。

水井康雄

没年月日:2008/09/03

読み:みずいやすお  パリを拠点にモニュメンタルな環境彫刻を制作し、国際的に活躍した水井康雄は9月3日、すい臓がんのためフランス・アプトの病院で死去した。享年83。1925(大正14)年5月30日、京都に生まれ、1947(昭和22)年神戸高等工業学校機械科を卒業。終戦の混乱期の中で、過去の教育の一切を捨て、一人でできる仕事を志向して東京芸術大学彫刻科に入学。平櫛田中、菊池一雄、山本豊市らに師事し、53年に同科を卒業する。同年フランス給費留学生としてパリに留学し、パリ国立美術学校で58年までA・ジャニオ、M・ジモンに学んだ。59年からフランス国内外での団体展に出品したほか、複数の作家がひとつの場所に集まって制作し、研鑽する彫刻シンポジウムに参加。59年のビエンナーレ・ド・パリでA・シュス個人賞を受賞。60年にオーストリアの採石場で開かれた石彫のシンポジウムに参加して以後、石を自らの心身を矯めなおす素材として重視し、好んで用いるようになる。62年には第1回ベルリン・シンポジウムで同年度ドイツ批評家賞受賞、64年には第7回高村光太郎賞を受賞した。ロマネスク彫刻に深い共感を抱き、周囲の環境や歴史、人々の暮らしを踏まえ、その場に溶け込む造形をめざし、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした。ボルドー大学法学部に設置されている「泉の化石」ほかフランスやヨーロッパに多くの作品を残すが、国内では東京オリンピックの際に竣工した東京代々木競技場にある「余韻の化石」「火の化石」「音の化石」(各1964年)など花崗岩によるレリーフ大作、噴水と組み合わせた神戸総合運動公園の石彫「Fountain Date6」(1985年)、宇部市渡辺翁記念公園の「石凧」(1964年)などがある。手先の器用さが通じない石という素材を好んだが、小品ではブロンズなどの金属を素材とする制作も行った。火、水、風など不定形のモティーフを好み、抽象的な形を志向した。

樋口清治

没年月日:2008/08/17

読み:ひぐちせいじ  応用化学の研究者で東京文化財研究所名誉研究員の樋口清治は、8月17日、心不全のため東京都葛区の病院で死去した。享年82。1926(大正15)年6月3日、東京市に生まれる。1943(昭和18)年10月に工学院本科応用化学科を卒業、同年12月より東京帝国大学附属綜合試験所に入所、45年12月に同助手、46年3月文部教官、49年5月東京大学助手に任命される。52年11月、当研究所保存科学部科学研究室文部技官に転任の後、73年7月の修復技術部発足に伴い、第2修復技術研究室長に昇任。78年には第3修復技術研究室長に配置換となり、82年4月に修復技術部長、翌年3月定年により退官。当研究所在職時は、我が国の高度経済成長期、文化財保存修復に関する概念が進展するのにともなった新しい修復技術や材料開発の要請に対して、合成樹脂など近代的な材料を導入した。その実例は、彩色剥落止め、木造建造物部材修復、石造文化財修復、金属文化財修復、遺構の発掘処置法など多岐にわたった。特に木造建造物部材修復においては、人工木材の材質改良・文化財修復への導入に果たした功績は大きく、73年、重要文化財・旧富貴寺羅漢堂の再建において腐朽部材の合成樹脂による含浸強化および人工木材による欠損部分補修を採用し、当時所長であり再建事業の総括をした関野克とともに建築学会賞を受賞した。主要な著書は、『新建築学体系歴史的建造物の保存』(共著 彰国社、1999年)や、『総説エポキシ樹脂 第4巻応用編Ⅱ』(共著 エポキシ樹脂技術協会、2003年)など。主要論文は『保存科学』に所載。退官後は株式会社京都科学の技術顧問として、文化財修復における民間の技術水準向上と修復倫理の普及に努めた。1997(平成9)年、勲四等旭日小綬章を受勲。

赤塚不二夫

没年月日:2008/08/02

読み:あかつかふじお  漫画家の赤塚不二夫は8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年72。1935(昭和10)年9月14日、旧満州(中国東北部)熱河省灤平県(現、中華人民共和国河北省)に生まれる。本名藤雄。45年奉天で敗戦を迎え、翌年、母の実家のあった奈良県生駒郡郡山町(現、大和郡山市)へ引き揚げる。もとより漫画家を志望していたが、引き揚げ後に貸本屋で借りた手塚治虫「ロストワールド」を読み、プロの漫画家となることを決意する。49年にはSF漫画「ダイヤモンド島」を描き下ろし、大阪の出版社へ持ち込むが不採用。同年シベリア抑留を解かれた父とともに新潟で暮らすこととなり、51年には新潟市内の塗装店に就職。この頃から、『漫画少年』(学童社)に赤塚不二夫のペンネームで投稿を始める。53年上京。54年工場勤務のかたわら、東日本漫画研究会(石森章太郎主宰)同人誌『墨汁一滴』に参加。56年少女漫画「嵐をこえて」(曙出版)で単行本デビュー。同年トキワ荘に移る。当時のトキワ荘には寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森らが入居しており、これらのメンバーと新漫画党を結成(ちばてつや、松本零士、つのだじろうらも参加)。この頃の赤塚は『少女クラブ』(講談社)、『少女ブック』(集英社)、『りぼん』(同)といった少女漫画雑誌に短編を発表していた。58年には『漫画王』(秋田書店)に読み切りとして描いた「ナマちゃんのにちよう日」が好評を博し、同誌翌月号より「ナマちゃん」として連載が開始される。59年には週刊誌ブームを背景として、小学館から『週刊少年サンデー』が、講談社から『週刊少年マガジン』が同日創刊され、週刊という枠の中で、漫画雑誌は新たなステージを迎えつつあった。その流れの中で赤塚は62年『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」の連載を開始。同年『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載も始まり、人気作家となる。64年石森、藤子、つのだ、鈴木伸一の設立したスタジオ・ゼロに参加。65年には新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立し、長谷邦夫、横山孝雄、古谷三敏、北見けんいち、高井研一郎らが参加する。この他、赤塚のもとには後に人気作家となる漫画家が多く在籍していた。同じく65年「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞を受賞。67年『週刊少年マガジン』で「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』で「もーれつア太郎」の連載を開始(「天才バカボン」は69、70年の一時期、ライバル誌『サンデー』に連載されるが、71年『マガジン』で連載再開)。71年『サンデー』で「レッツラ☆ゴン」の連載開始。72年には「天才バカボン」で文芸春秋漫画賞受賞。同年『週刊文春』で「ギャグゲリラ」の連載開始。70年代以降も多くの連載をこなす一方、テレビ、映画、演劇、パフォーマンス、執筆など、漫画家としての枠を超えた活動を展開する。あわせて、65年のアニメ「おそ松くん」のテレビ放映に続いて、69年には「ひみつのアッコちゃん」と「もーれつア太郎」が、71年には「天才バカボン」がテレビ放映されるが、数度のリバイバルを経て、以後も多くの作品がテレビアニメ化される。「ギャグ漫画」という一分野を確立した赤塚作品の制作は、「アイデア(会議)」と呼ばれるミーティングによってネーム等のおおよそのアウトラインが決められたことが、赤塚自身や周囲の発言から知られる。この「アイデア」は赤塚始め長谷、古谷らフジオ・プロのメンバーと担当編集者を主な構成員とし、赤塚作品を彩る個性的なキャラクターの数々もこの席上で生まれたものが多かったという。赤塚による分業制とも言うべき作品完成へのプロセスは、戦後日本における漫画制作の現場の一端を知る上で重要である。また、73年末からの数ヶ月間、全ての作品を「山田一郎」名義で執筆するなど、実験的な表現方法を展開する。1997(平成9)年には「まんがバカなのだ! 赤塚不二夫展」(池田20世紀美術館)、「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」(上野の森美術館)を開催。同年、第26回日本漫画家協会文部大臣賞受賞。翌年紫綬褒章受章。2000年には『赤塚不二夫のさわる絵本 よーいどん!』(小学館)、02年には『赤塚不二夫のさわる絵本 ニャロメをさがせ!』(同)という点字絵本を刊行。03年には青梅市に赤塚不二夫会館がオープン。没後の09年「赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」(松屋銀座他)が開催された。

鈴木進

没年月日:2008/07/16

読み:すずきすすむ  美術史家、美術評論家で東京都庭園美術館名誉館長の鈴木進は7月16日午前6時8分、老衰のため東京都世田谷区内の病院で死去した。享年96。1911(明治44)年8月14日、静岡県に生まれる。旧制静岡中学を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同学科で日本美術史の藤懸静也に師事。1936(昭和11)年卒業と同時に同学科初代の助手に就任。40年文部省学芸課嘱託となり、美術問題を調査研究。戦争中の44年から45年に兵役に就く。復員後の46年に東京帝室博物館調査課に勤務、文部技官となり国宝・重要文化財の指定・調査・研究に携わる。50年文部省の外局の文化財保護委員会の設立に従事。以後、同委員会が文化庁となると絵画部門の文化財調査官として長年国内の調査にあたり、また海外への紹介に努めた。さらに公務の一方で、慶応義塾大学、東京都立大学の講師を務める。52年の美術評論家連盟の結成時には幹事として尽力。近世日本絵画、とりわけ文人画を中心とする研究、そして近現代日本画を軸に幅広い分野の評論活動を行った。83年には開館したばかりの東京都庭園美術館の館長に就任し、1996(平成8)年まで務めた。その間、「日本の美 ジャポネズリーのルーツ」展(1985年)や「江戸美術の祝祭」展(1989年)等、とくに江戸美術への見識を活かした展覧会を実現させた。また80年に創設されたジャポニスム学会に幹事として尽力し、2002年からはその顧問となった。その経歴と人となりについては、同学会の機関誌『ジャポニスム研究』28号(2008年)に掲載された岡部昌幸「鈴木進先生追悼―グローバルな視点で日本美術を国内外に紹介、美術界の発展に尽くされた」に詳しい。主要な編著書は下記の通りである。 『東洋美術文庫14 応挙』(アトリヱ社、1939年) 『毎日少年ライブラリー 国宝ものがたり』(毎日新聞社、1954年) 編集『講談社版アート・ブックス29 玉堂』(大日本雄弁会講談社。1955年) 編集『浦上玉堂画集』(日本経済新聞社、1956年) 竹田道太郎と共著『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(雪華社、1957年) 高見順と共著『原色版美術ライブラリー121 大雅』(みすず書房、1958年) 編集『蕪村』(日本経済新聞社、1958年) 『講談社版日本近代絵画全集21 鏑木清方・平福百穂』(講談社、1962年) 編集『世界美術全集10 日本10(江戸2)』(角川書店、1963年) 編集『芋銭』(日本経済新聞社、1963年) 編集『竹田』(日本経済新聞社、1963年) 編集『日本の美術39 応挙と呉春』(至文堂、1969年) 編集『日本絵画館10』(講談社、1971年) 『近世異端の芸術 若冲・蕭白・芦雪』(マリア書房、1973年) 飯島勇と共著『水墨美術大系12 大雅・蕪村』(講談社、1973年) 『日本の名画9 浦上玉堂』(講談社、1973年) 編集『日本の美術114 池大雅』(至文堂、1975年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術46 蕪村と俳画』(小学館、1976年) 『日本の名画7 横山大観』(中央公論社、1976年) 『カルチュア版世界の美術8 日本の名画Ⅱ』(世界文化社、1976年) 尾崎正明と共著『日本美術絵画全集24 渡辺崋山』(集英社、1977年) 田中一松・吉澤忠・松下英麿・山中蘭径と共編『浦上玉堂画譜』全3巻(中央公論美術出版、1977~79年) 編集『日本の美術148 浦上玉堂』(至文堂、1978年) 佐々木丞平と共著『日本美術絵画全集18 池大雅』(集英社、1979年) 『俳人の書画美術11 江戸の画人』(集英社、1980年) 『俳人の書画美術12 明治の画人』(集英社、1980年) 監修『「巨匠が描く」日本の名山』全6巻(郷土出版社、1997~99年) 監修『日本の美富士』(美術年鑑社、2000年) 監修『さくら』(美術年鑑社、2001年) 

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